人間への愛情と不信と諦観と

〜映画『もののけ姫』の苦悩と史的唯物論〜


 本稿は、関西唯物論研究会編集の雑誌『唯物論と現代』No.24 (文理閣発行、 2000年1月)に発表したものです。原文どおりupしています。HPへの転載を快諾してくださった 発行元の文理閣には謝意を表したいと思います。
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    <目次>
はじめに  『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』
「人間」と「自然」の内部矛盾
「人間」と「自然」の共存への展望をめぐって
「人間」観の「分裂」に見る制作者の苦悩 〜人間嫌いと人間への愛情と
「理想郷」タタラの設定の陥穽  〜キャラクター設定の問題にもかかわって
結び  展望を持てないことの利点の検討も含めて

はじめに 『風の谷のナウシカ』と『もののけ姫』

 『もののけ姫』の魅力はその圧倒的な迫力である。「何のことかわからない」とぼやいている人も 少なくないのだが、そうした人達のかなりの部分もそうした迫力を感じている。その迫力の正体は何 か。結論を先に言えば、それは制作者の危機感と苦悩と問いかけ(それは残虐表現の問題性をも含ん でいる)が、高度な総合芸術として表現されているからである。
 誰もが言うように、本作品は「自然」対「人間」の対立の図式が底流にある。それは、かつて同じ 宮崎駿監督による『風の谷のナウシカ』でも見られた図式である1。 『ナウシカ』では、「自然」は一体のものとして神とほぼ等置されるが、「人間」は「文明を弄ぶ者 =権力者」と「自然に生きる者=民衆」に二分され、「民衆」の中から現れた救世主による「自然」 と「人間」の融和という、明解な図式であった。そこには、ハッピーエンドを望む観客への興業的迎 合のみならず、制作者の願望があった。
そういう『ナウシカ』に対して『もののけ姫』では、その図式は単純ではない。「自然」 の内部にも「人間」の内部にも深刻な矛盾があり、それが「自然」と「人間」の矛盾をさらに激しく しているという問題がある。ここに現実の環境問題をはじめとする社会問題を見る制作者の鋭い洞察 と深い苦悩を見るのである。監督の宮崎駿は「そういう映画をつくるにあたって、現代に向けてのメ ッセージは」という問いに答えて、「全然ない」「『自然にやさしいジブリ』で終わりたくなかった」 「人間のやってきた事の業というか、文明の本質にある攻撃性とかが見えてくる。散々、相手を痛め つけて、おとなしくさせてしまっ てから、『周りに残った者に優しくしよう』と言っているに過ぎない」と語っている2。 ここに宮崎の苦悩が集中的に表現されている。彼の矛先は「人間」にある。しかし、なお捨て切れな い「人間」への愛情も『もののけ姫』は表現していると思われる。このことに関連して、広く物議を かもした残虐表現の問題があり、この点も本稿の検討課題となる。
 『ナウシカ』の時点と『もののけ姫』の時点で宮崎の思想の根本が変化したという想定は、とるべ きではない。この間の宮崎の発言の趣旨はあまり変わっていないからである3。 だが、この十数年の「成功」が、前述のインタビューのような「『自然にやさしいジブリ』 で終わりたくない」という意気込みを生み出していることも見落とせない。

