防衛庁長官は身長180センチ以上、体重90キロ以上の規定を満たす者のみを条件とすべきである。
防衛庁長官は国防における代表者である。国際的にこのように見られる立場の長官が、小がらでガリガリ、貧弱
では、それだけで外国になめられてしまう。逆にスーツの上からでも筋肉の盛り上がりがわかってしまうくらい
の体躯を持った長官であれば、それだけで外国に対し圧力になる。よい例がアメリカのアーミテージ国務副長官
である。
山のような体躯をしている。アーミテージを見るだけでアメリカには逆らえないと思ってしまう。ベトナム戦
線を越え、ランボーのモデルであるアーミテージは国防長官の理想像であると思う。
総理大臣が長官以上の体躯でなければならないのは当然である。日本人はチビで貧弱だと主にアメリカでなめ
られているのは事実である。その日本人の政治的代表者が元千代の富士、九重親方のような頑丈な巨躯であれば
威圧感を与えるのだ。
そして最も対外的に効果を与えるのが天皇陛下である。日本人以上に、外国の人々は天皇という存在に感心が
あるのだ。特に王政や象徴的存在のないアメリカなどの国は、一種の憧れのような感情を持つという。この日本
の象徴である天皇陛下が身長190センチ、体重120キロであったならば日本はどうなるだろうか。
・エッセーウオーターとコーヒー編 2月20日 著:伊藤教授
「ウオータープリーズと注文するがうまく伝わらない。」この場合発音の悪い日本人のせいなのか。違います
八百屋で外国人が「牡蠣ください」と言ったとして、その店主が牡蠣なんて無いよ何言ってんだこの外人はなど
と困惑するだろうか。それは無い。店主は迷うことなく「柿」を渡すだろう。つまりウオーターの発音の問題は
日本人のせいではなく、ウェイターがアホなだけである。アホなアメリカ人は状況を考えられないのだ。
状況はレストランである。レストランで日本人が注文しているのである。この状況、どんなにウオーターと発音
が悪くても水以外に何があるのだろうか。ウォーのところがWarに聞こえて「戦争の話しか」「パールハーバー
を思いだせ」となるのか。馬鹿である。
コーヒーも同じである。喫茶店でコーヒーと言ったらCoffee以外にはないのだ。状況を考えろ。コンビーフと
いったとしてもコーヒーを持ってくるべきである。
・エッセー健康と医者 第一編 4月30日 著:安田医師
「世界人類が健康でありますように」 民家の間の路地や道端の電信柱に貼ってあるこの言葉を見て、胸が閉
まるような不安を感じ、かつ安心するという異常な心理を持つのは医者である。まず思い浮かべるのはそれが現
実となった世界である。無論私達の職業は意味を持たなくなり、かつて二重の敬語で呼ばれていた御医者様とい
う社会階層の頂に近い立場は人々から奇忌の目で見られるのである。それは医学と医者の起こりへの帰途である
つまり医が医としての役割を広く人々に知られ、疑いを持つという考えすら意識しなくなる前の段階では、こ
の医というものは狂人またはあらゆる道楽の限りを尽くし、ついにそこに至った富豪貴族のする超変態的な世界
でしかなかったのである。そこでの過去の私達はきちがい、変態、野蛮人、とあらゆる社会の妬み恨み憎悪を一
心に受けたのである。つまり医の根本には「不健康の上に成り立つ」この原理が潜伏的に人類に存在しているの
であり、そうである以上人々が健康になっていき、この原理を徐々に強く強く自身の潜在意識から思い出せば、
医はまた狂人奇人の狂動に帰途するのである。
・エッセー男らしさ編 5月1日 著:プロデューサー
どんな状況でもどっしりと構え、あまり喋らず、ひたむきな姿勢でいる男は男の中の男、男らしいと言われる
これは嘘である。世の中のすこし頭のいい人はこのことを知っているが、わからない人も結構いる。男らしさの
イメージが固まりすぎていて、男らしさとは何なのかを忘れてしまった。ここであらためて宣言しなければなら
ない。男らしさとは、ある場面、状況において、大半の人が避けるか、また避けるとか以前に全く試みようとも
