ノート6




チャイルド・アビューズ

子育てをしたことがない者が語るのは無理かもしれないが、近年の幼児虐待、過保護に関しては無視できないものがある。

幼児虐待(チャイルド・アビューズ)は私が高校の頃、アメリカで問題になっていた。今から10年以上前のことだ。なぜ子供を虐待するのだろうと不思議に思った記憶がある。だいたい日本はアメリカの10年遅れで同じような問題が出てくる。幼児虐待は近代化の終焉で起こる普遍的な問題なのだろう。

なぜ虐待するのか。この問題には核家族化、離婚の増加、そして地域の人間関係の希薄化が関係している。核家族つまり両親と子供だけだと密室になってしまう。昔は親と同居したり、近所に親戚がいたりして、横からの目が在った。いまは母と子だけ、父親も会社にいて家にはほとんどいない。こういう息苦しいような状態になっている。

そして近所づきあいも格段に減っている。私が子供のころは近所の付き合いが密接にあった。その付き合いは、本当に生活の一部を占めるような大きなものだった。もっと風通しがよかった。近所の人の目があれば子供を殺すような極端なところまでは行かないだろう。

今はそういうのはほとんどない。とくに都会では。挨拶程度とか、そんなものではないだろうか。またそういう希薄な関係を求めてきたところもある。つまり近所づきあいは面倒くさい、うっとうしい、そういう側面が多々ある。

訊ける人がそばにいないので、母親もどういう風に子育てをすればいいのか分からないのだろう。以前、子供は母親、祖父母、ご近所、みんなに育てられた。いまは子育ての負担が母親一人に集中してしまう。重荷を背負った母親はストレスがたまり、子供に当たってしまう。父親は話に乗ってくれない。あるいは父親も虐待に加担する。
殺される子供のケースをみると、両親ともども虐待してることが多い。特に再婚での連れ子が虐待される。再婚で連れ子がいる場合、最初から行政が介入してケアするようなシステムが必要なのではないか。



周りの目がないから、暴力はとどまるところがない。子供は悲惨である。逃げ場がない。唯一安心できる親のところが安心できないとしたら地獄である。核家族、近所づきあいの希薄、これは気楽さを求めた結果でもある。それがこういう問題を生み出してる。どうすればいいのか。

子育てに関するアドバイザー的な人がいると思う。母親もどうしていいのか分からないのだろう。アドバイザーなどの横の目がないと、どうしても密室になり、極端な結果になる。こういうのは行政だけでなく民間のボランティア的なものでもいいと思う。子育てを終えた、リタイアした母親が、時給をもらってやってもいい。こういうのは今もあると思うが、もっと増えるといい。

虐待と過保護は表裏一体だと思う。つらく当たるか、過保護になるか。どちらも子供にとって良くない。子供との距離が上手く取れてない。くっつきすぎるか、跳ね飛ばしてしまうか。これは子供との距離だけでなく、人との距離が上手く取れてないのだろう。社会とのかかわりがなくなり、家庭という密室にこもると、人とのコミュニケーションが上手く取れなくなる。

近所づきあいはうっとうしいものだが、同時にコミュニケーションのとり方を学ぶ場でもあったはずだ。昔のような密接な近所づきあいは無理かもしれないが、希望するものが集えるような地域の場があればいいとおもう。そこで母親同士が情報を交換し合ったり、お互いが話し合えるような場が必要なのだと思う。
ネットの活用。『ご近所さんを探せ』のようなもので、コミュニケーションの場を作る。アドバイザーに相談できる場を作る。

とにかく子供は悲惨だ。子供は親を選べない。親も子供を選べないが、立場は子供が圧倒的に弱い。





文章の領域

小説が衰退しているといわれて久しい。近代文学が終わったとか。
近代化が終われば近代文学も終わるだろう。

『連続テレビ小説』というNHKの朝の連続ドラマがあるが、あれは昔だと新聞の連続小説が役割を担っていたものだと思う。題名もまさに『連続“テレビ”小説』だ。今はテレビがその役割を担っている。人は新聞の連続小説を読む代わりに毎朝テレビのドラマを観る。

私自身も小説から刺激を受けることは少ない。小説を読んでみようという気にもならない。少し読むだけで、投げ出してしまう。読み終わるまでに、すごく時間がかかる。それを考えただけでも萎えてしまう。小説にリアリティを感じない。映画、テレビの方がリアリティを感じる。

しかし、その一方で文章の可能性も感じる。文章にしかできないこと、そういうものがあるはずだ。論理的なもの、これは文章が得意とするものだと思う。映像で複雑な論理を提示することは難しい。文章だと順を追って読めば理解されうる。抽象的なもの、抽象的な概念、これは言葉の領域に属する。批評や哲学、これは生き延びると思う。

小説を書く場合、批評、映画、テレビ、この隣接するジャンルを意識していないといけないと思う。批評、映画、テレビで出来るものは書いてはいけない。批評の影響がそのまま透けて見えるような小説が一時期流行ったが、そういうものでは批評に勝てない。小説でしか味わえない何かがないと。

散文の可能性。それはこういうエッセイのようなものにあるのではないか。とりあえずそう思う。もちろん小説にもあるが、ジャンル意識を強烈に持ったものでないとだめだと思う。その小説は絶対に批評では出来ないし、映画、テレビでも出来ない、音楽でも味わえないようなもの、そういうものでなければならない。





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