
ここに掲載する実践記録を募集します。掲載してもOKというかたは、メールにて連絡をお願いします。
・田村さんによる最近の論文の投稿を掲載します。題名は『使える漢字力を→そのアイデア−−−反復中心の詰め込みではなく、1セット5過程と手首化―――品川区案『中3までの漢字、中1までに習得』は教育的かーーー』 です。
・本会ホームページへの初投稿です。田村俊樹さんの論文です。田村さんは漢字指導研究会(国字研)委員長、表現よみ総合法(表教研)代表という肩書きで、雑誌『子どもと教育』に掲載したものを採録します。内容は斎藤孝氏への批判となっています。ごらんになられる方はこちらへ
・田村さんによるもう一つの論文です。
漢字の駆使、そして9歳の節を越える漢字力を(第2回)
――反復中心の詰め込みではなく、1セット5過程で手首化を――漢字指導研究会(国字研) 田村 利樹
・子安潤「私たちの学校づくりを再構想する」福島県民教協 秋の集会(98/11/15、須賀川市民温泉)
使える漢字力を そのアイデア −−−反復中心の詰め込みではなく、1セット5過程と手首化ーーー ―――品川区案『中3までの漢字、中1までに習得』は教育的かーーー 田村 利樹 漢字指導研究会(国字研)・表現よみ総合法教育研究会・児童言語研究会 T 提案のあらまし 品川区の「小中一貫教育 教科カリキュラム」の中の「漢字配当」(案)*注1(平成16年8月30日現在)(以下、案)に よれば、現在、中3までに読み・書きとして学習していた漢字(1306字)を、中1までに学習する案が提案されています。こ の案によって、小学校3年生は現在の200字より85字増加の285字の読み書き、4年生は現在の200字より100字増加 の300字の読み書きをする事になります。5年生では現在の825字より181字増加の1006字の読み書きとなります。 これは、中学1年生で書きが、国立国語研究所・文化庁調査で49・3%以下だった漢字を小学校5年生に降ろすことになるので す。この1006字は、教育漢字881字・996字当時の調査より、それぞれ125字・10字多くなっていて、881字・ 996字当時の文化庁・国立国語研究所「書き」の調査で、中学1年生が、49・3%以下だった漢字なのです。これを小学校5年生 に降ろすというのです。この49,3%ということは、「子どもの生活空間外の学びにくい漢字が、無思慮に入っている事を意味 しています」と、大久保忠利氏は、述べています。(『国語教育』U・231P・三省堂・大久保忠利*2著作選集) 中学1年生に無思慮だったら、5年生にとっては、どんなことになるのでしょうか。 * 子どもたちの漢字力の実態とその深刻さ 6年生の書きの習得率は、49.2%となっています。(1983年・1984年の国立国語研究所調査*3 これは、教育漢字数が996字で、1年から6年生までの国語の時間数が1540時間の時の調査です。現在は、 1377時間で、163時間、国語の時間数が減っていますから、漢字力が、向上しているとは言えないでしょう。) この実態は、学習した漢字を自由に使って学習したいと考えてもそれが出来ない事を意味しています。学習の落ちこぼ しなどもここからも考えて見る必要があります。 この案では、国語科の時間数を中3までで154時間、現在より増やし、小3年で50時間、小4で50時間増加させています。 しかし、この時間数を増やす事で、案が教育的であるといえるのでしょうか。以下、この案について意見を述べさせていただきま す。 *1・・・小学校1年生から中学3年生までの各学年に配当される漢字 *2・・・元・都立大教授 *3・・・この調査は、約20年前のものです。漢字の定着率を調査としては、最も信頼度が高いものです。それは、全漢字につい て調査している事、問題の適切さ等から言えます。最近、学力調査として、1・2・3年生の漢字を5年生に6個、書かせ て、漢字力が向上したと言う見解を教科審は、発表していますが(平成5年度教育課程実施状況に関する総合的調査研究・ 文部省)、このような類の調査が多過ぎます。 付け加え 今回の学習指導要領に基づく教科書から、漢字学習を読みと書きに分けて指導する(読み書き分離)ように記述されるようにな りました。その為、子どもたちの学習と先生方の指導で混乱が起きています。子どもたちは、習った漢字は書きたいのです。そ れを別々にするというのですから、子どもの気持ちを見てないといってもいいと思います。品画区の案では、読みと書きを一緒 に学習する「読み書き同時」を提案しています。 学習指導要領作成者は、この品川区の「読み書き同時」の提案はどうしてされたのか分析して見る必要があります。それにし ても、「読み書き同時」になったり、「読み書き分離」になったりの変化は、子どもたちの学び方、教師の指導方法にすぐ、影 響を与えますので慎重さが欲しいものです。 U どうしてこういう案を提起するのか、それは、ドリル中心の考えによるもので、結局は、詰め込み主義になる 1 品川区教育委員会・文化審議会の考え 提起の理由に「文化審議会の答申に基づいて」と述べていますが、文化審議会も区教委も、漢字教育は、「読みを知らせ、意味 を説明し、書きを反復さるもの」と考えているのです。この文化審議会・国語分科会委員の斉藤孝氏は「漢字は、書き取りを徹底 して反復すれば、少なくとも学年の配当漢字は身に着けさせることができる」と公言しています。 2 文化審議会の答申とは・・・廬・謁・帥・帥・嚇・朕・逓・畝・銑・逓・璽・・・・小学生にこれらの漢字を読ませる この文化審議会の答申が、非常に非教育的なものです。 『声に出して読みたい日本語』の著者・斉藤隆氏は、の文化審議会国語分科会委員なっているのですが、この審議会が 「1945字の常用漢字を小学生で読めるようにする」という答申を出しました。 この常用漢字には、59年度中学校国語教科書から排除された漢字80字(廬・謁・帥・帥・嚇・朕・逓・畝・銑・逓・璽・嗣・ 屯・候・拷・錘・款・畔・猶・窯・桟・嫡・陪・寡・劾・繭・宰・硝・漸・・・・・・・・・・・・)が含まれているのです。は たして、委員は、1,945字の中の1字1字がどんな漢字か調べてみたのでしょうか。そして、これらの漢字の読みが小学生に 必要かどうか検討をしたのでしょうか。 3 品川区案と斉藤孝氏の考え 斉藤孝氏は、文部科学省委嘱 文化庁主催「平成13年度・国語施策懇談会」で、「国語力を高める具体的提言」として、『声 にて出して読む理想の国語教科書』を提起しています。氏はこの中で、 「漢字は書き取りを徹底して反復すれば、少なくとも学年の配当漢字を身につけさせる事ができる」 と述べていますが、これなどは、反復中心主義の考えの典型です。この批判は、『国語の授業』NO,175・2003年4月号 (一光社)で書きましたので、詳しくは、そちらで。 4 必要な重要漢字をしぼって、それを駆使できるようにする 斉藤氏の反復中心主義について反省する上で、つぎの具体的な例は、参考になると思われますので一つ出しておきます。 僕らの研究会に東京の難関大学に合格させる御三家と言われる女子中学の先生が参加してきた事があります。 「私の学校は、できるという子どもが来る学校ですが、子どもを見ていると、漢字の意味・漢字の成り立ち・漢字の使い方をどの ように学んできたのだろかという疑問があって、ここに参加してきました。参加してみて、私の考えと指導は、妥当だったという 事が分かって安心した。」 と話していた事があります。 このことは、声に出して読めても、意味が分からない・使い方が分からないなどの場合がある事を語っています。学校教育では この意味が分かり、使い方がわかり、使えるということが特別、重要です。 それには、常用漢字を読めるようにするという詰め込みではなく、漢字をしぼって、『重要な漢字』(教育基本語彙)*3に時 間をかけて、使い方まで学習し、読み書きの両方で駆使できるように授業の中で指導することが必要です。 *3・・・例えば、3年生で習う「意」は、意外・意見・意味・注意・用意などが漢字語として3年生で出てきます。後の学年 では、意気・意義・意向・意志・意識・意地・意中・意図・意表・意欲・悪意・敬意・決意・故意・好意・合意・真意 誠意・善意・創意・大意・敵意・得意・熱意・文意・意味深長・創意工夫などが出てきます。この「意」は、子供が学 習するのに必要な漢字語をたくさん造ります。ですから、読み書きが出来るようにする必要があるのです。(『たのし く学ぼう漢字』ルック・田村 利樹・乗木 養一・紺屋 冨夫編著・104p) 5 区教委は、詰め込みにならないというが 若月教育長・中島指導課長は、詰め込みではないと、公言しています。それを、少し見てみましょう。 若月教育長は、平成16年9月24日の区議会で中塚亮議員の質問(競争教育・詰め込み教育の見直しを)に対して、 「……、子どもたちに学ぶ事の喜びや楽しさを実感できるようにしたいと考えています。そのための教育計画に基づいて必要時 数を算定したものであり、週当たり1時間から2時間程度の増を見込んでおります。従いまして、これは決して詰め込み教育と 言うご指摘は、当たらないと考えております。」と、答弁しております。 また、平成16年9月29日の文教委員会では、沢田議員の質問、漢字の1945字を中学校3年から中学校1年に戻すとか、 ……は、前倒しではないかの質問に対して、若月教育長は「……、ですから、あまり前倒しと言うと事ばかりを過度に強調され てしまうと、区民の方々に、小中一貫校のイメージが、若干偏ってしまう印象をもたれうまくありませんので、それは一つ、よ ろしくご配慮戴ければと思います。」と、答弁しております。 *中島指導課長は、カリキュラムの説明で、「・・・・・無理な形で、漢字をどんどん覚えると言う事は、私どもは想定して 御座いません。・・・・・・」と、述べています。 以上の答弁、説明から言える事は、若月教育長と中島指導課長は、詰め込みではないという見解をしめしているわけです。こ の見解は、詰め込みはよくないと言うお考えのもとに述べられているようです。ここに話し合って再検討する余地がありそうな ので、救われます。 6 しかし、今までもドリル反復主義はある それでは、このことについて考えるに当たって、今までの漢字教育の実態を何人かの意見をもとに振り返って、考えてみましょ う。はたして、案は、「詰め込み・前倒し・無理な形で漢字をどんどん覚えること」にならないのでしょうか。正直に言って今 でもドリ中心はあるのです。つぎの例をごらんくさい。 【1】 現在漢字教育に大きな影響を与えています陰山英男氏の理論、実践 氏は、「学年の配当漢字は、ゴールデンウィークまでに教えてしまう」 と述べ、著作の表紙に「徹底反復」と堂々とお書きになっております。氏のホームページでは、 「私は2週間で新出漢字の指導を終えるということを提唱しました。そして、そのための教材として、 徹底反復漢字プリントを出しました。これはまず、1年間に覚える新出漢字の混じった例文を何度も読み、 だいたいを頭に入れ、そしてその後、その例文の問題をコピ−して何度も繰り返して練習するというものです。 7回も反復練習をすると、だいたい子どもは覚えて、書けるようになるものです。」 と述べています。そして、この後、夏休みは、復習と予習。秋からは、熟語をこなす。 年度末は、まとめの問題集という計画を述べています。 ここで、指導と言っていますが、指導の具体的表れである授業はどのようにされているのか教えて戴きたいところです。 今のところどんな授業か見えてきません。見えるのは、反復練習が中心です。 私たちは、反復練習は、必要だと考えます。