【書評】『AKB48白熱論争』 (中)



(2)「総選挙」システムと民主主義論


ここでは「総選挙」システムと民主主義や公共をテーマとする。

AKB48を語るうえで、最も重要なのがその「総選挙」システムである。

今さらだが、「AKB総選挙」とは、特定のシングルCDでのメンバーの位置取りについて、ファンの人気投票を行い、その順位にもとづいて決定していくものである。投票権は、2012年「総選挙」ではシングルCD「真夏のsounds good」の購買が、投票権となった。直接のCD購入以外にも、いくつかインターネットを通じて投票権を購入できる方法があるのだが、いずれも有料である。そして、ファンたちは自らの判断の上限金額を投票権購入につぎ込む。実際に、濱野智史はCDを58枚購入したことを明らかにし、「ファンとしては中級」と述べている。このなかに僕が入ったら、一票も投票していない段階でまさに処刑されそうな勢いだ。
話は、1人1票は本当に平等か、というところにも当然に及ぶ。文字通りの公然たる買収選挙をどう考えるのか、という議論も興味深い。
僕も最近まで知らなかったことだが、「総選挙」の順位で直接的に決まるのは、特定のシングルCDについてのものだけである。2012年に行われた「総選挙」の結果が直接に支配するのは、「ギンガムチェック」を表題曲とするCDだけである。※
「シングル選抜」は16人。ここに入れば、MV(ミュージックビデオ)はもちろん、「ギンガムチェック」でテレビに出演する基本の16人に入れることになる。1位の大島優子はもちろんセンターなのだが、大島がセンターである曲の特徴は大島のダンスソロが入ることだと思う。「大島優子のための曲づくり」をしているのだろう。前田敦子にそれは必要あったのだろうか?
実は、曲それぞれにつき選抜が行われている。実際には、「総選挙」の順位がメンバーたちの活動の幅の大きな枠付となることのほうは、むしろ常識である。あまりにも明々白々な人気投票の順位の影響は、人気商売においてあまりにも大きい。
※MV制作の権限は、監督を初めとする映像スタッフにまかされている。「総選挙」順位をもとにした振り付けとフォーメーションが構成されているが、MVやテレビで誰をどれだけ映すかは、いわば編集権事項として映像スタッフの権限である。2011年「総選挙」で9位となったさしこは「9位になっても、映らないものは映らない」と言っていたように、19位時代はもちろん、9位になっても、さしこ推したちは「ウォーリーをさがせ」よろしく「さしこをさがせ」ゲームに興じた。4位になってからは、さすがにそれなりにワンショットのアップが入るようになった。

この「総選挙」システムが大問題なのである。僕自身も倫理的には否定的立場である。
それが倫理的是非の論議を呼び起こすのは、言うまでもなく「総選挙」システムが徹底した商業主義にもとづいている点である。
この是非論については、本書でさまざまに検討されている。賛成論の立場からだが、いろいろな反対論を検討している。そして、それは公共論にまで及ぶ。正確には、公共論から始まり、民主主義論に及んでいる。
いわく「総選挙」開票発表会場の日本武道館には、確かに公共性が存在していた、と。
何が公共か、とは難しい問題なのだが、とりあえずは「自分のことだけを考えるのではなく、全体のことを考え、他者を尊重してその利害の一致をはかろうとする立場」としておけば、行論にはことたりる。
AKBで公共とは、と思うだろうが、ここでは「自分の推しメンのことだけでなく、AKB48グループ全体のことを考え、メンバーが弱音を吐けば声援し、アンチであってもそのメンバーを傷つける言動をとらず、アンチのメンバーの活躍がグループ全体のためになるならばそれを歓迎する」という態度が、少なくともあのときの武道館には存在した、と。そして、そこにはネット上やオフ会での膨大な議論も反映されている。論者4人のなかにこの言葉を使う者はいなかったと思うが、そこには「熟議民主主義」が成立していたことになる。
そしてそれは、「総選挙」が「公開処刑」であるからだ、と論じられる。たとえアンチだろうと、そのメンバーがわが面前で処刑される事態に、そのメンバーへの敬意と連帯感が生まれる、というのだ。

そして参加の効用が説かれる。自らも参加して出した「選挙」結果には、いかなる者でも納得するのだ、と。そして、現実政治への不信には、この参加の有効感がないから生じているのだ、と。
本物の選挙では、選挙権は無料だから、自分の本意でない候補への投票や買収が生じる。それに対して、自腹を切って投票するAKB「総選挙」だとそれは成立しない。何百枚もCDを買うことも、自己決定としてやっているのだから、そこに不満は生じていないし、自腹を切る行為に尊敬さえ生まれることもある、と。