「人間」と「自然」の内部矛盾

 とりあえず、登場する者たちを「人間」と「自然」とに大別して整理してみると以下のようになる。

 人間  タタラ者 アサノ公方 師匠連 
 自然  シシ神  犬神  猪神  猩々

 まず人間界を見ると、そのいずれの集団も自然に敵対することは共通するが、我々が共 感をもって見ることができるのは、被差別最下層の民衆が、エボシ御前の指導の下に自力でたくまし く生活するタタラ場である。しかもタタラは女性上位の共同体であることにも注目すべきである。そ して、タタラの鉄生産力を狙うアサノ公方は、再三タタラに攻撃を仕掛けてくる。師匠連は、アサノ 公方と対峙するタタラに、武器や権威による支援を行うことと引き換えに、シシ神の首を狩るのにタ タラを利用しようとする。師匠連の背後には天朝(ミカド)がいて、この天朝がシシ神の首を欲しが るのは「不老不死」を求めるためであることも明らかにされる。しかし、自然との対決の最前線で直 接に自然を破壊しているのはタタラである。
 次に自然界を見ると、シシ神を頂点にしながらもその内部も矛盾に満ちている。シシ神の側近とし てシシ神を守ろうとしてタタラ者たちを攻撃するする犬神。人間の侵略に耐えられず、シシ神の意向 に不満を表明し、「人間」=タタラへの突撃、すなわち自滅を選択する猪神。猪神集団の内部では、 怒り狂う下部の者を制止できないリーダーの悲哀も描かれる。そして、犬神がシシ神を私物化して人 間との対決路線をとったことが禍をもたらしたとして、犬神を非難する猩々たち。人間との距離をど うとるかについての争点を軸にした自然界内部の矛盾も単純なものではない。
 宮崎駿は、どの時代のどの国の話かということがわからないような設定がいい、と本人の口で語っ ている4。『もののけ姫』も室町時代の日本ではあるらしい 5が、時代も背景も明らかでないところでは、このことを踏襲し ている。時代も国も不明、ということは自由な設定を可能にするだけでなく、現在との関連において も自由になれる。つまり、現在を自由に「料理」することが可能になる。
 現代社会は深刻な矛盾に直面している。宮崎駿の視点、つまり環境問題を中心とする現代社会の矛 盾を表現しようとする努力を、僕は『もののけ姫』の中から読み取る。それは、 人間社会とその文明が持つどうしようもない業病として宮崎にはとらえられている。そして、それが 具体的に何を表現しようとしているかを図式化してみよう。
 一般に、社会の土台は民衆が経済活動を行うことにある。指導者の役割は、経済活動を組織・指導 し、あるいは直接的な経済活動ではないこと(芸術・科学・思想など)に従事することにあったが、 次第にそれが階級分化へとつながっていく。そこから家族、私有財産、国家といった社会制度が階級 差別とともに登場するのは、エンゲルスが名著『家族・私有財産・国家の起源』で明らかにしたとお りである。そこに発生した支配階級の権力は、 支配階級の所有物であるかのようにあらわれることから、階級差別は単なる役割分担にとどまらない ものとなり、その矛盾は階級闘争としてあらわれる。
 『もののけ姫』の世界では、タタラ者は権力から完全に自立している 6。 カリスマ的指導者のエボシに、タタラの「力」を私物化しようという私心は見られない。「自然」と の関係を抜きにして考えるならば、『もののけ姫』のタタラ場はまさに理想郷である。しかし、タタ ラは自然を破壊することでしか生きられないようである。現実には、タタラのような理想郷は存在し ない。だが、自然を破壊することでしか生きられない民衆の姿を、発展途上国の人々に重ねるのは、 宮崎自身がそうするように容易にできる7。かなり姿は異なるが、 日本の民衆も実は同様の生活を余儀なくされている。
 「自然」の内部矛盾は、他者に侵される者がどういう対応を取るべきかの矛盾を象徴的に明らかに している。侵略者への反発から暴力的行動をとる者(猪神)、反対に侵略者と闘わず、侵略者の力を うらやむ者(猩々)に分かれる。シシ神は、絶対者として振る舞う責務を負うために、特に侵略者へ の憎悪に狂う猪神を満足させることができない。シシ神の側近の犬神は、本来シシ神が負うべき非難 を「君側の奸」として一身に受けることになる。
 全体として、「人間」が自己保存=エゴを中心とした存在とされ、「自然」が理性的な神の位置を 与えられており、そしてその中でシシ神は全能の神の位置を与えられている。したがってその内部矛 盾は、人間の現実社会の被支配民衆の内部矛盾と同一視することはできないが、そのアナロジーとし てとらえることは可能となる。猩々の姿に、大衆の多数派の姿を重ね、猪神の姿に、その怒りを暴発 させ、かつてはファシズムやニセ「左翼」暴力集団に、現在ではカルト宗教や小林よしのりらの「自 由主義史観」8にそのエネルギーを吸い取られている人々(その 多くは青年である)の姿を重ねることができる。そして、猩々の姿勢は被支配民衆の多数派の姿勢と 同じである。被抑圧者が、抑圧者に対して統一と団結を保って対抗することの難しさを表現している とも言える。

