Counter店は当分続けます

店主長話コーナー第15HPは、ここをクリック

    平成徒然草第14HP3789.jpgとうめいさうんど 鵜飼俊男

店主長話コーナー第13HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第12HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第11HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第10HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第9HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第8HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第7HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第6HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第5HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第4HPとヤフーオークション出品物の内容画像はここをクリック

店主長話コーナー第3HPは、ここをクリック

店主長話コーナー第2HPをお読みいただける方はここをクリック

店主長話コーナー第1HPをお読みいただける方はここをクリック

店主長話コーナー第 0 HPをお読みいただける方はここをクリック

鵜飼俊男の、お気に入り文章コーナーをお読みいただける方は、ここをクリック

FAX  0569-23-7061(電話も同じ。兼用)
メールアドレス:ukai-516@tac-net.ne.jp
URL : http://www.tac-net.ne.jp/~ukai-516/
 愛知県半田市昭和町4丁目13番地。

----------------------------------------------------------------------------------------------

10/5

6405.jpg6406.jpg6407.jpg

10/4

6399.jpg6400.jpg6401.jpg6402.jpg6403.jpg

5850.jpg愛用品。下から気に入った順。@製図用の「ぺんてる」A通常「ぺんてる」は繰り出し量が少なくて好き。BCは、三菱鉛筆製。

6404.jpg

10/3

6391.jpg6393.jpg6392.jpg6394.jpg6395.jpg6398.jpg6396.jpg

10/2

●いつもの名文の人からメールが来た。

自叙伝読ませていただきました

鵜飼俊男の自叙伝(全文)
第一章0〜4歳の思い出
昭和21年 我が家の北隣の小学校教員住宅に住んでいた鈴木先生の奥さんの仲介で、わが父母は結婚した。母は先生の奥さんの従姉妹で刈谷高等女学校を卒業したての18歳。父は21歳。旧制半田中学を卒業後、千葉県で通信兵として、米軍上陸に備えて海岸に塹壕堀をしていて終戦、復員して農業をしていた。小学校時代体が弱く2年休学、栄養剤を自分で注射したらしい。この2年の休学が無く2年早く卒業していたら、外地に侵攻していたかも知れない。
昭和23年7月27日 私は東浦町石浜の母の実家で生まれた。(最初の子は実家で生むケースが多い。結婚して間もないので嫁と婚家の人の間に心の繋がりが少ないから、婚家の世話になるのを避けた。)すでに母の母は亡くなっていた。
3歳 精神病か薄弱の叔父(母の弟)が東浦町石浜の母の実家の畑に立っている記憶あり。
幅1〜2mの花壇があって、黄色や赤の15Cmくらいの高さの花が満開で無限に続いている。私は其の敷石の上を両手を広げて歩いて遊んでいる。そんな記憶あり。
時志の観音の(傘形屋根に円形の板縁のついた)展望台に母の背に負われていった記憶あり。円形の板縁の上を同い年のいとこ2人と走り回った。側に母と母方の伯母がいた記憶あり。
父母は農家の仕事で忙しかったから仕事の少ない祖父母に私は育てられた。
冬?のかんらん(キャベツ)の収穫の時には家中総出で作業をしていた。かまってもらえなくて腹をすかせて、真っ暗になっても大人のする、かんらんをすげ(菅)?俵につめて台はかりに掛け縛る作業を見ていた。当時の田舎の子の頭の回転が遅いのは、このせいだと思う。
祖父のこぐ、ハンドルと座席の間に子ども用座席をつけた自転車に乗せてもらい走行中、風でこけて 祖父といっしょに小川に転落して「おじいちゃーん」と泣いた記憶あり。
4歳 隣村奥田にいくおじいちゃんの牛車(ぎゅうしゃ)に乗せてもらい、家に帰ったら納戸で 妹が生まれていた記憶あり。
風呂はおじいちゃんに入れてもらった。五右衛門風呂(浅い鉄釜の上に木桶をはめたもので草や木を燃料とした。人は湯に浮かんださな=木の円盤の中心に足を乗せて押し下げて入浴した)で祖父のひざを踏み台にして浴槽に出入りした。祖父は禿げて腰が曲がり尾てい骨が1Cmぐらい突き出ていた。浴室は暗い畳1.5倍くらいの広さでからだを洗うのがやっと。パンツだけはいて入室した。パンツが湯気に触れて不便だった。小学低学年の頃は井戸水を人力ホンプで風呂桶に入れた。いやいやお手伝いをした。その後我が家は電気ポンプを買って、太陽熱利用温水器(天水と呼んだ)を買った。この温水器の初代は水平な木箱にガラスのふたをしたもので藻が茂って其の破片が湯の中に浮かび臭った。配管バルブを天水接続に切り替えポンプスイッチを入れ屋根上の天水を見張っていて水があふれ出てきたらスイッチを切りバルブを戻した。バルブを戻さないと飲み水の配管が使えないから。後年中学生になった頃、別の場所に風呂を作った時脱衣場がようやく、もうけられた。
母も 家付き娘だった祖母も気が強く よく衝突した。ある時祖母はご飯の入ったおひつを土間にいた母に向かって投げた。母の足元に転がった。ご飯はきれいなとこだけ人間が食べ汚れたところは猫が食べた 。あるとき母は離婚しそうになった。私を置いて何日間か石浜の実家に帰った。しかし実父に説得され、また人を介して婚家からの謝罪もあり、戻った。だがその事件は私を変えた。そのときから私は母を頼らなくなった。
母はプライドが高く 実家の祖父(母の父)が石浜の最大の神社に境内を拡張するために畑を無償で寄付したことと、石浜の区長をしたことが自慢していた。私が偏屈なのは母ゆずり。ははの兄は癌でミシン屋を廃業するとき「自分が癌であること」を宣言して回ったらしい。血筋。
祖母と母の兄が喧嘩して絶交となった。母の姉が分家して実家から100m南に住んでいて実家代わりになってくれた。ゆえに母の里帰りは母の姉の家に行くことになった。母の実家の子と口を聞いたことは55歳の今も長男とだけ数回あるだけで疎遠。
後年母の兄は、癌でミシン屋を廃業するとき「自分が癌であること」を関係者に宣言して回ったらしい。母や私同様「癖のある人」だった。
後年私はこの母の兄と口喧嘩をした。母の姉の葬式の後、焼き場で。口喧嘩の理由は「私鵜飼俊男が、留守番をする仏の夫の介添えにこの人の長男をおいてきたことで、母の兄の構想=「焼き場の居残り番にする」予定が狂った」から。「余計な口出しをして」と非難したから「なにを」と私が反発した。母の血統も父の血統も喧嘩好き。この私も
母の姉の家に行くのがすごく楽しみで、伸び上がり駆け回って乗り物を待った。上野間からバス。武豊から東浦町生路まで国鉄の汽車。後にヂーゼル車になり 石浜駅が出来た。生路から石浜までバス。バス停を降りておばの家まで丘の上り坂を喜び勇んで駆けた。今もこの道が懐かしく年に2,3回 散歩にいく。
第二章5〜12歳の思い出
5歳 1954年?。保育園は現美浜町当時小鈴谷町立上野間小学校(上野間と坂井合同・何百年か前は祭礼も合同・山車が瓜二つ)の敷地内にあった。初の?一回生。園舎が間に合わなくて少しの間 隣の小学校に間借りしていた(この園舎は1990年頃小学校が敷地を体育館用地として使うので移転。私は新品の園舎のイメージが焼きついているので「なんともったいない」と思ったが35年前後使うと木造園舎は「ガタガタだ」とたまたま入園中のわが子や家内が言う。かくてわが子は新築園舎の一回生?)坂井部落と共同だった。弁当もちで冬はそれを保温器で温めてくれた。帰りは行列で保母さんつきで県道を帰り 最後の一人が小道に入ると 保母さんは保育園に帰って行った。坂井部落の子は北の坂道を 上野間部落の子はなんと小学校の先輩たちの体育の授業の校庭を抜けて通園した。この保育園は運動会を小学校と合同でやった。(今はさらに区民運動会も合同で祭り並のにぎやかさである)坂道横の崖に泥炭が露出していて擦り合わせるとつるつるに光った。付近に泥炭炭鉱があり地下に降りるトンネルに敷設されたトロッコのレールが珍しかった。小さいボタ山が2つばかりあり、通園の小道との間に5m角くらいの池があり金魚がいた。柳の木が側にあってそこを通るのが好きだった。保母は大好きで紙芝居の置いてある保母室は宝の倉に思えた。