誰も、AKB「総選挙」が商業主義の極みであることを否定しないどころか、搾取という言葉すら頻発して、ファンたちは秋元康ら運営側に搾取されていることを自覚していることも語られる。
そのうえでのシステムの透明性と民主性が賞賛される。
「総選挙」システムは、前田敦子のためのものであった。それが、そのルールの透明性と民主性によって正当性を確保したのだ、と。
秋元康は「総選挙」を始めたきっかけについて、センターを誰にするか、ファンからの批判があったから、ではファンのみなさんに決めてもらいましょう、ということで、とよく言っている。おそらくそれはウソではなかろう。同時に、そのシステムが商業的に高利潤となることも、同時に予見されたことだろう。
初期でこそ、「総選挙」開票時に前田敦子を傷つけるような振る舞いが、会場にあったようだが、それが前田以外のメンバーたちをも傷つけた、という反省から、その後は特定のメンバーを傷つけるようなことは、会場ではなくなった、という。アンチであっても、メンバーのコメントにはあたたかく接し、挫折感から涙や絶句には、声援で応える。それができないファンは、遠慮してプライベートなパソコンで開票を視聴し、ディスる(悪口を言う)のもツイッターなどでこっそりと行う、ということになる。「総選挙」結果に不満を持って不穏な言動をとりそうな者は、あらかじめ「空気を壊さないために会場に行かない」という選択をすることも、ここでの公共心の一種だという。
そして、この公共心は「総選挙」の残酷さを背景にしている。小林よしのりの戦争論や公共論とAKB48がここでつながっていることが、中森明夫によって指摘される。

興味深い論点である。
参加民主主義が、担い手の精神性の豊かさを生むことまで含めて、民主主義と公共が語られる。かつてマクファーソンが、J・S・ミルは参政が人間発達をもたらすと論じたことを高く評価して、参加民主主義を主張したことを彷彿とさせる。
あるいは、民主政治の下でも圧倒的多数の民衆がなぜか抑圧されるのだが、民主政治の下ではその抑圧が抑圧として意識されず、反抗が起こりにくい、という、僕が対抗運動を長らく直面してきた現実との関係でも示唆的である。

これを外在的に批判するのは簡単ではある。やはり商業主義に回収されるだけではないか、と。そういう声も、本書の中では紹介される。
この批判が、AKB「総選挙」を規制したり止めさせたりするのにどれだけ有効か?おそらくゼロに近い。
外在的な倫理的批判は必要だと、僕は思う。しかし、それだけではあまりに力弱い。商業主義を規制する力が日本社会であまりにも弱い現状の全体を放置しておいて、AKB「総選挙」だけを批判してみせても、その商業主義には絶対に勝てないからだ。

ここで、AKB「総選挙」規制論の代表選手・磯崎陽輔自民党参院議員を僕は思い浮かべる。彼は大分選挙区選出で、今年、改選を迎える。
磯崎は、官僚出身らしく地元の意向に鈍感だな、と僕は思った。彼の出身地でもある大分市は、指原莉乃で地域おこしをしようとしている。さしここそ、「総選挙」システムの申し子なのである。秋元康がさしこに与えたキャッチコピーには「AKB48とは、指原莉乃の『奇跡』のことである」とある。「総選挙」システムがなければ、本書のなかでゴリ押しとも言われた秋元によるさしこへのひいきを、ファンが認めることがありえなかったし、そもそもさしこが人気メンバーとして芸能界の表舞台に登場することもありえなかった。 磯崎の議論は、立法論としては粗雑に過ぎるが、道徳論としてはむしろ世論を代表していると思われる。僕も道徳論としては彼の議論が大きく誤っているとは思わない。しかし、それが彼自身の地元・大分市を足蹴にすることであることに磯崎が気づいていないのが滑稽だった。
磯崎はツイッター活用に熱心な政治家である。彼のAKB「総選挙」批判もツイッターで展開されたことで知られている。そして、彼が立憲主義の概念を知らないことも、ツイッターで彼自身が開き直り、別筋の人びとの笑い者となった。ツイッター上では、国会議員であることは議論の強さを担保しないどころか、ネット上で自らをさらすことにもなることの一つの例を与えている。活用しようすれば、自らの弱点をさらすことにもなりかねない点で、彼の戦略は皮肉にもAKB「総選挙」に似てしまっているのではないか?
AKB「総選挙」は、メンバーを丸裸にする方向に必然的に走る。実際に丸裸にされているかはともかく、当人の思惑を超えて言動をさらされるネット社会と、そのネット社会を前提にして展開してきたAKB48とその「総選挙」にまつわる、魅力と残酷さも語られる。ときには、ネット上で本人が消去したはずの過去の言動がネット上に保存されていて、それがさらされて、AKBを首になった者もいる、という。その中で、自らのイメージコントロールを若い身空ではからねばならない少女たちを愛でることを、悪趣味ということも、報われぬ純愛だということも可能なのである。

