当世青年論試論
本稿は、関西唯物論研究会編集の雑誌『唯物論と現代』No.22
(文理閣発行、1998年11月)に発表したものです。 やは
り執筆時の状況を色濃く反映したもので、今の20歳代前半の青年たちはもう1つ下の世代になっていま
すから、本稿は既に過去のものとなっています。本稿の最後に展開した将来予測については、今の時
点でフォローアップする文章を書きたいと思っています。ご意見やご感想などありましたら、
掲示板
へ書き込むか、植田までメール
してください。
(補注)は発表時にはなかったもので、今回書き加えたものです。
<目次>
序論 〜「青年の変化」とは何か〜
現実を前提としてとらえる傾向の問題性
感性の鋭さの健全さと危うさ
希薄な人間関係の「影」と「光」
「今の社会に何となく不満」の2つの側面
青年の世界観探求
青年と青年運動の課題とその展望
序論 〜「青年の変化」とは何か〜
1995年に、阪神大震災でのボランティア、厚生省を謝罪に追い込んだHIV訴訟支援運動、フランス
核実験への反対・抗議行動などでの青年の動きが目覚ましかったことをとらえて「青年の変化」
に注目する論調が青年運動にあらわれた1。その後の青年たちの動き
は、この議論を実証するかのように進展している。「強い不満、されど動かず」
2という青年観が、一般にも私の中でも強かったのに対して、青年た
ちの間で積極的に行動に立ち上がる傾向が強まりつつあることを指摘し、従来の青年観を明確な根拠を
もって否定したことが、私には衝撃であった。その衝撃を契機として、以前から考え続けてきた私の青
年論はいっそう考えを進めねばならなくなった。本稿は、その中間報告である3。
私は1968年生まれで、中学生時代には校内暴力の嵐が全国でピークに達し、都市部では既に退潮の
兆しを見せていた。いわばテレビドラマ「金八先生」の世代の最後列であり、「私生活主義」や「生活
保守主義」を体現するかのように言われた世代である。ここでは便宜上、私たちの世代を「校内暴力」
世代と呼んでおく。
「青年の変化」論を受けて、そこで述べてある「青年」とは私たちと世代が違うのではないか、と私
は思った。そこで念頭に置かれているのは70年代半ばに生まれた青年たちであり、校内暴力が管理強化
によって沈静化に向かい、教育現場の矛盾としては「いじめ」が問題となっている時期に学校時代を
過ごした世代である。この世代を「校内暴力」世代と対比する意味で「いじめ」世代と呼ぶこととする
。この世代区分と呼称は私の感性的な把握による試みの域を出ないものであり、よく練られた概念では
ないことをあらかじめお断りしておく。
なお、私の考察のサンプルとなった青年たちは、「校内暴力」世代では受験競争の相対的勝者の層
に属し、「いじめ」世代では受験競争の相対的敗者の層に属している、というズレが存在することに留
意する必要
があるが、それぞれの層の特徴がその世代における典型であると私がとらえていることも付言しておき
たい。また、「校内暴力」世代の「相対的敗者」層には「いじめ」世代の特徴の先駆が見られ、
「いじめ」世代の「相対的勝者」層には「校内暴力」世代の特徴が色濃く残っていることも指摘してお
く。
「校内暴力」世代は「三無主義」と言われた最後の世代であり、「新人類」と呼ばれた世代にはやや
遅れ、大学卒業時がバブル最盛期にあたったため、就職では苦労せずに現在「バブル社員」と呼ばれて
いる層である。「三無主義」とは無気力・無感動・無関心のことだが、さらに無節操、無作法などを加
え、「十三無主義」などという言葉も登場した。言わば、内心の自由を守るために言動の自由を「自粛
」した、すなわち目に見える抵抗を行うことを避けた面従腹背の世代である。かつて青年学生運動の中
で「体制」という用語が使われたが4、行動における体制・大勢順応
によって、心の中にまで「体制」に踏み込まれることを拒否した世代である。
「いじめ」世代は80年代末に、「いちご世代」と呼ばれたことがある。当時の15歳は、利口に人権規
制に対処し、屈託なく自由に立ち回る世代だと言われた。情報収集に優れ、10代がマーケットリーダー
であるという現在の常識を初めてつくりだした世代でもある5。その
世代がボランティアを流行のようにしてしまったのである。「校内暴力」世代では、ボランティアをす
