七千ヒット記念

もうネタが見つからないので大学時代のレポートを読み返して構成し直したものを掲載。


寄生地主制の簡単講座

はじめに

「寄生地主」という言葉から何を想像するであろうか?小林多喜二の「不在地主」を思い浮かべる人もいるかもしれない。その一方で初耳なんて人もいるかもしれない。この「寄生地主」の登場は日本の資本主義の発達段階とほぼ同時代であり、それはつまり近現代史に含まれる。ところが現在の中学高校教育では大抵この辺りは「時間切れ」となって教わることがないままに卒業してしまうのである。
しかしながら今現在我々が生活している時代を経済史上で区分するならば「資本主義経済である」とすることに異論は無いはずである。この場合その発達において実は「寄生地主」が果たした役割は非常に大きく見過ごすことはできない。今現在の我々がいかにしてそれまでの農奴制(日本で言えば幕藩体制)から資本主義へ移行したかを知らぬまま日本史を卒業してしまうのは真に惜しい。そこで今回は甚だ簡単ではあるが「寄生地主制」について書いていこうと思う。
(なーんて偉そうに書いたけれど間違っているところもあるかもしれないのであんまり信用しないように。ただ、流れは分かっていただけるのではないであろうか。)


第一章:寄生地主の成立

さてさて。それでは一体寄生地主の成立は一体いつからなのであろうか?
まず全時代の徳川幕藩体制から見てみよう。徳川幕藩体制は大名がいて領民がいる。武士がいて農民がいる。農民は田畑を耕し作物を年貢として納める。農民は大名・武士といった階級に支配され、その生殺権は支配階級にあった。彼らは半ばもの同然に扱われ、特に移転の自由がなかった。つまり農民は土地に縛り付けられ一生その土地を耕し続けなければならなかったのである。まさに封建農奴である。
ではなぜこのような支配・被支配の構造が成立し得たのか?それはなんと言っても土地はそれぞれの領主のもので農民は土地を耕させてもらっている、というまさにこの一点であろう。
さて。徳川幕府がこの幕藩体制の維持のためにもっとも力を入れたのは何か?それはなんと言っても「本百姓の維持」である。本百姓、つまり農奴の生活を維持することこそが体制の維持に繋がったのである。(この辺りは耳にたこができるほど聞いたと思うけれど)「百姓を生かさぬよう、殺さぬよう」というこの言葉こそ幕藩体制の真理があるといえよう。
ところが時代が下っていくと分割相続等々により本百姓は零細化し、その生活は次第に立ち行かなくなってくる。そこで本百姓は生活のため土地を担保に借金をするのである。本来ならば他人の土地を勝手に担保にするなどとんでもない話であるが年々土地を耕しているうちに「土地は領主のもの」という概念が希薄化し、耕しいてる自分たちのものという思想が芽生えだしていても不思議ではない。その一方で比較的大量のあった農民(俗に豪農)や商人は零細農民にその土地を担保にして貸し金を行うのも当然の成り行きであろう。ここに本百姓にその中間層が没落し、零細化・富農化という二極分化が発生するのである。
零細農民(=これを水呑百姓という)は土地を富農・豪商に「借りる」という形で年貢の他に地代を払っていくのである。この傾向は比較的地味の肥えていた近畿などの先進地域よりも新潟や東北地方に顕著に見られる。今でこそ東北・新潟は米所であるがそれは後世の品種改良の賜物で当時は冷害でころっとやられるような貧しい地域であったのである。
一方で富農及び豪商は質流れを起こした土地を次第に集積していき一定の財を築く。中にはついに領主に金を貸す者まで出てきた。その代表格が山形県酒田の本間家であり、「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」と言われるまでに成長したのである。(11/16)

