| 1926 0歳 |
9月23日 |
ノース・カロライナ州、ハムレットでジョン・ウィリアム・コルトレーン生まれる。父ジョン・ロバート・コルトレーンは服の仕立て兼ドライ・クリーニング業を営み、音楽好きで、ヴァイオリンとウクレレを趣味で弾いていた。母アリス・ガートルード・ブレア(旧姓)は歌がうまく、オペラ歌手を志望したこともあり、リヴィングストン・カレッジでは音楽と教育学を学んだ。帰省した折りには父ブレア牧師の教会で、聖歌隊をピアノで伴奏することもあった。2人の祖父はどちらもアフリカン・メソジスト・エピスコパル・シオン(AMEZ)教会の牧師だった。 |
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この年の終わり頃、ノース・カロライナ州、ハイ・ポイントに移住。母方の祖父ウィリアム・W・ブレア牧師宅に同居。 |
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| 1932 6歳 |
9月 |
レナード・ストリート小学校に入学(7年制)。この小学校は祖父ブレア牧師がその設立に尽力し、同牧師が指導した(∼1923)聖スティーヴンAMEシオン教会に隣接して建てられていた。 |
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この頃(1932或いは1933)、従妹のメアリ、両親と共に祖父ブレア牧師宅に同居し始める。以降コルトレーンとは兄妹のようにして育つ。 |
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| 1938 12歳 |
12月11日 |
母方の祖父ブレア牧師大葉性肺炎で没(79歳)。 |
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| 1939 13歳 |
1月2日 |
父ジョン・ロバート・コルトレーン胃癌により没(37,8歳)。 |
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4月26日 |
母方の祖母アリス乳癌により没(79歳)。 |
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6月1日 |
レナード・ストリート小学校卒業。 |
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9月 |
ウィリアム・ペン・ハイ・スクール入学。 |
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初秋 |
当時聖スティーヴンAMEシオン教会のパート・タイマーだったウォーレン・B・スティール氏が作ったコミュニティ・バンドに入り、最初はアルト・ホルンを吹いたが、間もなくクラリネットにスウィッチ。 |
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| 1940 14歳 |
9月 |
ウィリアム・ペン・ハイ・スクールにスクール・バンドが作られ、創設メンバーの一人となり、クラリネットを吹く。 |
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10月 |
従妹メアリの父ゴラー・ライアリー没。母+息子、母+娘、の4人だけになる。 |
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| 1942 16歳 |
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ハイ・スクール・バンドの第1クラリネットとなる。 アルト・サックスを始める。 |
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| 1943 17歳 |
5月28日 |
ウィリアム・ペン・ハイ・スクール卒業。 |
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6月11日 |
友人らと共にフィラデルフィアに移住。製糖工場で働く。 |
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9月 |
17歳の誕生祝として母から中古のアルト・サックスをプレゼントされる。 |
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この頃オルンスタイン音楽学校に入学。マイク・ゲラの下で学ぶ。同校にはトランペッターのジョニー・スプローン(1957年、初リーダー・アルバム"Coltrane"で共演)、テナー・サックスのビル・バロンが在籍し、親しくなる。 |
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| 1944 18歳 |
6月 |
従妹のメアリ、フィラデルフィアに来て同じアパートに同居。 |
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この年後半、キャンベル・スープ世界本社での仕事に就く。 |
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| 1945 19歳 |
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カクテル・ラウンジのコンボで初めてプロとしての仕事をする。 |
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この頃ベニー・ゴルソンと知り合う。 |
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この年半ば頃、ジミー・ジョンソンのバンドにベニー・ゴルソン、レイ・ブライアント等と参加。 |
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6月5日 |
フィラデルフィアのアカデミー・オヴ・ミュージックで初めてチャーリー・パーカーの演奏に接し、衝撃を受ける。コンサート後ベニー・ゴルソンと楽屋を訪れてサインをもらい、数語を交わす。 |
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8月6日 |
徴兵で海軍に召集、翌日から水兵の教練開始。 |
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11月28日 |
ハワイ、オアフ島へ配属。ネイヴィー・バンドでアルト・サックスとクラリネットを吹く。 |
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| 1946 20歳 |
7月13日 |
ハワイ、オアフ島の軍ラジオ放送局で初レコーディング。日頃非公式にジャム・セッションしていた白人ネイヴィー・バンドのミュージシャン達とのプライベート録音。この時録られた8曲中、KoKo の一部がDVD 『ジョン・コルトレーンの世界』に使われ、Hot House が"The Last Giant"(Rhino)に収録された。パーカーの強い影響下にあったことを証かす貴重なドキュメント。 この時既に"Trane"と呼ばれていた。 |
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8月11日 |
除隊。フィラデルフィアに戻る。 |
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秋 |
グラノフ音楽学校に移る。デニス・サンドル、マシュー・ラステリ等によるレッスンは断続的に50年代の初めまで続けられた。 |
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9月13日 |
ビッグ・メイベルを擁したジョー・ウェッブのバンドに雇われる。47年の年初にかけて初めてのツアーを経験。ここでトランペッターのカルヴィン・マッセイに出会い、終生の友となる。 |
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| 1947 21歳 |
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キング・コラックスのバンドでリード・アルトを担当。2月から4月にかけてツアーに出る。 |
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2月19日 |
ロサンジェルスをツアー中、チャーリー・パーカーのダイアルでのレコーディングを見学。
数日後、パーカーに招かれ、レッド・カレンダー宅でジャム・セッションを行なう。この時覚えたRelaxin' At Camarilloをフィラデルフィアに帰ってからベニー・ゴルソンとビル・バロンに吹いて聴かせる。レコードはリリース前だった。 |
