※以下の文は「Gはバツイチ!」というアレな捏造設定に準拠しております。
上の階からかすかに口論の音が漏れ聞こえていた。
妻の体と俺の体は離れたまま、いたずらに時間ばかり過ぎる。
「すまない」
「いいのよ、気にしないで」
微笑みは引きつっていたがあくまで優雅だった。
俺の妻は知的だからやさしい伴侶を演じる。
俺の妻は無邪気だからその空しさに気づかない。
「すまない、君を愛しているのに」
「もうよして。疲れてるのよ」
どれぐらいになるだろう。
見えない台本を読み上げて会話するようになってから。
「君は…気づかないのか」
「何に?」
どこかやつれた面持ちの妻の、頬に落ちた睫毛の影がむしょうに悲しい。
妻を抱きしめた。そんなことで、まだ壊れずに済むと安堵した自分の愚かさが悲しい。
●
初めて会ったとき、妻はリルケを読んでいた。
二度目にはランボー、三度目にはバイロン。
彼女はファンタジーが好きだ。
自分を脅かさない、安全なファンタジーだけ好きだ。
彼女にとって結婚は最も身近で安定したファンタジーなのだと思う。
俺はファンタジーを構築するための小道具だ。
昔は、それでよかったのに。
もうがまんできない。
今、俺はとても苦しいから。
苦しいということに気づいてしまったから。
もう長い間、胸中の違和感を呑み込み続けてきた。妻を受け入れたかったし事実そうした。
都心の高層住宅、洗練された内装、休日のブランチ、地中海へのバカンス、
クリスマスカード、ホームパーティ。
妻が欲し、俺が理解できなかったすべての物。
マイセンのサラダボウルとトラサルディの枕カバーを君にあげよう。
フェルメールの画集とシンディ・シャーマンの写真集を。
鉢植えのゼラニウムとジェイソンブルックスのカレンダーを。
すべてあげよう、だから俺を返して欲しい。
●
「どうして」
妻の顔が歪む。
「私達うまくやってきたじゃない」
「今の生活を壊したくないの」
「おねがい、冗談はよして」
スコールのような嗚咽。
それを笑顔に変えるためなら何でもできると思った日があった。
若かったあの頃の自分を否定はしないし、恥じもしない。
君はなに一つ変わらない。しかし俺は変わった。
もう、君への愛には酔えない。
君が泣くのは俺達の関係のためではない。
君が泣くのはオモチャを取り上げられたからだ。
君が丹念に築き上げたライフスタイルという作品を破壊される恐怖からだ。
そして、そんな君に対する暖かな感情を、俺はもう持つことができない。
●
夜中に二人で飲んでいると思いもかけない事実が発覚することがある。
今回もそうだった。悪いが愉快でしかたがない。
その男くささの塊のような腕に抱かれたい人間は多いだろうに。
たくましい体にのしかかられて思うさま蹂躙される快楽。
思うだけで背骨に甘い刺激が走るのに。
Erectile Dysfunction。勃起機能低下。
悪趣味なジョークのようによくできた話だ。
別れの理由を訥々と述べてから、いまでもその女の夢を見るのだとGは言った。
幸せに暮らしているかと、ただそれが心残りで。
ばかな男だ。
そんな話をして私を撃退できるとでも思っているのか。
「G」
首に手を回して勢いよくソファの上に引き倒した。
か弱い女じゃこんな芸当できんだろう。
黙って髪を撫でた。この愛しさは口ではうまく言えない。
「マーカー」
「何も言うな」
お前は誠実だが同時に野暮だからどんな見当違いの発言が出るかわかったもんじゃない。
お前の言葉に揺れるより、こうしてお前の体を受け止めている方がいい。
この温度。
たまらなく感じる。
愛のベーゼでもぶちかましてやろうと考えたところで、
何の予告もなくドアが開いて、長い金髪を振りながら上司が闖入してきた。
条件反射で慌てて離れた私とGを焦点の定まらない目で眺める姿は、
言ってはなんだがやはり獅子舞を髣髴とさせる。
「なんだ、逢引か」
「そうです。妬きますか?」
「…よしとく。どっちに妬いたらいいのかわからねえ」
青ざめた私を尻目にミネラルウォーターの壜を五、六本ばかり抱えて上司は出て行った。
まさかこんな所に伏兵がいたとは…くっ、とんだフェイントだ。
早急に対策を講じねばなるまい。
上司の足音が聞こえなくなった頃、Gが不意に私を抱きしめた。
怯えた動物のような仕草が胸を締め付ける。
そのまま唇を重ねた。
「マーカー」
「なんだ」
ソファに掛け、Gの頭を抱きかかえて、もう一度硬い髪を撫でる。
「俺は不能だぞ」
「かまわない、お前はお前だ」
どうも手垢まみれのいけすかないセリフだが本心なので仕方ない。
「マーカー」
「なんだ」
「…泣いても構わないだろうか」
「好きにしろ」
熱い涙が私の胸を濡らす。緩慢なアクメ。
空のとてつもない高みに、二人きりで浮かんでいるようなこの一瞬。