るのは奇特な人であったのとは対照的であると言えよう。「校内暴力」は管理主義教育によって抑え込
まれた。教育の矛盾は、「いじめ」という形で、「体制」側に向かうのではなく、子ども社会の内側に
向かって暴発するようになる。「体制」に圧殺された自我は、「いじめ」という形で自己存在証明を求
める6が、同時にボランティアで「自分が役に立つ」という自己存在
証明を得ていくことに無上の喜びを見いだすのである。「体制」への抵抗を行い得なかった「いじめ」
世代には、「校内暴力」世代のような「体制」認識を持たない。「体制」が彼らにとっては空気のよう
なものだったからだが、それにともない「体制」への自覚的な恐怖心も彼らは持たなくなった。
だから「体制」に対して公然と闘いを挑むことへのためらいも「いじめ」世代には少ない。薬害エ
イズ事件に対して、厚生省を謝罪に追い込んだ主力部隊が「いじめ」世代であった。
つまり、「校内暴力」世代が「体制」に押し潰されることを避け得たのに対して、「いじめ」世代は
基本的に「体制」に押し潰されてしまったことに両世代の違いがある。それゆえに「校内暴力」世代は
「体制」とのラディカルな対決を回避してきたが、「いじめ」世代は「体制」に抗うことを必ずしも避
けないところがある。「現実は変わらない」という点では、共通した認識をもつ両世代であるが、「だ
から行動しない」という結論を持ったのが「校内暴力」世代であるとすれば、「いじめ」世代はそうし
た特定の結論を持たないのである。つまり、「どうせ変わりっこない」とあきらめるのではなく、「変
えるのが可能か」ということを考えずに、あるいは考える能力を持たないまま、立ち上がっていくこと
が「いじめ」世代にはあり得る。この面での認識能力の低下が、実践能力を高めているのである。
「青年の変化」論がとらえたものは、実はこういうことだったのではないだろうか。
現実を前提としてとらえる傾向の問題性
若者が批判精神を失っているのではないか、という声を聞くことがある。現実に対して疑問を抱かな
いのではないか、とか、大学の講義にも学生が疑問や批判をぶつけるということがなくなった、と言う
のである。
受験戦争と教育の管理主義化の激化の中で、「落ちこぼれ」層が「校内暴力」という形で抵抗を行っ
ているとき、同世代のティーンエイジャーたちの多数派は「体制」に対して沈黙してしまった。「校内
暴力」世代の多数派は、「体制」の人権規制を前提とし、その枠内で生活をエンジョイするという形態
で、すなわち「私生活主義」にとじこもるという形態で、「体制」への「抵抗」を始めたのである。こ
の「抵抗」姿勢は、「いじめ」世代に受け継がれていくが、成年に達した「いじめ」世代の若者たちは
次第に「私生活主義」にとじこもることにあきたらなくなりつつある。ただ、ここではそれは論点では
ない。ここでは、この姿勢が若者が生きるうえでの習慣となっていることを確認したい。
7
「校内暴力」世代がティーンエイジを過ごした80年代、世の中は不動のように見えた。私たち「校内
暴力」世代は、大状況はもちろん、小状況を自らの意志で動かすことさえ困難視するようになっていた
。青年時代に大状況の変革を夢見てたたかった世代には、「校内暴力」世代の「抵抗」は消極的に見え
るだろう。しかし、大状況をたたかった青年たちは、その後の「制度の中への長征」(旧西ドイツの
「新左翼」指導者のドゥチュケの言葉)を経て、心まで「体制」側に売り渡した「企業戦士」となって
しまっている8。それに対して、大状況を無視して「私生活主義」に
たてこもった「校内暴力」世代は「心の自由」を守り続けているし、それは今後も変わらないだろう。
リストラと高失業の波に洗われる「バブル社員」たちの静かな、しかし着実な変化は既にその片鱗を見
せつつある。「青年の変化」論では論じられていないかのように見える60年代後半生まれの世代は、加
齢による進歩への傾斜を準備しつつあるが、これもここでの論点ではない。
したがって、「校内暴力」世代は、既定の現実を変えようという志向がそもそもない。既定の現実に
どう対処するかだけが問題となる。しかも、その対処は「内心の自由」を守ることに最大限の価値がお
かれる。そして、既定の現実の枠内での最大限の「自由」を探求するのである。「いじめ」世代ではこ