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この年の5月から48年の終わり頃までフリーランスとして活動するが、ジミー・ヒースのバンドでの仕事が多かった。そのかたわら、引き続きグラノフ音楽学校で学ぶ。 |
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12月7日 |
パーカー、ジミー・ヒースのバンドに客演。この時の写真が残っており、パーカーの演奏に魅惑され、短くなった煙草の火が今にも指を焼こうとしているのにも気付かぬコルトレーンの姿が背後に写っている。
同じ週の初め頃、ジミー・ヒース、マイルス・デイヴィスにコルトレーンを紹介。 |
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| 1948 22歳 |
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この年既にヘロインを使っていた。最初はスニッフィング(鼻孔吸入)だったらしい。 |
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10月 |
10月から11月にかけて、ジミー・ヒースのバンドにそのままリーダーとしてハワード・マギーを据えたビッグ・バンドに参加、ハーレムのアポロ・シアターに出演、その他シカゴ、ワシントンD.C.、デトロイト等でも公演。その後コンボに縮小した際に解雇されフィラデルフィアに戻る。 |
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11月 |
ミュージシャンズ・ユニオンでレッド・ガーランドとリハーサル中、エディ・クリーンヘッド・ヴィンソンに目を付けられてオーディションを受け、テナーにスウィッチすることを条件に雇われる。その条件に最初コルトレーンは渋ったが、既にヴィンソンと契約を交わしていたガーランドの説得もあって結局承諾。49年5月までの長期ツアーに出る。 |
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| 1949 23歳 |
5月頃 |
エディ・クリーンヘッド・ヴィンソンとエージェント間のトラブルで何人かがバンドを去り、コルトレーンもフィラデルフィアに帰る。 |
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7月25日 |
フィリー・ジョー・ジョーンズのバンドに参加。以降9月までいくつかのギグを共にする。 |
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9月16日 |
ピアニストのジェームズ・フォアマンの推薦でディジー・ガレスピー・ビッグ・バンドのリード・アルトに就き(フィラデルフィア・コネクションによるもの)、ツアーに出る。このバンドの公演でテナーを使う機会はなかったが、常に携行し、練習は続けられた。 |
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11月7日 |
ツアー中のロサンジェルスで、歌手、ピアニストのビリー・ヴァレンタインと初コマーシャル・レコーディング。Ain't Gonna Gry No More, I Want You To Love Me, Beer Drinkin' Babyの3曲でテナー・ソロをとる。 |
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11月21日 |
ガレスピー・ビッグ・バンドでの初レコーディング。no solo。 |
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| 1950 24歳 |
1月9日 |
ガレスピー・ビッグ・バンドで2度目のレコーディング。この内、Coast to Coastの最初のテナー・ソロ、Ooo-La-Laのテナー・ソロはコルトレーンによるものだという説がある(Porter, p.83∼84)。 |
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ガレスピー・ビッグ・バンドでツアー中、既に皮下注射、或いは静脈注射でヘロインを使用。 |
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6月20日 |
ガレスピー・ビッグ・バンド、バンド経営の行き詰まりからペンシルヴェニアのギグを最後に解散。 |
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8月31日 |
ガレスピー・バンド、コンボに縮小し活動再開。コルトレーンはテナーとして留まる。 |
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10月 |
ヘロインのためロサンジェルスのホテルで人事不省に陥り、暫くの間止める。 |
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12月 |
カナダのトロントで。ヘロインの禁断症状を抑えるため酒を飲み続けたことが祟り、ガレスピーに馘にすると脅されるが、懇願してバンドに留まる(ジミー・ヒースとスペックス・ライトはシカゴでヘロイン使用がガレスピーに発覚、この時既に解雇されていた)。 |
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| 1951 25歳 |
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ガレスピー・コンボ、1月から3月にかけてバードランドに度々出演、ラジオ放送のエア・チェックが残っており、そのうちの一曲、1月13日の Good Groove が "Last Giant"(Rhino) に収録されている。デクスター・ゴードンの影響が濃厚。 |
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3月1日 |
ガレスピー・コンボ、デトロイトでレコーディング。We Love To Boogie でソロをとる。Last Giant(Rhino) に収録。 |
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3月11日 |
バードランド出演の合い間を縫い、マイルス・デイヴィスに雇われてオーデュボン・ボールルームに出演。ソニー・ロリンズ、バド・パウエルと共演する。ロリンズとは最初の、パウエルとは唯一の機会となった。 |
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4月初め、ガレスピーのコンボを去ってフィラデルフィアに戻り、以降再びフリーランスに。断続的にジミー・ヒースのバンドに参加。再びグラノフ音楽学校へレッスンに通う。 |
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| 1952 26歳 |
1月19日 |
ゲイ・クロスのレコーディングに参加。Bitter Sweet でリード・アルトを吹く。即興は無し。"Last Giant" (Rhino) に収録。 |
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3月頃、フィラデルフィア北西のストロベリー・マンションに一軒家を購入、母、メアリ等と暮す。 |
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4月1日 |
アール・ボスティックのバンドに参加、年末まで在籍し、度々ツアーに出る。 |
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6月2日 |
伯母ベティー(メアリの母)脳卒中で死去。 |
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| 1953 27歳 |
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この年、専らフィラデルフィア周辺でフリーランス。スペックス・ライトのバンドに参加した他、デイジー・メイ・アンド・ヘップ・キャッツ等、様々な R&Bのバンドで凌いでいた模様。具体的な詳細はあまり伝えられていない。 |
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| 1954 28歳 |
3月 |
ジョニー・ホッジスのバンドに参加(3月以前という推測もあり)。バンドを拡大した際のツアーではコルトレーンの口添えでベニー・ゴルソンも一時加入。 |
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4月 |
