日本では、まともな信仰を持たない人が多く、信仰を持つこと自体を白眼視する傾向すらある。
これは世界的には異常な現象であり、世界中のほとんどの人々が信仰とともに生きている、という現実
を日本人は忘れるべきではない。日本で信仰を持つ人は精神的にはまじめな人が多く、そのまじめさは
真っ当に評価されるべきであろう。
若きカール・マルクスの有名な言葉に「宗教は民衆のアヘンである」というのがある。これは一般には
マルクスが宗教を敵視したものであると理解されているが、この理解には誤解が付随することが多い。
この言葉は「ヘーゲル法哲学批判序説」(1844年)の中のものであるが、意味を正確に理解するために
そのちょっと前を含めて引用する。
宗教上の不幸は、一つには現実の不幸の表現であり、一つには現実の不幸に対する
抗議である。
宗教は、なやめるもののため息であり、心ある世界の心情であるとともに精神なき状態の精神である。
それは民衆の阿片である。(邦訳『マルクス・エンゲルス全集』第1巻445頁)
つまり、「宗教はアヘン」という言葉は確かに宗教を批判したものではあるが、実は宗教に頼らねば
生きていけない民衆の苦しみに心を寄せたものでもあった、ということだ。後者の点は案外に知られて
いない点だろう。また、「宗教はアヘン」というのはヘーゲル左派の一種の決まり文句で、マルクスの
オリジナルではないそうだ。
マルクスが宗教批判をする当時の歴史的背景としては、ドイツ諸領邦のプロテスタント教会は
国家機構に組み込まれていて、
聖職者は国家公務員だった。カトリック教会は長らくヨーロッパの封建制社会を支えた存在で、
ローマ教皇庁との関係があって、一概に国家機構の一部とはいえないところがあるが、
国家機構に組み込まれていた面も否定できない。民主主義革命をめざす当時のマルクスにとって、教会
はまさに「巨悪」だった。したがって、マルクスにとっては宗教批判は
政治的活動の重要な一部であったことも重要である。
また、政治的にも宗教勢力は政治的な保守勢力の中心をなしており、マルクスの政治運動にとっては
まさに「敵」だったのである。
「ヘーゲル法哲学批判序説」から160年余が過ぎ、世界は大きく変わった。宗教一般は必ずしも
「反動」
ではなくなった。資本主義経済が高度に発達し、グローバリゼーションも凄まじい勢いで進行している。
拝金的な合理主義が世界を席巻し、宗教的な価値観などは脇に追いやられている。宗教勢力の主流が
政治的保守勢力の中心であるとも言えなくなった。宗教が信じられて
きたのにはやはりそれなりの理由があるのであって、宗教倫理が人間性のある部分を体現してきた
ということは言えるだろう。拝金的合理主義が人間性を<疎外>している現状があり、伝統的宗教と
グローバル資本主義が衝突を起こし始めているのではないか。宗教者の社会批判が目立ち始めている。
私が宗教の役割の変化を実感したのは、米国がイラク戦争を始めようとしたとき、ローマ教皇庁が
戦争阻止に
奔走したのを知ったときである。ローマ教皇庁こそは、ヨーロッパの封建的反動の牙城としてマルクス
が敵視
したものであったことは言を待たない。また、プロテスタント諸派の幹部の反戦行動も目立った。
攻撃される側のイスラームはもちろん、日本の仏教勢力の中にも反戦的言動は目立った。「殺すなかれ」
は宗教各派の共通する教えであり、その宗教的良心からのことではあるが、かつて宗教間・宗派間
対立が多くの血を流してきたことを考えれば小さな変化ではない。イラク反戦という課題で旧宗教と
左翼勢力が事実上「共闘」したというのは画期的なことではないだろうか。
日本では宗教界のそうそうたる面子を呼びかけ人として、「宗教者九条の和」が結成された。宗教の
人間性を代表する部分が左翼・革新勢力と共闘する、という事態は、グローバル資本主義の非人間性が
明らかになればなるほど進行するだろう。
かつて、宮本顕治氏(元日本共産党議長)は、「高い段階の共産主義社会」(現在では日本共産党は
こういう段階論はとっていないが、共産党が目指す理想社会だと思っていただければ結構である)で、
宗教がどうなるかを推論し、次のように論じた。
「いわゆる「社会悪」が排除され、そこからの苦悩が生じない段階にあっても、人間社会である
かぎり、悦びだけでなく、病気、恋愛、結婚、家庭、自分の資質や才能についての希望と現実、
人間の寿命
その他、あれこれの人間関係での人間の苦しみがなくなるものではないこともあきらかである。その点
では、そういう人間生命の限界や個々人の能力の問題にかんしての、また人間関係についての人間の
苦悩がつづくかぎり、その中での人間精神の充実をはかる精神的な活動が、人類の遺産の一つとしての
宗教として継続される場合、何人もそれを禁止しないだけでなく、自由な人間関係の社会の自由な
活動の一分野として保障されるであろう。
」(「歴史の転換点に立って ――科学的社会主義と宗教の接点」『文藝春秋』1975年10月号、『日本
共産党と宗教問題』新日本文庫、1979年、89頁)
つまり宮本氏は、理想社会が実現すれば共産党は消滅するが、宗教は消滅しない、と論じたのである。
それまで、マルクス主義においては理想社会が実現すれば宗教は消滅する、という考え方が「通説」的
位置を占めていただけに、宮本氏のこの議論は新しかった。
しかし、現在の宗教事情を考えるとき、キリスト教原理主義やイスラーム主義(通常はイスラム
原理主義と呼ばれる)やカルト宗教の問題を考えずにはいられない。これらは、宗教間・宗派間対立
をむしろあおっている。旧宗教がイスラーム以外は影響力を低下させる中で、カルトや原理主義の方は
勢いを増している。イスラーム信者の増加も、イスラーム主義運動の影響によるところがある。これも
グローバル資本主義が人間性をすり減らしながら進行していることを反映していると私は考えている。
すり減る人間性を強烈な教義によって埋め合わそうとしているのではないか。カルトや原理主義は、
そのファナティックな教義そのものが非人間性を有しているため、私は容認したくはないが、それも
現代資本主義の一側面である。こちらの方は、むしろ政治的保守勢力を支える役割を果たしている場合
が多い。カルトや原理主義への批判は、その非人間性に向けられるべきであり、信仰を持つこと自体を
否定すべきではないと私は考えていることをここでも強調しておきたい。
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