大神踊り  古神道  立 春  無 月  お水取り
一番松明上堂  神名・過去帳読み上げ  籠大松明上堂
寒さも彼岸まで   里山の春   桜の花の咲く頃
年々歳々春が来る。   こんな花見もありました。
奥山の紅花を追う。


吉野山伏の歳時記
[十年余りの過去・現在の重ね書き]
吉野・熊野の魅力は日本の魅力です。
女性はより美しく、男はより???になります。

ハイキング崩れの俄山伏です。
全て個人の自由です。 敢えて言えば
古神道のモダン山伏かな?ゲリラ山伏、お昼寝山伏?
一人で入峰するのが拘りかな。

太陽復活の冬至十日もすればお正月である。
生駒神社・宝山寺に初詣し、生駒山に登るが
あの雲のない初日出は5、10年に一回かな。

北国の大雪を報じる明日(あした)、生駒山は薄雪化粧である。
なにもなかったような空が広がる。

サンサンと明るい初春の陽が注ぐ。
ウグイスが一番敏感に反応する。

初音を試すがまだまだ下手もよいとこだ。
春の陽を感じるごとに鳴音が上手になって行く。
吉野・熊野の山界がだんだん身近になってくる。

今年はどのように吉野・熊野曼陀羅にアプローチしようか。
底知れない歴史が書き込まれた山界間奴田羅である。


篠原大神(狼)踊り

奈良に住み付いた頃、この踊りの記事に妙に引き付けられた。
吉野・熊野奥駆けをしたときに眼下に広がる大きな篠原谷に心引かれた。
吉野・熊野奥駆けとは七泊八日の吉野川から太平洋までの奥山の細道である。
宇井(有為)の奥山の深仙宿(無人)で浅き夢見路を追う旅である。
宇井の奥谷にある篠原の里に聖なるものを感じるようになった。

枕草子で、「原は篠原、荻原」と出てくるが
吉野・熊野曼陀羅では最奥の山里である。
どうゆう訳か、荻原はわたしの在所の隣にある。
しかし、清少納言は両方共に行っていないようだ。

あれから25年ほどして、ようやく篠原の里に踏み入れた。
インターネットの掲示板が縁で、
渓流釣りでよく行くのでと言い、案内してくれた。
わたしの夢は天河弁才天の裏手の川瀬峠越えである。
秋の紅葉狩りをするように、一人で川瀬峠越えをした。
紅葉に鹿が出迎えてくれる古道である。

日神暦34日のミシア(三四阿)神の大神踊りを見たくなった。
高野辻の峠越えで入里しようとしたが雪で閉鎖されていた。
来年は山スキーでと思い、村営バスで入里した。

篠原踊りこそ、夢に描いていた古神道の踊りだった。

祭の様子の一部始終が知りたいので前の日から泊まりがけで行く。
日本最長級の八木−新宮路線バスを五条駅から乗る。
北国は大雪と報じていたが奈良南部は晴れの予報だった。
天辻峠を越え、吉野川世界から熊野川世界になると雪化粧が濃くなる。

高野辻越えの林道は雪で閉鎖されていたので、
宇井からの村道を歩くことにした。2、3時間歩くのは慣れている。
今どきにこんなバスの行く水平道を歩く人もまれだろう。
雪が激しく降り出した。雄大な雪の谷景色が広がる。

舞う雪の中をとぼとぼ歩いていると村営マイクロバスがきた。
一日三本の昼の便である。運転手はこの前の人だった。
今回も乗客はお婆さん一人である。
この前は朝のスクールバスで、中学生が一人である。
当然、運転手とは親しくなる。

乗用車で初めてきたときは感じなかったが
バスの窓から見ると目線が高く、目の眩むような谷道を行く。
こんなところによくも道を付けたと感心するような絶壁が続く。
吉野・熊野の山道は雨が降るときは入るなと言うほど崖崩れが多い。
その最大規模が平成16年の大雨の国道168号の宇井の崖崩れだ。
修復するのにあと2、3年はかかると言う大工事である。

さすが地元の運転手である。色々、村の話をしてくれる。
激しく降り出した雪を見ながら途中でチェンを取り付けた。
ここの天気予報は奈良南部より京都北部が良く当たるとか。
鹿、カモシカがバスの前を通り過ぎると話す山奥里である。

この辺ではマムシ(蝮)をハンビと言うとか。
これは大発見である。生駒ではハメと言う。
HBの母音活用で、へビ、ハブ、ハンビ、ハメとくれば
まさに古神道の世界である。

古神道の世界

山奥里の民宿と言う通り、離れの二間続きの客間を開放してるだけである。
山の作業にくる人の仮宿を兼ねている旧家のようだ。
古文書・言い伝えにしても四百年ほどが限度とか。
平家の落ちゅ人の里と言われるが里人は軽く否定する。
平家の落ちゅ人伝説は明治以降の作り話であることは承知していた。

古神道の世界は天文碑、地文碑を読むことより始まる。
この里の神山は七面山である。
七面山は富士山の身延にもあるはずだ。
上総なら妙見(三四賀奴・神)山になる。
江戸川なら篠崎の下流の浦安にある妙見島になり、
今では篠輩(しのがら)族のディズニーランドの入口である。

その高間の神田原(カンダハル)は篠原のはずだ。
奈良の高間の荻原には神田川が流れている。

平な畑がないほどの谷川沿いの急傾斜地の山里である。
猫の額より狭い庭から見る景色は隣の屋根から始まる。
あと20、30年もすれば消滅する高齢過疎の山里である。

雪が降ったり、止んだりの山里の雪景色は趣がある。
夕食に出たコンニャクは自家製で柚味噌の味に
山里の豊かさを感じた。ご飯も美味かった。
銀シャリの輝きが違う。親類の飛鳥の棚田のものとか。
枕草子の「渕は稲渕」のものかと思うほどである。
山里の清流米は寿司米とよく言われる。

村の集会所で、奉納する踊りの最終仕上げが行われた。
最終仕上げの緊迫感もなく、寄合暮しの和気あいあいである。
寄席の雰囲気かな。命令されることもなく、ことが進んで行く。
踊りが完全に身に付いている。だだそれを確かめ合うだけである。

天神神社に奉納するのは三曲である。
三六曲とか、四十何曲とか、季節、季節に合わせて踊り分けるようだ。
歌詞の内容から見ると江戸時代の流行曲が陸封され、
街ではどんどん変わるがそのまま踊り、歌い継がれて来たようだ。

夜寝る前に吹さらしの山里造りの廊下に出ると満天の星空だった。
図南七星のオリオン星座の三星と四星が輝いていた。

冬至復活太陽が日神暦34日頃、オリオン星座を横切るはずだ。
篠原の大神踊りとは古神道のミシア(三四阿)神の祭である。

朝一番に雪山道を行き、山の神、お稲荷さん、菩薩さん等にお参りする。
太陽が高く昇った頃、村外れの天神社で祭が始まる。
玉置神社の宮司さんが神殿の扉を開ける。
扉の開ける音が大杉の茂る神域に響き渡る。

神殿、鳥居、三人の太鼓の男衆、四人の踊りの女衆が
一、二、三、四と十の大神陣で塞がる神域である。
弥勒(三六九)と弥生(八四一)のミシア(三四阿)神踊りである。
山の傾斜地の大杉の懐にできた小さな空間である。
羽織袴の太鼓踊りに合せ、紫の衣が舞う。


春よこい、 早くこい。

炬燵で背を丸めて外を見ていると
粉雪が谷を吹き上げる風に舞う。
冬枯れの雑木林を背に風模様が
カーテンのように舞う。

立春を過ぎると日差しも明るさをます。
今年の吉野の山行きが頭に浮かびだす。
どんな吉野の桜に会えるのか。

大峰山寺の戸開けが待ち遠しい。
また皆と再会できる。一期一会の山伏仲間である。
今年も大峰奥山越えの熊野詣でができるのだろうか。

若葉茂る吉野から尾の上の山桜を追う旅でもある。
岩山にアカヤシオの霧花を追う旅でもある。
熊野の奥山にシャクナゲの紅花を追う旅でもある。
紺碧の太平洋にたどり着く旅でもある。


睦み里正月の頃

鳥野(Trino)の鳥が 飛び立つ前に
七草祝う、 トトンがトン

神武暦元旦(2月11日)の七草日が
伊勢神宮暦の祈年祭(2月17日)である。

雲一つ無い青空が広がる日がある。夜は冷え込む。
冬枯れの茫々とした雑木山を透かすように、
煌煌として満月が昇る。
まさに、睦月の無月のMoon(無奴)の里神である。

うてな絵師から洞川へ行かないかと電話があった。

山伏のメッカであり、偶然数日前、昼時日本列島で放映された。
名人芸の作るかき餅の油揚げ煎餅を食べたくなった。
夏、何気なく食べていたが心から味わいたくなった。
放映された雪の積もり具合いはまさに雪国である。

屏風山が旅館街を貫き流れる川と平行に聳えている。
山伏の龍泉寺は岩屏風のように聳える断崖の元平にある。
山伏のシーズンにはもう20回程は入峰している。
若葉青葉の屏風、錦織り成す屏風。しかし、冬は初めてである。

冬将軍も春将軍に押し返されたのか暖かい雨が降る。
積雪もシャーペットになり、旅館街は雪はまだらである。
うてなの絵師は隠れ山伏とでも言うべき友を連れてきた。
真夜中過ぎまで人文科学(文学歴史)の話に花が咲いた。

無月の雪見酒とも行かず、朝起きると生暖かい風に驚いた。
標高800メートル余りの山里に春の訪れを異常に感じた。
天気回りも前倒しのようだ。それにしても、一月の寒さは異常だったと。

廊下から窓通しに気更木の早春譜の屏風絵が広がる。
生駒の楢・櫟の雑木とは異なる紅葉の雑木である。
茫々とした細い小枝が燃え木色に染まっている。
錦織なす秋の屋台骨を見せつける気更木である。

北国からはまだ雪便りの届く厳寒の候である。
春の陽射しは日に日に強くなる。
日に日に米粒だけ、家の内に入ってくる。

鳥野の鏡池に集まる水鳥の動きがざわめいてくる。
唐(賀羅)土に北帰行の準備の頃である。

大和路の春は「お水鳥」が運んでくる。
外土(賀羅)の鳥が帰らぬ前に七草を祝うように
大竹の緑を大八車で二月堂に奉納する道中が放映される。



お水取りの頃

宇(鵜・烏)の「お水取り」とは東大寺の二月堂で、
2月20日から始まる3週間に渡る神田春(カンダハル)祭である。
国家安泰を祈る里正月の行事である。神道の世界である。

神道とは過去・現代・未来と流れる時の流れである。
仏教が宗教に変わる前の東大寺官僚国家体制を記録している。

7日区切りの三トラ(土羅・寺)教の奈良(七羅)の行事である。
試別火・総別火の準備の七日、上七日、下七日で構成されている。

今年ほど、ミトラ教の春祭が世界的にスムーズに引き継がれた年はない。
冬至三日のクリスマスから始まり、日本の建国記念日、そして中国の春節
神武天皇即位記念日を全世界がオリンピックで祝い。
鳥野でトリを飾る金メダルの舞い。
そしてカーニバル(神春)祭へと続く。

シーザ(カエサル)が涙を流し喜ぶだろう。
クレオパトラと夢見た世界である。
猿田彦のサルートの更なる新年が始まる。

太陽四季暦の3月正月祭上七日が始まる。いよいよ大松明が上堂する。


一番大松明 上堂

三月一日の夕闇に東大寺二月堂の高楼に一番大松明が上堂する。
いよいよ神田春正月14日興行の火・水祭が始まる。

まず、観音講の堂童子が翳す手松明が登り回廊を数回、登り下りをする。
二月堂の宇堂に鵺が忍び込んでいないか調べに行く。
堂内の無事を咒師に報告する。咒師の掛け声で、
大松明に先導され鵜烏の墨染め衣の練行衆が登り回廊を登り始め、
登り回廊から溢れそうなほどの大袈裟な炎である。

大松明が建物の陰に入り、その周辺の森闇・宇堂が炎に染まる。
入堂するのを今か、今と待ち構えるように静まり返る。

無事入堂を知らすように練行衆が木沓を床に打ち鳴らす。
打ち鳴らす音が森夕闇の空間に響き渡る。

それを合図にするように、大松明の大炎が高楼に走る。
無数の火花が滝のように流れ落ちる。風車のように炎が回る。
人々の突くどよめきが春を呼ぶ。いよいよ大和路に春がくる。

10人の練習衆が一人づつ入堂するので、小一時間はかかる。
その度に大松明が高楼に走る。まさに国家規模の祭である。
いや、世界規模、人類規模と言うべきである。
太陽暦四季暦の正月(三月一日)を祝うのはここだけである。
太陽暦を制定したシーザが聞いたら泣いて喜ぶだろう。

国家安泰を祈り、十一面観音に懺悔する春正月の修二会の行事である。
お水鳥衆の本行とは一日14時間余りの諸行次第が14日間繰り返される。
毎日最初に、神名帳を読み上げ、
全国の26菩薩、渡来神々、万二千七百余り大明神、諸々の御霊を招聘する。

お水取りのクライマックスは12日から13日への真夜中牛密の刻に
若狭井の井戸から一年分の閼伽香水を汲み上げる行である。
そのクライマックへと盛り上って行くように諸行の内容が充実して行く。

二日の朝刊に一番松明上堂の写真が載る。今年は雨越しの松明である。
思うだけでもうずうずしてくる。そして先駆けるような春晴れがくる。
打ち放すゴルフ ボールが青空に向けて飛ぶ。早くグリーンに出たい。
幻だったのか。一日天下の春将軍を追い返すように土砂降りの雨が降る。

