




出典 : この地図は、山と渓谷社DVD「空から見た日本アルプス/北アルプス1・2」から引用。このDVDはお勧めです。
(追記:
ひと夏で、北アルプスの山をほとんど全部歩いてしまう。ハードな遊びでした。どれくらいハードかというと、登山靴の底がすり減って、下山したら貼り替え修理しないといけないくらい。登山靴屋さんが、「学生さん、この靴どれくらい履いたの?」「ひと夏だけど。」「え?こりゃあ、普通の人の5年分くらい磨り減ってるよ。」「そう。ぼくたち、普通じゃないの。」ってね。)
たしか、学生の暮らしが月3万円の当時、靴が3万円でした。あとは30円の即席ラーメンを食べていた。
ちなみに当時、「国電」は30円、ハイライトは80円、ラーメンは100円、とんかつ定食は180円でした。
(追記:
今は、山登りをする若者がいなくなり、こんなハードな山岳部はもうどこにもありませんが、かといって、当時にもありませんでした。それは、時のリーダーO林さんの趣味であり記録です。彼はヒマラヤを目指していました。
O林さんは学校を出てからも幾度かヒマラヤに行き、ついに両足の指を全部凍傷でなくしましたが、へこたれずにまた次のヒマラヤをもくろんでいます。
20年ぶりに、O林さんとK泉さんと一緒に「針の木」に行きました。「ほんとうにお久しぶりです。」
「どうだい。指がなくなって、ネコみたいなまん丸な足で、ドラエモンみたいだろう?」といいながら、さらに高度に登っている。むかしとすこしもかわらない、勇敢で優しいクライマーです。
学生のとき、ぼくはそのような人たちと一緒に山に行っていました。
冬の劔で手が凍傷になり、指をなくしそうになった時、リーダーのS村さんはじめみんな夜どおし、交代で湯を沸かして、ぼくの指を暖めて看病してくれたので、今、指はあります。
冬富士のアイスバーンで滑落した時に、O林さんは、自分の身を楯にしてぼくの近くにピッケルを打ち込んで止めてくれて、助かりました。一瞬のタイミングを外していたら、O林さん巻き添えて、たぶん命を失ったと思います。
(これらのことは、今は、親にはとても申し訳なく言えなく。)
長い山行だと台風の2つや3つはあり、テントは飛ばされるので、岩影にじっと潜んでズブ濡れのシュラフにうずくまって眠る。
食料もだんだん底をついてきたのに、大事な米を雨に濡らしてだいなしにしてしまう。
山岳部は、「山小屋には、宿はもちろん、食べ物も水もお世話にならないものなのだ。」という崇高でエコジなプライドがあり、事故や遭難時以外は山小屋の助けは受けない。ので、そのうちに、カレーかシチューの素をお湯に溶いて飲むだけのつつましい食事。飢餓同盟。
気持ちはすでに修行僧のようになっていて、すれちがう登山者が「こんちわー」とにっこり挨拶してくれても、たとえ二度と会えないような振り向きたくなるような美女であっても、じっと自分の歩いている山を見て歩く。ただ自分たちの山だけを歩く。ものすごく楽しい。

(つづく)
ヤクシ隊からトランシーバが入り、F永君が転落、背中に7針のケガで、薬師隊は継続を断念して下山と。
サバイバルゲーム。残ったゴタテ隊の3人精鋭部隊。自慢のピッケル。ヘルメット。
うちの山岳部は、みんな気持ちは優しい人たちだけど、することはとんでもなくハードだな。
腹ぺこ、服はよれよれ、カネなしの修行僧。を、自覚してきた。
体がしんどいの苦しいつらいのなどの感覚は、とうに過ぎていて、ただただ地と空の間の尖った稜線を歩く。
体は快調フルパワー。澄み切った心。
食料もなくなった飢餓部隊にも、世の中はよくできていて、食べ物には困らない。といっても、特別天然記念物のライチョウやニホンカモシカを捕まえて食べるというのではなく、2・3泊の裕福な登山者がどっさり持ってきて、「置いて帰る」「新鮮で」「豊富な」食べ物を、ありがたくいただく。
所有者がいなくなった手つかずのオニギリなどがそこに置いてあれば、そっといただく。少しくらい手がついていても、チェックして、いただく。置いていかれた新しいインスタントラーメンが10個ほどそっとそこにあり、「わあ。今日はすごい収穫だね。ラーメンなんて久しぶりだなー。」
山岳部は、山小屋の助けとは一線を画しても、他人様がいらないと置いていったものを、さりげなくいただくのはよろしい。というのがルール。神様のお恵み。山もきれいになります。
お客さんたちがのんびり弁当を食べている傍らで、ぼくらは知らーん顔して観察しつつたたずんでいて、お客さんが置いて帰ったごちそうを、そっと偵察して、つつましくいただく。
この行動を、ぼくらは自らその名のとおり「ゴキブリ」と言った。
かくしてゴキブリ部隊は、栄養をつけながら行進し、ぼくらの通った道はきれいになった。
槍ケ岳−穂高岳の縦走でフィナーレ。槍をピョーンと駆け下りて、穂高をスルスルと上がる。
そして、都会のような上高地に下りて、長くて楽しい夏合宿は終了。握手。
松本の「ピリカ」で、焼き肉とビールをたくさんお腹に納めて、「フルーツパーラ小林」でアイス・フラッペを食べて、新宿行きの夜行電車に飛び乗る。
「秋はまた穂高にいこうね。」


