「富山大空襲」とは?

                      2013.8.13 更新

「富山大空襲」の概要     富山大空襲を語り継ぐ会 2012.9.26補訂

 

1.「富山大空襲」までの経過

1931年   日本軍、中国東北部侵略開始(「満州事変」) ―「アジア・太平洋戦争」の始まり

  1937年     ドイツ空軍、ゲルニカ(スペイン)を無差別爆撃

日本軍、中国本土に侵略(「日中戦争」)

1939年           ドイツ軍、ポーランドを侵略.  第二次世界大戦始まる

日本軍、重慶(中華民国臨時首都)を無差別爆撃(〜41年)

1941年6月 米陸軍航空軍、「超長距離重爆撃機」として、ボーイング社に<B29>250機を発注

     12月 「太平洋戦争」始まる.さらに250機を追加発注

  1944年7〜8月 米軍、マリアナ諸島(サイパン、グアム、テニアン3島)を占領.直ちに五箇所

に飛行場建設.<B29>を順次配備(最終的に約1千機)

     11月 マリアナから東京を初空襲. 以後45年2月まで航空機発動機工場を精密爆撃[日本本土空襲・第一期]

  1945年3月 東京大空襲を皮切りに同年6月まで大都市人口密集地域への夜間無差別焼夷弾攻

(7都市を焼く)[第二期] 

      6月  沖縄戦終結.米軍、沖縄を占領

地方中小都市空襲開始(4都市同時、人口密集区域への夜間無差別焼夷弾攻撃.16回で富山を含め57都市を焼く)[第三期]

      8月2日  富山大空襲(長岡・水戸・八王子と共に、第13回.「祝賀大爆撃」)

           8月6日 広島に原爆投下  9日 長崎に原爆投下、ソ連が対日参戦  15日 日本敗戦 

2.「富山大空襲」のおもな内容

 (1) 死者推定3千人、負傷者約8千人――全国平均を大きく上回る

   ☆人口1千人当り、死者約18〜19人(全国平均8.7人).負傷者約47人(全国平均13.3人).

   ☆死亡の原因は、@焼死、A蒸し焼きまたは窒息(一酸化炭素中毒)、B焼夷弾直撃.

   ☆負傷者の内訳 重傷1千9百人.軽傷6千人.

★富山市の発表では、死者2千7百数十人(内訳:男約1千人、女約1千7百人).

    この数字は、1946年(空襲の翌年)夏に、市が、町内会長に指示して作成した「富山市戦災死者名簿」による.市は、「会」の要請を受けて、1995年以降「名簿」の再整備事業を始めたが、@死者の内、姓名共に明らかな者は約1千9百人に過ぎず、「名」が不明なものが8百人以上いる、A姓名の重複記載と思われるものが約百件ある、などの重大な不備がある上、何より重大なのは、「名簿」に記載漏れ(県外からの疎開者、市外から転勤・出張・勤労動員・入院・入営などのために仮に市内に居住していた人達は、ほとんど町内会長には把握されていなかった)がたくさんあると思われることだ.そのため「会」では、『死者推定3千人』としている.

(2) 「市街地爆撃目標区域」の、99.5%を焼失――全国一の“焼夷率”

  ☆焼失面積 約13.8平方キロメートル.

  ☆被災世帯 2万4914戸  同人数 109,592人.(人口:約16万人) 

(3) 174機のB29が、富山を襲った

  ☆中小都市空襲の第13回として676機が出撃、富山・長岡・水戸・八王子の4都市を同時攻撃。

  ☆富山を攻撃したのは、サイパン島・アイズリー飛行場配備の第73航空団所属の190機中173機(出撃は182機.これに他航空団の1機を加え、計174機).(通常の出撃率は、76%).

  ☆8月1日は米陸軍航空軍の第38回創立記念日だとして、この日の爆撃は「最大努力」と指示され、1機あたりの爆弾積載量は7.6米トン(通常は、6.7米トン)、富山には8.4米トンに及んだ.

(4) 東京大空襲に匹敵する大量の焼夷弾を投下――畳16枚に1発(中心地では1枚に1発)の割合

  ☆投下された焼夷弾の数と量  12,740個(他に照明弾41個)  1,465.5米トン

  ★投下された焼夷弾の種類と個数・分量

  @M17A1・500ポンドI.C.(集束焼夷弾)      4,525個  1,131.2米トン

    1個の中に「M50-4#(約1.7kg)テルミット・マグネシウム焼夷弾」が110本束ねられている.従って、換算すると 4,525×110=497,750発の小型焼夷弾が投下されたことになる。「テルミット」は、アルミニウムと酸化鉄の粉末の等量混合物.

