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| 5. Tenor Madness ( Sonny Rollins ) 12:14 |
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| ●オリジナルはドラマーのケニー・クラーク作。 Rue Chaptal (後, Royal Roost )として Kenny Clarke and his 52nd Street Boys によって46年に録音され、 The Jazz Messengers の "At The Cafe Bohemia Vol. 2" ではハンク・モブレー作 Sportin' Crowd としてライヴ録音されました。出だしのフレーズが似ていることからディジー・ガレスピー、ギル・フラー、レイ・ブラウンらによる Oop Bop Sh'bam もよく引き合いに出されます。 |
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| ●ロリンズとコルトレーン、2人が共演したとなれば、ファン心理からするとどうしても“テナー・バトル”という風に受けとめたくなります。そしてそう見なすと、結果は聴く前から既に歴然としているように思われます。実際、5月11日(約2週間前)のマラソン・セッションと同じで、コルトレーンの場合、ここでも不自然な中断、もつれ滞るフレーズ等は相変らずだし、明らかに演奏の意図にテクニックが追いついていないように聴こえる個所もあり、ラストの12コーラスに及ぶ4小節交換では、音色の貧しさ、ストックされたフレーズの絶対量の圧倒的な少なさが、ロリンズとの直接的な比較で嫌という程思い知らされます。 |
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| ●他方、ロリンズは(ちょっと復習)'55年の一次的引退からカムバック後、快作 " Work Time " ( '55,12 ) で、テクニックに一層磨きがかかり、ひとまわりスケール・アップした姿を披露、クリフォード・ブラウン、マックス・ローチとの " At Basin Street " ( 1956, 1,2 ) では割としっかりしたアレンジの枠組みの中でのグループ・プレイということもあってやや硬かったものの、マイルスとのセッション(同3月)中 Veird Blues では Blue 7 を予感させるような名演を残し、同じ3月、再びローチ&ブラウンと共演した " Sonny Rollins Plus 4 " は肩の力の抜けた好演(ややソフト)で、カムバックから約半年経った5月24日、この " Tenor Madness " のセッションを迎えることになるんですが、コルトレーンとの共演に先立つワンホーン・カルテットの4曲では、抑制の効いた、しかし聴き手に緊張を強いない、落ち着きのあるサトルなプレイに終始し、その成熟の程をうかがわせます。そして翌6月にはいよいよ並々ならぬ意気込みがひしひしと伝わってくる大傑作 " Saxophone Colossus " が吹き込まれる、というまさにピークの一つを迎え、50年代モダン・ジャズ界の実質的なテナーの頂点に君臨しようとしていた時で(人気はスタン・ゲッツの方があったらしいんですが)、Tenor Madness でも余裕しゃくしゃくの、非常に安定感のある好プレイで、まともに比較されたら、コルトレーンにはどうにも分が悪いです。ことに具体的に指摘できるような技術的な劣勢はいかんともしがたいです。 |
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| ●でも、Tenor Madness は“テナー・バトル”ではないと思います。ここでのロリンズは先行する4曲ほどの抑制感はありませんが、やや控え目で、派手にダブル・タイムを連発せず、8分音符をメインに、圧倒的優位にある高みからコルトレーンの目線にまで降りて気遣い、まるで、依然評価の低い友人コルトレーンの良さを際立たせようとしているかのようでもある、とそこまではいかなくても、少なくとも腕ずくでコルトレーンを負かそうとしていないのは容易に聴き取れます。コルトレーンにしても、がむしゃらに吹きまくる目を見張るような演奏ではなくて、果敢に挑むダブル・タイムにしても、聴き手を圧倒する目的でなされているようなものではないし、テンションに関しては、平均的なレベルの演奏になっていると思います。4小節交換では模倣の応酬が楽しいし、“バトル”というよりは“交歓”、“戯れ”と言った方が相応しいんじゃないでしょうか。 |
| (西内) |
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| ●56年のコルトレーンの魅力を語るに相応しい言葉をいまだに見い出せないでいる。よいと思う演奏に対して常に誉め過ぎてしまうし、そう思って控えるとなんとも物足りず、かといって、あの“粗削りだが······”ってのもあんまり感動してない人間が発する気のない譲歩のせりふに過ぎないような気がして、もどかしい。例えば、後年の極端な過剰さや激しさを指摘するのは易しそうだが、“凄い”と形容できるような演奏をしているわけではないこの時期のコルトレーンの微妙な魅力を適切に指摘できるような肩の力の抜けた言葉が欲しい。以下の作文はちょっと窮屈で歯切れが悪いし、後味があんまり良くない。 |
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| ●技術的な不安定さは変わらぬが、マイルス・クインテットでの不自然な抑制感や硬さがここにはなく、マラソン・セッションでは稀薄だった56年型コルトレーンの魅力が充分に感じられる。但し、破綻のない技術的な安定とメロディックなフレーズを即興の価値として聴き取りに焦点が合せられている限り、その魅力は聴こえてこないし、ロリンズの好演とまたしても共演者の引き立て役に甘んじてしまっているようなコルトレーンの下手糞さしか印象に残らないだろう(感心させるが感動させない、整ってはいるがスタティックで、ホルマリン漬けのサンプルのような、“名演”、“名盤”は意外に多い。即興の良し悪しは、必ずしも“うまい”、“へた”によって決まるものではないのだが)。しかしその焦点から外れると(これが結構難しい。おれは十数年かかった。最もずっと聴き続けていたわけじゃないけど)、ロリンズとコルトレーンの優劣が逆転する。例えば、ロリンズの場合、中低音を中心にした重厚さがねっとりした重苦しさに、行き当たりばったりに思えなくもない散漫なフレーズがいつしか凝集してゆき、結局は落ち着く所へ落着く安定感、整合感が、退屈なものに感じられてくる。そのロリンズにコントラストをなすようにして、おずおずとして頼りなげだったコルトレーンの中高音が、解きほぐれて輝きながら散布されるものでもあると気付かれ、何処へ行こうとしているのか分らぬような不安定さが軽やかさとなり、ためらいと耳障りな素っ頓狂さが飛び散って舞う羽毛のような緩やかさと思い掛けぬ素早い動きのコンビネーションとなって、快い驚きをもたらす。最早コルトレーンは鈍重な引き立て役ではなく、逆にロリンズがコルトレーンをひたすら引き立てているように聴こえてくる。これは論証ではなく主観的な印象の一端に過ぎないし、また56年のコルトレーンを低く評価する人達を説得しようとも思わぬが、かくいう自分がそれまで56年のコルトレーンは下手糞なだけだと思い込んでいて、たまたまプレスティッジ時代のロリンズを聴き直すうちにこのTenor Madness で不意に56年のコルトレーンの魅力に目覚めてしまい、このようなサイトを作ることになった、ということだけ付け加えておきます。 |
| (吉野) |
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