



| 安徳天皇潜幸説 壇の浦の戦いに破れた平家は日本全国に散らばり、その落人伝説は数多く残されており、また安徳天皇帝の潜幸説は全国10数箇所あるようです。 久留米市史の筑後平家物語には、安徳天皇幸説について下記の記載文書が多く残されております。その内容をたどると下記の通りです。 ■立石家据置記、建礼門院自言自筆。 ■久留米市長門石町の伝承 ■執行家旧記。 ■朝日寺縁起 ■栄尊国子神子僧由来記 ■久留米市大橋町常持「庄の前宮」の伝承 ■水天宮神徳記。 ■平家物語。 当時は、写真もなく、身代わり、替え玉、影武者は頻繁に行われいたようです。 宇佐八幡宮の「備忘録」では、壇ノ浦で入水したのは安徳天皇でなく、八幡宮の神託にて宇佐公通の嫡男公仲が身代わりになって海底に沈んだのだとも伝えています。 |
















| 源平の争乱関係 | ||
| 1177年 (治承元) |
6月 | 鹿ケ谷の陰謀。 (平康頼 ) |
| 1180年 (治承4) |
2月 | 安徳天皇、即位。 |
| 1181年 (養和元) |
2月 | 平清盛死亡。 |
| 1183年 (寿永2) |
7月 | 平氏都落ち、木曽義仲入京(略奪多発)。 |
| 10月 | 後白河上皇、木曽義仲討伐を要請。 | |
| 1184年 (元歴元) |
1月 | 源頼朝、範頼と義経を派遣し義仲討伐。 |
| 後白河上皇、平氏討伐を要請。 | ||
| 2月 | 摂津・一の谷の合戦。 | |
| 8月 | 後白河上皇、頼朝の了解なしで義経を叙任。 (頼朝と義経対立を生む) |
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| 1185年 (文治元) |
2月 | 讃岐・屋島の合戦。 |
| 3月 | 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。 | |
| 伊賀平家長、平知盛の身代わりで討死。 忠臣の伊賀平内左衛門家長が平知盛の身代わりとなり討死した。それにより逃れることに成功した。 ⇒ 田主丸町に平神社(平知盛の墓)あり。そこから10Mのところに伊賀平内左衛門公と刻まれた五重の石塔があるようだ。 家長は、平家物語では、平知盛の乳母の子と書かれており、乳兄弟で知盛が最大の信頼をおいた人物だったようです。 |
| 田主丸平へ逃亡 八丁越えより甘木を通って、平家の天領の田主丸平(旧地名:竹野村平)に逃れてきた。食糧支援したのはもと平家方武将の草野城主草野太郎長平。 |
| 安徳天皇と藤吉種継の娘の間に男子誕生。 安徳天皇は、藤吉種継の娘、千代姫(玉江姫)を妻とした。二人の間に男の子が誕生。別荘の小笹山(現在久留米市篠山)の改築して帝親子を移転させた。華やかな別荘改築を怪しく思った者が役所に届け、太宰府から駆けつけた兵が別荘を取り囲んだ。安徳天皇は逃避行を余儀なくされる。 ⇒生まれた男子は、仏門に入り、大善寺町の朝日寺を開山し神子栄尊と称した。 |
| 小舟で筑後川を下り久留米へ。 草野家によって差し向けられた武士の松明に照らされ常持村に到着。船を浮かべて待機。 二位の尼は、船着場そばの「庄の前宮」(現:庄前神社)にて一行の安全を祈り愛用の手鏡を奉納。 小船十数艘で巨勢川経由、千歳川(現筑後川)で下り、久留米の北、高野の浜に到着。 |
| 源氏方の指示で草野氏、平知盛を攻める。 源氏の間者(スパイ)情報にて安徳天皇一行が田主丸の平に逃げ込んだ事を知る源氏方は、草野長平に平知盛を打ち首にするように指示。草野は夜襲を決行したが平家の御館には切り込まず遠巻きにして攻めようとはしなかった。 |
| 松田の別荘に移り隠匿生活。 源氏の追求が厳しく、松田某の計らいで白口村(荒木村白口)にある松田栄之丈の別荘へ移った。ここは生い茂る樹木に囲まれ、この別荘が帝親子の安住の地となった。 ⇒現在の白鳥神社である。この境内には、名劔大明神を祭られている。見つからなかった三種の神器と何か関係があるものと推測される。 |
| 壇ノ浦の戦 安徳天皇は、源義経の温情あるはからいで「初音・喜太夫」という二人の身代わりに助けられ二位の尼や平知盛らと共に小倉に上陸した。(博多上陸の説も) |
| 安徳天皇、豪族藤吉種継が匿う。 安徳天皇一行は、まず地頭の松田某の館に入ったが、ここに源氏の手が伸びてきたため、下野(鳥栖市)の立石儀右衛門宅に隠れた。その後、小笹山(久留米)の豪族藤吉種継を頼った。 ⇒平知盛は、さらに南下し八女市平に住み着いたと伝えられる。また、伊賀平内左衛門家長の妻子も同行しており、八女の地に逃れ新庄に住み着いた。新庄今山の荒人神社に祀られ服部姓は子孫だということ事である。 |
| 安徳天皇崩御。 安徳天皇は、28歳で天然痘にかかり崩御。遺骸は篠山に埋葬され、菩提寺は日輪寺とされる。 ⇒25歳崩御説もあり。この日輪寺はかって神子栄尊(安徳天皇説あり)が創建した朝日寺の末寺となっているようだ。 |


