主張・論評
2012年10月15日 更新
「出前講座」の活動について
空襲全国連・第42回愛知大会 第1分科会 活動報告
富山大空襲を語り継ぐ会事務局長 和田雄二郎
2012年8月26日
1.「出前講座」のあゆみとその意義
小中学校・事業所などへ,「富山大空襲の概要」(最近はパワーポイントを利用することが多い)や「空襲の体験談」などを話しにいく活動を「出前講座」と呼んでおり,「会」の重要な活動として定着してきている.ホームページを見ての問い合わせが近年増えている.
「会」発足の翌々年(96年)春の富山市和合中学校からの依頼を皮切りに,03年度(注:「会」の年度は,11月1日〜翌年10月31日)までは年間に10件以内だったが,戦後60年を迎える04年度から、年間30件前後に急増し,以後その盛況が続いている.「会」結成以来の累計では300件を超え,およそ2万人が話を聞いたことになる.
初めの頃は,小・中学校へ行くことが多かった.中学校では,広島への修学旅行の事前学習として,小学校で
は国語や社会の「戦争」関連の学習の一環として活用されることが多い.次第に小・中学校に加えて,協、医療・福祉団体、労組、町内会、公民館のほか,「9条の会」や,変わったところでは「ロータリークラブ」などからも声がかかるようになった.小・中学校が全体のおよそ3分の2を占め,PTAの主催で親子が一緒に話を聞く場合もある.成人の団体では遺跡めぐりと学習会をセットにして一日がかりの場合もある.
「出前講座」などを通して若い世代にも「戦争は人間が起こす最も非人間的な行為で,絶対に許せないもの」であることが伝わり,子どもたちが「私たちが語り継がねば…」との思いを抱くようになっている.このことに確信を持ち,粘り強い活動をこれからも続けていきたい.
「会」の基本的な活動方針―(1)若い世代への語り継ぎに力を入れ,日本国憲法前文にいう戦争の惨禍≠ニ平和の希求≠ニを広く,具体的に知らせる活動を続けていく.(2)若い世代による語り継ぐ運動とその継承・発展のために,できる限りの支援・協力・激励を惜しまない.(以下略)
2.「出前講座」の現状
ここ数年間の概況は以下の通り.(注:年度=11月1日〜翌年10月31日).
2007年度 31件 約1,800人 2008年度 32件 〃2,000人
2009年度 42件 〃2,900人 2010年度 23件 〃1,500人
2011年度(8月初めまで)24件 〃2,200人
この1年間(11年7月〜12年6月)の実施状況は下記の通り。
2011/ 7/ 3 入善町(下新川郡)新屋地区敬老会 120人 佐藤進
8/ 1 富山市ロータリークラブ 40人 和田雄二郎
8/ 7 藤ノ木9条の会(富山市) 21人 和田
8/26 富山市老人保健施設 約60人 和田
9/16 富山市大広田小学校3年 105人 嶋作恭子
9/28 富山市新庄北小学校6年 97人 佐藤
9/29 富山市東部小学校3年
66人 前野時子
10/ 3 本願寺派・僧職の研修会(満浄寺・富山市梅沢町) 19人 藤井慶輝
10/11 名水黒部のびのび倶楽部(かんぽの宿・富山市) 18人 佐藤
11/ 4 射水市太閤山小学校6年 99人 佐藤
11/ 9 富山市芝園中学校2年・平和学習 113人 和田
11/12 入善町飯野小学校PTA文化講演会 62人 佐藤
11/16 射水市小杉中学校2年
222人 佐藤
11/17 上市町(中新川郡)相ノ木小学校6年
44人 佐藤
11/18 富山市杉原小学校6年
88人 佐藤
11/24 富山市西部中学校2年・平和学習 145人 和田
2012/ 1/12 富山市大広田小学校6年
約100人 舘盛貞信
1/31 富山市山室中学校2年 275人 和田
2/10 富山市水橋中学校2年
94人 和田
3/ 2 県生協(お話:富山県の空襲) 14人 和田
3/ 6 富山市上滝中学校2年 112人 和田
3/17 生協CO・OPとやま(お話&遺跡巡り)
26人 和田
4/21 魚津市西部中学校3年 186人 和田
4/26 小矢部市石動中学校2年 113人 和田
5/20 全労連女性部中部ブロック学習交流会(お話&遺跡めぐり)
27人 和田
6/ 1 県生協(遺跡巡り&お話) 16人 和田
6/27 立山町立山小学校3,4年 32人 前野
11年7月〜12年6月 までの1年間に 27件 約2300人
(その後)
7/ 2 富山市奥田小学校6年(絵本読み聞かせ他) クラス毎に3回
83人 前野
7/ 3 同上(「概要」PP) 一括 83人 和田
7/ 8 小矢部市小神(おこ)いきいきサロンよつば会
40人 佐藤
7/10 富山市中央小学校6年児童(63人)&保護者(45人) 計110人 和田
7/20 砺波市庄川小学校6年
62人 佐藤
8/ 4 和合9条の会(富山市)
18人 和田
3.「出前講座」の際に触れること
(内容は、講師によって多少異なるが、和田の場合は「写真で見る富山大空襲」のタイトルで、PP映像を見せながら話す.)
◇戦争は人類最大の犯罪.“あの戦争”は日本の国が始めた戦争だった.その反省から日本国憲法が生まれた.
◇戦争はウソにまみれている(「心理作戦リーフレット」を見せながら,或いは「大本営発表」について話しながら).
◇
戦争・空襲は、“人災”であり,起こさないようにする,或いは途中でやめることができる.
◇福島原発事故も明らかな“人災”,戦争と同じく,人間が引き起こした大きな過ち.防ぐことはできた.
◇(きみたちが)大人になったら,戦争を決して許さない人間になってほしい.
◇戦争・空襲について学んだことを,(きみたちが)周りの人や下級生たちに語り伝えていってほしい.
4.「出前講座」から、小学生の創作劇が生まれた
「出前講座」を聞いた小学校6年生が全員で創作劇に取り組み学習発表会で上演するという活動が2年続いた.今年,3年続きにならないかと期待している.
☆2010年10月に富山市の光陽小学校の学習発表会で6年生104人全員が,劇『未来を信じて〜富山大空襲から学んだこと〜』を創作・上演した.(去年の全国大会で報告.好評を博した.)
☆2011年10月には富山市の大庄小学校6年生54人が,同校の学習発表会(2011年10月30日)で『戦争と平和「伝え、守り続けたいこと」』と題する劇を保護者にも披露し好評を博した.
5.寄せられた感想文から
7/10 富山市中央小学校6年児童(63人)&保護者(45人) の分から抜粋
1.今日のお話の中で.あなたが一番心に残った事は何ですか?
○すべての話が心に残りました.死体の写真はしょうげき的でした.しょういだんが雨のようにふってきたと聞いてすごくびっくりしました.考えられないことだと思いました.富山が死者数,焼けた面積の割合が全国平均を大きくうわまわっていてびっくりしました.
○一番心に残ったのは,空から見た富山市が焼かれている写真を見たことです.富山大空襲がこれほどひどいものだとは知らなかったので,とてもおどろきました.自分が今住んでいる所も燃えていたので,こわいなと思いました.
○自分の住んでいる町に,昔アメリカ軍から焼夷弾を落とされて,16万人中3千人もの人が死亡したと聞いておどろきました.先生が言われたとおり,将来子どもやほかの人に言い伝えていくことは大事だなと思いました.富山大空襲のことを伝えていきたいです.
○市街地のほとんどが火の海につつまれたという話が一番心に残った.今ぼく達は当たり前のように市街地を歩いているが,昔ここで富山大空襲という大惨事が起きたと思うと,手を合わせたくなる.
2.現在も世界で争いが絶えません。戦争が起こらないようにするには、どうしたらよいと思いますか。
○武力でなく,話し合いですべてを決めれば良いと思いました.
○「日本は戦争をしないと約束した」とお母さんに聞いたので,日本のように「戦争をしない!」と,ほかの国も考えてくれればいいと思います.
○みんなが戦争のおそろしさを知れば,だれも起こさないと思います.