「人間」と「自然」の共存への展望をめぐって

 結局、本作によっては「人間」と「自然」の共存に具体的な展望は見いだされない。アシタカの 「自然と人間が共存することはできないのか」という叫びは、制作者自身の叫びでもあったろう。自 然と人間の共存について、制作者は悲観している。しかし、それでも人間を捨てることはできない、 という深い苦悩を『もののけ姫』に見るのである。宮崎は、 言葉では人間というものに対して冷めた目で見ているかのように言っているが 9、 『もののけ姫』制作者の目は人間の最下層民衆に対して、暖かい目を向けている。
 史的唯物論の観点に立つわれわれから見れば、『もののけ姫』は、鋭い問題提起には成功したが解 決策を示せなかったと言うことができる。このことについて、僕は二通りの視角を持っている。ひと つは、解決策を示すべきだという視角である。この論点はもう一度、 後に検討するが、『もののけ姫』の制作者に具体的な解決策の提示を求めるのは実はないものねだり である。史的唯物論は、人間を中心に、人間の生活活動を自然にはたらきかけるという関係で自然と 人間の関係をとらえ、そして人間の社会を経済的社会構成体としてその発展の原動力を階級闘争に求 める10。人間対自然の問題としてとらえる場合には、その人間と はその時代に人間が構成している経済的社会構成体のことであり、抽象的な人間一般ではない 11。ところが、監督の宮崎は、常に「人間」を権力者と民衆とに 区別しているだが、史的唯物論の観点を拒否して、問題の中心点は権力者の問題のみにあるのではな く、民衆を含む「人間」一般にあるととらえようとする。
 宮崎は、ハイチの民衆が自然を破壊しないと生きられないという具体例をあげ、「軍事独裁政権が 悪いとか民主主義がいいとか言ってもだめ」と指摘している12。 実は、この問題はハイチ一国の民主主義では解決できない、国際的な民主主義の問題領域に属するも のであり13、宮崎にはそうした問題の全貌を階層的にとらえ る視点を持ちえておらず、その意味では、宮崎の心情に苦悩や諦観だけでなく絶望すらあるのはむし ろ当然かも知れない。
 僕のふたつめの立場は、制作者の苦悩は日本の大衆のかなりの部分に共有されているのだからこそ、 大衆14の共感を呼ぶことができたのだ、という視角である。すな わち、日本の大衆の多くは、環境問題を「人間」と「自然」の対立ととらえているから、制作者の問 題設定を容易に受け入れ、作品に共感したのである。また、これに関連して、解決策が持てないから こそ、単純でない構図を作品世界の中に持ち込むことができたのではないか、という論点も提出して おきたい。史的唯物論を「みちびきの糸」とするわれわれのように、 具体的イメージをもった解決策を持っている者はごく少数である。多くは、現代社会の環境問題や人 間疎外に危機感を持ちながらもどうすればいいかわからない、というところであろう。
 それなのに、制作者側があらかじめ用意した解決策を提示して、大衆の共感を呼ぶことができただ ろうか。宮崎が史的唯物論の観点に立たないのは、それを知らないからではない。彼は「学生時代に 書物で社会主義というものに触れて、これしかないんじゃないかなと思った時期があり」その後も 「心情的左翼であった」とし、ソ連崩壊を受けて「マルクス主義ははっきり捨てました」「唯物史観 も間違いだ」と明言している15。史的唯物論の観点が彼の実感 に合わないから、かなりの程度知っていて拒否しているのである16O。 自覚的民主勢力の主張は、ときとして「きれいごと」として大衆の中で共感を持ちえないことがある。 映画を感性でとらえる大衆が、われわれの解決策を、それが粘り強い営為を必要とするだけに、「き れいごと」「絵に描いた餅」ととらえる可能性はある。それを克服するのには、非常に高い芸術的水 準が必要となる。この点については後にもう一度検討することになるだろう。
 『ナウシカ』は「お伽話」であった。だから、一人の救世主に託して、明確に希望を描くことがで きた。しかし、『もののけ姫』は「寓話」である。制作者は、自分の苦悩に満ちた認識をそのまま示 すことの方を選んだし、それは制作者のメッセージを伝えるのに、現実にかなり成功したのである。 実際に、『ナウシカ』は「自然に優しいジブリ」の典型ととらえられ、多くの観客はそのエンターテ イメント性に魅力を感じるにとどまり、「自然に優しい」とはどういうことかを観客に問うことはで きなかった。『ナウシカ』では「自然を大切に」という単純な勧善懲悪の論理しか感じることはでき ない。それに対して、『もののけ姫』は、「よい人間が森を焼き払う」 17 という構図になっていることで、何かはよく分からないけど確実に自分に向けられている批判の刃を 観客に突きつける力を持っている。少なくとも、現在の日本では政治的民主主義がまがりなりにも機 能しているという側面から見れば、このことはむしろ積極的に評価すべきであろう。この現実を前に、 先のひとつめの視角だけに固執することは近視眼的であると僕は考える。

