はじめに 僕が本稿を書く理由
日本社会の世代間ギャップの大きさは、言語を絶するものがある。挑発的な、その意味ではまっ
たく文学的でない本稿の表題は、そのことを訴えようとしたものである。僕は世代についてのこだわり
が強く、文末参考文献に掲げる青年論をものしたこともある。
僕は、最近「時代の空気」を伝えるものを好んで読んでいるが、その度に、1960年代までの空気の
「色」といかに自分の生きてきた世界とその空気の「色」が違っているかを思い知らされる。70年代に
おいて、ようやく現在と共通する「色」を感じることができるが、それも現在からは遠い。それはこの
数十年の日本社会の変化の速さと大きさを物語ると言えよう。戦争体験など世代体験の継承の危機が問
題視されることも多いが、その世代体験の現在の生活からの異世界ぶりが、それを伝わりにくいものに
していることを老若両世代が認識すべきだろう。戦争体験ばかりか、戦後の占領下労働運動も安保闘争
も「全共闘」運動と民主化運動の格闘もベトナム戦争も1968年生まれの僕には「異世界」である。民主
主義文学ではこうしたものを題材にとることが多いが、その世界を共有できない僕にとっては、モチー
フやテーマさえもが共有化できず、時代背景や主人公の世代を見ただけで読むのをやめてしまうことも
多い。これでは、今現在、僕自身が抱えているさまざまな課題を感じ考える素材にならないのではない
かと思ってしまうのだ。僕の想像力のなさを嗤うのは簡単だが、あえて言うなら、時代の空気の「色」
を読み取る努力をしている僕でさえ、そうなのだ。普通の若者が民主主義文学を読むことがないのは、
決して一般文壇が民主主義文学を無視しているからだけではない。僕の世代に対して村上春樹や吉本ば
ななが持った魅力を民主主義文学が探求しようとした跡が、僕より上の世代の(村上や吉本の同世代者
を含む)書き手には見えない、というと言い過ぎだろうか。
旭爪あかね『世界の色をつかまえに』(『民主文学』1998年11月号、単行本は本の泉社、1999)
では、主人公のあかりは僕より2歳年上である。つまり僕の同世代の物語だった。僕も日本共産党員の
活動家を両親(父親は教師)に持ち、「いい子」のまま反抗期らしい反抗期を過ごすことなく、研究者
を志して大学院生のときにあかりと同様の状態に陥った。もちろん、あかりと僕の間には無数の違いが
ある。しかし、その無数の相違点を数え上げてしまいたくなるほど、あかりと僕は似ている。そうした
中で、地方にわずかながら漏れ聞こえる『世界の色をつかまえに』への様々な評価は、僕に違和感を与
える。吉開那津子「旭爪あかね『世界の色をつかまえに』に描かれた世界」(『民主文学』1999年6月
号)は、本質的な問題点をついた優れた評論であったが(注)、本作が親の世代にどういう衝撃を与えた
のか、という視点からのものだった。そして、吉開氏はともかくとして、親の世代の多くの読者がどの
程度その作品世界を理解しているかは大いに疑問であると思っている。そこで、僕は本稿を(批評を書
く力はないので)「同世代の似た境遇にあった者による『解説』」として執筆することにした。どのよ
うな世代間ギャップが現実に存在するのかは、この論考全体で展開したい。その中では、僕が数え上げ
たくなった、あかりと僕の具体的相違点にも触れざるを得ないだろう。
(注)この評論においての、「作者はなぜ、あかりの両親が関わった『革新政党』の名を明示する
ことをしなかったのだろう。(中略)このことは、作品のテーマとの関連で、見過ごすことの出
来ない問題を呈示しているように思われる」との吉開氏の指摘は、鋭いものである。この作者の
メンタリティが作品としてどういう意味を持つのか、は本作を読むうえで重要なポイントになる
であろう。この問題は、この後検討する反動攻勢期に「活動家ジュニア」が置かれた客観的情勢
を考慮に入れて考えるべきなのではないか。
あかりはなぜノンポリになったのか
あかりについて考えるとき、次のあかりについての描写が手掛かりになる。
高校生のときに『それだけには自分はなるまい』と考えていたノンポリ学生になって
しまい、学部生のときに『それだけは自分には必要あるまい』と自信を持っていた『執行猶
予期間』に、気が付くと足を踏み入れて
しまっていた。(単行本18-19頁)
まず「ノンポリ」と「モラトリアム」をキーワードとして考察を進めたい。
なぜあかりはノンポリだったのか。結論を先に言うならば、あかりのU大学には「政治の風」が吹
いていなかったからであり、そして日本民主青年同盟(民青同盟)が大規模で公然とした活動(例えば、
ビラなどの大量宣伝やハンドマイク宣伝など)を行っていなかったからだと思われる。民青同盟の大規
模で公然とした活動が行われていたならば、あかりについてはおそらくノンポリのままで学生生活を終
えるということはありえず、民青同盟員としての学部生時代を送ることになっていただろうと思われる
。学生運動を経験せず、ノンポリのままの学部生活を送ったあかりの存在のあり方は、同世代の学生
運動出身の読者にも微妙な違和感を与えている。しかし、80年代後半、民青同盟は大きく勢力を後退さ
せ、それにともなって、大衆の前に姿を現す活動ができなくなった学生組織は多かったし、学生班を失
ってしまう学園も少なくなかった。その意味で、民主的青年学生運動が身近にない世代をあかりは代表
している。「知名度抜群の候補者、日本共産党」に対して、「誰も知らない民青同盟」という運動の実
態(大衆団体であるはずの民青同盟の方が、前衛党(補注)よりも青年の間での認知度が低いという状況
)があった。
(補注)2000年以降、日本共産党はこの用語を自己規定として使っていない。
79年末にソ連のアフガニスタン侵略が起こり、既に揺るぎはじめていた「社会主義」の魅力はほ
ぼ全面的に失われ、80年の年初には「社公合意」が結ばれ、国内的にも日本共産党排除の政治体制がで
きあがる。そういう80年代に育った青年学生には「社会主義」や「共産党」に希望を感じることはあり
