<書評>荷宮和子『なぜフェミニズムは没落したのか』中公新書ラクレ
帯には「上野千鶴子にケンカを売る 80年代文化の功罪を徹底検証」と挑発的な売り文句が並ぶ。
上野千鶴子的フェミニズムには、僕はいろんな感情を持っている。女性解放や男女平等という主張
には、僕は当然のように共感を覚えてきたが、上野の極左運動の匂いのする、ある種のファナティ
ックさには反発も持っていた。また、上野の「マルクス主義フェミニズム」は、正しいマルクス主義
(僕の考える正しいマルクス主義については、他のページで論じていきたい)ではない、という思
いも持っていた。僕は、個人的に上野的フェミニズムを「赤名リカの政治学」と特徴づけていた。
赤名リカとは、柴門ふみ『東京ラブストーリー』の主人公のことだが、テレビ・ドラマで鈴木保奈美
が演じたことで有名なキャラクターである。鈴木保奈美が演じることによって、ドラマでは原作と
はだいぶ違ったキャラになってしまったのだが、ここでは原作のリカをさす。マンガとしてはそん
なに好きな作品というわけでもないのだが、原作のリカは学生時代に彼女としてつきあったことの
ある女性に似
ていると僕は感じていて、ちょっと思い入れのあるキャラだ。日本の女の子社会になじめず、そこ
で自然的な感情に沿って生き、ときに負の感情をむき出しにする、というリカのキャラは上野的
フェミニズムの特徴と重なるのではないか、と思ったのである。その含意には、
上野的フェミニズムが心情
面で真に敵としているのは男ではなく、男に媚びて男社会に順応する女なのだ、ということもある。
当時、僕のマルクス主義にもとづくジェンダー構造の理解は、僕の脳裏にはぼんやりとした形で
あるにはあったが、それをきちんと論述した理論家がいないことに苛立ちも感じていた。その課題
は、後に森田成也『資本主義と性差別』(青木書店、1997)が果たしてくれたと思っている。
荷宮は大塚英志のはからいで評論家デビューをした「妹分」で、「女子供文化評論家」を自称
している。本書は大塚『「おたく」の精神史』(講談社現代新書、2004)に大きな影響を受けて
おり、大塚の男性の「おたく」としての視点の議論に、本書がたび
たび批判を加えているのは、むしろ影響の大きさのゆえであろう。大塚は前掲書で、上野千鶴子ら
の学者フェミニストの議論と、その顧客で
あった「新人類」世代の女性たち(男女雇用均等法前後に就職した世代)のメンタリティを
「フェミニズム
のようなもの」と区別する視点を荷宮のものとして紹介した。本書は、全編に渡って「フェミニズム
のようなもの」の実体を分析し、80年代フェミニズムと「フェミニズムのようなもの」の異同を
明らかにし、書名の通り、80年代フェミニズムが影響力を失った要因を、80年代フェミニズムと
「フェミニズムのようなもの」
のズレに求める。80年代フェミニズムを代表するのが上野千鶴子であるとすれば、「フェミニズム
のようなもの」を代表するのは林真理子である、として両者の言説を分析し、「アグネス論争」を
両者の衝突としてとらえ、それを80年代フェミニズム没落の契機であるとしている。基調は
「80年代はよ
かった」なのだが、それは女性の社会進出が史上初めて認められた時代であったからだとし、85年
の均等法施行をそのメルクマールとする。現在「負け犬」として表象されるキャリアウーマンたち
は均等法施行前後に大卒就職した世代であり、「負け犬」概念を定義した酒井順子もこの世代だ。
「下品だ」など、そのフェミニズム批判はなかなか小気味がいいが、我々の運動への批判ともなっ
ている点では、我々の運動が広がらなかった要因の指摘ともなっていて、耳が痛い。DCブランド流行
の意味と
か、自立する女性の「アンアン」と男受けを狙う女性の「JJ」との対比、少女マンガやキャラクタ
ーグッズとのかかわりなども論じられていて面白い。特に「ベルサイユのばら」が平等と民主主義
を高らかに歌い上げたことへの熱烈な思いが語られるのが印象的だ。
さて、荷宮の「フェミニズムのようなもの」の特徴づけは、つまるところ、女性の自然的欲求の
肯定である。DCブランドへの欲望や自立の願望までを自然的欲求に含めていいのか、という問題は
あるが、ここでは女性としての当然の欲求という意味で自然的欲求に含めたい。それまでは
自然的欲求をも抑圧されてきた女性が、初めてその自然的欲求を謳歌することができた時代が
80年代であった、と荷宮は言う。そして、80年代の若い女性がフェミニストを支持したのは、それを
肯定してくれる理論を与えたからだ、というのだ。荷宮の議論を僕なりに乱暴にまとめると、後の
80年代フェミニズムと
「フェミニズムのようなもの」の齟齬は、80年代フェミニストの極左的理論の不自然さと自然的欲求の
齟齬であったということになる。
この齟齬の評価にはちょっと難しい問題がある。80年代フェミニズムの理論の不自然さは、荷宮の
指摘するとおり、「もしも男に生まれていたならば、苦労することなくエリートになれたはずの女の
ルサンチマン」に発する。そこで、「全共闘」運動とウーマン・リブの運動を通じて「マルクス主義」
に接した上野らのフェミニストはその理論を「マルクス主義」で構築し(真の理論とは「構築」する
ものではなく「編成」するものなのだが、こしらえ物としての「理論」には「構築」がふさわしい)、
ルサンチマンを理論武装することで正当化したのである。ルサンチマンと「マルクス主義」の接合
により、その理論と自然的生のあり方には齟齬が生ずるのである。ひるがえって、自然的生をそのまま
肯定するのには僕は疑問を持つ。もちろん、自然的欲求を肯定する権利の獲得は進歩であろう。しかし、
自然的生の肯定のみでは、人間の真の幸福とはなりえないと僕は思う。人間の真の幸福とは、「各人の
自由な発展が万人の自由な発展となる」ということだと僕は思う。そして、現代社会における
真の自由とは、
自由の妨げとなるものをひとつひとつ取り除いていくための努力をすることだと思う。そのためには
意識的な努力も必要だし、自然的欲求の赴くままというわけにはいかない場面も多々ある。それを
将来の自然的生の肯定のため、と論理づけることは可能だが、僕は人間の幸福は自然的生+理性に
あると考える。つまり、なんらかの「不自然さ」あっての人間の幸福だと思うのである。したがって、
荷宮の称揚する自然的欲求の肯定に与するわけにもいかない。
正直に言えば、80年代当時、上野千鶴子的なフェミニズムに敵愾心を持つ立場だった僕には、
80年代フェミニズムのインパクトがよくわからなかった。師と仰ぐ上野俊樹が上野千鶴子のことを
よく議論のテーマにしていたのもよくわからなかった。そのインパクトが最近になってようやく
わかってきたところで本書を読んだ。その80年代フェミニズム批判は正しい。しかし、荷宮の議論の
狭さや、その偽悪ぶりからくる悪趣味は、80年代フェミニズムの直系の娘と評価しても
いいのではないか、とも思うのである。
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