AM19(E46) ・500ポンドI.C.(集束ナパーム焼夷弾) 300個   60.0米トン

  1個の中に「M69-6#(約2.8s)ナパーム焼夷弾」が38本集束されている.従って、換算すると、300×38=11,400発の小型焼夷弾が落下したことになる.

 *日本本土空襲に主に使用された焼夷弾の主力は、この<M19>のほう.

    BM47A2・100ポンドI.B.(ナパーム焼夷弾)    7,828個   269.9米トン

   CM47A2・100ポンド W.P.(上記+黄燐)           87個       4.4 米トン

    明弾                               41個      ―――   

    計                               12,740個  1,465.5米トン

      ★投下された焼夷弾の総数は、51万7千発余りになる.富山市の中心市街地には畳1枚に1発という計算になる。投下弾量は、3/10の東京大空襲の1665米トンより200米トン少ないだけだ.

(5) 焼夷弾投下は、8月2日午前0時36分から、111分間 

   ☆初弾投下時刻  8月2日午前0時36分  最終弾投下時刻  同2時27分  111分間

 (6) 「爆撃中心点」は、富山城址公園の南東の隅(現在の交差点中心辺り)

   ★高空から撮影した写真を張り合わせた集成図を作り、石版印刷したもの(リトモザイク)に人口密集区域を線引きし.半径4千フィートの円(確率誤差円 または 半数必中界)を描き、投下した焼夷弾の40〜50%がその円内に落ちると計算した.その円の中心が、爆撃中心点(MPI).

 (7) 7月31日夜に、「リーフレット心理作戦」の空襲予告ビラが撒かれた  

  ☆12都市の名を記し、「その都市にある軍事施設を爆撃する.が、爆弾には眼がないのでどこに落ちるか分からぬから、避難せよ」と記してあった.富山市に撒かれたのは、第2回のもので、「高岡」も記されている.(「高岡・伏木市街地」への「個別戦闘計画(フラグ・プラン)」がすでに作成ずみ.)

(8) 富山大空襲の被害を大きくした理由   

  @(2-(3)に記したように)「最大努力」の指示により、通常より多い最大限の出撃機数と爆弾搭載弾量をもって攻撃した.

*「最大努力」の指示は、合衆国陸軍戦略航空軍司令部から出されている.―「全軍が8月1日(=米国

陸軍航空軍創立記念日)に、われわれに動員できる最大の航空兵力を以て、日本を空襲することを

命じる.」

   A富山県・市とも、市民に対して具体的な避難(疎開)の指示を出さず、市民を見殺しにした.

 *同時に空襲を受けた水戸(茨城県)・八王子(東京都)両市では、「老幼女性など弱い者の退避計画を

立て」たり、「空襲への準備と老幼病人妊婦の避難が指示された」りした。

  B「逃げずに踏み止まって、消火せよ」との指示によって、避難が阻止された.

       *火たたき・バケツリレーなどによる「防火演習」がしばしば行われ、空襲の際には、避難する道路に、警防団・警察・憲兵などが立ち、「戻って火を消せ」、「非国民!」などと、避難を押し止めた. 

   《注 ほかの3市の死者/人口 長岡:1476/約6.7万 水戸:304/6.6万 八王子:455/7.8万》

C空襲警報が一旦解除され、安心したところを襲われた.

   *当夜午後9時頃空襲警報が発令され、長岡へ向かうB29約125機が、午後10時過ぎから1時間余りにわたって富山市上空を通過したが、投弾せず、やがて空襲警報が解除されたので、市民は「今夜はもう大丈夫」と就寝したところを攻撃され、いわば“寝こみを襲われた”格好になった.  

 

パンプキン(模擬原爆)投下作戦    2013..21 

 

 あの戦争の末期、アメリカは日本に「原子爆弾」を投下する計画をすすめていました。投下予定地として、京都・広島・小倉・新潟の4都市(のちに政治的理由から京都がはずされ、長崎が加えられました)が選定されました。

 「原子爆弾」は、1発だけを高度約1万メートルから目視によって目標地点に正確に投下しなければならないので、そのリハーサル(予行演習)を行なう必要がありました。

 そこで、長崎に投下予定の「プルトニウム型爆弾」(通称:ファットマン[ふとっちょ])と同型の爆弾(形と色が似ていたので「パンプキン[かぼちゃ]」と呼ばれた)に、TNT火薬4.5トンを詰めて、目標地の近辺に投下する訓練を行ないました。