えず、アレルギーさえ持っていた。また、オイル・ショック以降に日本の「企業社会的統合」(渡辺治
氏)が強まり(政治における戦後第2の反動攻勢を社会の位置から支えたのはこの運動であった)、日
本経済の比較的良好なパフォーマンスともあいまって、「生活保守主義」と呼ばれる現状肯定的な雰囲
気が主流を占めた。少年時代に荒れ狂った校内暴力は、管理教育によって封殺され、「体制」の抑圧に
逆らうことは無駄だとして、自己実現についてあきらめる雰囲気が蔓延する。「三無主義」「五無主義
」「十三無主義」と若者が言われた事態がそれである(詳細は文末参考文献の拙稿を参照)。戦後第2
の反動攻勢にともなって生じた、こうした変化への対応を当時の民青同盟はうまく行うことができず、
80年代後半の後退を招いた。88-89年に、民青同盟と日本共産党は青年学生運動の新しい活動方針を採
用するが、その方針が浸透するのには一定の期間を要した。そして89年には天安門事件、「ベルリン
の壁」崩壊からチャウシェスク処刑に至る東欧のドミノ的政変の波、91年の湾岸戦争、ソ連の崩壊、
93年の「新党ブーム」と非自民政権の登場(もちろんこれは自民党政治への批判でもあったが、同時
に「保革対立消滅」論の攻勢局面でもあった)など、民青同盟と日本共産党にとっては苦しい情勢が続
き、90年代前半まで民青同盟の組織勢力は後退を続けたのである。特に成員の入れ替わりの早い学生
組織は、次々と学園における拠点を失っていった。
平和・民主運動が草の根を指すときの慣用的用語に「職場・地域・学園」というのがある。「学園」
が入っているのには、かつての学生運動が国民的運動の中心のひとつになっていたという歴史的背景が
ある。しかし、「職場・地域・学園での草の根からの運動」が呼びかけられる各種集会には、学生の参
加者の比率が極小化していたのが、80年代後半からの様子であった。僕は、このことを「発見」してか
らは「職場・地域・学園での運動」が呼びかけられるたびに、「この呼びかけに応えるべき『学園』の
担い手がこの中に何人いるのか」とかつての学生運動の規模と自分たちの運動の規模の文字どおりの桁
の違いを自嘲したものだ。ちなみに、僕たちの活動は往年の学生運動とは違った質の高さを持っていた
と今では思うようになっている。
このような、大学における自覚的民主勢力の厳しさとともに、次に述べるような青年学生の非政
治化や「保守化」の問題があったし、その背景には「モラトリアム人間」の登場の問題があった。
ノンポリ化とモラトリアム人間の時代的背景
「モラトリアム人間」という言葉が普及したのは70年代後半のことである(『中央公論』1977
年10月号に掲載された小此木啓吾「モラトリアム人間の時代」への反響が大きかったことによる。文末
参考文献所収)。それはやはりポスト学生運動の時代の青年学生の人格形成の新しいあり方であった。
60年代後半から70年代前半は革新高揚期として、『日本共産党の70年』などでは輝かしい時代とし
て描かれているが、時代全体の空気の色はむしろ暗いものであった。日本共産党の躍進著しい現在にも
通じるものがあるが、日本共産党など革新勢力が大衆的支持を集める時代は世相が暗いというのが、戦
後日本の経験則と言っていいと思う。そして、その革新勢力の前進が次の明るい時代をつくりだしてき
たのである。
安保闘争後、「逆コース」路線の挫折を自覚した自民党の路線転換(一般に「軽武装経済重視」と言
われる「改憲隠し」路線は、隠し続けなければならなかったという意味で現実の政策では転換を余儀な
くされたもの)と高度経済成長の本格化で、日本は明るい空気に包まれる。60年代後半から70年代にか
けて、東京に革新都政が誕生したのを着火点に、燎原の火のごとくに全国に革新自治体が広がり、日本
共産党も「倍々ゲーム」と呼ばれる選挙での躍進をかちとる。この動きの背景になったのが「高度成長
の歪み」と言われた公害問題や都市問題などの噴出であり、それに対して立ち上がった市民運動・住民
運動の広がりであった。「高度成長の歪み」は暗い世相を生み出した。その世相はサブカルチャーの動
向を見ればよくわかる(「四畳半フォーク」や「不条理もの」の流行がその典型例である)。時代に対
する閉塞感が、日本共産党に対する「ある種の『新党ブーム』」(五十嵐仁氏)と合わさって革新自治
体や日本共産党の躍進を生み出したのである。73-74年のオイルショックが高度経済成長の終焉をもた
らし、失業や青年の就職難が増大したことも、こうした暗い世相に拍車をかけた。
「全共闘」運動は、「高度成長の歪み」を背景に噴出した自然発生的大衆運動(その典型が日大
全共闘)であり、その小ブルジョア急進主義とメンタリティの小児性(「モラトリアム人間」の先駆)
と日本の反共風土とが結び付いたものであった(補注)。民主的学生運動も「全共闘」運動に対抗して
大きくな
り、「全共闘」運動の敗北後の70年代に最大勢力を誇るようになるが、その一方で学生のノンポリ化が
進行する。オイル・ショックを経て、それまでは大企業だけに確立していた企業社会的統合(これが民
主主義文学が描いてきた「職場支配」である)が日本社会全体を覆うようになった。80年代は、日本資
本主義が復調し、爛熟した消費文化が社会を席巻し明るい世相を生んだ(一方でそれは「オタク文化」
を生み出し、現在につながる「影」の部分をつくっていく)。80年代が「保守化の時代」と言われたの
は、企業社会的統合の安定を物語っている。この世相は、バブル景気に沸いた80年代後半に最高潮に達
する。
(補注)現在では、この評価は一面的だったと思っているが、では、どう評価すべきか
についてはさしあたり保留したい。
企業社会の成立と結び付いて学歴社会が成立し、共通一次試験に象徴される競争的教育秩序が強
化され、もはや、青少年は社会に出るまでのモラトリアムを文字どおりの「執行猶予期間」として悠々