寝ぼけて小便を玄関先の庭(臆病なので夜トイレにいけない・暗闇に牛舎の中の牛のめだまが光っていた))のつもりで何回か室内でやった。
親戚の葬式で従兄弟たちが言った「男が死ぬと棺おけに入れる前にチンボをはさみで切り取るんだぜ」。小学校時代は信じていた
其の頃は土葬で大人が何人も入れるような穴が掘ってあり掘り出した土の中に人骨があった。
友達が言った「山道で山かがし(マムシの弟分)に会うと、ピョンピョン飛んで追いかけてくるぞ」小学校時代は信じていた
畑にいく父母についてゆき、退屈なので牛の鼻に草を突っ込んで牛に三mばかり追いかけられて遊んだ。我が家は怖がりで牝牛を飼っていた。(雄牛は強暴だから)。早く弁当が食べたくて、口ででまかせに昼のサイレンをうなっていたそうだ。百姓仕事は辛く退屈だ。
寝小便が止まらない。祖母は心配して夜何回か私を起こして抱えて窓際に連れて行き突き出して小便をさせた。(妹が両親と寝た)
「寝小便が止まらない無い時はお客さんに行け」 祖母は私を金持ちの親戚に連れて行って一晩泊めてもらった。祖母は私のしりの下に手を置いて、一晩中おきていたそうだ。寝小便は止まった(数年後の一度の例外を除いて)。其の金持ちの家のトイレを私が汚して祖母と夫人が掃除している光景を覚えている。
踊りの遊戯を絶対にしない偏屈な園児だった。けんか人生の始まり。
保育園の紙芝居は大好き。「義経の8艘飛び」らしきものを1、2回見たらすっかり気に入って見たくて仕方が無かったが、残念ながらやってくれなかった。
小学校入学用のかばんと帳面を買ってもらったとき、嬉しくて何度も出したり入れたりしていた。まるで遠足前日のように。ノートは大きな升目で、上の方に手本の数字が教科書体(9はぼうがまっすぐなものの書体)で載っていた。裏表紙には時間割表があった。
道を巨大な種豚が笹竹で追い立てられて歩いているのにすれ違うと怖かった。
我が家も豚を飼っていて、時々、鼻で囲いを押し破り畑を散歩していた。恐ろしくて、家の中から震えて見ていた。
小学校は給食調理室があり、3人?の給食婦が常駐して500人?生徒や職員の昼食を自製していた。 食べたことも無い料理が出て楽しみだった。脱脂粉乳も粗食で育った私は大好きでいつもパンを浸した。食パンはおおきくなるにしたがって枚数がふえた。みみのおまけをもらうのが楽しみ。食器は3個。金属製。魚のフライや、シチュウが大好物。
1年生と2年生の教室の掃除と、給食の配膳、あとかたずけの世話は6年生がやったと思う。
小学校時代は夏休みと冬休みをまるまる 富貴の叔母の家(同い年の一人息子あり、母に貰い乳をして一緒の乳母車で育った)で過ごした。富貴は私の第2の故郷である。みかん農家で 叔母夫婦のいない時、従兄弟と「どちらがみかんをたくさん食べるか競争しよう」と言い馬鹿な競争を、一回だけしたことがあった。その結果私は50個みかんをたべ夜中に寝小便をしてから目が覚めた。恥ずかしかった。
富貴海岸は海水浴場として有名。従兄弟に誘われてよく泳いだ。駅前には道を鳥居のようにまたぐ格好で竜宮城の門があった。富貴海岸には、小学6ねんの伊勢湾台風以前は 白砂のまつばやしのなかに売店休憩所の並ぶ 賑やかな 竜宮浜海水浴場があった。(竜宮の名の起こりは戦前に ある新聞記者のアイデアで「浦島」「四海波」というかの有名な「浦島太郎伝説」っぽい地名に目を付けて町おこしに商店街が利用したものらしい。)
富貴の叔母は父と二卵生双生児、其の夫は父の従兄弟。子どもは同い年の男の子が一人。(おばは我が家で従兄弟を生み、乳のでが少なかったので母の乳(3ヶ月私が若い)も飲んだ。ヨチヨチ歩きの頃一緒に乳母車に載せられて喧嘩した。私はかれの耳をがぶりと噛みついたことも有ったらしい。)叔母が自転車で里帰りしてきた時、しょうがくせいの私は別れがたくて村はずれまで見送りした。
従兄弟は漫画雑誌持ち。本誌と付録あわせて200〜300冊あった。私は買ってもらえなくて、その蔵書のうち50冊くらい、恵んでもらった。後年に1冊残らず祖父か誰かに捨てられてしまった。1冊30時間くらい見てたから。心配したのだろう。「あほになりはしないか」と。
祖母に連れられて名古屋見物。東山動物園の恐竜の像や本物の象の大きさにビックリ。(後年成人してから再びみたら4mくらいしかなくてがっかり)幼児は自分が小さいものだから大きさに敏感である。松坂屋の屋上のミニ遊園地は夢の場所。くるくる回る飛行機方のメリーゴーランドがあったような気がする。
祖父母は何度も二人で火鉢に当たりながら「死んだら墓の下で、やーしこ(静かに)座っとるだイ」と話し合っていた。現在私の墓参りは墓石をずらし祖父母の骨壷に「来たぜー」と話しかけることである。
私は、大勢の人の前で話す野が大好きで、目立ちたがりやの、自意識過剰の「大人子供」だった。
児童会会長になりたくて小3前期から立候補して8回目 小6後期もう卒業の間際になってやっと当選した。
誕生会という授業が毎月1時間あって 10個ぐらいのプログラムが事前に決められた。時どき「鵜飼君の漫談」を所望された。事前に漫画などからネタを拾い「そいでなあ投げ飛ばされたら、天井まで飛んで行きそれからなあ、そこで回っていた換気扇が口に入ってクルクル回るもんだからなあ 飛行機になってまどのそとへ飛んでいったぜ」などと言って自分から先に笑っていた。これを親代わりの祖父母に自慢したので(父母は農作業)あるとき祖母が「学校に行って立ち聞きしてきた」と言った。
遠足は@鵜の池A広目の三つ池B新舞子の水族館(鯨の骨がすごく巨大に見えた)C野間灯台 中の階段は急で最上部はテツ梯子?D小野浦?山海海岸?。岩の上に小さな赤い鳥居があり波打ち際の白砂上を進んだE聚楽園の大仏。台座の中は不気味で寺の本堂のよう。F小牧空港( 中学で行ったのだったっけ?)
運動会は村の大行事。PTAの団子売り場もあ、り家族と一緒に昼ご飯を食べた。徒競走はびり。運動神経の鈍い私は体育の時間跳び箱が怖くて、ひざの高さしか飛べなかった。(中学高校になっても)
梶田と言う番長がいたが私は屈しなかった。けんかは弱くていつも負けた。
クラスメートの鵜飼文二?君一家が旅行中の父親以外全員火事で焼け死んだ。家数にして10軒ほど離れているがすごく怖かった
放送部を志願した。赤黒のカーテンやジュータンで防音した2坪くらいの小部屋で、鉄筆のようなレコード針で分厚い軍艦マーチ(帝国海軍軍楽隊)のSPレコードをかけた。また遊びで本で読んで仕入れた知識で針をマッチの外箱にセロテープでつけてかけてみた。かすかに音楽が聞こえてうれしかった。
大崎医院の医師の思い出。元軍医で小学校高学年時代の校医であった。私は小3?で小児性リュウマチになり左足が1.5倍に太くなり高熱が出て往診してもらった。其の後遺症で私は軽度の心臓の左心室肥大で「運動はしても良いが 準備運動を良くしてから」といわれた。その後隣の家に回覧板を届けに行って、そこの放し飼いの小型犬にほえられおびえて逃げてかまれ3針?縫ってもらった。外国旅行の記念にスライドを撮影してきて我が家で上映してくれ家中6人で見た。(祖母が先生の母か姉と親友だったので、多分そちらから口を利いてもらったのでは)
皮膚弱くシモヤケ激しく両手がグロウブのように腫れ上がり一度ドッチボオルが甲にあたり5Cm丸くらい皮がむけた。
気取ってクラス集合写真に映り得意だった。
全員がもらったか褒美でもらったか不明だが「泣き虫兎」という童話の分厚い硬い表紙の本があった。
送辞か答辞か卒業証書をもらう役になりたくてうずうずしていた。一度くらいなれたような?気がするが定かではない。
バリカンで祖父と互いに頭を刈りあった。祖父の頭髪は上半分はまばらで下半分白髪があり、左右の耳の後ろ1Cm幅だけ黒髪でフケや毛穴にたまる油も多かった。今思うにそこに分泌腺がありはしないか。私も耳の後ろにふけの泉がある
村の神社でドカタが喧嘩して一人刺し殺され犯人は捕まった。学校の帰りに前をとおり境内に入って一人こわごわ見た。本殿前の石鳥居の下に黒い血の固まり(直径50Cm厚さ3Cm)だけあった。
河和に向かう山道2コースにそれぞれ2,3本の横穴防空壕があった。浅いのは奥が見えたが深いのは真っ暗で前を通るのが怖かった。今は1箇所は拡幅道路用地になり他方は丘が削られ寿司屋の駐車場になった。
小学校は資金難でよく「花の喧嘩状・長谷川一夫」「鳳城の花嫁・大友柳太郎」「明治天皇と日露大戦争・嵐寛十郎」などのの映画会を催したがとてもたのしみだった。夏は夜戸外でやった。スクリ−ンの布が風に揺れて画面がよろめくのが難点。だけど涼しかった。終わって帰るときは眠って歩いたらしい。冬は校舎でやった。日中やるときには黒幕で囲うので空気が悪く頭痛がした。
「轟ひろこ一座」の股旅芝居も楽しみだった。「四島座の舞台」という昔は回り舞台も有ったらしい高縁の建物で上演。開園時間外にも押しかけて、七輪で自炊しているのを眺めた。
紙芝居  飴を買わない子だったので遠慮しながら見た
テレビは村の7割が買った頃になってようやく我が家も買った。それまでは貰い風呂ならぬ貰いテレビだった。
 @海苔金持ち「だいやっさ」に20人くらいの子供が集まって大相撲を見せてもらった。

