上野俊樹先生を悼む

 本稿は、2000年に上野俊樹先生の1周忌を記念して発行された『次の峰をめざしてまた走りたい ― 追悼 上野俊樹―』に寄稿した拙稿に大幅に加筆したものです。この追悼文集では、紙幅の制約で書け なかったことを全面展開しました。ご意見やご感想などありましたら、忌憚なく 掲示板 へ書き込むか、植田までメール してください。
 なお、上野先生の学問については、西原誠司氏の追悼論文( 「イデオロギーの科学と科学のイデオロギー化 ―上野俊樹先生の学問的精神と経済学史研究―」『立 命館経済学』48巻5号)か「上野俊樹著作集」(文理閣)の解説を参照してください。



 1999年5月5日、立命館大学教授だった上野俊樹先生が亡くなられた。訃報を聞いて、まず思ったこと が「学問的にはこれからの人なのに…」ということだった。ご自身の学問的大志を遂げる間もなく逝か ねばならなかった上野先生の無念がしのばれた。
 僕が上野先生と初めて会ったのは、1987年に大学に入学してすぐに入った学術サークルの新入生歓迎 講演会に講師としていらしたときのことだ。講演会の後は、新入生歓迎コンパとなるだが、先生はその コンパにも参加されていた。マルクスの『資本論』を読むことを活動の中心としたそのサークルで、僕 は社会科学の基礎を学ぶことになるのだが、そのサークルでチューターを買って出ていたのが、立命大 の学生サークルで上野先生の指導を受けて経済学を志し、京都大学大学院に進学していた院生たちであ った。この院生たちには、学問的なことだけでなく、私的なことについてまで大変お世話になったので、 僕は上野先生とは「孫弟子」のような関係にあって、先生の直接の指導を受ける機会というのはそう多 くなかった。しかし、僕が「人生いかに生くべきか」について上野先生に多くを教わったという点で、 僕は上野先生を師だと思っている。職業としての研究者を断念した今でも、上野先生の教えを今も自分 の原点のひとつとして持ち続けているつもりだ。
 急逝によって、先生の学問的業績は中途半端なものに終わった。「大家」になるとすれば、これから の業績しだい、というところで先生は逝ってしまった。だとすれば、上野先生の生涯を評価するには、 先生が組織した「土曜会」の運動の功罪の検討は欠かせないと僕は思う。
 僕自身は、1990年の「土曜会」の解散を恨めしく思っていた。「土曜会」は、見田石介の科学方法論 にもとづく社会科学の研究を目的として、上野先生が中心になって作られた研究者の集団で、先生の研 究上の仲間のほか、会員の多くは、学生サークルを通じて上野先生の影響を受けて研究者になった若手 研究者(院生を含む)であった。土曜会についてはいろいろと批判もその内外からあり、土曜会の会員 だったことのない僕は、その事情はぼんやりとしか知らない。しかし、少なくとも僕は土曜会の解散に よって上野先生との接点を失ってしまった。土曜会に名を連ねていれば、少なくとも夏の合宿には自動 的に参加でき、そこで先生と接することができたのに、と思うと残念だった。名古屋大学時代には、上 野先生と向井俊彦先生の共同の「方法論研究会」にも顔を出していたものの、ついていけずに落伍して しまった。
 土曜会の達成と限界は、すべて上野先生個人の人格によって規定されていたと思う。批判者の土曜会 批判も、すべて上野先生の人格に収斂される。そして同時に土曜会の成果も上野先生の人格抜きに語れ ない。あの上野先生の強烈な人格がなければ、土曜会の積極的業績もありえなかったことを、批判者は 果たして理解していたのだろうか。上野先生は、日本の社会科学界や平和・民主運動の現状を深く憂え、 「このままではいかん」という激しい怒りを持っていた。特に、マルクス主義社会科学者たちが、積極 的に弟子を育てようとせず、戦後第2の反動攻勢期に学生運動が衰退していくのに伴って、マルクス主義 社会科学の後継者が減っていくという事態に強い危機感を持っていた。そして、見田理論こそがこの現 状を打開するみちびきの糸となるという信念の下に、学生サークルを指導・援助し、研究者を養成し、 集団研究を深める、ということを土曜会の仲間たちとともにやろうとした。その際、学生を見る視点に 発達心理学の知見を導入し、青年の「モラトリアム化」に対応して、学生の人格的発達を学問的 成長と結びつけて促そうとしたことが重要で、殊に青年期の自立の課題をどうクリアするか、という点を 重視したのは重要である。