ノート3




意外性、偶然性

興奮するものというのは、すべて意外性があるものだ。ギャンブルでも興奮する一瞬というのは、負け続けてもう止めようとするときに、バーンと来て、いっぱつ逆転というときだ。スポーツでもそうだと思う。圧倒的に強いところが、勝ってもあまり面白くない。

小説でも、意外性の無いものはつまらない。批評も意外性の無い結論は退屈だ。エロティシズムもキーワードは意外性だと思う。コードを食い破るところにエロスが生まれる。コードになってしまうと飽きがくる。

意外性は人生を面白くするもの、興奮を呼ぶもの、と同時に人が嫌がるものでもある。悪いほうに転べば・・・。そういうリスクを無くそうとするものである。保険はその際たるものだ。意外性は両面もっている。人生を面白くし興奮をもたらしてくれる側面と、悲劇的な側面と。

意外性や偶然性はコントロールできない。だから人は恐れる。事故でも病気でも、そうなることが運命付けられているのならば、納得できるかもしれないが、偶然起こるわけだから、何でだ・・・という怒りがこみ上げてくる。しかもそれはやり場の無い怒りだ。 悲劇が“悲劇的なのは”、それが起こったからではなく、それが偶然起こったからだ、とデリダは書いていた。

人が納得する過程は、偶然を必然のこととする過程である。それが無い限り、傷から癒えることは無い。しかし人生は偶然の積み重ねじゃないだろうか。 いま、ここにいるのも偶然ではないだろうか?だが、偶然か必然か、本当のところは分からない・・・





ナショナリズム

ナショナリズムは、卑近な例でいえば、こういうことだと思う。自分の子供はかわいい(かわいくない人もいるだろうが)。だけど人に面と向かって、うちの子は頭が良くて、かわいくて・・・なんてやられたら、周りの人は不愉快だろう。自分の子供はかわいい、それはいい。ただ、それを表に出して人に面と向かって言えば、周りの人は嫌な気分になる。

自分の生まれ育った国に愛着があるのは当然である。これを否定することは出来ないし、その必要もない。ただ、それを他の国の人に、自分の国はこんなに良くてとか、他の国に対する優位性をべらべらいわれたらたまらない。これがナショナリズムだと思う。

国際感覚というのは何も特別なものではないと思う。ふだん排他的な人が外国語が喋れるとか、外国に何年住んでたからといって、国際人ではないと思う。逆に、べつに外国語が喋れなくても、わけ隔てなく人に対することが出来れば国際人ではないだろうか。




友人

友人とは何か・・・。友人関係は、つかず離れずというのがいい。くっつきすぎても疲れるし、離れすぎると寂しい。やっぱり人と、自分は違うものだ。こういう認識が必要だと思う。くっつきすぎると、自分を相手に合わせようとしたり、また相手に合わせることを要求したりして、お互い疲れるし、相手を傷つけることになる。これはよくない。

また少し離れることによって、相手がよく見えてくるし、そうなってはじめて相手を思いやることが出来る。また、そっぽを向いて離れすぎてしまうと、相手のことが見えなくなってしまうし、寂しくなる。





テレビが世間

テレビが世間だ。テレビが世間を作っている。これは80年代ぐらいからの現象ではないか。テレビが政治を動かす。世論調査と称して。政治家はそれで動いている。まあ確かに世論なんだろうが、危険な気がする。

テレビで世論調査ではこういう風になっていると言われると、それを観ている何百万という人が、世論はこうなっているのか、ということで一斉にそちらに流れていく。個人が無い。個人で考えているような感じじゃない。世論調査に同調し流されているような気がする。ポピュリズム、全体主義の臭いがする。





内面と外見はつながっている

いまは外見のことばかり気にする人が多い。テレビの影響だろうか整形などが流行っている。見た目も大事だが、付き合っていくのに大事なのは、内面だと思う。

内面と外見はつながっていると思う。
内面が磨かれている人は、やっぱり表情に出ている。やさしい人はやさしい表情をしている。 整形で変えることのできるのは、顔の造りで、内面を写すほうの顔ではない。たとえ整形して人が寄ってきたとしても、そんなもので寄ってくるのはたいした奴ではないと思う。

もっと内面を磨いたほうがいい。いい映画を観るとか、いい本を読むとか、愛情のこもった人間関係を築くとか。そういうことは表情に出てくる。顔を作っていく。40になれば自分の顔に責任を持たないといけない、というのはそういうことだと思う。顔に刻まれたシワ、表情、目つきがその人を語らずして物語ると思う。内面を磨くこと、これが遠回りなようで、一番の近道、直線コースだと思う。





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