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| ■ホッジスの許を去り、マイルスのバンドに合流するまで■ |
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| [ 本文中の(註X)は、註釈文にリンクしています。] |
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| ●以下、コルトレーンがジョニー・ホッジスのバンドを辞めてから、約一年後にマイルス・デイヴィスのバンドに参加するまでの足取りをざっと追ってみる。 |
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| ● 1954年9月、ロサンジェルスをツアー中、ヘロイン中毒のためコルトレーンはジョニー・ホッジスのバンドを解雇される(註1)。この時点で、オフィシャルなレコーディングにおいてソロ・スペースを与えられたのは僅かにディジー・ガレスピー・セプテットでのWe Love To Boogie ( 51, 3/1 ) のみ。ミュージシャン仲間や地元のフィラデルフィアではその存在を知られてはいたが、一般のジャズ・ファンには無名も同然だった。 |
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●このツアー中に知り合ったエリック・ドルフィーに金を借りて東海岸に帰ると(註2)、フリーランスとして演奏活動を続け、フィラデルフィアおよびその周辺の様々なバンドで短期の仕事をこなしたが、生活のために不本意ながらリズム・アンド・ブルースのバンドでも演奏しなければならなかったし、いくつかのスポットではバー・ウォーカー(bar walker)の真似事もさせられた。しかし他方で、ニューヨークのバードランドにおける毎月曜夜のジャム・セッションや、断続的に参加したビル・カーネイ(歌手、パーカッショニスト)のハイ‐トーンズではストレイト‐アヘッドな演奏にも取り組んだ。またフィラデルフィアのバードランドで、コルトレーンがスモール・グループのリーダーとしてパーカーの向こうを張り、セットを交互に務めたこともあったらしい(註3)。
●ところがヘロイン中毒に加えて飲酒癖にも悩まされ、泥酔して他のミュージシャン達にステージに登るのを助けられたり、シャツを後ろ前に来てステージに現れたりすることもあって(註4)風評が立ち、54年12月の暮れには仕事にあぶれてしまう。大晦日には見かねたテッド・カーソンが自身の仕事にコルトレーンを連れて行ったという(註5)。 |
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| ●1954年後半から始まったハイ-トーンズの活動は55年に入っても続けられ、フィラデルフィアではZel-marやSpider Kelly'sといったクラブで演奏し、ニュージャージーやバッファローでもギグが行なわれた。6月にはアメリカ側のナイアガラ・フォールズでポルカ・バンドに参加(註6)、Simpkins, p.258にはこの時コルトレーンがナイーマに送った絵葉書が掲載されている。 |
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| ●世界有数の観光地でのポルカ・バンド、なるものでコルトレーンがどのような演奏をしたのか、その実体は不明だが、その頃マイルス・デイヴィスは後にクインテットの一角を占めることになるレッド・ガーランド、フィリー・ジョー・ジョーンズらと The Musings of Miles をプレスティッジにレコーディング、7月に入ってからはソニー・ロリンズ、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズらを擁したクインテットでの活動を開始、7月17日には第2回ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演し、この上流階級のリゾート地における 'Round Midnight でのミュート・プレイが聴衆を魅了し絶大な成功を収め、念願のメジャー・レーベル、コロンビアとの契約を果たす。 |
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| ●しかし、8月まで続いたマイルス・デイヴィス・クインテットのカフェ・ボヘミアへの出演後、9月に始まる予定のクインテット初のツアーが組まれ、クラブ出演契約が済んだ時点で、ソニー・ロリンズがケンタッキー州レキシントンの公衆衛生総局病院にヘロイン中毒治療のため入院することになり、急遽その代役を探さなければならなくなる(註7)。 |
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| ●カフェ・ボヘミア出演中に目を付けていたオスカー・ペティフォード・カルテットのキャノンボール・アダレイを当初その候補にとマイルスは考えたが、9月には教職のため故郷のフロリダに帰省する予定であったため断念せざるを得なかった。次にフィリー・ジョーがサン・ラ・アーケストラのジョン・ギルモアを推薦し、9月5日から10日までマイルスが出演していたフィラデルフィアのブルー・ノートで試すが、マイルスの求めるサウンドとはしっくりいかず、ついにコルトレーンの名がフィリー・ジョーとガーランドによって挙げられ(註8)、この時同様にトライアウトを受けたのではないかと推定されている(Porter, p.352)。 |
