昭和30年代の話し。

 

子供の頃

さくらがさいた

小学校1年の最初の国語の教科書は「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」とカタカナで始まっていた。なぜ、カタカナから入ったのかはよくわからないが、確か始めはカタカナだった。

学校へは、石版(セキバン)を持って通っていた。黒板の携帯用みたいなもので、ランドセルとは別に石版袋に入れて、そこへ文字を書いては消し、書いては消しをしながら、「字」を教えられた。書くものは、チョークではなく、硬い角ばった石の棒のようなものだった。それは、いつ頃まで使っていたのだろう。わりと早めにノートに変わっていった。大きな桝目の入ったノートだ。始めの頃は学校も面白かったのだろう。行きたくないと思った記憶が無い。小学校は2階建ての木造校舎で下の方が低学年、上の方が高学年だった。天気の良い日は放下の時間になると、ほぼ全員が運動場へ出て遊んでいた。その遊びが楽しくて学校もイヤでは無かったかも知れない。学校のそばには小川やたんぼがあり、理科の時間に時々その辺で、もくそがにや、虫、かえる、をとってくる事もあった。今思うと小学校1年生の先生は大変だったと思う。字を知らない者に字を教え、たしざん、ひきざんまで教える。たいした者だ。感謝しなければいけない。

いどばた

我が家と隣の家は2軒続きの長屋だった。ある大手の会社の社宅で親父が勤めていたが、自分が、もの心ついた頃には親父はその会社を辞めていた。組合のなんとか部長だったらしいが、その関係で会社をクビになったらしい。しかし、金もないし当然住むところも無いので、その後も何年もそこに住んでいた。お隣もその会社には勤めておらず、土建屋のような仕事をしていた。2軒の家で1つの井戸を共同で使う。水は手でガチャガチャとポンプを押しながら汲み、水が流れてくる管をこちら側に回したり、お隣さん側に回したりして共同で使う、だから炊事場もお互いに良く見えるところにあり、お隣は今日は何を食べるのかが良く分かる。自分もお隣でご飯を良く食べさせて貰ったが、隣の子(自分より3つくらい下だと思う)もよく我が家でご飯を食べた。大体同じくらいのレベルだったのだろう。

朝、顔を洗う時には、必ず隣の誰かと一緒になる。我が家は6人家族、隣は夫婦とその子供と、お父さんの弟さんが一緒に住んでいたから4人だ。だから必ず、朝の「おはよう」が何回か良く聞こえてくる。そして何かの言葉が飛んでくる、「こうチャン、しっかり勉強しとるか?」「うん、やっとるよ」「そうか、なら良いが、高校へはゆくんだぞ」とか、ハッパもかけてくれる。高校へゆけるかどうかは、当時は親にその余裕があるかどうかで決まるもので学力では無い。しかし、そんな朝は気持ちの良いもんだ。

そして、しょうゆだの味噌だの塩だのお米などがしょっちゅう両方の家を行ったり来たりしていた。無い事がわかっていても買ってこないで、「お隣から借りればよいわ!」ってな気持ちなのだろう。しょうゆや味噌は借りるのでは無く間違いなく貰ってしまうのだ。両方がやっているのだから、最終的にはトントンかもしれない。朝、顔を洗うときにお隣と顔を会わせ、挨拶をするのは、安い民宿か山小屋に泊まった時くらいしか、しなくなってしまった。

 

みちくさ

終戦の年に産声をあげたオレ達の世代は貧乏人が多かった。

保育園や幼稚園はあったが、行かない子供の方が多く自分の名前がやっと書ける位の状態で小学校へ入学した。身に着けるものは殆どお古で下駄やぞうりで学校へ通う、教科書は近所の一年上の人達から貰いランドセルだけは新品だった。

通学は、子供の足で1時間くらい掛かっただろう(学校まで一番遠い地域だった。)

自動車はまだそんなに走っておらず、牛や馬が引っ張る農家の荷車が通るくらいで、クロガネ、マツダ、ダイハツのオート三輪がカッコ良かった。

学校の行きかえりに牛や馬の荷車を見つけると、ソーっと後ろから近づき前のおじさんに見つからないように飛び乗る、時には後ろに積んであるわらと一緒にずり落ちておじさんに怒られ、走って逃げる、、これがたまらなく面白い。

今の様にに集団での登下校ではなく、気の会った者同士で帰るので帰りは色んな遊びができる。チャンバラをしながらとか、石を投げ合いながらとか、途中の畑のトマトや、ザクロ、カキ、ビワなどちぎっては、逃げて隠れて食べる、家へ持って帰ると怒られるので、途中で食べてしまう。これが又うまい。でも毎日やっていた訳ではないし同じ畑ばかりからは取らない。。。でも当時のお百姓さんは、恐らく知ってて知らぬ振りをしていてくれたのだろうと思う。みな、食い物もロクなものが無く腹が減っていたから…