目まぐるしく天気が変わる。朝刊を読む頃には春の日差しの日曜日である。
春将軍が炬燵から追い出そうとするようだ。重い腰を上げる。
いよいよ奥山越え熊野詣での体を二ヶ月で作らねば、
手始めに裏山越えの追分の梅林に行こう。

梅は七、八分咲きである。春を求めてたくさんの人が集まる。
梅林越し遥かに東大寺の大仏殿が一際大きく見える。
目を定めて見ると奥院の二月堂も見える。
14日まで10本の大松明が毎日走るのが見えるはずだ。

氷雨の降る冬に押し返される。炬燵から外を見ると、
雨でぬれた竹の緑が鮮やかである。寒越えの葉が透き通るようだ。
かすかな風に竹がゆれる。こころを掃いてくれるように揺れる。
そのうちに粉雪に変わる。しかし、雑木屏風に薄青の空が広がる。

春が 確実に来る。

青空に雲が流れる。春の陽がサンサンと降り注ぐ。しかし風は冷たい。
雑木の林底まで陽が注ぐ。榊(ビシャコ、日佐子)がキラキラと輝く。
北風が雑木林を吹き抜ける。無数の小枝を切る風が唸る。
一陣の強風が吹き抜ける。木更気が雑木林に唸り渡る。

唸り音が微妙に変わる。山越えの風から吹き上げる谷風に変わる。
春の風足はよく変わる。杉林を通り抜ける唸りに変わる。
樫や竹の葉擦れの音が加わる。屋敷森から吹き上げて来る。
谷を登り、裏山を越え、唸り声を変えながら雑木山に吹き抜けて行く。

風がおさまると粉雪が舞いだす。日差しは暖かいのに風が冷たい。
如月の雑木林が落ち着いた姿になる。春空に風花がキラキラ舞う。
春地に榊の葉もキラキラ輝く。一瞬、禿げ頭に冷たさが走る。
風花が舞いおりてくる。山桜の小枝の乱れ風に粉雪が舞う。

また足慣らしに一週間振りに、追分の梅林に行く。

春の通り嵐が吹き抜けるようだ。満開の梅林に粒雪が跳ねる。
一陣の群雲が通り抜ける。粉雪のカーテンが梅林を覆う。
春陽を浴びる奈良の市街地が明るく、明るく透けて見える。
雲雪がだんだんおかしくなる。急いで家路に向かうことにする。

薄暗い杉木立に積もらんばかりに激しく降る。細雪が吹き溜まりだす。
棚田に出ると急に明るくなる。人騒がせな通り雪雲だった。
まだ高い西日を背に生駒の山並みが茫々とした雑木屏風のようだ。
沙羅織り成すように竹林、杉木立、樫群森が木更気の群雲のようだ。

庭の山桜に綿毛雪が小枝と戯れている。名残の風花が小蝶のように舞う。

年によっては春空が一瞬のうちに灰色の雲の覆われる。
ボタン雪が音もなく、重く急ぐように降ってくる。
山桜の小枝、小枝に雪が積もる。一陣の風が吹き抜ける。
春陽がサンサンと注ぎだす。小枝の雪が一瞬に溶ける。

小枝、小枝に無数のビーズが光輝く。隣のビーズと一緒になる。
大きな水玉になり、小枝、小枝から一斉に音をたてて落ちる。
大粒の雨音が屋敷林に響き渡る。無数の水晶の輝きは幻か。
小枝から流れ、枝、幹へと合流しなが滝のように流れ落ちる。


過去帳読み上げ

「お見水取り」の5日目からは過去帳の読み上げが加わる。
日本の天皇制は聖武皇帝から始まるのが分る。
まさに勧進過去帳は生きた日本の歴史書である。
今でも勧進すれば庶民的値段で最後に読み上げてくれる。

過去帳読み上げのハイライトは青衣の女人の読み上げである。
頼朝から数えて十数人目に登場するなぞの女である。

神名帳の明快な調子に較べ、過去帳は重厚で沈み込むような節である。
この女の読み上げに来ると宇堂が聞き耳を立てるように静まり返る。

「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」

とゆっくりと声を沈めるように宇堂の隅々まで聞こえるように読み上げる。
ここから読み上げが一気に加速し、省略しながら現代の人まで読み続ける。

鎌倉時代の集慶(じゅうけい)という練行衆が読み上げていると、
青い衣の女が現れ、「何故わたしを読み落としたのか」と、恨めしげに問う。
名前を探そうとするが見当たらない。行の疲れで朦朧としていたのだろう。
とっさに低い声で「青衣(しょうえ)の女人(にょにん)」と読み上げると、
その女人は幻のように消えて行く。

源平合戦の反省の程がよく分る。集慶は慶(四四)派の人だろう。
なぜ日本があれほど乱れたのだろうか。肝腎な人を忘れていたのである。

日巫(卑弥呼)である。諸菩薩の「あいうえお」宇宙の総代である。
青衣(あお井、葵)の女人である。


大籠松明 上堂

「お水取り」のハイライトは12日の籠松明上堂で始まる。
東大寺の高間の二、三、四月堂の高原とその境内は立錐の余地もない。
一際大きな籠松明が11本上堂する。燃やすのが惜しいほどの芸術品である。

真夜中にクライマックスの「お水取り」が行われる。
奈良時代にそのままタイム スリップする。まさに人類最高の火水祭である。
木々の魂賛歌、木羅のジャパンのジャックの舞いこそ、達陀の行である。
如月の如賀(Jocker)の舞いかな、真剣な行にちょっと遊び心を感じる。

よくぞ、日本民族よ! 人類の忘れた歴史を記録して置いてくれた。
石造文化になり、人類は過去を見なくなる。虚構に生きるようになる。
達陀回教こそ、木造文化であり、それが日本に生き残ったのである。
カナールの堰を切った春水がパピヤナ ピーナと木羅々々と流れてくる。

寒仕込みの宝水が雑木山からキラキラ流れてくる。
いよいよ、春がくる。まさにカーニバル(賀奴日羅、神春)である。

十本大松明の千秋楽

14日でいよいよ打ち上げである。安堵感と最後の緊張感が伝わってくる。
満行への総仕上げである。諸行が時間を詰めるように行われる。
修二会のため組まれた須弥壇の破壇等結願に向けた法要・儀式が加わる。

なんと言っても圧巻は「しりつけたいまつ」と言われるように
次ぎの大松明が前を行く練行衆の尻を焦がすのではないかと思うほど、
十本の大松明が時間を空けずに次ぎ次ぎと上堂する。
十本の大松明が高楼に横一列に並ぶ。一斉に振られる。

まさに、火花のナイヤガラである。

真夜中には満行の証「牛玉宝印」を額に押された練行衆が奇声を上げ退散する。

観音講の人々よ、よくも1200年余り途絶えず続けてくれた。
まさに生きた歴史の博物館だ。まさに世界最高、最長の舞台芸術である。
舞台芸術とは神に捧げるものであるのがよく分かる。
焼失再建された高楼舞台構造に元禄文化の心意気を感じる。

今年の修二会は雨で始まり、雨で終わった。年々で様々である。

達 陀 帽 授け

この日が晴れていると満行明けの練行衆は最高の幸せを感じるだろう。
十四日間続いた本行は荒行と言ってもよいだろう。明けの日の行事である。
達陀帽授けとは達陀の行で八水天が被っていた兜を一般人に被せる。
これを被ると呪力が宿り、元気に育つと言われている。
母親に連れられた子供が大勢訪れる。まさに天下太平である。

達陀(タ゛ッタン)とは観音(ツーハン、津幡)を言い、日本海の対岸をいう。
「かんのん」と読むのは華僑系「二九たける(福建)」族の読みである。
日本は竹部、建部、武部の三巴の国である。

「お水取り」は葛城(賀津羅)族がアムール(あ茂羅)川からタタール海峡を
樺太(賀羅田井)を通り、伝えたタタラ製鉄・オロチョンの火祭を昇華したものだ。
日本にタタラ製鉄が伝わるのは3000年以上も前のことである。

修二会とは八幡暦の二月の満月を迎える如月、如賀(Jocker)の祭である。
中国太陰暦の採用により、八幡暦を忘れないように記録した行事である。
14日の満行の真夜中に満月の月明かりが西向きの二月堂に射し込む。
津幡の月(津木)読みの祭である。仏教とは関係ない八幡神道の祭である。

「木」の姿をした樹木があったら教えてください。
「木」とは木島の六角宇宙観文字です。

台湾坊主が吹き荒れる頃

春の嵐と言うのだろうか。台湾近海生まれの低気圧である。
日本海に迷い込めてば 春一番が吹く。
冬の三寒四温のリズムも崩れ、天気が目まぐるしく変わる。
太平洋沿岸を行くときは前線の北か南かで春と冬が同居する。
冬以上に激しい雪が降るが すぐ晴れ間がでる。

まさに木更気である。里山の木々の個性がよく分る。
緑の固まりにしか見えない杉・桧に、枝々を際立てるように雪が積もる。

葉の落ち切った楢・椚では雪が通過するように地面まで降る。
だが地表がボーと白泡で濁る。ビシャコ、三葉ツツジの喬木に雪が積もる。
白濁してた山肌を背に楢・椚の幹・枝が気更木となり、凛々しく見える。
冬も若緑で頑張った竹が雪の重みで大きく傾く。

冬将軍に負けそうもない春陽になる。いつもの春告花に目が行く。
紅の蕾に目が行く。旧街道の白壁の見越しの八重の紅梅である。
ここで思いきり息を吸うようになったのは霧の立ち込める夜からである。
生あたたかい春霧が立ち込めるとようやく春の気持になる。

春霧の夜に散歩をしたくなった訳でもない。毎日の煙草買いである。
車がくるので避けようと畑側に寄ったとき微かな梅の香りがする。
紅梅がこんなに匂うはずもない。夜霧は雑木山から降りてくる。
忘れ去られた山陰の小梅である。深呼吸が呼ぶ春の香りである。

春は予想外に来る。曇り空で寒々しく感じるので炬燵に入っている。
なにかの用事で重い腰を上げ、外にでると。外のほうが暖かい。
生ぬるい風が吹いている。北の雲が切れ、北から明るさが差す。
南の曇り空を背に雑木の気更木屏風が鮮明に浮き上がる。

気更の雑木連が、如月の如賀(Jocker)が弥生に向け、
マーチ(行進、March、三月)の勢揃いである。まさに気更木である。
このときほど雑木山が凛々しく見えるときはない。

春よ、どこからでも攻めてこい。


寒さも 彼岸まで

ウグイスの鳴く音でふと目が覚めた。鳴き声が艶が出てきた。
障子に射す陽に元気がない。外に出てみると風が冷たい薄曇りである。
庭の山桜の春を待つ枝々の中をウグイスが鳴き歩いている。
喉の震えがよく見える。艶のある音を絞り出すようだ。

今年は野辺にはまだ花の気配がない。年々様々である。
梅と桜が一緒に咲きそうな年も本当にまれである。
いつもなら彼岸を過ぎれば歩いていると汗がでる。
冬支度の服装が急に重く感じる。

野辺に春の雰囲気が満ちてくる。タンポポの黄色いが目にとまる。
畑の法面に青と白の斑点が現れる。オオイヌフグリとハコベの花だ。
小さな小さな爪の上に乗るような花だ。摘んで家に帰る。
机の上に置き、虫眼鏡で覗くと、ルリ色の五月の空が広がる。

こころが五月空に吸い込まれそうになる。ハコベは寒越えの白である。
ハコベは八弁の純白花で、オオイヌフグリは四弁の瑠璃花である。
わたしの一鞭を入れれば弥生(八四一)になる。いよいよ春だ。
怠けた体に一鞭を打つように奥山越えの体を作らねば。

梅は咲いたが 桜はまだかいな。

こどもの声で外に出てみると、土筆摘みをしている。
この前、カラス蛇が日向ぼっこうしていた日溜りである。
土筆がでているとは、こどもは春を見つけるのが上手だ。
娘が小さなときはいち早く、卵とじにした春味も遠くなった。

里山の春

葉も落ち切り、茫々としていた冬枯の雑木林、うす小豆色に染まりだす。
「あいうえお」の「あ」の一番の「あ月(小豆)」色である。
小豆が渡来する前からある芽吹きの蕾の萌えの気更木色である。

この頃になると雑木山の一隅にいつも目が行く。
サーと樹冠部に浅緑が走る。ウワミズ桜の芽吹きで春が始まる。
それに呼応するように樹低部に丹と新緑が浮かぶ。
丹ツヅジの開花と芽吹きだ、雑木山にもいよいよ春がくる。

ナラ・クヌギが主役の雑木山はまだまだ茫々とした冬枯れの姿である。
木更気の気合が満ちてくるが芽吹きまではまだまだである。
里の桜が満開になる必要がある。新緑まではまだまだだ。
最後に五月の新緑を見届けるようウワミズ桜の白尾花が咲く。
天皇家の桜である。生駒神社に記録され、五弁の花ではない。

玄関をでると薄曇の割に日差しが温かい。寒の戻りが数日続いた。
野辺の道にタンポポが一斉に咲いている。オドリコソウも競演している。
雑木山まで足を運んでみると三つ葉ツツジが咲きだした。
尾上の霧花、アカヤシオが頭によぎった。山伏の足音がする。

いよいよ紅花を追う旅音がする。

竜田道の 丘辺の路に 丹つつじの ・・・・  万葉六971

丹(三つ葉)ツツジは咲く前の蕾の深紫丹色が好きである。
アカヤシオとシャクナゲの蕾の丹色が好きである。
吉野奥山の岩山と熊野奥山の森山で人知れず咲く。
三つ葉ツツジは里山の雑木林で人知れず咲く。
サカキと共に森底に生きる喬木である。