の傾向はもっと顕著になるが、その一方で守るべき「内心の自由」を持たない層が増えている。そこか
ら、既定の現実を変えるような行動に出るようになるのである。しかし、それは「世の中は変えられる
」という展望を持ってやっていることではない。とにかく、立ち上がらざるを得ない現実があるから立
ち上がるのである。その意味では「青年の変化」は状況判断能力についての「退行」から生じていると
言えなくもない。しかし、「退行」が進歩を生むことがあるのは、歴史の弁証法として注目していいだ
ろう。
感性の鋭さの健全さと危うさ
よく、若者の活字離れが問題となる。確かに、活字離れは現実に存在するし、複雑な論理構成は、活
字を通してしか表現されないことが多いのであるから、特に抽象的論理操作についての能力の発達に困
難が生じている。しかし、私は若者の総合的な認識能力については、前の世代より必ずしも後退してい
ないと私には思える。若者たちはその鋭い感性によってそれを補っているのである。古来より、鋭く新
しい感性は若者の特権とされた。若い世代の経験不足ゆえの自由な発想が必ずそこにあるからである。
しかし、「新人類」と言われた世代(60年代前半生まれの世代)以降の若者たちの感性は、そういうも
のとはやや異質のものがあると思われる。
「新人類」世代以降の若者たちは、よく言われるように、受動的な姿勢のままで大量の情報にさらさ
れている。能動的にならなければ入手できない情報も多く、若者はそういう情報に意外なほど疎いとい
う指摘はその通りだし10、あふれる情報の中で能動的な情報収集へ努
力する姿勢が弱まっているのも事実である。しかし、若者たちはあふれかえる情報の中から、瞬時にし
て必要な情報を取捨選択して自らの世界観・人生観を形成している。その情報処理の手際のよさは、上
の世代の想像を絶するものと言えるだろう。
かつての学生にとってマルクスを読むことは常識であったという。最近の学生は、学生運動家であっ
てもマルクスなどの古典を読む者は非常に少ないのが実情である。しかしどうだろうか。マルクスを読
んで目からうろこを落としたように感じること自体が実は錯覚なのではないか。今の青年学生がマルク
スを読まないからと言ってそれが退化だとは言えないのではないだろうか。読まれないのはマルクスだ
けではない。流行思想でさえ、その思想的動員力はかつてのニーチェやサルトルの比ではない。難解な
もってまわった言い回しによって、事態の本質をつかんだような気がしていた上の世代の方が、実は直
面する現実を単純にとらえていたとは言えないだろうか11。青年学生
が学問や教養の書を読まなくなったのは、受動的に受け取る大量の「わかりやすい」情報の前に、難解
さを敬遠する傾向があるからではある。しかし、そうした書に書いてあることに共感できないのがむし
ろ自然なことだとさえ私には思える。そうした書の「説教」や「慨嘆」や「怒り」に白々しさを感じる
という今の青年の感覚の方がずっと優れていると言えないだろうか。
管理主義教育をくぐり抜けることを至上命題として成長してきた若者たちは、大人たちが唱える「き
れいごと」のうさん臭さに免疫を持っている。したがって、論理のすり替えによるごまかしの「きれい
ごと」には既にだまされなくなっている。しかし、この習性は素朴な正論に対しても適用される。実感
や具体的な展望にもとづかない正論も「きれいごと」として葬られる。
ただし、「校内暴力」世代がすべての正論を冷笑したのに対して、「いじめ」世代は感性のレベルで
共感できる正論についてはすんなりと受け入れていくという違いがある。「校内暴力」世代が「体制」
との対決を忌避するために、大人たちの「きれいな」言説による「神々の争い」に関与しない、あるい
は「体制」や大勢の論理に黙従するという態度をとった。それに対して、「体制」イメージを持たない
「いじめ」世代は心から「これは単なるきれいごとではない」と判断した言説についてはそれを受け入
れていく素地を持っているのである。
希薄な人間関係の「影」と「光」
青年論としては、近年の青年たちが共通して持つ人間関係の希薄さについて検討しなければならない
。その点でまず確認しておきたいのは、希薄な人間関係は「自分を大切にしたい」という願いの現象形
態であるということである。