第二章:幕藩体制の崩壊

幕藩体制を封建制・農奴制と前述したが少し見方を変えてみよう。幕藩体制は今からは想像も付かないような米経済、まさにコメ命!であった。当然大名の規模は「石高」で表され家臣は「何俵扶持」といった単位で表されている。だからこそ享保の改革において吉宗は作付け面積の拡大を行ったのである。
少し余談を。享保の改革は確かに作付け面積は増え、結果として幕府の収支は一時的に改善し、一定の成功を収めている。しかしその一方で本来田畑になり得ないような土地まで強引に開墾している。特に山地における開墾は樹木を伐採して行われた。このため山の保水能力が著しく低下し、洪水を引き起こしたのである。中でも津山藩の被害は甚大であった。(時代は前後するが草戸千軒遺跡は同様の原因で埋没したそうだ)このため幕府は後に作付け面積を拡大するのを禁じる法律を出し、方針の転換を行っている。
ところが時代が下っていくと零細農民にとって米作りだけでは生活できなくなりその他の作物を作るようになっていく。いわゆる商品作物栽培である。これは@零細農民が中小農への脱出(生活水準の上昇)を可能にしA商品作物を原料とした商品を製作する職人が新たに出現し(雇用の創出)Bさらにこれら農村と都市とを結ぶ在郷商人(特権商人に対抗する新興勢力)を創出したのである。
中でも注目されるのは在郷商人である。都市商人は例えば株仲間制度を作ることでこれら商人を締め出し、運上・冥加によってそれら権益を幕府に保護させていたのである。そういった意味において都市における既得権益を持った商人は在郷商人にとって打倒勢力でしかなかったのである。
さて、農村が都市と結びつくのを封じていた幕府にとって在郷商人を仲介として農村が都市に接近するのは看過できない事態であった。だからこそ幕府は米以外の商品作物の栽培を禁じた勝手作禁令などを出したのであるが結局流れを止めることはできなかった。江戸後期になるとそれまで物価は米の豊凶によって価格が変動していた、つまり全てのモノは米にリンクしていたのだが、次第に米に関係なく独自の動きをするようになってきた。この辺り最早米経済ではなく明らかに商品経済(つまりは貨幣経済)に市場体質が変化しているといえよう。
その結果米経済に依拠していた幕藩体制は機能しなくなり、それは同時に経済全体の発展においては桎梏でしかかなくなっており崩壊(もしくは打倒)する運命だったのである。(11/21)

第三章:寄生地主制の定義

第一章で成立の過程、第二章で成立の背景を追ってきた。そこでここでは寄生地主の学者による定義・解釈を述べたい。寄生地主の研究の第一人者であり、先駆者はなんといっても山田盛太郎である。氏の定義によると寄生地主制とは「半封建的土地所有制=半隷農奴的零細耕作」としている。幕藩体制が封建的土地所有であり、寄生地主は資本主義への移行過程で成立した構造であるので「半」が付くのは何となく理解できるのではないだろうか?
 これに対して山田舜氏は@地主手作の土地生産力に展開の結果と理解する見解A封建的小農民の生産力発展に基づく旧名主的ウクラード=地主手作の圧倒の結果と理解する見解B封建的小農民の近代的分化により形成された近代的ウクラード=地主手作の封建反動に基づく上昇・転化の結果と理解する見解に大分できる、としている。加えて氏自身は「近世本百姓の近世的(近代的ではない)の地主手作を形成する段階から寄生地主制を形成する段階への、必然的移行の視角から理解すべきである」としている。
 これについて簡単に説明を加えたい。まず「地主手作」とは大まかに言えば「寄生地主」や「不在地主」とは違い自分も田畑を耕している地主のこと。
つまり@では地主手作層が自分でその肥沃・広大な土地を耕しそこで蓄積した財をもとにさらに土地を広げていった結果。
A封建制度突入以前に存在した旧名主層が以前よりの権限、有利性を基に他の小農民を圧倒していった結果。
B封建時代より小農民からうまく上昇し地主手作層にまでなり、土地を集積していった結果。
ということである。いずれにしても、当たり前のことだが、寄生地主は最初から寄生地主というわけではなく自分でも耕しておりその後広大な土地を保有する段階になって次第に「手作」から離れていったのである。
参考資料:
山田盛太郎『日本資本主義分析』岩波書店
山田舜「寄生地主制の成立の前提−地主手作の成立−」福島大学経済学部編『寄生地主制の研究』御茶ノ水書房
(12/19)