さて、われわれ左翼は、AKB「総選挙」システムに何を学ぶことで、日本社会の民主主義と公共のあり方をどう考えるべきだろうか?
これは、なかなかの難問である。
論者4人のように、AKBシステムを日本社会の改革方向のモデルであるかのように考えることはできないが、すべての商品化傾向の行き着く先に、何らかの積極性があることは一概に否定できない。そして、AKBシステムはネット社会の申し子であるのだから、民主主義のためのネット活用を考えるならば、その商業主義的コンテンツをどう批判的に摂取するのかは考えても損はないだろうし、そこからしかAKBシステムにひとつの極致をみる、すべてのものことを商品化する資本主義の民主的規制や克服は、見えてこないのではないか?



(3) 宗教論と311後の心のあり方


僕は以前、「さしこ躍進とHKT48移籍をめぐって」の冒頭にこう書いた。

日本に、一群の魔物が歩き回っている。AKB48と称する魔物が。
魔物に魅入られた者は、魔物を「ネ申」と呼び、自らの経済力に見合わぬ膨大な出費を苦にせず、神器の収集に余念がなく、幾多の祭事にもできるだけ出席しようとし、握手などのイニシエーションに歓喜する。
それは、運動にして消費行動であるとともに、希望なき世界の希望代替行為である。リアルでいかに行き詰まっていようとも、貨幣額さえ調えれば、それは誰にでも与えられる。



わかるヒトにはわかる『共産党宣言』のパロディと、まあ、誰にもわからないだろう『ヘーゲル法哲学批判』の「宗教はアヘン」の直前のフレーズの口まね。そして、オウム真理教事件の投影。

本書では、僕がここで端的に記述したことが「魔物に魅入られた者」の立場から饒舌に語られる。
その魔性が指摘され、同時にそれが正当化される。

小林よしのりが、オウム事件当時、オウム真理教批判の急先鋒の論客として活躍していたことを、どれくらいがご記憶だろうか?
当時、多くの識者が危惧したことは、次々とカルト宗教が力を持ち、さまざまな形で社会に混乱を持ち込むことであった。
本書の論者たちは、AKB48がその代替となったと論じる。AKBは、「サリンをまかないオウム」として、キモヲタ男子たちを社会秩序の内にとどめたのだ、と。
アイドルidolとは、もともと「偶像」の意である。英語で、人気芸能人にidolの語を用いるのは、偶像視されるくらいにカリスマ的人気を持つときだが、日本型アイドルというものは、かなり様相が違う。これについては稿を改めて論ずるが、ここではファンたちが、偶像は虚像であることをうすうす知りながら、その虚像を支持することだけを指摘しておきたい。
AKB48において、アイドル崇拝は宗教の域に達した。世間的な俗見に反して、ヲタたちは、社会的現実において反社会的行為を行うことはまずない。
AKB48グループが「会いに行けるアイドル」のコンセプトを現在でも維持している、と言えるのは握手会やハイタッチ会などの開催である。その様子をテレビなどで見ると僕は驚く。握手会で、ファンと48グループのメンバーが接することができるのは10秒と決まっている。それを厳守させるために「はがし」と呼ばれるスタッフがついていて、時間になるとファンをメンバーから引きはがすのであるが、僕が驚くのは、ファンたちが実に素直にはがされていくことである。
僕は、1980年代のアイドルブームの時代を知っている。僕と同世代のアイドルの熱狂的なファンの一部は、まだ偶像と現実の区切りにあいまいなところを、いくぶんか残していた。それが「アイドルはみんなのもの」という、ある種の公共心を発揮して、ルールを順守してく。混乱が起こることはまずないという。
握手会にはのべ10万人以上の人々が、静かに集まり、ミニライブなどで盛り上がることはあっても、全体としておとなしく帰っていく。いかにも「子羊」然としているではないか?
握手会などは、イニシエーションである。ネ申への信仰を確認し、深め、あるいは選ぶ。選ぶからには、拾われるネ申がいて、捨てられるネ申がいる。信者の部分的能動性が意識されていることがポイントでもある。 この現象を、社会や日常への鬱屈を商業主義に回収するもの、という批判は簡単にできる。
しかし、かつて宗教や祝祭や、ときとして革命(運動・思想)が果たしてきた、ケの鬱屈を発散する、ハレの機能を、商業主義が代替する現象はすでに珍しくなくなっていた。ダンスホールやディスコ、クラブ、各種の音楽イベント、スポーツ、ゲームなど、娯楽とかエンターテイメントと呼ばれるものの大半が、祝祭の代替物である。
そうしたなかで、商業主義上の人格が崇拝対象として疑似宗教(ときには「疑似」の範囲をはみ出ているのかもしれない)となることは、不可避であった。AKB48は、それを意識的にシステム化してみせたから目につくのである。

