県教委が調査した、大分市鶴崎の大分鶴崎高校内の遺跡から16世紀後半に同地域を拠点にしていた吉岡氏の鶴崎城跡が出土。出土したのは幅1.5メートル、深さ1〜2メートルの堀が三本と井戸跡。土師器(はじき)や陶器片も見つかった。鶴崎城は1586(天正14)年、薩摩の島津軍が豊後に侵入した際、同城を守っていた当主・甚吉の母・妙林尼が、武士や農民とともに死守したことで知られる(2001.2.23)
鶴崎城
鶴崎城
戦国末期に見える城名。豊後大分高田荘のうち、大野川と乙津川は北流して、別府湾に注ぐが、この両河川が迫り、陸部は琵琶の首のように細くなっている。鶴崎城はその琵琶の頭部に当たる地に構築されていた。
 鶴崎城の位置は、当初不明で鶴崎村姫宮社近辺、肥後藩御茶屋跡(現鶴崎高校)と言われていたが、その後の発掘調査で鶴崎高校の敷地内よりその遺構が見つかった。
 鶴崎町史によると、築城については吉岡宗歓が築くと伝えられるが確証がなく古書では、
●肥後領古城考、豊後三郡志には「大友家臣吉岡宗歓、鶴崎邊を領知して此處に在城す」 
●肥後国史には「大友義鎭の臣、吉岡入道宗歓の故居」
●鶴崎路小案には「大友義鎭家臣 吉岡三河守入道宗歓、當所を領地して千歳の城より移り、其子鎭興相続で在城す
●豊後史蹟考では「大友義鎭の長臣 吉岡宗歓の據し所なり」
とあり、吉岡宗歓が築城と明記したものなし。宗歓の築城したと明記してあるのは、豊後国史に「千歳城、在高田郷千歳村、吉岡宗歓築以居焉」とみえている位である。

 吉岡宗歓は鶴崎地方を領有、千歳城に居城し、平時はこの山地より河海に接し交通便利な鶴崎に屋敷を構えていたと思われる。鶴崎の邸宅を、天正14年、薩摩軍が来襲に際し妙林尼が城構を強化した記述もあり。
 ◇薩摩軍襲来: 「大友家文書録」の戸次・鶴崎戦争によると、1586(天正14)年冬、豊後に侵入した薩摩勢は、伊集院美作守・野村備中守を大将に3,000余名で鶴崎城を攻めたとある。同城は琵琶の頸という所にあり、堀をめぐらし、外堀にはヌカルをたて、内には築地を構えていたと見える。城主は大友氏加判衆として活躍した吉岡宗歓であったが、当時はすでに死亡しており、対薩摩合戦では、後家妙林尼が総指揮にあたったという。薩摩軍は鶴崎城の抵抗に会い、鶴崎に討ち入る事が出来ず、白滝山(川添地区迫)に陣を敷き入る事が出来なかった。孤立した妙林尼は奇策を持って薩摩勢を退却させたという。この時、伊集院美作守・白浜周防守らが妙林尼の術中に陥り討ち死にしたともある。
 ◇慶長年間、加藤清正が修理のうえ、支城にしようとしたが、果たせず、寛永年間に細川綱利により塁壁が毀され、その跡に肥後藩の宿所が建設された。(豊後国志)
                        (参照:鶴崎町史)
大友時代の城跡出土 鶴崎高校内の遺跡から 大分市
◆鶴崎城の発掘 (豊後考古通信2001.2.23)
大分市鶴崎の紹介へ
鶴崎城主・吉岡氏
吉岡氏の経歴紹介。
「鶴崎城」
△鶴崎城
△千歳城
興満寺「津留崎石見守の墓」
福岡県筑後市に天文8年(1539)良膳の創建した興満寺あり。その境内に津留崎石見守の墓があります。
その碑文に、「天正5年(1577)、豊後国鶴崎城主津留崎石見守鎮義」と書いてあります。

龍造寺家晴が鶴田に陣を置き、大友幕下山下城主蒲池鎮広を攻撃した時、豊後より応援に来て、この地で戦死したのでは? との推測。
(鶴崎城の城主は、吉岡氏・・・となっていますが、新説。今後の解明を期待します)
千歳城
今堤川に面した丘の上にあり千歳児童公園にある。城跡の碑あり。(桃園団地はずれ)。鶴崎市街を見下ろせる場所で標高差30〜40m。
★上記、津留崎(鶴崎)石見守が鶴崎城主と記した石碑等が福岡県久留米市・筑後市があります。ただ鶴崎氏が大友氏の家臣あるとの記載されている文献はなかなか見当たりませんが、下記文献に大友氏の部下でありかつ有力家臣であった事を物語る記載がありました。