と過ごすことができなくなった。ここに「モラトリアム人間」が誕生するのである。これによって、青
年学生時代をモラトリアムとして、より「自覚的」に、すなわち意識的に無責任に過ごそうとする生き
方や、成年になってもモラトリアム期の課題を持ち越してしまったがために責任能力を欠いてしまった
青年が出現した。よりモラトリアム化の進んだ世代が青年として登場したのが80年代であるが、彼らは
「新人類」と呼ばれ、政治的には大多数が無関心層であり、消極的保守支持層であった。彼らは、政治
などを含めて人生に責任を持つつもりがないか、それを持つ能力がないか、いずれかの理由で、政治や
哲学を忌避し消費文化にアイデンティティを見いだし、または埋没していった。天下国家や人生を語る
のはダサイとされた。僕やあかりの世代は、やや様相を異にするが、基本的にはこれを受け継ぎ、これ
が先に描いたあかりの学部生時代の時代的背景となる。つまり、ノンポリ化とモラトリアム化は分かち
難く結び付いて進行し、ノンポリとモラトリアムは80年代の青年の時代の趨勢であった。90年代後半の
青年たちは、一部が脱ノンポリ化の傾向を示し、彼らのモラトリアム状況はまた違った局面を迎えたが、
その点については文末参考文献の拙稿を参照されたい。
あかりはモラトリアムの後ろめたさから逃避したくて肉体労働のアルバイトをする。それは、本
当の自分の課題からの逃避という意味では明らかにモラトリアム人間の行動である。しかし、それは同
時にあかりの暗中模索の一つの表現であり、モラトリアムにいるという現状を打開したいしたいという
願いの表現である。課題を自覚することが課題解決の第一歩であること(人は往々にして自己の課題が
発見できないがゆえに袋小路に入る)を考えれば、あかりの直面する課題は作中でのかなり早い時期か
ら解決の方向に向かって踏み出していると言っていい。運転手たちの意見のような大人の側からの批判
は、ストレートな効果を持つわけではないが、その一方でそうした上の世代の批判を真摯に受け止めて
いくあかりが描かれることによって、モラトリアム人間への年長者からの援助の必要性とその良き見本
が示されている。
モラトリアムの後ろめたさの代償として肉体労働をするという心境は、かつて「人民の中へ」と
言って学業をほうり出して労働運動や農民運動に熱中していったインテリ左翼学生たちと同様のナイー
ブさがあるが、左翼学生たちが真剣な人生選択としてそうしたのと、あかりが成長の課題からの逃避と
してアルバイトをするのとは違う。しかしまた、かつての左翼学生たちが、苛烈な時代背景があったと
してもその多くが変節していったのに対し、あかりは社会主義への志向を捨てることはおそらくないだ
ろう、という点の違いはまた別の意味を持つのである。
不登校・登校拒否について
あかりが陥っているような登校拒否・不登校を対岸の火事のようにとらえている大人が多いのに、
僕はむしろ驚いている。文部省の調査で98年度の不登校者数が13万人にのぼると発表され、中学では
一クラスに一人の不登校者がいるとして社会に衝撃を与えた。しかし、これは連続30日以上の長期欠
席者の数字であり、実際の不登校者より少なく算定された数字である。実際の不登校者は一クラスに3-
4人というのが現場の常識であり、実際には10人に1人が不登校というのが現場の実態なのである。そし
て、この事態を文部省でさえ「不登校は誰にでも起こりうること」と認識しているのに、自分の子が不
登校になっていない10人中9人の親たちは不登校問題に無関心で、「うちの子に限って」と他人事だ
と思っている。こういう中で不登校の子をもつ親は不登校を「恥」ととらえ、肩身の狭い思いをして他
人に相談することもできず、深刻な悩みを家庭内に閉じ込めてしまい、社会の中で孤立してる。
義務教育や高校で不登校にならなくても、大学で不登校になったり、社会に出てから出勤拒否に
なったりする若者が増えている。高校でさえ安易に退学させるという学校側の対応が目立つし、大学や
企業にいたってはほとんど無策である。企業の中にはメンタルヘルス対策をしているところも多くなっ
てきてはいるが、それでも人事部が担当医にカルテを見せるように迫るところがかなりあるという。不
登校・出勤拒否からそのまま「引きこもり症候群」になってしまう者も多い。成年層の「引きこもり症
候群」については、こうした人々のごく一部がときとして凶悪犯罪に走ることで注目を集め始めている
。
「オレンジ色のノート」と癒し AC概念にもかかわって
あかりの「オレンジ色のノート」での独白については、文学的な評価は分かれているようだ。し
かし、心の病の「癒し」の方法としてはこのやり方は極めてオーソドックスなものなのである(注)。
(注)吉開那津子氏は「主人公のあかりは、はっきりとした病名はつかないまでも、何かしら普通でない
神経症的な状態にいた」と述べておられるが、これは、空前の広がりを見せている精神病・神経症への
社会全体の無理解の表現である。あかりに病名がついていないのは、精神・神経科医を受診していない
から、という理由からに過ぎず、受診すればあかりの状態には確実に何らかの病名がつく。一定の抑鬱
状態にあるのは一見してわかるが、僕の素人診断では、軽いアルコール依存症に陥っていたところを、
「オレンジ色のノート」と貴子らとのコミュニケーション=カウンセリングによる癒しでアルコール依
存症については脱出できたように思われる(補注)。あかりの状態は、精神・神経科を受診してしかるべ
きレベルのものであると僕は考える。ちなみに、アルコール依存を除けばほぼ同様の状態にあった僕に
病名はついている。
(補注)次のようにあかりが自分の症状を述べるくだりがあるが、これは典型的な「解離」である。
本稿執筆時には、上記のように「ほぼ同様の状態」と書いたが、僕には解離の症状はない。
解離とは、苦しい感情に遭ったときに、その感情を心の他の部分のから切り離すことによって、自己
防衛をはかろうとする心のはたらきである。解離は、誰にでも起こっていることではあるが、それが