しかし、その反復は、きちんとした授業があり、子供たちが理解した上の 反復が効果的なのです。ですから、どんな授業なのか知りたいところなのです。 また、学年初めの2週間で新出漢字指導を終えるということですが、この2週間、国語科の読む・書く・話す・聞く・ 文法などはどのような指導・授業をしているのかも知りたいところです。 学習の全てではありません。バランスが必要です。こいうこと陰山さんに言う必要はないと思いますが、時々、漢字学習 が、国語科の全てのような実践を聞くことがありますので述べてみました。 【2】白石さんの意見 「一番オーソドックスな漢字指導は、新しい教材に入った時に新出漢字を、漢字ドリルをもとにしてやっていくんですよね。 低学年では、筆順などに気をつけて一字一字とても丁寧にやるんですよ、時間的にもゆったりしていますから。 ところが、3年、4年になると新出漢字の数も多くなり、指導が追いつかなくなってしまって、結局は子どもたちに持た せている漢字ドリルを家庭学習でやらせる。そしてそれを教師が見る。まだ見る方はいい方で、やらせっ放しという人も多 いと思います。そして「じゃあ、漢字ドリルのここからここまでテストするから覚えていて」とやるんですね。 大体漢字ドリルが中心になりますね。」(『国語教育相談室』NO,18、特集・漢字学習を考える、光村図書、1997 ・11、筑波大付属小学校教諭 白石 範孝) 白石さんは、実態を学年を追って語っています。これほどリアルに実態を語った意見は、珍しい。非常に貴重な意見です。 教師は、個々には、このような思い意見を持ちながら、公的な場にはなかなかこのようには出しません。教師がこのように 自由に語れる配慮(これが、今、うんと必要です。)と教師個々の勇気・正義感が必要なのではないでしょうか 【3】甲斐さんの意見 「・・・・・結論から言うと、どうも漢字の指導が家庭学習などに回されて、教室で行われていないところが多いと思わ れるんですよ。ですから、漢字の指導をぜひ授業に取り戻してもらいたい。そして、科学的な指導をしてもらいたいと思う んです。」(上記書、国立国語研究所日本語教育センター長、甲斐 睦朗) 甲斐さんは、白石さんがいう実態をしっかり把握しているので、このように「・・・漢字の指導をぜひ授業に取り戻して もらいたい。そして、科学的な指導をしてもらいたいと思うんです。」と、発言されているのだと考えます。 僕も、同感です。漢字は、ひらがな・カタカナと同じように読めて、書けて自由に使える必要があります。その上、漢字 には、意味があり、重要な学習の上で必要な基本の用語(学習基本用語・教育基本用語)があります。 例えば、原因・結果・理由など。ですから、必要な漢字は、自由に駆使できることが重要です。教科書が読め・教師の話 している事が理解でき、友達が話している事が分かることは、授業に参加できて、授業がわかる最低の条件だからです。 【4】茨城のA先生の意見 【2】【3】は、1997年のものです。それでは、1982年のA先生の意見・声を見てみましょう。教師用指導書に 対する意見です。 文学作品の指導の記述が次のように展開されています。その中に漢字指導の記述があり、その記述について意見を述べて います。 a全文をよみ、大体をつかむ。 b一番強く残った事を発表し合い,学習のねらい、方法を考える。 c新出漢字の読みと筆順を練習する。 d各場面ごとに中心人物の気持ち・背景・様子を詳しく読み取る。 e一番心に残った所を視写、朗読して味わう。 f感想文を書く。 g漢字・語句の練習をする。 この事に関して、cとgは、いかにも取ってつけたような学習である感じは免れません。しかも現実には、abやdeの学習が 主体であって、それに手間取る事が多く、漢字の学習は、時間切れ切捨て・・・・なることが少なくありません。abdefは、 ・・・・・・・・重要な学習事項です。又、その過程で生きた漢字として漢字を学習させる事も間違いではありません。が それでは、不十分である事も否めません。と、意見を述べ、「漢字の取立て指導」(*注3)を次のように提案しています。 *3漢字を文学文・説明文などから独立させて、時間を確保して指導する事 読める段階の指導・・・字源・語源・意味の学習 書ける段階の指導・・・筆順・字形の学習 使える段階の指導・・・熟語・短文作り・文、文章への活用の学習 を提案しています。(『小学校の国語教育』6・明治図書・1982年・P84・85、茨城県のA先生) 【4】の茨城のA先生は、指導書の記述と普通のクラスの文学の授業について、分析して、漢字指導の在るべき形態を提 案しています。私もかつて文学の指導書を執筆したことがありますが、このように執筆しました。文学の授業をやりながら 漢字の指導に突っ込んでしまうと、文学の授業の流れが切れてしまうので、こうならざるを得ないのです。ですから、提案 のような取り立てた指導が必要なのです。 *来年度から使用される科書を分析してみましたら、このような視点で編修された教科書が1社ありました。しかし、残 念なことに、その指導時間の保障がないのです。 以上からして、ドリル中心はあるのです。品川区案は、これに更に拍車をかけることになります。 しかし、これでは、漢字の力が着かないことは、多くの先生方の実践から見えているのです。では、どうするか、それを見てみ ましょう。 V 使える漢字力は、ドリル中心ではなく「読み・書き・意味・使い方」を学び、使い合う学習の導入で 1 漢字指導法研究会の模擬授業から 漢字指導研究会夏季アカデミーの模擬授業で、東京・町田市・小山田小学校・紺屋 冨夫さんは、は、3年生の新出漢字、『物』 の授業を次のよう展開しました。 T なんと読みますか C ブツです。 C モツです。 C ものです。 T この漢字、どこで見た事がありますか C 動物園でみました。 C 物産展でみました。 T では、意味を調べましょう。わかる人? C 物や品物のことです。 C 物事のという言葉の時に使います。 C ことがらです。 T それでは漢字・「物」の成り立ちを説明します。 「勿」は、(絵を描きながら)色々な色の切れで作った吹流しです。遠くから見ると色が混じり合ってはっきりしないので これだ、とはっきりしないものという意味を表します。 それに「牛」は、牛の代表・動物の代表、物の代表という意味で、「勿」と一緒になり、今は、動物その他の色々な「もの」 を表すようになりました。 T それでは、筆順に気をつけて書いてみましょう (子どもたちには、それぞれ漢字学習プリント配布しておき、そのプリントで練習をする。) C 一人一人、書く 「牛」と「午」は区別しよう。「牛」は突き出ますが「午」は突き出ませんね。 T では、( )に読みがなを書き入れましょう @ 人にかりた物( )はたいせつにね。 A 兄は、動物( )の名前をたくさん知っている。 T 次は、?に漢字を書き入れましょう @ クラスで、おとし?係(がかり)になった。 A 父は、荷?(もつ)をロッカーにあずけた。 T 「物」を使って文を作りましょう。(子どもたちは、一人一人、文を考えそれをプリントに書く(3分ほど) T 書いた文を発表しあいましょう。(子どもたちが発表する) C これは、わたしのもち物はこれです。(鉛筆を指して) C チューリップは、植物です。 C ごはんは、たべ物です。 C 食べ物の事を食物(しょくもつ)ともいいます。 C ぼくは、物がたりがすきです など、一人一人が発表する。(このような授業を「1セット5過程」の授業と呼んでいます。) 実際の子どもとの授業では、こんなにスムースには進みません。間違いを発表する子もいます。その間違いを話し合い、正して いく中で「物」という漢字の意味(概念)をより深く身に付けていきます。また、「物」を使って文を書き発表すると、「物」と いう漢字は、このように使えるのかというイメージがわき始めます。 この文を書く(文作り)でも、間違った使い方をする子もいます。「ぼくは、幸せ物です」・「わたしは、物レールに乗った」 などです。このように実際、文に書いて、使ってみると、その漢字のイメージが身に着き、使い方も分かっていきます。 実際、このような授業をすると1字の漢字で15分は必要です。 ですから、品川案のように4年生で300字を教えるなんてとってもできません。わたしたちは、小学校で600字前後の漢字 をこのように丁寧に指導する必要があると考えています。 なお、漢字教育の最近の1年間にわたる2年生の実践を、この様な内容で具体的に述べている報告があります。これは、公的研 究会でも報告されているものです。ご紹介しておきます。(『子どもと教育』ルック出版・2004年9・10・11月号・「小 学生の漢字力と1セット5過程の実践」千葉・東金市・鴇嶺小・古川智恵子)教師の教育へのひたむきさと漢字教育の実践が一体 となり、読後、とってもいい気分になりました。 2 漢字指導研究会の分科会報告から 「今度の学習指導要領では、国語の授業時数は、224時間減らされているのに(これは、今までの1学年分の国語の時間に当た ります。)漢字の各学年への配当字数は、変わりませんでした。一字一字丁寧な指導をしていたら、国語の物語文・説明文を読 み理解する事、話す、聞く、文法などの時間が十分取れなくなってしまいます。 そこで、漢字指導法研究会の提案のように、5年185字、6年181字をA、B,Cの3つのランク(下記*参照)に分け、 まず、Aランクのものから1字間に3字から4字を指導しました。 Cランクの漢字は、火曜日の朝自習の時間に2字ずつ「漢字プリント」と「漢字字典」を使って調べ学習をさせました。」 *Aランクの漢字・・・読み書きなどで使えるようにする(5年・・・78字 6年・・・49字) * Bランクの漢字・・・読めて意味が分かるようにする(5年・・・49字 6年・・・40字) * Cランクの漢字・・・教科書に出てきたときに読めて意味が分かる。(5年・・・56字 6年・・・92字) (第20回漢字指導法研究会・2004、8・高学年分科会・東京・国分寺市・第七小・小渕章) この意見は、漢字指導をどうするか具体化した実践を報告しています。その実践は、一つ一つの漢字を分析し、今、国語科の 読む・書く・話す・聞く・文法などとのバランスの上で読めて・書けるように指導する漢字と読みと意味が分かるようにする漢 字に分けています。その上の指導です。レポートです。 *今回の指導要領の下の教科書になって、 「漢字に追いまくられて、文学文・説明文・作文・文法などの指導が、大変、忙しくなってしまった。」 という声を悲鳴のように聞きます。これで、国語の授業はこれでいいのかという思いは、いつも、体から離れません。 というのは、これでは、授業が子どもたちにとって楽しい場所ではなくなるからです。 授業が楽しく、授業の中で友達から教えられたり、教えたりできたら、こういう中からも友達・人間の大切さを感じ、教育基本法がいう人間の尊厳を少しずつ体得していくのではないでしょうか。 また、最近、日本の学校のあちこちの教室で悲しい事件が時々、起こっております。楽しい授業で友情を育む友達関係を作れたらそういう事件を減らしていく一つの力になるのではないでしょうか W 品川区案は根本に立ち返って再検討を 私は、かつて2社の教科書の教師用指導書を書いたことがあります。今までの研究成果を日本中の先生方に参考資料とし読んでいただければと考えたからです。しかし、執筆しながら心に重くひっかかったのは、 「この指導書がどのように読まれるか」 という事でした。1006字の漢字数では、このような指導展開は、時間が無くて、まったく出来ない事が分かっていたからです。 