ホッジス・バンド、以降セプテットでツアー。 |
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6月 |
ベーシストのスティーヴ・デイヴィスの家でナイーマと出会う。 |
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ロサンジェルスでのホッジス・バンドがテープに捉えられ、そのうちの一曲 Thru For The Night は "The Last Giant" に収録。 |
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7月2日 |
"Used To Be Duke" のレコーディング。no solo。 |
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8月5日 |
"Used To Be Duke" のレコーディング。no solo。 |
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ロサンジェルスをツアー中、エリック・ドルフィーと知り合う。 |
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9月 |
ヘロイン中毒が昂じてホッジスの元を去り、フィラデルフィアに帰って再びフリーランスで活動。R&Bバンドでの仕事の他、翌55年にかけて断続的に参加したビル・カーネイのハイ‐トーンズではストレイト・アヘッドな演奏も。 |
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• 1955年
• 1956年
• 1957年
• 1958年
• 1959年
• 1960年 |
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• 1961年
• 1962年
• 1963年
• 1964年
• 1965年
• 1966年
• 1967年 |
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| 1955 29歳 |
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引き続きフィラデルフィア周辺でフリーランス。 |
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夏 |
カルヴィン・マッセイを通じてマッコイ・タイナーと知り合う(56年の可能性もあり)。 |
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9月 |
ジミー・スミスのバンドと共にフィラデルフィアのスパイダー・ケリーズに出演。パーマネント・ベースで一緒にやることを持ち掛けられる。 |
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9月27日 |
マイルス・デイヴィスに懇請され、ジミー・スミスの誘いを断ってボルチモアのギグでクインテットに合流(この前後の詳細については →■ホッジスの許を去り、マイルスのバンドに合流するまで■を参照)。 |
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10月3日 |
ツアー中、ナイーマと結婚。 |
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10月26日 |
マイルス・デイヴィス・クインテットでの初レコーディング。1回目の "'Round About Midnight" のセッション。 |
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| 1956 30歳 |
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1月から2月、マイルス・デイヴィス・クインテット、ロサンジェルス、サンフランシスコで公演。東側へのヘゲモニーの奪還を西海岸のミュージシャン及びファン達にまざまざと見せ付ける。コルトレーン、スタン・ゲッツとカッティング・セッションを交え、勝つ。 (この前後の詳細については→「足跡2:" The New Miles Davis Quintet " session から " Chambers' Music " session へ至るまで」参照。) |
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3月 |
ポール・チェンバースの初リーダー・アルバム"Chambers' Music" のレコーディングに参加。 |
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5月7日 |
エルモ・ホープのリーダー・アルバム"Informal Jazz" のレコーディングに参加。 |
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5月11日 |
マイルス・デイヴィス・クインテット、1回目のマラソン・セッション(プレスティッジ)。 |
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5月24日 |
ソニー・ロリンズの "Tenor Madness" に一曲だけ参加。レコーディングされた唯一の共演となる。 |
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6月5日 |
マイルス・デイヴィス・クインテット、2回目の "'Round About Midnight"のセッション。 |
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6月 |
ナイーマ、サイーダと共にニューヨークへ転居。 |
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9月7日 |
ハンク・モブレー、ズート・シムズ、アル・コーンと共にテナー4本で "Tenor Conclave" をレコーディング。 |
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9月10日 |
マイルス・デイヴィス・クインテット、3回目最後の "'Round About Midnight"のセッション。'Round Midnight を1テイクで録り終える。 |
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9月21日 |
ポール・チェンバースのリーダー・アルバム、"Whims Of Chambers"のレコーディングに参加。 |
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10月26日 |
マイルス・デイヴィス・クンテット、2回目のマラソン・セッション(プレスティッジ)。この時一時的にバンドから外されていたが、レコーディングの際に呼び戻される(詳細は →■足跡4■参照)。 |
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11月 |
マイルス・デイヴィス単身渡欧。クインテットの活動一時休止。コルトレーンはフィラデルフィアに戻る。 |
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11月30日 |
タッド・ダメロンのリーダー・アルバム "Mating Call" のレコーディングに参加。コルトレーンのワン・ホーン。 |
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12月 |
マイルス・デイヴィス帰国。クインテット活動再開、翌年3月までツアーに出る。 |
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| 1957 31歳 |
3月22日 |
"Interplay For 2 Trumpets And 2 Tenors"のレコーディングに参加。 |
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4月6日 |
ジョニー・グリフィンのリーダー・アルバム "A Blowing Session" のレコーディングにハンク・モブレーと共に参加。 |
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4月 |