3.おうちの方とお話をして下さい。(保護者が記した感想)
○富山に住んでいながら,富山に空襲があったことは今日まで知らなかったので,よい機会に恵まれたと思います.子どもにとっても,自分の住んでいる土地で昔どんなことがあったのか学ぶことができ,良かったと思います.
○年月が経つと戦争の記憶はだんだん薄れていきます.これは仕方のないことかもしれませんが,だからこそ,歴史をくり返さないためにも,私達は正しい情報を身につけ,共有し,伝える努力をしていかなければならないと感じました.学年PTAが企画したイベントで学ぶことができて良かったです。
日本国憲法から<戦争・空襲>を考える
“政府の行為”によって“戦争の惨禍”がもたらされた
和田雄二郎
日本国憲法 前文(抜粋) 日本国民は、…われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によってふたたび戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 … 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 … われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(太字は筆者)
憲法前文に込められた「認識」と「決意」
日本国憲法前文から要点だけを抜粋した上記箇所(特に太字の所)には、以下のような重要な意味が含まれていることが読み取れる。―(1)戦争の惨禍は、政府の行為によって起ったと述べていること、(2)そうした惨禍を再び招かないようにすることを、日本国民が決意していること、(3)平和によってこそ、世界中の人々は恐怖と欠乏から免かれ安全と生存が保持できることを確認していること、などである。
“政府の行為”で“戦争の惨禍”が起こった
明治維新以降の日本は、1945年にアジア太平洋戦争で敗れるまで「他国へ侵略戦争をしかける国」であり続けた。その間に起こった戦争はすべて「日本政府の行為」によるものだった。「大日本帝国憲法」のもとでは、天皇が「国家統治の大権」を握り「統治権の総攬者」であったから、政府の行為は即ち天皇の行為であった。
昭和天皇が、あの戦争を始め、長引かせた
太平洋戦争の開戦は、天皇も出席した「御前会議」で決定されている。だから、昭和天皇があの戦争を始め、長引かせ、敗戦を遅らせ、国民に多大な犠牲を強いたことは明白な事実だ。
とりわけ戦争末期の、以下のような天皇の発言を見過ごすことはできない。―@(1945年2月、天皇の側近・近衛文麿が「もはや敗戦は必至。国体護持のため直ちに降服を…」という旨の上奏をした時)「天皇制を維持し、より有利
な条件で降服するためには、も一度戦果をあげてから…」。A(同年7月10日、近衛をソ連に派遣して有利な降服をはかった時、近衛に)「場合によっては沖縄は切り捨ててもよいが、国体護持は絶対に譲れぬ線…」。B(7月26日、「ポツダム宣言」に対し)「この宣言では国体護持の保障がない」(と黙殺を決め、政府は「戦争に邁進する」と声明した)。(小林末夫著『天皇制に関する27の疑問』白石書店・1993年5月刊 による)
敗戦の決断の遅れが、多くの国民を犠牲にした
もし@の時点で降服していたら、沖縄戦も、戦場となった各地での「玉砕」も、日本本土空襲も原爆投下も、ソ連参戦もなくてすみ、約100万人の国民が殺されずにすんだ。Bの時点でもなお、もし「宣言」をすぐに受諾していたら数十万人の命を救うことができたはずだった。
「国体(=天皇制)護持」に固執して実に多くの国民を見殺しにした天皇の責任は重大な戦争犯罪に値するが、マッカーサーの占領政策上の思惑のために、それは問われなかった。
戦場となったアジアの各地では多くの兵士・軍人が戦闘よりも飢えによって多く“戦死”し、本土では度重なる焼夷弾による都市空襲と2発の原爆で多くの無辜の市民が殺戮された。
前文の「戦争の惨禍」が含む重く深い意味
前文の「戦争の惨禍」という僅か五文字の意味の重さと深さは、計り知れないものがある、。
アジア太平洋戦争で犠牲になった人々は、日本人が約310万人、その他アジアの人々が2千万人以上と言われる。その310万人の内、民間人は約80万人、その半数が都市空襲による犠牲者だった(他は、広島・長崎への原爆投下、沖縄戦、シベリア抑留などによる死者)。
当時すでに、空爆などで民間人を殺戮してはならないとの国際的なきまりはあったが、これを最初に破ったのは、ナチスドイツ軍(1937年・ゲルニカ)であり、日本軍(1939〜41年・重慶)だった。そしてアメリカ軍は、その戦法をはるかに大規模で残虐なものに拡大強化した。
民間人を大量に殺戮―日本の都市空襲
1944年7月にマリアナ諸島を陥れた米軍は、グァム、テニアン、サイパンの3島に5箇所の飛行場を作り、11月から日本への空爆を始めた。
初めは発動機などを作る大工場へ大型爆弾を投下したがあまり効果があがらず、翌45年3月に、夜間に低空から人口が密集した都市市街地に大量の焼夷弾を投下する戦法に切り替えた。10万人以上が焼き殺されたという3月10日の東京大空襲がその始まりだった。大都市を焼き尽くすとターゲットは中小都市に移り、8月15日までに広島・長崎を含め66都市を廃墟にし、およそ60万人の命を奪った。
このような具体的な事実が、憲法前文の「戦争の惨禍」には込められている。それは、地震や洪水とは異なり、人間がつくった政府という権力機構の行為がもたらしたものだった。
他に例を見ない「惨禍」―富山大空襲
推定3千人の市民が殺された45年8月2日未明の富山大空襲は、中小都市空襲のひとつではあるが、@米軍が目標にした区域の99.5%が焼かれ、この「焼夷率」が全国一であること、A人口1千人あたりの死者が約16人(全国平均は8.7人)と全国有数であることなど、他には例を見ない特徴がある。(詳しくは、LL第61号の拙稿をご覧いただきたい。)
なぜこのような大きな「惨禍」をもたらしたのか。いくつかの理由が挙げられるが、見過ごせないのは、当時の富山市当局が、市民の命を守るためには何もしないどころか、逆に市民の犠牲を増やすことに手を貸したということだ。
行政が 「戦争の惨禍」拡大に手を貸した
空襲が激しくなると、どこの都市でも、防空壕づくりや防空・防火訓練など防空態勢に市民を駆り立てるようになっていたが、当時の富山
市は、他都市にない大きな誤りを二点犯した。
一つは、予想された空襲を市民に知らせず、避難・疎開の指示も一切しなかったことだ。前々日に空襲を予告するビラがB29から撒かれ、県も市もそれぞれ対策会議を開いたが、結局市民には知らせず、避難指示もしなかった。
もう一つは、空襲から逃れようとする市民を炎の中へ追い返したことだ。炎と煙の中を郊外へ逃げようとする市民を、憲兵・警察・警防団・在郷軍人・町内会役員らが「逃げるな、戻って火を消せ」、「逃げるのは非国民、国賊だ」と押し返し、死に追いやった。富山市と同日に空襲を受けた八王子市や水戸市では、避難・疎開の指示が出され、犠牲者の数は数百人にとどまっているが、富山市という地方行政機関(=政府の末端機構)の行為によって「戦争の惨禍」が増幅されたのだった。
「平和(9条)」が「生存(25条)」を保障する
日本国憲法は「政府の行為によって戦争の惨禍がふたたび起ることのないやうにする」ことを国民の総意として決意している。
渡辺治氏は「(9条・25条の)二つの条文は…現代日本社会の二大問題である戦争と貧困をなくすために、決定的な位置を占めている」と述べている。(『憲法9条と25条・その力と可能性』かもがわ出版・2009年12月刊)
憲法前文の「平和のうちに生存する権利」とは、「平和(9条)」が「生存(25条)」を保障することを謳っている。戦争をなくすことが恐怖と欠乏=貧困をなくすことにつながる。軍事費を削って、生活・福祉・社会保障の財源にまわすことが当面のたたかいの焦点になっている。