 学校迄の途中に名鉄電車が通っているが、一度電車を止めてしまった事がある。

2人でやったのだが、電車の線路に5寸釘を置いて置きその上を電車が通ると5寸釘が刀のように平になる、それを何とかナイフにしようとする遊びだが、在る時釘を置いて土手で隠れていたら、電車の運転手さんに見つかってしまって電車が止まり運転手が降りてこちらへ向かって何やら怒鳴りながら走ってきた。これはまずいと、一目散に逃げた。途中まで追うほうも追っかけてきたが、いつまでも電車を止めておく事も出来ず電車に戻ったので、やれやれだった。次の日学校で「誰かが電車の線路でいたずらをし電車が止まった」

と言う話があり線路に何かを置くと電車が脱線し大事故になる…と教えられた。

「やった者は正直に申し出なさい。」と言われたが、2人で絶対に誰にも言うな、と約束しあい、知らんプリをしていた。2人だけの秘密になっている。

じんけんがわ

近くに3つの小さな川があった。深見川、中川、じんけん川、深見川は浅くてタモで魚がとれる小さな川、中川はその3本の川の真ん中の川で結構深く水がよどんでいて、うなぎが釣れた。一番遠いじんけん川が夏には泳ぐことができる適当な深さの、水もきれいな川だった。そこで夏にはよく近所の子供同士で連れ立って遊びにいった。麦藁帽子にだぶだぶのランニングシャツ、半ズボンにゴムゾウリ、当時は水着など持っている者はいないので、てぬぐいを持って、遊びにゆく。そしててぬぐいで、ちんちんを隠すように「ふんどし」にして水の中で遊ぶ。人に見られたってどうって事のない小さなちんちんだが、一応はこのふんどしで隠す。

このじんけん川はしじみもとれるくらいのきれいな、川幅も20mくらいはあるひろい川で川底は砂地になっていた。そこでふんどしで泳ぐ、学校にはプールも無く水泳の授業も無いので、皆我流でかえる泳ぎで泳ぐ、川だから中には深みもあり、結構危険だけれどもそれが面白くて遊ぶ。川をこちらから、向こう岸まで泳ぎきると結構皆からちやほやされヒーローになれる。自分の場合はチビだし泳ぎも苦手なので、怖くて川を横断した事は無い。けれども夏になるとよく遊びにいった。小学校の時でこの川で死んだ友達を一人だけ記憶している。親がついている訳では無いが、そんなに事故には合わないものだ。彼は橋の上から飛び込みをして死んだと言う。聞いた話しでは心臓麻痺だったという。

学校でその事故の翌日にその話しがあり、「川で遊ぶ時は十分注意するように」と注意された。しかし水泳禁止とは言われなかったのでその後しばらくはさすがに遊びには行かなかったが、暑くなるとまたすぐにその川での遊びは復活した。

みずすまし

我が家の前に明治用水がながれていた。幅は2mくらいで深さは平常時で子供のひざまでくらいしかない。近所の田んぼへ水をいれるためのものだ。その明治用水も子供達の格好の遊び場になる。親にとってもなかなか便利なところで、障子の張り替えをする為に紙をはがした障子をその明治用水で「のり」の残りをたわしで洗い落とすのだ。そう言う仕事はよく手伝わされた、でも結構楽しんでやっていたような気がする。そんな川にアメンボやたなごやゲンゴロウなどの魚や水生昆虫の中に「みずすまし」が沢山いた。

みずすましは丁度てんとう虫くらいの大きさで黒く光っている。水の中に時々はもぐるが、よく水面をクルクルと円を描いて回っていた。直径10cmくらいのところを相当の早さでクルクル回る。時々その回る方向が変わるのだが、同じところで回っているのでタモで捕まえるのはわりと簡単だった。捕まえてバケツに移してもバケツの中で回っている。その回り方が本当に面白かった。それと、この虫は何故か非常に良い香りがしていた。安い香水よりもよっぽど良い香りがした。捕まえると手にその香りがいつまでも残っていた。しかし捕まえてバケツの中にいれると翌日まで生きていなかった。すぐに死んでしまうので飼うことは出来なかった。

そのみずすましは今はどこへ行ってしまったのだろう。最近はさっぱり見た事が無い絶滅してしまったのだろうか。みずすましにもう一度会いたい。そして今の子供達に見せてやりたい。