しないような行動であり、考え方であり姿勢であったりする。
つまり最初に書いた寡黙な男の姿勢は、ある状況では非常に貧弱であり、女々しくあって、むしろ逃げている
と言ってももちろんいいのである。例えばある会議やグループでの話し合い、たんなる雑談でもいい、このよう
な場面で、会議が煮詰まってしまったり、雰囲気が気まずくなりそうな様子であったときに、これに動じずどっ
しりと構えている男、逆にその場の流れと今後の進行などを考え、明るく振舞ってみたり、気の利いた冗談なん
かを言ったり、ふざけたりする男がいたら、男らしいのは絶対に明るくした男なのである。そのような状況で押
し黙り、何でも来い、というような態度でいるのは楽である。その姿勢には場の状況を変えるというエネルギー
を全く使わないからである。逆にそこで人を笑わせたり、なごませたりするのにどれだけの度胸と、勇気と気を
使うかはそういう状況に置かれた人ならばわかる。
それなのに世間、特に男自身の中に、男らしさというものを誤解して変な男らしさを演じているアホな男が山
のようにいるのである。
・エッセー健康と医者 第二編 5月2日 著:安田医師
第一編のような状態の社会にはこのまま維持してもなることは無いのであるが、我々医者と言う社会階層上の
頂にどっしりと座りつづけ、あらゆる社会の恩恵と絶対的信頼と信仰に近いまでの崇拝心等等を半世紀近く受け
つづけた頂の中の天に近い存在、つまり医者に指導する立場の教授や院長階級が、過剰なまでにこの状況を恐怖
するのはどの社会現象にも似たところがあるのは人の人間味なのかもしれない。
つまり世界人類が健康になるという事実を最も早くかつ危機と感じたのは他でもない彼ら上層の者達であった
のである。彼らは人類史上最大の矛盾が自分達に降りかかっていることを突然理解し同時に恐怖した。明らかに
あり得ないとその聡明な頭では理解していたがその内にある原始的動物的な不安感と緊張感は確実に彼らの中に
あり大きく濃く満ち始めたのである。
不健康な状態で目の前に現れる人々を治療し、健康にすることで莫大な富と名誉と名声を受けると同時に原始
医学が置かれた状況への帰途、つまり気違い、変態、狂人という立場への後進を確実に前進していくという人類
史上最大の矛盾に迫られた彼ら、彼らの中の原始野性的な自己防衛という本能は、敏感過剰にその危機を察知し
ここに何故現在これほどに不治、難療の病が生まれるのかという一つの疑問を生む回避を始めたのである。
・エッセー健康と医者 第三編 6月3日 著:安田医師
人の手で生命を創り出し得る一歩手前まで来ている現代科学の中でなお、不治難療の病に苦しみ、ある病の撲
滅宣言が出されると同時に同等またそれ以上の病が発見報道され、不可能とされていた病の治療法が確立される
と同時に新たな不可能が見事に確立されるという均衡。物理、天文、脳髄学におけるあらゆる平衡均衡などはそ
の前において確実に不安定なのだ。この完全率である均衡そのものこそ原始医学が置かれた状況への帰途を回避
し、し続けている結果であり、単純明快かつ唯一の方法なのである。
エッセイと言う形で発言の場を与えてくださった月締め編集局の皆様、プロデューサー様、有難うございまし
た。なお、この三編を要約したものを載せることにつきましてはプロデューサー様に一任致しました。
・エッセー健康と医者 簡易要約編 6月5日 著:プロデューサー
安田医師の三編に渡るエッセー、その難解な内容を私なりに理解し、要約します。作者が最も伝えたかった結
論、それは「医者は手を抜いている」この一言に尽きると思われます。つまりこの三編のエッセーにおける最大
の論点は、「なぜ現代にこれほどまで不治の病が存在しているのか」ということであります。この疑問に対する
答えとしての結論が「医者は手を抜いているから」なのであると思います。
第一編にはなぜ医者が手を抜くのかということの原因が書いてあります。その答えとして「原始医学が置かれ
た状況へ戻ることを避けるため」と書かれてあります。これはつまり、医学というものが起こった当初、そこで