第四章:明治維新以降1880年代まで

明治維新
明治維新以降、田畑勝手作の許可、土地永代売買解禁により農村における商品経済化のいっそうの進展と土地売買の流動化が進展するが、それ以上に重要なものは廃藩置県地租改正である。廃藩置県は旧来の封建的諸制限を撤廃し、私的所有・占有の自由、商品生産・流通の自由を容認する方向に繋がった。これによってそれまで土地集積に対して意欲的であるにもかかわらず規制されていた地主(仙台藩の「五貫文」制度化の斉藤家・秋田藩「田法秘書」によって制限を受けていた池田家など)にとって一層の土地集積の契機となった。また貧農層にとっても土地を公然と売却・小作化を可能とした。
地租改正(1870年代)
地租改正は近世において農民貫に慣行的に形成されてきた農民的土地所有をベースにし、農民の私的土地所有と共に地主的土地所有を公認した。つまりこれは法的・経済的側面から地主−小作関係の拡大と地主の地位の強化をもたらすことになるのである。結果地主に有利な大量の土地移動と地主的土地所有の拡大、農民の小ブルジョア的発展を阻害してしまうのである。
また原則として地租は金納化のため全ての農村が米穀市場へ引き出されることになり、米はそれまでは貢租として存在し大阪・江戸においてのみ販売されたのに対し、「地主・農民の手を放れる瞬間から米は商品として存在する」ことになった。また大量の土地移動と地主的土地所有の拡大に帰結したのである。
※田畑売買の流動性について山田盛太郎氏の試算によれば明治21年度、明治43年から昭和5年、昭和8年から昭和10年の延べ25年間の平均の田畑売買面積は総耕地面積の3.16%にあたり、単純に日本の総耕地面積は28年半で全部、売買が一巡することになる。
但し当然調査年にばらつきがあり不完全なものであるためこの試算を鵜呑みにできない部分はあるが、土地売買の流動性は理解できよう。
原蓄期(1880年代)
原始的蓄積期(いわゆる原蓄期)について。日本における原蓄期は概ね1880年代である。原蓄とは「資本に転化するべき資金・生産手段の所有者と生産手段から分離されて労働力を販売せねばならない労働者とが創出され、両者が結合する過程」であり、資本主義制の本格化=形成時期であるといえる。
特に松方デフレ期(1881〜85年)においては地主的土地集中の動向が顕著になり、同時に農民の没落は豪農層の一部も没落するほどの未曾有の激しさであった。1883・84年には小作地率35.5%、小作農家比率は20.9%と、実に5軒に1軒が小作農家となるのである。この松方デフレ期における土地集中は深刻な打撃を貧農・零細農に与えることになるのである。
※但しこの一連の原蓄段階における地主制形成の影響については、その生産力の発展は、「小農経営自身を破砕するものでは決してな」く、小作層は「小作化しつつも小農経営してつよく滞留」しているのである。この当時日本の工業は綿業・絹業を中心とした軽工業であり、その主たる労働力は婦女子であった。このため男子労働力は農村に留まらざるをえず、多少の悪条件の場合にも選択の余地がなかったといえよう。