再びヘロインを止め、禁断症状に耐えるため酒を飲み続けてカフェ・ボヘミアへ出演(4/5〜28の予定だった)。そんな或る晩、飲酒、或いはヘロインの再使用に由来するだらしの無い行状に耐えかねたマイルス・デイヴィスに楽屋で殴られる所をセロニアス・モンクに目撃され、それがモンクの所へ移るきっかけとなり、二人の間で非公式にリハーサルが始められる。結局4月末まで予定されていたカフェ・ボヘミア出演は短期間で打ち切られ(1週間或いはそれ以下)、コルトレーンはフィリー・ジョー・ジョーンズと共にクインテットを馘になったが、ヘロイン中毒を克服すればバンドに戻すことをマイルスは約束した。 |
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この月、プレスティッジ・レコードと専属契約を結ぶ。 |
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4月16日 |
セロニアス・モンクと Monk's Mood ( "Thelonious Himself" に収録 ) をレコーディング。 |
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4月18日 |
トミー・フラナガンの初リーダー・アルバム "The Cats" のレコーティングに参加。 |
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4月19日 |
マル・ウォルドロンの "Mal-2", "The Dealers" のレコーディングに参加。 |
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4月20日 |
"Dakar" / The Prestige All Stars のレコーディングに参加。 |
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5月 |
フィラデルフィアのクラブ、レッド・ルースターでマッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン、ジョニー・スプローン等と共演。 |
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★この頃ヘロインとアルコールを完全に断つことに成功。神の恩寵により霊的覚醒を体験。 |
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5月17 |
ポール・クィニシェットと"Cattin' With Coltrane And Quinichette"をレコーディング。 |
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5月30日 |
フィラデルフィアに家族を残し、単身ニューヨーク52番街のアルヴィン・ホテルに投宿。 |
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5月31日 |
初リーダー・アルバム "Coltrane" ( Prestige ) をレコーディング。 |
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6月25,26日 及び7月 |
"Monk's Music" と "Thelonious Monk With John Coltrane" のセッション。 |
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7月 |
7月18日から8月末までセロニアス・モンク・カルテットの一員としてファイヴ・スポットに出演。 |
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8月10日 |
ナイーマとサイーダ、フィラデルフィアからニューヨークに出て一時アルヴィン・ホテルに泊まる。後、一家でマンハッタン西103丁目のアパートに引越す(Simpkinsによると引越しは8月23日。『コルトレーンの生涯』では10月までホテルに投宿していたとある。)。 |
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8月23日 |
レッド・ガーランド・トリオと "Traneing In" をレコーディング。 |
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9月初∼ |
11月6日までセロニアス・モンク・カルテットの一員としてファイヴ・スポットに出演。 |
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9月15日 |
"Blue Train" ( Blue Note ) をレコーディング。 |
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11月7日∼ |
11月20日(推定)までセロニアス・モンク・カルテットの一員としてファイヴ・スポットに出演。 |
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11月21日∼ |
12月26日までセロニアス・モンク・カルテットの一員としてファイヴ・スポットに出演。 |
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11月29日 |
セロニアス・モンク・カルテットの一員としてカーネギー・ホールに出演。この時の演奏が The Voice of America によって録音され、CD, "Thelonius Monk Quartet with John Coltrane at Carnegie Hall"として2005年9月に発表される。 |
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12月13日 |
レッド・ガーランド・クインテットの一員として "Dig It!", "High Pressure" のセッションに参加。 |
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| 1958 32歳 |
1月 |
マイルス・デイヴィスのバンドに復帰。セクスッテットとしてバードランドで活動開始。 |
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1月10日 |
"Lush Life", "The Believer", "The Last Trane" の3枚に分散収録されたセッション。トランペットにドナルド・バードを据えたクインテット。 |
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2月4日 |
"Milestones" 1回目のセッション。 |
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2月7日 |
"Soultrane" のレコーディング。1ホーンのカルテット。 |
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3月4日 |
"Milestones" 2回目のセッション。 |
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3月26日 |
"Settin' The Pace" 全曲と、"The Last Trane" に収録された1曲のレコーディング。1ホーンのカルテット。 |
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5月23日 |
"Black Pearls" のセッション。トランペットにドナルド・バードを据えたクインテット。 |
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7月3日 |
マイルス・デイヴィス・セクステット、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演。"Miles And Monk At Newport" としてアルバム化。 |
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7月11日 |
"Standard Coltrane", "Stardust", "Bahia" の3枚に分散収録されたセッション。トランペットにウィルバー・ハーデンを据えたクインテット。 |
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9月11日 |
セロニアス・モンク・カルテットにジョニー・グリフィンの代役で参加、ファイヴ・スポットに出演。"Live At The Five Spot Discovery! " として1993年に発表。 |
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9月12日 |
ジョージ・ラッセル・オーケストラ "New York, N.Y." のレコーディング。コルトレーンのソロは Manhattan の1曲のみ。 |
