【書評】AKB48白熱論争 (下)




(4)  恋愛禁止条例・性・アイドル


AKB48が、国民的アイドルと称されるようになってから、「恋愛禁止条例」が広く話題になっている。
次々にスキャンダルが出て対応に追われるAKB48グループの「運営」。秋元康は「恋愛禁止と言ったことはない」とさえ口走り、火消しに追われた。
われらが指原莉乃が見舞われたのは、AKBをめぐるスキャンダル騒動の最大級のものだったことは記憶に新しい。さしこがそれをネタにして芸能界で生き残り続ける限り、この記憶は更新され続けることだろう。
さしこの直接の先行者である峯岸みなみ(みぃちゃん)は、坊主頭で謝罪するに至った。物議はかもしたが、あれでみぃちゃんはAKBに残ることが可能になった。スキャンダル→坊主頭で謝罪の流れを、ネタにできる情況さえ来れば、みぃちゃんの人気は、むしろ増すこともありえる。僕は、「AKB総選挙」の順位予想には疎いが、これだけは予想しておきたい。間もなく行われる2013年の「総選挙」で、みぃちゃんは最低でも選抜入り(16位以内)は堅い、と僕は見る。

本書の座談会参加の4人の論者は、「恋愛禁止条例」はデフォルト設定として当然だとする。その条件で熱狂的なファンになっているのだから当然だ。
(3)で論じたように、4人はAKBを宗教としてとらえ、自らがその「信者」であることを公言する。そして、「恋愛禁止」はその巫女ないしネ申としての必須条件で、それがたとえファンタジーやフィクションだとわかっていようと、その設定は守るのが宗教と信者の関係では前提となるのだ、ということである。
われらが指原莉乃のスキャンダル報道とHKT移籍の直後の座談でこういうやり取りがある。
小林「その意味では、(指原に)アンチを唱える奴らのほうがファンとしては本物なんだよね」
濱野「ええ、ヲタとしては本物です」
小林「今や、これまで大してAKBに思い入れもなかった一般大衆が、(中略)『恋愛禁止ルールなんて破ってもいいんじゃないですか』なんて答えるわけだからね。そんなこと言ってたら、AKB全体が崩壊してしまう」
濱野「宗教としては終わっちゃいますよね」
小林「だからやはり、ここはアンチにならざるを得ない。今の指原は、そういうヒール役を引き受けざるを得ない状態なのよ」
中森「まあ、親心ってそういうものですよね。子供に嫌がれても、厳しいことを言わなきゃいけない。過保護に甘やかしていてばかりいると家族が壊れちゃう」

原点に戻ろう。AKBの仕掛けは、それ以前にも恋愛禁止はアイドルの不文律として存在し、絶頂期のモーニング娘。が恋愛スキャンダルで失速していったことは僕には記憶に新しいところである。不文律を明文化したことにAKBの新しさのひとつがあったのだが、AKB以前においても、なぜアイドルにとっては恋愛禁止が不文律だったのだろう?
答えはそんなに難しくない。日本型アイドルは、必ず疑似恋愛の対象であるからである。

中森明夫によれば、日本型アイドルの元祖は1971年デビューの南沙織だったようだが、その後、漸時的に豊富化しいろいろなバージョンで展開していった。
日本型女性アイドルの特徴を僕なりにいくつか挙げてみると
・子どもっぽい表象をつねに伴っていること
・無垢性と無力性のイメージを持っていること
・ノンセクシーのアピールがどこかにあること
・うまくない歌を歌うこと
・歌とセットの振り付けがあること
これくらいだろうか?
確認しておきたいことは、日本型アイドルとは徹頭徹尾、性的存在であるということである。それは、本書でも繰り返し指摘される。
アイドルはあくまでバーチャルな存在である。アイドルを演じている本人が実在の人物であろうと、そこにはフィクションなりファンタジーなりが付け加わり、多くのファンが愛するアイドルは、リアルには存在しない仮想現実であると考えていい。
そして、この仮想現実としての女性アイドル像は、この社会の男たちのセクシュアリティとジェンダー意識に沿ってつくられる。少なくとも、これに沿ったものしか商業的に成功できない。
以前にアイドル芸について論じたことがあるが、これもこの日本型アイドルの特性を前提に発達したものである。
乱暴に一言で言ってしまえば、日本型女性アイドルとは、性的ロリコン志向である。