激しくなると病理現象となり、さらに著しくなると「解離性人格障害」という診断名がつくことになる。
解離性人格障害の最も著しい例が多重人格。
「黒っぽい半透明のゴミ袋があるでしょ。あれでぴったり全身を覆われてるみたいな感じかな。
苦しいし、外はかすかに透けて見えるんだけど、全然現実感がないんだよ。自分とまったく無関係なも
のにしか思えないの。目に見える世界に色がついていなくて、手を伸ばして触りたい気にもなれなくて、
ただモノトーンの景色が緩慢に動いているように感じるだけ。どんなに興味を持とうとしてもまったく
持てないの」
巷には「癒し」という言葉があふれ、一つの流行までなしている。それはやがてブームの局面を
終え、定番として定着していくように僕には思われる。それくらい、世代を問わず現代人の心は病んで
いる。そうした「癒し」ブームの系譜の一つにアダルト・チルドレン(AC)概念の登場がある。ACとは
、ここでは端的に「機能不全家族の中で育ったために精神発達に障害が生じている人々」と定義してお
く。当初はかなり重い事例にのみ使用されていた概念だったが、現在ではここでいう「障害」を広くと
らえ、「大人になりきれない人々」というくらいの用法で使われるのが一般的である(補注)。学問的な
いし臨床的にAC概念が有効なものであるか否かについては学界や現場でも争いがあるようだし、AC概念
が広く用いられるようになったことからの混乱が生じてもいる。ただ、少なくともAC概念の提起者や紹
介者の意図であるところの、精神医学と心理カウンセリングと社会ボランティアの各領域で別個に議論
されてきたことが同一の現象についての議論だったということを示すという点では、AC概念の意義を
評価していいのではないかと僕は考える。ここでは、行論に便利だという限りでAC概念をとりあげた
い。
(補注)香山リカ氏によれば、こういう「大人・子ども」というAC理解は、アメリカで提起された
AC概念の解釈としては誤りで、もともとの”Adult Children of Alcoholic”とは英語の意味としては
「アルコール依存症の親を持った子どもでおとなになった人」という意味である。機能不全家族一般に
AC概念を拡張しても、その意味は変わらない。香山リカ『生きにくい<私>たち』講談社現代新書、
2004。
現在では、ACについての本が多く出版されている。さまざまなAC本の中で、必ず取り上げられるも
ののひとつが、「いい子」型ACの問題である。アメリカにおいては、ACは、親がアルコール依存症であ
る場合のように、貧困、退廃、家族の破綻などによるものだが、日本における「いい子」型ACはそうで
はなく、「普通」の家族に育つ「いい子」が実はACなのだ、ということから現代社会の新しい現象とし
てよく言及されるのである。そして、作中のあかりは典型的な「いい子」型ACである。日本にAC概念を
紹介した斎藤学氏は、機能不全家族とACについて次のように述べる。これがそのままあかりとその家族
に当てはまることに注目していただきたいが、同時に日本のほとんどの家族が機能不全家族であること
にも注意してほしい。
子どもにとっての「安全な基地」であること、そのなかで子どもが自らの「自己」を充分に発達
させることができること、これが健康な家族の機能です。(中略)
子どもはそのなかで、一定の役割を押し付けられることもなければ、親の価値観を無理やり取り
込ませられることもありません。(中略)
秘密やルールでがんじがらめにされた家族では、見たものを見ないとし、感じたものを感じな
かったことにすることが日常行われています。(中略)
機能不全家族は全体主義国家や宗教的カルトのように個々の家族成員を拘束して、一定のルー
ルのもとでの生活を強制し、個々人のプライバシーを軽視します。その被害をとくに受けるのが子ども
たちで、親から進んで拘束される「良い子」になりがちです。 彼らは窒息感を抱きながらも、家族か
ら離れられず、家族の現状を躍起になって守ろうとします。この努力が重ねられるうちに、子どもたち
は機能不全家族を維持し続けるための一定の役割にはまりこみ、それを演じ続けることになります。(
斎藤学後掲書87-88頁)
斎藤氏らは、子どもらしく子ども時代を過ごせなかったためACの人格の内部には「インナーチ
ャイルド」と呼ばれる子どもの人格が残存し、この「インナーチャイルド」を癒すことが重要であると
説く。それに対し、信田さよ子氏は、日本のACにおいては、親の支配が重要な役割を果たしているとし
て、日本的ACの人格内には「インナーペアレンツ」と言うべき親の人格が存在し、この「インナーペア
レンツ」との関係に決着をつけることが癒しにおいては重要であると提起する。信田氏のAC論には首肯
できないところも多いが、「インナーペアレンツ」の概念はあかりの癒しを考えるうえで便利な概念で
あるのでここで引用したい。
日本の場合には、多くが共依存的な親との関係を関係によるもので、「あなたを愛してるわ、期
待してるわ」という親の支配によって生み出されたACです。(中略)
それを気づかせてくれるのが、インナーペアレンツという言葉なのです。(中略)
インナーチャイルドはわたしの中にいる三歳の私ですが、インナーペアレンツというのは、い
ま私の中にいる親のことです。
それがいま清算されていて、もう親が私の中にいなければ、もしくはおとなしく座っていれば
いいのですが、いまだに私の中にいて私を支配し、私の人生に関わり続けていると苦しいのです。だか
ら、いま私の中にいるインナーペアレンツを、つまり私と親の関係を清算しましょうということです。
(信田さよ子後掲書138-140頁)
自分の人生と親の人生の間に線が引けるようになることです。(同前143頁)
あかりの癒しのやり方は、信田氏の提唱する「インナーペアレンツ」概念によるものではなく、斎藤
氏らの「インナーチャイルド」概念にもとづくものに近いと言える。しかし、「オレンジ色のノート」