(おわり)
(後記)
夏山の絵日記復刻版は、これで終わりです。ご愛読ありがとうございました。
ぼくの学生時代の山登りは、このようでありました。
夏の劔、秋の穂高、冬はふたたび劔、春はまた劔に白馬と、季節は巡りました。ちょっと飛び出てヒマラヤに行きました。
じつはこの文は、東京農工大学山岳会会報誌にいつか寄稿しようかなと、下書きというか、それ以前のメモに思いつくまま書いたものなのですが、けっきょく、投稿はせず、20年以上もフロッピーに眠っていました。が、時代は変わり、インターネットの時代になり、このたび「復刻」しました。
娘に、お父さんはこんなことしてたんだ、と伝えたい気持もあります。
たぶん、伝わらないと思いますが…
実際に投稿したならば、ケガや死んだ仲間や、そのご家族を思い、もっと短く押さえた文になったと思います。
文は、思うまま、現在形・過去形、書き言葉・話し言葉のまぜこぜで、文法を脱線していますが、そのような訳でお許しください。
クライマーという、日常の暮らしとは無縁の、ぼくにとっても遠ざかって久しい独善の世界をこうして、ホームページという場所に書くことができました。コンピュータだからできる遊びの世界だろうと思います。読んでくださってありがとうございました。
東京農工大学山岳会のみなさんに感謝します。
北アルプスの雪と岩をヤッホーと飛びまわるクライマーの青年がいました。
そんな若いある日に、穂高でうつくしい人に出会い、やがて恋をしました。
その人といつか別れ、のちの消息は知りません。40年も前のずいぶん昔のことです。、
今も、上高地を訪ね、かわらない穂高の美しい姿を見ると、

山よ劔よ (東京農工大学山岳部歌 作:望月力智)
1:肩にくい込む重荷背に 歯をくいしばり一歩づつ
雷鳥沢にイチゲ咲き 乗っ越しゃ嬉しの劔あり
2:夏風そよぐ雪渓に 心躍るグリセード
キンバイの花風に舞い 仰ぎゃ本峰雲かかる
3:伸びるザイルに身を託し 響けハーケン池ノ谷
ガレ場かけおり壁よじりゃ 一輪オダマキ人知れず
4:風雪やまぬ早月に シーバー送る友の声
待ちし青空友の声 握りあう手に分かつ心
5:長いトンネル北仙人 登頂に酔う黒い顔
吹雪の中の赤飯にゃ おいらの夢がこもってる
6:胸のラッセル東尾根 寒風うなる主稜線
源次郎八ツ峰夢果てず 山よ劔よわが友よ
エーデルワイスの歌 (作者不詳)
春:雪は消えねど 春は来ざしぬ 風は和みて 陽はあたたかし
氷河のほとりを 滑りてゆけば 岩かげに咲く アルペンブルーメ
紫におう 都をあとに 山に憧れ 若人の群れ
夏:エーデルワイスの 花ほほえみて 鋭き岩角 金色に照り
山は目覚めぬ 夏の朝風 乱雲おさまり 夕空晴れぬ
命のザイルに わが身を託し 思わず仰ぐ アルペングリューエン
秋:星影さかかに 空澄みわたり 葉ずえの露に 秋立ちそめぬ
金と銀とに 装い凝らし 女神のごとき 白樺の森
紅もゆる 山より山へ 行方もしらず さすらい行かん
冬:吹雪は叫び 黄昏せまり 求むる小屋の 在り処も知れず
ああこの雪山 重畳として シーロイファー 行く手をとざす
ああこの雪原 寂漠として 寒月鋭く シュプール照らす
結:ああ玲瓏の 雪の高嶺に 心しずかに 頂に立ち
尊き山の 教えを受けん 身も魂も けがれは消えて
とわに輝く 白光受けて 清き幸をば 求めうるらん
#100110
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