そこに「3.11」が影響する。もはや、日本社会での人々の意識は、多くは無意識的であっても、東日本大震災と福島原発事故の衝撃を抜きに考えることはできない。
宇野常寛は言う。
「(被災地慰問ライブでの)軍隊に見守られながら廃墟の避難民キャンプでアイドルが躍る、というイメージはまさに80年代のアニメブームの頃にSFアニメなどで繰り返し描かれてきたものなんですね。しかしそれは今回の震災で現実のものになってしまった。(中略)核戦争は起こらなかったけれど、原発は爆発した。その結果出現したのは、核戦争後の未来でエキサイティングな非日常が展開する世界じゃなくて、余震と放射能におびえながら日常をシビアに生きていく世界だったわけです」
中森明夫は応える。
「3・11後に求心力を失ったカルチャーはいっぱいあるのに、AKBは逆にそれを強めているんだよね」

この対談から1年近くがたった現在、AKB本体の勢いにはかげりが見える。しかし、姉妹グループにその人気のかなりが移り、48グループ全体の人気は維持されている。アイドルブームの全体の規模も同様である。AKBが「国民的アイドル」と称され、「主力」のヲタだけでないライトなファンも増えてきた。2013年「総選挙」では、投票総数は明らかに増えるだろう。だから、中森の言う求心力の強まりは持続している、と言っていい。
これが何を意味するのか、本来は「3・11後に求心力を失ったカルチャー」との比較がないとわからない。「3・11前」の記憶がかなりあやふやになっている僕には、「3・11後に求心力を失ったカルチャー」が何かも、僕には思い当たらない。
3.11後、日本社会は変わったし、変わりつつあるし、これからも変わっていくだろう。
日本の人々の心のあり方に何が起こっているのかを示すひとつの手がかりが、AKB48が火付け役を果たしたアイドルブームなのではないか?
3.11後、人々が心のあり方を見つめなおしているのは、確かである。それは無意識的なものも多い。
AKBの握手会やハイタッチ会が、一種のつながり/コミュニケーションを示していることは間違いない。本書では、その感激・感動や意義が、何回も語られる。難しい用語もまじえて語られる社会論や人間論が、AKBが好きすぎることの感動とともに語られる。
ファンたちの感性と行動様式を語るのに、「利害関係のない他者を推す」ことの意義が、本書では突っ込んで論議される。疑似恋愛にとどまらない、人間どうしの関係にぬくもりを求めること、それはときとして崇高にすら思えるような言動さえ生じること、それが商業主義を起点として起こっていることへの興味と皮肉などがとめどもなく。
これを「つながりへの渇望」といった、単純な命題にまとめてしまいたくはない。性的対象物としての日本型アイドル文化の展開や、営々と築き上げられたオタク文化の堆積や、「総選挙システム」の公開での壮絶な残酷さ、とりわけ若い世代を直撃している貧困と格差、特に若い男性にある恋愛や性的なものについての「疎外」などの諸問題と、3.11のインパクトとが重なり合って生起している状況や現象は、そんなに単純なものでない。その実体は、今のところ、僕にはうまく把握できないでいる。
ただ、3.11後に強まったアイドルブームが、何らかの意味で3.11後の日本人の心のあり方を示しているのは間違いないだろう。それは、つながりへの渇望だけでなく、前向きなハングリー心への賛嘆だったり、敗れる者や弱気な者への共感や激励だったり、残酷なものへの嗜好であったり、凝った創作物への視線だったり、奇妙な性愛だったり、各種の貧困からの鬱屈だったり、「世界の破滅」イメージが現実化したことの戸惑いと陶酔と絶望だったり、といろいろな要素がそこには含まれていることだろう。それは、3.11の前から進んでいたことが、3.11によって共鳴・加速・増幅されたものである。
(2013年2月5日拙ブログ「【書評】AKB48白熱論争 (2)「総選挙」システムと民主主義論」ならびに【書評】AKB48白熱論争(4)  恋愛禁止条例・性・アイドルに発表)
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