記憶を失った彼はうすぐらい空間にたゆたっていた。冷えこんだ大気は彼を優しく包み込んでいる。彼の身体はなんらかの力に引かれる度に凝縮し、その力が弱まる度に拡散していく。その過程は幾度ともなく繰り返されていた。オレは永遠の中に在る、彼はそう感じた。永遠とはなにかわからなかったが、とにかく彼はそう思った。何も起きない、誰も来 ない、なにものにも干渉されることない、それは実に甘美な空間だった。だが、この安穏とした「永遠」は長続きはしなかった。

彼はあるとき、自分の体を這う小さな存在に気づいた。その小さなものは暫く彼の身体の動きに沿って前進していたが突然止まってしまった。もしかしたら死んだのかもしれない。そう思っていると、生き物のドロドロした体液のようなものが彼の中に流れこんできた。異物が自分の中に侵入してくる感覚は決して不快なものではなかった。むしろそれは彼にとあるものを与えるきっかけとなった。オレはなんだろう?自分以外の存在に接したことで誰もが思い悩むであろう命題に彼は直面した。

思い悩む彼を助けるように日が昇ってきた。黄金の太陽。全ての存在がその光に照らされ、姿形を露わにする。自分自身との対面はいつだって、恐怖をもたらす。彼も例外なく自分を客観的に捉えることに恐怖を抱いていたが同時に朝日によって露わになった自分の姿形を早く見たくもあった。その相反した二つの感情は水蒸気となって空気中に漂った。

太陽が昇りきると、その光が彼の身体に当たり、青空に乱反射した。彼は朝日に照らされた自分の身体を見渡した。彼の肉体は青く、地表に広がっており、美しかった。キラキラ光る青空と彼の身体は、彼に記憶の断片を与えはじめた。

あの上のほうでキラキラ光っているあの幕、あれは…。あの無限の空間は空だ! そしてこのオレを構成しているもの、これは水だ、オレは水の集合体だ。水がこんなに集まってできたもの…海だ。オレは海だったのだ。

そこまで思い出して、彼はさきほど自分の身体の上でとまった小さいもののことが気になってきた。彼の気持ちを知ってか、陽光はその小さなものを強く照らし始めた。早く助けてやれと言わんばかりに。彼はまずそれがなにかを確かめた。それは原油をのせたタンカーだった。タンカーは座礁し、大きな穴が開き、黒色の油が彼自身の身体に注がれていた。よく見るとありとあらゆる魚が朝日の中、原油まみれで浮かんでいた。タンカーはそんな魚たちに囲まれて苦しそうだった。

ああ、可哀想に。彼はタンカーに手…は構造的に無理なので、波を差し伸べた。一刻も早くタンカーを魚の死骸まみれの状態から救ってやりたかった。

「大丈夫か、ハーレム」

彼は自分の本当の名を思い出した。その瞬間、すべてのヴィジョンが倒壊した。青空はガラガラと崩れ落ちた。太陽は光を失い、パンという音をたてて破裂した。視界の全ては歪み、渦巻きとなって徐々に消滅していった。海であったハーレムはタンカーであったハーレムと混ざり合い、一体となった。彼は今、自分の本来の姿を思い出したのだ。

ハーレムは幼少時いたずらをするとお仕置きで入れられた赤い部屋の中にいた。

「ハーレム」

名前を呼ばれて振り向いた先に尊敬する父の姿があった。自慢の長い金髪はまるで太陽のように光っている。彼はハーレムをの頭を撫で、愛してるよ坊やと呟いた。

「父さん」

ハーレムはそう言うと自分とたいして年の変わらぬ父を強く抱きしめた。強く、もっと強く。父さんがオレたちを愛せなかったぶんオレが今父さんを愛さなければならない。それは願望ではなく義務であった。

「すまなかったね」

聞き取れないような声でそう呟いた父親はバーンという銃声がした途端にボキボキ音をたてて折れ曲がり、崩れおちた。鮮血が飛び散った。ハーレムは気付かなかった。彼はまだ血だらけの父親の腕をありったけの力で抱きしめていた。崩落した父親はメリメリと音をたてて変形し、光を放つ巨大な球体となった。ハーレムは今尚気づかず、抱擁を続けていた。

「パパ、パパ、パーパ、ごめんなさいごめんなさいぼくは悪い子でいたいんですごめんなさい」

泣き声をあげるハーレムを球体は優しく照らしていた。その光は徐々に強くなっていき、 やがて赤い部屋全体に満ち溢れた。

ハーレムは気がつくと油まみれの魚に姿を変えた戦場の亡者たちに取り囲まれていた。殆 どの魚は死に、残りは口をパクパクさせながらのた打ちまわっていた。害はないが気色わるかった。

することもないので彼は海に話し掛けた。

「お前は先程夢を見たか?」

「見たさ。ぼくはやっとパーパを見つけたんだ。パーパはいつだってぼくたちのこと見て たんだ。いつだってぼくたちに済まないって思ってたんだ」

「ああ」

彼らは黙って今まさに光輝く球体が昇ってこようとしている地平線を眺めた。朝がまた繰り返し訪れようとしていた。

「しかし、この魚には閉口する。なんとかならないものか」

「どうもならないよ。業だから。おまえはパーパの分まで背負ってるんだよ」

「そうか。ならば仕方ないな」

「それにぼく知ってるよ。おまえは実はその状態に喜びを見いだしてる」

図星だった。彼は死骸だらけのこの空間に次第に快感を感じ始めていた。

「ほら見なよ。類は友をよぶみたい」

空から蛇と小石をもったカラスがタンカーまでおりてきた。ハーレムに初めて仲間ができたのだ。