「これを読んだ先生方がかえって苦しくなってしまうのではないか」 という思いが常に頭の中にありました。 「先生方は、どのようにこれを読みこなして、授業をしてくださるか」 とい思いは体から離れませんでした。又、それで、子どもはどんな授業を受ける事になるのだろうかという思いを常に持ちながら執筆しました。 「『先生ぜんぜんわかんないよ』と叫ぶ子がいました。 『それじゃ、わかんない原因はなんだと思う?』と生徒たちに聞いてみました。 『先生の授業のやり方が悪いから』には手が挙がりませんでした。 『教科書が悪いから』には一人の子が手を挙げました。残り30人がいっせいに手を挙げたのは、 『私の頭が悪いから』でした。 びっくりしました。何かあればすぐ他人のせいにしたがる子どもたちが、こと勉強については自分の頭が悪い、と思っている。ここにストレスの根本があるのではないか、と思いました。」(東京・あきる野市・雨滝洋介・中学理科教師(『労働運動』2002・12・NO・460,40P) このように分からない原因を自分のせいにしている子どもたち。自分をしぼませてしまっています。中学生の大事な時期にこのように思っていては、夢も希望もなくなってしまします。これでは、友達が大切であるという感情も消えていくでしょう。クラスで色々、事件が起こりますが、こういうところからも考え直して行きたいものです。 甲斐さん(現・国立国語研究所所長)は、「・・・・・授業で・・・科学的指導を・・・」と、発言されておりますが、その内容は、どんなことを含んでいるのでしょうか。それは、この冊子の対談を読むと推察できますが、Bの茨城のB先生の提案、CのC先生の実践報告、このすぐ後に出てくる文部省初中局視学官・渡辺富美雄さんの意見と重なる所が多いのではないかと推察いたします。 このような授業には、当然、一定の時間が必要です。 この時間の確保の必要性を前出の『国語教育相談室』で棚橋尚子さん(群馬大学講師)が真剣に訴えています。 また、文部省初中局視学官・渡辺富美雄さんは、 「・・・漢字は、文字形態によって意味内容が違ってきますから、他の文字を覚えるよりも多くの時間をかけなければ、読めても書けるまでにはならないし、しかも正しく使えるようになりませんから、文字指導の中でも漢字指導にどうしても力点が置かれてくるのです。」(前出の『小学校の国語教育』6) という意見を述べています。とにかく時間の確保は、どうしても必要です。買い物には、お金が必要ですが、この時間は、買い物のお金のようなものです。 以上、概略を述べましたが、指導内容と指導時間は、密接に結びついていますので切り離さないで論議すると、漢字教育のあるべき姿が見えくるのではないでしょうか。 この点から、若月教育長・中島指導課長が、漢字教育の内容をどのように考え、どのような指導の流れをお考えなのか教えていただきたい所です。それが分からないと、提案の妥当性の裏づけが見えないのです。 X 品川の案に対する意見 以上からして、自ずと、品川の案には、大変な無理があると考えます。 貴会の提案は、 @すべての子どもにどの漢字を読み書きできるようにさせるかという教える漢字とその漢字数 Aどのような教え方(授業)をするか Bそのためにどれだけの時間を確保するか など、これらの関連を踏まえての検討が必要だと考えます。 貴会は、文化審議会の答申「小学校で1,945字の常用漢字(前出)が読めるようにする」という案を基にして提起しています。この文化審議会の答申そのものが子どもの発達段階から見て無理があります。それは、前に少し触れただけでもお分かりになっていただけると思います。 貴会でも「常用漢字の1字1字に当たって、これを小学生に読ませて学ばせるべき漢字かどうか」ご検討をお願い致します。 そして、案を作成するに当たっては、現場で子どもの指導に当たっている多くの教師の声をお聞きになって欲しいです。また、多くの教師の実践をもとに検討し、その上で、実践をまとめた資料・出版物などもご参考になって戴きたいと思います。 なお、「常用漢字の告示」についての経過については、前出の『国語教育』U(三省堂・大久保忠利著)に詳しく出ていますので、ご紹介しておきます。 この常用漢字については、制定当時、中学校の教科書からさえ排除された漢字が入っている事は、前述しました。これを小学生に読ませるというのです。 子どもたちに無理な漢字教育ではなく、たのしい漢字教育で漢字の力ら着けてやるように、日本中で考えあいましょう。 漢字は、学習を支える基本的要素なのですから。 これが教育基本法のいう「人間の尊厳」の教育の具現化の一つなのではないでしょうか。 *参考文献 『漢字と教育』・一光社・(絶版・必要な方は、こちらまで)・大久保忠利 『児童・生徒の常用漢字の習得』・東京書籍・(絶版)国立国語研究所 『楽しく学ぼう漢字』(ルック・田村・乗木 養一・紺屋 冨夫編著)2003 田村 利樹 漢字指導法研究会(国字研)委員長 表現よみ総合法教育研究会代表 編著 『子どもが変わる漢字の指導』(下町人間総合研究所)2002 『子どもと創る表現読み』(あゆみ出版)1998 『小学生の作文教育』(明治図書)123年・456年、1982読売教育賞賞外優秀賞 共著 『話・聞き話し合い教育』(明治図書)1982 『表現よみ・その理論と教育実践』(あゆみ出版)1996
『子どもと教育』第7回
ことばの理解を深める表現よみ 表現よみ総合法教育研究会(表教研) 田村利樹
T 音声化とことばの理解
わたしたちが、文章を読んでいった時、分からない事柄に出会うことがあります。そんな時、音声化することによって、そこに書かれている事柄が分かることがあります。例えば、
@ 書かれているひらがなを拾い読みはできるが、単語のまとまりとして読めない時。
これは、入学して、ひらがなを習い、ひらがな1字1字を「む」「し」、「え」「ん」「ぴ」「つ」などと拾い読みしている段階の子どもの場合などです。
この場合、「むし」、「えんぴつ」と、単語として音声化すれば、子どもは、過去の話し言葉の中で「むし」「えんぴつ」の意味の習得がありますので、理解できます。このようなことから、文字で書かれたことば・書き言葉を少しずつ学んでいくこができます。
A 漢字が読めないため、その漢字の意味が理解できず、書いてあることがよく分からない時。
この場合は、分からない漢字を先ず、読みを教えて音声化させてみると、その漢字の意味が理解できる場合があります。
漢字の意味が分かれば、何が書いてあるか分かります。
たとえば、「ぼくは、学校へ行きました。」と言う文の場合、「学校」「行く」が読めなくて、何が書いてあるかわからない場合、学校、行くが音声化されれば、この単語の意味の理解は可能で、この文は理解できるようになります。
* しかし、音声化しても、意味が分からない場合があります。1年生の子どもが、『具体』『抽象』などの語彙に出会った場合です。これは、子どもの発達段階を越えているからです。
意味が分からなくても、とにかく、声に出せば、リズム・すごみ・あこがれなどを感じる効果があるという斉藤孝氏の意見もあります。そして、この考えに基づく本が、多種、出版されて、一時、話題になっています。しかし、この考えは、ちょっと、つっこんで考えてみる見る事が、必要です。これは、一時は、おもしろいかも知れませんが、やっている内に、これでよいのかと言う疑問が湧いてきたという声を、良く聞くのです。これでよいのかと言うことは、音読を繰り返して、名文が暗誦できるということですが、そこから何が得られたかという疑問なのです。
意味が分かって、声に出している場合は、意味が分からないで声を出している場合に比べて、リズム・すごみ・憧れの感じ方が違います。また、名文の記憶の内容も違ってきます。
これから述べるように、言葉の意味を理解して表現よみをする、この事を繰り返して学習する中で、言葉の力を着けていく、これが国語教育だからです。このことについて、Uの「表現よみが目指すことばの理解とは」で、詳しく述べます。
B読めるが、単語の意味や文構成などが難しく、何が書いてあるかよく分からない時。
この場合でも、先ず、音声化すると、案外、分かる場合があります。書かれている言葉が、音声化され、その音声が、聴覚を刺激し、理解を助ける場合があるからです。難しい文章を声に出して読んだら少し理解できたという体験は、これに入るのです。
*しかし、繰り返し読んでいても、理解が深まらない文章に出会う場合も在ります。こういう時も、
「分からなくてもいい、とにかく、声に出して反復復練習を」と、いう主張をこの頃よく、耳にします。はたして、それで、楽しいでしょうか。意味が分かり、その意味を表現する時に真の楽しさが、湧いてくるものです。それから、そのようなやり方で、文章の理解は、深まるのでしょうか。
このような考えではなく、その楽しさを伴って、読みの理解を深めること、これが、表現よみです。それでは、その表現よみは、どのようなものでしょうか、そのことを述べます。
U 表現よみが目指すことばの理解とは
単語が分かり、文構造も分かり、内容を理解して、表象化・情感化しながら音声化すると、体で感じて、感覚的にも分かるようになる。これが、ここで述べる表現よみが目指すことばの理解のことなのです。
分からなくてもいい、とにかく、声に出していれば・・・・という考えでは、表象化・情感化は、できません。このことは、言葉の理解にはつながりません。ですから、国語教育としてこのような考えを取り入れることは、疑問です。
現在の教科書の文学作品の指導で、作品の理解は、ほとんどしなしで、すぐに、音読をするというのがありますが、これなどは、この考えの立場に立つものです。これは、活動主義といわれています。
文学作品の言葉・文・文章には、感覚的な面(視覚・聴覚・嗅覚・皮膚感覚・味覚・・・いわゆる五感)がともなっています。ですから、文学作品の言葉、文、文章を読むと、これらを感じる事になります。それと同時に、情感がわき起こります。このことを表象化・情感化といいます。表現よみでは、表象化・情感化を深めながら音声化をします。そして、このことは、話しの展開を楽しむこと、批判すること、人生を考えることを豊かにしてくれます。
それから、このような考えに基づくと、丁寧な授業が必要になります。読みを深めるため、読み取った事の発表、そして、話し合いがあります。さらに、表現よみをし、聞き合い、そのことの話し合い(共同助言)もあります。まさに、本当の授業があるのです。この中で、子どもたちの学び合いが産まれます。この学び合いの中で、友達っていいものだという感情も芽生えてきます。子どもたちの繋がりが希薄になっていると言われている今、このような授業が、うんと必要です。音読を反復しているだけより、今、求められている教育が、実践されるように思います。
例えば、田村 操さんは、『国語の授業』(児言研機関紙・2004・8月号)でこの事を次のように記述しています。
「くじらぐも」 なかがわ りえこ 作
・子どもたちとくじらが同じことばのやりとりをして
特に「天までとどけ、一、二、三。」と子どもたちがジャンプし、くじらが「もっとたかく。もっとたかく。」と応援するところは、子どもたちが大好きです。だんだん高く跳ぼうとして声を大きく、高くしながらはりきって表現します。動作化も含めながら。作品の中の子どもたちの動作や気持ちをあたかもその場に一緒にいたかのごとくに理解することができたからです。
この文章では、子どもたちは、単語・文・文構造はわかります。その上での表現よみです。