憲法25条第2項には次のようにある―「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」―。今の政府・与党の面々は、この条文を忘れているのか、あるいは知らないのかのどちらかだろう。 (了)
(「憲法9条ファンクラブニューズレター」 第70号 2010/3/19 から転載)
富山大空襲で推定3000人も殺されたひとつの理由
和田雄二郎(富山大空襲を語り継ぐ会・事務局長)
結成15周年を迎える富山大空襲を語り継ぐ会は、今年も富山市長に対して「富山大空襲の真実を解明し、これを正しく後世に語り伝える事業についての要請書」を提出しました。要請項目は「空襲資料館建設」・「空襲史の編纂刊行」など、富山大空襲を構成に語り伝えるために行政として行なうべき事業について、のべ9項目に上りますが、それらのほとんどはこの15年間要請し続けてきたことばかりです。しかし諦めることなく、これからも粘り強くこの活動を続けていくつもりです。それはそれとして、今年の要請の場でとりわけ強くアピールしたことがありました。本稿の見出しに掲げたそのことについて、お知らせしようと思います。
全国に例を見ない惨害―富山大空襲
1945年8月2日未明、米軍機B29-174機が焼夷弾1465.5米トン(個数は50万発以上)を落とすという大規模な空爆を受け、富山の街は文字通り“丸焼け”にされ、死者推定3千人、負傷者同8千人、被災世帯約2万5千戸、同人数約11万人という惨禍を招きました。
なぜ「大空襲」というのか。それは、@米軍が目標にした区域の99.5%が焼かれ、この「焼夷率」が全国一であること、A人口1千人あたりの死者が約16人(全国平均は8.7人)と全国有数であること、などの理由からです。
なぜこのような大惨害をもたらしたのか。いくつかの理由が挙げられますが、見過ごせないのは、当時の富山市当局が、市民の命を守るためには何もしないどころか、、逆に市民の犠牲を増やすことに手を貸したということです。
行政が 罪のない市民を見殺しにした
「要請書」の前文に、当時国も地方も米軍の空爆から国民・市民の命を守るための策を何ら講ぜず、非戦闘員である多くの市民を見殺しにしたことを記した後に、次のように書きました。
―とりわけ富山市においては、日頃から防空壕づくりや防空訓練など防空態勢に市民を駆り立て、空襲が間近に迫っていることを予想しながら市民への周知徹底や避難の具体的指示を行わず、空襲が始まると警防団員等をして市民の避難を阻止し炎の中へ追い返させるなど数々の重大な過ちを犯し、全国有数の犠牲者を出すという結果を招きました。富山市と同日に空襲を受けた八王子市や水戸市では、避難・疎開の指示が出され、犠牲者の数は数百人にとどまっています。― (注:他の3都市の死者数は、八王子:455人、水戸:304人、長岡:1400人余。)
T 防空態勢づくりに市民を駆り立てた
各家庭に、防空壕や防火用水槽の設置が命じられました。灯火管制が厳しく指導され、町内会単位の防火(防空)演習や竹槍訓練が頻繁に行われました。おカミは「焼夷弾が落ちてきたらバケツの水をかけ、火叩きで消せ。絶対に逃げたりするな」と喚きたてるだけでした。
U 予想された空襲を市民に知らせず、避難・疎開の指示も一切しなかった
7月31日の夜、空襲を予告するビラがB29から撒かれ、8月1日、県も市もそれぞれ対策会議を開き、県は「甲論乙駁の議論を展開したが、…『疎開をさせないで、徹底抗戦すること』を決めた…」(『富山大空襲』、北日本新聞社刊)といいます。富山市もハッキリした結論は出さず、うやむやのまま会議を終えています。
行政当局は、その日の夜空襲があることを十二分に予測しながら、それを市民に周知徹底することを完全に怠ったのでした。
V 逃げる市民を炎の中へ追い返した
空襲が始まると、瞬く間に市内の各所に火の手が上がりました。炎に追われて郊外へ逃げようとする市民を、憲兵・警察・警防団・町内会役員らが「逃げるな、戻って火を消せ」、「逃げるなどとは非国民、国賊だ」と押し留めました。
このような行政の誤った対応が富山大空襲の犠牲者を大幅に増やす結果につながったことは、間違いありません。
こうしたことを記憶し続け、語り継いでいくことが、二度と日本が「戦争への道」を歩まない原動力になると信じています。
(「憲法9条ファンクラブニューズレタ」ー 第61号‐2009/6‐ から転載)
《富山県の空襲》を考える
和田雄二郎
(『空襲通信』第11号 09.7)
はじめに
富山県には,いわゆる<富山大空襲>(=富山市への焼夷弾空襲)のほかに,<機雷投下>・<模擬原爆(パンプキン)投下>があり,<高岡・伏木地区空襲計画>が具体化しており,さらに<捕虜収容所>があったことなどを,個別的には知っていた.けれども,これらを相互に関連づけて考えることはなかった.
山辺昌彦氏が「マリアナからのアメリカ軍B29による日本本土空襲」を実施時期を追って以下の7項目―@軍需工場爆撃,A大都市焼夷弾空襲,B機雷投下,C九州の基地・飛行場爆撃,D石油基地への爆撃,E中小都市焼夷弾空襲,F模擬爆弾・原子爆弾投下(○番号は筆者)―に「整理」された(東京大空襲・戦災資料センター戦争災害研究室「国際シンポジウム報告書」40頁,2009/3/10)が,それを見ていて,そのうちB・E(=<富山>と<高岡・伏木>(計画)の2件)・Fの3項目(のべ4件)が富山県に関わることに気づき,「なぜ、こんなに、いろいろ?」と考えたのが,本稿のきっかけになった.さらに,富山県に6カ所の<捕虜収容所(POW)>があったことも上記と無縁ではなかったことにも気がついた.
<富山大空襲>は別にして,機雷・パンプキン・POWなどが富山県に集中したのは、1920年代以降僅か20年ほどの間に,富山湾に面する富山市北部・岩瀬地域及び県西部伏木・新湊地域が,国内の四大工業地帯(京浜・中京・阪神・北九州)に次ぐ工業地帯として急速な発展を遂げていたことと深いかかわりがある.
1.“富山湾沿岸工業地帯”形成のあゆみ
“富山湾沿岸工業地帯”とでも呼ぶべきこの一帯が形成された経緯を見ることにする.
富山市内を流れる神通川は,明治の中頃まで富山市の中心部を大きい瘤のように蛇行して流れていたので,絶えず洪水を引き起こしていた.そこで富山県は,堤防の一部を切り崩して水流を真直ぐに流す洪水対策(通称「馳越(はせごし)工事」を実施したが,そのために大量の土砂が流れ,河口にあった「北前船」の寄航地=「東岩瀬湊」が閉塞されたので,1901(明治34)年,これを近代的な「港」に改修する―神通川河口付近の真中に堤防を設けて「川」と「港」を区切る―工事が始まった.第1期工事は1927(昭和2)年に完成し,3千トン級の鋼鉄船の入港が可能になって,のちに「富山港」と呼ばれるようになった.
西から延びてきた北陸線は,1912(大正元)年に直江津まで開通していたが,東岩瀬の町と港の近代化をめざして,1923(大正12)年には「富岩鉄道」(後の国鉄富山港線)が岩瀬浜から富山口まで開通し,旧制の官立高等学校も創設された.1928(昭和3)年,飛越線(現在の高山線)が富山駅まで開通したのを受けて富岩鉄道が富山駅まで乗り入れ、東岩瀬町と名古屋方面とが繋がることになった.1930年には岩瀬浜と富山駅裏(北)結ぶ「富岩運河」の掘削工事が始まり,1935年に完成.その土砂で神通川の旧水路跡地(「廃川(はいせん)地」と呼ばれた)一帯が,市街区域や広大な工場用地として埋立・造成された.
そこに,1933年,「日満アルミニウム」が試験操業開始(本格操業開始は1935年),「保土ヶ谷化学」・「日本曹達岩瀬工場」などが操業開始.1937年に「日曹人絹パルプ」,38年に「日本曹達富山製鋼所」,1940年には「日本海ドック」が相次いで操業を開始した.
(上記については、『東岩瀬の心を読む‐富岩運河への道を語る‐』(犬島肇 2002年)に詳しい.)