サカキはたくましい、冬の陽射しを上手に集める常緑樹である。
三つ葉ツツジは木漏れ陽も届かない森陰に生きる冬枯れの落葉樹で、
いつ陽を浴びるのだろうか。葉隠れの可憐な生命力を感じる。

針金のように細い枝である。森陰では見えないほどに細い。
森底で丹色が浮いているようだ。新緑の花が咲くときもある。
花を付ける力のない若木の芽吹きである。鮮やかな新緑だ。
雑木林が茂る前のわずかな間に陽の光を集める可憐な葉である。

庭で手をかければ噴水のように咲き誇るように華やかに咲く。
村娘が一躍都の姫君に変身したように、艶やかな桜色だ。
崖崩れで雑木林の奥まで陽が差し込むときは見事に咲く。
次の年に行ってみたらススキに負けていた。
雑木山の森底でしか咲けない花のようだ。

花冷えのする雨が降る。タンポポの花が閉じ、春は幻だったのか。
関東では桜が咲きは始めたようだ。あんとなく、そわそわしてくる。
奥山越えの熊野詣での体作りも気合を入れねば。日曜日は晴れくれた。
普段よりリュックを重くしての裏山越えの追分梅林詣である。

梅も終われば里山越えの山道に咲く丹ツツジをと思い家を出る。
近く造成地の忘れられた一角に冬越えの緑が黄色に染まっている。
雨上がりのそよ風に香りが漂ってくる。爽やかな春の香りである。
この頃は満開の桜より、ミモザ(房炎樹)の香りが好きになった。
あの透き通る香水の香りが、手に取れば菜の花にも負けない黄色だ。

この林を見つけたのは黄砂で空がぼんやりした年だった。
鼻を乾燥さすような黄砂風に乗り、香りが漂ってきた。一瞬、
大陸にいるような気がした。春を喜ぶ歌声聞こえきそうだ。
マイマイマイ(May五月舞)のベササ(BSS美サン太陽)

この頃が復活祭であり、釈迦誕生日、鉄腕アトムの誕生日である。
花祭りのシーズンである。浮世は何時もアトム色の花盛りである。
色鮮やかなアトム色なら大陸である。コバルト色の空が広がる。
カーニバルで始まり、メーデまで春祭が欧州を北上する。


桜の花の咲く頃

関東からの桜便りが届くと、生駒の里は四、五日遅れる。
庭から伏瞰する屋根、屋根越しに見える小学校の校庭の桜が気になりだす。
入学式準備の様子が風に乗り、スピーカで届くときもある標準樹である。
吉野の桜は下千本、中千本、上千本、奥千本と二、三週間位で山を登る。
天気次第では一週間ほどで駆け登るときもある。それが吉野の桜だ。

里は咲いたが 吉野はまだかいな。

下千本が開花し始めたようだ。生駒山に桜色の群雲がかかりだす。
千切れ雲もあり、山屏風に萌えの色々な気更木模様が浮かび出る。
桜の宴を求め、奥山越え熊野詣の足慣らしの山行が裏山から生駒山に変わる。
尾根筋には観光道路があり、桜が色々な群生をなし、雑木林と競い合う。
雑木林を背に一本咲きの大桜の下で一家族が独占してるところもある。
クラシックカーの愛好会の宴もある。さまざまの宴を開いている。

「今年の吉野の桜はどうかな。」とそわそわしてくる。

里桜の散り始めを合図に雑木林が鬨の声を上げるように芽吹き始める。

この一週間ほどで里山は小豆色の芽蕾が割れ、新緑へと燃え上がって行く。
冬の雑木林は明るさが満ち溢れるほどに地面まで陽が差し込み、
カラッとしていた。その陽を溜め込むように一斉に芽吹き始める。
あれよ、あれよと言う間に白泡で埋まり、泡緑が溢れだす。
初夏を思わせるような暖かい日では朝と夕で雑木林の色が違う。
日当たりの良いところと悪いところでも違う。

泡立つ鬨の声にせかされるように、「桜だより」に目が行く。
吉野山を登る桜の勢いと鬨を合わすように攻めたてられる。


初夏を思わす暖かさで、千本隊が一気に駆け登るときははらはらする。
それを止めるように冷たい雨が降る。前線通過の風の強さにはらはらする。

世の中に たえて桜の なかりせば
春の心は のどけからまし       在原業平(古今集53)

春風が里山を通り抜けると雑木林が揺れる。泡緑の擦れ合う音がする。
芽吹きの競奏曲である。木々により、場所により色々な芽吹きをする。
櫟、楢の雑木林では茫々とした枯れ木の中で存在感のあった杉、桧、松、竹の
力強い緑も一夜にして圧倒され、疲れ緑の隠し味になり、新緑が一際目だちだす。
冬の竹林の若緑は何だっかと思い直してしまう。

生け垣の洋カナメはこれ以上の赤はないと言うほど赤く燃え上がる。
色々な色で芽吹き、新緑を競い、濃緑に落ち着くにはだいぶかかる。
オーケストラのように音色を変えながらポジション、ポジションで競い合う。

樫の芽吹きはそばで見ないと分からないコントラ バスの音色である。
常緑樹と言うが同じ葉が一生付いている訳ではない。
常緑を見せかけるようにこの頃に密かに衣替えしている。
冬越えの疲緑の二、三年葉が衣を脱ぎ捨てるように木元が埋まる。

この一週間は年歳で異なる。初夏のように暖かいときもある。
と思えば冬の終わりを告げるように氷雨が降り、花冷えするときもある
菜種梅雨のときもある。花曇りのときもある。花嵐のときもある。

その様子が下・中・上・奥千本の桜筆で吉野山の屏風に描き出される。
何時も上千本満開が狙い目であるが年歳で、桜絵の趣が異なる。
「天気図」を見ながら、日曜日にしようか、土曜日にしようかと迷いだす。
「天気予報」を聞くと、日曜日が最高の行楽日和になりそうだ。

わが行きは 一年ぶりの 佐久羅比売
ゆめこの花を 風にな散らし      伊古麻耶羅宇

花 は 吉野!!  

そして、吉野の友人に電話を入れる。
「今年は最高になりそうだ。下、中、上の千本が一度に満開になり、
十年に一度あるかないかだ。下千本は散り始めている。」
これを聞き、心がそわそわしてくる。

宵パリの遅寝遅起であるがこの日に限り、始発電車よりも早く目覚める。
家から出ると薄く朝霧が漂い、新緑のブレンドした匂いがしっとりと鼻に感じる。
今日は最高の行楽日和なりそうだ。

8時頃に吉野駅に降り立つ。あの雑踏が押し寄せる、まさに嵐前の静けさである。
露天商の準備にも気合が入っている。いつもの「木の実」を売る露店に立ち寄る。
「今年はクコの実にするは」、奥山越え熊野詣でに備えた携帯酒造りである。
果実酒の作り方を伝授してくれた。クコの実が家に残っている年は
互いに探り会うよな会話になる。「金柑の蜂蜜漬けはどう。」と言う。

「 山行きには蜂蜜はだめだ。熊は蜂蜜の匂いに敏感なんで。」
「じゃ、家で食べればよじゃ。」、「それもそうだな。 」と
言いながら毎年、何かを買わされる。

この日は吉野の町が最高に燃え上がる。この弥生の賑わいは東京にはない。
弥生八幡の野の花遊びである。人出で埋まるのは間違いない。色々な出店が並ぶ。
まだまだ青空の下に朝の爽やかさが漂っている。
あちらこちらを寄り道しながらの花見行きである。

最初の坂道にある一の行場の速秋津比売神の祠に寄る。
下千本は葉桜である。散ったばかりの枝々は芽吹きと花額で紅色に染まる。
花冷えの氷雨なら風情がでるがこんな青空が広がると明るさには負ける。
楓並木の新緑もまだまだ幼葉である。

蔵王堂に寄り、朱印帳に今日の日付を記録するため朱印をもらう。
一番確実で、不精この上ない日記帳である。ゆっくりと蔵王権現を拝観する。
そしてビジッター センターに寄り、最新情報を入手する。
吉野は行くたびにのめり込で行くほど奥が深い。

友人の店に寄るがゆっくり話せるのもつかの間である。
人出が押し寄せてくるのを肌で感じだしたのですぐ出ることにした。
まず、吉水神社に立ち寄ることにした。
ここからみる中千本、上千本の満開の眺めは圧巻である。
婆娑羅な桜色の入道雲が沸き上がる。その迫力にはただ息を飲む。
「さくら さくら 弥生の空を」の歌声など、吹っ飛んでしまう。

また義経の鎧があり、その小柄な体付きには驚いたのが最初の吉野詣である。
婆娑羅を極めたであろう緋縅を思い浮かべながら、
弥生の源氏八幡魂を感じとるには10年以上はかかった。
また、南朝の皇居があったとも言われている。

花にねて よしや吉野の 吉水の
まくらの下に 石はしる音         後醍醐天皇

「石はしる音」とは丹治川の瀬音であり、吉野は丹生族の作り上げた都である。
国宮の邪馬台にもないと言われるほどに丹の輸出で栄華を極めた都である。
その瀬音を求め、谷に降りる。地獄の底に降りるようなつづら折れの細道である。
桜の風情など一瞬に消え、杉木立の中をただ降りるだけである。

丹治川沿いの谷道は尾根道の喧噪を避けるハイカーの道である。
桜も自然体に咲き、峰越えの風から逃れた桜が散り始めている。
谷道を行くと、丹治川が細い流れとなり、消えるかかる。
そこからやや坂道を登った中腹に如意輪寺がある。

この裏山で秀吉が大茶会の本陣を置いている。輪土のように広がる山肌に桜が咲く。
ここから見る桜曼陀羅を見ずして、桜を論じることなかれ。
日本民族を論じることなかれと言いたいほどである。

如意輪寺でひと休み。満開のときはまさに春高楼の花の宴の舞台である。
「葛きり」を、吉野の「ところてん」である。黒蜜の甘みで疲れを癒す。
水晶のように透き通り、めっぽう腰が強い。花に見とれて、噛み切り損じてと
呑み込むと胃まで通じそうである。

桜曼陀羅を持って帰れないと悟り、輪土の桜の中を鴬の谷渡りのように、
五郎平に行く。まさに弥生の空がどこにあるのか押し寄せる桜の山津波である。
そして門前町の尾根道にでる。まさに、人々の都の賑わいである。
上千本と下千本の境目の五合目である。

満開の中・上千本を求めてただ登るだけである。バス停は長蛇の列である。
そんなバスを待つ間に上千本の桜を楽しみながら奥千本まで行けるのに。
大きく曲がるつづら折れの登り道から谷に広がる桜の花園である。
つづら折りを曲がるたびに景色が変わる。

金剛・葛城の山並が借景になってくる。まさに雄大な伏瞰の花景色である。
蔵王堂の桧皮葺きの大屋根が茶一点で強烈なアクセントを付ける。
この景色こそ、花は吉野である。蔵王堂の屋根がこんなに大きいかったとは。
拝観のときは感じた大きさと異なる大きさを感じる。

上千本も終わりに近くなってきた。最後の谷上で一休みする。
すると一陣の谷風が吹き上げてくる。無数の花びらが後を追うように舞い上がる。
もっと風よ、強く吹け。止めどもなく列になり、空に吹き上がる桜龍が見れるかと。
行楽日和の弥生空ではそこまでの風は、噂の桜龍とは春嵐の荒神の姿かもしれない。

奥千本は吉野の山の八合目にある水分(みくまり)神社から始まる。
丹生族象徴の朱の鳥居を潜ると三方を建物に囲まれた箱庭造りである。
枝垂れ桜が満開である。箱庭を囲む縁側に所狭しと腰を降ろして見とれている。
上千本の坂道の疲れを癒しながら見る花姿は箱庭に咲く、箱入り桜姫である。
峰越えの風から護られながらこんな山里で可憐な姿で咲いているとは。

吉野山の八合目の水分神社までが弥生(八四一)世界なら
これから上は弥勒(三六九)世界で、九合目の金峯神社へ

なだらかな尾根道になるが絢爛に咲く里桜ではない。
杉木立と競うように、地生えの山桜が咲く。
その途中に高城山の展望台があり、花笠に見えた尾の上の桜が満開である。

なにしろ眺めがよい。奈良盆地を囲む丹生族の山波が一望できる。
高天比古(彦)の金剛山から竜田比古(彦)の生駒山まで続く。
大和盆地が高天が原(高間平)のモデルであるのがよく分かる。更に、

弥生八幡の宮宇宙観もよく分かる。

この高城より昇る耶神(冬至太陽)を迎え入れるのが平城にある蔵王堂である。
水分神社は八合目にあり、勝手神社・蔵王堂・吉水神社は四合目にあり、
一の行場の速秋津比売神の祠は一合目にあり、
八幡吉野(四四野)山は弥生(八四一)の配置になっている。
男の暗間(九羅間)はもっと厳しい弥勒(三六九)である。
かっては女人結界の吉野奥駆け道は九合目の金峯神社より始まる。

青 根 峰

今日はなにしろ強行軍である。蜻蛉の滝から五社峠を越え、宮滝まで行く予定である。
この一ヶ月で奥山越えの体を作らねば。少し道草をしすぎた。西行庵は省略しよう。

ちょっと寄り道をし過ぎた。蜻蛉の滝から登って来たハイカーに、
この時間から五社峠と宮滝までは無理と言われた。ならば無理することはない。
一緒に青根峰に登ることにした。吉野山の最高峰(857m)である。
ここから大峰の奥山越えが始まる。悠かに連なる連山を見ながら武者震いした。
半月後に挑戦する山波である。