に向かって自問自答するあかりの姿は、インナーペアレンツと向き合っているようにも見える。そして、
インナーペアレンツの清算にある程度目処がついたから、現実の親に向き合うことができるようになる
という過程を作中に見ることができるとは言えないか。
AC本に紹介される癒しの方法はいろいろあるが、その中で最も簡単に個人で取り組むことができるも
のとして必ずと言っていいほど取り上げられるのが、作中の「オレンジ色のノート」のように、自己の
これまでの人生を文章にすることで自分の思いや考えを整理し、自己認識と自己総括を深めていくこと
である。このとき、その文章の形態はいろいろでありえ、カウンセラーや医師はその相談者に見合った
形態でそれを行うように助言する。その意味では、本作の「オレンジ色のノート」のあり方は、陳腐と
は言えないまでもオーソドックスに過ぎるきらいがあるような気がする。人によっては、作中でのよう
にストレートに独白調で文章を書いていくことができない場合も多いし、他の形態(例えば、過去の自
分や誰かに当てた手紙など)で書いた方が癒しとして効果が大きいこともある。小説としてのふくらみ
という点から言えば、もっと別の形態であかりが自己総括を進めることもあり得たのではないだろうか
。
世代論に関連して言えば、僕やあかりよりやや上の「新人類」世代(60年代前半の生まれの世代)か
ら下の若い世代は「総AC化」しているというのが僕の持論である。この世代の少年時代には日本社会に
おいて急激に都市化が行われ、核家族の孤立化が進み、地域共同体が解体し、大学入試への共通一次試
験の導入が象徴する受験競争が子ども全体を覆っていった最初の世代である。この世代から家族、地域
共同体、学校による3つのセクターによる教育システムが機能しなくなり、「学校化」(宮台真司氏)が
家族、地域を含む教育システム全体を特徴づけるものと言えるようになったのである(補注)。ちなみに、
幼女連続殺人事件の被告、オウム真理教の幹部を構成していた高学歴者、ジャンボ機を操縦させろと言
って機長が殺害されたハイジャック事件の一流大学卒の被告、「春菜ちゃん事件」の容疑者などがこの
「新人類」世代に属する。いずれの被告・容疑者も社会の中で孤立している「いい子」型ACで、不登
校・登校拒否と心のあり方に共通するものがあることに注目したい。それ以降の世代の犯罪の凶悪化や
性犯罪の増加(犯罪の総件数は増えていない中での特徴であることに注意)は周知のとおりである。
(補注)中西新太郎氏は、これに加えて70年代における消費文化の成熟を挙げ、これこそ、良くも悪くも
おとなになれない「新人類」以降世代形成を特徴づける点である、としている。中西新太郎『若者たち
に何が起こっているのか』家伝社、2004。
親の世代の活動家とあかりの世代の「活動家ジュニア」
あかりや僕の世代の一般的特徴は、別稿で僕の世代である「校内暴力」世代と現在の20歳代前半の青
年たちの「いじめ」世代の比較として論じたことがある(文末参考文献参照)ので、ここでは繰り返さ
ない。ここでは、僕の世代の「活動家ジュニア」の問題を検討したい。
あかりは僕と同世代だが、あかりの両親はあかりが高校生のときに退職しているから、僕の両親より
一世代上の世代と考えるべきだが、あかりの両親の世代経験は明らかではないので、そのことを留保し
ながら親の世代の考察としては、僕の両親について検討したい。僕の両親は60年代の青年活動家である
。僕が戦後第2の反動攻勢期の日本共産党の伸び悩みを嘆くとき、父は必ず「俺の若いときは共産党の
国会議員は数人しかいなかった」と言い、80年代の運動の到達がいかに高いものであるかを強調した。
僕にとっては、国会議員が数人しかいない政党に入ろうとなぜ思えるのかが不思議なのだが、しかし、
その時代には多くの青年が日本共産党に入党したし、青年学生イコール革新という図式が常識的でもあ
った。僕は青年学生イコール無関心・保守という青年時代を過ごしてきたからまさに「異世界」である
。
高度経済成長は階級構成その他の社会秩序を全面的に変えた。その最中にいた青年たちは、社会が変
わり続けるという実感と予感を持ち、未来に希望を持つことができた時代であった。これが前述した60
年代の明るさの内容であるが、その世相の明るさのゆえに得票において伸び悩んでいた日本共産党が、
その一方で凄まじいペースで党員拡大を成し遂げていったことも、この時代の明るさのゆえでもある。
上の世代の人に60年代の話を聞くとその世界が放埒と言っていいほど自由なのに驚く。60年代には、僕
には信じられない奔放さで人々は生活していた。「管理社会」に反発した「全共闘」世代(自覚的民主
勢力を含む)の闘争も僕には60年代的放縦と「管理社会」化の矛盾の爆発と考えないと説明できない。
「管理社会」(その日本的形態が企業社会)は60年代にはまだ成立途上であり、その成立に反対したの
が「全共闘」世代であった。
僕が青少年期を過ごした80年代には企業社会が確立していた。それは息が詰まりそうながんじがらめ
の世界である。僕の世代は言いたいことを言えずに過ごし、しかも言う能力を失わせる方向での教育を
受けた(あかりが黒沢と酒を飲むシーンで、あかりには心の中の叫びがあるが、これを口にできないメ
ンタリティが前者の例であり、あかりが自己の課題の発見に手間取ったのは後者の影響である)。享受
できる自由は支配層の許容範囲内であり、しかもそれが「自由」なのだと思わされて育った。このよう
な「自由」との引き換えに日本の大衆は企業社会化を受け入れたのである。
「活動家ジュニア」(僕の過ごした世界では「党員二世」と呼ばれた)は活動家の親に「自由に生き
ろ」と言われながら、いや、そう言われたがゆえに親の生き方に束縛された。貴子が「あかりが両親の
期待を背負って走り続けた背景は、彼らが『いい人』だったからよ」と表現したことは、そういうこと
なのだ。吉開那津子氏ら親の世代の活動家達が『世界の色をつかまえに』を読んでショックを受けたの