一方伏木港は,17世紀半ば以降小矢部川河口の良港として栄えてきたが,1920年代に浚渫・護岸などの大改修工事が行なわれて近代的な港に生まれ変わった.1930年代後半には,小矢部川と庄川の河口一帯(伏木・新湊港湾地域)で日本鋼管・日本高周波鋼・日本曹達アルミニウム工場などが操業を始め,小矢部川の北西岸一帯にも製紙・化学工場が立ち並んだ.(なお,戦後1956〜67年に「富山新港」がつくられ、さらに76年には3つの港が統合されて「伏木富山港」と呼ばれることになる.)
上述の“富山湾沿岸工業地帯”が発展を遂げた条件としては、以下の諸点が考えられる.―@富山県には河川が多く,水力発電所がいくつも建設され、豊富な電力が供給されたこと,A港湾や運河,鉄道網が整備され,原料の輸入・製品の出荷が容易になったこと,B農村地帯を基盤とする安い労働力が豊富に得られたことなどだ.
2.富山県内の「爆撃目標」
富山県内で爆撃目標にされたのは、三十数カ所にのぼる.それらは,A:「作戦任務報告書」,B:「目標情報票」(「空襲損害評価報告書」に含まれる),C:「爆撃目標リスト(「標的索引」)」&「爆撃目標フォルダー」(同左),D:「空襲目標情報」などで,いずれも第20航空軍の文書に収められており、これらの間には重複も見られるが,個別につけられた「目標番号」は統一されているので,[目標グループ<90:11>-富山地域]のうち富山県に関するものを番号順に名称だけ列記してみる.(なお、*印は“富山湾沿岸工業地帯”にある工場・港湾を示す.太字は後述の「模擬原爆投下目標」<3カ所>、下線は同じく「捕虜収容所の派遣労務先」<6カ所中5カ所>を示す.)
* 861 日満アルミニウム * 862 東岩瀬港
* 866 日本曹達アルミニウム工場 * 867 伏木港
873
小牧水力発電所
874 蟹寺水力発電所
875 祖山水力発電所
876 柳河原水力発電所
877 黒部川第二水力発電所
936 日産化学工業第一工場
--- 呉羽航空機製作会社
941 不二越鋼材富山工場
--- 富山駅と操車場
1608 黒部川第三水力発電所
1633 笹津変電所
1639 国産軽金属
1940 愛本水力発電所
1942 日本マグネシウム
*1943 不二越鋼材東岩瀬工場
*1944 日本曹達マグネシウム工場(注:「日本曹達岩瀬工場」が正式名称.)、
2056 和田川水力発電所 2057 真川水力発電所
2062 猪谷水力発電所 *3586 伏木―港湾地域
*3587 東岩瀬―港湾地域 6249 報国砂鉄
6250 ラミー紡績第一工場 6251 富山ガス工場
6252 本江工作機械会社(注:後,立山重工) *6253 日本曹達富山製鋼所
*6254 日曹レーヨン工場 6260 呉羽山(判読不能)倉庫
*6261 日本高周波KK(電解工場,富山市) *----
日本鋼管
6262 東アジア金属工業有限会社 (ほか一部省略)
目標につけられた番号は,目標が時期を追って増やされていった推移を示すと思われる.
一覧すると,当時の県内のめぼしい工場・水力発電所・港湾・鉄道施設がほぼ網羅されていることに気づく.このうち<861>から<1944>までは,上記D(「空襲目標情報))に収められており,写真と簡にして要を得たコメントが添えられている.これらをざっと見るだけで,めぼしい工場のほとんどが“沿岸工業地帯”に集中していることが分かる.
3.機雷投下
機雷投下作戦は,1945年3月から8月まで,第313航空団によって44目標に152回行なわれた。当時すでに太平洋側の船の航行は麻痺状態になり,日本海側の港湾だけが海上輸送の拠点になっていたので、日本海側や瀬戸内海の港湾・航路に機雷が投下された.
「伏木港」は,「空襲目標情報」の「富山地域の概要と評価」に「伏木は河口にあり…南西5マイルの所にある高岡市と富山県全体の港.この地域は,日本鋼管と日本高周波の工場があり,電気炉と鉄鋼合金の重要な生産地.伏木の南西を流れる小矢部川の北西沿いは,個々の規模はさほど大きくないが,全体としては重要な化学製品の集積地になっている」と記されている.なお「目標情報票」には,爆撃目標として<867 伏木港>と<3586 伏木−港湾地域>との2回登場するが,前者には写真に添えて「伏木港(港湾施設) 新潟と敦賀の間にある重要な港.…神戸,大阪とは鉄道で敦賀経由で結ばれ,名古屋とは富山から内陸を縦断する鉄道で結ばれている.朝鮮との輸送が多い」とのコメントがある.
「作戦任務報告書」によると、「伏木港」を目標に,7月9日,17日,25日の3回,計112トン(推計約150個)の2種類(1千ポンド,2千ポンド)の機雷が投下され,ほかに七尾港(石川県)への投下も4回あるという.が,地元の記録では5〜6月にも少なくとも数回の機雷投下があり,大型船5隻が沈没し港への船の出入りが不能になったほか,誤って地上に落ちて死者48人,家屋損壊数十戸などの被害を出した.(詳しくは「空襲通信」第8号に載った拙稿「高岡・伏木へのフラグ・プラン」を参照されたい.)
4.模擬原爆(パンプキン)投下
原子爆弾と模擬原子爆弾の投下は、第509混成群団によって行なわれた.原爆投下の“予行演習”として日本本土に49発投下されたパンプキンの内,富山市に計4発が投下された.
7月20日,前記「爆撃目標一覧」の内太字の3カ所を狙って模擬原爆が計3発投下された.いずれも第一目標をはずれたが,それぞれの落下地点に以下の被害を与えた.
・日満アルミニウム(861)(1944年に合併し,「昭和電工」に改称)―富山市森の朝鮮人労働者の飯場を直撃し,死者47人,負傷者40人を出したほか,夜勤明けで帰宅途中の同工場従業員1人が路上で即死した.
・不二越鋼材東岩瀬工場(1943) 富山市中田の田圃に落ち、集落の家屋多数を損傷した.
・日本曹達富山製鋼所(6253) 富岩運河の西岸に落ち,東岸の同工場社宅などを損壊したほか,工場の南にあった捕虜収容所(名古屋俘虜収容所第7分所)の捕虜十数人を負傷させた.
雲が多かったためもあってこの爆撃が不成功に終わったので,7月26日に再度同じ目標を攻撃するよう指示された.今度は1目標に対し2発の投下が計画され、富山には計6機が派遣された.が,この日はさらに雲が多く,富山の目標(それも第2目標の「市街地」)に投弾したのは1機だけだったが,これが富山市豊田の住宅地に落ち,死者16人,負傷者40人以上,家屋焼失または損壊数十戸の被害を出した.残る5機は,第一目標を視認できず第二目標(=任意の市街地)の焼津・島田・浜松・名古屋・大阪の各市街地に投弾した。
なぜこの3工場が目標に選ばれたのか.「空襲目標情報」(便宜上T)と,パンプキン投下のための「作戦任務報告書」中,各任務番号の計画(同U)には,それぞれ以下の記述がある.
・日満アルミ T―1943年の生産量は,アルミナが3万メートル・トンで本土生産量の約8%と目算.アルミニウムは1万メートル・トン,5%. U―富山地区で最も重要な工業目標の一つ.…この工場の破壊は日本の戦力を減じるであろう.
・不二越東岩瀬 T―日本のボール&ローラーベアリング生産で4番目に重要.機械・工具・特殊鋼の生産拠点. U―工業上高度な重要性があるために目標として選ばれた.
・日曹富山製鋼 T―(記載なし) U―最近の数カ月,日本の製鋼所目標に多くの攻撃を加えているので,鉄鋼産業に対する攻撃を続けるために,この目標を選んだ.この分野における資源は決定的に不足しているから,日本の鉄鋼工業に軍需工業全体に荒廃をもたらすであろう.日本曹達会社は現在鉄鋼生産計画に貢献していると信じられた.この工場については余り知られていないが,攻撃の目的はそれを初期の段階で破壊することだ.