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12月26日 |
プレスティッジ最後のセッション。"The Believer", "Stardust", "Bahia" の3枚に分散収録。3曲がトランペットにフレディ・ハバードを据えたクインテット。2曲が1ホーン・カルテット。1曲のみ1ホーンのピアノ・レス・トリオ。 |
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この年、陸軍で兵役中休暇を利用してホレス・シルヴァーのバンドで演奏していたウェイン・ショーターを聴き、声をかけ親しくなる。 |
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| 1959 33歳 |
1∼2月 |
ソプラノ・サックスを購入、ツアー中シカゴのサザーランド・ラウンジで初めて使用。 |
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2月3日 |
キャノンボール・アダレイ "Cannonball Adderley Quintet In Chicago" のレコーディングに参加。 |
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3月2日 |
"Kind Of Blue" 1回目のセッション。 |
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3月26日 |
"Giant Steps" 1回目のセッション。ピアノがシダー・ウォルトン、ドラムスがレックス・ハンフリーズ。但しどのテイクも採用されなかった。"The Heavyweight Champion"(Rhino) 収録。 |
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4月 |
アトランティック・レコードと専属契約を結ぶ。 |
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4月6日 |
"Kind Of Blue" 2回目のセッション。 |
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4月末或いは5月初め、アート・テイラーの母親の家でテナーとドラムスだけで "Countdown" のリハーサル。 |
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5月4,5日 |
"Giant Steps" 2,3回目のセッション。 |
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5月 |
サン・ラ・アーケストラのバリトン奏者、パット・パトリックを介してサン・ラと知り合う。 |
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シカゴの歯医者で上顎前歯8本にブリッジを入れる。 |
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6月初め |
ツアー先のカリフォルニアでファラオ・サンダースと出会い、質屋で一緒にマウスピースを試す。 |
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7月 |
自己のグループを結成するためマイルスのバンドを辞める。代役にはヘロイン不法所持による服役から出所したばかりのジミー・ヒースを推薦。 |
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8月 |
代役のジミー・ヒースが保護観察中だったためフィラデルフィアを離れられないことが判明、マイルスのツアーに同行することが不可能となる。同時にキャノンボール・アダレイも自己のグループ結成のためバンドを去ることになっていたので、コルトレーン、バンド復帰を承諾。 |
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11月24日 |
"Coltrane Jazz" 1回目のセッション。 |
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12月2日 |
"Coltrane Jazz" 2回目のセッション。Naima のみ "Giant Steps" 収録。 |
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12月23日 |
ニューヨーク市クイーンズ、セント・アルバンズ地区、メキシコ・ストリートに転居。 |
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• 1955年
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• 1960年 |
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| 1960 34歳 |
2月3日 |
3月後半から4月初めにかけてのヨーロッパ・ツアーを最後にマイルス・デイヴィスのバンドを辞す。 |
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4月 |
自己のカルテットを結成。スティーヴ・キューン(p)、スティーヴ・デイヴィス(b)、ピート・ラ・ロッカ(ds)。当初コルトレーンはマッコイ・タイナー(p)、アート・デイヴィス(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)という布陣を望んだが、タイナーはジャズ・テットでツアー中、デイヴィスはガレスピーのバンドに在籍、ジョーンズは麻薬取締法違反でリッカーズ・アイランド刑務所で服役中だったため、果たせなかった。 |
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5月3日 |
ジョン・コルトレーン・カルテット、ジャズ・ギャラリーでデビュー。5月末、ピアノをスティーヴ・キューンからマッコイ・タイナーに替える。 |
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5月末 |
白人女性と付き合い始める。 |
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6月28日 |
ドン・チェリーと "Avant-Garde" 1回目のセッション。初めてソプラノ・サックスをレコーディングで使う。 |
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7月8日 |
ドン・チェリーと "Avant-Garde" 2回目のセッション。ベーシストがチャーリー・ヘイデンからパーシー・ヒースに代わる。 |
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7月末 |
カルテットで初のツアーに出る。 |
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9月前半 |
ロサンジェルスでドラムスがピート・ラ・ロッカからビリー・ヒギンズに代わる。 |
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9月末 |
デンヴァーでドラムスがビリー・ヒギンズからエルヴィン・ジョーンズに替わる。 |
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10月21日 |
My Favorite Things をレコーディング。 |
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10月24日 26日 |
"My Favorite Things", "Coltrane's Sound", "Coltrane Plays The Blues" に分散収録されたセッション。 |
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| 1961 35歳 |
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この年の初め頃、ベースがスティーヴ・デイヴィスからレジー・ワークマンに替わる。 |
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4月 |
インパルス・レコードと専属契約を結ぶ。 |
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5月23日 |