 A山本理容店でテレビを買った。長男が同級生なので大相撲見せてもらい、

 B獣医の家の友達で、「怪傑ハリマオ」などを

 C 正田美智子さんの結婚式の馬車パレードを祖母の友人の家で見た。 

 D富貴の叔母の家にも入って、その後ようやく我が家にも入った。

 その頃は白黒TVで、小さい14インチの白黒画面の前に透明の拡大レンズを付けたり、中には無用な3色色ガラスの拡大レンズ を付けた家もあった。3色レンズは最初はきれいだと思ったが白黒写真の上に色付きのセロファンをおいて見るのと原理は同じな ので つまらなかった。

小学校は2つの特色あり。@鵜の糞の代金もかなり用いて出来た施設で「糞立小学校」などと悪口をいわれ肩身が狭かった。A町村合併(旧小鈴谷町は上野間のみ美浜町に加入させてもらい ほかの地区は常滑市に加入させてもらって消滅した)で最初は小鈴谷町立南小鈴谷小学校であったが坂井部落と共同だったのが坂井部落は常滑市に吸収されたし上野間部落は美浜町に吸収された。まもなく常滑市と美浜町の組合立(つまり割り勘ということ)になり、1年後?には美浜町立上野間小学校になった。坂井部落の人たちは去り 倍以上歩く小鈴谷小学校に通い始めた。(政治上の引き裂きであり寂しかった。)
なぜ上野間だけが美浜町に加入させたもらったか?@農家の人たちが工業商業の都会に税金を吸い取られると考えて常滑市編入をきらったことA田原谷の人は行政上は奥田区民でありながら小学校や祭礼運動会念仏講全て上野間の区民として活動している。もしも常滑市立南小鈴谷小学校になったら常滑市民は市民税を払わない美浜町民が南小鈴谷小学校に通学することを許さないだろう。それを避けるためだった。。このどっちに加盟するかで村は二分してムシロバタが立ち夜道に見張りが立って誰が誰のうちへ行ったということまで問題にする激しい抗争があった。私も含めて田舎の人は議論を避ける。だから何も解決しない。後年美浜町民の多くは 常滑空港に反対だったにもかかわらず何もしなかった。なぜか。多くの人が言いだしっぺになろうとしなかった。誰かが嫌われ者に、反逆児の汚名?を着てくれるだろう「迷惑施設の田舎捨てハンターイ!」を叫んでくれるだろうと思って何もしなかった。だから空港は出来、「アカのフクシダイガク(日本福祉大学は昔はゲバ棒大学だったらしい)」は半田市に断られ武豊町に断られ美浜町に拡大移転した。今上野間の民は2つの地区間のコウモリ生活をしいられる田原谷の30世帯?の苦しみを知らん顔をしている。人口で2倍の奥田が怖いのだ。「田原谷がどちらに属するかは田原谷の30世帯?の人が決めるべきだ。」私も含めて田舎の人は議論を避ける。だから何も解決しない。
坂井にはいやな思いでもなく 親友の家とか祭礼に遊びに行った。 心楽しく過ごせた。常滑市 坂井になったちくのじゅうみんの友達の最後の登校日 下校時刻にみんなでみおくった。彼らは保育園の中は横切る近道の坂を上っていった。寂しい思い出。
土蔵や押入れの中に戦前の本や父や叔母の教科書や叔父の哲学書(カントやヘーゲル。)小説本、教科書、日記があわせて100冊、雑誌の付録の皇室や日本画等の写真が30枚ぐらい、富貴でもらったマンガ本が50冊くらい、真珠湾攻撃の有名な写真などの乗った新聞、祖母の日記などがあって読んだ。日記は読んではいけないと思ったがプライドの高い祖母と叔父の二人が内面は寂しがり屋だとわかりより好きになった。私はこの二人にお守をしてもらい育てられた。(叔父は18歳私が6歳まで我が家で生活していた。私は12年上のこの叔父を兄と慕った。二人きりで家にいたとき?買い物に行くためそっと家を出た叔父は泣きながら帯を引きずって裸足で追いかけてくる私を見ていじらしさが募ったらしい)母は「6年間体が弱くてアルバイトの出来ない叔父に送金したので家計が苦しかった」と言う。叔父は「送金の直前は金が無かった」と日記で言う。からだが弱く「いかに頭を使って切り抜けるか?」を考え続けていた祖母と叔父。
土蔵の中は3ヶ月ぶりに入ると中の気温がまえのままだった。
祖父母の子3人は全員(従兄弟間の結婚のせいで)からだが弱かった。なのに叔母は従兄弟間の結婚をした。
スポーツが苦手で本ばかり読んだ。6歳から54歳まで年70冊平均読んだ。
缶蹴り、ショウヤ=パンパン(めんこ)、缶竹馬、竹馬、たこあげ、ビー球、フラフープ、蜂の巣取り(幼虫をフライパンで行って食べた)で遊んだ。
小学校の校長先生の息子に頭もよく美男でスポーツ少年で模範生がいた。5年生?位で転校していった。別れが辛かった。
はるOO と言う坂井の子が本人も母親も知能が低く教師が何を言っても理解できない。ほんにんを叱ると母親が学校に怒鳴り込んでくる。自分の子の行動の善悪の判断が付かない。(母親に時々見かけるがこの母子は断トツに愚かしい)父親はいない。職員全体の心配の種だったらしい。
修学旅行は伊勢神宮。夫婦岩の近くの海岸の浜千代館に泊まった。せんべい布団だった。獅子舞の獅子頭のおもちゃを買った。日和山に登った。農業館や神宮チョウコ館を見た。
百姓仕事は辛く退屈だ。「百姓になれ、岡崎の「ついしん農場」に行け」と言われいやいやその気になった。文集に「大きくなったら百姓になる」と書いたらしい。同級生が言っていた。

第三章13〜15歳の思い出

野間中学は給食が無かった。自分で村の雑貨屋でするめや鯨肉の甘い佃煮を買って弁当を作った
祖母のしてくれた訓話   
 「昔上野間で本当にあった話だ。子どもたちが4、5人伊勢湾内で漁をする船に乗せていってもらった。仕事場に着くと漁師はこ う言った「さあ、おらあ ここで仕事だ。お前ら泳いで帰れ」すると一人金槌の子がいて溺れて死んだ。その子は可愛そうに、誰 にも言えんで「いると迷惑をかける」と独り決めして飛び込んだんだ。だからなあ俊男や、人の世話をする時はなあ 最後までせ なああかんぞ。」    

 鵜飼俊男の感想 「この船にいつまでも乗せてもらっていてはいけない」と飛び込んだこどもがあわれだ」私はこの話を何十回 も人にした。其のつど涙がこぼれた。今も。人に(特に子どもに)自分の意思を正確に伝えることの難しさよ。それが生んだ悲  劇だ。