若者たちは、心のどこかで弱々しい「自分」というものを感じている。そして、その弱々しい「自分
」を守るために、他人(教師はもちろん親も例外ではない)に対して壁をつくるのである。自分が傷つ
きたくないためにそうしているのだから、他人に対してもその「壁」の中に踏み込もうとはしない。そ
れが若者にとっての「やさしさ」なのである12。したがって、若者ど
うしの間では驚くほど希薄な人間関係が一般化するのである。
アイデンティティは他人との関係で成立する。他人との人間関係があって初めて「他人と違う自分」
を認識できるからである。弱々しい人間関係を放置しておいて力強い「自分」を持つことは、ティーン
エイジャーのころならともかく、一定の年齢に達していてはごくまれに、特殊な才能を持つことによっ
てしかできないことである。弱い「自分」を守るために人間関係に深入りしない、人間関係が希薄だか
ら「自分」が強くなった実感はいつまでも持てない、という悪循環が青年期までの間には起こっている
。そして弱々しい「自分」は受験競争と管理主義教育を内容とする「体制」から「自分」への介入にさ
らされる中でつくられてきたのである13。こうした教育は個々の労働
者を競争で分断しながら企業に統合していくという日本的経営の企業主義的労働者統合に対応するもの
であった14。
こうした弱々しさは上の世代に耐えられないものであるらしい。しかし、この弱々しさの中にこそ、
新しい民主主義的人間関係の萌芽がみられないだろうか。上の世代は、ここまで「自分を大切にしたい
」と思っていただろうか。「自分」を考えるとき、さまざまな社会関係の中に「自分」を置いてみると
いうのは正しい認識法だが、そこに古い共同体主義の残滓がなかっただろうか。上の世代が青年時代に
「団結」や「連帯」を唱えたとき、それは「近代的自我」を軸に据えたものであっただろうか。古い共
同体主義と近代的権利追求の幸福な結婚が、かつての学生運動や労働運動の広がりの基盤だったのでは
ないか。だからこそ、日本的経営の企業主義的労働者統合に、上の世代は巻き込まれていったのではな
かったか。現実に日本の民主運動がスローガンにしているのは、「人間らしい生活を送りたい」という
ごくごく「個人主義的」あるいは「マイホーム主義的」なものである。実践的に企業主義的労働者統合
を打破するためには「一人ひとりの願い」から出発する以外にないというのが、これまでの民主運動の
実践を通じた結論であると私は理解している。
若者の希薄な人間関係が「自分を大切にしたい」という願いを出発点にしているとすれば、受験競争
や管理主義教育、あるいは日本的経営の企業主義的労働者統合への反発という面をそこにみてとれない
だろうか。だとすれば、若者たちの課題は平板な「人間関係の回復」一般ではなく、「個の自立を基礎
とした連帯」という新しい民主主義的人間関係の追求であり、若者たちはすでのその課題を提示された
段階に達している。これは上の世代が経験することのなかった新たな段階である。歴史的かつ大衆的に
は、「個の自立」なるものは、団結や連帯の中で育まれてきたものである15。
こころある知識人の一部には、「個の自立」を最優先の課題であるとする言説があるが、それは団結や
連帯と結び付けられて初めて実践的な主題となる。スローガン化するとすれば、「連帯による個の自立
の達成」ということになる。つまり、希薄な人間関係しか持てていない今の若い世代は、新しい民主主
義的人間関係の成立を展望できる最初の世代なのではないだろうか。今の若者たちは、新しい民主主義
的人間関係を築くための過渡期の産みの苦しみに直面しているのではないだろうか。
「人間関係が希薄な若者たちは共感能力に乏しい」という指摘がある。「いじめ」や「おやじ狩り」
がこれといった罪悪感や痛みを伴わずに遊び感覚で行われていることはその例証とされる。確かにそう
いう現象は存在する。では、阪神大震災の惨状を見かねて集結したボランティアや川田龍平の訴えに応
えて高揚したHIV訴訟支援運動に参加した若者たちは、「いじめ」や「おやじ狩り」に加わっている
若者たちとは全く別の感性を持っているのだろうか。結論から言えば、両者は共通した感性を持ち、そ
の違いは紙一重と言っていいくらいのものである。