尾根道と谷道があったがなんとなく本能的に尾根道を選んでしまった。
道に迷ったら尾根道を行けと言うのが奥山の鉄則である。
それを試してみたかった。と言いながらも歩けども歩けども尾根道である。
杣道の雰囲気である。余り人が入らないようだ。道が荒れ、倒木が道を塞ぐ。

滝音が聞こえてくるが下に降りる道がない。谷道を行くべきだったか。
ここで道を迷っても尾根道をどんどん行けば吉野川までしれている。
どんどん行くと道標が立っていた。青根峰と五社峠への分岐点である。
尾根から真っすぐに蜻蛉の滝に下りる道である。
崖に近い山肌をつづら折りに下りて行く。滝の音がだんだん大きくなってくる。

谷の陰地の雰囲気になり、大きな祠があった。天照大御神をまつる洞窟があり、
役の行者が修行したと説明があった。そして大化改新の中国物質文明に対抗し、
修験道を開祖している。この洞窟に秋津宮の聖地を感じた。

蜻 蛉

役の行者は「蜻蛉(とんぼ)飛ぶ秋津宮」を追い求めて、蜻蛉の滝に着いた。
だれもいない。あれ程いた人ごみも消えて無くなる時間帯である。
ハイカーは電車の便を考え、朝ここから吉野の花見行きをする。

一人でこの滝を独占できる。美しいほどに美しい滝である。人工美を感じる。
岩肌は人工的に削り上げている。今日はちょっと水量が多く流れに勢いがある。
途切れるほどの流れのときは滑らかな岩肌に広がり、白絹の衣のように広がる。
木立から薫風が吹く、白妙が陽炎(かげろう)のよに舞う姿が最高である。

これで桜美幸も終着点にきた。秋津小野公園の枝垂れ桜が満開である。
本当に奇麗に整備された公園である。行楽客も帰り支度している。
村の人々が故郷祭をしていたようだ。最後に残った草餅を買って食べた。
新ヨモギの匂いが口に広がる。桜追いの終わりの安堵感である。

ここからバスで帰ることにした。しかし、時間になっても待てど暮らせどバスが来ない。
土地の人に聞いたら吉野花見の大渋滞で、ダイヤは目茶苦茶であると。
来ないバスを待っても仕方ない。歩きながら途中で拾ってもらうことにした。
今日は五社峠を越え、宮滝まで歩き、余裕があれば上市の駅まで歩くつもりでいた。

しかし、五社峠のトンネルをとことこ歩くときには浮世の侘しさ感じだ。
行楽帰りの車が大音響を響かせ通りすぎて行く。車では一瞬の距離だが歩けども、
歩けども出口は大きくならない。振り向くと入口のほうがまだ大きく感じる。

ようやく出口をでた。気持ちを察してか途中で速度を落としてくれる車もいる。
手を上げれば乗せてくるのだがただ歩くのみである。奥山では一日12時間以上は歩く。
平地で遭難することはない。吉野杉の美林の尾の上に紅一点に咲く桜が見え隠れする。

歩けども歩けどもバスは来ない。
宮滝を通りすぎ、上市の市街地にきたらバスが追い抜いて行った。
ここまで来たら意地でも上市の駅まで歩ける。電車でバスの客と一緒になり、
吉野の花見渋滞の恐ろしさをつくづく話し合った。


年々歳々色々あるねえ

友人の個展があり、そのあと奈良の美術館に回ってみた。
美術館からでると桜が満開である。大回りして帰ることにした。
五重塔を仰ぎ、歩きながら楽しめる。松の緑に混ざるように自然体で咲く。
こんなところで花見の宴を開いたら鹿に取り囲まれてしまう。
興福寺を通り抜け、三条通りにでると春がみなぎっている。

こんなところに楠と欅の大木があるのかと立ち止まった。
欅は珍しい。幹はあくまでも太く、枝はあくまでも細く。
その枝先にわずかな芽吹きが走り出している。まさに気更木である。
並ぶように楠の堂々とした幹には冬越えの葉が力強く茂っている。
南方系の常緑樹と北方系の落葉樹の大樹の揃い踏みである。

彌樹と弥樹の間に抹茶色の水面が広々と見える。猿沢の池である。
春の陽が柔らかく降り注いでいる。岸辺の柳の新緑が一際鮮やかだ。
坂を下るように並ぶ土産店の裏手の桜々は屋根を覆うように満開である。
商店街は夜来の雨上がりで昼前の爽やかな活気が満ち溢れていた。

ほんとうに春うららな歳である。

宵の生暖かさで庭に出ると薄曇だった。せっかくの土日は雨なのかな。
と思い、何気なく雑木山に目をやると、雪が降ったように白々しい。
初冠雪よりもきれいに、満遍なく粉雪が枝々に積もっている。

ええ、これはなんだ!!
雑木山の一斉の芽吹きである。花冷えの日が続き、そして初夏の暖かさだ。

宵空の明かるさが降り注ぐようだ。雑木山は森闇に包まれいる。
西空の明るさが薄雲を通すのか。生駒越えの街明かりが反射するのか。
生駒の山々の裏は大阪の街々である。黒々と屏風のように立ちはだかる。
ボーと東空が薄黄金色の染まり、立待ちの月が雑木山から昇りだした。

その明るさに負け、雪が消え去るように木々の姿が透かし彫りになる。
木枯らしが吹き、オリオンの三ツ星の空とは違う。凍る月空ではない。
冬枯れの透かし彫りでない。木々の姿も芽吹きでぼかされている。
杉の木の天辺に宵の明星が。ほかの星が見えない朧月夜である。

宵の薄雲の明るさに浮かんだ雪山は幻だったのか。
月が西空に回り込む夜半まで待とう。牛三つどきまで月をめでよう。
きっともっと明るく雪山が現れるはずだ。薄雲が消え、満天の星が。
そして燻し銀に染まる雑木山が現れた。こんな偶然もめずらしい。

どうしてこんなに白く見えたのだろうか。昼の芽吹きの残像か。
花冷えが続き、氷雨も降った。こんなに満開の桜が長持するとは。
芽吹の白緑粒が一斉に雑木山を覆う。初夏の暑さと報じてた。
朝起きると泡緑に変わり、透かし彫りの雑木山も奥行きが浅くなりだす。

爽やかな朝の空気を吸うようにウグイスが鳴く。久しぶりである。
今年の初音は正月の終わり頃に聞いた。こんなに早くと驚いた。
まだまだ下手糞な鳴き声だった。何時、何処で練習していたのか。
里では桜も一段落し、いよいよ庭の自生の山桜が咲き始める。


こんな花見もありました。

縁とは不思議なものである。お水取りの歴史を調べたくて
東大寺の図書館に行ったときだった。その日に限り休館だった。
桜も散り、春うららな日で二月堂の高楼から奈良の春霞を眺めていた。

一人旅の初老の外人さんが隣りにいたので声を掛けてみた。
京都大学の宇治キャンパスに来ていた物理学者だった。
チェコ人で、モスクワ大学原子力科の出とか。
米ソは勿論、世界の原子力に通じた鉄腕アトムの発祥地である。
ロボットの発祥地はチェコだよ。日本では変に進化してしまった。

わたしも暇だったんだな。昼からも暇だった。
東大寺だけで帰るのは勿体無いので、薬師寺と法隆寺を案内した。
薬師寺でラマ教の僧侶とすれちがった。声を掛けると目が光輝いていた。
衣からでた肩と腕はきれいに日焼けしていた。不思議な時空を感じた。
生粋の碧眼と黒眼の九間羅十(鳩摩羅什)にタイムスリップしたような。

それが縁で日本に来るとわたしの家に泊まるようになった。
チャフラフスカの同僚で、プラハの春の話をよくしてくれた。
それなら日本の春を、あの年ほどハラハラした春はない。

世の中に たえてさくらの なかりせば
春のこころは のどけからまし        在原業平

年度変わりの四月は何時も仕事回りが悪い。それに遠来の友が加わった。
三月初めに筑波にきていた。何時、関西に来るのか気を揉んだ。
四月になったら行くと言ってきた。吉野の桜を知る由もない。

アルタイ語の通じるウラル人にオルカを見せてやりたかった。
電話が掛かってきたのはイラクとエホバの戦争が始まった日だ。
「イエ」半母音曼陀羅のテレビ ゲームはそれなりに面白い。
小鼠首相と日本のマスコミは米軍をダントツの一番勝馬にしていた。

ウラル人とは戦争の話はしたくない。血に染まった紙芝居を見るようで。
「あうお」母音曼陀羅で、「オカルト」より、「おるか」を追おう。
吉野(四四奴)曼陀羅に何奴が「おるか(ORUCA)」。
弥生(YAYOY、八四一、耶世夷)の主を見せてやりたかった。

花冷え続きで、下千本、中千本、上千本、奥千本とゆっくり咲きの登る。
今年は何時でもよさそうだ。年に一度の花見である。最後まで粘ろう。
「吉野の春は邪馬台にはない。」、雑踏が好きである。日曜日に拘る。
新聞の桜便りをハラハラしながら我慢較べである。2日遅かった。

雨が降る土日になってしまった。旅の疲れを癒さすため急かす気も消えた。
旅立がのんびりしてしまった。上千本も散ってしまっていた。
遥か尾上の奥千本が雨霧の中で雨雲と競うような遠望である。
蔵王堂界隈で油を売り過ぎた。洞川への旅路が気になりだした。

雨の山越えは危険である。「雨の山道を行くな。」は吉野・熊野の警言である。
ほんとに際どい春嵐の雨である。整備された谷国道を行こうか迷った。
夕方に着けばと思ったが霧がでたらどうしよう。引き返せばよい。
奥駈道は歩き慣れている。足元に見える林道をたまには走ってみたい。
この位の雨なら。山越えにした。「おるか」を見せる旅でもある。

最初の引き返し点を軽く通り過ぎ、あとはただ前に進むだけである。
最近完成したばかりの二車線の林道である。崖崩れはあたり前である。
最初の崖崩れは一車線が十分空いていた。だめなら引き返そう。
轍は新しいので大丈夫だろう。地獄に引き込まれる誘惑である。

また崖崩れがある。激しいさが増してくる。どうしよう、迷いだした。
その内に対向車が来るだろう。ならばOKである。また崖崩れがある
日曜日なのに全然対向車が来ない。四輪駆動車ならスリルを楽しめる。
普通車では底を擦りそうな岩が転がる。だんだん喉が乾いてきた。

倒木も道路に平気に転がっている。やはり幅広い二車線林道の強みである。
山側に避けるがいつ崩れるか分からない崖が続く。対向車が全然こない。
また崖崩れが現れる。数えるのも忘れてしまうほど、喉はカラカラである。
「デンジャー、デンジャー」と言いながら神に祈る気持になってきた。

あともう一崩れあれば道路閉鎖だ。朝からの雨脚が弱いのがなによりだ。
轍が新しい感じだが対向車が全然こない。第一の峠を越え、もう引き返せない。
人里は遥かである。この辺は歩き慣れているので奥山の怖さが分かる。
第二の峠を越えたのでホットしたが気が許せない。ようやく合流林道が見えた。

合流点に何か立っている。通行禁止の立て看板だった。ヒヤとした。
入口にあった看板は花見規制の看板と勘違いしたようだ。トンネルまでは。
気が許せないほどの崖が続く、岩が道路に転がっているが崖崩れはない。

道路の下に大型のユンボー車が見える。崩落個所の補修のようだ。
人影が見えない。恐々、通り過ぎる。千尋の谷がまる見えである。

トンネルが見えた。バンザイと言いたくなった。人里まで歩いて行ける。
しかし、外人サンは健脚ではなさそうだ。頼む、頼む。あと少しだ。
トンネルを通り抜ければ洞川である。見慣れた景色だが崖が続く。
観光バスの本道にでた。これで安心と思ったら。発破注意の標識がある。

ゴロゴロ水の配水設備が谷底に転げ落ち、土の中から顔を出していた。
夏の日曜なら水汲みの長蛇の列だ。名水ブームのご時世である。
谷から下る鉄砲水で大崩落したのだろうか。渋滞解消の大工事か。
戸開け前の、連休前の静けさか、人気が全然ない。旅館街が見えた。

「いい時に着いた。」と出迎えてくれた。団体さんが帰ったばかりだった。
日曜日の雨の夕方である。泊まり客は私達だけだった。まさに独占だ。
これほどリラックスできる温泉宿はない。二ヶ月程前に泊まったばかりだ。
なにしろ宿の人とは顔見知りだし、親しい友人も懇意にしている。

山伏相手に300年以上も続いてきた宿坊温泉街である。
人のもてなしに歴史を感じ、温泉街が一体となり組織化している。
宿坊宿は泊まらせ上手だが修験道の話なら法具専門店である。
山伏の薬師の伝統を引き継ぐ陀羅尼助の薬屋でもある。

アルタイ語が通じるので修験道の理解も早い。なんと言ったて速い、
ザトペックの友人であり、世界のトップ ランナーの科学者である。
奥駈道を走ってきた甲斐があった。山々の眺望より、「おるか」の雨だった。
あの霧立ち込める雲の中に「おるか」が居たはずである。だから無事だった。

店の若主人が色々面白い話をしてくれた。洞川は情報センターである。
オウム信者が奥吉野に逃げ込んだと言う情報で、職務質問をされたとか。
言われてみれば指名手配写真に似ている。彼等にはそんな根性はない。
都会密室の「オカルト」と「おるか」の「アカルト(あ賀羅徒)」は違う。

篠のつく雨音で目が覚めた。背筋に冷たいものが走った。
こんな雨なら山越え道は更に崖崩れしているだろう。昨日はついていた。
奥山越えの熊野詣が頭によぎる。仕事回り、曜日回り、友回りが悪い。
天気回りも悪るそうだ。今年は慎重に行こう。完走は来年に回そうか。