中学1年の頃は自転車で刈谷市のおじを尋ねたり名古屋見物をした
転校 「このままこんな退屈な毎日を送っていたくない」とおもって、野間中学校に通っていたら名古屋大学を出て豊田自動織機に勤めている父の弟が「俊男はちっとも勉強しない。禅寺にでも預けたら少しは勉強するかもしれん」と言った。「おもしろそうだ」と父にたのんで2年生の5月から石浜の曹洞宗増福寺(母の実家の菩提寺)にお世話になった。中学はすぐ北隣の東浦中学に転校した。
東浦中学校では給食があって嬉しかった。
2年生の担任は長坂一興先生。20代半ばの美男でびっくりした。張り切っていて、掃除を率先して生徒と一緒にして、あるとき男子の小便器(と言っても溝)の中の枯葉を素手で掴み、運んだのには驚いた。一度だけ生路のご自宅に男女6人くらいでお邪魔した。新婚ほやほやで奥さんも美しいふっくらとした人。お菓子を応接室でいただいている席上で先生は、「先だって鵜飼がおれんとこいに来て「先生、ぼくは酒井裕子さんが好きだ」と言って泣き出してなあ」と言われ、当人もいたので嬉しく又恥ずかしかった。冗談交じりにして私が副級長さんに惹かれている気持ちを伝えてくれたのだ。先生に感謝した。
禅寺の生活 増福寺さんは3人家族だった。おくりさんは60歳くらいの未亡人。住職は長男である。25歳くらいの独身で広島大学を出て学校の教師を兼業していた。眼鏡を掛けて美男子である。次男は刈谷高校生でサッカー部。私は曹洞禅を習うつもりが草取りだけでイヤになった。親が養育費を持ってきた日だけ良いお菓子をお八つに呉れる(親のいる目の前で)55歳の今から思うと彼女にも言い分はあるだろうとおもいいたる。だが其の頃の幼稚な私は「陰日向のあるいやな女」と思った。住職とは3ヶ月いたが口を利いてもらえなかった。さらに高校生が試験の前日に「試験をしてやる」と言って口頭で質問する。私も口頭で答えるのだがそれに合っているとも間違っているとも何も言わない。20分くらい次々に質問するだけで終り。2,3回強いられていやになった。だが次男と喧嘩をする勇気が無かった。こちらが頼んで同居させてもらっているのだし3,4歳上でもあり、池に投げ込まれて夢中で泳いでいでいるうちに泳ぎを身に着けてしまったという凄いスポーツマンで、名門刈谷高校サッカー部の正選手で4重に皮のむけた、がっちりとしたかかとをしている。いま55さいになって推理するに、「彼は他人が突然入り込んできて腹が立ったのだ。おくりさんから居候の勉強をを見てくれと言いつけらていやいや義務感のようなもの質問したものの、どう教えてよいか内心途方にくれていたのかもしれない」。私は彼が怖くて言いたいことがいえないので、代わりにおくりさんと喧嘩した。遠まわしに不満を言った。また他人の家の空気もなじめず『おば(母の姉)のうちはいいな、上野間の自分のうちはもっといいな』」と思いそれをくちにしたのだ。当然彼女らはさじを投げた。禅を教えられる人が寺にいなかったのである。25歳では住職兼学校教師にも無理。でもよかった。いい体験になった。「増福寺で大人の汚さを知った。世間がどういうモノかを知った。」世間には、全寮制だとか徴兵制の良さを説く人がいるが他人を知る意味で賛成だ。
夏休みだったか刈谷市の豊田自動織機に勤めている叔父(父の弟)のところに遊びに行った。亀城公園(水野氏の本城)東の独身寮の玄関を出て道を歩いていくおじのうしろすがたをみつけて「遊びに来た」と言うと「俺は今から仕事だ、名古屋市中区栄の県立図書館に行きなさい」と金をくれた。初めて栄に行く私は名古屋市内の名鉄の駅の切符売り場で「栄えの駅まで」と言って、「サコウか?」と言われてきょとんとしているともう一度「サコウか?」と言われ売り場を離れた。名鉄路線案内図をみると栄は無かった。県立図書館はテレビ等の東にあり大きかった。借りる資格も無く、仮に借りたとしても返しにくるには金と暇が掛かる。本好きな私はこのあこがれの施設にこれたこと、また一人でこれたことに満足した。
叔父は私を自分と同じ優等生にしたかったようだ。叔父は半田商業高校を昭和30年?に卒業し、豊橋の愛知大学に入り一年でやめ河合塾に一年通いなんと名古屋大学経済学部に合格し卒業した。9年ほどあとに半田商業高校に入学した富貴の従兄弟が「本校卒業者で名大に行った人がいる」と先生が言った。あれは刈谷の兄ちゃんのことだ」と言った。叔父は私を名古屋大学豊田講堂前の広場につれて行き「ここに入れるように努力しろ」と励ましてくれた。だが出来の悪い私は、半田高校に入るのが精一杯だった。
2年近く週何日か石浜から刈谷市にいる父の弟のところに勉強に夜、 バスに乗って通った。なまけて宿題をやらずよく叱られた。冬の夜道をとぼとぼと オリオン星座の下を歩くのが辛かった。便意を催して駅の大便所に入るのに風呂敷包みを外において入って盗られたが翌日交番に放り込まれていて戻った。しかし一緒に入っていた甘納豆は無かった。
小学校の東隣に教員住宅があり、そしに住んでいた原田校長先生の一人っ子?の息子に都会的な身なり顔立ち 頭もスタイルもよく美男でスポーツ少年の模範生がいてみんなの人気ものだった。5年生?位で先生とともに転校していった。別れが辛かった。其の模範生と東浦中学校で再会し同クラスになった。なんと「小林」と言う番長生徒の手下に成り下がっていて がっかりした。転向三日め? 私はいきなり休憩時間に小林と言う番長生徒に襲われた。校長先生の息子も同い年の従兄弟も知らん振りをしていた。
3ヶ月いてまた野間中学に戻るのはいやなので 母の姉の家に1年6ヶ月 卒業までおいてもらった。東浦町石浜は私の第3の故郷である
中学2年。副級長さんの「酒井裕子さん」に交際を申し込んで断られた。
合唱部の下級生の美少女の「伊藤あや子さん」に交際を申し込んで断られた。満月を見ているとその中に彼女の顔が浮かんできた。
中学の修学旅行は東京。観光バスの網棚に載せた私のかばんから思い出にと買った豪華な二枚続きのサイズの絵葉書が落下し窓が開いていて路上に落ちた。バスを止めてもらう勇気もなく残念だった。
我家の実権は、家付き娘で第1回椙山裁縫学校(今の女学院)卒業生の祖母が握っていた。この祖母は貧富と学歴で人を判断した。村の名家の人=大崎医師の姉?を「かおる様」と呼び、自分は「おせん様」と呼ばれエリート意識が強かった。その影響で子と孫は皆 学歴のみ 身につけた。私も13歳でゆがんだ学歴主義ゆがんだ財物至上主義に染まる。祖父は祖母の従兄弟高等小学校卒でで奥田の名家(兄は元野間村村長)から入り婿(愛知県では養子と誤って呼び慣わす。法律上の養子は家付き娘との婚姻届には関係なく養親養子縁組契約を結んだ人をさすから入り婿とは異なる)に来たものだから小さくなっていた。「粉糠3合あったら養子に行くな」というのは名言だ
昔祖父は自分が働いた金で日本庭園を作った。だが、祖母の叔父から「贅沢だ」と強く非難され庭石を掘り起こして引き取ってもらった。(と母から聞いた)。祖父は祖母が病死しても何も生活が変らなかった。3世代7人家族が一人減ったぐらい。晩酌の一合は堂々と、そしてときどき隠れるようにして臨時の酒を飲んだ。それだけ遠慮して我慢して生きてきたのだ。私は毎日糖尿病予防と肥満予防のため粉糠を食べるが本当にまずい。スプーン3杯がやっとだ。「こんなものしか食べられない生活でも養子(もし愛知県だけのことわざだったら入り婿をさす)に行くな」とは・・・其の迫力に驚いている。粉糠は豚の餌だ。形身が一生狭かった祖父。
 祖母は椙山第一回生。父は旧制半田中学 母は刈谷高女 私は半田高校出である。父の弟は名古屋大学 其の妻は金城短大。其の長男は東京大学、学歴主義一族の中にあって「人は何をしようとしたかの方が大事だ」と思ったのは50歳になってから。それまで形身が狭かった。
口喧嘩大好き人間になった。父いわく「俊男は喧嘩太郎だ」母いわく「お前はあまのじゃくだ」。われ思う「贅沢をしたいとは思わない。いつでもどこでもいいたい事を言いたい」。この性質は一生変らなかった。
馬鹿女教師なのか 自分が悪いのか でしゃばってそんした話?  試験中のこと。隣の生徒が25歳?女の試験官の先生に質問をした。先生が質問の意味が分からなくて聞き返したので横から私が善意半分で そしてそんなことを先生の癖して分からないかというきもちはんぶんで口出しして「その質問はOOか?と言う意味ですからOOでなくOOOOですよね」といった。そしたら先生は怒ってものも言わず私の答案をひっつかんでくしゃくしゃと丸めて持っていってしまった。私は愕然とした。どうして?なぜそんなしうちをされなくてはならないんだ。馬鹿女め!いまのわたしなら大声で自分の主張を怒鳴り散らすところだ。しばらくして「貴方の口出しすることではありません」と言ってクシャクシャの答案を返してきた。黙って受け取ったが悔しさに涙を流した。誰にも話さなかった。この文章が最初である。54歳の今 あの25歳?女の試験官の先生の気持ちを推測するに@「質問されるということは自分の書いた試験問題文が下手だ」と感じていらだったかA自分の面子がつぶれたと思ったかB あるいは「質問の意味を生徒の鵜飼が答えてもしも正解?を暗示すると困る。勝手なことをするな」のどちらかだと思う。下積みの立場の若者と女はカッとなりやすい。だから25歳?女の試験官も ものも言わず私の答案をひっつかんでくしゃくしゃと丸めて そして後先を考えずに 私の試験時間を10〜20分削り「もう懲りただろうから許してやるか」または「鵜飼や鵜飼の親から校長や教育委員会に抗議されると面倒だ」と返したのだと推測する。人間なんて職業の差より人柄の差のほうが大きい。
保健体育の40男の教師にたてついた。  この教師は保健に50人の男子生徒の前で「お前らの父親は戦争生還者だ。卑怯者だ、戦争に行ってまじめなものは死んで帰らない。」と言った。腹が立った。校庭で鉄棒の授業で自分の番が来て 背伸びして片手で3Cmずらして鉄棒を支柱から外して見せて「鉄棒の止めねじが取れていて危ないからイヤだ」と言った。すると彼は「そんなことを言うのはお前だけだ。やれっ」と言い、それでも私がやらないと「放課後 職員室に来い」といい後の生徒に鉄棒を続けさせた。放課後職員室の彼の席に行ったがいない。いくら待っても来ない。宿直の先生が来て「どうした?」と聞くので事情を話した。『忘れて帰ったのだろう。君がこうやって全部の先生が帰るまで待ったことを明日言ってあげるから、帰りなさい」と言ったが「いや、待っています」と待っていた。先生はカツ丼を私の分も取り寄せてくれた。午後5時?から9時?まで待って帰った。翌日以降職員室には行かずに彼の出方を待った。すると保健体育の授業中演壇の上から「おい鵜飼、何ですぐ帰らなかった?俺を困らせるためか?」と言ってそれきりだった。卒業式の日、見送ってくれた先生は行列の中の私に「済まなかったな」といい私の坊主頭をなぜた。風邪をひいて前日寝込んだ私は頭がよごれていたので「手が汚れただろうな」と気の毒になった。
第四章15〜18歳の思い出