上記Uにおける記述は,どれも何とも歯切れが悪く,選定理由を無理やりこじつけた感がある.それは,「作戦任務報告書」全篇の「目標の選定」の項に,「(パンプキン投下のために)残った目標の大部分は,2次的重要度の工業目標か,さもなければ以前のB-29空襲で被害を受けている優先目標ということになり…」とか「これまでに日本の全ての種類の工業が広範囲な被害を受けていたから,選択をどれか一つの分野に限ることはできず,選んだものには,あらゆる種類の工業の『がらくた』が入っていた」、「精油所や化学工場についても,第509混成群団には『残りもの』しか選び出せなかった」などと記されていることと関わりがあろう.富山の3目標も「2次的重要度の工場」か「がらくた」の中から選び出されたものだった.
本土に投下されたパンプキン49発のうち,第一目標に投弾できたのは26発と約半数で,しかもその命中度はきわめて低い.残る約半数は第二目標の「臨機の,任意の市街地目標の中心(「京都、新潟、広島、小倉を除き」と特記されている場合が多い)」をめがけて落とされた.中には7月29日の攻撃で,9つの第一目標と、極めて広範囲に30箇所もの第二目標を指定した(その中に「日本曹達アルミニウム工場[高岡市.上記番号:866]」がある)ケースもあり,この日以後“本番”まで作戦が中断されたことも考え合わせると,米軍の困惑・苛立ち・ヤケクソぶりが窺える.2発の原爆投下に成功したのは“偶然の産物”とも言えそうだ.パンプキン作戦の成果は工藤洋三氏が言われるように「搭乗員の士気を高めた」だけだったのかもしれない.なおこの作戦において,“誤爆”などによる犠牲者は400人以上にのぼっている.
5.伏木地区への空襲計画
詳しくは「空襲通信」第8号の拙稿をお読みいただきたいが,ここでは本稿の主旨に関わって要点だけを述べる.問題は,「高岡へのフラグ・プラン」が作られて(1945年7月30日)から僅か10日後(同年8月10日)に,なぜ,その“修正版”のような形で「高岡・伏木プラン」が作られたか,ということだ.
「高岡」に「伏木」が“追加”されたのは,上述のような機雷攻撃を受けながらもなお,港湾施設や隣接する工場地帯,そして市街地が無傷で残っていたからであり,伏木と高岡とは直線距離にして7キロメートルしか離れていなかったことも同時攻撃には好都合だった.爆撃目標としての価値をまだ残しており,高岡市街地を攻撃するついでに攻撃機群を2倍に増やして,港湾施設と工場群を含む「伏木市街地」にも焼夷弾を投下するほうが“一挙両得”だと考えたのだろう.(これは余談だが,仮に地図上に伏木駅を中心に「確率誤差円」を描いてみると、伏木市街地・伏木港・小矢部川沿岸の工場地帯・対岸(新湊町)の日本鋼管などまでがすっぽり収まってしまう.)
6.POWの存在
当時富山県には6カ所の捕虜収容所(=POW)があり,労務先の工場内またはその付近にある建物に1600人近い捕虜が収容されていた.前記「爆撃目標一覧」に下線を施した5カ所に、高岡市能町の「北海電化工業(現・日本重化学工業)伏木工場」を加えて6カ所になる.これらのPOWは1箇所を除いて1944年5〜6月に近畿・東海地方のPOWから移設されたもので,米・英・蘭など連合軍の捕虜が県内の工場や港湾施設(伏木・岩瀬両港の使役企業は「日本通運」各支店)で働かされていた.
短期間に急成長した県内の大工場では労働力の需要が多く,地元の労働者だけでは足りなくて勤労動員された中等学校生徒や朝鮮から連れて来られた「女子挺身隊員」などに加えて,連合軍捕虜までが安価な労働力として使役されたのだった.
おわりに
いわゆる「富山大空襲」は,6月中旬から始まった中小都市空襲の第13回として長岡・水戸・八王子と同時に行なわれた.富山市が焼夷弾空襲を受けたのはいわば“順番が来た”からであり,その全国に例を見ないような惨害の内容などについては,本稿の主旨から外れるのでここでは触れない.ただ.「空襲目標情報 90:11-富山地域」に以下の記述があることに目を向けておきたい.―「この地域は重要な非鉄金属,減摩ベアリング,工具生産の中心である.また,特殊鋼・鉄鋼生産,化学・繊維工業が発達している.電力はこれらの産業の基礎だが,中部地方,東京地方にとっても重要な水力発電の開発が進んでいる.市街地は小さく,工場は郊外にある.商業用港は浚渫して船が停泊できるようになっているが,戦時には朝鮮の北の港からの大量の物資が入港できるようにしてある.この地域は山地を走る単線鉄道によって東海道本線及び名古屋工業地帯と結ばれている」.
少なくとも,米軍が重要な攻撃目標として「富山地域」の“富山湾沿岸工業地帯”に早くから目をつけていたことは窺えよう. (2009.6.5)
★本文に紹介した以外の参考文献
*『富山大空襲』(1972年 北日本新聞社)
*『模擬原爆と春日井』(1995年 春日井の戦争を記録する会)
*『ルメイ・最後の空襲‐米軍資料に見る富山大空襲』(1997年 桂書房 中山伊佐男)
*『米軍資料 原爆投下報告書』(1993年 東方出版 奥住喜重・工藤洋三・桂哲男訳)
*『中小都市空襲』(1988年 三省堂 奥住喜重)
*『B-29 64都市を焼く』(2006年 揺籃社 奥住喜重)
*『捕虜収容所補給作戦 B-29部隊最後の作戦』(2004年 奥住喜重・工藤洋三・福林徹)
*『写真が語る原爆投下』(2005年 工藤洋三・奥住喜重)
*『写真が語る日本空襲』(2008年 現代史料出版 工藤洋三・奥住喜重)
*『ビジュアルブック 語り伝える空襲・第三巻』(2008年 新日本出版社 安斎育郎)
高岡と伏木への<フラグ・プラン>について
和田 雄二郎
(『空襲通信』第8号 06.7)
1.はじめに
05年夏,富山大空襲を語り継ぐ会主催の「富山大空襲60周年のつどい」で,「米軍資料に見る富山大空襲」と題する講演を工藤洋三氏にお願いした.
その中で,「陸軍航空軍創立記念日に全機出撃を命じる命令書」 [1945年7月19日付](出典:奥
住喜重氏著『米軍新資料‐八王子空襲の記録』)と,<富山空襲のフラグプラン> (同7月20日付)[注]との関連についてお話があった.後者では「通常兵力」とされていたが,前者の指令を受けて,富山を含む4都市への「第13回爆撃」が「最大兵力」に変更されたというものだった.
注:FRAGMENTARY
COMBAT PLAN.「個別戦闘計画」.奥住氏著・前掲書に,「(米軍文書に)『フラグ・プランとは,作戦の試案に関する陸軍航空軍の用語である』という注記もある」と記されている.中山伊佐男氏著『ルメイ・最後の空襲‐米軍資料に見る富山大空襲』にも,これについての記述がある。
米軍の日本本土空爆に当っての合理性と用意周到さ―-膨大な資料の収集・偵察飛行による写真撮影→目標情報・目標情報票→目標概要表→フラグプラン→野戦命令書→作戦任務報告書・損害評価報告書に至る、完璧ともいえる情報処理―-には,まったく驚かされる.
さて,後日工藤氏から富山空襲に関する二十数点の米軍資料をお送り頂いた中に,「高岡と伏木」に関する<フラグ・プラン>が含まれていたことに気づいた.
しかもその<プラン>は2通あった.@「高岡プラン」(1945.7.30作成)と,A「高岡 伏木プラン」(1945.8.10作成)とである.特に目を引いたのは,Aの方には<爆撃中心点(MPI)>として「高岡」と「伏木」の二箇所が記されていたことだった.「高岡」は富山県西部の県内第二の都市であり,「伏木」は日本海側有数の「伏木港」を抱える港町(戦後に高岡市と合併)だった。
2.高岡・伏木への空襲構想と予告
米軍が「高岡」への空襲を予定していたことは知られていた.「中小都市空襲のために選ばれた日本の180の市街地」には「高岡」が84番目に記され,「リーフレット心理作戦」のビラ(第2回)には,「高岡」が水戸・八王子・富山などと共に空襲予定12都市の中に明記されていた.
