| 浦和の赤い壁 崩壊の歴史? ■浦和レッズのセンターバック変遷■ |
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【前口上】 唐突ですが、レッズサポーターの皆さん! 率直に言って、ウチって、センターバック足りてると思いますか? 育成にせよ移籍にせよ、ちゃんとそのポジションが補強できていると思いますか? ソコんところが私はどうにも気に入らないんで、ちょっと記憶をひも解いてみました・・・。 森GMかく語りきと合わせてどうぞ。 |
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崩壊の萌芽 1996年 話は1996年に溯る。 当時の浦和は、元ドイツ代表のギド・ブッフバルト、元フランス代表のバジール・ボリ、そして田口禎則の3バックが、Jリーグ随一の『赤い壁』を形成していた。ドイツ人監督オジェックによるシンプルなディシプリンをベースにした強固な守備と高速カウンターは、浦和の代名詞だった。浦和が、優勝が手に届きそうなところにまで到達していた時期だ。 しかしながら、30歳を越えたこの3人のディフェンダーは、年齢による衰えと故障で、常に万全というわけではなかった。層が厚いとは言えない陣容で、場合によってはサイドバックの山田暢久をストッパーに、守備的MFの広瀬治をリベロに起用する事もあった程だ。 |
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なんちゃって世代交代 1997年 ブッフバルトが一転、浦和残留を決めて臨んだ97年シーズン、センターバックのポジションには一挙3人のルーキーを獲得した。日大の渡辺敦夫、向上高校の三本菅崇、西武台高校の田畑昭宏である。センターバックは総勢7名体制となり、数は確保した。ルーキーの3人のうち、一人でも目処が立てば、97年シーズンを乗り切る事は可能に思われた。 しかし、前年から抱える問題は、根本的には解決されていない。2人の高校生は、少なくとも即レギュラー級というわけにはいかない。試合経験を積めば数年後に主力になり得るが、レギュラーポジションを奪い取って試合出場を果たすには、ブッフバルトとボリは、あまりにも大きな存在であった。 このような状況下で、フロントはアルフレッド・ネイハイスを獲得。結局、この年の浦和は、ブッフバルトを1列前に上げ、西野・田畑・ネイハイスの陣容で中央を固める事が多かった。ブッフバルトの後継に田畑。ボリに代わりネイハイス。質量とも帳尻があった97年シーズンは、世代交代がうまくいったように見えたが、この体制は長続きしない。新人の渡辺と三本菅は、ベンチ入りの機会すら与えられず、シーズン最終盤の天皇杯でセンターバックを勤めていたのは守備のユーティリティ・土橋だったように記憶している。 |
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好結果 そして思い違い 1998年 ブッフバルトとボリが去った98年シーズンに浦和に加わったのは、亜細亜大の小島徹。原監督が取った布陣は4バック。定員2名のセンターバックには、前年のレギュラー格3人に、実戦から遠ざかっているベテランの田口と、トップでの出場経験のない渡辺・三本菅、ルーキーの小島という構成である。減ったポジションに、数の上では前年同の7名。人員がだぶついていると言っても過言ではない陣容かもしれない。 センターバックのポジションにはネイハイスと田畑のコンビが起用され、田畑が故障すると西野にチェンジ。2年目の渡辺は、センターバックよりもサイドの交代要員として投入される事が多かった。 この年の好成績は、このメンバーのポテンシャルから想像し得る最高の結果であった。悪くなる事はあっても、これ以上良くなる事はない。そんな事は、誰も想いもしなかった。移籍市場に出回っていた数人のセンターバックを、浦和は獲ろうとすらしなかった。 |