高校受験は受験料を節約、けちって半田高校1校しか受けなかった。「すべったら百姓をやります」といってしゅういのはんたいをおしきった。恐怖だった。
合格発表で自分の番号を見つけたとき「もう勉強はしたくない」とおもった。勉強はせずに進学はしたかった。不埒だった。40歳頃まで大学に合格をして喜んでいる夢を時々見。た
550人の合格者の中で385番?で入ったが(入学日翌日?の学力別クラス編成のためのテスト)、卒業は最下位(卒業式の前日?に私を入れて3人だけの追加授業とお情け試験を受けた)だった。
幻の美女  新入生歓迎の演劇部公演で「和服を着て頬紅をした主役の 女子上級生出演者」を見て一目ぼれ。其の後2年間必死に探したが分からずじまい。
芸術科目は音楽を選択して最初に習った歌は「春の日の花と輝く」。すばらしい愛の告白の歌である。素晴らしい青春の日々があるのではと高校生活に期待したがぜんぜん女生徒にもてず はずれた。恋愛をするのを祖父母両親とも嫌うので 私はびくびくしながら声をかけていたせいかも
コーラス部に入った。ピアノ伴奏の女子生徒を尊敬した。
本だけは読んだ。 学校の図書館で借りて 一日3時間くらい。休みの日は一日中。
2年生前半で尊敬する内海真君が生徒会長に立候補した。で「何でも協力するから、言ってくれ」と言ったので彼は当選した後、たったひとつしかない「会長指定副会長」にしてくれた。私は勝手気ままに振舞った。彼の施策に反対した。身勝手な人間だった。
2年生後期で 生徒会長に立候補した。締切日が過ぎて立候補は私だけ。私は喜んだ。が劣等生、落ちこぼれの私が会長になるのは誰も喜ばなかった。「期間延長をして立候補者を探して ぜひ選挙をやりたい。生徒会を盛り上げるために」と生徒会顧問の先生から言われた。同意して選挙になり敗北した。
3年生の5月の運動会の日に 担任教師から「国公立大学どころか私立も危うい。もっと勉強せよ」と言われた。私はいわゆる「落ちこ(落ちこぼれの意、其の頃の半田高校内の流行語)」である。私立大学に高い金を払って入学する気は無いので、一晩で腹をくくって「進学は断念する」と申し出た。「ではしゅうしょくぐみにへんにゅうします。就職係の先生に就職の方法を聞きに行きなさい」と言われた。美浜町役場職員になりたくて祖父の兄に問い合わせをしてもらったら「欠員は無い」とのことだった。しかたがないので 就職係の先生のところで事情を話した。すると「もう就職活動は終わってどこの企業も締め切った。もういけるのは知多信用金庫だけだ。それでよかったら。」と言われた。「お願いします」と事務計算は苦手だったがなめてかかってお願いした。数日後、「採用する」との内定通知をもらった。さらに後日 祖父の兄から「美浜町役場に欠員が出来た」と連絡が入った。私は就職係の先生に事情を話して「美浜町役場に行きたい」と言ったら「君がそんなことをすると、今後半田高校から知多信用金庫に無理が言えなくなる。後輩に迷惑が掛かる」と厳しい返事。今思うと3年生の5月より前にもっとよく進路研究をすべきだった。
夢のフォークダンス   修学旅行の数日前から練習会があった。思春期以後で始めて異性の手を握った。それも肩に回した優しい柔らかい手を!また其の音楽がロマンチックで甘くて寂しげで。ああ今思い出してもわくわくする!しかも しかもですよ わがあこがれの清楚な女生徒総出演。旅行の晩も全て参加した。夢見る。昔のあの頃が若さがなつかしい。
このあとの人生は39歳の脱サラまで「待ち」の消極姿勢が98%で 無駄に過ごした。授業も読書も「何かするための読書」ではなかったので身に付かなかった
麗しの美少女  半田高校下級生にも3人ほどデモンストレションを掛けた。同級生には5人くらい。一人一回だけ(お情けで)だれもいない教室で一時間くらいつきあってくれたが あとは全部 断られた。あの頃の女性生徒は膝までのスカートと くるぶしで折り曲げるソックスで粋だった。
高3で 当時の半田高校は就職組になったから運転免許を夏休みに取らしてくれた。7月27日が誕生日だったので7月20日?入校。補習授業代をけっちて一切受けず かわりに教習車の後席に乗せてもらって勉強した。スクールバスの始発便で登校し最終便で下校した。真夏の炎天下延べ150時間?車に乗ったせいか脳貧血を一度起こした。バスを降りたとたん前のめりに倒れた。手でかばったので良かった。バスの運転手さんが『大丈夫か?」と聞いてくれたが嬉しく恥ずかしく、すぐたって見せて『大丈夫」と答えた。帰りのバスの中の雑談は楽しかった。若い人ばかり、運転の工夫や其の日の出来事、分からない点を話し合った。皆一生懸命だった。私は実地試験で、左前輪を落としかけたが、停止してサイドブレーキを利かせてバックのはんろ発進をして減点を免れ 最少のコストで合格した。清清しい青春の40日間だった。
その後知多信用金庫から「普通免許は単車の50CCには乗れるが200CCのスクーターに乗れないから自動二輪の免許も取りなさい」と言われた。経費を掛けたくないのでいえの90CCのホンダスーパーカブ(クラッチがない)を違反だがかいがんの堤防上を乗り回していておまわりさんに調べられたことがあったが無事だった。試験はクラッチつきのおもい125CC車でやるので富貴の従兄弟のヤマハの2サイクル2気筒90CCのクラッチ好きの単車で2時間ほど練習しただけで平針試験場で試験を受けたが失敗。クラッチとチェンジの素早い操作ができなくて速いスピードでクランクに入って脱輪。知多自動車学校でクラッチつきのおもい125CC車で一時間だけ習う経費を掛けて再度平針試験場で試験を受けて合格した。富貴の従兄弟の場合は商業高校のせいかまず自動二輪免許を取りそれから普通車免許を取ったので楽だったらしい。
努力せず「自然に知り合えるのを待っていた」せいか一生の友達は出来なかった。いや一人出来かけたが顔がまずかったから「君とはおたがいに学びあうものがないようだ」と断った。欠点だが今も直らない。(50歳でボランティアで盲人の世話をしたのはイイが、気分がいらだってきたのを抑えることが出来なくて盲人と喧嘩した)
完全に自由の一ヶ月(だろうと勝手に思って)を利用してユースホステル利用の旅行を半田高校のクラスメートだった友達と二人でしようとしていたら私に知多信用金庫から思いのほか早く「卒業式の後の3月上旬に勤務開始通知」・案内が来て 行けなくなった。
お情け卒業  補習授業と追試験を一日私を入れて3人受けた。
第4章18〜30歳の思い出
1967年3月知多信用金庫就職。初任給2万円弱。ボーナス年7ヶ月?。新人研修の講師の話に「学生服を着て勤務した人がいたが立派なことだ」と言った。このひとは国家公務員天下り重役で「個人ロッカーだけではいやだ。帽子掛けを買ってくれ」といったらしい。へそ曲がりの私はいやがらせに一年間学生服を着て勤務した。
4月から武豊支店勤務。職員12人ほどの店。 総勢4にんの集金係の一員となった。当時武豊支店には日掛けと言って20軒ほどの企業を回り100〜数千円毎日集金し普通預金に入金すると言う悪習があった。月末には支払いに当てられ大事な月末残高比べ支店間レースに役立たなかった。支店長に「何の意味があるのか?」と言うと「武豊支店には職員数の割に仕事が少ないから、まだ続けている」と言った。他に20軒ほどの売り上げ集金と雑用。毎日仕事がのろくて(血筋のようだ)ノイローゼ。19年半で脱サラするまで「出来ないくせに鼻っ柱だけは強い」と言われ続けた。あの有名な名鉄武豊駅北の澤田皮膚科医院とも喧嘩した。集金日に「準備が出来ていない。1時間後に来てくれ」と3回院長の奥さんに出直しを言いつけられ「他の集金が出来ない。もう来れない。今後は持ってきてくれ」と言い放った。今思えば上司に相談すべきだった。長者番付に乗る人と100円の預金者を差別すべきだったが私はいやだ。やりたいことはやった。2年後には知多信用金庫のワンマン経営者に何度か単身談判に行ったこともあった。最初の給料で両親にプレゼントをした。