インパルス第1作目、"Africa/Brass" 1回目のセッション。エリック・ドルフィー参加(ただしソロは無し)アレンジを担当。 |
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5月25日 |
"Ole" アトランティック最後のレコーディング。カルテットにドルフィー、ハバード、アート・デイヴィスを加えたセプテット。 |
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6月7日 |
"Africa/Brass" 2回目のセッション。 |
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9月 |
ヨーロッパから帰国したドルフィーがレギュラー・メンバーとして新たに加入、さらにギターのウェス・モンゴメリーも一時的に参加したセクステットでサンフランシスコ、ジャズ・ワークショップに出演。 |
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9月22日 |
上記セクステットでモンタレー・ジャズ・フェスティヴァルに出演。 |
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11月 1∼3,5日 |
コルトレーン初のライヴ・レコーディング、ヴィレッジ・ヴァンガード・セッション。曲によってはロイ・ヘインズ(ds)、ジミー・ギャリソン(b)も参加、トリオからノウネットまでの多様な編成での試み。 |
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11月∼12月 |
引き続きエリック・ドルフィーを擁したクインテットでヨーロッパ・ツアーに出る。 (11月にニューヨーク、ジャズ・ギャラリーでカムバックしたソニー・ロリンズの演奏を録音したテープをナイーマがイギリス滞在中のコルトレーンに届ける。) |
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11月? or年末 |
とあるクラブへオーネット・コールマンを聴きに行き、コルトレーンが申し出て2曲共演。 |
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12月21日 |
"Ballads" 1回目のセッション。 |
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12月 |
アメリカをツアー中だったラヴィ・シャンカールと待望の初会見。
ベースがレジー・ワークマンからジミー・ギャリソンに替わる。 |
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| 1962 36歳 |
2月6∼18日 |
バードランドに出演。ラジオで放送され、9日のエア・チェックが残っている。Mr.P.C.が凄絶。 |
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3月 |
エリック・ドルフィー、自己のグループを結成するため去る。(或いは4月初め) |
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4月11日 |
"Coltrane" 1回目のセッション。 |
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コルトレーンとドルフィーの演奏が評論家達に酷評されているのを懸念したドン・デマイケルがダウン・ビート誌4月21日号で2人の特集を組み、反論の場を与える。しかし評論家達からの反応は無かった。 |
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6月 |
19,20,29日、"Coltrane" 2,3,4回目のセッション。 |
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9月18日 |
"Ballads" 2回目のセッション。 |
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9月26日 |
"Duke Ellington and John Coltrane" のレコーディング。デューク・エリントンにテイクを重ねることをたしなめられる。 |
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11月13日 |
"Ballads" 3回目のセッション。この日がメイン。 |
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11月∼12月 |
ヨーロッパ・ツアーに出る。 |
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| 1963 37歳 |
3月7日 |
"John Coltrane And Johnny Hartman" のレコーディング。 |
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4月29日 |
ロイ・ヘインズのドラムスでレコーディング。After The Rain が "Impressions" に、Dear Old Stockholm が "Dear Old Stockholm" に収録。 |
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エルヴィン・ジョーンズがケンタッキー州レキシントンの公衆衛生総局病院に入院、4月末から7月初までロイ・へインズを中心に、フィリー・ジョー・ジョーンズ、ルイス・ヘイズ等が代役を務める。 |
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7月7日 |
ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演。ドラムスはロイ・ヘインズ。最初 My Favorite Things のみが "Selflessness" で日の目を見たが、後、他の2曲 "I Want To Talk About You", "Impressions" と共に "Newport '63" にまとめて収録された。 |
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フィラデルフィア、ショーボートのギグでエルヴィン・ジョーンズ復帰。 |
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7月18日 |
バードランド出演中、テリー・ギブス・カルテットのピアニスト、アリス・マクロードに再会。話を交わし、以降親密になる。 |
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夏 |
ナイーマと別居。ホテルを展転としたり、フィラデルフィアの母の家に泊まりに行ったりといった生活。 |
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10月8日 |
"Coltrane Live At Birdland" をライヴ・レコーディング。 |
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10月 |
ヨーロッパ・ツアーに出る。 |
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11月18日 |
"Coltrane Live At Birdland" に収録された "Your Lady", "Alabama" をスタジオ・レコーディング。 |
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12月31日 |
リンカーン・センター、フィルハーモニック・ホールにエリック・ドルフィーを加えて出演。最後の共演となる。 |
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| 1964 38歳 |
2月 |
コルトレーン・カルテットがハーフ・ノート出演中の一夜、オーネット・コールマンがトランペットで飛び入りし( sit in )、共演。 |
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4月 |
インパルス・レコードとの契約を更新。 |
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4月27日 |
"Crescent" 1回目のセッション。 |
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6月1日 |
"Crescent" 2回目のセッション。 |