ざりがにつり

ざりがにつりもよくやった。エサはかえるだ。まずかえるを捕まえて、地べたに叩きつけて殺しておいてから皮をむく、皮をむくのは足のほうから向いてゆく。時にはまだ生きていて、皮をむく時にバタバタするものもいる。皮をきれいにはぎとったら竹のはしに縛り付けた木綿糸に足を縛ってぶらさげる長さは1mから1.5mくらい。それを川の中や池にほうりこむ。するとすぐにざりがにが釣れる。川に入れればほんとに入れ食いで、エサのかえるがぼろぼろになるまでよくつれた。

あるときざりがにのつもりでいたら、あまりにも重いので、これはでかい魚でもつれたのかと思って竿をあげたら「蛇」が食いついていた。かえるを一のみにするくらいの50cmくらいの蛇だ。これは気持ち悪かった。かまくびをもちあげた状態でなかなかエサから離れなかった。水面を竿の先の糸と一緒にひっぱればひっぱったほうにスイスイと泳いでくる。毒のある蛇ではなくアオダイショウなので安心はしていたが、やはり気持ち悪くてそのまま竿を放り出してしまった。するとそのまま蛇の後ろに竹が引っ張られて暫く竹が水面を滑っていた。ざりがに釣りに行って、蛇をつったのはこの1回きりだったが本当に気持ち悪かった。あの頃は蛇のしっぽを掴んでぶんぶん降りまわす勇気のある子供もいたが、自分にはそれはできなかった。捕まえた事はあるが、すぐに離してしまう。

釣ったざりがには「肝臓ジストマ」がいるから食べてはいけないと言われていたが、家族に内緒で自分だけでセンベイにして食べた事がある。これが旨かった本物の100%エビセンベイだ。我が家に鉄製のセンベイつくり道具があったので、ザリガニの身の部分だけをむきとり、それを塩茹でにする。怖かったので相当長時間沸騰させて茹でた。それから鉄板2枚でできたせんべい焼き機に油をひき何匹かを乗せて鉄板で挟んで焼くのだ。ジューっとゆう身が潰れる音とともに非常にこおばしい良い匂いがしてくる。これも焦げ目がつきカリカリになるまでしっかり焼く。それを恐る恐る食べる。旨かった。。。本当に旨かった。

ザリガニをセンベイにして食べた事を後で母に話したら、ひどく怒られた。それから釣りには行ったが食べる事はしなかった。

 

さかなつり

小学校の頃は良く釣りに行った。当事は近くに貯め池がいっぱいあって、フナが良く釣れた、家の庭のゴミ捨て場でシマミミズを堀りそれをエサにして釣る、池といっても本当に小さな池でたんぼに囲まれた5m四方位の池だ、さおも竹のさおで浮きと重りと針でつる。夏休みはしょっちゅう行っていた。大きな麦わら帽子にランニングシャツ、半ズボン、ゴムゾウリ、手にはブリキのバケツをもって。

一番肝心なのは、浮き下の長さだ、細長い浮きが立つくらいの長さが丁度良い。魚が食うと最初浮きがチョンチョンと少し上下に動く、しかしこれはそそっているだけで、食いついてはいないその内にグっと中へ持ちこむのでその時が引っ掛け時でさおを横へ引っ張って魚を引っ掛ける。又、浮きがグっともぐるのではなく、横へ静かに移動している時がある。この時もさおを横へ引っ張ると魚がひっかかっている。釣った魚は家へ帰る途中に中学校があり、そこの手洗い場に水を貯めてそこで暫く泳がせてから家へ帰る。これで幾分か魚がきれいになるだろう.勿論これは家で大事な食料になる。甘露煮にしたりフナ味噌にしてよく食べた。

次はハゼ釣り、この方法は自分の新案特許だ、エサはこれもミミズ、道具は1mくらいの竹10本くらいその辺の女竹を適当に切って、先に木綿糸をつけ、(テグスではない)その先に釣り針を縛る。重りも無しだった。エサをつけた竹を1m間隔くらいに並べて水の中へつけておく。勿論エサが底に着くくらいの浅いところだ。10本並べ終わったところで順番に竹を挙げてゆく。そうすると半分の5本くらいにはハゼが食いついている。面白いように釣れた。(これが釣りと言えるのか?)これも勿論大事な食料になる。

おべんとう

小学校の頃は給食がメインだった。パンと脱脂粉乳とおカズ。脱脂粉乳がうまくなかった。しかし腹が減っていたので残さずに殆ど食べたと思う。しかし困るのが、べんとう持ちの日だ。週に1回くらい合ったような気がする。このおカズの内容で大体の生活レベルが分かってしまう。中にはべんとうを持ってこなかった子もいる。彼らは何かを買って食べるのではなく、「ヒルメシ抜き」なのだ。べんとう箱はアルマイトのべんとう箱で自分の場合は上の兄や姉が使ったものだからべこべこにそこら中がへこんでいる。