7月 2か月分の給料をはたいてカメラ(アサヒペンタックスSP一式4万円弱、ニコンのニコマート5万円とどちらにするか迷った。)を買った。私は給料1か月分以上の買い物をするときはなぜか興奮し「損な買い物をしていないか」と心配した。帰り際ドアを空けると「またお願いします」と40男の店主に言われて「ああ」と18男の私が後ろも見ずに答えると「えらそうに」といわれた。背広を買うときも給料1か月分以上の買い物になりこれまた興奮し、『これを5年着るつもり、自分には過ぎた買い物だ」などとしゃべりまっくった。高額の買い物に慣れていない田舎者だった。
生まれて初めてが続々の最初の慰安旅行。 伊豆長岡に仕事を終えた夜出発の 車4台?に分乗のドライブ。上得意の資産家4にんがクラウン等マイカー提供で参加した。28歳?男の店NO3の上司が可愛がってくれて「旅行出発日夕方に仕事を終えたら僕のうちに来ないか。家内の手料理をご馳走しよう。」と言ってくれた。ありがたく好意を頂戴した。親にもらった白米を持参した。ご夫婦の会話を聞いていて「夫婦ってこんなに仲の良いものか」と思った。私の父母・富貴の叔父夫婦・石浜の叔父夫婦には暖かい会話が無かったから。生まれて初めてただで全くの他人の家でご馳走になった。コップ一杯のビールで天井が回った。夜通し走って朝富士五湖についた。生まれて初めて写真を撮った。甲府石和温泉で一泊。生まれて初めて宿屋で泊まり 生まれて初めて宴会に出て 生まれて初めて芸者と口を利き嫌悪して 生まれて初めてげろを吐いた。飲んでいるうちに酔いつぶれ布団に寝かされ寝ながらげろを吐いた。15年たって私に真相が分かった。酒豪のNO3が「今も思い出すたびに新入しゃいんの君にどうしてあんな残酷で愚かな事をしたのか」悔やまれると言って以下の事を明かしてくれたから。コップ一杯のビールで天井が回った昨夜の私の酒の弱さを彼は知っているので修行させるつもりで「飲め飲め、どちらがたくさん飲むかコップ酒の競争だ」と言った。私は負けん気で反抗的で「貴方には負けない 負けるものか」と言う考えで記憶できないほど飲んで お酌する芸者に「芸者は嫌いだ」と言ったらしい。私はそういう人間だった。芸者は顔色を変えなかったそうだ。心優しい彼は「何を客だと思って生意気な、思い知らせてやれ、罰として二日酔いで苦しませてやれ」と思い自分では適量飲んだら飲む振りをして もうふらふらしている私の前におき、「はい君の番だ」と言うと「」と飲んだ。1升以上注がれた酒を全部飲んだらしい。2日間頭痛と吐き気がした。
伊豆長岡の宿は元財閥の別荘で日本庭園の中に建物が散在していた。
屋上でバーでキューをするのにコンロと金網の間にはさむ物を見つけて来いと言われ浄化槽の点検こうの縁石のれんがをもっていったが汚い気がした。
18歳で『早く嫁さんが欲しい」と言うと『まだあんたの相手は小学生だよ」と言った人がいた。へえそんなものかと思った。でも冷静に考えれば中高生だ。21歳頃その人が『俺の妹をもらわんか」と言ってくれた。が、家庭にまで仕事の苦い押しつぶされた思いを持ち込みたくないので「いえ、ちょっと」と言って断った。もし私が仕事の出来る人間であったら「会ってみてから」と言ったと思う。恋愛嫌いな家風の農家の長男の寂しい日々。後のことだが一緒に入った7人の高卒男で見合い結婚は私だけ。
日掛け集金の前任者T氏は頭の切れる人で、 読書家で「職業により人生観が左右される。偏らない人生観を持つためには3回 3種の職業に付くと良いらしい」と言った。深い言葉だった。前任者T氏と人物批評をし合っていて、そのまた前の前任者I氏について私は『あの人は浮いた話ひとつない立派な人だ」と褒めあげた。ところがまもなくI氏は駆け落ちして無断退職した。後日前任者から「見る目がまだ無いよ」と言われた。
集金でお金の不足が出た。三浦支店長は私が負担すべきところを負担してくれた。(支店長に中元を1回だけ持っていたが、狡賢い手段だと思い止めた。)支店長は店の応接室に私物の「日本の国宝」「原色日本の美術」20冊をおき読ませてくれた。支店長の仲良しのお客さんが采根譚(老荘思想)碧岩録(禅の教科書)を貸してくれた。東洋思想に触れた。いくらも分かりはしないがもの珍しい感じがした(ガリバー旅行記を読んでいるような)。
ひとの分の宿直も代わりにやらせて貰い8人くらいでやる決まりを1日おきくらいにやって金を貯めた。守銭奴だった。マージャンをやる先輩たちに夜遅くまで宿直室を占領されてしかたなく客用長いすで寝たことも会った。寒くて白い布カバーの背もたれ部分をはがしてからだに掛けたらしわくちゃになって肩身が狭かった。外出は禁止だが風呂だ食事だ気晴らしだと内緒で出かけた。友達を呼び寄せたりした。
店の駐車場で遊ぶ園児を内緒で店の中に入れて遊んだ。後日其の園児が仕事中にもかかわらず遊びに裏口から入ってきて困った。子どもの考えを知った。
ハンドルの遊びの異常に大きいお古のぼろスクーターで50キロほどの荷物を取りに行かせられ、でこぼこ道で転倒した。私は支店長と 其のスクーターを私に押し付け新車を自分用に決めた店NO2の二人を憎んだ。
 先輩女子社員が3人いた。ひとつ先輩の鈴木さんは細く白くきれいな人だったが、3年勤めて止めていった。彼女の最後の勤務日は月末だった。皆が残業する中、男子社員が車で送って言った。私は算盤をはじきながら戸外の物音に耳をすませた。ドアを閉める音。エンジンの音がしてそれが遠ざかっていった。寂しかった。後日詩にした。淡い恋心。
同期女子社員が1人いた。おっかなくもありまた嬉しかった。
1、2年後に可愛い小柄で目のつぶらな年下の女子社員 が一人来た。モーションを掛けたが振られて、ほかの男と一緒に歩いているのを目撃して辛かった。数年後 人づてに「結婚する」噂を聞いて寂しかった。片思いばかりの青春。
20歳。趣味娯楽は1に読書2に音楽鑑賞。 だが。最初のステレオで失敗した。雑誌のある記事だけが頼りだったので音を聞くことも無く決めた。候補は2機種でどちらも定価79800円。@一番安いのでもパイオニア社の製品はこの値段。30Cmターンテーブルと角型アームが売り物の新製品で音は触れてなかった。A対抗馬はトリオ(今のケンウッド社)音の柔らかさでは定評があった。しかしターンテーブルが28Cmで見劣りがした。ずいぶん迷ったが@にした。理由は会社はパイオニアのほうが立派だし(名古屋の松坂屋の西にあったパイオニア社のショウルームで聞いた16万円のものが欲しかったが3万円の給料では手が出なかった。)装備が立派だということ。給料2か月分以上はたくにはいかに音が評判が良いとは言え旧式かつ2番手メーカーの製品ではいやだった。国鉄半田駅東の寺沢楽器(今はもう無い)で買った。土蔵の中にコンセントと照明を配線して、入手した最初の3晩は半ば徹夜で「運命」「新世界」を聞いた。美しいスタイルだった。大迫力だったが音は硬かった。その後友人のAを聞かせてもらって愕然とした。迫力は無かったが柔らかく滑らかで私好みだった。ロックを聴かない私はAの方が合っていたのだ。この失敗で私は「自分にあったものを買う主義」に転向した。見かけは捨てた。ブランド志向は捨てた。その後54歳まで、見切り品の安いのばかり、いくつもアンプのみ、プレイヤーのみ、チューナーのみと20個ほど買ったしテレビのスピーカーを廃物利用して自作のスピ−カーボックスを作った。レコード店を開く時には店の装置を東京・秋葉原に出かけて耳で実際に確かめて買ってきた。人間は失敗して疑い深くなる。
大崎医院の先生に貯金のお願いに言ったら、タンノイのスピーカーのある洋間に通された。うらやましかった。一時間ばかり次の文化の薫り高い話を伺った。
  @町村合併のどっちに加盟するかで村は二分してムシロバタが立ち夜道に見張りが立って誰が誰のうちへ行ったということまで  問題にする激しい抗争があった。