震災ボランティアやHIV訴訟支援に加わった大量の若者たちは、実は少人数のグループ、ないし
1人という単位で運動に加わっている16。小グループが集まって運動
全体を構成しているのだが、こうした小グループ間のつながり(つまり全体の結束)は案外に弱い。し
かもその運動は主としては当の若者の生活圏外で(例えば、学外で、あるいは職場外で)行われ、生活
圏内で大っぴらに運動することにはむしろ消極的な傾向がある。若者たちはブラウン管の中の震災被災
者や川田龍平には、激烈ともいえる共感を持つことができるのに、職場・地域・学園で隣にいる若者に
共感することができないでいる。テレビを見て現場に行ったら、全く別々にかけつけた「隣人」と出会
って驚いた、というドラマが多数生まれたということは、希薄な人間関係を持つ感性の鋭い若者たちの
現状を映し出しているのではないだろうか17。そうすると、日常生活
の中でそうした感動=自己存在証明を見つけ出せないでいる若者が「いじめ」「おやじ狩り」「援助交
際」という方向に走るのは何ら不思議ではない。
民主的青年学生運動の方針の中に「青年学生の友情と連帯を求める願いは切実」という命題がよく出
てくる。しかし、若者たちは表面上は「切実」そうな顔をしていないというところに、今の青年運動の
課題がある。多くが「切実さ」を抱えていながら、傷つくのを恐れ、その「切実さ」を隠すために隣人
たちと距離を置く。青年運動家たちもその例外ではない。「友情と連帯を求める願いは切実」という若
者たちの本質は、「希薄な人間関係しか結ばない」という現象としてあらわれているのである。
18
「今の社会に何となく不満」の2つの側面
若者たちは、今の社会に「何となく不満」と思っているという。私見では、この「何となく不満」に
は2つの側面があると考えている。
その第1はよく指摘されることだが、日本社会が現在直面している深刻ないきづまりの反映である。
特に若者にとっては、個人的にも社会的にもどの点をとっても未来に希望を見いだせないという閉塞感
は深刻なものとなっている。早くから差別・選別を行われ、大多数の若者たちは自分の将来に希望を持
てないでいるところに、さらに日本資本主義のいきづまり感が拍車をかけている。問題が大きすぎるた
めに、問題そのものが見えないから「何となく」と表現される。「体制」イメージを持たない世代では
なおさらのことである。
その第2は、若者たちは自分たちの感じていること・思っていることを言葉にして表現する訓練を受
けていないために、その不満の中身が何なのか自分でも分からないでいる、ということである。学校生
活や職場生活の中で、自分の率直な思いを、それをぶつけるべき者に対して正面から表明することは
若者にとってタブーである。陰でこぼす愚痴はたくさんあっても、どうやっても目に見える形では事態
は何ら解決しないのを当人たちもよく知っているので、それを筋道立てて要求しようなどとは思わない
。これは教師や親や上司に対してだけではなく、友人関係においてもそうなっているのである。具体的
な愚痴に関してもそうなのだから、もっと高次の複雑ないろんな思いを言葉にしていくということにも、
若者には考えが及ばない。思いを言葉にするという努力をしなければ、その思いは分析されることなく
混沌としたまま心の中に放置され、自分が感じていることは何なのかが自分自身で分からないというこ
とになってしまうのである。上の世代では、比較的に濃密な人間関係があったほか、直面する困難の性
格が目に見える内容であった。ところが、現在の若者が直面している困難は、確かにあると感じてはい
るが何だかわからないというようなより複雑なものなのであるから、それが何なのか分かりようもない
のである。かくして、不満はやはり「何となく」としか表現されない。
私の以前所属していた企業の人事担当者が、「今の若い人たちは『何が欲しいですか』とたずねると
『お金』とか『車』とかと言う」「『自分が何をしたいかわからない』という若者が多い」という事実
を指摘したうえで、「みなさんはこういうことをどう思いますか」と、若い従業員を集めた研修で発言
していた。私はそれに対して「そんなことは当然だ」とかみついたことがある。今の若者たちの欲しい
ものは、ひとことで表現できないものなのだ。それは「より豊かな友人関係」だったり「今とは違う性