さて、そのべんとうのオカズだが、こんなのがあった。あぶらげを焼いて醤油をかけごはんの上にのせる。スルメを焼き、醤油をかけごはんの上にのせる。サンマを焼いたもの、イワシを焼いたもの、のりをごはんの上にのせたもの。朝のみそしるの残りの具(煮干でだしをとっていたのでこの煮干もついてくる)。女の子はやはり違う、いつも卵焼きがあるし品数がなにしろ多い。自分の場合はまずは1品それに、ごはんが食べられるように紅しょうががついている。それでもおいしかった。

隣の女の子が優しい子でよく、「卵焼き、あげようか」と言われ「うん、うん、欲しい、欲しい」と二つ返事でよくおカズを分けて貰った。自分のおかずも「あげようか」といってみるが紅しょうがを少しもっていくくらいだった。彼女のおカズは「本当にうまかった。」小学校2年生の時だったが、いつも髪を三つ編みにして、勉強もよくできた彼女が大好きになった。間違い無く食い物で落とされた初恋だった。学校帰りに神社でほかの女の子2人ともう一人の男(女の子3人の名前はよく覚えているが、男の子1人の名前はどうしても思い出さない。。まあこんなものか?)と5人で走りまわって遊んだことがある。その時胸がわくわく、どきどきした事をはっきりと記憶している。

えいが

テレビも無い、洗濯機もない、冷蔵庫も無い、ゲームも無い、とにかく今では考えられないような時代だった。だから遊びは明るい内に外で遊び夕方、暗くなってくると誰かが、「こうじ!ごはんだから帰っておいで」と遊んでいる場所へ呼びにくる。その時点で遊びが終わり、大部分の子供が帰ってゆく。ごはんではなく、おかゆでもうどんでも、おいもでも「ごはんだよ!」と呼びにくる一度か二度、「ごはんじゃないじゃないか」と腹がたった事もあったが、そんな事は仕方が無い。夕焼けの中を帰ってゆくと、どこからか「広沢寅蔵の浪花節」が聞こえてくる。夜はもっぱらラジオで楽しみは何といっても映画だった。東映、東宝、大映、日活などだ、自分たちはもっぱら、東映のチャンバラ映画で笛吹き童子、紅孔雀、多良尾伴内、鞍馬天狗、丹下左前などだ、「ひゃらーり、ヒャラリーコ♪ひゃりーこ、ヒャラレロ♪」スターは、中村錦之助、東千代の助、片岡千恵蔵、嵐完寿郎、大友柳太郎などだ。

映画は2本立てで、映画館の中は、今のように禁煙ではなかったから煙がもうもうとしており、又立って見ることが多かった。本当にいつも満員だった。近所の子供どうしで連れ立って、早めの晩ご飯を食べてからゆく。悪者をやっつける為に鞍馬天狗などが馬に乗って登場してくると、館内が割れんばかりの拍手のうずになる。完全に映画の中に皆入りこんでいる。片岡千恵蔵の「ある時は片目の運転手、又ある時はせむしの男、又ある時は・・・・」この7つの顔を持った多良尾伴内が怖かった。映画館までは歩いて30分くらい掛かるから、帰りは当然暗い夜道を帰ってくるわけで、まだ映画の余韻が残っているから、誰かがふざけて脅かすと本当に怖い。

時には広場で映画会があり、むしろを持って早めに場所を確保してうちわでばたばた蚊をおいながら見たものだ。いずれにしろ当事は「いいもん」と「わるもん」がはっきりしていて、非常にわかりやすかった。ヒーローは皆かっこ良かった。

マンガ

親父が儲からない回覧雑誌と言う仕事をしていたお蔭で、マンガ本はよく読んだ。当時月刊誌で、「少年画報」「冒険王」「漫画王」があって毎月新しいものがくるのが待ち遠しくて仕方なかった。

赤胴鈴の助、イガグリくん、などまだいっぱいあったが忘れてしまった。連載ものが好きだった。鉄腕アトムとかはもっと後のような気がする赤胴鈴の助はお玉が池の千葉道場の門下生、イガグリくんはイガグリ頭の柔道少年、得意技は「やまあらし」本誌に連載が掲載され、続きは別冊付録へと続く。この別冊付録が嬉しくてしかたがない。こうなると結構読みでが随分ある。あのころは剣道漫画、柔道漫画、それと誰々物語と言う実在の人物の生まれてから、大成するまでの苦労物語が多かったような気がする。漫画の絵も物語そのものも現代のものほどリアルではなく。漫画に没頭してても、現実の世界との切り替えはしっかりとできていた。

学校の授業中にノートによくこれらのマンガの絵を書いていた。一度先生にそれが見つかり、教室のうしろに立たされた事がある。自分はチビだから教室の席は小さい頃はいつも一番前だった。そこでそんな事をしてれば当然見つかる訳だ。マンガを嫌う親がいるが「本への興味」はここから始まると思う。