「人間」観の「分裂」に見る制作者の苦悩 〜人間嫌いと人間への愛情と

 宮崎は人間とその文明への不信と諦観と絶望を繰り返し表明している。『もののけ姫』においても、 その制作者は環境問題をはじめとする社会問題の解決への展望を悲観しているのは前述した通りであ る。
 宮崎は、「人間生存の本質には残酷な部分がある」と語っているし、「文明の本質にある攻撃性」 にも言及している18。制作者は作品の含む残虐性や暴力性が物 議をかもすことであろうことは当然に予測し、そしてあえて意図的に残虐性や暴力性を作品の中で一 貫して強調し、そこで「残酷な部分」や「攻撃性」の一端を表現しようとしたと思われる。
 しかし、その一方で宮崎のこれまでの作品群は、さまざまな形での人間賛歌であった。『もののけ 姫』もその例外ではない側面を持っている。特にタタラ場の描写は民衆の生活を活写しており、その 生命力の肯定的印象は強い。
 このタタラ場の描写には、「よい人間が森を焼き払う」という構図を表現するということが、作品 全体の中で与えられているのであるから、これは「自然」と「人間」の矛盾を際立たせるという効果 を持つ。制作者は問題の困難性を強調するために、あえてタタラ場を「理想郷」として設定したので ある。
 ただ、タタラ者たちへの愛情がスクリーンからにじみ出ていると感じるのは僕だけだろうか 。僕はそこに、制作者の「人間」観の「分裂」をさえ感じる19。 その分裂は、イノセント(無知)な大衆への不信とイノセント(無罪)な民衆への愛着の表現である。
 ただ、個別の残虐シーンと映画全体で表現される残虐性ないし暴力性についての評価は、 区別されねばならない。率直に言って、『もののけ姫』の残虐シーンによってかなりの良心的な人々 が重大な衝撃や疑問を感じたのには、僕は批判的である。作品全体の積極性をそれによって否定しか ねない勢いすら感じられたからである。しかし、そのような人々の立場に寄り添ってみれば、そのよ うな衝撃や疑問を与えてまで、あえて挿入せねばならない性格のシーンであったか、という疑問も個 々のシーンについては感じる。
 しかし、全体を貫く残虐性や暴力性については両義性があると考える。現実の人間社会の残虐性の 告発としては十分に有効であり、必要な要素とさえ評価すべきである。また、冒頭に指摘した圧倒的 な迫力の一部をこの残虐性や暴力性が構成しているのも明白である。 そういう意味では、残虐性や暴力性の表現は、観客への警鐘としてむしろ積極的な評価をすべきであ ろう。ただし、史的唯物論を是認しない制作者は、現実の社会構成体の残虐性を人間生存の本質の残 虐性にすり替えてしまっている。そこから、作品の基調にある残虐性や暴力性は、人間全体への不信 の表明として、展望が見えないことの重苦しさや苛立ちの表現ともなっている。
 一方で意識的に人間生存の残酷な一面や文明の攻撃性を表現しようとしていながら、他方では最下 層民衆のタタラ者やアシタカの描き方がいきいきして、その部分では人間賛歌の側面さえ感じさせる。 この「人間」観の「分裂」は、階級社会の現実に由来するものである。そして、現実の階級関係は複 雑なものであることを『もののけ姫』は表現している。しかしその階級関係を充分に表現していない ことが、史的唯物論を否定する方向での階級社会の過度の単純化につながっているのである。