格の恋愛」だったり、「生きがい・働きがい」だったりする。そして前述のように、若者たちはそれが
何なのか探求するという作業に慣れていないし、その作業をする必要性も感じていない。したがって本
当に欲しいものはわからないから、とりあえず「お金」「車」ということにしておくのである。やりた
いことについても同様である。若者の前に提示される選択肢は、いわゆる「究極の選択」ばかりで実質
的には皆無に等しい。親や教師は子どもを受験競争に駆り立てるが、その相対的勝者を含めて、それが
どうしてなのか満足な理由は見いだせない。受験競争の相対的敗者についてはなおさらである。いろい
ろと夢を描く者も少なくはないが、一方でその夢が簡単に実現できないことも知っているので、本当に
それに真剣になるにはそれ相当の覚悟がいるから、真剣になることさえも逡巡せねばならない
19。「やればできる」というのは成功者の言葉であって(補注)、一
握りの成功者の背後におびただしい数の成功しなかった者がいることは誰でも知っているのである。
(補注)発表時には明記しなかったが、これは成田美名子のマンガ『ALEXANDRITE』3巻(
白泉社110頁の台詞をヒントにしたものである。
この問題に関連して、若者の高失業率の問題がある。これについては、「失業を余儀なくされている
」という面と同時に「失業を選んでいる」という面があるということを指摘したい。この問題について
の詳細は竹内真一の論考「時代を模索する青年労働者」20を参照して
いただきたいが、ここでは、現在の社会が求める青年労働者像と、若者たちの求めるものとのミスマッ
チがあまりに大きすぎるということだけを指摘するにとどめておく。竹内論文が示唆しつつも明示して
いない論点として、失業や不安定雇用を「選ぶ」若者の中には、主観的には夢へのステップとしてそれ
が位置づけられてはいても、実際には最終学歴を終えた後のモラトリアム期間としてそれを選んでいる
という現象がある、ということがある。本人の主観の中では、「ミュージシャンになるため」とか「資
格を取るため」「試験に受かるため」という目的のために、定職に就かなかったり、無職のままでいる
ということが、ときとして「何もしないでいる自分」を自分に向かって免罪していく方便として使われ
ることがある、ということである。今の社会の一般的風潮は「プータロー」を許さない
21。そのため、こういう「目的」を掲げるのであるが、それを対外的
にということだけでなく、自分に対してもそういう言い訳をしながらそういうモラトリアムをつくる。
人によってはそのモラトリアムが長期化することもまれなことではない。
青年の世界観探求 〜「仮想と現実が区別できない」こととの関連で
若者は哲学書を読まなくなった。哲学の古典だけでなく、現代思想のものも読まれていない。だが、
例えばマンガにしても、コンピュータ・ゲームにしても、一定の「世界観」が必ずそこに包摂されてい
る。その「世界観」はときとして上の世代にとってとてつもなく難解であったりする。それは決して本
来の哲学のように、世界観を直接問うものではない。だが、若者たちはそうした中で世界観探求を行っ
ているのである。ゴルデル『ソフィーの世界』のブームは、古典的な形態での世界観探求を、若者たち
の行っている世界観探求の形態をとって紹介したことに起因する22。
そうした現状の問題として、ここでは「仮想と現実の区別がつかない」というよくある議論について
検討する。
1997年の日本母親大会の討論で、この問題について「子どもたちが現実を満足に生きられない社会の
問題だ」という発言があった。多くのティーンエイジャーが、神戸小学生殺傷事件や相次ぐ少年による
刃物事件に関連して、大人たちの「マンガ・アニメ・ゲームが悪い」という議論に反発している。圧倒
的多数のティーンエイジャーたちは、仮想と現実を混同したりはしない。宮台真司は、「虚構と現実の
区別がつかない」という表現を批判し、若者や少年の方が現実の重みをひしひしと感じていて、虚構と
現実を明確に区別したうえで、虚構を生きることを選択している、と表現している。その中で、どうし
ても現実に我慢できないごく少数の者が、現実に虚構を持ち込もうとして凶悪犯罪に走るのだ、とも言
う23。