また「伏木」は,「空襲目標情報」の<富山地域(90.11)>の文書中「富山地域の概要と評価」に,その約五分の一の分量を割いて「伏木(目標番号867)は河口にあり,南西5マイルのところにある高岡市と富山県全体の港である.東岩瀬のちょうど西にあるこの地域は,日本鋼管と日本高周波鋼の工場があり,電気炉と鉄鋼合金の重要な生産地である.伏木の南西を流れる小矢部川の北西沿いは,ひとつひとつの規模はさほど大きくないが,全体としては重要な化学製品の集積地となっている.…」(中山氏著・前掲書)と記され,さらにこの情報に添えられた18箇所の爆撃目標リストに含まれる<伏木港(港湾施設)>・<日本曹達アルミ工場>の2枚の写真の他,リストにはないが<伏木製紙>・<北海曹達>・<日産化学第二工場>の写真,<伏木港>及び<伏木-高岡>地域の地図(前記5工場を含む9工場を記入)が含まれており,<伏木(港湾施設)>の写真には「…新潟と敦賀の間にある重要な港.…」などのコメントが付記されている.
さらに、両地域に関する「空襲目標情報票」も、大阪国際平和センターが入手した米軍資料から見つかっていた(1998年7月16日付・北日本新聞)。
以上のことから,中小都市空襲の目標の一つであった「高岡」と,軍需施設の攻撃目標の一つであった「伏木」を,当時の米軍が一帯の地域として捉えるに至った経過が分かる.
3.伏木港への機雷投下
「伏木港」に対してマリアナ基地のB29による機雷投下作戦が行われていたことは,金子力氏からお聞きしていた
(1996.8.1「富山大空襲51周年のつどい」記念講演資料).その要点は以下の通りである.―<作戦任務報告書>によると,3月下旬から8月上旬までに,日本海沿岸に対して40回の機雷投下作戦が行われている.この内「伏木港目標」と明記されているのは7/9,7/17,7/25の3回で,計112dが投下されている.他にも,同じ<90-11>地域に含まれる「七尾」へ4回投下されている.
また『富山大空襲』(972.3.10北日本新聞社刊)にも,「1945年に入ると,太平洋側の船の航行は米軍の機雷投下によってマヒ状態となり,唯一の物資補給路として残った日本海側の港湾に対しても機雷を投下して港湾を封鎖する作戦が行われるようになった」旨の記述があり,「伏木」及び隣接の「新湊」の陸上に誤って落下した5/24,6/5,
6/16の3件について具体的に記され,死者38人,家屋損壊数十戸の被害が出たことなどが紹介されている.上記以外にも機雷投下は多くあり,伏木・新湊一帯に投下された機雷は,B29のべ70機余りによって海上に約300個,陸上に約100個といわれ,神通川丸(6859d)他5隻の大型船が沈没し,港への出入りができなくなったという.
4.2通の<フラグ・プラン>
<フラグ・プラン>が2通あったことは,先に述べた(拙訳を次頁以降に示す.なお,訳に際して奥住氏・前掲書や,『米軍資料 北九州の空襲』(奥住喜重・工藤両氏訳・編)を参照させて頂いた.この文書の機密度はいずれも作成当時は<TOP
SECRET>だったが、45年10月に1ランク下げられ、<TOP >の文字が抹消されている).その何よりの相違点は,攻撃目標として「伏木」が追加されていることだ.おそらく,@が作成されたあとで、「高岡」と併せて「伏木」をも目標に加える方が,“一挙両得”の,より効果的な爆撃になるとの判断が働いたものと思われる。つまり,@の“修正案”としてAが作成されたということだ.その主な“修正”点を列挙してみた.
(1) <プラン>の作成日: @「高岡
プラン」の11日後に,A「高岡 伏木 プラン」が作成されていること.
(2) 目標とMPI: @は,「高岡市街地域」(MPI:055045 の1地点)、Aは,「高岡 伏
木」(MPI:055045 及び 080091 の2地点)となっていること.
(3) MPI参照: (2)に対応して,@は,「高岡地域90.11‐市街地」だが、Aは,
「高岡地域90.11‐市街地 伏木地域90.11‐市街地」となっていること.
(4) 必要兵力: @は,「2個群団」,Aは,2地点にそれぞれ「58航空団 2個群団」
となっていること.
(5) 航路 Aには,「目標」の次行に「北緯36゜55´ 東経137゜15´ (伏木攻
撃の場合のみ)」の記載があること.
(6) パスファインダー @の記載に比べて,Aは,簡略な表現になっていること.
(7) 特別の指示と情報 Aだけにあり,「霧及び上昇暖気流を避けること.伏木市街地
への最初の攻撃は,他の攻撃機群と15分の間隔をおいて行われること.」と記されてい
ること.
(なお,<フラグ・プラン>の性質上,「(航路の)目標までの途上」,「爆弾の搭載」,「時間の調整」については,いずれも「追って示す」となっている.)
5.追加された目標‐「伏木」
これらの“修正”点は,(6)を除けばいずれも,爆撃目標として「伏木」があとから追加されたことに由来する。「高岡」と「伏木」は、直線距離にして僅か7キロメートルほどしか離れていない.しかも,「港」には機雷を投下したものの,伏木地区(新湊を含む)の陸上には,港湾施設に加えて大小9つの軍需工場と港町として栄えた住宅地が無傷のまま残っていたのである.
上記(2)について,Aに記された2つのMPIはどこだろうか.(工藤氏にお尋ねしたところ,高岡・伏木地域のリトモザイクはまだ見つかっていないとのことだったので、地図を手がかりに考えてみる.)<プラン>Aに、「目標 北緯36゜44´
東経137゜01´」(注:これは高岡市を示す)とあること,及び「空襲目標情報」に,「伏木港」の位置として「北緯36゜47´ 東経137゜04´」とあることから、地図によってそのエリアを探すと,MPIにふさわしい地点として,高岡については「国鉄高岡駅」または「高岡古城公園」、伏木については「国鉄伏木駅」(「小矢部川河口(=伏木港)」・「日本鋼管」などもこのエリアには入るが,そこをMPIとすると<半数必中界>または<確立誤差円>の約半分が海上ということになる.<プラン>には「伏木地域-市街地」とあることも考慮する必要がある.)が想定される。
次に,「必要兵力」について,Aでは2地区各々に「58航空軍 2個群団」と記され,@から倍増されている。1群団は45機のB29による編成なので「2群団=90機」となるが、奥住氏著『中小都市空襲』によれば,中小都市空襲における「(「第13回=全機出撃・最大努力」を除く)標準的な回」の「出撃率」は「76%」とのことなので、それを掛けると「68〜69機」という数字が得られる。つまり,高岡・伏木両地区への爆撃を「通常兵力」で行うとして,2地区にそれぞれ約70機のB29を出撃させる予定だったことになる。ついでに言えば,「標準的な回」の場合は1機のB29が約6.8米dの焼夷弾を搭載したとされており、高岡・伏木にはそれぞれ約465米d(2地区合計900d余り)を投下する予定だったという計算になる。(ちなみに,富山大空襲は「第13回=最大努力」で、出撃機182機,攻撃機173(+1)機,投下弾量1465.5米dだった.)
「航路」と「特別の指示と情報」も興味深い.「北緯36゜55´ 東経137゜15´(伏木攻撃の場合のみ)」とあるその地点は、伏木の東北東約22キロメートル、富山市の真北の富山湾のほぼ中央にあたる.つまり,「伏木市街地への最初の攻撃は,他の攻撃機群と15分の間隔をおいて行われる」と指示された伏木への攻撃機群は、爆撃行程の途中でやや左にそれて伏木を攻撃後,そのまま直進したのちに向きを変え,高岡を攻撃した機群のあとを追って合流し帰途につくよう計画されていたことが伺える。恐らく,空中での衝突や接触を避けるためだったのだろう.