「天までとどけ、一、二、三。」 「もっとたかく」を表現よみの指導をすることで子どもたちのジャンプの状況(様子)が視覚に浮かんできます。また、聴覚にひびいて聞こえて来て、自分の体も飛び上がるような感じになります。そして、子どもたちの心情も伝わってきます。つまり、五感を働かせて読み、表象化・情感化を深めていっているのです。
応援するくじらの声、気持ちも伝わって来ます。これも、表象化、情感化されたからです。そして、田村さんは、「作品の中の子どもたちの動作や気持ちをあたかもその場に一緒にいたかのごとくに理解することができた」とも、述べています。これが、表現よみが目指す言葉の理解です。五感で感じ、それが、心に訴えてくる(情感化)読みのことです。
また、「一つの花」 今西 祐行作では、次のような報告をしています。(『国語の授業』2004・8月号)
お父さんが深いため息をついて言うところは、お父さんの気持ちを理解するのが難しいので、話し合いの後は表現よみための時間をしっかり取って、表現の工夫をします。工夫し、共同助言しているうちに次第にお父さんの気持ちにせまっていくことができました。
お父さんが出征していく時の「ゆみ。さあ、一つだ
けあげよう。一つだけのお花、大事にするんだようー。」の会話文と、『お父さんは、それを見てにっこり笑うと、何も言わずに、汽車に乗って行ってしまいました。ゆみ子のにぎっている、一つの花を見つめながらー。』の地の文もこの作品のテーマに迫る大切なところです。ここでもお父さんの様子や心情を読み取るのはなかなか難しいのですが、表現よみをし合いながら話し合っていくうちに、感じ取っていくことができました。特に地の文では、読点が多いことに気づかせることで、お父さんのゆみ子への愛情と去りがたい心情を読み取ることができました。読点をうつのは、読みやすさだけではなく、次のことばを強調する役割もあるからです。
ここも、子どもたちは、単語、文、文の構造は分かっています。ここでは、それを前提にして、お父さんの心情の理解を話し合いによって深め、その後、表現よみの工夫をし、表現よみをして、お父さんの心情に迫っていくと言うのです。このような学習の中で、人間というものを考えていく事が出来ます。
そして、このような授業は、教師と児童、児童相互で創るものです。音読の反復でも多少は,創れるのかもしれませんが、表現よみの授業こそ、その本命です。ここでは、子どもと子ども、教師とこどもの人間的な結びつきが産まれてきます。
この表現よみで、大きな役割をしているのは、音声化、つまり、声です。今まで、この声の役割に注目した国語教育は、それほど見られませんでした。以下、その声の機能・役割について述べます。
V 書き言葉と話し言葉の心理(性格)
表現よみは、書かれている言葉(書き言葉)を読んで、音声化するわけです。
ですから、ここで、書き言葉について、少し、考えてみたいと思います。
「書き言葉」について、ヴィゴツキーは、「書き言葉の心理」(『思考と言語』新読書社,柴田義松訳、285ページ)で詳しく分析していて、参考になりますので、それを少し見てみましょう。
ヴィゴツキーは、
@「書き言葉」は生徒にむずかしいこと
A「書き言葉」と「話し言葉」の発達水準に違いがある事を述べています。
このAの書き言葉と話し言葉の発達水準の違いとは、学齢期の子どもたちの話し言葉の発達はかなりあるのに比べ、書き言葉の発達はほとんどないと言う事を言っているのです。これは、誰もが認められる事です。
そして、次に、ヴィゴツキーは、生徒にとっての
@「書き言葉」の語彙は、「話し言葉」の語彙と同一である。
A書き言葉と話し言葉は、構文法や文法構造も同じである。(285ページ)
B書き言葉は、話し言葉の文字への単なる翻訳でもない。
と述べています。
@Aについてですが、「ぼくは、学校へ行きます。」ということを話す場合と書く場合、@そこで使われる言葉は、同じであるという訳です。A構文法・文法構造は同じで、主語は、ぼくであり、述語は行きますである事を意味しています。
次にBの書き言葉は、話し言葉の文字への単なる翻訳ではないについてですが、ヴィゴツキーは、書き言葉は、その発達の最も本質的な特徴において、話し言葉の歴史を繰り返すものではないと、別の所で述べています。このことは、話し言葉の繰り返しの学習の積み重ねが、書き言葉になるのではないということを言っているのです。ですから、書き言葉の学習は、書き言葉の心理(性格)に基づいて行われる必要があるわけです。このことは、大変、重要な事柄です。
また、書き言葉と話し言葉について、次のようにも述べています。
「書きことば」は「話しことば」とは区別されるまったく「特別の言語機能」(286頁・)を持っていて、それは、「抽象性」であり、「音楽的・抑揚的・表情的、一般に自己のあらゆる音声的側面を欠いたことばである。・・・中略・・・話しことばのもっとも本質的な特徴―物質的音―を欠いたことばである」(286頁)
と、両者の違いを述べています。
このことは、話をする場合、相手が目前にいる場合は、話す方は、相手は、今、自分が話していることを理解しているか、いないか、相手の様子を見ながら話す事が出来ます。そして、その相手の様子によって、話に抑揚を付けたり、表情を変えたりしながら話せます。話している言葉が、難しくて相手に通じないと思ったら、易しい言葉で言い換えることもできます。それでも、相手に通じない時などは、身振りなども加えたり出来ます。また、電話、テレビなどの目前にいない場合でも、相手を想定して話します。ですから、音色や抑揚,速さや声の大きさに気をつけて、自分から相手に話したい事を理解してもらうように努めます。
ところが、書き言葉は、読み手のことは、一応、想定しますが、書いた言葉(文字のつながり)だけで読み手に理解してもらうものです。ここに書き言葉の理解(表現・記述)の困難さがあると、ヴィゴツキーは、述べているのです。書き言葉は、話の抑揚、表情、身振りなどが捨象されています。これが、書き言葉の抽象性である訳です。以上のことは,表現よみはもちろん、教育上学ぶべき内容があります。
W 書き言葉の理解に表現よみを取り入れることの意義
ヴィゴツキーは、続いて、書き言葉の「感性的側面の捨象」についても述べ、そして、このことは、「言葉の表象を利用する言語活動へ移行」(286頁)が必要性である事を述べています。
この書き言葉の「感性的側面の捨象」とは、話し言葉では、話し手が、喜び・悲しみなどの心情、視覚・嗅覚・味覚・皮膚感覚などの諸感覚を直接に表せるが、書き言葉では、それが直接には表せない事を意味しています。だから、もし、それらを表したい場合は、「言葉の表象を利用する言語活動への移行」が必要だと言っているのです。このことは、喜びを意味する言葉・文・文章では、それを声などで表現する、反対に、悲しみの時は、悲しみを表す声などで表現する事を意味しています。
やはり、田村 操さんの引用です。
「お手紙」 アーノルド=ローベル作 みきたく訳
おなじみのがまくんとかえるくんのお話です。二人の会話を中心に展開していくので,会話文の表現よみは欠かせないのですが、十分に時間をかけて表現よみしたいところがあります。
一つは、「だって、ぼくが、きみにお手紙出したんだもの。」「きみが。」「お手紙に、なんて書いたの。」のところです。書き込みや書き出しをし、話し合って理解しただけではなく、声を出すことによって、かえるくんの言わずにはいられない気持ちや、がまくんの驚きや喜び、感動を自分のことのように感じることができます。
二つ目も同じ理由で、「ぼくは、こう書いたんだ。『親あいなるがまがえるくん。ぼくは、きみがぼくの親友であることを、うれしく思っています。きみの親友、かえる。』」「ああ。」「とてもいいお手紙だ。」のところです。
田村 操さんは、ここでは、会話文の表現よみは欠かせないと、言っています。会話文と言えども、音声化しない限り、音がありませんから、がま君、かえる君の表情、言い方の抑揚などは、感覚的につたわってきません。それらが、省略されているのです。つまり、感性的な面が捨象されているのです。表現よみをすること(言葉の表象を利用する言語活動への移行)で、それらが、かなり、感覚的に伝わるようになるのです。「大造じいさんとガン」 椋鳩十 作では、次のように記述しています。
大造じいさんが次はどんな作戦をたてるだろう?それに対して、ガンの残雪はどうするだろうと、わくわくしながら読み進められる作品です。
『秋の日が、美しくかがやいていました。』や『あかつきの光が、小屋の中にすがすがしく流れこんできました。』などなど、大造じいさんの心情が美しい自然描写の中にも表されているので、様子の説明だけに終わらないように表現よみをしながら確かめていきます。
会話文のところは、大造じいさんの心情がよく表れているので、じいさんになったつもりで表現し合えます。ただ、
大造じいさんは、広い沼地の向こうをじっとみつめたまま、
「ううん。」
と、うなってしまいました。
の場面は、直接的に心情が語られていないので、話し合いながら、表現よみで確かめてみるとよく分かり合えました。○くやしい。○大したものだ。(感心)○今度は負けないぞ。(決意)などの意見が出され、それぞれ表現よみをしてみました。くやしいだけではなく、感心や決意も含まれていることをみんなで確認しました。
ハヤブサと残雪が戦っている場面は、テンポよく力強く読んでいくことで、場面の様子を表象化・情感化していけます。
大造じいさんが残雪に呼びかけている最後の場面は、一人ひとりがじいさんになったつもりで表現よみをすることでぐっとその心情に迫りたいところです。
X 表現よみの提唱者・大久保 忠利氏(元・都立大教授)の論から
大久保氏は自分が仲間とで表現よみの実践を重ねるなかで、表現よみの理論と実践を開拓していきました。その中で、次のような理論を発表しています。
「音声言語は、ある意味で像性を持っている。すなわち、(低い声で)と言いながら声を低くし、(あれえーっ)と言って声を上げるとき、その元の状態やその時の感情を直接に表せる。」と述べています。(大久保 忠利著作選集、三省堂・第五巻,210頁)声が、その時の状態や感情を直接に表せると言っているのです。ヴィゴツキーが、書き言葉が「音声的側面を欠いた言葉」「感性的側面を捨象されている」と言っていますが、これを補うものとして、大久保氏が、「音声言語は、書き言葉のその時の感情、状態を直接あらわせる」と、言っている事は、面白い結びつきです。
この事は、文字だけで理解しなければならない文章は、理解した事を声で表現すれば、子どもたちの理解がより確かになるという事を意味しています。
それは、その時の話の状況、展開、人物の心情などは、声で表せるのですから、感性的面の捨象がある文・文章に感性を入れる表現よみが、理解を深めるということになるのです。
大久保 忠利氏は、「表現よみができなくて、国語の教師がつとまるか」と火の玉のようになって言ったと、ある方が記しています。このことは、以上、見てきた通り、まさに言い当てている言葉だと思いす。
参考文献
『 国語教育』T(大久保忠利・三省堂・絶版、必要な方は、田村まで)
『表現よみ・その理論と教育実践』(田村 操編著・あゆみ出版・絶版』
『子どもと創る表現よみ』(田村操・田村利樹・岡摂子編著・あゆみ出版・絶版
この論文に対する質問疑問は、直接表教研もしくは国字研のHPへお願いいたします。
漢字の駆使、そして9歳の節を越える漢字力を(第2回)
――反復中心の詰め込みではなく、1セット5過程で手首化を―― 漢字指導研究会(国字研) 田村 利樹
T はじめに
