2.アメリカと日本における教育的配慮の違い
まず、配慮を受けている人の割合が違う
一言でいうと、アメリカの方が、配慮を受けている人の割合が圧倒的に多く、大学等あらゆる教育機関で配慮を受けることが、出来ます。
アメリカでは10人に1人はspecial educationを受けていてそのうち約半分ぐらいがLDだといわれています。
日本では、特殊教育と言われていた時代は、基本、知的障害のない発達障害の人が受けれる教育的配慮はありませんでした。(そして
ターナー女性には、この知的障害のない発達障害のカテゴリーに入る人が少なくない。)特別支援教育と名前を変え、大学でも発達障害
の問題に取り組む学校も出てきましたが、まだまだ、少なく、結構高額な別料金がかかったりします。
大学入試センター試験では、2011年から発達障害のある人に対する特例措置(試験時間の延長等)が認められましたが資格試験では
まだです。ちなみに外国人が受ける日本語能力検定試験では特例措置が認められています。欧米特にアメリカではこのような配慮が普通
にあるので、該当者が、母国で私が試験を受ける時は常にこのような配慮があったので、この試験でもお願いします、と、言ってきて決まった
ということでした。
受けれる配慮が違う
アメリカターナー協会のHPに、良くある質問(FAQ)として、どうすればIEPがGET出来ますか?という質問がありました。IEPをGETすると
LDやADHDがある、という事が認められ、教育的配慮が得られるのです。IEPは連邦政府の制度だけど州により基準が異なり、自分達家族
の住んでる州は、厳しいらしく、頑張って言い張ってみたが、自分の子は、IEPがGET出来なかった、と、いうようなことが書いてありました。
驚きです。日本のターナーの親で、自分の子にLDやADHDがあることを認めて欲しいと言っている人は稀です。自分の娘はそういう傾向が
ありそうだよねと思っても、積極的にそのことを語る親は、稀です。この違いはどこから来たのでしょう?簡単なことです、アメリカで、自分や
自分の子供に、LDやADHDがあると認めれば、試験時間の延長が認められたり、その状態に合わせて教え方を変えてもらえたり、出来る
のです。そして、そういった人達に対する教育方法が確立されていて、その教育方法が親に信頼されていて、認めたほうがメリットがあると
考えられているのです。一方、日本において、多くの子と自分の子は違うと認めることは、いじめのリスクを高めます。アメリカのように試験時
間の延長等が認められて、受験が有利に進められることもありませんでした。S.E.N.S(特別支援教育士)の資格を持った先生のように、ちゃ
んとLDの子を指導できる人もいますが、LDという障害があることを知らない医療関係教育関係者は、ほとんどいませんが、では、そういった
子に どういった教育的配慮が必要か正しく答えられる医療教育関係者も非常に少ないのが現実です。
私が教えている看護学校の、学生さんの中にも、発達障害系の問題を抱えた学生さんが少なくないですが、おおよそ、適切に配慮されてい
るとは言い難い状態です。しかし、よその学校と比べすごくレベルが低いかというと、どう対応して良いか分からず、困っているという学校が
圧倒的に多いようです。
ポイントとなる点
上記の文章を読んで、えっ、大学教育での配慮?大学入試での試験時間延長?と思った人がいるでしょう。学習障害というと、勉強するのが
困難ということなんじゃないの?と思った人、特にあなたがターナーであったり、娘さんがターナーであれば、もっとしっかり学習障害について
勉強することをお勧めします。具体例をあげましょう、LD学会の理事長、上野先生は、東大卒ですが、著作等で御自分がLD(学習障害)であ
る、と公言されてます。要は、全体としては、知的レベルは高いけど、認知的に強いところと弱いところがあって、バランスが悪いという問題を
抱えているということが言いたいのだと思います。こういった問題を抱えた人は、一流の研究者には多くみられ、大学教授になれた人ていうより、
大学教授にしかなれなかった人と評されたりします。中でも、LD学会で要所となる講演をお願いされるような、LD研究の第一線に居る人は、多
くがこういった問題を抱えています。
発達障害系の人はあらゆる知的レベルに存在し、知的レベルが高いから問題がないとは言えず、むしろ、知的に高い人のほうが、自己理解
自己受容という面で深刻な問題を抱えやすく、仕事は続けにくいといわれています。実際ターナーの人にも、高学歴なひとは少なくないですが、
仕事の面では苦労している人が多く、学歴があれば、知的に高ければ、苦労しないというわけでは、特に発達障害系の人に関してはないんだ
なって、分かります。なので、知的障害のない発達障害の人の為に、大学教育において、発達障害に対する配慮があることは、本当に必要だ
なって思います。
以前は、知的障害のない発達障害の人のことを軽度発達障害と言ったりしましたが、知的障害がない=障害が軽い、とは言えないということで、
現在ではこの言い方は、しなくなりました。極めて厳しい、だだし、現実的な見通しを述べるなら、こういった人達を何もせず、発達障害の傾向が
ない人と、全く同じように育てたとしたら、本人的には、色々な集団にどうしても自分だけ溶け込めない、それで、仕事を辞めざるえなくなるが、
どうも、他の人は、そういう点自分より苦労しないようだ、という確信を年齢とともに深めていく、歳とともに自信を失っていく、更に生きにくくなっ
ていく、人生になってしまうのです。決して、軽いなどとは言えないのが分かって頂けると思います。 もちろん、何とか仕事を辞めさせられない
ように必死で頑張っているのです、本人が頑張ればどうにかなる状態ではないのが分かって頂けると思います。 私は、良く知っている人から
は、かなりの確率で努力家と評される人間ですが、努力という言葉が、私が最も嫌いな言葉です。それは、我々が仕事の面で、苦労しがちで
あるという問題について、発達障害について理解も支援も不十分である、という社会の側の責任を、本人の努力不足や、親の育て方の問題
ということで、責任転嫁することを、自分は立場的に認めてはいけないと感じるからなのです。