はこの事実の呈示であった。
僕の世代の民主的活動家には「二世」の比率が高い。一つには、反共の風潮が強い時代には反共意識
の低い層がまず運動に加わったということがあるだろう。もう一つには、親の世代に民主的活動家が非
常に多い、という事情がある。僕のいた大学には、民青同盟は不特定多数の新入生に対する無差別の同
盟員拡大活動をする力があったが、それをやってみると確実に何人かの「二世」に行きあたるのである
。街角で無差別に声をかけて活動家を探すことは、京都などを除けば不可能に近い。ところが、大学で
それをやると必ず「二世」が見つかるということは、その親の世代にいかに活動家が多いかを物語って
いる。しかし、その多くは民青同盟への加盟を拒否する。
「二世」の多数は、親に一応の敬意は皆払っている。ともかくも信念を貫く生き方には敬意を払うの
である。しかし、ある者は「親を見ていると、ああはなりたくないと思う」と言って親と同じ生き方を
拒否し、ある者は政治意識の面では民青同盟や日本共産党に賛同しながら「親のしいたレールに乗って
いるようでいやだ」と言って、民青同盟への加盟を拒否するのである。考えてみれば当たり前の思考で
ある。親の世代の活動家は、保守的な親に対して「ああはなりたくない」と言いながら活動家になった
のではなかったか。
もう一つ、若い世代の「総AC化」現象が「二世」の事情を複雑にする。僕は「二世」の民青同盟への
加盟拒否の言い分として2通り上げたが、この2つの態度の意味合いは似ているようで違う。前者は親と
違う生き方を選択するという態度である。つまり、親を絶対者としてではなく、一人の人間として見て
いる。つまり、親からの自立という発達上の課題において一定の到達を示している。80年代の空気の中
で比較的に健全に育った「二世」はむしろこうなるが当然とさえ思える。ところが、後者の場合は親が
絶対者として自分を支配していることを暗黙のうちに認め、その支配を嫌っているのである。上の世代
では思春期の反抗期に感じたことを、僕の世代の「二世」達では大学入学の段階(つまり18歳以上)で
感じていることになる。そして、作中のあかりが大学院進学・留年後にまさにこの段階にいるのだ。
同じことの裏側を見れば、また別の現象がある。親と距離をとるために運動に加わらない青年がいる
ということは、親と距離がとれていないために(すなわち、親に支配されているがゆえに)運動に加わ
る青年が現れるということになる。つまり、親からの自立の課題を積み残してきたがために平和・民主
運動に参加する青年がいる、という逆説が事実として存在するのである。前に、あかりは民青同盟が学
園で公然とした活動を行っていたらその運動に参加していただろう、と書いた。しかし、それはあかり
が親のために生きることを無意識に選択することを意味するのだ。そのとき、あかりはまた違った苦悩
をかなり早い時期に余儀なくされただろう。
「二世活動家」はこの問題をクリアしなければ、一人前の活動家になれない。社会変革をめざす生き
方は、人の生き方を変えることをめざす生き方であるから、当然自分の生き方が本当に自分のものにな
っているか否かも問われる。結局この壁をクリアできないまま運動を離れることになった者も少なから
ずいた。彼らは親と違う生き方をとることによって自立への戦略を再構成するという選択をしなければ
ならなかった。
学部生時代に学生運動をすることのなかったあかりはこの成長上の壁を院生になってから、つまり事
実上の職業選択を一旦してから自覚しなければならなかった。僕自身の体験からしてもこの壁は厚く、
今なお破れないでいる。あかりと違って、僕は「何をなすべきか」に迷うことは思春期に終えていた。
しかし、本格的に活動を始めた学生時代から、成年として学生運動に加わる中で「いかになすべきか」
に迷い、あかりと同じような職業選択での挫折を経験することになる。親の世代の活動家たちは、その
親からの自立の道を模索する中で科学的世界観に到達し、社会変革を志す生き方を獲得した。しかし、
「二世」たちは科学的世界観が親から与えられた世界観となる。つまり、乗り越えるべき非科学的世界
観を与えられないために、科学的世界観の主体的な獲得が親から与えられた世界観の否定として行われ
ることにはならず、いわば否定の否定として、すなわち科学的世界観の再獲得として行われねばならな
い。否定を重ねねば、科学的世界観を自己のものとできない、という困難に「二世活動家」は立ち向か
わなければならない。「二世」たちは、理性のレベルでは科学的世界観に納得したとしても、感性のレ
ベルでは、自己の世界観に親の影を見なければならないのである。貴子が、あかりが両親のために生き
たのは、彼らが「正義の人」だったためだと指摘したことは、実はこういうことなのだ。しかし、「二
世活動家」たちが否定の否定の過程をへて科学的世界観の再獲得に向かうならば、その確信は相当に揺
るぎないものとなることも見なければならない。課題が困難であるということは、その課題をクリアし
たときの成長も大きいということである。あかりは作者旭爪あかね氏の分身と見られるが、旭爪氏が『
世界の色をつかまえに』を書かねばならなかったという必然性は、「活動家ジュニア」の成長の課題の
複雑さにあることを理解せねばならないだろう。
「社会主義の崩壊」と社会科学・社会主義経済学
あかりの学問的到達点もさりながら、あかりの悩みが実は従来の社会主義経済学の問題をも語ってい
るのだが、あかりも作者もその点には無自覚である。日本の科学的社会主義は、運動の局面においては
理論的にも早くからその自主性を確立していたが、ことアカデミズムに関しては、理論的自主性の確立
について曖昧なまま時間を経過させてきた、という実情があった。社会主義経済学については僕は専門
外だからあまり深くは立ち入ることができないが、既存「社会主義国」の実証分析においては批判的研
