ノート14



子供はどこから来るのだろう

無防備なSEXで子供ができて、人生が狂う(変わってしまう)人もいると思う。できちゃった結婚。子供が生まれるには、そういう偶然性が背景にある。子供を意識的に作ろうと思っても、授かるかどうかは分からない。

科学的にいえば私は母親の子だろうが、違うともいえるかもしれない。母親の子というのは気休め。コウノトリが運んできた。そのほうが正しいかもしれない。人の誕生と死ほど神秘的なものは無い。人間の存在そのものが神秘である。「世界の中に神秘は無い。世界があることが神秘である。」(ウィトゲンシュタイン)




幼少期の記憶と詩

マンダイ百貨店(百貨店といっても市場のようなものだが)にお婆ちゃんに連れられて行った。大きなカマキリが鉄のポールの上にいた。たぶん初めてカマキリを見たのだろう。じっと見ていたと思う。お婆ちゃんが先にいっても見ていた。もっと見ていたかった。なんかそういう気がする。はじめてお婆ちゃんの家に泊まりにいった。トウモロコシを一つ新聞紙に包んで持っていった。お婆ちゃんはトウモロコシのことをナンバと言っていた。

たぶん、初めてのことが記憶に残るのだろう。未知のものに対する不安、興味で脳が活発に動く。こういう記憶は誰しもあるとおもう。逆に新しいことがなくなると脳は動かなくなる。幼稚園の入園式の前日、幼稚園の制服を自分で着られなくて泣いた。室生犀星萩原朔太郎の詩を読んでいたら、こういうことを思い出した。

詩は短い中に凝縮されている。ひとつの詩が小説の一冊分ということもある。詩は短いからといって文句をいう人はいない。単純な長さの問題だけじゃない。ああいう形式でしか言えない。詩が与えてくれるヒント。

詩は小説よりも衰退しているといわれる。しかし詩的なものに惹かれる。それはロマン派的なものではない。そういう形でしか表せないもの、凝縮された形、そういうものがある。

詩は読まれないが、音楽がその代わりをしている。音楽の詩。文章そのものが音楽であるような、そういう文章が理想だな。




ブラザーフッド

国がどうこうじゃなく、民のつながり、横のつながりを強化しないと。具体的な横のつながり。国外に友達がいる。家族がいるなど。ワールドカップでは韓国と日本は民間で協力し、お互いに応援した。

国家はなかなか無くならない。アメリカも日本も、いま、より強調されている。北朝鮮を見ていると、国家というものは放って置くとああいう風になるということを知らされる。異様な感じがするが、日本も50年ほど前はああいう感じだったと思う。国との関係が垂直の関係だとすると国家を超えた横の関係、市民の横の繋がりがより重要だと思う。人間同士のパーソナルな繋がり、トランスナショナルな連帯。NAMのような運動が目指すのもそこだと思う。中上健次が『異族』で言っていたブラザーフッドというのもそういうことではないだろうか。路地はどこにでもある。

動乱期は注意深く生きなければならない、と誰かが言っていた。微妙な変化、何かが生成してくる、それに注意しなければならない。ついついパターンで見てしまう。年をとるごとに余計そうなってしまう。パターンで見てしまう、ワクで捉えている、そのことにいつも自覚的でなければならない。そのことを自覚させるのはいつも自分を揺さぶる現実だ。歴史は振り子のように行きつ戻りつするが、同じところには戻って来ない。




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