 目標には大工場などが選ばれ、爆弾の重さと形、飛行方法、目標への高々度での接近と投下高度、レーダーによらず目視による投下など、原爆投下とまったく同じ状況を想定して行なわれました。

  

 新潟を目標にしてのリハーサルは、新潟・福島・富山各県の大工場など10箇所が「第一目標」に設定されました。

ここで注意すべきことは、いずれの場合にも「第二目標」として、「(京都、新潟、広島、小倉を除き、)臨機の、任意の市街地目標の中心」が指定されていたことです。

 

1945年7月20日の朝、富山市北部に3機のB29が飛来し、3発の「パンプキン」を投下しました。

   目標工場        実際の着弾地         被害      

不二越製鋼東岩瀬工場     富山市中田    (集落の家屋損壊、死者1人)

 日満アルミニウム富山工場   富山市森     死者47人、負傷者40人以上

 日本曹達富山製鋼所      富山市下新    (家屋損傷、米軍捕虜負傷)

 いずれも目標をはずれ、被害を与えることはできませんでしたが、森地区に投下された1発が、徴用されて工場建設作業に従事していた朝鮮人労働者の飯場を直撃し、多数の犠牲者を出しました。

 20日のリハーサルが、雲が多かったこともあって不満足な結果に終わったため、米軍は、26日に再度の攻撃を指示しました。今度は、1目標に対して2機(富山の3目標に6機)を参加させました。

 しかしこの日はさらに雲が多く、富山に投弾したのは1機‐1発だけでしたが、これが住宅地に落ち、大きな犠牲者を出しました。

   目標工場        実際の着弾地         被害      

 日満アルミニウム富山工場   富山市豊田    死者16人、負傷者40人以上

 残りの5機は「第一目標」を確認できず、「第二目標」(任意の市街地)に向かい、焼津・島田・浜松・名古屋・大阪の市街地に投弾しました。機体を“身軽”にして基地へ帰るために、本土を離れる前に太平洋側の市街地に投弾したのです。

 富山市には、合計4発のパンプキンが落とされたのでした、

 模擬原爆(パンプキン)は、全国各地に49発投下され、400人以上の死者を出しました。これらの「パンプキン」投下は、まぎれもなくヒロシマ・ナガサキへの原子爆弾投下に直接につながっています。

 

「防空壕へ入ったものは過半以上焼死 何も役にならず危険々々」          

                  ――杉山與作氏の「富山空襲の体験を綴った書簡」寄贈受ける

 大学時代の友人、杉山京介氏から、空襲当時富山市に住んでおられた同氏の祖父、杉山與作氏の「昭年8月富山戦災当時の空襲体験を綴っ

た『書簡』」のコピーをお送りいただきました。 杉山與作氏は、当時76歳、富山市西中野町に住み、警察官と刑事を35年間務めた後、銀

行頭取・田邉家の執事を務めておいででした。

この「書簡」は、当時京都に住んでおられた與作氏の三男・産七氏(当時43歳、のち京都大学教授)からの戦災見舞いに対する礼状で、紙がないので産七氏の長女・苳子(ふきこ)さん(当時13歳)からの手紙の裏に書かれていたものを、後年、産七氏がノートに清書されていた由で、昨年、京介氏が産七氏の遺品整理中にこのノートを見つけられたそうです。戦後長らく経ってから記された体験記は多くありますが、空襲を体験した直後に綴られたものはあまりなく、その点でも貴重なものです。

なお、杉山産七氏は、旧制富山中学・金沢四高時代、大島文雄・中井精一・中野重治氏らと共に、文芸雑誌『ふるさと』・『裸像』の同人として活躍された方で、その後、東京大学に進学、関東大震災後京都大学に転学し、富山を離れられました。

杉山京介氏(76歳)は、産七氏の次男に当たります。書簡の原文には、当時の習慣として送り仮名や濁点、句読点などが付されていない所が多くあり、また誤字・脱字なども少々見受けられますが、できるだけ原文のまま入力し、明らかに誤記と思われる所だけ、 【 】のように訂正しました。 また原文では改行されている箇所を編集のつごうで詰めた所があります。(和田)


 

《杉山産七氏「清書」前書き  昭和二十年九月四日付 ペン書、杉山苳子ガ戦災見舞ノ手紙ヲ二枚ノ原稿二送ッタモノノ裏ニ鉛筆デ美シク正シイけいヲ引キタルモノニ、二段ペン書。

 