(捕捉)
ここで一つ付け加えるならば、地主が「寄生地主」化する場合おいうのは必ずしも積極的になるとは限らないのである。塩沢氏によるれば「法制的な可能性を支えられた寄生地主制は、明治20、30年代の日本資本主義成立期に、豪農の持つブルジョア的側面を奪われて、やむを得ず、小作料のみによって生活を支える寄生地主制が現実的に成立したと考える」とし、山梨の根津家のように企業的側面に強い執着を示しているものの「ブルジョア的側面を奪われてやむを得ず寄生化」している者も存在しているのである。こういった地主は新たな投資機会が出現した場合には資本の土地投資を中止し、そちらへ移行するのであり、「寄生地主」と「ブルジョア」とは表裏一体の関係といえよう。
参考資料:
塩沢君夫「尾西地方における寄生地主制の成立」歴史科学協議会・中村哲編『日本における封建制から資本制へ(上)』校倉書房
大石嘉一郎『日本地方財行政史序説』御茶ノ水書房
加藤幸三郎「日本資本主義形成期−幕藩体制の成立から幕末・維新期まで−」暉峻衆三編『日本農業史』有斐閣
庄司吉之助「寄生主制の生成T−手作地主から寄生地主制への移行−」福島大学経済学部編『寄生地主制の研究』御茶ノ水書房
中村哲「領主制の解体と土地改革」歴史学研究会・日本史研究会編集『講座日本歴史7近代1』東京大学出版会
海野福寿「殖産興業と豪農商」同上
松田之利「維新変革における民衆」同上
服部之総『明治維新の革命及び反革命』岩波書店
石井寛治『日本経済史[第2版]』東京大学出版会
(12/20)

第五章:寄生地主制についての理解

第二章と少々かぶるがこの章では寄生地主をその様式によって区分したい。実は寄生地主は成立こそほぼ同時期であるが中身に相違がある。これはなんといっても気候・生産能力、地主小作の力関係、地主の経営規模等様々な要因が幾重にも重なった結果によることころが大きい。そこで研究者はある一定の共通した特徴を抽出し、全国の地主制度を区分した。ここではその説を紹介しようと思う。

山田盛太郎説
山田説は「東北型」と「近畿型」に全国を区分した。「東北型」の特徴は@社会構造がいまだに封建的A巨大地主に土地が集中B同時に零細所有が増加していく。これらの特徴を持つ地域としては茨城・栃木・新潟より以北の諸県、高知・鹿児島を挙げている。
これに対して「近畿型」は@都市と結びついた構造であるA地主も小規模B全体に土地所有が零細化傾向に向かっていることが特徴である。上記「東北型」を除く各都道府県がこれにあたるそうである。
中村政則説
中村説は上記山田説を支持しつつさらに「養蚕型」を追加し3つに区分している。「養蚕型」の特徴としては実際面で見れば山地に見られるもので、地主は桑畑を貸す代わりに小作は地代を養蚕で得た資金で払うのが特徴である。が、それ以上に@「養蚕型」は「東北型」と同様に土地集積が産業革命期にも続いているのに対して「近畿型」は原蓄期で終了している。A所有規模・都市との結びつきで見れば「近畿型」に近いものがある。このように「養蚕型」は「東北型」と「近畿型」の中間的特徴を帯びており、このため中村氏は3区分にしたのである。
川東靖弘説
「東北型」「近畿型」「養蚕型」の3区分は中村説と一緒だが中村説がその生産的・社会的特徴で捉えているのに対して川東説は完全に「地方」で捉えている。つまり「東北型」=東北・関東・北陸地方、「養蚕型」=東山地方、「近畿型」=近畿・東海・中国・四国としているのである。さらに自小作別分析・経営規模分析をほぼ4年ごと5期に分類し、地方と時間による立体的な区分である。しかしながら氏は、しばしばこの区分を無視し、例えば「近畿型」を近畿・東海地方と中国・四国・北陸地方とに区分したりもしている。また九州地方はこの三型に加えず、別格としている点も注意すべきである。
栗原百寿説
川東氏とは対照的に、大きく東日本と西日本に分け、東日本=後進地、西日本=先進地と大きく2分しているのが特徴である。(2/5)