前回は、品川案を批判して、「・・・ですから、品川案のように4年生で300字を教えるなんてとってもできません。わたしたちは、小学校で600字前後の漢字をこのように丁寧に指導する必要があると考えています。『子どもと教育』(2004年4月号)で、柴田義松氏は「落ちこぼし」と関係がある「9歳の壁」をどう乗り越えるかについて、座談会で述べています。「9歳の壁」の乗り越えは、この漢字指導と深い関係があります。僕らの漢字教育研究は、このことを中心に置いて研究をしてきました。次回から、このことに触れていていきたいと思います。」と、述べました。今回は、この流れで、述べさせていただきます。
U 「9歳の壁」の乗り越えと「漢字指導」
「9歳の壁を乗り越えないと落ちこぼされる」と言う事は、よく言われます。これは、どうしてなのでしょうか。この9歳の壁に直面する時期は、4年生頃と言われています。それまで、子どもたちは、具体的な思考をしながら、学習活動をしてきました。このことは、子ども自体の発達に沿ったものでした。
ところが、4年生頃になると子ども自体の発達が具体的な思考から抽象的な思考をする発達段階になります。このことを認識してそれに沿った教育内容、カリキュラムなどが教科書を中心にして、子どもたちに与えられてきました。(現在の教科書は、そうではなくなった箇所もありますが。)
ところで、その教科書を見ると、4年生で使われている漢字語は、3年生までの「学校」「空」先生」など、具体的な漢字語から、「関係」「課題」「変化」など、抽象的な漢字語がたくさん出てきます。ですから、この抽象的な漢字語をどう分からせ、身に付けさせるかが課題になります。それは、具体的な漢字語は、見たり、聞いたり、触ったり、体を動かしたりして分かるのですが、抽象的な漢字語はそうはいきません。例えば、「作る」や、「用意する」と言う漢字の意味は、1・2・3・4年生の子どもにもすぐ分かります。ところが、この「作る」と「用」を使った漢字語「作用」は、理解させるのにそれなりの指導が必要になります。抽象度が高い漢字語だからです。このような漢字語が4年生頃から急に多く出てくるのです。例えば、『住所』は、3年生の新出漢字として出てきて、意味が分かります。この漢字語を構成する「所」は、「所有」「所信」「所感」などの漢字語となって後から出てきます。「住所」の時は、子どもは、それなりに意味が分かりますが、「所有」「所信」「所感」となると分かりにくくなります。ここに、9歳の壁の乗り越と漢字指導の関係があると僕ら、国字研の仲間は、見てきました。それは、これらの抽象的な漢字語の理解が出来ないとそこに書かれている文・文章が理解できないし、教師の話も分からなくなるからです。そのことについての詳しい研究は、『子どもが変わる漢字指導』(田村利樹・乗木 養一・紺屋 冨夫・下町人間総合研究所・2002)で、のべています。もっと詳しく調べてみたい方は、そちらをご覧下さい。それでは、その抽象的な漢字語をどのように指導するか次に述べます。
V 抽象的な漢字語(概念語)の指導
1 抽象語(概念語)指導の出発点
この事について述べる前に、1年生の次の実践記録で参考になるものがありますのでそれを見てみます。1年生の始めの方の国語の時間『絵物語から』の指導です。子どもたちに絵を見せて、語らせてそのことについて、実践者が、次のように語っています。
「視覚がとらえる「絵」という媒体から、子どもたちは、自分の五感を使って,感じ、考え、そしてコトバとして表現しています。・・・・・中略・・・・絵から感じ、発見し、発表できるようにしています。「絵」という共通の存在をもとにして、その絵が表していることをみんなで探り出し、コトバで確認していくことが、学校で系統的に言語を学習していくための大切な第一歩だからです。たった一つの言葉でも、状況や気持ちの動きによって言い方は違ってきます。又、同じ状況や気持ちの動きも幾つものコトバで表す事ができます。コトバの持つ概念も学習するほどに広がり、豊かになっていきます。後略・・・・・。
ここには、コトバの学習の基本的なことが述べられています。それは、「五感を使って・言葉で確認していき、言葉の持つ概念も学習するほどに広がり、豊かになる・・・・・」と。これらは、言葉を分からせる(理解させる)ための基本的な出発点といってよいでしょう。ここに抽象語を理解させる出発点があることを、実践者は、語っています。(『子どもと教育』2004年4月号・田村操さん)
2 抽象語(概念語)指導の上向性と下向性
@概念くずしと概念形成
かつては、国語教育では、「概念くだきが重要だ」ということが、よく言われました。それと併せて、概念の形成の大切さも主張されました。この2つが言われた根底には、『落ちこぼし』を出さない教育を志向する教育のモラルがあるからなのです。そうなのです。概念の教育の重要性を考える背景には、『落ちこぼしを出さない。それには、9歳の壁を乗り越えることが、大切である。そして、9歳の壁を乗り越えは、概念を習得する事が密接に関係しあっている。だから、概念の習得は重要である』と言う考えがあるからです。
教育基本法第4条に「9年の普通教育」とあります。普通教育では、『落ちこぼし』は、許させません。ですから、この普通教育の実践には、抽象語(概念語)の指導が欠かせません。
あるとき、長男宅に電話をしますと、3歳の孫が出てきて次のような話になりました。
「何を今、食べているの?」
「種がはいっているパン」
「何の種が入っているの?」
電話のそばで、お母さんが、
「ごまパンよ」と言っているのが聞こえます。3歳の子どもが「たね」という概念語を使った例です。この概念語(たね)を(ゴマ)に置き換え、概念くずしをしています。
上位概念の「たね」の対しては、ゴマ・、ヒマワリ・ウメ・リンゴなど下位概念のコトバがあります。その下位概念の「ごま(のたね)」に置き換えて具体化して、くずしているからです。
つぎは、国語科ではなく算数数学科の「1あたり量」の概念の指導ですが、本当に感動的てきです。2年生で『1あたり量』を指導した実践です。(数教協・鈴木一巳氏)
それは、「秋の野原」「1あたり量さがし」「ぶどうのたねとばしきょうそう」「ぶどうの実1に入っているたねは1あたり量になるか」「1あたり量のかくれているひみつ」
と言う指導過程で展開されています。この学習過程の中で、2年生の子どもが、1あたり量の概念を身に付けています。
つまり、具体的なことから、抽象的な「1あたり量」の学習を」を2年生の子どもが楽しそうにやっているのです。(詳しくは、数教協の出版物をご参照ください。)
「たねのはいったパン ゴマパン」が「概念くずし」です、それに対して、「ぶどうのたね」から「1あたり量」を発見するは、「概念作り」と言えます。
A 1セット5過程の漢字指導
国字研の創始者・提唱者・大久保忠利氏は、氏は、概念研究の大切さを最期まで、訴えていました。氏の最終講義は、概念についてでした。氏のその研究の中に「概念習得の上向性と下向性」について述べた文章がありあります。(大久保忠利著作選集・5巻・『コトバの心理と論理』20p)
「概念習得の上向性」とは、「下から上への道、個別的・特殊的事例から一般化への道」と述べられています。前の例では、「ぶどうの種」での学習です。
「概念習得の下向性」とは、「一般的なものから特殊的・個別への道」と述べています。これは、「たね ゴマ」の例です。いわゆる概念くだきは、これに入ります。
このことは、漢字語の抽象語(概念語)の指導にも当てはまります。
そこで、考えてきて、まとまったのが、「Tセット5過程」の漢字指導なのです。この事については『「脳が記憶するメカニズム」を利用した漢字指導』(『子どもと教育』ルック・2004年5・6・7月号,阿部隆幸さん)に実践記録が出ていますので、そちらを御参照ください。
漢字教育の最近の1年間にわたる2年生の実践では、この様な内容で具体的に述べている報告がありますので、ご紹介します。(『子どもと教育』ルック出版・2004年9・10・11月号・「小学生の漢字力と1セット5過程の実践」)これは、公的研究会でも報告されているものです。
また、漢字指導研究会夏季アカデミーの模擬授業で、紺屋 冨夫先生(町田市)は、3年生の新出漢字、『物』の授業を『1セット5過程』で展開しています。これは、『子どもと教育』2005年2月号で紹介しました。
3 抽象語(概念語)指導の決め手
以上、見てきましたが、抽象語(概念語)指導の決め手は、1年生からの丁寧なコトバの指導の一貫として、それは、あると言えます。丁寧な指導には、時間が必要です。その時間で、抽象語(概念語)を構成する漢字を指導しますから、その時間で指導可能な漢字を選定する必要がある訳です。その事を国字研では、教育基本語彙(小学校・中学校の教育を受ける上で必要な語彙)の形成に必要な漢字を選定すると言っています。例えば、「仁」という漢字は、4画で書くのは、易しいですが、漢字語は、「仁愛」「仁義」「仁術」などがありますが、小中学生の子どもにとっては理解しにくい漢字語です。ですから、小中学校で学習するのではなく、高校以上で学習するように考えています。それに比べ、3年生で出てくる「意」は次のような漢字語を作り、子どもが学習・生活する上で重要な漢字語です。
意義 意気 意向 意志 意識 意地 意中 意図 意表 意欲 意外 意見 悪意 敬意 決意 故意 好意 合意 眞意 誠意 善意 創意 大意 敵意 熱意 文意 注意 用意 意味深長 創意工夫
ですから、この「意」は、丁寧に教えるべき漢字として選定しました。その案は、『たのしく学ぼう漢字』の資料に出ています。
このように丁寧にしどうしても、なかなか定着しないと言う声を聞きます。次は、どのようにして定着させるか、その事については、次号で述べてみたいと思います。
参考文献
『漢字と教育』(大久保忠利・一光社・1986)135p(絶版)
『国語教育』U-X・大久保忠利・三省堂・1996)(絶版。必要な方は、田村まで。2500円、送料別。)
『たのしく学ぼう漢字』(田村利樹・乗木 養一・紺屋 冨夫・ルック・1996)
『子どもが変わる漢字の指導法』(田村・乗木 養一・紺屋 冨夫・下町人間総合研究所・2002)
『思考と言語』(新読書社・ヴィゴツキー・柴田義松訳)
私たちの学校づくりを再構想する
──中教審・教課審答申をどう読むか──
講師:子安 潤氏(愛知教育大学・教育方法学)
|
1953年生まれ。全生研や歴教協などで、学習の共同性や政治性について大胆に論議を巻き起こし、学校教育全体の再定義を試みようとしている刺激的な若手研究者。「「新学力観」に対抗する共同的学習をつくる」『ゼミナール・生活指導をつくる』(青木書店)など、論文多数。 |
学生時代に、教育実習に行った先の担当の先生が全生研の先生で、県生活研の研修会に連れていかれました。彼には、ほぼ毎日のように晩御飯をごちそうになり、家庭教師のバイト先まで紹介してもらったりして、合宿に行ったりしていたら会員になってしまいました。大学院には、湯浅さんがいたり、下には山本敏郎君が、そのもっと下には船越君がいたりと、7割が保問研か全生研の会員でした。私は、なんとなく全生研はスリッパ並べをさせられるのではないかと思って、保問研の方に通っていました。幼稚園の先生やや保母さんたちと、小さい子のことを考えたり学ぶことがとても面白くて、「これが教えたり学んだりすることかなあ」と実感を持ったりしました。
私の専門は教育課程論で、算数や数学をメインに研究していましたが、大学院に入る前に小学校の教師を2年ばかりやり、そのときに社会科部会に入ったので、歴教協にも顔を出すようになりました。愛教大に就職してからも、愛知県の歴教協に顔を出しています。名古屋で学習集団研究会というのもやっていて、ここ、十数年、学び論にかかわってきていることになります。