うんどうかい

学校での催し事で一番楽しかったのが、運動会だ。学区全体の大事業で大部分の親も参加したと思う。1学年で3クラスの学校で1クラス50人弱自分達の1年下は2クラスだった。お昼は各家庭から弁当をもってきて親と一緒に食べる。大抵寿司だった。揚げ寿司と巻き寿司だけだけれどもすごいご馳走だ。それと栗とかキャラメルとかもってゆく。自分は「ごんぼ」と言うあだ名がついていたが、チビのくろんぼのヤセだからだ。まあ太ったのは殆どいなかったが。徒競走で賞品が出るから楽しかった。小さい順番に並んで6人づつ走るのだが、自分の順番は大抵2番目か3番目だった。そして走ると1着が多かった。6年間で2着になったのは1度だけだった。負けたのは宮田君だこれはしっかりと名前を覚えている。

賞品は学用品だったが、1着はノートが何冊かそれから徐々に減っていって4着以降はエンピツ1本、自分の家は貧乏だったので、この賞品が貰えるのが非常に嬉しくて、鼻高だかだった。母も大変喜んでくれた。

体が小さかったので、ピラミッドとか塔などの組体操も常に一番上で楽だったしよく目だった。運動は好きなほうで、走るのも速い方で、相撲も体の同じくらいの者の中では強い方だった。鈍い大きい奴にも、負ける事がなかった。得意な組み手は自分の左手で相手の右手を掴んでしまうことだ。そして右から投げる。これで大抵勝てた。ただ左利きの者にはこれが通用しないので負けてしまう。ソフトボールも1番でショートが多かった。打ってもホームランにはならなかったが、レフト前にチョコンと落とすヒットが多かった。

運動会は兎に角自分は目立つ方だった。

てれび

テレビが現れてからの人気番組は、何といっても「プロレス」だ。力道山、吉村、豊登、シャープ兄弟、鉄人ルーテーズ、力道山の空手チョップか、ルーテーズの岩石落としか!!我が家にはまだテレビがなかったので(大部分の家庭に無かったが)プロレス放送の時間に親父とシナそばを食べに言った。そば屋のテレビでプロレスを見るためだ。日本人が外人をやっつけるところが本当に子供心にスカッとした。そば屋はその時間は超満員になるが、売上がそんなにあったかどうか分からない。

そのうちに近所でもテレビを買った人がいて、それからはそこへ見せて貰いにゆく。ごはん時は避けてごはんが終わった頃にゆく。6畳の部屋にテレビが置いてあり、そこに子供達がびっしりと入る。映画館が家にきたようなものだ。そして映画館と同じように電気を消してテレビをつける。真空管のテレビで絵が出てくるまで相当の時間が掛かる。そしてボヤーっと画面が出てくると「ホー」と抑え目の声が沸いてくる。それからプロレス観戦だ。体中に力を入れ、シャープ兄弟と戦っているのは、自分のような気分になってくる。そして大抵、力道山組が勝つ。力道山はプロレス普及の大功労者である事は間違いないが、テレビの普及を通じて戦後の日本経済を復興させた大大功労者だ。

我が家のテレビ1号機は兄がどこかから貰ってきた、小さな、小さな8インチのテレビだった。最初にスイッチをいれた時に出てきた画面は「サザエさん」だった。

かみしばい

これもテレビが行き渡る前までの楽しみだ。おじさんが自転車の後ろに大きな荷物を積んで広場へやってくる。そこで拍子木をコンコンコンと鳴らして、「紙芝居がやって来たぞ」と知らせる。その音でその辺で遊んでいたオレ達が、オジサンの回りに集まってゆく。すると間もなく自転車の後ろが紙芝居の舞台になり奥の方から売り物の水アメが出てくる。「さあ、黄金バットが見たければこの水アメを買わないとだめだよ。」と呼びかける。何人かが水アメを買う、割バシ2本でクチャクチャ練っているとこれが、だんだんと白く濁って硬くなってくる。これが、あめをできるだけ長持ちさせ長い間楽しむ為の最も良い方法なのだ。もう買う者がいなくなったかなと思われる頃に紙芝居が始まる。紙芝居の前に地面に半円を書き、「さあ、これが38度線だ、これより前に入っちゃあいけないよ。」「小さい子から順番に前から積めて。」「アメを買わない子は後ろに行って」・・ここから何本かの紙芝居が始まる。最後はいつも「黄金バット」だ。

口上は滑らかで、時には歌も交えながらタイコも叩きながら物語を進める「悪人が坊やをさらって行こうとすると、」そこで1枚メクリ「さっそうと現れたのは、黒いマントをはおった、黄金バット!」「さあ、これからどうなるか、可愛い坊やの命はどうなるのか。」「続きは明日のお楽しみ」で終わる。