究も蓄積されてきたため、作中のあかりの指導教官の橘のようにさしたる動揺も見せなかった学者はか
なりいた。しかし、そういう学者を含めて、社会主義経済学の原論部分はなおソ連・東欧の経済学説
の紹介が大きな要素となっていた。原論と実証研究の乖離という、アカデミズムの社会科学界にはよ
く見られる現象の矛盾が、現実世界の激動によって社会主義経済学では直接的に問われた。したがって、
東欧・ソ連の「社会主義」政権の崩壊は、民主的知識人の一部に大きな動揺をもたらすが、社会主義経
済学の分野については、その動揺もより先鋭に起こったのである。
作中では、あかり自身がそうした動揺の中にいる。「社会主義国」に幻想を持っていた、という点で
は、あかりの世界観的苦悩はむしろ上の世代のものと共通する。ソ連・中国には批判的でも、「労働者
自主管理」と「自主独立」「非同盟中立」を掲げた旧ユーゴスラビアに、あかりのように期待と幻想を
持っていたという人も上の世代には多かった。もちろん、僕と同世代の活動家で、あかりと同じ動揺を
した者も少なくなく、その多くが運動を離れていったが、「確信派」というべき部分の動揺は小さかっ
た。その時期を学生運動の中で過ごした僕自身は、「社会主義国」への幻想など崩壊の前に既に払拭し
ていた。ソ連型「社会主義」の批判を的確にしていないと僕たちの運動はたちいかなかったからだ。旧
ユーゴにしても、その一党独裁を崩すことはなかったということから、その「自主管理社会主義」にも
僕はさして期待はしていなかった。東欧・ソ連の「社会主義」の崩壊は、人民が歴史を動かすことの実
例として僕はとらえ、「ベルリンの壁」の崩壊に喝采し、戦車に上って演説するエリツィンに声援を送
った。崩壊に続く資本主義化の嵐に幻滅を覚えなかった訳ではないが、大衆が「社会主義」に背を向け
る光景には既に慣れっこだった。僕は、「社会主義」政権の崩壊を史的唯物論の典型的例証だと思い、
科学的社会主義への確信をむしろ深めた。そして、(「社会主義」を忌み嫌って育った同世代の者たち
はともかく、共産主義者・マルクス主義者として長年を過ごしてきた人々、特に知識人たちについて)
動揺する者たちには、「あなたがたの科学的社会主義の理解はその程度のものだったのか」という驚き
と軽侮を禁じ得なかった。学問における対外自主性が左翼知識人において2度目に(初めて試されたの
は70年代以降の戦後第2の反動攻勢期であった)より厳しく試されたのが東欧・ソ連の「社会主義」の
崩壊という現実であった。理論的には、ソ連崩壊前の理論で言うところの「社会主義生成期」論をどれ
だけ消化できていたかが問われた。多くの左翼知識人たちが「転向」していくのを僕は苦々しい思いで
見ていた。
社会主義経済学は、その理論的総括を問われていたはずだ。日本の社会主義経済学が原論部分では
頼りにしてきたソ連・東欧の経済理論とは何だったかが問われなければならない。若手研究者の黒沢は
ともかく、定年間近の橘には、作品からうかがわれるかぎりではそうした痛切な思いを持っているよう
は見えない。この様子では、あかりの世代の若い研究者で、あかりのように社会主義を真剣に信じてき
たような者を育てられるわけがない。反動知識人や「転向」した知識人から、進歩的知識人の学問的責
任を問う声があがったが、彼らにそう言われる筋合いはないとしても、節を曲げない知識人は自らの問
題としてその過去の学問的営為を点検する必要があり、それは手探りの状態で混乱も伴いながら既に始
まっている。
あかりは、こういう広い視野からは程遠い。黒沢は明らかにその辺りを視野に入れている(これは
「活動家ジュニア」であることが長所になっている)が、本作からは橘にそういう問題意識があるかど
うかさえ不明である。作者自身が社会主義経済学の抱えるそうした問題を対象化できていないことに僕
は不満を感じるが、それは無い物ねだりなのかも知れない。
作中に見られるアカデミズムの民主的研究者養成の危機
読者の中には、文中のあかりのボロボロの論文報告を読んで、旧ユーゴスラビア経済についてあかり
は十分に詳しいと感じられた方もいるだろう。木下とのやりとりも理解できない部分が多いことだろう
。しかし、学界で大家と認められている者の教科書的概説ならともかく、あの程度では修士課程の院生
の論文には到底なりえないことは、作中の橘の言葉からもあかり自身の落ち込みようからも明らかであ
る。作中でも触れられるように、院生の学術論文というのは事実上「重箱のすみをつつく」ような研究
でなければならないのがアカデミズムの現実である。そうすれば養成されつつある駆け出しの研究者の
院生でも、着実に業績をあげられるからである。同じ専攻の隣席の院生との研究交流が、研究対象分野
の違いによってままならないことすら珍しいことではない。隣の研究室の院生ともなれば、互いの研究
は完全に他人事となってしまうだろう。学問の世界の専門分化、いわゆるタコツボ化はそこまで進んで
いるのである。
僕の狭い体験と見聞によれば、現在のアカデミズムによる民主的研究者養成は危機に瀕している。作
中の橘の態度は、「口も出さないが指導もしない」というもので、現在の研究者養成にあたる進歩的傾
向の大学教官の典型的なものである。そうした現在の大学の指導教官の世代(これはここでは橘より下
の世代を指す。橘の世代の多くの教官は押し付けがましい指導をしてきた)は、院生時代には、当時の
指導教官の押し付けがましい指導に抵抗したり、場合によっては拒否したりもしながら論文を書いた。
当時はタコツボ化も現在ほどは進んではおらず、学問のステージも違ったのでそれが可能だった。現在
では、前述した時代状況を反映して、若手研究者の問題関心にいわば「オタク化」が進行していて、そ
して「専門オタク」の方がタコツボ化した学界に適合的であるという事情がある。あかりのように、比
較的大きな問題意識を持つ者(僕はこれでも小さいと思うが)は、かえって論文を書くための問題点を
発見しにくい。僕の同世代には、「オタク化」して論文を書いたものの、問題意識が持続せずに研究者