  A四島座(村所有の集会所)が江戸時代の村芝居小屋の遺構だから文化財に指定してくれ」と役所に申請したら調査に来て「せ  めて床下に回り舞台の軸受けの礎石があったら・・・」と断られた。

集金先のガソリンスタンドの推定23歳の女性社員さんから「名古屋市公会堂にダークダックスが来るから行きましょう」と誘われてうれしくOKした。当日自分の仕事が終わったが「計算があわない(借り方合計と貸し方合計が一致しない。)」か何かで、他の人は全員まだ仕事をしていた。が当時の支店長に「用事があるので帰ります」と言ったら「今度だけは許す」と言ってくれた。当時は大晦日も会社で新年を迎えた。紅白歌合戦が見えないほど遅くまで仕事をした。高度成長真っ只中であった。名古屋市公会堂に行ったがなんとも古臭い建物だった。切符は彼女が買ってくれた。帰りにタクシーをおごってくれた。私がタクシーを降りる時「年上だから結婚してくれとはいえない、これっきり最初で最後」といい1秒間私の手に触れた。「我が家が恋愛を嫌う家風でなかったら」なと思った。
趣味娯楽の3番目は旅行。中学1年の頃は自転車で刈谷市のおじを尋ねたり名古屋見物をしたのみ。高3で運転免許を取ってからは父のカブ(90ccのノークラッチのクッションの悪いオートバイ)で2、3回京都に行った。エンジンをいたわって行きは時速30キロ帰りは時速40キロで国道1号線を徹夜で走って3日のたびをした。カブのエンジンが傷んで父に『加速が鈍ってきた」と苦情を言われた。ヤマハの2サイクル2気筒90ccに乗る富貴の従兄弟と日帰りで三河の三が根山へドライブに行った。2年後従兄弟が軽自動車を買ったのでヤマハの2サイクル2気筒90ccを月給の3分の1出して買った。
合意家出  20さいころ禁欲的な両親の監視下?に偏屈ものの私は知多信用金庫武豊町支店に勤める毎日を読書三昧で送っていた。だがある日朝ごはんを食べながら 「このまま、こんな毎日を送って いっしょう、孤独で終わるのか」と思ったら、自分で自分がかわいそうになって 味噌汁の中に涙が落ちた。「孤独で終わりたくない」から公認家出をした。祖父が「今まで稼ぎためた金をみんな親に渡したそうだが、親を捨てていく俊男の気持ちが分かった」と言ってくれた。引越し前夜「どうして出て行くのか理由がわからん」と言って父は私の枕元で泣いた。そして武知多信用金庫支店豊支店の近く武雄神社の近くの下宿屋( 学校の先生5人を下宿させている家庭)の仲間入りをした。読書三昧の日々。朝と夜の食事と風呂はそこでお世話になった。ご主人は国鉄に勤めていた。私が「民間企業は男性と女性で社員の給料に差があるのに国鉄など役所にはそれがない。無駄な経費ではないか?」と言うと「男女同一賃金でやるべきだ」と言った。その後国鉄は倒産した。当時の私は20歳?で反論できなかったが今の年齢54歳ならこう言うだろう。「国鉄職員さん!あなたがたは肉体労働者の入浴施設も持ち入浴時間にも賃金を払う。これはなぜか?真の経営者たる国民が無知で、雇われ番頭たる議会議員を運転操縦できなくて暴走させているからである。(番頭たちは皆自分のことしか頭にない。手下の役人他人の国鉄職員給料が上がったから自分議員の給料も上げてくれと言いたいために上げ過ぎた。民間企業は払えなくなったら即倒産だが役所系企業は税金と国公債がある。其の分だけのんびり構えて理想だの人道だのと余計な職員を抱え、民間企業だったら割愛する経費を掛ける。(塵集め車の2人乗務)(半田税務署の水のみ装置と豪華トイレ)(大蔵省の「個人ロッカーだけではいやだ。帽子掛けを買ってくれ」等)ている。」と・・・。今にして思えば官も民も戦後の復興を過信して給料を要求しすぎ学歴主義に走り過ぎた。今はいかに半減させるかが大事だ。即ち「所得と進学率は全世界の平均まで落とせ」だ!武豊は私の第4の故郷である。単車も持って家出したのでシートを被せた野ざらし。6ヶ月ほどしたある日家庭のご主人が言うに 「あなたの御祖母さんが心配して尋ねてきて『早く俊男が家に戻りたくなるよう仕向けてくれ』と言って帰りましたよ」。それで家出生活はやめて家に戻った。家中温かく迎えてくれたけど唯、偏屈ものの母だけは「今度だけは許してやる」ととげのあることを言った。母は友達もなく、潤いのない、おかしな性格だった。
21歳知多信金北支店に転勤(半田市、一番最初に出来たボーリング場付近にあり今は東南に200m移動して瑞穂支店に変った。)した。先輩と雑談していてこう言われた「君はすぐ先回りをして結論を言うから話がしずらい」。そう其のとおり。其の頃の私は教養に憧れ読書と思索の日々を送りそうで無い人を馬鹿にしていた。読書と1人旅行で独身時代をすごした。北支店に3ヶ月いて支店長から「一人減らされることになった。君を出す」と言われてまた転勤。
21歳本店営業課に転勤した。
生命保険に入るのに、険尿の試験紙に しょうべんを掛けすぎて失敗した話。
 セールスの70女に「少し掛けてください」と言われ「何を詐欺のような言うのだ。正々堂々とやれ」としっかり掛けた。そした ら「尿に糖が降りている」と言われて「今までそんな診断をされたことがない」というと「医者の診断書をもらってきてくれ」と 言う。そこで辻医院で精密検査をしたが「降りたり降りなかったりの体質です」と診断書にあった。健康体の掛け金で加入できた が残念なことに誕生日が過ぎたために毎月50円?30年間余分に払うことになった。形だけちょっと濡らしておけば「糖が降り ている」と言う判断にならなかったのかしらと今も思う。

