【書評】AKB48白熱論争 (上)
(1)総論
小林よしのり・中森明夫・宇野常寛・濱野智史『AKB48白熱論争』(幻冬舎新書、2012)は熱い本である。
AKB48をめぐって、知識人としての評論家の名声を確保している大の男4人が、アイドルグループをめぐって、日本社会論、資本主義論、民主主義論、宗教論などをも、真剣にかつ熱狂しながら論じる「異形」の座談会を収録したものである。
僕自身が、その熱さをあるいは共有し、あるいはその熱さに感染されながら、本稿を書いていることをあらかじめお断りしておきたい。
第一部の座談会は、2012年6月に開票されたAKB「総選挙」の直後に行われ、第二部は同年7月の指原莉乃のスキャンダル報道とHKT移籍発表の直後に行われた。出版直後には、当然のようにベストセラーとなった。
活字本でありながら、口角泡を飛ばし、声が上ずったり、高まったりするのまでが聞こえるかのような錯覚を感じた。
多岐にわたる議論のなかで、いちばん印象に残った命題は、中森明夫が提起した「AKB『総選挙』とは公開処刑」というものだ。無慈悲に順位をつけられ、自らを晒される「処刑」を衆人環視のもとで行い、大衆はその残酷さと美しさに熱狂する、というイベントは「公開処刑」になぞらえるのがふさわしい。
本書の比較的初めのほうにこの提起はなされ、参加者全員がそれに同意し、この命題を前提に議論がなされていく。
これには深くうなずいた。AKB48そのものに無関心であろうと、賛否両論を含め、この「総選挙」システムの残酷さは、衆目の一致するところだろう。そして、ファンたちがそれに熱狂していることも。AKB48をして、おしもおされぬ国民的アイドルとなさしめたのは、この「総選挙」システムにほかならない。このシステムを批判する人びとをも、その批判そのものがこの「総選挙」システムに巻き込まれているのも否定できない。
4人は、「総選挙」システムが日本社会を象徴し、あるいは日本社会全体のシステムを揺り動かし、それに東日本大震災と福島原発事故の後の終末的な風景と空気が重なることによる、相乗作用を口々に論じる。その議論は熱狂のうちに、評論家としての冷静な分析が織り込まれる。僕も熱中して読んでしまった。
それぞれの論点で、日本社会を考えるうえで重要な議論が本書の全編において展開される。4人の異なった視角が、参加論者1人の議論を他の論者が批判し、他の視角を与えることで、1人だけだったら生じている盲点をついたり補ったりしている。そのエネルギーたるや凄まじいものがある。
各論に立ち入る前に、本書の欠落部分を指摘しておこう。
第一に、4人のなかに「さしこ推し」が含まれないことである。
第二に、この4人がAKBを好きすぎて、アイドルシーンを論じるのに、いささかの視野狭窄を生じている点である。
この2点に、本書の出版後、半年の経緯を織り込まねば、現状の理解ができないことも含めていいかも知れない。本書の時点では、誰も「前田敦子のいないAKB48」と、「HKT48の指原莉乃」を見ていない。SKE48単独での「紅白」出場も目撃していない。それがいかにないものねだりだろうと、この半年で本書の論点をめぐる状況は、それなりの変動をこうむった。
第一点について。
2012年「総選挙」が「指原の選挙」だった、と位置づけられ、指原のスキャンダル報道の意義や、秋元康ら運営側によるHKT移籍は「神の一手」だった、と、僕が同意できる筋は太く示しながら、ここに「さしこ推し」がいないため、それは片面側からしか論じられない。さしこの新しさや画期性はさらりと触れられるにとどめられ、さしこのHKT移籍は単なる左遷だとだけ位置づけられ、運営側が狙ったHKTへのテコ入れが、「前田敦子のいないAKB48」を特徴づける重要なものになることへの予感はまったくない。これは、主として4人がさしこのプロデュース能力の部分について、軽くしか知らなかったのが要因である。さしこがHKTを席巻し牛耳るというような危惧など、彼女の現役のアイドルヲタならではのプロデュース能力の側面を、軽視したことの結果である。
この点は、僕には強調する資格がある。僕は、本書での第二部の座談会とほぼ同じ時期に、さしこの「総選挙」4位への躍進とHKT移籍の意義を論じていたからである※。外形上は左遷に見える処置は、実はさしことHKT48の新たな可能性を開いた新天地への派遣であった。
※「さしこ躍進とHKT48移籍をめぐって」
(ちろう編著の同人評論誌『指原莉乃2.0』にも収録)
この手法は、その後の「組閣」でAKB48グループ全体に及ぼされる重大な意義を持っていた。僕がそこまで予見できたわけではないが。
第二点について。
4人は、AKB48グループそのものをひとつのジャンルとしてとらえ、ももいろクローバーZやハロー!プロジェクトなどの他のアイドルをAKBへの対抗関係でしかとらえていない。
現在のアイドルブームは、ハロプロが先導し、AKB48が火付け役になったもので、確かにその比重はAKB48グループが圧倒的な比重を占めてはいるが、その他のアイドルたちは、AKB48と相補的な役割をも担っている。
ももクロやパフュームやハロプロは、現状ではAKBへのアンチテーゼの意義を必ず持たざるを得ない。例えば、ももクロはAKB人気を前提にしてしか、今日の隆盛はありえないことを、4人とも理解しない。
AKB48グループでは、画一的に見えるからこそ、それぞれのメンバーの取替えのきかない個性へのファンたちの注目があるのだ、と本書では語られるが、他のアイドルがAKBよりもわかりやすくメンバー個人の代替不可能性を演出することで、AKBへのアンチテーゼたりえていることを見落としている。
AKB48グループのパフォーマンスのひとつの特徴は、アンダー制度である。秋葉原などでの劇場公演は、メンバーの少ないHKT以外ではほぼ毎日行われているのだが、これにスケジュール等の都合で参加できないメンバーがいたとき、アンダーと呼ばれる予備役のメンバーや研究生がこれを代替する。すなわち、振り付けやフォーメーションにおいて、取替え可能なパフォーマーが常にスタンバイされている。これが、「総選挙」下位メンバーや研究生がステージに上がるチャンスとして機能する。主要メンバーがテレビなどのメディアへの露出を増やせば、それだけ下位メンバーや研究生の劇場公演でのチャンスが増える、というのが、AKBシステムの一つの軸である。
ある与件は、必ず制約にも転化しうる。AKB48グループの振り付けやフォーメーションは、この代替可能性の確保という絶対条件に制約されざるを得ない。ひとりひとりのメンバーの代替不可能性を追求したパフォーマンスが、AKB以外のアイドルにおいては成立し、それがAKBにはない魅力の一つとしてファンを獲得している。このとき、「AKBにない魅力」は「AKBの魅力」を前提にしてしかありえないことが重要である。
(2013年2月5日拙ブログ「【書評】AKB48白熱論争 (1)総論」に発表)
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