第六章:地主制の各論

前章で「東北型」「近畿型」「養蚕型」の各地主経営について実際の経営を見ていこう。

◎東北型地主経営
@本間家(山形県酒田市)の場合
第一章にも出てきた本間家は日本最大の地主である。本間家は元来商人で、永禄年間(1558〜70年)に酒田に住み着き土地集積を行っている。本間家が成長を遂げたるは三代光丘の代からである。本間家の商業力は当時大名貸しを行うほどで俗に「本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に」といわれるほどである。幕末嘉永三年(1850年)にすでに1160町歩集積し、大正14年(1925年)に最盛期を迎える。
 ※最盛期の土地所有については1784町歩や1845町歩の説があるがいずれもピークは1925年としている。また、山林所有・宅地所有・有価証券投資等の1910年と1925年の比較においても、山林所有は39町歩から 295町歩に拡大し、宅地所有は 5.4万坪から 7.8万坪に拡大している。そして、有価証券投資は14年より始め、25年には14万円に達している。銀行預金は漸次増え、25年には27万円になっている。
 26年以降は土地を売却・縮小しつつ、農外投資を拡大する転換を行っている。これは22年以降、飽海郡で小作争議が発生し、また低米価による小作収入が減少することによるためである。
 このため、25年と45年を比較した場合、土地所有の面では1187町歩に減少している。これに対し、山林所有は 295町歩から 501町歩に、宅地所有は 7.8万坪から 9.6万坪にそれぞれ拡大している。また有価証券投資は29年34万円に達するが恐慌以降減少し、38年まで20万円台までに落ち込む。その後39年以降本格化し、45年の時点では 177万円までに拡大している。このように典型的な「東北型」地主本間家でも漸次「近畿型」の地主経営と同じように小作料収入から農外投資に力点を置く経営に転換しつつあったのである。しかし本間家の場合、例えば35年の時点において比較した場合、小作料収入30万円に対し、配当収入が1万円、地代家賃が 2.6万円と圧倒的に小作料収入が多いのである。
 具体的に本間家の経営の特徴を見てみる。本間家の特徴として、その大規模な土地所有を管理・維持していくために置かれた「代家」・「差配」制度がある。「代家」は土地管理のために必要な場所に配置し、「代家」の居住する住宅・家屋はすべて本間家の所有で、若干の耕田を「代家」付として小作させている。また、この「代家」は地主の都合で住居を移動させられてしまうものであった。これに対し三代光丘の時代に導入された「差配」はその土地に常住するもので、明治30年代に制度が整備されたものである。これによって2500人前後の小作人の中に緻密な支配の網の目を張ることが可能となったのである。「代家」と「差配」を比較した場合、「代家」の本間家に対する支配権が「差配」に対する本間家の支配権より強固であったといえよう。これは多くの場合「代家」が本間家の譜代の番頭格であったのに対し、「差配」は没落した旧中小地主である場合が多く、彼らの旧来からのその土地における権勢を利用しようとしたためである。
 また、小作人間にも旧幕藩体制下における相互監視制度である「五人組」制度を取り入れており、本間家−代家・差配−五人組といった「序列的、重層的な小作人統括機構は、盤石な重みをもって一般小作人の上にのしかかった」のである。
 次に小作料の取り立て法について。本間家の場合、小作料の平均的水準が50%であるなかにあって、収穫米の 65.55%という極めて高率の小作料を徴収していた。但し、凶作の年においては検見を行ない不作引きを行なっており、明治19年からは定引法・備米の制度を導入している。また、明治34年には等級区画平均法により、小作料の決め方が組織的・合理的になった。
 広大な土地を所有する本間家にとって各地の土地でそれぞれの方法で徴収することには負担が大きかったことが想像される。そこでこの等級区画平均法は、大土地を管理・維持していく為にも徴収法が簡素化・確実化され、合理的になったがその一方でこの本間家の土地経営は粗放的になったといえよう。この粗放的な経営によって、小作人は平均収穫量より収量を上げた場合小作人自身の利潤となるため、備蓄が可能となったのである。これにより将来的には小作人自身が小作身分よりの脱出も可能となったのであると思われる。
 本間家は平均より高率の小作料を設定しているものの小作争議らしい争議を経験していない。これは凶作時の夫喰貸、火災時の火災貸、豊作時の上米手当米、日露戦争に出兵した小作人家族に対する贈遺などのアメ=「恩恵的小作人保護」とムチ=「代家・差配人制度を中心とする水も漏らさぬ小作人支配」の使い分けを極めて巧妙に行い、本間家と小作人との結びつきを教護なものにしたのである。(4/23)