6.「高岡・伏木空襲」を仮想する
あくまで仮定の問題だが,もし日本の戦争指導者による敗戦の決断がさらに遅れ,8月15日に敗戦を迎えていなかったら,高岡・伏木はどのように空襲されたのだろうか。
<フラグ・プラン>作成からの空襲実行までの日数は,筆者が知る限りでは「富山−12日,水戸−11日,長岡−7日,八王子−2日」(奥住氏著・前掲書から),「八幡(北九州)−23日」(奥住・工藤両氏訳・編
前掲書)などとなっており,また,中小都市空襲はほぼ4日に1回4都市同時に行われ、最後の「第16回」は8/14〜15なので,それ以後は8/18,8/22頃に予定されたと推測すれば,高岡・伏木は,その頃か遅くとも8月中には空襲されただろうとの仮想が成り立つ.
被害はどうだったろうか.これもまったくの仮想でしかないが,空襲を受けた57の中小都市の事例から推測すると,高岡では,<半数必中界>に入る旧市街中心部(中川,本町,川原町,博労本町,寺町などに囲まれる地域)一帯が焼失し,死者は少なくとも数百〜一千人に達しただろう。伏木では,市街地がほぼ全滅し,港湾施設や工場群もほぼ破壊され、少なくとも数百人が殺されただろう.瑞龍寺・勝興寺などの名刹が灰燼に帰しただろうことも疑いがない.
高岡・伏木への空襲計画は,確かに存在した.ただ,その実行には至らなかっただけだ。しかし,だからといって「8月15日に戦争が終わってよかった」ということには決してならないことを最後に強調しておきたい.
富山県内の<POW(俘虜収容所)>について
2004.6
富山大空襲を語り継ぐ会 和田雄二郎
2004.7
『空襲通信』 第6号
以下の原稿は、2003年夏の「全国大会」に先立つ「米軍資料研究会」で報告したものに訂正・加筆したものである。その要点は、小生の「報告」の誤りを、その後、緻密かつ詳細な研究を進められた工藤洋三氏によって、訂正して頂いたことにある。なお、今後の参考のために、「報告」の誤りの部分は、二重抹消線で“見せ消ち”にし、訂正・加筆分は、太字にして点線で囲むことにした。<調査・研究>には、徹底的な科学性・合理性が必要で、安易な想像や推測は排除すべきことを肝に銘じさせられたからである。(2004.5.31)
昨年(=2002年)の初秋、福林徹氏から「富山県内の<POW>について」の調査依頼があり、いろいろ調べてみる内に壁にぶつかり、雑用の多忙にも追われて、その内に、その内にと思っている間に今年(=2003年)の全国大会が目前に迫った。これ以上延ばすことは許されないので、とりあえずこれまで調べたことをまとめてみた。ただ、最大の心残りは、現地探訪・調査がついにできなかったことだ。これも「その内に」と言うことで、ご勘弁いただきたい。
★参考にした資料
*「大日本帝国内地俘虜収容所」(茶園義男編・解説) 福林徹氏提供 ……… A
*CD−ROM<POW>(捕虜収容所写真・作戦任務報告書等を含む)
工藤洋三氏作成・提供 ……… B
*「GHQ/SCAP法務局調査課報告書・抜粋(コピー)」 福林氏提供 ……… C
*「東岩瀬の心を読む−富岩運河への道を語る−」(犬島肇著) ……… D
*「萩浦郷土史」(注:「萩浦」は、富山市岩瀬地区の地名) ……… E
*「伏木港史」 ……… F
*その他
★富山県内の6箇所の<POW>の概要
以下の記載は、各収容所(T〜Y)ごとに、@<A>の記載、Aこれに対応する<B>所収のデータ、B<C>所載の説明(報告)、Cその所在地に関する考察、からなっている。@〜Bに添えられた「注」は、筆者による。
T 名古屋俘虜収容所第6分所
@ 所在地:富山県高岡市能町 収容人員:286名
分所(注:「派遣労務先」のことと考えるべき):北海電化工業(注:現在・日本重化学工業)伏木工場 東京収容所第21分所として、昭和19年9月8日開設、昭和20年4月7日名古屋収容所の分所に移管。
A <TMRe>No.51(3646N-13703E)
<TMRphoto>,<photo>,共になし。
B 「高岡市能町の製錬工場の近くにあり、捕虜は300〜400メートル歩いて工場(注:これは「能町工場」と思われる)へ通った。2マイルほど離れた伏木の工場へ行く捕虜は、近くの川まで7分ほど歩き、そこから船に5分ほど乗った。収容所の建物は木造瓦葺きで、1945年12月にイモを乾燥させている時火事で焼失した。」
所在地=[NO-machi 2365]とある。
C
跡地を特定できない。
Bの記述からすると、収容所の位置が能町地区北部との推測はできる。しかし「伏木の工場」とはどこなのかとの疑問が生じる。この点について、中山伊佐男氏の調査では、「(能町工場で働かされた捕虜達は、電気炉の清掃、原材料の運搬に従事したが)ときには、同社の「伏木工場」にも駆り出されたといいます。」という。また、<F>には、「昭和十九年八月からアメリカ合衆国人、イギリス人、ギリシァ人の捕虜が二九四名、伏木港で働いていた。」「捕虜は当時の北海電化(日本重化学工業)能町工場でも、三百数十名働いており、…」とある。あるいは、後述の<第10分所>との混同があるか。ひょっとしたらこの二つの収容所は近接していたかもしれない。
さらに気になるのは、Bの最後の「1945年12月に…火事で焼失した。」との記
述だ。捕虜の帰国は45年9月頃であるのに、なぜ「12月」のことが記されているのか。これがもし「1944年」の誤記だとすると…?
U 同 第7分所
@ 所在地:富山県富山市新町(注:「下新」の誤記) 収容人員:195名
分所(同上):日本曹達富山製鋼所(注:現在・太平洋製鋼) 昭和20年5月28日開設。
A <TMR>には、報告文書・写真共に見当たらないが、<TMRphoto1〉(p.4)がそれだと、工藤氏からご教示頂いた。工藤氏が発見された「目標の、日曹製鋼近くの運河脇でパンプキンが爆発した瞬間を写した航空写真」に写っている。
B 「工場から300メートルほどの所にある。工場は富山市の中心から1マイルほどの所にある。8月1日の空襲では無事だったが、7月20日の単機による爆撃で、収容所から75メートルほどの所に爆弾が落ちて相当の被害を受け、10〜20人の捕虜が負傷した。7月26日にも単機による爆撃があったが、爆弾は少し離れていたので、建物が揺れた程度だった。」
C
パンプキン爆発の瞬間を写した写真の、爆発地点の下方(南側)に白っぽい長方形のエリアがあるのが、それ。現在は、「下新西町」(「富山製紙KK」敷地。)
「パンプキンの投下で、運河対岸の農家が焼け、大島橋(落下地点よりやや上流の橋)の一部が爆風で壊れ、通行不能となった。収容所の建物は、今の『富山製紙』の敷地にあり、工場まで5分の所を、牛歩戦術で、途中乏しい配給の食糧を補うためにと蛙を捕ったりして30分以上もかかったという。建物は終戦後、『富山製紙』が利用していた。」(会員・成瀬武さん)「収容所は、敗戦の年の五、六月頃に、運河左岸の下新橋付近にできた。煉瓦運搬などの仕事をしていた。医師の父は彼らとの接触もあったが、『怪我しても痛いとも言わず、我慢強い連中だ』と言っていた。日本人工員も比較的寛大で、看守の目を盗んで煙草を与えたりしたという。パンプキンが落ちた時、彼らは『5トン爆弾だろう』と言っていたそうだ。敗戦直後、収容所の屋根に<POW>と書かれた。その翌年、捕虜の隊長だったスタッブ大佐が富山を訪れ、『捕虜への厚遇に感謝』して会社幹部や私の父を市内の料亭に招いてくれた。」(「会」代表幹事・田中悌夫さん)
別紙地図Fの地点。 A はパンプキン着弾地点。
V 同 第8分所
@ 所在地:富山県富山市下奥井町 収容人員:300名
分所(同上):立山市(注:「重」の誤記)工業(注:現在は、富山化学・北陸電力総合研究所・富山ろう学校などがある。) 昭和20年5月10日開設。
A <TMRe>No.5(3643N-13714E)[9/2]&
No.36(3642N-13714E)[9/8], <TMRphoto1.pdf>(p.6)[9/2]&(p.21)[9/8]
