不登校(登校拒否)とその後 30年前から現在まで
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通信制高校から大学入学
夢の大学へ入れたので、とても幸せでした。そして、実力不足からくる講義についていけるかの不安がありました。
それに、家を出ますし、毎日講義があります。不登校が再発しないか、勉強についていけるか、全然自信がありませんでした。
学費は奨学金と親からの支援で済ませました。教科書は自分の貯金でそろえました。もう、すべてをかけて、臨む形になったのです。
自己紹介
同級生はばりばりの優秀な人たち。講義があるたびに、自己紹介をさせられたのですが、わたしも、まじめに、母校であるN学を「日本放送協会学園高等学校」と正式名称で行っていたのでした。NHKというと通信制がばれるかと思ったからですけど。
しかし、二つ良いことがありました。
1.同級生に恵まれた
2.通信制出身の同級生がいた
つまり、すぐ話しかけてくれた同級生や私がN学を言わされてたのを聞いた通信制出身の同級生が名乗り出てくれたのです。僕も不登校つながりで同じだよと。とても不安だった私でしたが、ほーっと気が休まったのでした。
ラッキーなことだと思います。同級生から友人になっていくのですが、なんとラッキーだったのかと今はつくづく思います。
図書館詰め
1年生の前期はほぼすべて高校の延長。それがレベルアップしていて、英語もあるし、線形代数、微分、物理、化学など、、、
もう信じられないくらい難しくて、さらに、毎週宿題が出ました。
あまりにも難しくて、代数や物理は同級生と夜遅くまで、場合によっては徹夜してでもやったのでした。 つまり、大学に行って、図書館行って、夕飯食べて、同級生のところに集まって、解く。
受験勉強のとき、人生でこれ以上勉強したことはないと思っていたのですが、大学1年は受験を超える「これ以上勉強したことはない」状態となりました。
専門科目
専門科目は楽しいの一言でした。学校に行ってなかったのが、学校に行きたいになったのでした。ですから、私語が多かったのですが、前の中央が指定席になるくらいに、すべてをメモ取ったものでした。
それに、専門はみんなと同じスタートラインにたてました。つまり、一般教養は高校の続き的側面がありますが、専門は大学1年がスタートなので、みんなとの同じラインにむめることがうれしかったです。
そして、超難しかった必須の数学科目の単位は卒業までチャレンジしましたが、専門は常に上位をキープできました。これが後の、就職活動によい方向につながるのでした。
存在と無
自分が今自分でいられることに否定的に生きていました。つまり、小学校のころの「死にたい」ではないものの、ほかの人の存在価値とくらべて、自分の存在価値はないようなものと感じていました。孤独です。自信はまったくなく、悲観的に物事を捉え、常に否定的でした。勉強をしても、全然できていないとおもうし、友人関係もうわべだけと思ったり、どんな努力も価値のない自分がすることなど、誰かの助けになることはできないと思っていたのでした。
そして、自分が存在していることが、あたかも、社会の中で存在していないのじゃないかと思ったりと。
サルトルの本の名前と同じなんですが、自分なりの認知の歪みに苦しんでいたのでした。
ひき裂かれた自己 R.D.レイン
この本は少し大きい本屋さんだったらあるのではないか。
統合失調症の例を書いている実存主義の本ですが、これにはかなり影響を受けました。
がんばっている自分とそこから距離を置いている自分がいて、孤独という存在が自分の不安や自己嫌悪、完ぺき主義的な痛々しさを持っていたのでした。
不安から来る孤独が、死に対するあこがれになり自己嫌悪とあわせて、幸せになることができない自分でいました。
その思いを持っている自分がいつも共存し、自分の頭を2つに分けて共存しているのでした。
不登校の後遺症
いちばんは、社会経験がなく、あいさつや人付づきあいができていない。そして、一番いたいのが「自己肯定感」をはぐくめなかったことでしょう。
どういうふうに人というか、同級生に触れたらいいのかが正直わかりませんでした。なので、見よう見まね。特に変でもなかったと思うのですがね。