A斉藤善右衛門家(宮城県)の場合
 斉藤家は元々は仙台藩内の商人で、高利貸しをしつつその資金を元手に土地を集積した。しかしながら当時仙台藩は土地所有に対して制限あったため幕末期の所有面積は20町歩程度の小地主に過ぎなかった。(この点では秋田の千町歩地主である池田家と同様であり、逆に幕藩期にすでに千町歩の土地を取得していた本間家とはやや形態が異なる)
 斉藤家の土地所有が本格化するのは1890年山口商店より660町歩の土地を購入してからである。ピークは1943年で1455町歩に達している。斉藤家の場合、頑強に土地所有を維持・拡大しつつもそれと並行して農外投資にも積極的であった。このため33年には小作収入よりも配当・利子収入が上丸子とになるのである。

B伊藤文吉家(新潟県蒲原郡横越村)の場合
 新潟県は北蒲原郡の市島家・南蒲原郡の田巻家など、千町歩地主の多い件である。またこのほかにも大正13年の時点で50町歩以上の大地主242戸の所有する総面積は37,941町歩で、県内総面積の15%で、総小作地面積の29%を占めている。
 伊藤家も明治初期は100町歩程度の地主であったが36年には1214町歩に、41年には1384.7町歩にまで集積をする。その後大正13年には1346町歩の田畑を所有し、県内第二位の地主となるのである。
 伊藤家は土地を担保に資金を貸す地主質屋ではなく、幕末期に領主貸しを行えるだけの貸金業者であり、知行諸御用達役の特権を利用し、耕地集中を可能としたのである。この点では本間家と類似しているといえよう。また伊藤家も本間家同様に土地の管理・維持のため差配を置いて重層的な耕地支配をおこなっている。
 小作料は平年一反につき一石一斗から二斗の収量の小作地に一石という高率小作料を設定している。しかしながら伊藤家のある蒲原平野は当時水害の多い地域であり、検見によって年々の作柄に応じて契約小作料を上限に可能な限り徴収する方式で、極めて恣意的な小作料取立をおこなっていたのである。また不作の際の貸米や未納米は5年10年とかかって取立られるのである。
 その一方で、伊藤家の経営の特徴として、明治20年代は小作人に優劣の差を付け、劣等者を懲らしめ、優等者の優越心をかき立てる方式であった。つまり「地主に対する徳義心、小作人間の競争心をあおることによって、良質米を確保する前近代的な対人的褒賞方式」(中村政則「地主と小作人」より)であったのである。
 明治30年代からは、郡農会・村農会をおこなったり、肥料資金などの生産資金の貸付・奨励金付きで四ツ目整条植を実施させるなど技術改良・農事改良を積極的におこなっている。これはひとえに小作米の品質維持とその確保への苦心のあらわれといえよう。(7/31)
※尚、伊藤家邸宅は現在北方文化博物館になっている。