そんなこと考えているうちに頭が冴えてきた。まだ薄暗い、四時頃である。
三回も温泉に入り、早寝でぐっすり眠れたのか。寝付けそうもない。
温泉に入ろう、露天の冷風を浴びながらの一人風呂である。もう寝付けない。
畳廊下に座り込み、影絵のような屏風山をぼんやり見ていた。

煙草を吸うだけでは時間が持たない。外人さんの寝返りを打つ音がした。
目覚めているようなので温泉に誘ったがうつらうつらしているようだ。
布団のぬくもりを楽しんでいるようだ。一人でまた入ることにした。
露天の坪庭である。朝の冷気を楽しみ、溢れるお湯が白砂に吸い込まれる。

今度は屏風山に木々の姿が浮かんでいる。霧が流れる。夜明けが始まった。
ただただ見入るだけである。雨のリズムも加わり、霧の流れが千変万化する。
雨脚が弱くなって行くようだ。霧が一隅の木々の間から湧き立ち登る。
雨に拭われたモミ、トウヒの濃緑はスギ、マツとも異なる。樹姿も違う。

里は新緑に芽吹き始めたが奥山の春はまだである。萌気が伝わってくる。
紅葉の雑木林が裾を飾るように並ぶ。鮮やかな木肌で、複雑な樹姿である。
帯境のモミ、トウヒの濃緑の一隅から霧が絶え間なく湧き上がる。
屏風山に湧霧の壷があるのでははいかと、そこからだけ湧き上がる。

屏風山の夜明けは見飽きない。燕の群舞が端空に現れたがすぐ消えた。
朝のお出かけ時間なのか。その内に鳶が屏風の前を低く舞った。
晴れるのかな。心ない飛びかたで扇の枝に止まった。また飛び立った。
天気を測りかねているようだ。期待するような上昇気流もないようだ。

その内に外人さんも目覚め、温泉に誘った。露天風呂は気に入ったようだ。
カメラを持ってきた。土産話にするようだ。小さなお稲荷の祠がある。
坪庭は小さな崖縁にあり、さりげない木々に深山の風情がある。
それを背景にわたしがモデルである。科学者は探求心が旺盛である。

今日はのんびり帰ることにした。外人さんもだいぶ多忙だったようだ。
リラックス、リラックス、美(BV)神のビーナス、ベッピンの天河弁才天へ。
三鈴の三曽の禊(三曽気)のミソロギ(三曽羅城)の神話を話してあげた。
昼はいつもの食堂に寄った。ゼンマイに似た山菜がでた。新食感を発見。

帰りは谷の国道を行くことにした。山越えして蜻蛉の滝に行くのは諦めた。
吉野・大和路の休日を楽しもう。国道307号は丹生街道である。
宮山古墳で日本の石造文化を見せつけた。硬い硬い花崗岩文化である。
そして国道168号の「いろは(168)紅葉」の丹生街道が家路である。

家に帰り着いたら玄関先の山桜が満開だった。ピンク鳥は
吉野まで行かなくてもわが家にいると言って、笑い合った。

でがけに嫁さんが竹の子の湯がく応援に行くと言っていた。竹薮は沢山あるが。
この頃は元気なオバちゃんが一人頑張っている。いつもの初夏の声がかかる。
朝掘り湯がき立てで、夕食では外人さんも竹の子の刺身を満喫した。

自由業とは不自由業です。次ぎの日は急な仕事が入ったので、
裏手から薬師寺に寄り、外人さんは奈良公園に放してきた。

この年ほど庭の山桜を壮観に感じことはない。二階の仕事場の窓を塞ぐようだ。
生駒に住みついて25年余り、造成のため一度切り払われた自生の桜だ。
下の畑と庭との法面にひこ生えに広がる数本の幹が屋根を越すまでになった。

山桜の青空を透かすような満開が好きである。ソメイヨシノは花暗い。
庭の山桜の垣間から見える萌緑丘の尾上に山桜の壮樹が紅一点に咲く。

しかし、魁の丹ツツジと殿の山桜が同時に咲くと偽メールの届く年もある。
なにしろ、梅と里桜が同時に咲き、桃が咲くまで閏一週間もあった歳である。

ねがわくば 花のうてなに 春死なん
閏きさらぎの もち月のころ       西行法師

里でサクラを忘れた頃、芽吹きの新緑の里山に緑一点の聖緑に
白い線香花火が無数に走る。ウワミズ桜の開花である。


 殿(しんがり)に咲く、天皇家のサクラである。


みどり(美土羅・華土)の頃

五月三日の払暁に大峯山寺で戸開式がある。
いよいよ吉野修験の山伏の季節が始まる。


いよいよ奥山越え熊野詣の旅立ちの五月元日がきた。
朝、玄関に出ると、山桜の若葉を透かすようように五月の陽が漏れている。

さわやかである。

目の前の枝に無数の緑のマッチ棒が並ぶ。野生の山桜のサクランボである。

昨夜は雨が降り、冷え込んだが。 すがすがしい朝日が差している。
燃えいづる若葉で杉、竹の混ざる青葉蒼葉の翠の雑木山が萌黄に染まる。
五月空、萌黄山が生垣越しに、その陰にスズランの花が咲いている。

初日は吉野泊なので、旅立ちはゆっくりし、昼過ぎになる。

柳の渡し

吉野・熊野曼陀羅には歩いて入ろう。
近鉄六田駅で下車する。吉野川が流れているが渡しの風情はない。
往時の柳が一本、国道を行き交う車に揺れているだけだ。
河原に降り、命水を汲む。飲まずに済んだら太平洋に流す。
鮎釣り前の静かな水面に五月の陽が浅瀬の小石に輝く。ハヤが泳いでいる。

この命水を太平洋に届けることができるか。山越えの道中の無事を
橋のたもとの役の行者爺像に祈るように合掌する。

するとお婆さんにでてきた。
「わたしゃ、ここの船頭の娘でね。茶店の娘でね。」
「戸開け式に行くんだ。」
蟻の行列、吉野・大峯詣での往時の話をしてくれた。
昔はウグイス鳴かせた愛嬌のある人である。

写真を撮っているとわたしもと言って入ってきた。
丁度、小犬を連れ散歩の人が通りかかり、ワンちゃんも一緒に
わたしは役行者を、お婆はカメラを、ワンちゃんは飼い主を
三位バラバラの記念写真になった。

橋を渡れば吉野世界である。左曽の裏山から大峰山脈は始まる。
この山の背道は国境の南を目指し、熊野本宮で川の瀬道に変わる。
桜道、前駈道、奥駈の行者道、南奥駈の獣道である。更に
本宮から那智までの中辺路を含め、新宮までが南々奥駈である。

奈良に住むので奥駈と言うがこれは真言宗の逆峰道である。
天台宗の順峰道は那智を基点に吉野を見ている。
この南北曼陀羅の逆転こそ、日本歴史の最大分岐点である。
その見失われた分岐道を追うのが奥山越え熊野詣である。当然、

日本の歴史を根底から書き換えることになる。
また世界の歴史まで及ぶ。

いよいよ吉野川を渡り、吉野・熊野曼陀羅の世界へ

左曽から吉野奥山越え熊野詣での山の瀬道が始まる。
吉野川が一望できる。柳の渡しの柳が見える。
まず吉野神宮を目指し、山の背行きが始まる。

人一人いない。花は吉野のあの喧騒とは別の世界である。
溢れるばかりの新緑は音を吸収する。静かである。

しずやしづ しづのをだまき くり返し
むかしをいまに なすよしもがな       静御前

義経の幻影を追うように花見の道をたどることにする。

桜 道 (弥生道)

関西では蟻の行列、大峰詣をして一人前と言われた。柳の渡しから始まる。
鈴の音が断えなかったと言われる。講を組んでの年中行事だった。
左曽の裏山、長峰の「一の坂」から奥駈道は始まる。
今はこの道を行くのは行者だけかもしれない。

長峰(奴賀弥奴)とは青根(奴)峰から冬至太陽が降臨する尾根を言う。
この山(サン、太陽)の弥生道を基線とするのが日神宮宇宙観である。

この長く続く尾根道を背骨にして吉野曼陀羅は構築されている。
弥勒(三六九)道が吉野川で、六田で弥生(八四一)道と結ばれる。
弥勒道の暗間(九羅間)に建部族の天一(十一、JACK)神社がある。
日神京宇宙観では朱雀線(S線)が加わる。平城京と平安京の基線である。

長峰の最初の平に吉野神宮があり、丈六平の跡で花の時期でも静かである。
下千本、中千本、上千本、奥千本の桜へと観光客は通り過ぎる。
枝垂れ桜の紅花を頭に浮かべ、静かな、静かな吉野神宮で朱印を頂く。
そして尾根の自動車道路を歩き、歩き、蔵王堂に向かう。

連休中と言うのに 夕暮れになると人影が見当たらない。
書画坊で一談一飯の夕食をいただく。うてなの絵師と四方山話をする。
小烏の絵師とは現代の話になる。本当に吉(四四)野の桜が好きである。
吉野の夜は余りにも静かすぎる。このまま夜の山越えをしたい位だ。

いよいよ奥山徘徊が始まる。
[5月2日]

早朝に吉野を旅立つ。静かである。ときどき、犬に吠えられる位だ。
「花は吉野」と言うが葉桜の吉野は本当に静かである。
柔らかい若葉緑葉が音を吸収する。あの喧騒はどこに消えたのか。
「吉野の葉桜の静けさ」を知る人こそ尊けれ。

水分(みくまり)神社まではつづら折りの桜道で人家が点在する。
最後の集落、上千本を登り詰めるところに桜が一本忘れ咲きしている。
手を上げる人影が。ええ、わたしだけの世界なのに。
小烏の絵師である。硯で墨を摺っていた。
昨夜、聞いた名残の桜とはこの桜か。花が消えれば名古屋で個展とか。

夏はまた洞川で会える。ここ十年近くの年中行事である。
水分(三九間羅)神社はまだ門が閉り、一礼をして通り過ぎる。
昼通るのがよい。弥生(八四居)の人里が絶える吉野山の八合目にある。
この女神主こそ、女王(トランプの12)のクマリ(口間羅)である。

三方囲みのたたずまいの水分神社が好きである。何回、訪ねたことだろうか。
赤い鳥居こそ弥生色である。丹生族の色である。桜の極め色である。
「花(八七)は桜」、「色(一羅)は紅葉」。山桜の紅葉色である。
「いろはにおえど」の紅花を追うのが奥山越熊野詣でもある。

囲い庭に咲く枝垂れ桜は可憐である。石南花が咲いているときもある。
奥山越え熊野詣の話をしながら朱印を頂く。色々な行者の話をしてくれる。
美口間羅(みくまり)の比売(姫)の美間にタイム スリップしそうだ。
美間時代の美間都(弥馬升)こそ大宜(四四)の都、邪馬台である。

魏志倭人伝の頃は「吉野の弥生は邪馬台にない。」と言われるほどである。
東部開拓史の日本の歴史では経済の中心が近畿圏に移る頃である。

日神天文台長(日巫)の卑弥呼(四三五、12)の前に
聖(日知り、ヒジュラ、比古)が集まる。元旦が宣言される。
われらが服部(日鳥)君は野を越え、山を越え日神暦を里に伝える。
邪馬台で采女教育を受けた比女(姫)が里の日神暦を運用する。

この正月行事を取り仕切るのがヤクザ(八九三)の皆々(三七)である。
この裏庭(二八)の十(JU)間の比古(J狗)から抜擢されたのが
神武(JM)天皇である。東部開拓史では吉野は邪馬台の裏庭である。
大和(八間土)の高間を対中国の要塞にするためである。

最後発に屯田兵入植したのが天皇族で、高度稲作のハイテック族である。
それを陰で支えたのが丹生山伏である。また丹生武族こそ源氏である。
天皇の親衛隊長として、大和朝廷の基礎を作るのが倭建命である。
吉野曼陀羅には色々なことが書き込まれている。

弥生(八四一)なら数神の鳥居(土羅居)の国(九二)のキング時代、
弥生(八四居)なら日巫(四三五)のクイン(トランプ12)時代、
弥生(耶世居)なら耶神維新の皇紀元年まで遡る。
弥生(YAYOY)なら言霊時代まで遡る。

青居(AOY)、青根(AON)なら
「AIUEO」曼陀羅の一万五千年まで遡る。

吉野曼陀羅は完璧と言うほど、日神宮宇宙観で構成されている。
その様子は克明に魏志倭人伝に報告されている。

水分(み口間羅)の弥境(み坂居)を過ぎれば山界である。
鞍間(九羅間)にあるのが金山彦の白木鳥居の金峰神社だ。

前 駈 道

金峰神社を過ぎると「是より女人結界」の深彫りの石碑が立っている。
本格的な奥駈道が始まるが林道が整備され、前駈道になってしまった。
現代の女人結界門ははるか奥の五番関まで後退した。時代は変わった。
連休の昼でも訪れる人はまばらだが声を掛けたり、掛けられるのが好きである。

始めての人が多いいので予定を聞き、色々と吉野の案内ができる。
連休を利用して遠方から来る紀伊半島巡りのドライバーもいる。
十日近くをかけ太平洋まで縦走するので熊野までの案内もできる。
吉野の最高峰、青根峰の山道を横目に見て、整備された山道を行く。

青根峰は桜の咲く頃には行くのだが。東吉野からの尾根がここで合流する。
吉野の尾根々々と谷々にはいやとと言うほどに弥生時代が記録されている。
どこかで皆は何か読み違えている。全国の弥生町網の総本山である。
第五代国宮邪馬台から第七代伊勢神宮に遷宮する間の国宮地帯でもある。

