私の唯一の上司が生まれて育ったこの国は美しく陰鬱でとても快適で、
首都にあるえらく管理の行き届いた公園のベンチに腰掛けて道行く人を眺めて
観光客気分に浸るのもたまには乙なものだと思わせてくれるぐらいには
魅力的だ。
初夏はこの国がもっとも冴え渡った笑顔を見せてくれる貴重な季節だそうで、二百年前からここにいた連中も二十年前に移り住んできた連中も
二日前に訪れた連中も、ひとしくやわらかい陽射しの照り返す木々の緑、
芝の青さ(それは冬も青さを保つのだという!)を愛でながらそぞろ歩いている。結構な話じゃないか。
「あーゆー屋台の食い物はな、何が入ってるか判ったもんじゃねえぞ」と親切な上司から蛇の舌交じりに注意されたソフトクリームをひとつ、
ついでにでかい乳をした若い娘が仁王立ちになった写真が巻頭を飾るいちばん低俗そうな新聞を売店で買い求めた。
紙名はSUN。太陽とは、なるほど言いえて妙だ。右手に氷菓、左手にヌードを携えて1856年にどこぞの老婦人が亡くした夫との思い出を記念して寄付したと能書きの付いたベンチに戻る。
いかにもあの男が好きそうな新聞だけがここにあって、あの男はいない。
朝起きたらいなかったのだが、何をしているのかはおよそ察しが付く。
私を一人にしてあの男はお楽しみに出かけたんだろう。
頭の中を洗い流してすっきりしたいがそうもいかない。
どうでもよすぎて清清しいほどくだらないゴシップ記事と、舌の上のつめたさと、甘さと、それだけ私の中に沁みてゆけばいいのに。
念じながらも不必要な言葉は泡のように弾け続ける。
…
退屈しのぎに手を出した奴は迂濶の王様だ。
(活字は頭に入った端からすり抜けて落ちてゆく。
仕方が無いので新聞を丁重にゴミ箱に葬る。いい人に拾われるんだよ)
破局が見えていて受け入れた私は怠惰なマゾヒストだ。
(せめて口の中だけでもクールなままなのは不幸中の幸いだろうか)
一度目に抱かれた時一貫して顔を背けていた。決してあの男の顔を見なかった。
息遣いと熱と、のしかかる重みだけで十分すぎた。
(ローラースケートのぼうや、なにがそんなに珍しい?お兄さんはジャッキー・チェンみたいな恰好してるが見世物じゃないんだぞ)
二度目に抱かれた時に髪を掴んだ。
生乾きの、縋るにはどうにも頼りない、それでも、まぎれもなくあの男の一部。
(今通りがかった若い男の見事なスキンヘッドと
「一日一膳」と彫られたタトゥーの前ではかなりばからしく思えるが)
三度目には名を呼んだ。自分がいままで安心して演じていた役柄が
ソフトクリームよりも脆弱に溶けていくのを感じて、あまりにも、不安で。
(それにしてもこのソフトクリームほどじゃなかったな。ほとんど水じゃないか)
変質など望んでいなかったのに、あの男に触れられるたびに胸が躍る。
躍ってしまう。「心はいやでも身体は正直」という三流ポルノの台詞そのままに、血行が早まり動悸が高鳴り頬が赤らみ目が潤む。
あの男の不在がどんなに私を意気消沈させるか余人には解るまい。
ずっと、悟られるまい悟られるまいと腐心しつづけているのだから。
時には自分の自尊心に憎しみを感じてしまうほどに。
そしてそんなにも健気な私なのに、Hの発音もできないあの男には洞察なんて芸当は五千年早すぎた。
…どうしてこうもうまくいかないんだ!
誰かが芝生に置き去りにしたラジオから、今週のチャート一位を獲得したヒット曲が流れ始める。
「あなたがいなけりゃ音楽なんて意味ないの」
「あなたがいなけりゃ音楽なんてなんにも意味ないの」
「かえってきてちょうだい」
うっかりセンチメンタルになったりしてたまるものか。
だいじょうぶ、雲の切れ目から見える空は青いし、風は万難を排して爽やかだし、少年たちは歓声を上げて駆け回っているじゃないか。
キスをかわす恋人たちなんか見なかったことにしてしまえ。
「マーカー」
ああ、きっと磨耗した私の繊細な神経が生み出した幻聴だ。
断じて、あのがさつで下品で口汚くておつむの弱いイタリア人なんかじゃない。
「探したんだぜ」
振り向くと私が死ぬほど執着しているタレ目男が手を振っていた。
「ロッド!」
抱きつきざまに二、三発張り倒した上に盛大に燃やしてやったが、私の愛情表現だと思えば嬉しかろう?
「あのな、今まで隠してたが、人として危ういくらい、お前が好きだ!」
話しかければ、地面に昏倒したロッドも心なしか満足の表情を浮かべていた。
ような気がする。