森実一広さんの思い出
1998年2月15日、当時の日本民主青年同盟中央委員長だった森実一広さんが亡くなった。その第一報を
聞いたとき、僕は言いようのないショックを受けた。民青同盟委員長としては、これからが本領発揮
だと期待していたこともあったが、他方で病気療養中だと聞いていて回復を願っていたところでも
あった。死因は「ヘルペス脳炎」だという。医学は門外漢だが、事実上の過労死だと受け止めた。
われわれの運動の至らなさが森実さんを殺したような気がしてならなかった。
森実さんについては、宮本たけしさんが
ブログで思い出を書いておられる。宮本さんが民青同盟大阪府委員長だったときに、森実さんが
同京都府委員長だったそうで、その頃の思い出が中心だ。僕は、学生時代にもっと密着して指導を
受けた立場から思い出を語ってみたい。
1987年に僕は大学に入学しているが、そのときの京大学生党委員長が森実さんだった。森実さんは
すでに大学を卒業し専従活動家となっていたが、僕が法学部の直接の後輩に当たる、ということも
あって、折にふれて大変身近にお世話になった。
僕は、政治的に早熟で、小学校高学年の頃にはすでに「主義者」気取りだった。僕はそういうところ
をプライドにしてきたところがあったが、森実さんはレーニンの社会主義イデオロギーの外部注入論を
紹介し、僕の経験は運動にとっては教訓化できないことを説き、僕の慢心を諫めてくれた。僕は
レーニン理論の基礎を森実さんに教わったと思っている。僕の社会科学の基礎は、森実さんと
学生学術サークルである社会科学研究会が固めてくれたと思っている。
印象に残っているのは、森実さんの指導の温かさである。僕が入学する前は、下回生の日和見的な
発言を
聞くと血相を変えるような人だったらしいが、僕が入学した頃にはそういうことはなく(おそらく
相当の努力をしたのだろう)、努めて温和に指導をしようとしていたようだ。運動がなかなかうまく
いかないときでも、われわれの運動にありがちな精神主義的にあおる、ということはせず、状況を
分析的にとらえることで、事態を打開しようとする姿勢が見られた。「運動が進まないといっても、
活動家がサボっていてそうなっているわけではないのだから、そこはよく考えてことを進める必要が
ある」といった趣旨の発言をしていたのが印象に残っている。これは、僕にとってはわれわれの運動
の現段階を見るときの視点として、重要な意味を持っている。
僕は2回生のときに、所属大学を離れた活動上の任務を負っていたが、その任務を長期にわたって
放棄をするという問題を起こし、所属大学での任務に復帰する、ということがあった。所属大学の
活動家たちは割と僕に同情的だったが、当時民青同盟京大地区委員長だった森実さんはそこに釘を刺す
ことを忘れなかった。「問題を起こして帰ってきているのだから、大学の組織としては君を『歓迎』
する、ということにはならない」と。厳しい言葉だったが、筋論だった。そういう筋を通す姿勢が、
その温和な人柄とともに印象的な人だった。
僕は活動上の困難があると寝込む、ということがときどきあったのだが、そういうときも根気強く
話を聞いてくれて、打開のあり方を一緒に考えてくれた。
プライベートでもお世話になることがあった。2回生の後期に僕は他大学の女性活動家と付き合って
いたのだが、彼女は前の彼氏との関係を整理できず動揺を繰り返し、僕を振り回すことになり、僕は
それなりに苦労を強いられた。ことの経緯を知った森実さんは、率直に彼女の人格上の問題点を指摘し、
僕に別れた方がいい、とアドバイスしてくれた。「恋愛は理性でするものではない」と即答を避けた
僕だったが、そのことを彼女に告げ、「反論できなかった」と僕が言ったことが、別れの直接の
きっかけとなった。反発した彼女は「じゃあ、別れよう」と売り言葉に買い言葉のつもりで、言ったが、
僕はそれを機に本当に別れることにした。僕が本気で別れる決心をしたことに彼女はあわてた
ようだったが、僕の決心は固まってしまった。当時の彼女は恋愛をするには、人格上の問題点が
大きすぎた。
彼女に執着した僕にはそれは見えなかった。そこのところを森実さんは指摘してくれたのだった。
この点では、僕は森実さんに感謝してもしきれないという思いを持っている。
3回生の時から、僕の森実さんについての記憶は途切れる。当時の学生組織は、
教養部(これ自体がもはや
「懐かしい」概念だが)対策が中心だったため、3回生の僕を直接指導する機会が減ったのだろう。
3回生以降、僕は苦悩をむしろ深めていくのだが、そのとき森実さんに相談ができていいれば、何かが
変わっただろうか?
その後、森実さんは民青同盟京都府常任委員、京都府委員長、中央副委員長、中央委員長と民青同盟
での「出世」の階段を登っていく。森実さんの親しい指導を受けた身からすれば、
それは自慢だった。
最後に森実さんに会ったのは、1997年の中央赤旗まつりのときだった。ややお疲れの様子が
気になったが、中央委員長ともなると大変だな、と思っていた。その後、森実さんは病に倒れ、
逝ってしまうのである。
僕は、民青同盟の方針に不確信を持つことも多く、森実さんが中央委員長だったときにもそれが払拭
されたわけではないが、森実さんなら今後、なんとかしてくれるだろう、という希望を持てたのも
事実だ。その希望が、森実さんの死によって断ち切られる、というのは何とも悲しかった。
その後、民青同盟中央は、90年代後半の日本共産党の前進という情勢の中で、
許しがたい路線をとることも
あった。青年組織というのは構成員が若いため、どうしてもある程度の動揺が出てしまうものであるが、
そんなとき、「森実さんが生きていたら」と思うこともあった。森実さんが健在であったら、本当に
民青同盟の方針がまともなものになっていたかはわからない。しかし、森実さんは僕の希望の星だった。
生きていたら、それこそ日本共産党を背負う人材になっていたに違いない、という思いもある。
日本共産党と民青同盟の前途を考えるとき、森実さんの死はあまりにも大きな損失だった
のではないか、という思いが僕にはある。それは、僕の森実さんへの個人的な尊敬とはまた別の問題
であるが。
厳密に言えば、唯物論者に「冥福」はない。森実さんの生きた証は、われわれ遺された者の中に
しかない。森実さんの遺志をどう受け継ぐか、が問われている。しかし、ストレスにあまりにも
弱い僕には、できることが少なすぎる。そのことの歯痒さを、森実さんならどう受け止めてくれる
だろうか。
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