への道をあきらめた院生も少なくなかった。これも一種の世代間ギャップだが、その状況を自覚してい
た民主的大学教官は、少なくとも僕が大学院に在籍した当時は希有の存在だった。彼らにとっては「学
力の低下」を嘆くのが精一杯で、それでは事態の打開にはならない。これは民主的研究者の養成にあっ
て深刻な危機であると僕は考えている。
作者やあかり自身が、橘の助言を「あたたかい」と評価したとしても、僕にはそうは感じられない。
その助言は「オタク化」の勧めでしかなく、全人格が問われているあかりの抱える課題については何ら
の解決も与えないからである。民主的研究者の養成をめざすのであれば、アカデミズムの現状に適応す
べきことを説く場合でも、それが「オタク化」の勧めにならないようにする責務が、上の世代の民主的
研究者には最低限求められるのではないか。
人間の成長におけるコミュニケーションの役割
あかりの模索と成長にとって、重要な役割を果たしているのは貴子の存在である。黒沢があかりに
「いい友達がいるみたいじゃないか」と声をかける。ACなどの癒しにおいてオーソドックスに重要な位
置を与えられるもう一つのものがカウンセリングであるが、あかりにとって貴子は絶好のカウンセラー
としてあかりの癒しを支えていく。
作中では貴子の存在は所与のものである。あかりと貴子が仲良くなっていく経緯は説明されているが
、その必然性は必ずしも明らかでない。本稿では、あかりの直面している課題は広く若い世代に共有さ
れているものとして論じているが、そうした若い世代の多くは、あかりにとっての貴子のような存在を
得られていない。若い世代では、(男女関係と同性の関係とでは違うとしても)最も親密なはずの夫婦
関係でさえ、作中のあかりと貴子のような人格的コミュニケーション関係を築けない場合が多い。総じ
て若い世代が本稿で論じたような課題のクリアに必ずしも成功していないのは、このような人格的コミ
ュニケーションが不得手なことが最も主要な原因だと僕は考えている(詳細は文末参考文献の拙稿を参
照)。したがって、僕の問題意識からすれば貴子の存在が所与の前提であることにはやや不満である。
あかりが自己の成長の課題を自覚する過程では、貴子だけでなく、あかりの先輩の黒沢や貴子の後輩
の酒井との人格的コミュニケーションが大きな役割を果たす。「弱くてちっぽけだから、押し潰されな
いためにはみんなして現実の枠そのものを壊すしかなしんじゃないのか」と黒沢は言う。この言葉は、
社会変革における連帯の意義を簡潔に表現していると僕には思われる。特に進歩的知識人たちは、お題
目のように「個の自立」を唱え、社会運動について「自立した個の連帯」(「個の自立→連帯」の論理
)を唱える(注)。しかし、これは資本主義法が抽象的な個人を権利主体としていることによるイデオロ
ギー的呪縛であると考える。社会運動と変革の事業の現実は、黒沢の言うとおりであり、スローガン化
するならば、「コミュニケーションと連帯を通じた個の自立」(「連帯→個の自立」の論理)が社会変
革の運動の発展の主体的条件となるのではなかろうか。
(注)このスローガン自体が必ずしも理念的に誤っているとは思わない。ただ、それが「ねばならない」
という規範論を現実にあてはめようとすることによって、社会運動のあり方に否定的な影響を与える場
合があること
に注意する必要から、ここで批判を加えることとした。例えば、薬害エイズ訴訟支援運動の先頭に立っ
てきた小林よしのり氏が日本の侵略戦争を肯定するほどに右旋回をしたことの直接のきっかけは、彼の
「個の連帯」の理念が幻想であると自覚されたことにあることを想起せよ。小林よしのり『新・ゴーマ
ニズム宣言スペシャル 脱正義論』幻冬社、1996。
先に指摘した「総AC化」状況を克服するためには、本作に見られるような濃密な人格的コミュニケー
ションが全社会規模で展開される必要がある。人間の生き方を問う平和・民主運動の前進は、こういう
点でも重要な責務を負っているのではないか。その中でも、諸人格の葛藤を描くことをその使命の一部
とする民主主義文学運動の役割は特別なものでなければならない。
結び 「世界の色」は世代によって違って見えるのか?
最後に表題の問題提起に戻ろう。唯物論の認識論によれば、「世界の色」(この語の使用法が作中の
ものとズレがあることはご容赦願いたい)は客観的に存在するのだから、実践を通じてその認識を深め
ることができる。しかし、そのことは実践に何らかの盲点があるならば、人によって「世界の色」が違
って見える、ということを否定しない。だが、それは誤った見方をしているからであって、「世界の色
」そのものが客観的に認識できないことにはならない。
本稿の中で繰り返し指摘した世代間ギャップは、多くの場合自覚されていない。問題が自覚されねば
、「世界の色」が違って見えている現状を是正すべくもない。若い世代の成長の課題が何であるのかを
上の世代は把握する努力をすべきだろうし、若い世代は上の世代の時代感覚を把握して、自分たちの言
いことを上の世代に伝える努力をすべきである。
参考文献
五十嵐仁「日本の政治はどう変わるか」同『政党政治と労働組合運動』御茶の水書房、1998
植田謙一「当世青年論試論」『唯物論と現代』22号、1998
小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中央公論社、1978
斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』学陽書房、1995
『日本民主青年同盟の70年』日本民主青年同盟中央委員会、1997
信田さよ子『「アダルト・チルドレン」完全理解』三五館、1996
宮台真司『制服少女たちの選択』講談社、1994
吉開那津子「旭爪あかね『世界の色をつかまえに』に描かれた世界」『民主文学』1999年6月号
渡辺治『企業社会・日本はどこへ行くのか』教育史料出版会、1999