北九州勢と畿内勢との倭国の大乱、第一回東西対決の戦国時代である。
弥生(八四一、13)のキングの武蔵(六三四)時代だ。

そんなことはどうでもよい。奥駈道とはただ黙々と歩くのみである。
林道は金峰神社から青根峰を巻くようにして、奥駈道と合流する。
ここからが本格的な大峰山脈で、山筋は南へ、南へと果てし無く続く。
尾根道、水平道、林道がある。かっての蟻街道は林道に変わってしまった。

代替の水平道は新道でまだ歩き込まれていないので、尾根道を薦める。
林道を行くと最初の登り口で、最初は急だが最短距離であとは楽だ。
この林道は天気のよい日は景色が最高でドライブによい。
大滝ダム、洞川に抜けられる。雨の日は崖崩れ街道で危険である。

四寸岩山が前駈道の最高峰であり、展望は最高である。
吉野から大和の山々が、山伏の聖地・山上ガ岳が見える。
近畿最高峰の弥山も見える。奥山越え熊野詣の前座の山々だ。
四寸岩山の名前こそ弥生(八四一)時代を凝縮している。

四寸岩山を下った鞍(CR、CORE、峠)で林道は山越えする。
黒滝(九羅田基)村と川上(賀輪神)村との峠(九羅)である。
川の九合目の里から登り詰めた山の九合目である。峠こそ折り返しの
CR(ASCII13)で、鞍に跨るのがキング(13)である。

日神暦の謹賀(木奴賀、KING)は暦山の冬至峰・鞍の旭光で始まる。
太陽暦の年(イヤー、耶)がこの日から始まる。冬至十(JU)日は元旦で、
耶(J)鞍(矢倉)から旭光が矢(耶)のように漏れ、正月峰から
弥栄(ヤーサカ)、耶峰(ヤホー)、弥生(ヤフー)と叫んだ。

弥生(八四一)時代とは帝(三角)の数神曼陀羅の時代である。

角(すみ)とは港(三七十)を言い。十三番地に住むのが
ヤクザ(八九三)のキングの清水次郎長である。
七七七でフィバーするブラック ジャクは21のはずだ。
燕雀(恵奴ジャク・11)の遊地である。数神は何処にでもいる。

そんなことはどうでもよい。奥駈道とはただ黙々と歩くのみである。
しかし空頭をもて余し色々考える。こんなときは気分のよい時である。
どうしてこんな馬鹿な山旅をと考えときはしんどい時である。
この鞍を過ぎればいよいよ山界曼陀羅の奥駈道が始まる。

奥 駈 道

林道は峠越えして川上村へと下って行く。ここからの尾根道から
現代の奥駈道は始まる。少し行くと昔の峠に百丁茶屋の無人小屋がある。
尾根の行者道と江戸時代に生まれた蟻の行列の水平道とに分かれる。
この行者道は大天井ガ岳への登山道であるが古来の修験道である。

水平道は下に林道が見え、まだまだ奥山の雰囲気はない。
修験道は急な登り坂で藤原道長の道中記にも記録されている。
宿を祇園と呼んでいるが百丁茶屋だろうか。頂上への最後の急坂の
始まる所に展望のよい平地がある。ここが祇園に思えてしょうがない。

吉野、大和の山々が手に取るように見える。目の前の谷は
吉野川から五条市で分かれる大支流の丹生川の最上流である。
その暗(九羅)間にあるのが黒(九羅)滝村である。その登り詰めた
天(テン、十)に聳えるのが大天井ガ岳である。これが丹生曼陀羅だ。

大天井ガ岳から西に伸びる尾根は高野山へと続く。そして
高野山は丹生都比売神社の冬至太陽の昇る日神聖地だった。
丹生族こそ日本を、いや世界を文明開化したモンゴロイドである。
人類二万年の歴史は吉野熊野曼陀羅に克明に記録されている。

そんなことはどうでもよい。奥駈道とはただ黙々と歩くのみである。
大天井ガ岳を下り始めると熊野川最上流の天川(てんかわ)圏である。
東側の谷は吉野川最上流の秋津川である。吉野川の三大日神支流は
下流から丹生川、秋野川、秋津川と並ぶ。秋津島の弥生時代が分かる。

次の鞍部が五番関である。天川村と川上村を結ぶ奥山の峠である。
今はトンネルもでき、幻の大天井滝も気楽にドライブで来れる。
その滝の話を聞いたときはトンネルはまだ開通していなかった。
ここ十年の間に立派なトンネルが三っもでき、奥山も身近になった。

五番関から女人結界が始まる。この門をよく悪戯するものがいる。
男女平等論者のスケコマシの仕業に違いない。世界最高峰を登った
女流登山家も密かに登ったとか。それは個人の自由である。しかし、
日本の習俗を破るものをなぜ大本営放送局はちやほやするのか。

そんな女を見つけたら叩きのめしてやる。官軍敗戦教育のなれの果て。
進駐軍ボケしているときでも米国女流登山家の入山を阻止した。
進駐軍と言えども人間である。それを強行できない理由があった。
大峰・地球曼陀羅に書き込まれている。いつか読みに行きたい。

「それが男の美学である。」

吉野山伏の山開き、戸開式と言っても吉野から歩いて入峰するものは
いない。ほとんどは山上ガ岳の麓の洞川から登る。しかし、
江戸時代は蟻の大峰詣と言われた第一級観光山街道である。
その名残のゆったした尾根道が好きである。歩き込まれた山道だ。

朝一番電車でくると鍋地蔵の祠あたりで日が暮れる。春の嵐が直撃したり、
遠くの谷に稲妻が走るときもある。晴天の昼通ると本当に気持がよい。
ブナ林が続き、人に会うこともほとんどない。女人結界の世界である。
人が珍しいのかカケス、キツツキが先を案内するように飛んで行く。

こんなところに真っ白な大柄の花がモクレンのように一木群咲きを。
コブシの花である。ブナの大木の間から垣間見える喬木である。
里では春を告げる花がこんなところに咲いているとは。
思わずハッとする尾上の名残の桜は五番関までである。

人の気配を感じるとはなく、振り返ると林間に黄色い胡蝶が二匹舞う。
正装した若い山伏である。白衣に黄色の法衣を、緋色の腰紐。新しい。
駈け抜けるとき微かな香の香りが漂う。鮮やかな衣が風に靡く。
お寺を代表する真言宗の山伏のようだ。男とはこんなに美しいものか。

それに較べれば小烏山伏などは乞食山伏である。小烏山伏には
山を駈け抜けるような体力はないし、時間に追われたくない。
マタギ刀の野宿山伏魂を一言の元に叩き込んだ大先達は
アイヌと一年、マタギと二年生活した八幡山伏である。

洞辻の最初の茶屋で葛湯を飲む。洞川からの山伏銀座である。
講は若者には古臭さく、銀座通りも人気がなくなってきたとか。
茶屋の並ぶ尾根道は一日山伏修行で通い慣れた道である。
馴染みの茶屋で徹夜に備えて体を休める。ここでの四方山話が楽しい。

戸開式は払暁に行われる。山上の宿坊は講社の者で満員である。
準備組は昼に登り、宿坊泊まりの講の人が絶え間なく登ってくる。
無講社の徹夜組に仲間が沢山いるが夜中までには十分時間がある。
いつも時間を弄ぶ。茶屋で一休みする人々の世間話が面白い。

真夜中の12時頃に兄弟山伏が登ってくる。兄弟と言うが
親子ほどに歳は違う。同じ頃に山伏に目覚めた仲間だ。
洞川・大峰中毒と言うほど毎月1、2度は来ている。別荘のようだ。
大峰山には50回以上は登っている。あるいは100回に近いかも。

30歳前後の血気盛んなトビ職で、また山伏にはトビ職が多いい。
命がけの仕事をしているだけあって純粋な信仰心がある。
大工の棟梁としての心構えを無意識の内に追っているようだ。
それに較べ小烏文次郎は唯我独尊の奥山徘徊山伏である。

金峯山寺の戸開き式
[5月3日]

戸開式の一番鐘が鳴るのは朝3時である。徹夜組がどんどん登ってくる。
宿坊の食堂に無講社の者がたむろしだす。顔見知りがいる。
再会を確かめ合うように合図を送る。そのときどきの雰囲気で、
酒盛りが始まり、酔いつぶれものがでるときもある。

春の嵐が直撃するときもある。濃霧が立ち込めるときもある。
満天の星空のときもある。毎年々々、雰囲気が異なる。
なにかを期待して行くと裏切られ、また新しい発見をする。
それが山伏の世界である。登った回数だけしか尺度はない。

マスコミの情報操作だろうか女人開放が話題になったこともある。
賛成の雰囲気では反対に回り、反対の雰囲気では賛成に回る。
小烏山伏は蝙蝠山伏でもある。「男女平等論者のスケコマシの
いいとこ取り、興味本位がいる以上は」がだいたいの結論になる。

女人結界門を潜るとき女性登山者がいると心めたい。
女人結界の理由を話すと、だいたい納得してくれる。
「そこが男の可愛いところだ。」で締めくくる。ときには
「それでも登りたいときはどうするんですか。」と聞かれた。

これは本当に難問である。エベレストも女性が登る時代である。
登れない山があってもよい。それでは理由にならない。
特例処置で正門から堂々と女性を登らすのが小烏の夢だ。
それにはそれ相当の覚悟が女にもいる。

そんなことはどうでもよい。いよいよ戸開式が始まる。
鍵渡し式は元禄時代にタイム スリップしそうだ。
町衆の心意気を感じる。鍵をかざした人馬が提灯を先頭に
広場を回る。「ワショイ、ワショイ」の掛け声が上がる。

「男に生まれてよかった。」と感じる一瞬である。

女が見ていない男だけの世界である。2000メートル近い
山頂で繰り広げられる男絵巻である。大護摩が焚かれる。
あの胡蝶の山伏が焚く大役を。読経に合わして焚く度合いがある。
雨が降ろうと毎年行われる。千年以上は続くのだろうか。

「役の行者」の秘仏に会う喜びの読経が暗い本堂に溢れる。
錫丈を振る音が響く。まさに般若心経の世界である。
20人位の升単位で何回も繰り返される。順番を待つ間に見る
円空仏の大日如来の微笑みが本当によい。

始めて出席したときのあの感激を追うのだが。
大護摩の昇竜のように揺れる煙のなかに友がいるときもある。
心はここから始まる奥山越え熊野詣にある。友に別れを告げ、
赤い火種となった大護摩を後に払暁の山道に一人旅立つ。

行 者 道

朝一番電車のときはこの日の道中が一番きつい。
体を十分休めることなく徹夜してからの旅立ちになる。
しかし奥駈道を一番満喫できる道中でもある。穏やかな道もあれば、
危険な鎖場も、最高の展望も、大回りの尾根道も、胸突き八丁も。

吉野泊なら十分に体調も整えられる。天気がよければ更によい。
蟻の大峰詣の柏木道で始まる。弥勒(369)人は三輪詣で始める。
三輪神社から飛鳥を通り、壷坂寺越えをし、吉野川の六合目、六田の
柳の渡しで吉野入り、大峰詣の後に吉野川の九合目、柏木へ。

この弥勒(369)街道を引き継いだのが国道169号である。
最大の玄人(96徒)、神武天皇の大峰東路の黒(961)街道だ。
大峰西路は国道168号、「いろは(168)紅葉」の丹生街道だ。
京都まで通じるのは魏志倭人伝に記録され、数神はどこにでもいる。

勘違いするなよ。江戸時代の修験道が明治維新を完遂した。
大化の改新は弥生(841)時代の大神開化の数神道が完遂した。
中国の「いいとこ」取りの挙句の果て、奈良時代は行き詰る。
平安維新は世界にも誇るべき丹生大師の無血クーデターである。

道には色々書き込まれている。大峰詣も栄屋間抜け維新で
急速に廃れた。歩き込まれた柏木道も倒木のため廃道になり、
それを避けるための人間の作る獣道が現代の道である。
奥山越え熊野詣とはヒストリ(日佐鳥)の道行きでもある。

そんなことはどうでもよい。奥駈とは黙々と歩くことである。
南の女人結界門を出ると柏木道と分かれ、行者道になる。
吉野熊野曼陀羅で最高の展望を誇る大普賢岳である。
山曼陀羅から岳曼陀羅に変わり、いよいよ仏門入りである。

山上ガ岳は大峰山大菩薩寺であることは
東大寺二月堂の神名帳に記録されいる。「お水取り」を
裏で取り仕切るのは奈良山伏である。この奥山は
女人は無理だった。女人結界とは栄屋間抜け語である。

栄屋維新により大普賢岳は日帰りでも登れるようになった。
この日帰り回廊は吉野熊野曼陀羅の真髄かもしれない。
鎖場、梯子登りが続き、山上ガ岳など子供の遊び場だ。
笑われるから女人結界してるだけだ。ここで遭難するなよ。

緊張する道行きが過ぎると行者還り岳だ。まさに奥山である。
熊野川の最上流に小々マッターホルンのように聳える。
国道が整備され、初級登山者でも容易に登れる。
登ってガッカリ、頂上は木が茂り、期待する展望も姿も無い。

行者還り岳の鞍(CORE、峠)にある無人小屋で一服。
晴れた日は今日の目的地、弥山(みせん)がよく見える。
手に取るようによく見えるのだが歩きだすと歩いても歩いても
なかなか近づかない。尾根道がL字の大回りしている。

起伏の少ない山波をいくつも越えて行く。イライラしてくる。
L字の尾根道の底辺を歩いているので近づく訳がない。
春がようやく来た奥山を歩くと思うと気持がよい。
寝転んで空を見ているとイヌワシが通り過ぎることがある。

