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由 来

福岡県 宗像市にある、宗像大社には、かつて大宮司職が置かれていました。これは、その大宮司を、代々務めてきた宗像一族にまつわる話であります。
宗像大宮司家は天元二年(979年)以来第八十代 氏貞に至るまで六百年に亘り、続いた名家でありました。本来は宮司、つまり神職でしたが、次第に武家化し、鎌倉時代には 御家人 に名を連ねておりました。
足利末期の頃、宗像氏はもともと大内氏の傘下にありました。
宗像大宮司家 第78代、氏雄郷は 天文20年9月(1551年)主君大内義隆が、長州の 逆臣 陶晴賢の 謀叛により討たれ戦死致しました。
大内氏が討たれ、大内氏に殉じた宗像氏男に代つて、姪にあたる照葉の子、わづか七歳の鍋寿丸を第八十代大宮司宗像氏貞としました。
しかし照葉は、宗像正氏の第二夫人であり、鍋寿丸はいわば、妾の子であつたため、一族は 陶晴賢の命に従おうとするものと、正室の山田ノ局の子、菊姫に、婿か養子をとらせて跡継にしようとするものとに分裂する騒ぎになりました。
業を煮やした 陶晴賢は 菊姫の養子として名が挙がつていた千代松丸とその父 氏続とを殺し、山田ノ局と菊姫とを、相ノ島に流せと命じました、これを知つた宗像家の重臣、吉田尚時は、密かに千代松丸と母を、沼口に、山田ノ局と菊姫とを 山田の里にかくまいました。
照葉は石松又兵衛尚季に 命じて野中勘解由、嶺玄藩をそそのかせて、山田の里にかくまわれていた、山田ノ局と菊姫、並びに、侍女四人を、翌年3月23日の夜、山田の里において、共に惨殺させる 事件を起こすことになりました。
戦国乱世とは言え婦女子6人を一度に殺すと言うことは、史上に、類を見ない惨事でありました。その後6女の怨霊の呪いによりてか?、この暗殺、内紛をたくらんだ者達、全てが惨死する等、怪異が続いたので、ここ山田の地に宗像大宮司氏雄の神護寺として在った尼寺に、鎮魂のため、6霊を合祀して六地蔵を刻み、増福院と号して6女の霊を祀るようになって、ようやく、さしもの怪異、変事も収まったと言い伝えらています。
菊姫始め6女の呪いが烈しかっただけに、地蔵尊として祀られるや、衆正をお救い下さる、お力も強く、特に親の子に対する願いは、必ず聞き届けられると言い伝えられ、以来 星霜450年、信仰、遠近を問わず信者が多く、特に、安産、子育て、厄除け、進学、家内安全、交通安全、商売繁盛を、願う人の参拝が絶えません。
本堂の、9枚×9枚、計81枚の天井画は、一見の価値有り、ここは、見上げずに、仰向けにねそべって見上げて下さい、いつもカーペットを敷いております。
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