「理想郷」タタラの設定の功罪 〜キャラクター設定の問題にもかかわって

 タタラを一種の理想郷としたところに、まずこの作品の功罪両面があることを指摘したい。
 この設定が、「よい人間が森を焼き払う」という形で、「人間」と「自然」は和解不能なものにし てしまったのである。現代の現実世界では、民衆が自立的に生産活動を行うことはなく、必ず権力者 による指導・命令が不可欠となっている。現代の階級社会では、権力者(=支配階級)は、民衆(= 被支配階級)の「力」を私物化している。そして、支配階級の私的利益追求を自己目的として、生産 活動が無政府的に行われることが自然破壊をもらしているのが現代世界の実態なのである。つまり、 環境問題は資本主義の基本矛盾で言うところの社会的生産と資本主義的取得の矛盾として、また史的 唯物論の定式で言うところの生産力と生産関係の矛盾としてとらえられねばならない 20。すなわち、そのあらわれである社会的生産の無政府性が、 マルクス、エンゲルスの時代よりもさらに生産力が飛躍的に拡大する現代資本主義においては、人類 の生存をも脅かす地球規模の環境問題としてもあらわれるようになっている。利潤追求と生産の無政 府性こそが、温暖化原因物質や有害物質の無制限な排出や自然破壊につながっている。だから、各国 政府による温暖化原因物質や有害物質の排出規制や開発の規制――計画化が具体的な問題となってい るのだ。「“大洪水よ、わが亡きあとに来たれ”これがすべての資本家および資本家国民のスローガ ンである」とはマルクスの名文句である21が、資本は文字通り自らの生産力を自らで制御できず、環 境問題の解決への努力は自動的には進まないのは温暖化防止国際会議の難航を見ても明らかである。 環境問題の本質を「人間」一般や「文明」一般の本質に求めることは、現実の環境問題などの社会問 題の解決には役に立たないことを知るべきである。人間も自然の中から生じた生物なのであるから、 自然破壊は当然に環境破壊として、人間にはねかえってくる。その意味では、環境破壊のみならず、 直接には人間環境とは言えない自然破壊に対しても敏感に反発する現代の民衆の感覚は、類的本性と しての共同的社会性22と同根のものである。つまり、対立項は「自然」対「人間」ではなく、支配階 級対被支配階級となるのが史的唯物論の観点からは正しく、これは資本主義の基本矛盾のあらわれで あるプロレタリアートとブルジョアジーの矛盾としてエンゲルスによって把握されているものである。 権力を持たない民衆は、自己保存のために環境を守り、社会的共同性の発揮として自然を守ることに よって、自然の同盟者となって権力者と対決しなければ、支配階級を含む人間全体の存続が危ういの である。つまり、支配階級に私物化された被支配階級の「力」を、被支配階級の民主主義的圧力によ って生産と環境の両面から規制するということで、はじめて環境問題などの社会問題を解決すること ができるのである。なお、このことは資本主義の廃棄や人民の民主主義革命なしには環境問題の解決 が不可能であることを意味せず、総資本としての現代資本主義国家も一定の環境政策をとることがあ りえるのは、「環境先進国」と言われるEU諸国の例を見ても明らかである。しかし、日本やアメリ カの政府が、国内資本家階級の言うなりに国際的な環境対策に抵抗し続けているのを見ても、EU諸国 でも特に製造業の資本家階級との力関係で環境政策が決定されているのを見ても、常に非支配階級の 側から民主主義的規制力を加えつづけねばならないのも明らかである 23
 この史的唯物論の観点を『もののけ姫』の世界に沿って表現しようとするならば、タタラを取り巻 く人々と別の所属であるアシタカとサンの目を通じて、「人間」と「自然」の単純でない対立構図を 描くという手法に限界があったのだ、と展望を描くべきだという立場からは言わねばならない。アシ タカはよそ者であり、タタラ場を取り巻く社会・自然関係にはほとんど関係がない。作中の「人間」 と「自然」の矛盾関係について、ある程度の距離をおいているがゆえに、双方の事情を理解できる者 である。サンは人間に生まれながら「人間」を拒否し、「自然」に属すことを望む。サンは、その対 立関係の中で「自然」の側に立って「人間」を攻撃する側にあるが、人間でありながら人間でない、 という彼女の位置がアシタカと情愛を交わすという関係を可能にする。つまり、2人の目線は「人間」 対「自然」の矛盾の泥沼には、かなりの程度傍観者の目線でありえるのである。アシタカの「自然と 人間は共存できないのか」という叫びもサンの「人間を許すことはできない」というこだわりも実は 感傷に過ぎない。
 宮崎のキャラクター設定では、アシタカは「一世一代の美形」なのである 24。宮崎作品の多くで、美少女と少年の清冽な愛情の交換がモ チーフとなってきた25。『もののけ姫』にもそのこだわりは同 様に生きている。しかし、「人間」対「自然」の葛藤の圧倒的なメッセージのせいで、アシタカとサ ンの愛は本作品では後景に退いてしまっていることもこの2人の存在の傍観者性を物語っているので はないか。従来、宮崎作品の中心をなしてきた美少年と美少女の愛が、作品の添え物になってしまっ ている。
 それでは環境問題などの社会問題を解決するのはどうすればよいか。これについては環境問題に取 り組む研究者や政策家などが具体的な解決のための政策を提示している 26。特に科学的社会主義をその視点に据えるものは、史的唯物 論をみちびきの糸に支配・被支配の諸階級と現段階の資本主義的生産様式を国際的にとらえる、とい う視点から明らかにされたものである。
 解決の展望を示すべきだという観点からすれば、エボシ御前がもっと重きをなした存在とならなけ ればならなかった。エボシは充分に制作者によって重要なキーパーソンとして扱われている 27のだが、この観点の求めるのはそのうえにさらにもっと重心 をエボシに移し、主人公の一人に加えるべきだったということである。貧しき民衆の指導者エボシが、 シシ神と手を結び、自然界内部の矛盾を止揚しながら、人間界の権力者たちを斥け、「自然」との共 存を図るという筋書きであれば、展望を描くのが可能だったのである。
 しかし、前述したように、これは宮崎駿にはないものねだりであったし、また、制作者のメッセー ジが説得力を持った所以であった。そして、傍観者の立場から描かれてあったからこそ、観客の立場 としても、無責任に「自然」の側に立つことが許されなくなり、観客に批判の刃を向けるという制作 者の意図が成功し、観客が自分の問題として環境問題をとらえようとする立場で、制作者とともに考 える立場に立つことができたということも無視してはなるまい。