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| ●ところがいざニューヨークへ行ってリハーサルを始めてみると、コルトレーンの熱心さ余っての質問攻めとプロ・ミュージシャンとしてのマイルスの考えが噛み合わず、マイルスの冷淡な態度にコルトレーンは怯んでジミー・スミスとのギグを理由にフィラデルフィアに帰ってしまう。この頃コルトレーンはジミー・スミスにパーマネント・ベースで一緒にやらないかと誘われてもいたので(Simpkins, p.50)、マイルスとスミスの間での選択にコルトレーンの気持ちは揺れていただろうと想像されるが、結局のところ、ボルチモアでの初日が迫って窮したマイルスに懇請され、コルトレーンも心を決めた。コルトレーンは当時若干16歳のオディアン・ポープ(註9)を呼び、ジミー・スミスとの契約の最終週を託し、ボルチモアへ向かい、9月27日火曜日、クラブ・ラスベガスでのギグ初日からマイルスらに合流、こうしていよいよ後に“クラシック・クインテット”呼ばれることになるバンドの一員としての活動が開始された。 |
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| ●ボルチモアでのギグが無事終了した翌日10月3日月曜日、同地でコルトレーンは週末にフィラデルフィアから呼び寄せておいたナイーマと結婚した。式ではバンドのメンバーが新郎の付き添いとして立会い、以降、クンテットの面々はバンドスタンドのみならず、普段の生活でも急速に親密になっていった。次の公演はポール・チェンバースの出身地デトロイトで、またマイルス・デイヴィスがコールド・ターキーによってヘロイン中毒を克服した後一時逗留していたこともあって、故郷に帰ったような気分で皆で歩き回ったという(註10)。デトロイトでの大成功の後、クインテットはフィラデルフィアのアンディーズ・ログ・キャビンで10月11日(火)、10月12日(水)の2日間に出演、翌10月13日(木)にはニューヨークへ戻り、バードランドでのギグに臨んだ(註11)。そしてその最終日の10月26日水曜日午後3時30分から8時30分まで、バードランドへの出演に先立ち、クインテットの初録音がコロンビア779セヴンス・アヴェニュー・スタジオ(コロンビア・スタジオD)で行われた。翌10月27日(木)からはカフェ・ボヘミアに出演、その頃にはグループは信じ難いほど驚異的なパフォーマンスを展開するようになり、以後クラブ出演は常に超満員で長蛇の列が出来る程の、モダン・ジャズ界屈指のトップ・グループへと躍り出ることになった。が、同時にそれは、コルトレーンが仮借ない批判の矢面に立つことの始まりでもあったし、"the D and D (=Drunk and Dope) band" と呼ばれ悪名を馳せたごとく、マイルス以外のメンバー全員が麻薬中毒でかつヘヴィー・ドリンカーであったため、その目覚しい活躍の内にも一抹の波乱を含んだものでもあった。 |
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| → ■ セッションの概観 : 1st 'Round About Midnight session ■ に続く |
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| → ■ジョン・コルトレーン及びマイルス・デイヴィス・クインテットの足跡を辿る■ のindexへ |
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| →■ ジョン・コルトレーン年譜 ■
→■ 関連年表(1954∼1957) ■ |
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■参考文献 = ソース(矢印は本文中及び註における略記)
• 『コルトレーンの生涯』J・C・トーマス著 / 武市好古訳 ( →Thomas )
• C. O. Simpkins, Coltrane: A Biography ( →Simpkins )
• Lewis Porter, John Coltrane - His Life and Music ( →Porter )
• 『ジョン・コルトレーン』ブライアン・プリーストリー著 / 小山さち子 訳 ( →Priestley )
• 『ジョン・コルトレーンの生涯』大村幸則(ジャズ批評『コルトレーン大全集』)( →大村 ) |
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| ■註 |
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| 註1).解雇されたのか、自ら申し出て辞めたのか、各バイオグラフィーでは一致していない。Thomas, p.94では解雇、邦訳の『コルトレーンの生涯』p.130〜131では自ら辞めたとも解雇されたとも読め、大村, p.15では自らとある。 →本文へ戻る |