38度線の意味も知らなかった。かみしばいのおじさんはあれだけの売上で生計が立っていたのだろうか。今思うと不思議だ。

 

 

 

 

 

あそび

1.馬乗り  2チームに分かれて遊ぶ遊びでマズじゃんけんをして先攻と後攻を決める。負けた方のチームはひとりが壁に背を向けて立ちその股の間に一人が頭を突っ込んで、しっかりと立っている人の太ももを掴む、次の人はその人の股にまた頭を突っ込んで足で踏ん張る。これを何人も続ける、しかし四つんばいになるのはせいぜい4人まで、だから1チーム5人くらいでやるのが一番面白い。勝った方のチームは走って勢いをつけて飛びその馬の背に最初両手をつき、そして出きるだけ前の方まで飛び込んでまたがる。5人1チームであれば、5人全員がその馬に乗らなければならない。そして最後に乗った人と馬側チームの壁を背にして立っている人とじゃんけんをし、勝った方が乗る側になる。だから負け続けているといつまでも馬をやらなければならない。

ジャンケンの前に途中で馬がつぶれると、馬側の負け、全員が馬に乗れなかった時は乗り側の負けになる。だからいろいろと作戦を練る、身軽で遠くまで飛べる者はいつ飛ぶか、最初か最後だ!体の大きい重い者はいつ飛ぶか?相手の馬がつぶれかかっている時に飛ぶと効果万点だ。さて、馬側は体の大きい者を馬の何番目くらいに配置するかが問題だ。真中より後ろのほうだろう。私はチビで軽かったから楽な役回りばかりしていた。

道具の要らない、チームワークがいる、リーダーが自然とできる遊びっだ。

2.こまでオニゴッコ   普通のオニゴッコはよくやるが、コマを小さなおわんのようなもので受けてそのコマが回っている間は逃げたり追いかけたりできるが、コマが止まっている時はその場に止まっていなければならない。これはコマを如何に上手に手の上に乗せるかそしてコマを落とさずに走るかが勝負の分かれ目だ。手の上に乗せるオワンのようなものは、缶詰の空き缶を良く使った。空き缶の底の部分を外側から石などで叩いてなめらかに上手にへこませる、コマが少しでも長く回っているようになめらかにへこませる。コマが回っている間は空き缶が響いてゴーっと音がする。だからコマが止まっている時に逃げたり、追いかけたりしてもバレテしまう。

コマをその空き缶の上で回す練習を怠りなくやらないとオニばかりやるハメになってしまう。だからビールビンのふたくらいの小さな者の上でもコマを回す事ができた記憶がある。

3.オネストジョン   これはよく分からないがアメリカのロケットの名前だろう、これは危ないから、やらない方が良い、でもこう言う危険な事をしたがるのが子供だから仕方ない。鉛筆のアルミのキャップの中にマッチの火のつく部分を削って粉にして入れる。その黒い粉を入れたら鉛筆のキャップのお尻を叩いてつぶしキャップの中に粉を押しこめる。それを針がねで上手に立て掛け45度くらいの向きで立てる。そしてその下で火を燃やす。そうするとキャップの中の火薬が燃えその噴出力で飛んで行く。

だからキャップのお尻のつぶし方が問題で変なつぶし方をするとどこへ飛んでゆくか分からない、自分の方へ飛んできてケガをした奴もいる。まっすぐに飛んだ事は一度もなくその飛び方が面白くてよくやったものだ。これは大勢でやると危ないのでせいぜい2人でやる遊びだ、その内に危険だとゆう事で学校から禁止の通知があった。

4.タイクチスイ 

野球帽をかぶってのオニゴッコの事を言う、ジャンケンと一緒で帽子のツバを前にしている状態がタイ、横にしている状態がクチ、後ろにしているのがスイ。タイはクチを捕まえられクチはスイを捕まえられ、スイはタイを捕まえる事ができる。

適当なところに電信棒や、木を休憩地にし、そこでしか帽子のツバの向きを変える事ができない。それで相手を捕まえる。足の遅いヤツが追っかけてきたら、わざとユックリ逃げ、帽子のツバの向きを変えられるところまで来て、急に相手を捕まえられるツバの向きに変えそいつを捕まえる。捕まえた相手はその遊びから外れ、だんだんと遊ぶ人数は少なくなってゆく、一番最後まで残った者が一番になる。これは、明らかに、足の速い機敏な者が一番になる。何人いてもでき、そしてトップが明確になる遊びだ。チョット頭を使わなければならないが、道具は何もいらない。自分はこれが得意だった。