バーチャルである以上、当の男たちのリアルな性欲のあり方とは、かなりズレる。しばしば誤解されるように、アイドル好きであることは、リアルでロリコンであることとは別のことである。
それでも、日本人の社会的性格として、ロリコン志向が強いことも、背景としては指摘しておかねばならない。子どもっぽい振る舞いが、日本人文化における「女らしさ」の一部をなしている現実を。「何にもできないお嬢様」が恋愛で最強を誇る、わが社会の特性を。
ことは単純ではない。日本文化でのジェンダーとセクシュアリティには「戦闘美少女」の系譜もある。「平家物語」に登場する巴御前の末裔だと言えばわかるだろうか?それは、宝塚・手塚治虫・アニメ(代表的には『セーラームーン』とか『エヴァンゲリオン』ということになるのだろうか)などに連綿と継承されている。
AKBでは、この「戦闘美少女」の表象も枚挙にいとまがないくらい用いられる。何より「総選挙」が「たたかう少女」のイメージを、印象づける。人によって無意識的な印象づけなのかも知れないが。
小林よしのりの右翼的メンタリティをAKB48の「RIVER」のMVが刺激したのがファンになったきっかけだった、というエピソードは興味深い。小林の社会的言動を知る者には、その媒介項があると一気に腑に落ちる。ただ、それも「戦闘美少女」の文化なのではないか?

中森は、恋愛禁止をうたい、清純派を演出しながら、短いスカートをひらひらさせ、水着グラビアも当然のようにやっていく、アイドルの「矛盾」を指摘する。
この「矛盾」を太く貫く筋は、男たちの欲望に応えることにある。冷徹な商業主義の現実である。
これも単純ではない。
濱野は言う。
「握手会を見てると、メンバーもファンの側も、変な話セックスより楽しそうにしている。(メンバーは)1日数千人ものファンから肯定的な言葉を浴びまくるわけで、もちろん体力的には辛いけど、これは相当な快感だと思いますよ」
人間は発情期をなくし、性行為を快感のともなう営みとすることで、種の特性としてきた。人間において快感とは、脳のつくりだすものがほとんどなのだから、高度な機能を持つ人間の脳の複雑なはたらきで、さまざまなことが快感となる現実がある。
恋愛においては、セックス以外のさまざまな要素が快感となる。それは、基本的に人間が男女一対の関係性が、生殖と生存において非常に重要な役割を持っていることの反映だとしても、そんな生物学的機能から大きく離れた相対的自律性を、人間の精神は持ってしまっている。
10秒の握手会から生まれる他愛のないエピソードが、ファンの様子を変えてしまうことも頻繁に起こる。10秒間でも直接に会うことの意味は小さくない。

さて、本書での議論では「AKBは、彼女をつくることのおぼつかないキモヲタたちに、疑似恋愛や性的代償を提供して、彼らを救済している」ということが言われる。
ここには疑問を提示しておきたい。
よくアダルトビデオや性風俗産業について、似たような議論がされるのだが、これには何の裏付けもない俗論である。むしろ、そこでアブノーマルな性衝動が刺激されることは社会的に悪影響がもたらされているのではないか、という仮説も主張されている。
また、マンガやアニメなどの美少女キャラクターについても同様の両論があるが、ここでは「リアルの女性に関心を持たないことを助長する」という仮説も提示されている。
それらの仮説の検証が、学問的手続きをもって行われたことがあるかどうかも、僕は知らないが、僕は救済説に懐疑的で、「リアルの女性との関係から撤退することを助長する」という仮説は、マンガ・アニメなどだけでなく、アイドルについても、アダルトビデオや性風俗産業についても該当するのではないか、と考えている。
前述したように、ファンたちにとってアイドルはバーチャルな存在である。それは、リアルの関係でないという意味で、アダルトビデオでも性風俗産業でも同じなのではないか?この両者が同じだという俗論には、本書の論者たちはきちんと反論しているが、「AKBが、人間関係の一部を商業主義的に代替することで、異性関係を中心とした人間関係からの撤退を強化している」という仮説については検討されていない。