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6月29日 |
重度の糖尿病に罹っていたエリック・ドルフィー、心臓発作のためベルリンで客死。7月9日ロサンジェルスで埋葬。両親から形見としてフルートとバス・クラリネットを贈られる。 |
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8月26日 |
アリスとの間にジョン・ジュニア誕生。 |
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12月9日 |
"A Love Supreme" 1回目のセッション。 |
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12月10日 |
"A Love Supreme" 2回目のセッション。アーチー・シェップ(ts)、アート・デイヴィス(b)を加え、Acknowledgement, Resolution がレコーディングされる。"A Love Supreme / Deluxe Edition" に収録。 |
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• 1955年
• 1956年
• 1957年
• 1958年
• 1959年
• 1960年 |
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• 1961年
• 1962年
• 1963年
• 1964年
• 1965年
• 1966年
• 1967年 |
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| 1965 39歳 |
2月17,18日 |
"The John Coltrane Quartet Plays" 1回目のセッション。 |
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3月28日 |
ヴィレッジ・ゲイトでリロイ・ジョーンズ主催ブラック・アーツ・レパートリー・シアター・アンド・スクールのための募金興行に出演。"The New Wave In Jazz" に Nature Boy が収録。 |
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5月17日 |
"The John Coltrane Quartet Plays" 2回目のセッション。 |
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5月26日 |
ロイ・ヘインズのドラムスでレコーディング。"Dear Old Stockholm" に収録。 |
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6月10日 |
"Transition" のセッション。 |
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6月28日 |
"Ascension" をレコーディング。 |
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7月2日 |
ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル出演。アーチー・シェップとのカップリングで "New Thing At Newport" に収録。 |
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7月26日 |
渡欧。フランス、アンティーヴ・ジャズ・フェスティヴァルに出演。聴衆に水着姿の者がちらほらする中、タキシードで正装して"A Love Supreme" を演奏(これは『コルトレーンの生涯』p.377-380 によるものだが、アシュリー・カーンの『ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実』p.270 ではマッコイ・タイナーとエルヴィン・ジョーンズは季節外れの天候で肌寒かったと証言している。それ故タキシードでも別に問題はなかったと思われる)。"A Love Supreme In Antibes 1965"(Jimco), "A Love Supreme / Deluxe Edition"(Impulse) 等に収録。 |
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7月27日 |
同上。"Live At Antiebes"(Norma), "Live In Paris"(Jimco) に収録。 |
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7月28日 |
パリ、サル・プレイエルに出演。エルヴィン・ジョーンズ、演奏中にドラムを蹴飛ばしステージを降りてしまう一幕も。この頃エルヴィンとの関係がぎくしゃくし始めるが、カルテットの演奏レベルはピークを迎える(と思う)。"Live In Paris" に収録。 |
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8月1日 |
ベルギー、コンブラン・ラ・トゥールでの野外コンサートに出演。カルテット最後のライヴ。この時の "My Favorite Things" を演奏する映像の抜粋がDVD『ジョン・コルトレーンの世界』に使われている。南仏アンティーヴから一転、高緯度、高原地帯、しかも夜間の野外、エルヴィンとギャリソンの吐く息が白く、体からは湯気が立ち昇るが、寒さをものともせぬ熱演に息を呑む。 |
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8月6日 |
次男ラヴィ誕生。 |
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9月2日 |
"First Meditations" をレコーディング。カルテットでの最後のセッション。 |
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9月 |
ファラオ・サンダース、レギュラー・メンバーとして参加。 |
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9月30日 |
ドナルド・ギャレット(bcl,b)を加え、"Live In Seattle" をシアトル、ペントハウスでライヴ・レコーディング。 |
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この頃LSDを使い始める。 |
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10月1日 |
上記のメンバーにジョー・ブラジル(fl)を加え、"Om" をレコーディング。 |
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10月14日 |
ヴォーカルにジュノ・ルイスを迎え、"Kulu Se Mama" をレコーディング。 |
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11月 |
手紙をやりとりしていたラヴィ・シャンカールと再会。ヴィレッジ・ゲイトでのギグに招待する。 |
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10∼14日 |
ヴィレッジ・ゲイト出演からラシッド・アリ(ds)をレギュラー・ベースで加え、2ドラムスにする。 |
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11月23日 |
"Meditations" をレコーディング。 |
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12月 |
マッコイ・タイナーが去り、アリス・マクロードが加入。 |
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この年、オラトゥンジと語らいアフリカ文化センター設立を計画。ユセフ・ラティーフも賛同して参加、3人で出資し実行に移される。 |
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| 1966 40歳 |
1月 |
サンフランシスコのジャズ・ギャラリー出演中、エルヴィン・ジョーンズ突然バンドを去る(デューク・エリントンに請われてヨーロッパに向かい、ドイツでツアーに合流)。ビーバー・ハリスが代役を務めた。 |
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2月2日 |