「現実を生きられない」あるいは「虚構を生きる」とはとはどういうことか。前述したように、若者た
ちは未来に希望を見いだせないし、お互いを支え合う人間的信頼関係も乏しい。自己存在証明は、現実
の人間の集団である社会との関係においてのみ得ることができるものである。「援助交際」「いじめ」
「おやじ狩り」といった行為で自己存在証明を得ようとすることもあるのは既に指摘したところだが、
現実に自己存在証明が得られない場合には、虚構に自己存在証明を求めるしかない。そこに虚構を選択
するということが生まれるのである。虚構の中に遊ぶことで現実の中で生じた心の傷を癒すのである。
24
青年と青年運動の課題とその展望
最後に青年と青年運動の課題とは何なのか考えてみたい。
結論だけを述べれば、それは「自分を大切にしたい」という若者たちの即自的命題と、「友情と連帯
を求める願いは切実」という青年学生運動の提示する向自的命題の、感性レベルでの統一である。この
両者は、今の若者にとっての現実について、感性レベルでは矛盾している。自分を大切にしたければ深
い人間関係を避けなければならない、友情や連帯を求めれば自己を犠牲にしなければならない、という
風に。それを統一することが若者と青年運動の課題なのではないか、と私は提起したい。
この課題については、青年運動の実践の中で既に提起されている。そこでは、「何でも語り合える関
係をつくる」ことや「他人の悩みに親身になる」ことがかつてなく強調されている
25。自分と他者とのコミュニケーションと相互作用によってこそ、自
己存在証明=生きがいや、現実を生きる力=個の自立が得られるのだから。
そして、この課題をめぐる展望について考えてみたい。
率直に言って、先に私が提示した若者の課題をめぐる状況は客観的にも主体的にも厳しいものがある
と私は考えている。現状を前提するならば、上の世代からの親身で積極的な援助が得られなければ課題
の解決は難しい。そして、私の見るところでは上の世代の主体的条件も成熟していない。ただし、上の
世代との関係を含めて、若者をめぐる客観的条件はこれから劇的に転換すると思われる。
日本資本主義は、支配層の側から見ても民衆の側から見ても閉塞感を強めつつある。支配層は、大競
争時代の到来と招来を期してその戦略の再編を試みているが、支配層が金融寡頭制の利益を最優先にす
る限り、その試みは破綻せざるを得ない。好景気に沸くアメリカでさえ大衆の貧困は深まるばかりであ
り、ヨーロッパ統合の先行きも不透明感が拭えない現状となっている。前近代・近代・超近代の交錯す
る日本的経営の手法は日本資本主義の一時的な成功を達成したが、欧米資本主義の再編と途上国経済の
成長の下で、その成功のゆえに再編を迫られている。そしてそれは企業主義的労働者統合の基盤を自ら
掘り崩しているうえに、経済効率の面からも不安定要因を抱え込まざるを得なくなっている。このまま
では、日本資本主義は劇的破綻(かつてアメリカやイギリスが経験したような、あるいはもっと深刻な
)を迎えるのではないか、これは支配層に根深い危機意識であると考えてよい。
この問題を、世代論から見ての人材活用戦略という面から考えてみるのがここでの主題とする。従来
の日本的経営手法を主流としながらも、その経営戦略を組み替えようとしているのが現在の日本資本主
義であるが、その担い手を世代別に大まかに分けていくと、「戦中派」世代は表舞台から退場し、「戦
後派」世代は大きな影響力を残しながらも主導権を失いつつあり、「60年安保」世代が主導権の担い手
に参入し始め、実務上の実権は「団塊の世代」が握り、「フォーク世代」が中堅を、「新人類」世代以
降が若手を、実働部隊として構成している。ここでの問題は中堅以上の世代が若手を掌握できないでい
る、ということである。それでも「新人類」世代はその新鮮な活力が表面に見えやすいので、企業戦力
化しやすいということを背景に比較的に統合されつつあると言えなくもないが、その戦力化に成功して
いない企業も少なくない。「校内暴力」世代は完全に面従腹背を決め込んで自らのアイデンティティを
労働現場に求めなくなっており、「いじめ」世代に至っては失業・不安定雇用・潜在的失業の層が大半
を占める。中堅以上は若手の感性を理解しようとせず、自らの「常識」を押し付けることに終始してお