1.教育課程審議会答申
今日の報告は、10月の教育方法学会のシンポジウムで報告したものとほぼ同じです。
一つ目は、インターネットからダウンしたものです。昨夜、ネットを眺めていていたら、文部省のホームページの中に教科書づくりをする委員会が発足し諮問していて、この四つの基本方針にしたがって、作るんだといっていました。
1.豊かな人間性や社会性、国際社会に生きる日本人としての自覚の育成を重視する。他人を思いやる心、豊かな感性、ボランティア精神、正義・公正を重んじる心、社会生活上のルールや基本的モラルなどの倫理観の育成を重視するとともに、我が国の歴史や文化・伝統に対する理解と愛情を深め、異文化の理解と国際協調の精神を培う。
2.多くの知識を一方的に教え込む教育を転換し、子どもたちが自ら学び自ら考える力を育成する。
3.ゆとりある教育活動を展開する中で、基礎・基本の確実な定着を図り、個性を生かす教育を充実する。
4.各学校が創意工夫を生かし特色ある教育、特色ある学校づくりを進め、……教育課程の基準の大綱化・弾力化を図り、……特直ある学校づくりを進める。
中略
・ 各学校が創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開し、国際理解・外国語会話、情報、環境、福祉・健康など横断的・総合的な学習などを実施するため、「総合的な学習の時間」を創設する。(教課審「教育課程の改善のポイント」より)
この4つの基本方針を、学校や生涯教育を含めてどう評価するのか、また、それとは違う学校をどうつくっていくのかということを、話したいと思います。
この報告は、高齢の方や学会の重鎮を批判の対象として意識しており、それは文部省側はもちろんですが、民間教育研究団体の重鎮の批判も念頭に置いています。民教研が、戦後の日本の教育実践に大きな役割を果たしてきたことに異論はないのですが、今のままではうまくいかないんだと言いたいからです。
2.子どもの状況、答申は把握しているか
まず、教課審の子どもの状況把握について、私なりのとらえ方で述べたいと思います。
「子どもは忙しい生活をしていて、体験活動が不足していて、社会性が希薄で、生活習慣が低下していて、過保護になっている」というのが、教課審の子どものとらえ方のあらましで、中教審と大きくは変わっていません。そして肯定面は「豊かな感性を持っていて、国際感覚豊かで、メディアの操作に優れている」というのですが、これらは本当でしょうか。中教審は「心の教育」とか「創造性」を強調していますが、「心の教育」を正当化するデータを持ってきているのではないかという節があります。
「心の教育」と自己責任原則の貫徹、「創造性」の教育を推進する根拠にするためのもの。教課審は、子どもの「問題」状況を家庭のせきにんとしその教育力の回復、地域の統制的施策によって対応し、学校の多様化・学習課程の多様化によって対応することの根拠づくりにしている。(レジュメより)
例えば、そこにあげた「少年犯罪の凶悪化」ですが、これは神戸の事件や、愛知でもあったナイフ問題などに対応しています。
けれども『子ども白書`98』(草土文化)を見ると少年の場合1960年前後が一番凶悪犯罪が多いのです。これは50歳前後の団塊世代、つまり現在の管理職の世代がもっとも凶悪だったということになります。過去と比べて凶悪化というと、数字的には必ずしもそうとは言えないのです。「警察白書」では、平成に入りバブル期以降減ってきたのに、ここ3年ばかり増えているというのは間違いありません。しかし「犯罪白書」つまり法務省のデータとは異なっているんです。警察は捕まえた数を数えますが、これが本当に犯罪に該当するかというと、ずれが生じます。「誤認逮捕」もあるということです。池田さんという先生の前任校がナイフ事件が起きた学校だったのですが、彼は「あれはナイフ事件を捕まえるキャンペーンの中で捕まった事件であって、キャンペーンがなかったら捕まらない事件だ」と言っています。また、ちょうどナイフ事件が起こっている時期に普通の人に「最近の子どもの事件は凶悪化しているか」と聞いているんです。都合良さそうな調査を持ってきたんじゃないか、ということになります。「心の教育」をやるために意図的につくりだされたデータなのではないかと思います。
2番目に、「子どもたちは忙しい生活をしている」ということですが、私はまるっきり疑っています。総務庁青少年対策本部『日本の青少年の生活と意識』(1997年)で、「家に帰ってきてどれだけ勉強しているか」と保護者に質問して、これを日本と韓国、アメリカの三国を比較しています。これで見ると、韓国の子が一番勉強していますが、日本の子どもがすべての年齢で一番勉強していません。総務庁青少年対策本部『子供と家族に関する国際比較調査報告書』(1997年)で、家での活動の数をカウントしていますが、ここでも日本は一番活動の数が少ないのです。塾の調査を見ると、平成の初め頃、中学生が4分の1、現在はおよそ半分ということになっていますが、普通、塾は週2〜3回で1回2時間くらいです、すると子どもの勉強時間は、塾に行っている時間だけ勉強していて、塾があれば勉強するものの、これがなければまったくやらないということになります。階層的な違いがありますが、これが日本の子どもたちの平均像ということです。そういう生活が支配的になってきているんです。そうすると必ずしも中教審の「忙しい生活」という把握は違うんじゃないかということになります。追われている、焦らされているという実態はありますが。
3.子どものリアリティの変化
しかし、子どものリアリティが変容してきているというのは確かだと思います。豊泉周治さんは『アイデンティティの社会理論』(青木書店、1998年)という本の中で、日作の作文に検討を加えて、子どもたちの変化をとらえています。
大人になったら、赤ちゃんを生んで/子どもに向かって
「せんたくせい。」/「るすばんせい。」/「勉強はよせい。」
「テレビ見るな。」ときめつけたい。
時々車にのって、くつやふくを買って
「きれいでしょ。」/とじまんしたい。
自分だけ、いいものを買って/かがみの前で、ポーズをとり
目をぱちぱちさせて/「すごくきれい。」
とおしゃれをしてみたい。
たいくつになったら/車ででかけ
どこかでテレビゲームを何回もしたい。
やっぱり大人のほうが、のんびりできるき いいなあ(小3、1985年)
前に、放課後同じクラスのコ、4人でしゃべってたとき、4人とも自分のことを二重人格だと思うって言った。学校の門をくぐるとそこから『えんぎ』がはじまるって。ヨーイ、スタートでパット表情を変えて学校用に顔をつくるって。家のいる自分と学校にいる自分は全然ちがう。(中3女子、1997年)
「いじめ」のない学校はそれなりに恐ろしいです。内申に出るのが怖くてnもできない人が多いから、つまりストレスのたまりきった頭のかたい人が多いから。ある程度のいじめならあったほうがよいかもしれない……と思うことがあるほど(中3女子、1997年)
「勉強することが私にとっての幸せにつながりません。」とさけんだところでムダでしょ?少しずつ少しずつ無意味な勉強をすることになれていくんですよ。きっと私は。自分の行動に疑問をもてなくなると、自分が誰かをいじめていても、“悪い”なんて思えません。(中2女子、1997年)
中西新太郎さんのマンガの分析や、大塚英志の本なども大変おもしろいです。中西新太郎は大塚英志をかなり正確に読み込んでいて、自分なりのパースペクティブでとらえ直しています。たとえば、山口百恵は私生児として生まれ不幸な生い立ちからデビューしてやがて家の中に回帰していったと分析されていますし、キャンディーズも普通の女の子に戻っていきます。ところが、松田聖子は何をしてもスター、アイドルになる、そういうのを自覚して宣言したのが「何てったってアイドル」の小泉今日子なんです。予め敷かれた路線であろうが、虚構であろうが、その路線を生き抜いてみせるわけですが、そこから見える世界のリアルさは変わっているんです。80年代の半ば以降の世界でそういう変容が生まれてきています。
見田宗介という社会学者の著書で『現代日本の感覚と思想』(講談社学術文庫)というのがありますが、80年代の途中からは、虚構の世代といっています。90年までは虚構の時代で、バブル以降は虚構の終末期ということです。そういう子どもの中の変化というのが生まれてきているのです。
きのう、渡辺雅之さんが援助交際がばれた高校生に教師はどう指導するかというワークショップをやっていましたが、ほとんどの教師は指導することができません。「どうせ今しかやらない」「旬の今だけ遊びたい」と言う女子高生達に、有効な反論を見つけることができないでいます。「そういうのは自分を傷つけることだからいけないよ」なんて言っても通用しません。もうとっくに傷ついてきているんであって、いまさら傷ついても何でもないんですね。
私は基本的に、社会的な対人関係を物や金で置き換えて、そこで作られた関係が現実だと思っていることが問題と思っています。しかし、私が考えていることだって女子高生たちには通用しません。「それ何語?」という具合でしょう。旧来のやり方では通用しないというのが、今の一般的な状況だと思います。
それはいろんなところで出ています。私の子どもは中学校2年生なんですが、バスケットボール部の子でオール5の子がいるんです。「すごいね。オール5なんて」と聞くと、「だって発言するもん」。「新学力観」以来、発言すれば成績が上がることになっていて、そういうことは子どもたちは全部知っています。
子どもや若者達は、他人のちょっとしたことには鋭くつっこんできます。大人の感覚でいうと大げさに見えますが、子どもにとっては大げさではないのかもしれません。例えば、女の子はあらゆることを「かわいい」と言いますが、何がどのように「かわいい」のかわからない、でも、何でもかんでも「かわいい」というのです。お互いに傷付かないためにそういっているだけなのかもしれません。子どもがいう「ぶっ殺すぞ」が、大人のとらえ方と同じ意味をもっているのかどうかもわかりません。
6月に「子どもの権利条約・日本政府に対する懸念・勧告」というのが出されました。日本の教育制度が過度の競争に追われていて、子どもたちが無権利状態におかれていると言っているにもかかわらず、前から何も変わっていないということです。教課審・中教審答申では子どもたちがおかれている問題について何も触れていません。おそらく何もしないんだと思います。
4.「子どもごとの基礎基本」
それとも「基礎・基本の確実な定着」か
今回の答申の特徴は、「精選」ではなく「厳選」という言葉を出している点です。基礎・基本の問題ですが、「新学力観」では、死んでみないと何が大事だったのかわからないから基礎・基本なんてわからない「子どもごとの基礎基本」と言ってきたんです。「新学力観」のときに基礎・基本は崩壊したものだと考えられてきました。ただ、中学校の先生は受験圧力があるので、「試験に出るから基礎・基本」という具合に、そうなりませんでしたが。しかし今回の答申では、「厳選した内容を徹底していくんだ」といっています。教課審を見てもいわゆる「生きる力」を基盤とした一定の基礎・基本的な技能を繰り返し学習させるなどして習得させる必要がある、と述べています。これによって、旧来の基礎・基本が復活したと言っていいと思います。復活させていいのかという意見もあるんですが。
揺れ動く基礎・基本
1)「これからは、全員が同じ教育内容を受けるような形式的平等ではなく、個性にも応じてそれぞれが異なるものを目指す実質的な平等を実現していくことはますます重要になる」(文部省『新しい時代に対応する教育の諸制度の改革 第14期 中央教育審議会答申』、1991年、14頁)