確認しておきたいのは、AKB48は貧困と格差の時代のアイドルだということである。宇野や濱野はよく知っていることだが、「団塊ジュニア」と言われる世代や、それより若い世代は、しばしば「ロストジェネレーション」(ロスジェネ)と呼ばれ、その半数が非正規雇用の下で働き、ワーキングプアが多いうえに、それともなう厳しい労働条件や、その厳しい教育環境(競争教育はむしろ激化させておきながら、教育内容を貧弱化させ、意欲・関心・態度までを評価することで内面までも抑圧され、表面上は競争を否定するかのような実践をすることで子どもたちをダブルバインドに追い込んだ、「ゆとり教育」と言われている教育)もって、ニートや引きこもりを増大している世代でもある。
この厳しい貧困と格差に覆われた人びとこそが、AKBやアイドルブームの主力であることを忘れるべきではない。この厳しい状況は、必然的に「草食系」を増大させる。
恋愛と結婚の現実は、やはり所得に応じていることが、これは統計ではっきりしている。 別に統計がなくても、AKB人気を支えている人びとの、かなりの割合が種々の貧困の下で生活している人びとだと考えるのは自然だろう。そのなけなしの可処分所得をAKBなどにつぎ込むことの本気度を過小評価すべきではないと考える。
そういう貧困と格差や精神的生きづらさに、意識的にか無意識的にか(幸福であることを自己認識とする人びとであっても)、あえいでいる人びとがAKBのファン層の主力であることを頭におきながら、本書のAKB論は読まれるべきである。そして、前述したように、性や恋愛・結婚をめぐる状況については、経済事情が直接に影響を与える。経済的に困窮している「から」、AKBに大きな額のおカネを投下する、という状況を、ファンとしての熱狂の中で称賛するわけにはいかない、と僕は考えるのである。


(5) 論者群像


最後に、本書の論者についての雑感をまとめておく。本書の消費期限は2013年の「総選挙」終了までだ。急がないと(笑)
若い順に

濱野智史(1980年生まれ)と宇野常寛(1978年生まれ)
あまりよく知らない若手論客たち。
NHKで「ノンポリのオタクが世界を変える」という宇野の密着ドキュメンタリを見たことがある程度。僕は、宇野が「理解されない」と嘆く彼の怒りに共感した。その怒りは、義憤・公憤の類であり、その点に限定で、むしろ僕よりも上の世代の感性の一部を、僕と共有しているのではないか、と思った。だから、かれは年長者の既得権益を批判して、紛争をしかけていくことをしてしまうのではないか?彼と同年代の人びとは、そうした紛争を極端に嫌い、「空気」を読みすぎて自縄自縛に陥っているのだが、宇野はその自縄自縛の問題を既得権益者に対して問うことで、同年代の同輩たちの生きづらさを解こうとあがいているようだ。そして、その同輩たちには彼の怒りだけが共感されない。怒るという感性そのものを自縄自縛してしまっているようだ。
サブカルチャーについての議論を通じて、日本社会の生理と病理、とりわけ病理のほうを解析することが得意分野らしい。
濱野は、もともとアーキテクチャ論にもとづく日本社会論から出発したようである。本稿執筆にあたって泥縄式にググってみた。社会設計者や諸商品提供者などの側の価値観にもとづいてシステマティックに社会管理が行われることをアーキテクチャ論というらしく、それに社会構成主義理論の強い影響の下に、日本の情報環境分析に用いて、日本社会のあり方を生態系のような有機的なシステムとしてとらえるのが、彼のもともとの「専門」らしい。
この濱野が、4人のうちでいちばんヲタ然としている。AKBに関しては客観なんてどうでもいい、と社会学的観点を放棄するかのような発言を繰り返し、(実際にはちゃんと客観を忘れていないのだけど)最も熱っぽくAKBを語る。
そして、この2人は古参ヲタ(AKBがブレイクする前からの熱狂的なファン)ではない。 この2人は、貧困と生きづらさの日本社会の時代状況を、基本的なところで的確にとらえている。したがって、ネットとソーシャルメディアを初めとする現在の日本社会におけるAKB48の人気という点では、議論をリードしている。