結び 展望を持てないことの利点の検討も含めて

 『もののけ姫』を「寓話」として構想した以上、「お伽話」としての『ナウシカ』におけるような 幻想的結論を持つべきでないと制作者は判断したし、これが大衆の共感を呼んだし、そのことが制作 者の意図でもあった。
 大衆はともすればハッピーエンドを好む傾向がある。それに迎合すると安直な勧善懲悪劇に堕すと いう危惧が僕にはある。ハリウッド製の映画の多くがそのようなものとなっており、それが技術的工 夫による映像の美しさや迫力の追求に執着し、その物語性の追求が手薄になる傾向があるのはよく指 摘されるところである。そして、前述した展望を示すための筋書きは、作品を安直な完全懲悪劇にす る可能性を持っている。その筋書きをそのまま『もののけ姫』の趣向で描けば、確実に「痛快革命活 劇」になってしまう28し、また勧善懲悪の文脈に沿うような問 題の過度の単純化が行われてしまう可能性もある。このためにも制作者は明確にその方向を拒否して いるのである。「痛快革命活劇」では、少なくとも問題提起力は削がれてしまったのではないか。こ の疑問が僕からはどうしても離れない。作品に表現された苦悩や混迷こそがこの作品の魅力なのでは ないか、と。観客を揺り動かした芸術的迫力は、その混迷にこそ源泉があるのではないか。僕にはそ ういう思いを払拭できない。少なくとも『もののけ姫』の制作者においては、展望を示すのを拒否し たことが、高い質の制作の成功につながったのだということは、確認しておかねばならないだろう。
 しかし、なおかつ科学的社会主義と史的唯物論が探求してきた社会問題の解決への道筋は、芸術的 に表現することが可能だ、とあえて断言したい。安直な完全懲悪劇に堕せず、問題の複雑さを表現し、 なおかつそのメッセージ性を損なわない芸術作品を創作することは、非常なる困難が伴うことは言う までもない。しかし、不可能ではないのだ、と僕は内外の創作者たちに訴えて本稿の結びとしたい。

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