23歳でぜいたくだがスズキの軽乗用車を買った。会社のマツダキャロルと従兄弟のスバル360は急坂が早く登れない。後輩のほんだN360はクラッチが荒々しい。日本中ドライブするに適した軽乗用車をと本で研究した。連続高速性能ではスズキフロンテが一番とあった。成岩の竹内モータースで値切ったら店主が言った「最初安く買っても修理費を高く払わされたらおんなじですよ」。この言葉は真実を述べている。この人物は信頼できる!そう閃くものがあって、その店主の人間性にほれて生まれて以来最高額の買い物をした。そして以降30年間其の店が廃業するまで、買い続けることになった。9台スズキの軽乗用車を買い続けた。そして沖縄を除く全都道府県に行った。一代目は空冷で音がうるさく一年半で乗り換えたが二代目は10?年135,000キロ乗った。信楽の山道でオーバーヒートして痛み15分ごとに冷却水を補充しなくてはいけない状態になるほど乗った。3代めと4代目は居眠り運転で壊した。鈴木自動車は三気筒エンジンが取り柄でその後4気筒のスバル以外は三気筒になったようだ。(ホンダのFF駆動方式と台形スタイルは画期的で全メーカーの大衆車がまねした。ゼロ戦の半分を製造した中島飛行機の後身が作るスバルは新聞配達の発進停止の繰り返しに10年耐える唯一の軽自動車らしい。)竹内モータース店主は職人気質、頑固一徹な人でねじを強く締め私では緩まないこともあった。店員のやった作業を点検するので店員は定着しなかった。70歳で廃業した。私そっくりの人だ。
25歳頃、茶華道部を希望者が一定数あればスタートさせる通達あり。新聞部設立を目論んでいた私は「@これを成功させて、次は新聞部創設をと会社に依願しようA茶道を習いたい」と入部した。新聞部のほうは「ちたしんだより」というPR紙担当にさせてもらたから半分だけ実現した。茶華道部は夜勤に回されるまで10年くらいだったか在籍した。会社の和室に出張してくる中村英子先生(古扇楼の妹の方の先生)の言葉で良かったものは「@茶の木畑に入らないよう気をつけなさい:お茶以外の回りのことに関心を持たない=茶のことだけを価値観の中心におく=お茶キチガイになってはいけない。Aどんどんお茶会に出なさい、ただし慣れないうちはタバコ盆の前に座る(正客になる)のは恥をかくので避けなさい。B決まりは知っていなければならない。が、囚われることはない。楽しみなさい。(この教えを家内に話したらいい先生だといった)C極意は「和敬静寂=和やかに静けさを味わう」「一期一会=人は一期(一人生)に一回会うだけの人もいることを考えて他人と接するべきだ」Dお菓子を一口で放り込む私に「楽しんでいるのだからいいが、他所ではしないでね」E「散歩してたら塵ステーションに一抱えもあるいい手洗い鉢が捨ててあったので拾って来た。Fある大病院の婦長さんが「医者の薬はもらった量の8分目飲むのが胃のためにはいいですよ」と教えてくれた。G「お弟子さんを縁組が目的で仲介してくれとよく頼まれるがわづらわしい」といいつつも私にも一人紹介してくれた。
ついでに私のお見合いを全部記すと@岩滑新田の人。横須賀高校だったか半田東高校だったか出で「半田高校に入れなかったから」といい、夜送っていってお兄さんに会ったが、後日「兄の服が歯磨き粉で汚れていて恥ずかしかった」と言った。私にとって3人目のデートで新鮮だった。断られたが感じのいい人だったAいそがしいのか乗り気でないのか稲沢だか遠くに呼び出されて出かけ喫茶店で1時間ほど話して別れ翌日?断られた。名古屋大学出の学校の先生?「校舎はぼろ校舎です」と言っていった。B茶道の中村英子先生(古扇楼の妹の方の先生)のお弟子さんで話題性格が噛み合わなかったC妹の友達。半田高校を出て美術か何か目指して挫折して病院の事務員になっていた。強引に説得して決まりかけたが叔父とおばに正式に申し込みに行ってその場で断られた。なぜ事前に断りの電話をくれなかったのか。大勢の人の心を傷つけてしまった。「農家の長男」のところに来たくなかったようだ。D思い出そうと思案中。断られたのは確かEある相互銀行に勤めていて感じの良い人。F家内です。EとFの縁談がかち合って本人に優劣つけがたくFが親の年収財産が我が家と釣り合っているので選んだ。知多信用金庫7人の同期生でお見合い結婚したのは私だけ。
タクシー運転手から東海銀行支店長車の運転手になり定年退職して知多信用金庫に入った人が1・2ヶ月して私に「東海銀行半田支店に貴方と似合いの娘さんがいるから紹介しましょうか?」と言い「お願いします」と言うと「身上書が欲しい」と言う。書いて渡すと彼はそのばで見て「年収欄をもっと高額に書いてくれ」と言う。嘘を言って結婚してはいけないと考えたから「出来ません」と断ったから、それで縁談は立ち消えた。其の「年収欄をもっと高額に書いてくれ」という言葉に私は衝撃を受けた。「なぜ書き換えなくては成らないか。」彼は言わないし、こちらも尋ねなかった。30年近くたつ今ではこう推測する。彼は身上書を受け取って東海銀行のどうねんれいの社員の給料にくらべ たぶん半分近い、そして当の相手の娘さんの給料よりも低い私の年収にびっくりして、@「しまったこれでは釣り合わないな、壊そう、鵜飼から断るよう仕向けよう」と思い表現した。Aまたはいかに東海銀行支店長車の運転手を何年も勤めた人とは言えタクシー運転手にあがりの彼には「嘘をついて結婚しても最初の給料日にばれてしまい一生うそつきだと思われ幸せになれない」ということが分からなくて 何とか結婚させてやろうと嘘をつくことを勧めた。
25歳頃一週間休暇をもらって北海道ドライブ。摩周湖の霧が素晴らしかった。道に迷って泥濘の細い農道で方向転換して緊張したこと。派手なペンキを塗ったサイロのある農場に入っていって道を尋ねたら眉毛を描いている娘さんが教えてくれてボーとなった。帰り道、青森県あたりでガス欠。さっき見たスタンドへ戻ろうとして、長距離トラックの運転手さんにお世話になった。それまではこういう職業の人は怖いと思っていたが見方が変わった。
29歳5ヶ月で見合い結婚した。知多信金7人の同期生(全て高卒、同年)の中で、見合い結婚は私だけ。
第5章 40歳以降

つらい知多信生活を39歳で終え、刈谷の叔父の尽力で、昭和62年2月20日、同盟書林の成岩店のひとすみを借りてレコード店を始めた。
9年半で同盟書林と喧嘩別れをして現在地(半田市昭和町4丁目13番地)に移転した。
今55歳になり人生の3分の2は過ぎたのに身は立たない。小学中学高校3校の卒業式で「仰げば尊し」を熱唱したにもかかわらず。其の歌詞の中身を用いて自分を分析すると「 身は立たない 名は挙がらない やよ励めない・・なまけてどうにもできない。」
生々しすぎて世間に晒
せない。


鵜飼さんはご自身のことをいろいろと書かれておられます。
恐らく謙遜も多く入っておいでだとは思います。鵜飼俊男より「生々しすぎて世間に晒せない。晒せば、他人・家族のプライバシーを侵害する。刈谷の叔父から印刷機を譲ってもらい、自叙伝を印刷しました。、自叙伝が私の主張の骨子です。でも、真っ先に叔父に献呈するべきべきなのですが、贈れないのです。叔父の学歴偏重を批判しているからです。

私は思いました。鵜飼さんはとても繊細で正直な方なのだと。

無類の本好きで保守的なご家庭に育ち、真正面から
人と接して来られたのですね。
逃げる事なく真正面を向いて生きて来られたからこそ
紆余曲折の人生があったのですよね。

あちらこちらに鵜飼さんの本音の本音が見えたような
気がしました。・・・ぽつんと書かれた言葉の中に素直な心が窺われます。

脳そのものに一生消えない満足感を与えることが人生の目的

私も同感です。これからも「良かった」が多くあるに
違いありません

鵜飼俊男の感想 

55歳で、自叙伝を公開するのは危険が多い。登場人物の大半が生存している。だから15年未満のことは、書けない。批判された人が、それを知れば、争いの種になるから。歯がゆい。自叙伝は、少なくとも、執筆者から見た真実である。あるいは、そう世間に思わせたいでっちあげである。あるいは、一部嘘である。あるいは記憶違い。人は、思ったままを書くべきである。自分のために、そして世のために。

この人の文章は、私を落ち着かせる何かがある。大和王朝のころより日本にあり、今もひそかに残っている心。

3797.jpg我が家の百日紅。私の子供の頃50年前が一番鼻が多かった。これが100くらい。伊勢湾台風等の影響も有ってか、今は30ほどしかない。

10/2

6387.jpg6388.jpg6389.jpg6390.jpg

10/1

6377.jpg6379.jpg6380.jpg6381.jpg6382.jpg6383.jpg6384.jpg6385.jpg6386.jpg