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音を立てて崩落 1999年 この年の新加入は清水商の池田学。田口が引退し、遂に『赤い壁』のメンバーはいなくなった。 しかし、池田もまた故障がちだった。ザッペッラは信じられないファウルを頻発した。西野も故障し、シーズン後半はベンチ入りすら果たせなかった。98年後半には全てがうまく回っていたが、この年は全てが悪循環だった。控え陣の奮起が望まれたが、渡辺は依然としてサブの域を出ず、三本菅と小島は話題にも上らなかった。そして、気が付くと守備は完全に崩壊していた。 1stステージの不振に、チームはディフェンダーを大量補強した。まず、守備的なポジションならどこでもできる中村忠と、左サイドバックの路木龍次をレンタルで獲得。急遽就任したア・デモスは、守備的MFをディフェンスラインに紛れ込ませる変則的な守備システムの中核に中村を指名し、路木を最初は左サイドで、次いで池田に代わって中央に起用した。さらに、雑なプレーが目立つようになったザッペッラを(契約延長直後に!)解雇し、元ウルグアイ代表のフェルナンド・ピクンを呼ぶ。レギュラーはレンタル移籍組が占め、守備は立て直しが図られたものの、結局チームはJ2に降格する事となる。 開幕前の目論見が、あまりにも甘すぎた。 |
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メンバー<戦術レス 2000年 ポスト・ブッフバルトを期待されながら、3年間でトップに定着できなかった渡辺と三本菅を解雇。中村は移籍で去った。その一方で、路木とピクンが完全移籍で残留。さらにチャンピオンシップに出場した実績もある室井市衛が鹿島から加入し、西野・池田と合わせて計算できるセンターバックが5人。それに田畑と小島。前年と同じ7人体制だが、日程のきついJ2で戦う事を考えても、久しぶりに質量ともに充分という感覚を持てたのが00年シーズンの開幕前だった。実際、筆者も『J1でもトップレベルの陣容』と思った。 しかし、やはりその考えは甘かった。池田は故障で早々に離脱し、1年を棒に振った。田畑も相変わらずギプスとお友達の毎日。 シーズン終盤には監督が交替し、97年以来の3バックが採用された。こういった状況で抜擢のチャンスが巡ってきた大卒3年目の小島は、練習試合でのコーチングミスで出場機会を逃し、天皇杯1回戦での公式戦初出場を最後に川崎にレンタル移籍。田畑は天皇杯にようやく間に合ったが、池田は出場機会ゼロ。チームは幸運にもJ1復帰を勝ち取ったが、降格した99年とこの00年は、将来に向けた新しい戦力を獲得せず、過去に採用した選手の駄目出しをしただけのようなシーズンだった。 |
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気が付けば誰もいない 2001年 ピクンが去り、前年のレギュラー格は西野・室井・路木。ブランクのある池田と田畑。ここに日本代表最多キャップの井原正巳が磐田から加わり、チッタ監督の元で4バックに対し6名体制でスタートしたのが01年シーズン。 最初に監督の構想から外れたのが、浦和での選手生活の大半を骨折とリハビリに明け暮れながら、数年ぶりに故障なしで開幕を迎えた田畑。恐くて使えないという理由で市原にレンタル移籍で出され早速レギュラーを獲得。市原の大躍進に大いに貢献した。室井もC大阪に放出。彼もまた移籍先でレギュラーを確保した。飼い殺しにするよりはマシかもしれないが、戦力として通用する選手を二人放出してしまった事は、シーズン終盤に大きな問題となる。 二人を放出した(そしてまたセンターバックの補強を訴え続けていたとも言われている)当の本人がシーズン途中で職場放棄。代わったピッタ監督は明確な3バックにシフト。西野・井原・池田・路木に、ストッパーに完全にコンバートされた石井を加えた5人で最終ラインを回す事となった。ちなみに広島からレンタルで獲得した川島眞也は1分たりともトップの試合に出場せず、シーズン終了後に広島に戻っている。 |
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【2002年は?】
97年以降のセンターバックの補強状況をまとめたのが右の表である。なんの事はない。新人でモノになっているのは池田ただ一人である。降格の危機に瀕した99年途中からは、移籍による即戦力補強に切り替えている様子がみてとれる。 さてさて今年の話である。 地味に貢献しながらも目立つチョンボでサポーターの信頼を勝ち取れなかった西野が遂に引退。小島・田畑のレンタル勢は浦和を完全に離れ、室井は浦和復帰かどうかが判明していない(1/3現在)。 ・・・という惨澹たる状況の02年シーズンに向けてフロントが打った補強策は、実戦に即投入できるかどうかは未知数の、筑波大の平井と福岡大の坪井という二人の新人。大卒新人の獲得自体は別に悪くないし、二人とも過去のユニバ代表級(例えば小島)と比べると抜きんでた存在、という評価もあるようだ。自前で育てるという方針に戻ったという事が言えるのかもしれない。 本当に? 絶対に? 嘘付いたら針千本飲ますよ森さん? |