5.シカパン

シカパンとは、横3cmくらい縦7cmくらいのボール紙で、表は当事の野球選手とか、相撲取りとかの写真になっている。川上、大下、別当、西沢、など野球選手、力道山、ルーテーズ、オルテガ、シャープ兄弟、などプロレス、羽黒山、鏡里、吉葉山とかの相撲取りなど、これを人と取り合いをする。方法は地面に相手が一枚おき、それを自分のパンキで地面をひっぱたき風を起こして相手のパンキをひっくり返したら、自分のものになる。こうして自分のものを増やして行く。もうひとつの方法は「抜き」と言って何人かで10枚くらいづつ出し、その中に抜くべき1枚をあらかじめ指定しておいて、それをよく切ってどこに入っているか分からないようにして、キチンと積んでおく、そしてパンキをだした何人かでジャンケンをし、順番を決めて自分のパンキで積んである中から指定した一枚を抜く、抜いた者がその全てのパンキを自分のものにする事ができる。

殆どこの「抜き」と言うゲームをやっていた。スパっと抜く為に抜く為のパンキは、それぞれ工夫をする。ロウを塗り、角を硬くして、丈夫なものを使う。このパンキをいかにうまく造るか!で勝負が決まる。目指す指定されたパンキは、他のパンキと少しでも重なっていると駄目で、チャンスは次の者に回ってしまう。だから積んである山の中から1枚だけをスパっと抜く技が必要になる。

その為には必ず水平に打ち抜く事であり斜めにぶつけては、山を崩してしまい。どこに抜くべきパンキがあるか次の者に分かってしまう事になる。学校から帰るとズボンのポケットに今日は何枚持ってゆくか、きちっと数えて行く、そして帰りにこれが増えたかどうか、増えるまでやりつづける奴もいる。儲けて帰ろうとすると「勝ち逃げか」と言われる、だから大抵、陽が落ちるまで続ける事になる。

これも沢山貯めこんだが、中学生になる頃には何故かもうやっていなかったような気がする。

 

 

 

 

 

集中豪雨奮闘記00.9.11

会社である人から、名鉄は不通だが「JRは名古屋より西が不通で上り方面は動いている」との情報を得たので、18:30頃会社を出る。一階へ降り外へ出ると既に踵位までの水がある。しかい水が減る気配もないので帰宅を決行する、靴は会社を出る前に水浸しになる。金山までの地下鉄は何事も無いように通常通り運行されていた。

金山駅を降りるとコンコースは人が溢れて隅の方にしゃがみこんでいる人もいっぱい居た。今ふうの若者がしゃがみこんでいる姿は、普段から良く見かけるがイイとしのオジチャンや通勤スタイルの若い女性までが、同じような姿勢をしている。これは「名鉄だけでは無くJRも不通だな」っと思いながら改札を抜け、上り方面のホームへ出ると豊橋行き普通の行き先表示をつけた電車が人を乗せたまま、ホームに停車していた。丁度知り合いがいたので「どれ位止まっているの?」っと聞くと「40から50分位」との返事。私が着いたのが19:20位なので18:30位からか・・・乗れる車両があったのでどうせ立っているのならば一緒だから・・・と考え又、読む本もあったので電車の中でつり革につかまりながら本を読む。高橋克彦の「炎立つ」第四巻、藤原経清が戦死し、その子清丸(後の清衡)の物語になるところだ。

そこかしこから携帯電話で誰かを呼ぶ声が聞こえたがさすがにいつものように「周りの方のご迷惑になりますので、携帯電話のご使用はご遠慮ください。」の車内放送は流れていない。30分位すると近くに座っていた20歳位の女性が、席を立って電車から降りていった。迎えを呼んだか、それともトイレか?。その席には私より以前から立っていた40代の男性が座った。羨ましい。

車内放送は「お客様にご案内申し上げます、大変ご迷惑をお掛けしていますが集中豪雨の為、現在運転を見合わせて居ります。復旧の見通しは不明ですが、今しばらくお待ち下さい。」の繰り返しだ。時計を見ると20:30・・腹も減ってきたし、「今度同じ放送があったら外へ出よう」っと決心したら間もなく同様の放送があった。