2)「これまでの教育においては、基礎・基本として、知識や技能を中心にとらえる傾向がみられた。こらからの教育においては、子どもたちが主体的に生きていくために必要な豊かな心と創造性の育成を目指しており、そのような豊かに生きる力としての資質や能力を基礎・基本ととらえることが肝要である。」(『小学校教育課程一般指導資料 新しい学力観に立つ教育課程の創造と展開』1993年、11頁)
3)「教育内容の厳選は、[生きる力]を育成するという基本的な考え方に立って行い、厳選した教育内容、すなわち、基礎・基本については、一人一人が確実に身につけるようにしなければならない。」(第15期中教審第一次答申、『文部時報』、1996年、32頁)
4)「従来のような知識を教え込むような授業のあり方を改め、子どもたちが自分で考え、自分の考えを持ち、それを自分の言葉で表現することができるような力の育成を重視した指導を一層進めていく必要がある」
5)「ただし、当然のことながら、自ら学び自ら考える力を育成する基盤として、一定の基礎的・基本的な知識や技能等を身につけていることが不可欠であり、そのため、教師は、カで述べたように、子どもたちにこうした基礎的・基本的な知識や技能をくり返し学習させるなどして、確実に習得させる必要がある。」(教科審答申、『初等教育資料』、1998年、82〜83頁)
基本は「生きる力」の方にあって、これは「21世紀をたくましく生きていく力」と置き換えることが可能で、「創造力」がもっとも期待されています。他方で、まったく読み書きのできない子どもは「生きる力」とは言えないという考え方が一部にはあります。しかし、従来の各教科研究で大事だと考えられてきたものと基礎・基本は、まったく別のものだと思います。「読み書き算」は旧来の考え方に戻ってゆくと思われます。
基本的には、従来、小学校中学校で重要だとして教えられていた中身を削減すると見るべきで、もっと削減して、小さくして、それを徹底してやらせると理解すべきだと思います。愛知の数教協の渡辺さんは、今度の中教審で算数で一番おもしろいところを持っていかれてしまったと言っていました。算数は討論しにくい教科で、計算はおもしろくないが、図形のところは子どもは乗ってくれる、それがなくなって、おれの授業はダメになったといっていました。実際に重要な部分もなくなってきています。12月に確定的なものが出るので、それぞれの分野で詳細に検討する必要があります。
5.共通教養の捉え直し 多文化的共通教養へ
基礎・基本の徹底を従来のように追求するは間違いだと思っています。こういうことを言うから私は嫌われるのですが……。梅原利夫さんは次のように述べています。
これまでの共通教養論のたて方において典型的な発想様式は、次のようなものであった。・
すべての子どもに共通に、・ 最低限これだけは、・
身につけさせなければならない。(梅原利夫『カリキュラムをつくりかえる』国土社、1995年、37〜38頁)
共通とは、次の三つのレベルに整理され、それぞれに応じて到達のし方やされ方に違いがある。・
中略 理解と習熟の水準が内容で明確に示しうるもの。この場合、共通とは、誰もが水準以上に達成することを目指す。・
中略 現代人としてもっておきたい課題の共有。中略、接近の道を同じようにたどる必要はない。・
中略 価値の方向性において同意していること。以下略(前掲書、48〜49頁)
最低限これだけは、というものが最大限肥大化して、全員の子どもに教え込ませなければならないというかたちで硬直化してくる、こうなると事実上、教科書には基礎・基本以外のものはほとんどないんです。
昨晩、愛生研の池田さんが述べていたんですが、社会科の資料の読み取りをやらせていたら、真ん中ぐらいの成績の子どもに「先生これ何の役に立つの?」というので、「まあ、大した役に立たない」と言ったら、「役に立つやつだけしっかり作れ」といわれた、と言うんです。すぐには役に立たないが長い人生の中で役に立つのかもしれないが、そんな明確なものはないのではと言っていました。しかし、こうした子どもたちの声に応える必要があります。今教えている中身が人間の生活にどのようにつながるのか、もっとプラグマチック(実利的)に、こんな職業ではこんな概念や技術が大切だと考えられているというように、知識と実際に用いられている領域とつなぐ必要があると思います。「やがて役に立つ」というのは苦しむだけというのは、子どもはよく知っているんです。系統性だけを明らかにするというと教える中身はどんどん増えていきます。
補足的に言いますが、地理や現代史をやっているときは、比較的意味を明らかにすることは容易ですが、近代以前の歴史となると、現代とどうつなげればいいのかあやふやになってきます。そんな昔のことどうでもいいじゃない、ということになってしまいます。奈良あたりまでなら楽しく教えられるという教師はいますが、それ以後は苦手です。楽しい授業と、教える意義が乖離しています。
4番目として、本当に「共通教養」として重要だから教えているのかどうか、問いを立てる必要があります。直接的な契機は一つは外国籍の子どもにどう教えるのかということです。多文化・グローバル化が進展し、愛知ではニューカマーと呼ばれる人たちがかなり入ってきています。もう一つは障害を持っている子を念頭に置いて考えているのか、小学校の四則計算ができない子みたいに単に勉強ができないという子を考えているだけではないのか、肢体不自由や知的障害を持つ人がいますが、そういう子を共通教養の範囲でとらえなければならないのではないかということです。
ついでにいうと、勝田守一は明らかに健康な男の子を考えて共通教養を考えています。家庭科のようなもので、男女の反応の違いを考慮しなければならないと言っていますが、これは配慮の問題ではないと考えていて、戦後の民教研運動に多大な影響を与えた勝田守一ですら女の子のことを念頭に置けなかったのです。国民教育の「国民」というのは一部分でしかなかったのです。そのほかにも、アイヌ、東北地方、大和とアイヌの差別的な問題などたくさんあります。日常の中の不平等な関係の存在を前提にして、国民的教養というのが成立するのかどうかを考える必要があります。アメリカやカナダ、オーストリアが有名ですが、多文化主義というのがあって、いろんな文化性の違いをどう乗り越えて一緒に暮らしていくのかという教育ですが、文化、国籍、言語、宗教の違いを乗り越える、そういう見通しの中で教養を考える必要があると思うのです。『学びのディスコース』(八千代出版)という本を出しますが、その中で、私たちが共通と言ってきたことの「共通」とは何なのか詳細に論じています。
6.明晰な言葉・政治的言葉
5番目の方にいきます。
わかりやすさとは、実のところ、過程を示すものにすぎないのに、しばしば『自然』で自明な言葉の状態とみなされる。わかりやすさという名目のもとに永く維持されるのは不寛容の一形態であり、一見それとはわからないかたちで排除することを意味する。(トリン・T・ミンハ『月が赤く満ちる時』みすず書房、1996年、332頁)
ミーハはベトナムからアメリカに渡った作家兼映画監督ですが、簡単に言うと「当たり前だということによって、当たり前だと本当は思っていない人を排除してしまう」ということです。うちの子が小さい頃「キャプテン翼」が好きで、その中に「男にはやらなければいけないときはやらなければならない」という場面がよく出てきたのですが、女もだってやらなくちゃならないときはあるんだと憤慨していました。「そうだよね」というと排除される一団が必ずいるんです。
教課審の内容にかかわって、ひとつは国際化の問題が目立ちます。
国際社会の中で日本人としての自覚を持ち主体的に生きていていく上で必要な資質や能力を育成することも極めて重要である。我が国や郷土の歴史や文化・伝統に対する理解を深め、これを愛する心を育成するとともに、広い視野をもって異文化を理解し国際協調の精神を培うことは、これからの学校教育において一層重視する必要がある。(教育課程審議会「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」『初等教育資料』 1998年9月号、83頁)
誠実さや勤勉さ、互いを思いやって強調する「和の精神」、自然を畏敬し調和しようとする心、宗教的情操などは、われわれの生活の中で大切にされてきた。(中央教育審議会「幼児期からの心の教育の在り方について」中間報告『文部時報』1998年4月臨時増刊号、14頁)
「日本人として主体的に生きていく」とか、「和の精神、誠実さや勤勉さを重視してきた」と言われるとそうだと思ってしまう。けれども決してそんなことはないのです。政治を握っている人の中に和の精神を大切にしている人はいないでしょう。宗教的情操と言いますが、キリスト教国とかタイなどの仏教国とはまったく異なる、何よりおかしいのは国際化といっても学ぶのは日本の伝統文化ばかりということです。相互依存の関係にあるといっていますが、本当にお互いに助け合って生きているわけではありません。「北」による「南」への依存、すなわち、おおよそ先進国による途上国への依存なのです。坂井昭夫さんの論文でも「相互依存論というのはまやかしだ」、といっています。
現代の相互依存論は、かつての覇権安定論に変わって登場した世界の政治経済関係についての見方であるが、その諸議論を検討した坂井昭夫によれば、国家に対する非国家のアクター(多国籍企業、国際機関など)を過大視していること、相互依存の関係は非対称的であるがその視野は先進主要国に限られ、主要国のパワー独占に都合の良いものとなっていることなどが指摘されている。(坂井昭夫『国際政治経済学とは何か』青木書店、1998年、131〜160頁、参照)
5番目は総合学習の政治性です。基本的な問題は、総合学習が、日本とか多国籍企業の抱える問題、各国の抱える問題が浮かび上がらない学習になっているということです。有名な千葉の浮舟小学校の実践ですが、──ここの校長先生は「新学力観」をつくったときの中教審委員だそうですが──そこでの実践が本になって出ています。「アジアを知る」というテーマの総合学習子で、どもたちが設定した主な調査項目は民族衣装、住まい、伝統、スポーツ、食べ物、言語、文化、特色ある産業、日本との関わり、……。しかし、国際理解において最も重要な、それぞれの国が抱える問題にはまったくふれられていません。もともとそういうのは視野にないんです。福島大学にも方々の国から留学生がきていると思いますが、ぞれぞれの国のエスニック料理をつくっておしまいなんです。それぞれの国がどんな問題に直面しているのかアプローチしなければまったくダメなんです。文部省の研究指定校の大半はこういう研究です。総合学習の実践は何をやってもいいよといっていますが、実際には、政治的に展開されているのです。
7.自由幻想を越えて
学び・総合学習を念頭に
ここまで、子どもの分析が恣意的だということと、共通教養のとらえ直しの必要性、カリキュラムの政治性について問題提起してきたつもりです。
最後になりますが、教課審が強調してきた「子どもたちが自ら学び自ら考える力を育成する」ために「総合的な学習の時間」をはじめ学習における「自己決定」が重視されることになろう、といっています。これまでなら教師がいろんなお膳立てをして子どもに学ばせてきましたが、これからは自分で計画を立てて、自分で目標を立てる、「新学力観」のときから入っていましたよね。