そういうことをやってのける強烈な人格は、同時に他者への激しい批判や、 「権威的」と言われるのもむべなるかな、というような若手研究者への強力な指導となって現れた。批 判者は先生の主張が理解できず、批判することそれ自体やその批判の激しさに、感情的に反発していた と僕には思われる。欲を言えば、批判が受け入れられるためには、批判される方の感情にも配慮して、 慎重にやるべきだったとは言えるし、そこは先生の人格的短所であったとも言えるだろう。しかし、人 格的な長所と短所は密接に絡み合っていることを理解すれば、それはないものねだりなのかな、という 思いも僕には禁じえない。ただ、先生が主張し続けたことは、主要なところでは正しかったと僕には思 えるのだ。感情的な反発ではなく、冷静で理性的な議論が行われていたら、もっと違った現在があった のに、と思われてならない。正しい主張が、主張者の人格的問題のために、まともな検討すらされずに 葬り去られるというのはよくあることで、主張者も人間である以上、そういう事態を避けるのは難しい 局面もまたよくあるのだと思う。そして、土曜会の最大の弱点は、上野先生に匹敵する人材が育たなか ったということだ。自立心・独立心のある若手研究者が、先生の強力な指導に感情的に反発し、先生と 袂を分かつ、ということがあって、先生の周囲には先生の「子分」しか残らなかった。そうして離れて いった人は、先生の批判を理解できなかったという点では、研究者としての問題を克服しないまま現状 に至っている。僕は詳しくは事情を知らないから、細かい点では事実誤認があるかもしれないが、大枠 ではそういうことが言えるのではないかと思っている。先生の周りに、そういった先生の人格上の短所 を補える人がいれば、事態は違っていたかもしれないが、そうではなかった。土曜会の達成と限界は、 上野先生の人格に規定されていた、というのはつまりはこういうことである。
 先生は酒の席での戯れに、自分のやり方は「民主封建制」だと言ったことがある。政治学的には、 「民主独裁制」という表現が正しいと思うが、先生は自分の指導の「権威性」を自覚していたというこ とだ。その意味を僕なりに表現すると、ルソーの表現を借りるなら、未熟な非自立的存在に対しては、 理性的存在が自由であることを強制しなければならない、ということだ。当人に自由でいる能力がない のならば、よくわかっている他者が強制して、自由に振舞わせる、ということである。反発する者は、 「上野が理性的で自分が未熟・非自立的というのはけしからん」と思うのだろうが、先生は学生・院生 や仲間に対するとき、誰に対しても「権威的」な振る舞いをしたわけではない。常にその人の発達段階 を考えて言っていた。現に、僕のような弱々しい人格の者に対しては、それ相応の扱いをしてくれた。 先生の「子分」の中には、先生の表面だけをまねして、とにかく権威的に振舞う人もいた(そういう人 も人間としての魅力にあふれていた、ということは、念のために付言しておく)が、先生自身は必ずし もそうではなかった。理解されなかったのは、その人の発達段階を見誤ったのだということが結果論と しては言えるが、その場合も、先生が思ったよりも、その人の発達段階が低かった、ということだ。先 生が「これくらいのことはわかる」と思って言ったりしたりしたことが、実はわからなかった、という ことなのだから。僕に対しては、「お前みたいな弱々しいやつは、大学院なんかに行くのはやめておけ 」と言うのが正しかったと言えるのかもしれないが(そう思っていた先輩もいたと思う)、それは結果 論だと思うのは、自分かわいさの身びいきだろうか。
 ほんのわずかな時間ではあったが、上野先生と一緒の時を過ごした。あの頃は、上野先生が言ってい たことがよく理解できなかったが、時を経る毎に「あのとき上野先生が言いたかったのはこういうこと だったのか」と理解できることが増えてきた。厳密に言えば、唯物論では「魂の不滅」や「冥福」はな い。しかし、上野先生が遺したものは、確実に遺された者の中に生きている、という意味では、上野先 生の「魂」は不滅だと思う。
 上野先生の遺産は、その学問的業績とともに、その集団的研究の運動とその経験も数え上げねばなら ない。遺された者たちが、上野先生の遺したものをどう生かしていけるのか。上野先生亡き今、それが 問われていると思う。