芽吹きが始まる頃だがまだ冬枯れの雰囲気で見通しが効く。
明るい日差しが地面まで射し込みカラッとし、春を感じる。
コバイケイ草の群生する緑が毒々しい。毒草なので鹿も食べない。
春一番に逞しく芽吹く、雪割草を思わす大柄の葉が好きなのだが。

L字の尾根道の角にきた。今度は弥山が壁のように迫ってくる。
朝一番電車の徹夜明けの道中ではこの辺で疲労困憊してくる。
整備された国道からなら4時間もあれば登れる近畿の最高峰だ。
元気な登山者にどんどん追い抜かれる。自分ながら馬鹿げてくる。

修験(理科)道中興の理源大師の銅像の前で一服する。
ここから胸突き八丁が始まる。始めの頃は鉄壁に思えた。
なんでもない登り坂だが近くて遠いツヅラ折れが果てし無く続く。
奥山越え熊野詣の最大の難所である。まだ2日目である。

弥 山 曼 陀 羅

日本百名山でも上位だろう。連休には全国の登山者が集まる。
栄屋維新により弥山直下まで国道が整備され、全国に通じる。
山伏の聖地だったこの尾根もハイカーの道になった。
山小屋は大型ペンションと言ってもよいほど設備が完備している。

ここの水は理論的には日本一、世界一かもしれない。
石灰岩層で濾過された水がボトル ウオターの主流である。
隣の大台ヶ原は一年に400日雨が降ると言われる多雨地帯だ。
山頂の石灰岩層を通り抜けたばかりの生水こそ甘露の味がする。

人には好みがある。生か、ドライか。スパー ドライは蒸留水だ。
ドライなら南フランスの前アルプス山地で、炭酸水並もあるよ。
高原に降る少ない雨が何百メートルもある石灰岩層で濾過される。
湧き水として流れ出るには数十、数百年はかかる。化石水である。

そんなことはどうでもよい。食堂に行くとたいてい相席になる。
昔のお嬢さんの五人組と相席になる。「オバタリアン パワー」、
ジャンと言われた。「はい、ごもっともです。」
日本男児はどうしたんだ。70%近くは女性のハイカーである。

山梨から徹夜で高速道路を走り、早朝に大台ヶ原に行き。
降り口の前鬼に車を置き、タクシーで登り口にきて、登ってきたとか。
便利な世の中の先端を行っている。お化粧も、身だしなみもよい。
百名山巡りのブランド時代である。新巡礼時代かもしれない。

部屋に帰ればまた別のグループと相部屋になる。山小屋なので
二段フローアで20人位が一部屋になる。グループの谷間で寝る。
右と左のグループの話を聞き、共通の話題を探し、話の輪を広げる。
外人グループと相部屋になることもある。生の外人は久しぶりだ。

大本営放送局のスパー ドライの外人とは雰囲気が違う。
馬鹿まる出しの外人などはゼニ儲けの民放に任して置けばよい。
大学院の学生と教授のグループだった。修験道と山伏の話を
してあげた。山伏の先入観もなく、神学の下地があるので飲み込みが早い。

この山の銀座の賑わいが好きである。まさに弥山(MIせん)である。
紀伊半島の中心(Middle)と言うより、世界の中心かもしれない。
弥山を中心に仏教の岳曼陀羅、耶教の山(耶間)曼陀羅と広がり、
所々に峰曼陀羅が点在する。ここに世界の歴史が記録されている。

弥山(三佐奴)は「一二三四五」の中心(三)の太陽(サン、佐奴)を、
五進則の「み境(ミドル)」にある冬至太陽の昇る所を意味する。
冬至太陽のビーナス(日奴佐)は美山の尾根筋を降臨し、天河弁才天の
美(日)神の弁天、ベッピンになる。弥山は天河弁才天の奥宮である。

大峰山脈は神武天皇の東世界と丹生族の西世界の「み境」であり、
日本書紀はこの東西勢力が逆転する壬申の乱の勝者の記録である。
それは戊辰の乱の勝者の官軍の神話として拡大解釈されるのと
同じである。明治維新を完遂したのは江戸時代の修験道である。

山(サン、佐奴)とは太陽(サン)の昇る所を言う。海奴語である。
その海奴の都が讃岐(佐奴城)として記録されている。
琴平(賀奴比羅)とは比神(賀奴)の羅土(ランド)を言う。
古事記では比古の国だが比神(フィメール、姫羅)は女神である。

佐神(相模、最上)が男神(シュメール、鮫羅)を意味する。
どこかで捩れているが菩薩(日佐徒)で統一される。
それが大峰山大菩薩寺の山上ガ岳である。統一されると
どう言う訳か佐神の女人結界の岳になる。仏教が曲者である。

山は高きがゆえに貴からず。低きがゆえに卑しいからず。

卑弥呼の山(耶間)こそ、耶幡(ジャパン)の魂の宿である。
弥生(耶世居)の邪馬台(耶間田居)の耶幡(ジャパン)が、
弥生(八四一)の邪馬台(田田田口)の耶幡(八幡)が、
女王の耶幡が男王の鳥居(土羅居、十一居、J幡)に、

弥山(耶山)曼陀羅には色々と記録されているはずだ。

弥山、深山、美山も手軽に満喫できる時代だ。紀の国は
山また山、その奥山である。奈良に編入される前の弥生の山界だ。

紀の国の最高峰は弥山、八剣山、仏経ガ岳と呼称が変わる。
紀伊(KII)の魂(I、Y)なら弥山(MI佐奴)になる。
「うつくしい」とBeautyの「い(Y)」は魂を意味する。
物にも魂があるからこそ何かを感じるのである。

弥山(耶耶間)なら弥生(耶世居)時代の呼称である。
弥山(八八間)なら吉野(四四奴)時代の呼称である。
八剣山なら弥生(八四一)時代の呼称である。
剣山、八剣山、剣岳こそ石動(いするぎ)族の足跡である。

有名な山こそ呼称がよく変わる。富士山などは何度も変わった。
もっとも新しい呼称は地球のランド マークである。
スペース シャトルからで。B29からはMt. フジヤマで。
氷河融解により最初に渡来した海奴は何と呼んだのだろうか。

「みせん」と呼んだようだ。ランド マークと言う意味である。
「みさき(岬)」、「みなと(港)」、「みなみ(南)」の
「み境」が分かれば世界のどこへでも行けた。「み波」とは波の
彼方の南天方向で、奴(N)神は子(ね)、ノースの北極星になる。

この海奴の国際語が世界の言語に記録されているはずだ。

MI(み)のM神とNE(ね)のN神との間の吾(A)こそ、
人(MAN)で、吾を囲む人々こそ、エリアンのMENである。
これが「あいうえお(AIUEO、吾夷宇恵尾)」曼陀羅だ。
アルファベット26字では上13字はM語で、下13字はN語である。

竹取物語では富土(十三土)から富士(ふじ)に変わる。
富士(十三十一)は十二(クイン)の抜けた女人結界になる。
海の佐奴(サン・太陽族)の影響で「み間」から浅間(あ佐間)に。
マウンテン(間宇奴土奴)とは美間(峰、み奴)を囲む空間を言う。

山、岳、峰の尊称は大化の改新以降に山を分類したようだ。
それまでは呼び捨てのようだ。ミセン(弥山)は古称になる。
山の呼称に日本・世界の歴史が書き込まれているはずだ。

また、「あいうえお」曼陀羅は捩れ、捩れて、アルファベットでは
AEIOUと並ぶ。この捩れに世界歴史が書き込まれている。

ビーナス ライン
[ 5月4日 ]

3日目の道行きが大好きである。

仏経ヶ岳、明星ヶ岳、仏生嶽、孔雀岳、釈迦ガ岳と続く尾根道だ。
仏教文化に凝り過ぎだ。仏教が伝わる前でもこれらの山々があり、
何と呼んだんだろうか。「うい」の奥山と漠然と呼んだようだ。
この辺は熊野川の「あいうえお」の中流(う居)の奥山になる。

色々のビーナス、此花咲耶姫に会える道行きである。

かってのビーナス ラインは弥山からの冬至太陽道だった。
奥宮の都(弥耶升)の西北にほぼ伸びる尾根道である。
栃尾辻で修正するようにして坪内の天河弁才天に降りて行く。
現代は天川の川合からの登山道が主道になった。

この道はエベレストが征服される頃までは男しか入らなかった。
天河弁才天の斎宮で禊してから冬至(正月)太陽を迎えに登る。
復活した冬至太陽の初姿を天河弁才天の日巫に報告した。
弥生(耶世居)の邪馬台国の卑弥呼(日巫)の元旦祭である。

そんなことはどうでもよい。奥駈はただ黙々と歩くのみである。
この道行きは景色もよく、休憩がよく取れる。その前を外人の
若者カップル、四人組が通りすぎた。話す余裕もないようだ。
今度は休憩している彼等に追いついた。徘徊老人は話好きだ。

男どもは疲れた様子だ。荷の軽い女性のほうが持久力がある。
黒髪の黒い瞳の色白の子が日本について色々聞いてきた。
イスパニア系と言うよりエスパニア系英語圏の人のようだ。
上手な日本語、恵比須語で聞いてくる。

こちらはイングリシュと言うよりエングリシュで話す。
互いにエブス(恵比須)語を話すエリアンである。
エホバのエデンの高間で高天の話をするようなものだ。
エデンの東にpEaceな、P夷佐な夷(恵比須)の海が。

エデン国の主がエホバであり、聖書のモデルである。
水戸藩の主が水戸光圀であり、水戸黄門漫遊記のモデルである。
ならばエデンはどこにある。エデンの東の西にあるはずだ。
賀徒(God)の魂を引いたのが恵土の匠のようだ。

神代(賀奴・カヌー世)の賀徒の話が神話である。

イングリシュと英語を話す人はEVILとAVILを
完全に勘違いしている。世し(よし葦)と吾し(あし葦)も
勘違いしている。アシール(葦羅)を追われた民が
一枚噛んでいる。それが弥生(耶世居)維新である。

別れ際に

Japan is the most interesting world for me.
Also for you.


と言うと、ニコッとビーナスの微笑みを浮かべた。そして
上手な日本語で、「タバコ吸っちゃダメですよ。」と言われた。
「この馬鹿者め。」と内心つぶやいた。タバコの一服こそ、
職人・匠の創造力のもとである。これでは世界は救われない。

一服し、山々と自然と話すのが修験道である。

道を間違えたと思ったときはパニックになる。そんなときは
まず一服。そして見回すと、なんでもないところに道標がある。
一人黙々と歩いていると視野が狭くなる。つい見落とすことがある。
夜中のほうが道を間違えない。人道はライトの反射ですぐ分かる。

この道中では色々なビーナスに会える。五里霧中のとき、
霧がスーと紅色に染まる。霧花姫が霧に浮かぶように現れる。
アカヤシオである。細い枝に無数の紅花が宙に浮くように咲く。
里山の早春の丹ツツジ、三つ葉ツツジの高山版である。

里山では雑木の下で健気に咲くが岩山では本当に美しく咲く。
その生命力には迫力まで感じる。晴れた日には冬枯れの残る
山陰が紅一点に遠目に染まる。何だろうと思わず立ち止まる。
近づくと無数の小さな紅花が宙に浮くように咲く。

これほど濃い紅花はないだろう。葉はまだ芽吹いていない。
細い枝は山陰で見えない。密集するでなく、密集して咲く。
小さい無数の紅花の間隔が絶妙である。宙に浮くような間隔だ。
アカヤシオ(赤八四お)こそ、弥生(八四居)の丹生花である。

ビーナスと言えば花より女人である。山は女性の花盛りである。
ハイカー スタイルは女性がよく似合う。登山用具は格段に進歩した。
カラフルで、機能的な姿は美しい。そんな集団が来ると
隠れたい位の乞食スタイルである。一服しながら眺めるしかない。

人の姿を見たら声を掛けたくなる奥山の雰囲気はまだある。
「吉野から太平洋まで」と言うと驚くような顔をする。
初めての人だ。なんでもないハイカー道だがよく行方不明者がでる。
そんな緊張感が伝わってくるときは色々と道の説明してあげる。

「行者さん」と優しく声を掛けてくれるときもある。
倍以上のリュックを背負った本格派である。「どうして分かるの。」
と聞くと、「雰囲気がそうだもの。」と。まだ山伏姿ではないが。
弥山、美山、深山に魅せられたように吉野・熊野曼陀羅の話をする。

山伏と自称するが山伏の風上にも置けないスタイルである。
還暦近くで山に目覚めたトッチャン ハイカーである。
いま流行りの登山姿には馴染めない。そこで発見したのが
山伏姿である。山伏(八間二四)の宇宙観を知りたくなった。

最初の難関は地下足袋である。登山靴では絶対に様にならない。
山伏には普段でも地下足袋で作業する人が多い。履き慣れている。
とても素人さんの履くものではない。足の皮が薄すぎる。
江戸時代の徒歩時代なら地下足袋こそ究極の履物だ。

伝統文化を護るとは大変なことだ。岸和田のダンジリ祭だ。
死者がでるほどの男の祭だがダシ曳き手の足はガタガタになる。
そこに登場したのがエアー クション入り地下足袋だ。
威勢のよいダンジリ山伏が履いていた。早速、手に入れた。

これでようやく足もとに自信がついた。この歳で山伏装束を
一揃え揃えようとしたらウン十万円はかかる。そんな金はない。
娘にウン百万円の着物を買ってやったことがあるので、
和装束のよさはよく分かる。これでは伝統文化も人気がなくなる。

そうだ、モダン ヤマブシを目指そう。

そんなことはどうでもよい。ビーナスに会ったら話をすることだ。
女人結界の話をすると。「男って進歩がないのね。」と一蹴するように
「あんな低い前山で、奥山にもっと、もっとよい所があるのに。」
「はい、ごもっともです。」と言う様、話題を変えた。