り、若手に対するヘゲモニーを確立していないのだが、この問題の深刻さはこのヘゲモニーの未掌握と
いう事態を彼ら自身は全くと言っていいほど自覚していないことにある。彼らは、自分たちの青年時代
の経験をそのまま今の青年を見る目に押し付け、若者たちが表面的に異議申し立てをしない現状につい
て誤った判断を持っている。事態がこのまま推移すれば、日本資本主義は若者たちの新鮮な活力を取り
入れることができないままその劇的破綻を迎えることとなるかのように私には見える。
もちろん、私はその劇的破綻を回避したい。だが、まずここではこのような劇的破綻が不幸にも生じ
てしまったとき、現在の若手層がどういう役割を果たし得るかを推論してみたい。
劇的破綻に直面した上の世代は狼狽し自信を喪失する。そこからの再建は、上の世代が「地道に」積
み重ねてきた経験が通用しないため、再建の主体は上の世代の現在主流でなかった層
(もちろん主流であった層からもこの事態に対応できる者も出てくる)と、今の若手層となる。いずれ
も組織や社会への責任をこれまで放棄してきた層である。この新指導層は現在の日本資本主義の手法に
適応できなかった層であるから、破綻済みの手法を用いることは無意味であることを即自的には知って
いる。そこから、それまで無責任であった層が新しい手法を生み出さなければならない。これは困難な
道ではあるが、不可能なことではない。個人主義的な一面性免れないとは言え独自の民主主義的素養を
身につけているこの層が新しい展望を切り拓くことになるだろう。ただし、この新しい社会体制が、日
本資本主義のバージョン・アップに終わる、すなわち、占領下労働運動の成果を前提にして高度経済成
長を支えた日本的経営が展開したように、一定の民主的要素を組み込んだ新しいタイプの国家独占資本
主義体制ができあがるか、それとも民主主義的変革の方向へ進むかは、民主勢力の力量にかかっている
。いずれにせよこうした社会体制再編の最高指導部は世代の面では現在の中堅以上の世代が主流を占め
ねばならないが、この最高指導部を従来の支配層が占めるのか、民主勢力が占めるのかが2つの道の分
かれ目である。この劇的破綻を迎えざるを得ないような社会的力関係であれば、前者の可能性が大きい
ということも言えるかもしれない。前者のシナリオが実現した場合にも、社会の病理現象は新たなかた
ちであらわれることになり、決して矛盾の根本的な解決をもたらすものではないのは言うまでもない。
次に、このような劇的破綻を回避し、破綻を小規模なものに終わらせ、新しいより民主主義的な社会
への移行をソフトランディングさせるという、望ましいシナリオの可能性を検討してみたい。
先に述べた上の世代の若手層への無理解というのは、民主運動の中にも存在する。民主的青年運動が
前進の兆しを見せながらも、全体としてなお停滞していると言わざるを得ない現状にはさまざまな要因
があると思われるが、少なくともその1つに上の世代の若者への無理解という問題がある。若者を理解
しようとしない者は若者を傷つけておいてそれに気づかず、若者への無理解を自覚している者は若者へ
の接近をためらっている。なお、民主運動内のこの問題の特殊性は、若者への無理解を自覚している者
が日本社会一般よりずっと多いということである。だとすれば、若者への無理解を自覚している者が、
若者への接近を試み、感性の違いを横に置いて人間として共通する部分で共感を追求するようになる必
要があり、それは可能であると私は考えている。先に示した青年の課題は、青年たち自身の力では、問
題解決は不可能ではないが困難を極めることがらであると私には思える。上の世代が、自らの無理解を
自覚したうえで若者たちの連帯の構築を援助するならば、この課題はやや容易になるであろう。したが
って、劇的破綻を免れてソフトランディングを可能にするものは、上の世代の援助による貢献を含めて
の青年層の民主運動への参加の飛躍的増大であり、それとあいまっての民主運動の力強い展開であり、
さらにはそれによる日本社会の民主化である。その中には、日本資本主義の劇的崩壊に民主的改革の波
が間に合うかどうかが一つの焦点となるであろう。
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