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| 註2).『エリック・ドルフィー』シモスコ&テッパーマン、間章訳p.73〜74。Porter, p.94。 Simpkins, p. 43では、このエピソードは1952年、アール・ボスティックのバンドに在団中のことだったとしている。→本文へ戻る |
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| 註3).Porter, p.94∼95. 1954年12月或いは1955年2月。バードランドのオーナー、ジャック・フィールズの談話。 →本文へ戻る |
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| 註4).Simpkins, p,49. →本文へ戻る |
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| 註5).Priestley, p.29. / 邦訳, p.38. →本文へ戻る |
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| 註6).Porter, p.352. では、これもハイ‐トーンズと一緒だったかもしれないと推定されている。(ナイアガラというと、単に観光地というだけではなく、W.E.B.デュボイスらによる「ナイアガラ運動」の会合が開かれた場所でもあり、それは1905年7月11日から13日アメリカ側のミシガン・アヴェニューでのことで[後フォート・エリーに移る]、コルトレーンが訪れたのは6月だから、まさか関係はないだろうが、一応50周年だったことをここに記しておく。ちなみにこれを書いている今年は100周年にあたる。) →本文へ戻る |
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| 註7).『マイルス・デイヴィス自叙伝T』p.321にはロリンズがマイルスに何も告げずに行方知れずになってしまったとあるが、The Complete Columbia Recordings (Columbia Legacy C6K 65833.)ブックレットのジョージ・アヴァキャンのエッセイ"How it all began···"ではロリンズがシカゴへ移ることを申し出てマイルスはそれに反対しなかったとある。公衆衛生総局病院でヘロイン中毒治療後、シカゴに落ち着いたロリンズは、工場の事務所で守衛兼清掃の仕事やトラックの荷積みをして生活していたが、11月にブラウン=ローチ・クインテットがツアーで訪れた際、カリフォルニアへ帰ることになったハロルド・ランドの代役を務めると、シカゴでの公演後、ニューヨークへ向かうクインテットにそのまま同行してカムバックを果たした。54, 10/25のモンクとのセッションと、55, 12/2の”Work Time”を聴き比べると、この間ロリンズがいかに練習に励んだかがうかがえる。 →本文へ戻る |
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| 註8).マイルスの『自叙伝T』(p.322)ではフィリー・ジョーが推薦したとあるが、『グレイト・ジャズ・ピアニスト』(p.187)ではガーランドがマイルスに求められてコルトレーンを推薦したと、レン・ライオンズによるインタヴューで自ら述べている。両者ともコルトレーンとは旧知の間柄であり、共演経験もあるので、どちらも真実である可能性があるように思われる。 →本文へ戻る |
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| 註9).70年代末から80年代半ばまでのマックス・ローチとのレコーディングで知られるテナー・サックス奏者。 →本文へ戻る |
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| 註10).『マイルス・デイヴィス自叙伝T』p.327-328. →本文へ戻る |
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| 註11).ツアーの行程はPorterのChronology(p.352-353)による。『マイルス・デイヴィス自叙伝T』を始めとするいくつかのバイオグラフィーではこの最初のツアーが、ボルチモア、デトロイト、シカゴ、セントルイスを経てニューヨークへ戻り、カフェ・ボヘミアでのギグが行なわれたとあるが、実際にはボルチモア、デトロイト、フィラデルフィア、ニューヨーク=バードランドが正しいようだ。シカゴやセントルイスでのエピソードは、後のツアーをこの最初のツアーに合成して付け加えられたもののように思われる。 →本文へ戻る |
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| (吉野) |
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