◎近畿型地主経営
@野崎武吉郎家(岡山県)の場合
 野崎家は幕藩期、本百姓の出で、後に商人に転身している。その後塩田開発に成功し、この塩田からの資金をもとに1848年に福田新田を開発し、52年には61町歩の土地を取得、75年には178.4町歩の土地を集積している。そして松方デフレ期に急速に土地を集積し85年には448.8町歩の大土地所有を行うようになり、1917年にピークを迎え、613町歩となる。
 野崎家の経営の特徴として明治10年代から20年代前半まで独立性の強い「受人」制を敷いていたことである。野崎家にとって顧問格であり、親戚の没落地主であったこの「受人」は、小作米の取立・売却や未納・貸付米の処理を行っていた。また野崎家には小作料は「金納」であったため小作米と「金納」との間に生じる差額はこの「受人」の利潤となったのである。しかしながら、この利潤こそが地主本来の利潤であり、その利潤を「受人」に搾取される形となっていたわけである。
 そこで明治20年代の後半からは世襲制があり、村内有力者を使用した「世話人」制へ変更することになるのである。「世話人」の役割は小作地全般の管理、検見取り立ての実施、小作人の改廃、納税管理など裁量範囲は広範に及んでいたものの、「受人」と比較した場合その独立性は低いものであったといえよう。
 いずれにしても野崎家がこのように「受人」「世話人」へ権限を与えたのは、野崎家が土地経営に消極的で、1899年には台湾で塩田を開始するなど、むしろ塩田経営に力点を置いていたといえよう。加えて戦後恐慌の米価の暴落による小作収入の減少、1922年に福田新田における小作争議の勃発など、野崎家にとって漸次土地売却を行なう契機となったのである。
 その後45年までに、250町歩近くも売却し、その売却代金で塩田経営の拡大や有価証券投資の拡大といった農外投資を行なったのである。(この一連の投資行動は前述したとおりである。)
 野崎家の経営(=土地投資を漸次縮小し、農外投資を拡大していく)は、まさに「近畿型」経営の典型といえよう。

A伊藤次郎家(兵庫県)の場合
 幕末から農業のほかに商業活動にも積極的に活動を行なっていた伊藤次郎は、明治10年代から20年代の初頭にかけて土地集積を行ない地主となり、またその一方でブルジョア的性格をも顕著にしていた。1893年の時点で田畑合計が456.7町歩に達して土地所有の面でピークを迎えることになる。
 伊藤家は地主的側面において当然ながら小作料の増額と、小作料収入の増大化を目指していた。その一方で農外投資家=ブルジョア的側面は第一次世界大戦期に頂点に達する。戦後恐慌で農外投資していた産業が破綻し、その負債整理のために田畑の売却を余儀なくされたのである。結果として、その後伊藤家は市街地地主として、農外投資=ブルジョアへと転身したのである。
 このように地主が土地所有を漸次減少させる原因としては、農外投資を拡大させ、ブルジョアへの転身を図る場合場合が多いと言える。これは伊藤家のように負債整理のために土地売却を行なう場合もあるが、積極的に土地を売却し、その売却資金を有価証券投資等に向ける場合もある。これは農地への投資を行なって獲得する利潤(=小作農収入)よりも、農外投資によって得られる利潤の方がはるかに効率的であるからと推測される。
 また、大正から昭和初期にかけて激化する小作争議が地主のこの行動に拍車をかけたと言える。あえて負担の大きい小作争議を経験してまでも、土地投資に固執する必要はないのである。小作争議の全国的激化後、現実的に小作料は漸減傾向を示し、土地投資に対する意欲を喪失することになるのであった。
B津村紀陵家(和歌山県那珂郡中島村)の場合
 幕末期5〜6町歩より始まった津村家は、明治期に土地拡大を「財力の許す限り」行なった。この結果大正13年には62町歩、小作人113人を抱えることになる。津村家の和歌山県は生産力が高く、小作料は相対的に低率である。これは小作人にとっても相対的に負担は軽く、高い小作料実納が可能となったのである。これによって津村家は比較的安定した収入が得られ、土地購入を促進することになるのである。(津村家のピーク時の土地所有である、62町歩はおおよそ「近畿型」地主の平均的土地所有規模である。当然「東北型」地主に比べ、その規模は小さいものの、小作料収入は生産高の高い地域のため、かなりの高収入であったと思われる。また、絶対的な土地所有規模で見た場合、「62町歩」は大規模な土地所有であることに変わりはない。)