は医学は「学」などでは勿論無かったわけであり、本編にありますように超変態的行為でしかなかったのであり
ます。その状況での彼らの立場は現代とは真逆であったし、当時の人々は医というものが「不健康の上に成り立
つ」という事実をはっきりと認識していたので、最悪の待遇で彼らを見ていたのであります。そして第一編の最
後に「ではなぜ現代医学が原始医学へ戻ってしまうのか」という疑問に対する結論が書かれてあります。それは
「世界の人々が健康になって行き、病気や怪我その他全ての不健康の要素をいつの日か忘れてしまうほど、全人
類が健康になっていったならば、それと平行して医者や医学というものは忘れ去られて行くのであり、その状況
で医学などというものはついに超変態的行為でしかなくなるのだ」ということであると思います。
そして第二編では、この原始医学への逆戻りを最も恐れるのが院長や教授などの医学のトップにいる人たちだ
と言っています。これはトップであるために最高の待遇や恩恵を受けつづけてきたわけで、その状況が崩れると
わかったと同時に一番恐怖するのもトップに君臨する人種であるということであり、それは世間の様々な事柄に
共通することだ、と作者はいっています。そして原始医学への逆戻りを避けるために、「手を抜く」ということ
を率先してやるのもまたトップの者達だと結論付けているのであると思います。
第三編ではこのエッセーの最大の論点である「なぜ現代にこれほどまで不治の病が存在しているのか」という
ことの結論が書かれています。それは「均衡が保たれているから」と結んでいます。そしてこの均衡を保つこと
こそ原始医学への逆戻りを避ける唯一の手段だと言っているのであります。
そしてこの「均衡を保つ方法」こそが真の手段なのでありますが、この方法について作者はあえて言及してお
りません。しかし文章の中に暗に示されているのは明確にわかります。つまりこの方法こそ冒頭に書いた非常に
軟文化した結論の「手を抜く」という行為そのものなのであります。
駄文となることを覚悟で具体的に言えば、今現在不治とされている病の大多数は既にその治療法が確立されて
いるのである。しかしそれらを素直に活用して人々を健康にしてしまえば、自然に医者達の商売はあがったりに
なっていくのであるから、それらの方法を一定の均衡を保たせながら小出し小出しに使用していっているのだと
作者は暗に言及しているのであると思う。これらの手段こそ「手を抜く」という行為なのだ。
今回月刊月締めからの要望にお答えいただいて、エッセーを書いてくださった安田医師に感謝の意を記し、こ
こにエッセー健康と医者 簡易要約編を終わりたいと思います プロデューサー
・エッセーオリンピック編 8月27日 著:ダイナモ石油
どこまで腐りきってしまったのか日本は。日本の大多数の馬鹿どもはこの国を潰そうとしているのか。
この五輪を見ていて一つの言葉が私を愕然とさせた。For the flag である。何故この馬鹿たれな文字を、何
んで使ったのだ。私は悲しい。悔しい。もうこの文化の流れは止められないのか。国旗は、国家を表す全ての事
物において最も象徴代表されるべきものでありその国家をあらわす最も単純確実な「証し」なのである。つまり
国旗は国家そのものなのである。このFor the flagというのは「国旗のために」つまり日の丸のためにという
意味であり、それは「日本のために」という意味である。祖国のため、この言葉ほど、発した個人とその国家が
強く結ばれる言葉が他にあるだろうか。これほど、個人が国家を思い愛す言葉が他にあるだろうか。その言葉が
何故他国語なのだ。何故だ。なぜ母国語、日本語ではないのだ。なぜFor the flagなんだ。
世界の国で「国家のために」という言葉を他国語でいう国が他にあるだろうか。絶対にない。そんな愚劣極ま
りない雑言を使い、ましてやそこにお洒落さなどを感じている国はこの腐りきった日本だけである。あまりにも
悲しすぎる。
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