つぎが、無の世界、孤独、死といった心がどこかにあり、それが大きな存在として自分の中で育っていたのでした。自己肯定感は、自分は存在価値があり、自分が自分にとって必要だし、社会にとっても必要な人間であると思えることだと思います。
どろどろとした、何々を「しなければならない」「きちんとしなければならない」という考えに支配され、「プラス思考」でのびのびなんてできないのでした。
学生相談室(カウンセラーとの出会い)
私の入学した次の年に、保健管理センターができました。そこに、カウンセラーが2名くることになりました。はじめは、カウンセラーと聞いて、近づかないほうがいい、自分には関係ないと思っていたのですが、授業でカウンセリングのことを知り、そんなに、特別なことではないんだと思うようになりました。そこで、不登校友達と学生相談室に。まだ、できたばっかりで、誰も使っていませんでした。そこで、カウンセラーの方が、お茶などを用意して、入りやすい雰囲気作りをしていたのです。それをいいことに、授業の合間にお茶を飲みの場として使うようになりました。
最初は世間話をするくらいだったのですが、毎日、お茶を飲みに行くようになり信頼感も生まれてきました。私も、カウンセリングについてだいぶ勉強するようになっていたので、自分の孤独感について相談するようになりました。
一人のカウンセラーさんは傾聴。もう一方は傾聴プラス是非はきちんというタイプのカウンセラーさんです。
わたしは学生相談室で相談ができたことを一生の宝と思っています。自分自身を認められるようになったというか、「〜しなければならない」という気持ちから、進路変更して、自己肯定感を追求するようにと。
あれほどまでに、存在のむなしさや、苦しさを抱えていたのに、まるで別人のように考え方が変わりました。
人の力って凄いですよ。苦しみから、現実へ。現実を生きていくことを力添えしてもらったのです。自分をさらけ出し、自分を受け止めてもらえる絶対的な信頼。私はもうカウンセラーの先生と会ってから、20年を超えましたが、今でも、いまだに感謝しています。苦しいときには気持ちを聞いてもらえたらと思うくらいです。
当時の私は、一般教養の科目の一つだった心理学の講義の中でもらった、「君ならできるよ、たぶんできるよ」という「ことばのプレゼント」を胸に常に持っていました。
不登校のつながり
もうひとつ、過去を清算することがあります。それは、不登校サークルに参加するようになったことです。シューレとは違った。不登校経験のある大学生が主体のサークルでした。きっかけは不登校友達が誘ってくれたことです。
閑静な住宅街に集まれる場所がありました。このサークルでは、メンバーが集まることのほか、お客さんに来てもらって座談会をしたり、投稿を募って会報を発行したり、ちょっとしたイベントをしたりといろいろやっていました。
最初の一年は私は参加するだけのROM(リード オンリー メンバー)みたいな存在だったのですが、最終的には編集長になってしまいました。
このとき、不登校についてカルチャーショックを受けました。私のイメージは自分の体験を基にしたものだったのですが、「明るい登校拒否」というか、自分とは違ったじめじめ感がない不登校もあるのだなと思いました。
それに、生きること、死ぬこと、存在していることなど、友人関係でも話さないようなことも話したのでした。いまから、振り返っても不思議な人間関係ですよね。不登校という共通項目で、つながっているだけなのに、人生経験も環境も全く違うのに、存在価値とか話すのですから。
卒業
卒業研究に没頭しました。自分の能力の120パーセントをだすとは、こういうことだと体で覚えました。あさ8時におきて、朝食を食べる。9時までは日向ぼっこして、太陽を浴びて、目を覚ます。後は、研究室で夜中の1:30までやる。これの連続でした。1:30というのは試行錯誤した結果、この時間までなら体力が持つのがわかった時間です。
私は超天才になったようでした。人間の力ってすごいなと改めて思います。この経験こそが、「人生で一番勉強した」経験になりました。
卒業式の後、先生への謝恩会の席で、教授から「高校のとき内申書読んだ。気持ちを大切に」と言われました。大学4年目の卒業後に明かされた内申書のこと。大学の先生方にひろってもらったことを再び感謝するとともに、今まで一度も口にされなかったことを紳士だったと感動しました。そして、N学の担任の先生にも感謝、感謝でした。