◎養蚕型地主経営
 根津啓吉家(山梨県東山梨郡平等村正徳寺)の場合
 県下第二位の所有規模を持つ根津家は、幕末時農業のほかに商業を営んでいた。明治初期の1875年で13.3町歩、1905年には182.7町歩を所有するまでに成長を遂げる。
 ※根津家の土地所有規模については、ピーク時の土地所有規模を182.7町歩とする川東氏の分析と290町歩とする中村氏の分析とがある。また年代においても川東氏は1905年とし、中村氏は明治20年代後半(1892〜96年)としている。
 根津家の特徴としては、75%の高率小作料を設定しているにもかかわらず、高い実納率を挙げている点にある。これは、同一小作人が田畑を同時に小作している(田畑小作地:畑小作地=3:2)ことと関係してくる。つまり未納分の小作料は年二割の利子付で春の蚕時に現金で返済させていたのである。小作人にとっては、繭を販売し、その代金や製糸女工賃金によって滞納小作料の支払に充てていたのである。

参考文献
山田盛太郎「本間家の土地所有について」(『山田盛太郎全集』第四巻)
中村政則「地主と小作人」(『日本の歴史』第29巻)
川東靖弘「農民層の分解と地帯類型と地主制の後退」(山崎隆三編『両大戦間期の日本資本主義』上)
中村政則「地主制」(大石嘉一郎編『日本産業革命の研究』下)
石井寛治『日本経済史−第二版−』
山田盛太郎『日本資本主義分析』

第六章:その後の地主制

 地主制の構造は、これまで見てきたように大土地所有の地主の多くはその土地を漸次売却しその売却代金によって配当・利子生活者へ転換するようになり、昭和20年までにすでに変化しつつあったようである。
 これは一方で地主階層が土地を売却すると共に、一方でその土地を購入するものが出現したためである。この土地を購入する階層は、第一に小作層である。小作層はこれまで自身が小作していた土地を購入し、自作・自小作層へ転身してしまうのである。第二に公務員・銀行家といった自分は農業を行わないが、いわゆる「財テク」として土地を購入し、この土地を小作農に貸し出す階層=不耕作小地主の出現である。
 この結果として農地における小作地の面積、小作農の総数はあまり減少せず、自作農・自小作農の総数もそれほど増加していない。その一方で地主の所有する土地の平均面積は減少し、不耕作地主の総数は増加するのである。
 第二次世界大戦後における農地改革によって日本における地主制は完全に解体されることになるが、地主制はその当初と比較した場合構造的に既に変質を遂げていたといえる。一方で地主層の配当・利子所得者への転身と小地主化、一方で小作層の自作・自小作農への上向傾向が起きつつあったのである。ここに地主制の後退がすでに農地改革以前に発生したと言えるのである。(03/02/18)


おわりに
っていうか、遅筆で申し訳ない。いやー、やっと終わった。ここまで読んで下さった皆様どうも有り難うございました。
ここまで読んでみて皆様どのように思われたでしょうか?こういった箇所って案外学校で教えてくれない箇所ではないでしょうか?私も結局高校時代には教えてもらえませんでした。それは、時間が足りなかったのとおそらく難しすぎて理解できないと先生が思ったのかもしれません。が、実は地主制こそが封建社会と現在の資本主義社会を繋ぐ重要なキーだったということがここで少しでも分かって頂けたら幸いです。
ここともう一つ日本史でキーと思われるのが荘園制!機会があったら調べ、書こうと思います。(が、期待しないで下さい。)
また感想があったら是非ともお知らせ下さい。
最後にもう一度、皆様有り難うございました。(03/02/18)