鶴崎城跡

 鶴崎小、鶴崎高校のある付近一帯は鶴崎城があったところです。豊後の国主大友宗麟の重臣吉岡宗鑑は鶴崎地方を領有し、千歳(せんざい・大分市)に城を構え、後に鶴崎のこの地に居館を営みました。これが鶴崎城の創始といわれています。
 天正14、15年(1586・7)大友、島津の戦いの折、吉岡妙林は婦人でありながら城を守り、これを堅固にし、城兵を激励、敵をあざむく計画をめぐらして、島津軍を乙津川に襲撃、ついに潰滅させた。これが鶴崎城の戦いで、妙林の女将としてのほまれは後世に語り伝えられています。
肥後(熊本)藩お茶屋跡
慶長六年(1601)鶴崎その他が肥後(熊本)領となった。藩主加藤清正は鶴崎城跡を改修してこの地をお茶屋としました。お茶屋というのは藩主が領内を巡視したり、参勤交代で江戸に往来する時の宿泊所です。その後寛永九年(1632)、加藤氏にかわって細川氏が肥後藩主となりましたが、お茶屋はそのまま引きつがれました。
 お茶屋には、茶屋御殿をはじめ、御郡合所、御郡代詰所、御銀所、御武器蔵、御茶屋番詰所など多くの役所や役人の詰所などが設けられ、また「成美館」という肥後藩の学校もありました。
 加藤清正がここに御茶屋を設けて以来、明治四年(1871)廃藩に至るまで二百七十年、その間幾多の変遷がありましたが御茶屋の果たした役割は大きかったと思われます。     大分市教育委員会
鶴崎城関連情報
日本名数辞典(東京堂出版 昭和49年初版) 朝倉治彦/森睦彦/井門寛 編
名数数詞辞典(東京堂出版 1980年版)  森睦彦著
八将(はっしょう) : 田原・田北・鶴崎・吉岡・伊美・吉弘・川窪・城井。大友氏の家臣のうちの有力八氏。
八将といわれた時期は不明ですが、今後調査解明がなされる事を期待します。(他の七氏が活躍していた時期?)

このうち、田原・田北・吉岡・吉弘家は、大友一族・庶流の一族で大友家臣団として著名ですが、鶴崎・伊美・川窪・城井氏につき記載されている文献乏しく現在、本HP管理人が分かっている範囲の情報の一部を紹介いたします。
歴史の中で伊美弾正・川窪掃部助・城井小次郎という武将の名があったが、いずれも大友宗麟時代であり、
1555年〜1570年頃活躍したようであり、この時期を八将と称したのではないかと推測されます。
◆姫之宮春日社
◆姫之宮春日社の姫之宮伝説
姫之宮春日社
祭神:天児屋命
由来:天正三年(1575)大友義統の建造営
名木:楠(くすのき)
   高さ18m、幹周6.8m
   樹齢 400年
姫之宮伝説が残る。
ず〜っとず〜っと昔のこと、この領地の殿様が戦に敗れました。殿様のお姫様の乳母は敵の手に落ちるよりはと、お姫様をたくさんのおもちゃや、お菓子と一緒にここに埋めました。そして目印に楠をさしておきました。お姫様を埋めた乳母は、お姫様のよく見える九六位山で自害したと伝えられています。お姫様を埋めた日には今でもお祭りをしています。その日には九六位山に火があらわれて姫之宮の楠の木にとまるといういわれが残されています。」
鶴崎城が近年発見されるまで、姫之宮春日社の近辺にあったのではないかと言われてきました。
1.宝暦11年(1761)、森本一瑞作の肥後古城考の中に、鶴崎城の位置を「鶴崎村姫宮の邊りにありたると云。今に内郭掘跡少し残れり。」と記載されており、その他、肥後領豊後三国志、高田手永惣庄屋岡松俊助の手帳にも同様な記載がある。
2.姫之宮の鎮座地である前田の西側より北側にかけて「家形」という字ががあり、家形とは府内の大友氏の居館を大友屋形と称しているのでここに館があったのではないだろうか。即ち、ここに大友氏の別館があり、前田がその屋形の前面に位置する田ということから起った名称ではないだろうか。 (参照: 豊後鶴崎町史)

上記、姫之宮伝説の姫は、大友氏継(第9代当主)の幼い姫でないかと言われています。氏継が大友家の家督を継いだ時代は、九州は南朝の勢力が強くそれに抵抗できず南朝方に味方し、弟の大友親世は北朝方に残ったので、大友氏は兄弟で戦うことになった。(大友氏継の乱: 応永5年(1398)の9月より翌年2月。氏継、応永7年(1400)死去。大友親世が第10当主へ。)
1.鶴崎氏・・・・筑後に「豊後国鶴崎城主津留崎岩見守」の石碑あり、筑後にて天正5年死去。鶴崎→津留崎へ苗字改姓。久留米市大善寺荊津より藤吉に住まい。戦国時代後期は、三潴庄海津城の安武氏の部下か?