Manifestation, Reverend King, Peace on Earth, Leo 等をレコーディング。"Cosmic Music", "Infinity " 等に分散収録。 |
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2月 |
ジョージ・ウエイン主催、デトロイト、コボ・ホールでのコンサートに出演。コルトレーンのリズム・セクションが大雪で現われず、58年9月以来のセロニアス・モンクとの共演が実現。57年に一緒にやっていた頃のモンクの曲を選んで取り上げた。 |
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2月19日 |
リンカーン・センター、フィルハーモニック・ホールで "Titans of the Tenor" と題されたコンサートに出演。 レギュラーのクインテットにアルバート・アイラー(ts)、ドナルド・アイラー(tp)、カルロス・ワード(as)、J.C.モーゼス(ds)を加えた編成で Om と My Favorite Things の2曲が演奏された。コルトレーンとアイラー唯一の共演の機会となる。 ソニー・ロリンズとの共演も予定されていたが、楽屋で待機していたロリンズはコルトレーンらの演奏の初めの数分を聴いただけで共演を断念しホールを後にしてしまった。 |
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3月 |
エルヴィン・ジョーンズ、いくつかのギグでバンドに戻るが、最終的に退団。 |
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5月28日 |
"Coltrane Live At The Village Vanguard Again!" をライヴ・レコーディング。 |
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7月2日 |
ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演。この時の8mmフィルムの一部がDVD『ジョン・コルトレーンの世界』で使われている。晩年の貴重な映像。 |
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7月 8∼25日 |
日本ツアーに出る。休み無しに15日間で16公演のハード・スケジュール。うち11日のサンケイ・ホールと22日の新宿厚生年金会館での演奏が "Live In Japan" に収録。 |
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8月 8∼25日 |
メキシコのファーレスでアリス・マクロードと結婚式を挙げ、その後間もなくニューヨーク、ロングアイランド、ハンティントン、ディックス・ヒルに新居を構える。 |
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晩夏 |
ジミー・ギャリソン、一時バンドを抜ける。後任はソニー・ジョンソン。 |
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11月 |
日本ツアーから帰国後体調が思わしくなく、ヨーロッパ・ツアーをキャンセル。 |
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フィラデルフィアのチャーチ・オヴ・ザ・アドボケイト主催のコンサートにゲスト演奏者として出席。バタ・ドラム奏者アルジー・デウィットの演奏に感銘を受け、自己のグループに誘う。 |
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12月26日 |
ヴィレッジ・シアターに出演。レギュラーのクンテットにジョン・サルガト(tp)、ソニー・ジョンソン(b)、ラシッド・アリの兄オマー・アリ(conga)、アルジー・デウィット(bata ds)、不明(tamboura)を加えた編成。"Ascension" 以来の前衛的な試みがなされたと伝えられている。 |
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| 1967 没年 |
2月15日 |
"Expression", 1回目、及び "Stellar Regions" に収録されたセッション。 |
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2月22日 |
"Interstellar Space" のセッション。ラシッド・アリとのデュオ。 |
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3月7日 |
"Expression" 2回目のセッション。 |
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春 |
"Expression" 3回目のセッション。 |
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3月19日 |
三男オラン誕生。 |
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3月27日 |
オラトゥンジ・アフリカ文化センター、オープンする。 |
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4月 |
インパルス・レコードと契約更新。 |
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4月23日 |
アフリカ文化センターで 'Roots Of Africa' と題されたシリーズ・コンサートの第一回目に出演。"Ogunde", "My Favorite Things" が "The Olatunji Concert : The Last Live Recording" に収録。最後のライヴ・レコーディングとなる。病を感じさせぬ力強く激しいパフォーマンスに圧倒される。 |
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5月7日 |
ボルチモアのフェイマス・ボールルームで最後のライヴ(レフト・バンク・ジャズ・ソサエティ主催のコンサート)。メンバーはコルトレーン、アリス、ジミー・ギャリソン、ラシッド・アリにベースのドナルド・ギャレットを加えたクインテットだった。Acknowledgment(承認)が演奏されたと言われている。 |
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5月 |
アリスと共にフィラデルフィアの母親を訪問中、内臓の激痛におそわれ、倒れる。ロング・アイランドの自宅に戻ってすぐに内科に行き、精密検査を受けるため入院するよう医師に言い渡されたが、治療を拒否して帰宅。 |
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以降全てのブッキングはキャンセルされた。 |
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7月14日 |
ボブ・シールのオフィスを訪れ、死後最初に発表されたアルバム "Expression" リリースの打ち合わせをする。 |
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7月16日 |
日曜の朝、衰弱が甚だしくスープを摂ることもできず、救急患者としてハンティントン病院に入院。 |
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7月17日 |
月曜日午前4時、肝臓癌で死去。 |
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7月21日 |
ニューヨーク、レキシントン街のセント・ピーターズ・ルーセラン・チャーチで葬儀が行われる。カルヴィン・マッセイが "A Love Supreme" を朗読、アルバート・アイラー(ts)が "Love Cry/Truth Is Marching In/Our Prayer" をドン・アイラー(tp)、リチャード・デイヴィス(b)、ミルフォード・グレイヴス(ds)と共に追悼演奏。オーネット・コールマンのグループが "Holiday For A Graveyard" で結んだ。葬儀後、ロング・アイランド、ファーミンデールのパインローン・メモリアル・パークに埋葬された。
(アイラーの演奏は "Holy Ghost" に、コールマンの演奏は "Head Start" に収録。) |
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