「ねえ、あのさ、俺さ、昔読んだ絵本があってさ」

イタリア人が何も考えずに口火を切る。 雨のそぼ降る昼下がりの会話のない状況に耐えられないらしい。 シンプルな奴。

「くまさんがね、ゼンマイでね、引っ越すの」

「もっと論理的な言葉で話せ」

んー、と喉の奥からくぐもった音声を出して、 大きな瞳は天井のシミを見つめて、 顎に手を当てて。 なるほどこいつはプレイボーイだ。

「えっとね、オモチャのくまさんと男の子がいてね、 くまさんはゼンマイを回してもらうと、自由に動けるんだ」

「自由に?玩具が?」

「いいじゃん絵本なんだから、細かいこと気にすんなよぅ」

言いながらミネラルウォーターの壜を呷る。 それが私の飲み残しだということまで気にしないのかお前は。

「で、ある日男の子はゼンマイを巻いたあと、 出かけて行っちゃうんだ。 くまさんは、家でひとりぼっち」

「それはまた、残酷だな」

雨音を聞きながら、目を閉じて夢想する。 私がオールドファッションなゼンマイ人形だとしたら。
きりきりと音を立てて私のネジを回す人。
ネジを回されて、動きだす私。
ネジを回して、そうして私を置いてゆく人。
なんだ、ただの喩え話だ。

「ま、残酷かどうかは置いとこうや。 で、お留守番のくまさんは本を読むことにした。 子供向けの動物図鑑かなんか。 それには『熊は洞穴に棲む生物』って書いてあった。 くまさんは急に不安になった。 自分のいるべき所はここじゃないんじゃないかって。 どっかの洞穴なんじゃないかって」

自分のいるべき場所?そんなことは私だっていくらも考えた。
なにせ人並みの身体ではなかったのだ。
少しでも感情が昂ぶれば、周囲の空気は即座に熱を孕み、 手桶の水は蒸発し、猫の尾はチリチリと焦げる。
家人への被害は言うに及ばない。
幼馴染みを生死の境に追いやった時には、 罪悪感のあまり井戸に飛び込もうとした。
水の中なら、火は点かない。

イタリア人は壜を飲み干してゴミ箱へ放り、そのまま私の肩に手を置く。

「よせ。燃やすぞ」

「いいんだ、燃やして」

それきり口を塞がれた。



雨の日はユーウツになる。 どっか調子狂う。 空が青くないのがまずいけない。 空というものは下のほうでどんなにバカやってる奴がいても、 ぺかぺかと明るくなきゃあ。
空気が湿るのも勘弁ねがいたい。 体が冷えて冷えて、そのままソルベになっちまいそうだ。 もとより俺は幸福なラテン男だから、憂愁哀惜黄昏雨天幽玄など そっち系の路線はとっても似合わないし。
でも、まあいいか。
あんたの唇はやわらかくて、とっても素敵だ。
だから悲しそうな顔なんかしないで。
ねえ。

雨はだんだん強くなって、窓ガラスにざかざかぶつかる。
で、俺たちは二人でそれを聞いてる。
贅沢な時間だよねえ。

「例の熊の話だが」

ちょっと掠れた声もセクシーだよ、あんた。

「一体どうなるんだ、続きは」

「ああ、知りたい?」

うふふ、気になるんだな。

「くまさんはね、ちょうどいい洞穴を見つけて引っ越すんだ。 枕と、灯りと、新聞持って。でも、なんかが足りない。 変だな変だなって思ってたら、洞穴の入り口からごとごと音がした」

あんたが俺の肩を撫でる。きもちいい。

「見に行ってみると、それはくまさんの持ち主の男の子だった。 『ばかだなあ、君にはネジを巻く僕が要るのに』って言って」

そんなにじっと見られると照れちゃうよ。きれいな目しちゃってさあ。

「くまさんは訊いたんだ、『じゃああなたには誰が要るの?』」

「答えは?」

俺、今、顔めっちゃニヤけてる。自分でわかる。

「もちろん君さぁ!」

叫んだついでに抱きしめようとした瞬間、 顔めがけて炎の塊が飛んできた。
その顔が悲しそうじゃなくていつもの俺の マーカーちゃんなので、俺はすごく安心した。



参考資料:ドン・フリーマン著『くまのビーディーくん』1976年,偕成社