個性化教育で有名な加藤幸次さんが述べてることが、本当に個別化なのか個性化なのか疑わしいと思っています。国語・算数でワークなどを自分のペースに合わせて進めることを個別化といって、テーマにかかわるものが個性化だといっており、個別化と個性化とワンセットで、個性化教育になるというのです。愛知の小川小学校というのがありますが、算数や国語は基本的にワークなんです。テーマ学習もやりますが、それらはすべてパッケージ化されているんです。ワークを買わせる学校が多いんですが、問題文に穴があいていて、教科書を見ると埋められるようになっています。やり方はいろいろありますが、ワークにしたがってやってしまえば授業を終えることになるんです。つまり、教師がやっていたことを子どもに委ねれば、個性化教育になってしまうんです。実態としてはその程度です。個性化といってもパッケージ化されていて、結論はあらかじめ決まっているんですよ。
よく、総合学習は、学校が行事のようにやる、先生が問題提起する、子どもが自分でテーマを選ぶという三つの方法があると言われています。さも、子どもが自分で選んだかのようにつくるのがポイントだといって、四つぐらいのテーマから自分で選んで、子ども自身でやることが課題だといって、その中で生きる力、想像力がどれだけ伸長したかを数値的に調べるわけです。
竹内先生が言う「裁量労働制に見られるような目標管理システム」(竹内常一『少年期不在』青木書店、1998年、170頁以下、参照)なんです。目標は決まっていて、その間を子どもに委ねろといっているにすぎないんです。目標管理型の学習は過酷で、タクシーの運転手さんを考えてみればすぐわかると思います。歩合制の職業が増えていますが、正式採用も勤務時間も労働内容も週休も給与も何でも歩合制なのです。いろんな子どもがいるので、どんな認識になってもかまわない、しかしどんなことに取り組むか、どこに到達すればより高いか評価基準も予め決まっています。そういう自己決定になってゆくのではないかと思われます。
最近「自己決定」という言葉がよく使われますが、自己決定のようで自己決定でないことが多いんですね。転勤希望なんて自己決定として出しますが、どこに行くかわからないでしょう。これしか選べないという中での自己決定なんて怪しいんです。自分が何を選んだのかわからないというのもあるのではないですか。なんだかわからないが選んでみたら、ひどい目にあったということもあるんです。子どもはこれから勉強するのだから、選んだものがどういうものかわからない、しかしそれがとてもひどいことだってあるでしょう。これは子どもにとって大変過酷な問題です。自分で選んだんだから仕方がないじゃないかと、自己決定が理由に使われることが多いんです。にもかかわらず、私は子どもの自己決定は重要だと思っていますが。そうではない道に転換する必要があって、ここらが教師の仕事の別れ道だと思います。
湯浅さんが上手に述べています。
次に、「自己決定」は、湯浅さんが強調するように、自由気ままな意志に沿うことでも、問題を個人に還元し専門家がコントロールするすることでもなく、関係と過程を問題にし、パートナーシップによるコントロール、情報を公開し、セルフヘルプ支援戦略の方法(自立サポートモデル)においてとらえていく必要がある。(湯浅恭正「自己決定と学び」『学びのディスコース』八千代出版、1998年)
このためには情報を公開していく必要があります。総合学習は自己決定を織り込んだ形で行わなければならないのですが、分かれ目は、自己決定があるかないかではなく、過酷な自己決定ではないものへと変えてゆく必要があります。
今、体験的な学びというのが奨励されていますが、体験したらわかるのかというのも問題です。中西さんがおもしろいことをいっています。これまで、どんな教科でも体験を組織してきた、それらは「体験すればわかる」ということでは同じ前提に立っている、しかし本当にそう言えるのかということです。
身体にもとづく確信はあてにならない。中略。実際に『体験』されているのは、「自然とされているもの」の人為的抽出と人為的遭遇かもしれない。(中西新太郎『情報消費型社会と知の構造』旬報社、1998年、76〜77頁)
音楽教育の南さんという方と、彼女のお子さんの話をしていたら、サツマイモを育てたという感想文があってそれにあきれてしまった、といっていました。先生がピーッと笛を吹いて一列に子どもたちが畑の前に並んで、次の笛で掘り初めて、みんな一個掘れたかなというときに先生がピーッと吹いて、交代して……、サツマイモを掘るということが人工的にマニュアルとしてつくられていて、これをやれば体験したことになるんですが、こんなことをやって何がわかるのでしょうか。人工的に組織されたところで、サツマイモを掘り出す活動をしたに過ぎません。
中西さんが念頭に置いているのはバーチャルリアリティのことで、体験したかのように体験できるという問題です。いったい体験を組織するというのはどういうことなのか、学校で組織されていることは疑似体験ではないのか、実際にその中で何が認識されているかというと、いい加減なのではないのか。勤労体験の感想文など、パターン化された子どもの言葉ではないのか、と、とらえ直す必要があるでしょう。
最後になりますが、子どもの権利が無視されているという問題を出しましたが、『生活指導』の12月号に同僚の坪井が、シカゴではどういうふうにして校長先生が選ばれるかが書かれています。基礎学力を上げると再任されるなど、問題はないことはないのですが、ここには住民統制が働いています。シカゴでは教員ではなく親が過半数を占めています。教師主導の学校づくりは必ず破綻すると考えています。
小学校2年生の国語の教科書に、半沢俊子の物語があります。熊に家を直してもらって、ごちそうして返すという女の子の童話です。自然とつきあうことをテーマにした物語なのですが、児言研の年輩の教師ですが、「こんな子ども嫌いだ」というんです。「熊さんの手は大きいから、家を直してちょうだいな」などという、こんな厚かましい子が嫌いだというんです。書いてあることが本当にそうなのか、考える必要があんです。
自己決定を協同的な生活を持ったものとしてつないでいくことを強調して終わりたいと思います。
Q&A
個性化個別化教育を超えるのは、共同決定というイメージなんですが、総合学習にかかわって、学びばかりではなくて、子どもたちの交わりの側面をどう考えればいいのでしょうか。
総合学習にはいろんな実践がありますが、例えば、愛知教育大学の附属中学校では行事とセットなんですね。宿泊訓練を1年生から3年生までやっていて、2年生は伊豆に行くんです。3年生は小豆島にずーっと何十年も行っていまして、そこにいくためにテーマを設定するんです。いった先の学校との交流会、たとえば校則の違いなどをやったりするんですが、まずはテーマが例示されて、選んだ者たちでグループが形成されて、帰ったあとに冊子がつくられたりプレゼンテーションをしたりします。プレゼンテーションもまたグループを超えた交わりを発生させる契機になります。交わりで考えると、それなりの交わりは必ず生まれます。
問題は、どんな交わりかということを問われなければならないと思います。交わりは「心の教育」などとセットで出てくることが多いんです。どのように交わりが組織され、展開されているのか考えなければわからないと思います。
別の話ですが、三重県での小学校に見に行きましたが、フレネ教育の先生で日作でもあるんですが、小学校4年生だったと思います。日常的な自由研究とか自由勉強の時間が保障されていて、その中から自分の追求したいテーマを選ぶので、それが日常的なものになっているんです。国語と図工と理科の一部分を使ってやっているらしいんですが、そのうち半分はグループ調査の時間、半分は発表のための時間。俳句を作る子もいれば、マンガ、工作、作文、自由研究のようなことをやっている児童もいいます。私が行ったときには四日市空襲のことを調べる子もいたし、ゴミがいくつ落ちているか調べている子もいました。この場合は、テーマの選択で、同じ者のグループが自然に発生してきます。このグループが共同でマンガを作ったりするんです。この場合の交わりというのは、個人の要求が出発点にあるということがはっきりしているんですよ。同じ研究テーマだと交わりも発展することが多いでしょ。お仕着せのテーマが決まっていて、やらざるを得ないと言うのでは状況が異なると思います。
同僚に生活科をやっている先生がいて、企業張りのプレゼンテーションを立派にやっています。見る者とやる者が隔絶されていて、そういうものではないと思います。
東北民教研で、山形の花岡鉱山の事件を東京からきて学習している子どもたちがいました。日本人としての課題というのを感じた。朝鮮人差別やそういう問題を子どもたちに教えるのが日本人の課題ではないのではないでしょうか。
全生研のパティオで竹内先生と何度もやりとりしてきた問題です。「日本人」と言うときに、それは誰かという問題を問わないで特定のイメージでいっているのではないかということです。網野先生が本を書いていますが、「日本」という言葉も、特定の時期に使われたのであって、それを無視した動きが中教審・教課審の中にあります。多国籍企業の動きに合わせた問題がここにはあると思います。
「私は日本人」というように、暗黙の内に日本人と考えるのは間違いだと思っていいます。疑いもなく日本人だと思っている人が多いと思いますが……。そのときに考えるべきなのは、「私がいる日本」と考えるべきだと思います。ここが自由主義史観の人たちと大きく違うところです。
「一番大切なものは何か」というアンケートに対して「国家社会」と答えた人がが2パーセントなんですよ。これはこれで問題なんです。守るべきものは家族しかない、というのであれば、かつて朝鮮へ侵略したという問題を背負えないんですよ。「友だち以外は皆風景」という高校生と同じ現象が大人社会の中にもあるんです。教師の側も「家族だけが大事」では、高校生の「友だち以外は皆風景」を批判できないんです。「日本人の課題」という問いを立てることは重要ですが、「日本人とは何か」という問いを立てないことには自民族中心主義に陥ってしまいます。自分とつながっている社会が負っている問題がどういうものかを知らないと、子どもたちに向かえないと思います。その課題を、苦しみを背負って生きていくということ、今それが必要なのではないでしょうか。
子どもたちに何を大切にして、何を学ばせるのかということを考える場を大切にしなければならないのではないだろうか。私自身がまだ、何を学べばいいのかわからない、そういう教育を受けて育ってきていない。
それはとってもたいへんなことですが、些細なことでもあると思うんです。自分中心に考えるということではなく、そんなふうに考える人もいるのかなあ、という程度なんです。
たとえば坂田和子先生が長野オリンピックのことで子どもたちと論争しています。開会式が土曜日の10時から始まったのですが、子どもたちが家につく前に始まってしまいます。なぜ土曜日なのか考えてゆくと、答えはアメリカで、アメリカが寝静まってからでは金にならないんです。会場で売っているのはキリンしかない、コカコーラしかない、それはどうしてなのか、そういうまなざしを子どもたちは持っています。こういうことを子どもたちととともに暴き出すということが大切なのではないでしょうか。簡単に「そうだよね」と頷かないで、──竹内先生は逆接の接続詞の多い論文はいい論文といっているが──、トレンディードラマ「ショムニ」のOLが青山のワンルームマンションに暮らしている、そんなの暮らせるわけないと思う、というように暴き出して行くんです。
中教審・教課審の言うような結論の決まっていることをやっても仕方がないでしょう。