《書簡 本文》

拝啓 諸虫か鳴き始めまして身体の維持が能くなりました 皆々様益々御元気の報に接しまして安神いたすと共に御祝申上ます 折々 御手紙 御親切に被下まして御厚情の程 深く御挨拶申上ます

此度戦災に際し 御見舞に接しまして何共申訳ありませぬ 御親切にも多大なる御見舞金あり、昨日(三日)の午前十畤配達あり 即時受取に行きまして 多大なる額にありましたから 自分左の方法て処置分配しましたのて御承知下さい 厚く御礼申上けます 彼等も一同喜ひ 何れ御礼状差上けますと思います

司七(注 與作氏の長男)は 東京の戰災受けてゐるのて(富山は家族てある)別に彼れに三十円 牧野さわ(注 與作氏の長女 当時54歳))に三十円 残額四十円は自分か受領することに處分し夫々配分済

以上謝深(原文ノママ―産七氏注)々々 御挨拶申上けます。

先は御挨拶まで      九月四日                           杉山與作                                   

 産 七 殿  かをる 殿(注 産七氏夫人)

此程苳子は御親切に見舞状被下 御親情の程深く御礼申上けます。紙がないのて 別に礼状を出しませぬ 此紙も苳子の手紙てあります 失礼てあります                         與作

 苳子 殿                      以上

 

さて、当方は褌一巻て飛出

戦災後毎日災害の後始末て焼跡の瓦、釘、硝子くず、等整理 未た残余てある

災害後 本日始めて筆否萬年筆を採ったのて 皆焼米、豆、味噌、の配給生活 元気て 晴天には仮小屋に住み 雨天に大町南富山駅前仮住してゐます

牧野(注 前出さわの一人息子・正夫)は上瀧町へ移り 毎日電車て松井(注 どこを指すのか未詳)へ勤務通勤

以上の通り 仮住所が定りまして 御安神下さい

八月中旬位に油断ならぬと思ふてゐたのか一日午后九時頃県广附近へドンと一発投下するや火光(先(?)産七氏注)を上けたのてこれを見止めるため単衣一枚にハダシて前へ出たのか 後へ々々焼夷弾か下るのて 

家へ帰ること出来す 田ぽへ歩(注 「走」か)り又クルリへ落ち(る)のてドン々上へ歩(注 同前)りスルト 小泉、太郎丸 中野新町 根塚、磯部中央、新庄方面 梅沢(町)等各方面へ一齊に火光を上けて未

明まてに野原に化した 自分は未明 家に戻り 家族一同は手を執り家の附近にゐて、すきに家具を田ぽへ投げ出し多少の品物を得たのて、自分は前へ出たのか不運てあった 

富山中学校前から西町まてに焼残の家は二、三戸しかない 全部全焼、半焼の家もない 土蔵もないと云ふ有様

壕の待避所へ入って免かれんとしたものハ過半以上焼死 何も役にならす危険々々 

自分附近て老、病者四名災死、中野新町ブリキ屋老人六十(才)以上、木谷の老母病人、自家西三軒玉生母老人、古宮(注 西中野に今もある鉱泉)附近大丸(注 宮市大丸 現在の大和百貨店の前身 西町交差点にあった)商店員大丸て各死亡 牛島病院の家族全部行方不明(六、七名) 富山の真中に半焼て残ってゐるものは 大丸の建物、但し屋根はない、其外に焼残りのものはない

中等学校、国民【学】校、警察署、市役所 警(刑?―産七氏注)務所、【裁】判所、税務【署】、会議所 郵便局、銀行、会社 電気会社 以上全部焼失 市中に電柱一本もない

焼失戸数 二万二千六百戸  死 者  千九百四十三名  以上は八月三十一日現在

中井(会社員の母)母も戦災死(註、中井精一君又ハ中井敏雄ノ母ノコトテアル)自分は宅の前を通ったさい 一寸弔問 しかし全戸不在 雇員は焼跡始末に従事してゐたのて其旨通して下さいと申してきた

以上くだらないこと 文面は前後し文字に誤りあり 能くつづて読み下さい 久し振て筆を執ったのて 手がビリビリふるへ 書けない

次に 寝具 夜具 ふとん 自分等の分二人前 下流の分て新調出来ぬものか 如何 古手てもよろし 若し出来得ると也は 値段は何程、高價てもよろし 富山ては求める事不能 一寸調へて一報を願ます 運送料も高くもかまわぬ 金は充分あり 急くにあらす 十一月迄に出来れば良し 暇の際 調て見て下さい 御願します    以上

 

             

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