2.伊美氏・・・・大分県国東市に伊美城跡(築城年代不詳)があり。蒙古合戦に勲功、大友氏に属す。城屋敷・馬場の地名が残る。伊美氏は日田氏の一族で、日田永俊は鎌倉幕府成立期に竹田津荘を得ている。伊美氏は、竹田津氏・櫛来氏らと共に「浦部衆」と呼ばれた水軍の将であった。
@大友方の勇将に伊美弾正の名が見える。永禄4年(1561年)の門司城攻防戦にて、毛利氏・小早川氏家臣の及美宗勝は衆人環視の中一騎打ちにて、伊美弾正を討ち取ったとの事です。(宗勝は始め弾正に槍で鼻のあたり突かれて負傷した)。この事もあり毛利方の士気は俄かにあがり、大友軍は門司城奪還の不可能を知り、同年11月に総退却を開始した。その時の大友方の大将は吉弘鎮信。

3.川窪氏・・・・大友氏の部下であったとの記録は皆無に近いが・・・。
@同じ姓で戦国時代に、土佐の長曾我部元親(1539-1599)の部下に川窪定氏(もと山田氏家臣)がおります。後にその子は元親の命により川窪氏から依光氏に改姓しています。大友氏は四国の雄族との間で婚姻を通じており、大友宗麟の娘は土佐国の国司であった一条兼定の妻となっています。(天正二年、(1578)に兼定は家老達に追われ豊後に渡っている)。
A永禄12年(1569)、大内輝弘の乱: 大友宗麟の重臣吉岡宗歓(長増)の進言で、大内輝弘が大友義鎮(宗麟)の支援を得て、毛利元就に奪われた周防国山口の奪回を企てた、その大友方に川窪掃部助と城井小次郎等の名前が見受けれます。(鶴崎町史)
 この頃、大友軍は毛利軍の猛攻に押され筑前の大半を奪われ滅亡の危機にさらされていたが、毛利軍の主力が筑前に集結している事を知り、その留守をつき尼子の遺臣に武器資金を援助し出雲に進入させ、また若林鎮興による援助で大内輝弘に山口を攻める戦略をとった。結果、毛利軍は九州からの撤退を余儀なくされ、これを大友氏が追撃し大打撃を与えた。以降、九州から完全に毛利軍の影響を排除できた。
 *若林鎮興 (1547〜1593年 47歳没)、大友家の海賊大将。浦部衆。浦部衆には若林氏、伊美氏、竹田津氏がいた。

城井氏・・・宇都宮氏系。宇都宮宗綱の子、信房が豊前守守護職として中津郡の城井に築城し姓とした。大友一族、一万田家の庶流が城井を名乗る。城井(しろい)氏は大分に分布し、城井(きい)氏は北九州小倉南区に点在する。(性氏家系歴史伝説大辞典(勉誠出版))
@上記、永禄12年(1569)の吉岡宗鑑の策にて起こった大内輝弘の乱で、城井小次郎(自害・討死。1000名率いて宮野岩川で激戦)と川窪掃部助の名が見受けれます。(鶴崎町史)
A戦国期の当主城井
鎮房は、島津氏が台頭すると、大友氏から離れ島津氏についたが九州征伐(1587年)により、島津氏が豊臣秀吉に降伏し、鎮房も秀吉に従うことになり、城井氏は伊予国への転封を命じられた。しかし、鎮房はこれを拒絶し、豊前国の本領安堵に固執したため、秀吉の参謀で豊前国中津に新たに大名として入封してきた黒田孝高と対立する。1588年、孝高は鎮房を中津城に呼び出して騙し討ちを仕掛け、鎮房は討ち取られ、また嫡男城井朝房も同時期に暗殺され、更に居城を攻められ一族ことごとく殺害され、大名としての城井氏は終焉した。
1550年ごろの年表(PDF)
大友宗麟と吉岡宗歓、鶴崎との関係をプロットしてみました。