改札を出るとコンコースの人は来た時の倍以上に増えていた。「まずは腹ごしらえ」っと、外へ出てラーメン屋へ入り、ビール1本とギョーザとラーメンを頼む。腹がへって居たから格別にうまい。近所の常連客のおじさんだろう「ほーJRも名鉄も止まっているのか、たいへんだな!」だと、幸せな人もいるもんだ。そこの店の電話を借り倅に迎えを頼む電話をする。金山はいっぱいで無理だろうと、堀田まで来るように頼む。こちらは、地下鉄で堀田まで向かう、ところが、大変堀田駅のホームへ降りるとホームの上は道路の筈なのに傘がいる程水が漏れていた。これはヤバイと急ぎ足で上の道路へ出ると既に道路は水浸しで膝下まで水があった。そこでやっと気が付いた「そうだ堀田は金山より土地が低いんだ。」これでは、車は無理と思いすぐに又公衆電話で倅に「迎えに来なくても良い、すぐひき返せ。」と連絡する。公衆電話の後ろで順番を待っていた若い女性が「もう、何も動いていませんよ!本当にこのままで良いんですか?」っと気をつかってくれた。こんな時でも見知らぬおじさんの事を気使ってくれるいい娘がいるもんだ。と思いながら「大丈夫です。何とかしますから」っと強がりを言う。こんな時は、こちらが娘さんに「あなたこそ、大丈夫ですか?」と心配するべきだろうに、自分の事で頭がいっぱいでそんなゆとりのある言葉が出てこなかった。恥ずかしい。

さあ、研修所へでも泊めて貰おうかと考えたが、ここからなら歩いても3時間くらいで帰れるし、家へ帰れば恐らく明日は交通麻痺で会社に来なくても良いだろうし、「よし!」と雨中の水浸し道路の行軍を開始する。 22:30

これなら金山から柴田経由で帰った方が水が少なくて良かっただろう。1号線を歩いて帰るがこれがひどかった。車はもう道路に(道路とは言えないが)プカプカ浮いてるし水は膝まである、でも車を乗り捨てた人達だろう結構歩いている人も多い。ミニスカートの若い女性もスカートが濡れないように注意しながら歩いている。まさに「夜目、遠目、傘の内」チョット色っぽい・・・・・

乗り捨てられた車は何故かクラクションが鳴っているもの、ヘッドランンプが点いているものなど色々だ。水に浸かってどこかの配線が繋がってそうなるのだろうか?天白川の橋を渡る時が怖かった、橋のすぐ下に激しい濁流が逆巻いており、さすがに歩くところには水はないが、「今、橋が流されたら一巻の終わりだな」っと、その時はその時のことと多少やけくそ気味に、思い乍ら歩いた。23:00

天白川を渡って1号線から大高方面に右折したが、段々水の量が増え胸まで水に浸かるようになってきた。丁度プールで水中歩行している位の深さだ、このまま進めば本当に泳がなければならないかと思い乍らも、ここまで来たのだから引き返すのも馬鹿らしい。そんな時に向こう側から、二人連れが歩いてくる、そこでこちらの行き先の状況を聞いてみると、「名四までこれくらいの深さだ」との事、ならばとこのまま行軍を続ける。丁度一番深いところの道路沿いに喫茶店があり、中を覗くと数人の人が一階の家具を二階へ運んでいる。これでここの喫茶店も暫く休業だろう。

大高辺りまで来ると水の量はグッと減り足首位までになった。しかし道路へ流れこむ水の勢いは強い。先に進もうとすると近所の家から出てきた高校生位の女の子が、「そのまま行ったら流されちゃうよ!」と心配してくれる。こちらは、もっとひどいところを歩いてきているので「大丈夫だよ!」と平気の平左を装い、先へ進む。この頃になるとJRの線路を歩けば良かったかな、とか名四を歩けば良かったかな、とか色々考える、途中後ろから一人の若い男性が急ぎ足で追い越していった。「どこまで行くんですか」と後ろから声を掛けると「大府のアピタまで」と言って足早に追い越していってしまった。一緒に行けたら、話も出来て良いだろうにと思ったが、相手は早くて到底追いつけない。これはアピタも水に浸かってそこの商品を移動させに行くために呼び出されたのだな。でもこちらもそちらの方へ帰る、マズイなっと、不吉な予感が走る。

午前1:00共和辺りで道路が高台になり水も全く無い「やれ、やれ、」と思い家へ迎えの電話を頼む、しかし電話の答えは我が家を出て10分も行ったところが通行止めで[迎えには来れない」との連れない返事が返ってきた。一旦もう大丈夫だと思ったせいか、疲れがドッと出てきてしまった。不吉な予感が的中してしまったのだ。予感というのは、馬券とか、宝くじとか当たるような予感がしても、まず当たらないのに、学校で先生の質問が自分に当たりそうだとか、こんな時だとか悪い予感は良く当たる。「予感」の辞書の意味がどうなっているか知らないが、正確な意味を後の世代に伝えなければいけない。

ここまでは、自宅から早朝ジョギングをした事もあるので距離も時間も大体読める。後1時間とふんでもう一度気合を入れて歩き始める。案の定アピタは水に浸かり道路も又、膝までになってしまった、アピタを過ぎた辺りから、高台の方へ方向を変え健康の森から我が家へ帰る、我が家到着午前2:00

翌日大府高校の前の道路が水没高校も水浸し、石が瀬川が決壊