中森明夫(1960年生まれ)
1980年代に「新人類」の旗手として活躍したサブカルチャー評論家である。特にアイドル評論が最も得意なようだ。狭義の「新人類」よりは、やや年長だが、リーダーというのはやや年長なのが当たり前。もちろん、広義にとらえる場合は入ってくる。
中森明夫の知られざる「業績」はオタクの造語者であった、ということだ。彼は、1983年、あるエロ美少女マンガ誌の読み物ページで、サブカルチャー評論の一種として「『おたく』の研究」なる評論を書いた。彼は「おたく」を差別語として造語し、その評論で「おたく」たちを差別することを呼びかけた。
その彼が、今は「僕はヲタクですが何か?」といった風情で、本書での議論に加わっている。少なくとも若いころは、彼は時代をリードする知識人としてモテモテだったはずだが、事情は知らないけど結婚もせず、その寂しさも垣間見せながら、アイドル評論家としての議論を重ねていく。
中森明夫のペンネームは、当時から「なんじゃそりゃ?」と思っていたが、本当に中森明菜をもじったもののようだ。そこまでの挑発が、当時の若かった彼にはあったということだろう。当時の「新人類」論客には、他にもこのような「人を食ったペンネーム」の例が存在する。
時代認識では、中森が最もピンボケである。いつまでもバブル期の時代認識を引きずる、「新人類」世代の多くが往々にして持っているステレオタイプ。
だが、中森はそのアイドル評論家としてのキャリアを見せつけることにその存在感があった。日本型アイドルの生成・発展・盛衰を語るのは余人に追随を許さない。濱野がアンディ・ウォーホルのファクトリー方式と、AKBシステムの関連性について論じたことに対し、「イーディも知らなくて、ウォーホルを語ってもらっちゃ困る」と、若い論客が用いない威嚇をかけながら、ウォーホルが世に出し、恋愛スキャンダルでウォーホルから切られ、若くして非業の死を遂げたイーディ・セジウィックの事件に言及し、これによってウォーホルのファクトリーは求心力を失っていく、という顛末を語り、アイドル工学の「製品」は生身の人間であることを指摘し、アイドル工学をフィクションやファンタジーとして機能させようが、そう扱ったことのツケをいつか実存で支払わねばならないことの残酷さとリスクを説く。ここは圧巻。
個々のAKBメンバーへの評価や、AKB以外のアイドルの特徴づけも鋭いものがある。
そして、われらが指原莉乃の博多「左遷」をこう評価する。
「不思議なことにアイドルの世界が停滞すると、必ず南から一人の娘がやって来て、状況を活性化する。70年代の南沙織、80年代の松田聖子、それに90年代だと安室奈美恵がそうだった。そういう意味でも、九州出身の指原がこれから博多でどんな活躍をするのか、目を離せない。」
安室奈美恵は日本型アイドルの概念からははずれるとか、90年代に「アイドル冬の時代」を打破したモーニング娘。の2期までのメンバーは北からが中心じゃないか、というツッコミはやめておこう。(してしもうたやんけ 笑)
アイドルについての博識強記を振り回すだけではない。重要なのは、中森が4人のなかで唯一の「古参ヲタ」であることである。AKB48の劇場での初ライブの証言者でもある。

小林よしのり(1953年生まれ)
小林よしのりについては、指原莉乃withアンリレ「意気地なしのマスカレード」収録DVDの特典映像で指原莉乃と対談していることについて、彼自身への僕の思いを詳しく書いた。あれから、安倍晋三が再び政権につき、安倍改憲に小林がまたも反対の姿勢を鮮明にしたことから、僕と小林の大きな意見の違いは、歴史認識の問題と指原莉乃の評価だけなのではないか、とすら思う(笑)
本書で小林が言っていることで興味をひかれたのは、彼がAKBにハマった経過である。
まずは「RIVER」で右翼的というか暴力性というか、そういう感性が刺激され、「ポニーテールとシュシュ」で本来のアイドルの少女への萌えに気づき、「ヘビーローテーション」で決定になり「それはあのザ・タイガースの『君だけに愛を』を聞いたときの衝撃と同じ」という。ここの「あの」に、僕は実感が込められないんだけど(笑) (腕と腰を逆方向に横に振って)ジュリー!!!
マジハマりなのね。僕がさっしーに感じているような!
ますます、小林よしのりに親近感を抱くのであった。それでも、南京では20万人が日本軍によって虐殺されたのだ。
(2013年2月5日拙ブログ「【書評】AKB48白熱論争 (1)総論」に発表)
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