B 「立山重工の所有地内にある。10年ほど前に建てられた従業員用の宿舎を利用した。8月1日の空襲では無事だった。」
C
何枚かの<TMRphoto>には、数棟の<PW>が写っており、当時「立山重工」敷地内北部(現在の「富山ろう学校」辺りか)にあったと思われる。 別紙地図Gの地点。
なお、「戦後、この<POW>付近の農家に、米軍小型戦闘機(グラマン?)が墜落する事件があった」(前出・田中悌夫さんの他にも2〜3人)あり、マリアナの航空軍(B29)以外による「補給作戦」もあったのではないかとの疑問がある。
W 同 第9分所
@ 所在地:富山県富山市東岩瀬町 収容人員:350名
分所(同上):日本通運岩瀬支店(注:現在・同富山港支店)昭和20年5月23日開設。
A <TMRe>No.35(3644N-13714E),<TMRphoto1.pdf>(p.20) [9/8]
B (ハナフサヨシタロウという人物の罪状調査の事が書いてありました。)
C <TMRphoto>による判定(鉄道引込み線が手がかり)から、現在の「岩瀬池田町」(「北部斎場」・「環境センター」辺り)にあったと思われる。
別紙地図Hの地点。
工藤氏は、かねてこの見解に疑問を呈しておられたが、「1947年11月13日(戦後)に米軍が撮影した航空写真(注:国土地理院にある)を入手、照合してみた結果、」小生の推測より、ほぼ南南西約500メートルの地点であることを突き止められた。神通川に架かる萩浦橋を東進し、岩瀬街道にぶつかる地点のすぐ東方にあたり、現在の森若町か高畠町の辺りと思われる。となると、別紙地図のパンプキン着弾地点(C)にいっそう至近の距離になる。(地図には、判明位置を、新たにHと書き込んでおいた。)なおこの点については、その後地元の人からも確認が取れている。
<E>には「岸壁の近くで石炭を下ろしたりしている捕虜の人たちを見た。…戦争が終って間もなく、米軍の小型飛行機が急降下して…捕虜のいるところへ袋を落としたみたいだった…」(東キミ談) とある。
X 同 第10分所
@ 所在地:富山県高岡市 収容人員:294名 昭和20年6月18日開設。
分所(同上):伏木海陸運送
A <TMRe>No.3(3644N-13703E)[9/4],<TMRphoto1.pdf>(p.4)
B 「高岡市能町の能町駅から100メートルほどの所にある。元日本海練炭製造株式会社所有の建物で、伏木海陸運送に貸した。捕虜は船や貨車やトラックの積み降ろし作業に従事した。」
所在地=[NO-machi,TATENO-UE]とある。
C <F>には「捕虜収容所は国鉄能町駅前付近にあって、名古屋俘虜収容所第一〇分隊と呼ばれていた。」とある。また前出の中山氏の調査では「『伏木海陸運送』では294名の捕虜が伏木港での荷役(石炭、大豆などの荷揚げ)に従事。栄養失調で5名の捕虜が死亡。当時の所長はBC級戦犯で懲役8年の判決。」とある。
なお、「(伏木港付近で)戦後、米軍機から投下された補給物資の中から、捕虜が、お菓子の類をくれて、家に持って帰ったら『毒が入っているかも…』と親に叱られ、捨てさせられた」という体験者の証言がある。
ところで、この収容所の写真(<TMRphoto1>(p.4)と、建物の形などが酷似した写真が、偶然発見された(別紙写真2葉参照)。これは前掲書<F>の巻頭にグラビア写真として折込まれている。伏木港に注ぐ小矢部川右岸のかなり広い一角がそれで、ここは「日本鋼管富山製造所」(現在新港市庄西町)の敷地。この工場について<F>には、「…北海電化と同じように基礎部門生産工場である日本鋼管の合金鉄、鋼塊製造工場や、…は戦時中、軍需工場として活況をていしていたが、昭和二〇年になると原料不足で、いずれも急激に操業が低下した。」とあり、PWへの転用は容易だったと考えられるし、伏木港にも至近距離だ。
今ひとつは、この収容所についての<TMRe>の説明に「木製の塀で囲まれた、長方形のキャンプ。長い兵舎型建物が、キャンプ全体の長さにわたって伸び、…2棟の、より小さい建物がキャンプ地の両端にある。大きな監視塔が、門の近くに見える。」とあることで、日本鋼管の建物配置とよく似ている。
そこで推測されることは、「第10分所」は、「能町」から、労務先の「伏木港」に近い「日本鋼管」へ移設されたのではないか、ということだ。
あるいは、「移設」は、「第10分所」ではなく、「第6分所」かもしれない。ここの捕虜も「伏木港」で働かされていたとの記述もあり、またTで触れたように、「火事」のためにやむなく「移設」を余儀なくされた(但しその場合は、(1945年)が「1944年」の誤記ということが前提になるが…。)
Y 同 第11分所
@ 所在地:富山県富山市西ノ宮 収容人員:148名 昭和20年5月28日開設。
分所(同上):日本曹達岩瀬製鋼所(注:後に、太平洋金属。現在・太平洋ランダム)
A <TMRe>、見当たらず。<TMRphoto2.pdf>(p.43)(3642N-13714E)
[9/7]([Camp
Shanghai Target 292]とある。)
B 「富山市の中心から4マイルほどの製鋼工場の所有地内にある。8月1日の空襲で
は無事だったが、7月26日(注:「20日」の誤記)の単機による爆撃(注:パンプキン投下)で収容所から150〜200メートルほどの所に爆弾が落ちて被害を受けた。
所在地=[TOYAMA-shi,NISHINOMIYA
OHIROTA-mori]とある。
C Aのphotoから推定すると、現在の「森」、または「森住町」辺りと思われる。別紙地図Jの地点。C は、パンプキン着弾地点。
「森に、数棟の住まいがあって中には二段ベッドが並んでいたようだ。100人以上の人がいたらしく、太平洋金属で働いていた。」(遠藤正一談。<E>)「ある日、岩瀬日曹工場構内裏で、私たち児童が薩摩芋作りのため、捕虜とすれ違ったとき、道端で捕虜達が草を抜いて食べていたのに驚いた。…当時、大広田に捕虜の宿舎があった。」(会員・毛利保さん)
なお、<D>には、岩瀬地区に二箇所も<POW>があったことについて、昭和初期「富岩運河」の完成と共に、その沿岸に工場用地が造成され、日本海ドック、日曹富山・岩瀬両工場、日満アルミ(後の昭和電工)、などの大工場が建設されたことと併せて、岩瀬の旧家・米田家の別荘であった「『静嘉亭』は、昭和電工の手に渡り、『愛日荘』となった。それはあたかも接収同様の措置だった。この美しい建物が、軍人たちの倶楽部としても使われたとの証言がある。この附近には、碧眼紅毛の兵士たちの捕虜収容所が二ヶ所建設されたことも、ここに軍人たちが倶楽部を持つりゆうだったかもしれない。」とある。
終わりに
以上の考察で、疑問が三点生じる。@一つは、Xに記したように、<第6分所>及び<第10分所>の所在地については、不明であること、A今ひとつは、<POW><第7分所>・<第9分所>・<第11分所>(何れも富山市北部工業地帯)と、パンプキン落下地点とがあまりにも至近距離にあることだ。捕虜への補給作戦に関する米軍文書(翻訳)によると、戦争末期に<POW>が多く太平洋岸から日本海岸に移動した実態を、米軍はほとんど把握していなかったことが伺えるので、パンプキンの投下に関しては<POW>の存在は念頭になかったのではないか。Bさらに、「補給作戦」について、マリアナ基地からのB29によるものの他に、例えば沖縄の基地、或いは太平洋沿岸の空母からの、小型戦闘機等による「作戦」がなかったのか、との三点だ。当研究会で何らかの示唆が得られればうれしい。
なお、最近富山の「会」で、会員の一人が1945年当時、富山市への「敵機来襲日及び時間」を克明にメモしていたものが、資料として提供された。2月25日から8月15日まで、43回の、日時・機数が、自らの耳目及びラジオで報じられた「東部軍管区情報」による記録として残されている。本題とは関係がないが、諸賢の研究によってこの「メモ」の正確さが証明されれば、嬉しい限りである。(2004.5.31)