不沈空母のオジさんから日本は可笑しくなりだした。
IT革命で機械情報の奴隷になり、日本の男はショボ、ショボだ。
挙句の果てにはマメリカの植民地である。本当に情けない。
女よ、頼む。 日の本は女、女でもっている国だ。

そんなことはどうでもよい。いよいよ今日の難所は釈迦ヶ岳だ。
高度差があるだけで、その手前の岩場でよく道を間違える。
行者道と登山道、道標を見落とし易い。行方不明がよくでる所らしい。
肩を叩いて行くカマイタチを経験した。風もない、気のせいだ。

道を間違えるところは決まっている。今度から印を切って行こう。

山伏ならカマイタチの経験はたいてい二、三度している。
本当のカマイタチに会うのは稀有だろうし、その話は聞けない。
そのまま獣道に迷い込み、テン、イタチの餌になり野晒しになる。
シャレコウベとなり人界に戻れれば幸せなほうだ。

ところでカマイタチとヒトカゲ(人影)のいずれが強いのか。
この頃は都会でよくペットとして飼われているようだ。
霞ヶ関などはアガリイタチの棲家である。このイタチゴッコは
面白い。ライオン刈が一番人気があるようだ。オウム刈も。

「ほんまもん」にはなかなか会えない。都会のカマイタチは
「ほんまもどき」かも。ニセアカシアの雨に打たれいるかも。
八田烏(ヤタガラス)と四羅烏(ヘラクレス)の戦いだ。
征夷大将軍と従威中将軍の争いが日本の歴史だ。

カマイタチの正体はハクビシンかも。飾り窓の薄美人かも。
小烏はハクビシンの皮物を愛用している。カモシカは禁猟だ。
アナグマは高価だ。鹿の子は毛が抜けやすい。どうも山伏が
ハクビシンの腰敷で屁をしたのがサーズの原因のようだ。

そんなことはどうでもよい。ここを越せばあとわずかだ。安堵感で、
急勾配を休み、休み、楽しみながら登れる。高度差も知れている。
初めてのときは風邪で鼻水を流しながらの道行きで、しんどかった。
頂上の釈迦如来像には感激する。強力がよくも運び上げたものだ。

吉野の山波はもう見えない。まさに山また山の「うい」の奥山が広がる。

午後の怠惰な陽を受けた山波が果てしなく続く。その波々の谷間に
人々の営みがあるのだろうがそんな匂いも嗅ぎ分けられない。
大台ガ原への自動車道路が長々と山を切るように登っている。

大きなリュックを背おった若者が「やっと着いた。」と、
思わず「ご苦労様」と答えた。亀が甲羅返しになるように
大地にひっくり返る。これが最後と言う安堵感が伝わってくる。
「四寸岩山と大天井ガ岳の急な登りは」と愚痴るように言う。

「汚い男が転がっている。」と冷ややかな目線を感じた。
ビーナスを見たら話したくなる気力も失せる急な登りである。
林道も整備され、日帰りでも登れるハイキング奥山になった。
「吉野から歩いてくるのは馬と鹿ですか。」、釈迦に聞きたくなる。

釈迦(佐加)は何と答えたか?  命Aから5A問

神 田 原

もうすぐと言う安堵感とつま先の痛いダラダラ坂が長く感じさせる。
旭口の道を迂回したほうが歩き易く、近く感じるとか。
この道が奥山へのハイキング ルートになりだしたようだ。

初めてのとき、色とりどりのテントが見えたときは感激した。
銅葺き屋根のお堂が、奥山の小寺のように立派である。
思わず般若心経の最後の句を口ずさんだ。

羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい
Garden Garden 原Garden  平 Source Garden

深仙平(ジンセン日羅)こそ、小烏の山の神田原(カンダハル)だ。

吉野熊野曼陀羅で、「うい」の奥山にある最深の神仙郷である。
曜日回り、天気回りの悪いときは期待したテント模様がない。
鹿の群が我物顔で通りすぎる。わたしの姿を見て一匹が立ち止まる。
前に玉置神社で見つめ合った鹿ではあるまい。ピョンと走り去る。

お堂は畏れ多いい聖堂で、避難小屋に。山伏は朝立ちが早い。
ゆっくりの同泊者には迷惑だ。今度は吉野山伏の聖堂に泊まろう。
スケコマシの六人組に空家占領され、ちょっと常識外れである。
林道が整備され、日帰りでも来れる。これも時代の流れか。

官軍敗戦教育の科学道では科された学で何をしてもよいのか。
男女平等とは修験道ではあり得ないことだ。ビーナス ラインも
山伏が何千年もかけて築き上げた山街道である。深仙平のまだ
字の読める卒塔婆はなぜ立っているのか。学校では教えない。

山に入る人が増えることはよいことだ。満員で泊まれないなら
徹夜で山越えすればよい。浅き夢み路に酔えることもある。

避難小屋に泊まるのは吉野熊野曼陀羅を知る人である。
それなりのマナーを知っている。夕食を食べ終えた先客が
集めてきた木っ端を焚く。煙突のない小屋では燻製に
なりそうに煙がこもる。夕食も終わる頃に火も落ち着く。

定員五人の小屋で、煙のため開け放たれた戸を閉める。
色々な情報を交換し、次の日に山を降りる人と物々交換となる。
戸開け式の酒盛りの当てが外れたツマミが缶詰に変わる。
明日に備えて寝るのも早い。小用に出ると満天の星である。

これなら徹夜の山越えも悪くない。惜しいような気もする。

深仙平は典型的なケスタ地形で、釈迦ガ岳のサース コルにある。
この鞍(賀羅、CR、コル)は西側はなだらかで、反対側は崖だ。
奥山でもなだらかなので林道が整備され、ハイカーでも登れる。

エベレストにしてもネパール側はスキーでも下りられる。
マッターホルンもイタリア側はなだらかだ。行者還岳もそうだ。

造山期にできた山は世界中どこでも同じ形をしている。
その後の雨の浸食と火山活動により色々な形になる。
日本には世界の山々の全てのモデルがあるがあの褶曲はない。
大峰山脈と周辺はその博物館のようなものである。

そんなことはどうでもよい。ここからいよいよ本番である。
体が慣れてきた。初回のときはここで風邪が直り、スカッとした。

山伏は朝が早い。早寝の同宿者は夢うつつで、別れの挨拶を。
ライトの付いたテントは朝げの準備か、たいてい寝静まっている。

朝食を取らずの出発だ。この頃は山でご飯は食べられない。
また一人の食事ほど侘しいことはない。歩きながらジンを飲む。
ジンだけではハイオクの酔ばらい運転になるので、セタン価を
上げるような液体食である。ガソリン/デーゼル エンジンのようだ。

夜の明けて行く山道がよい。アカヤシオはしみ込むように美しい。
大日岳を越えれば太古の辻である。ほとんどの人は前鬼へ下山する。

南 奥 駈
[ 5月5日 ]

太古の辻から玉置神社を経て、熊野本宮へ。熊野曼陀羅なら北奥駈になる。

曜日回りがよくても、入る人は少ない。一日、人に会わないときもある。
ここからが深山だ。初めの頃は動物のように勘が研ぎ澄まされた。
人間も獣の一種であるのを実感する。獣道のほうが立派なときもある。
ここに迷い込むと人界には帰れない。獣達の世界である。

この頃は自然の一部のようになるがマタギ山伏は獣の怖さを教え込まれた。
小鹿のバンビ、熊のプーさん、タマちゃんと、この頃は甘やかされている。
一人徘徊歩きだと獣達に舐められる。マタギ刀で一騎打ちする覚悟である。
カラフルな獣が追ってくる。女性パーテだ。軽く追い抜かされて行く。

チームワークのよい三人娘である。綿密な計画で写生を楽しむ余裕まで。
色々情報をもらう。徘徊特有の無計画で尾根道をただ南に目指すだけだ。

高山から深山へと低くなり、緑も濃くなり、展望も余りよくない。
敢えて言えば石南花街道で、南に行くほど蕾から満開に変わって行く。
最初から満開の年もあれば、蕾々と続くときもある。常ではない。
南から北へ、連休が季節の移り目であるのがよく分かる。

寺院のする奥駈では後半のコースで、講を組むため、集団の規律がある。
夏なので体力の消耗も激しい。前鬼に一旦下りるのでかなりハードだ。
講が泊まるため無人小屋は整備されている。その点、徘徊には安心だ。
小烏の春の峰行きは初級クラスである。吉野山伏は奥が深い。

涅槃岳までが「うい」の奥山だろうか。熊野曼陀羅が望める。
山々の色が違う。今日の目的地の行仙岳の電波塔が見える。
涅槃の腰から足に下りて行くような下り坂が続く。
下りきったところに持経の宿がある。林道の峠にある。

人気の感じる講の宿だが人気を感じない深山にある。無人中屋である。
この奥駈宿には余裕のある人が水を汲み置するので補給ができる。
バイクの音がした。オフロードを行くカラフルなカップルだ。
ここまで来るのは本格派である。家への言伝を頼んだ。

ここからが熊野曼陀羅になりそうだ。木々が茂る尾根道が続く。
1時間も行かないのに平治の宿がある。講でも泊まれる避難中屋だ。
夏の奥駈をサポートする配置で、天気、体力に合わせて泊まるようだ。
健脚なら行仙の宿まで駈け抜けるようだ。夏の峰の凄さがわかる。

転法輪岳、倶利伽羅岳と続くが何のありがた味も感じない。
展望も効かず、ただただ黙々と歩くのみである。木々が開け、
電波塔が手に取るように見える。いよいよ最後の登りが見える。
短い登りだが人騒がせと言いたいほど急である。

この日は深山道中と言いたい。取り柄のない山々が続くだけだ。
しかし行仙の宿は吉野熊野曼陀羅の奥座敷と言うほど整っている。
無人小屋だが曜日回りがよいと小屋守がいるときもある。
追い抜いて行った先客が拍手を打つように迎えてくれる。

「徘徊老人、御到着」と言った感じだ。

30人は楽に泊まれるが同宿者は六、七人だ。本当に山の好きな人々だ。
林道も整備され日帰り登山もできる。曜日回りが悪いと同宿者はいない。
笠捨山と行仙岳との登山宿だったようだ。笠捨山は大和名所図会にも
記された名山であるが大和からは遥かに遠く、知る人は少ない。

ここはまだ奈良県であり、県庁からなら東京のほうが近い。
登山するより自動車に乗っている時間のほうが長い遠山である。
帰りは連休の大渋滞のほうが鎖場よりハラハラするようだ。
この不自然さに日本の歴史が書き込まれている。

そんなことはどうでもよい。まずは夕食である。
同宿者がいないときは気が緩む。物々交換した缶詰を開ける。
登山者はこんな旨いものを食べているのかと酒の当てになる。
ジンの液体食は回りが早い。ちょっと横になったら寝てしまった。

寒いので目を覚ますと11時頃である。蝋燭を燈し、夕食である。
一人なので夕餉を楽しむより、機能的である。餅を味噌汁や
スープに入れる雑煮食である。高級料亭の素を持ってくることもある。
宿泊費として寸志を志納箱に入れ、ど真ん中に布団を引いて寝る。

熊 野 曼 陀 羅
[ 5月6日 ]

いよいよ最後の高峰、笠捨山へ。緑も濃く高山の雰囲気はない。
この木、なんの木、気になる木々。雑木の高木の幹々が並ぶ。
緑、翠、蒼の濃い熊野曼荼羅の美山である。深山歩きが楽しめる。

最後の登りの尾根道も歩きやすい。突然、視界が開ける。
見晴らし岩に立つとカール状の崖がお椀のように広がる。
芽吹いたばかりの泡緑が紅二点がお椀から溢れ出そうな勢いだ。
負けじと咲く。やや紅が違う。山桜とアカヤシオの競い咲きだ。

この勢いは大和、吉野、弥山曼陀羅にはない。南国の熊野の雰囲気だ。

その最高峰が笠捨山である。1352mで高山の雰囲気はない。
大和名所図会にも記された名山だけあって見晴らしはよい。しかし、
大和まで見晴らせる訳でもない。近畿最高峰の弥山さえ見えない。
釈迦ガ岳とまりである。釈迦がくる前は大和もなかったはずだ。

言霊曼陀羅なら大和(やまと)など、つい最近の新参言霊にすぎない。
元明天皇が平城京を「大和(おおわ)なる耶間都(やまと)」と呼び、
大和(やまと)とは枕詞読みであることが分かる。大和がなくても山はある。
どうも「熊野弥山(みせん)の笠捨(賀佐佐土)」と呼ばれたようだ。

大和と言うが熊野川の「あいうえお」曼陀羅では「い間」の中下流になる。
笠捨山は熊野曼陀羅の最高峰の「I間」の弥山(MI佐奴)になりそうだ。
笠捨(賀佐佐土)なら三笠と並ぶ聖山で、日本海海戦なら副艦になる。
吉野熊野の岳曼陀羅では弥山、笠捨山、玉置山が山の尊称を頂いている。

耶幡(ジャパン)とは山(耶間)曼陀羅の国である。
美間(み奴、峰)を中心とした山(耶間)曼陀羅の国である。
八幡(ヤパン)魂とは山(八間)曼陀羅の弥生(八四一)魂である。
日本(二幡)魂とは山伏(八間二四)の魂をいう。

大和魂なら平城京の都魂を言い、都人はよく使いたがる。
また倭魂なら魏志倭人伝に克明に紹介されている。
「倭」の本当の意味は中国民族でさえ忘れてしまった。
秦の始皇帝の焚書坑儒の影響が今でも尾を引いている。

笠捨山の山頂には言霊の碑が埋め込まれている。

この辺に来ると山歩きも飽きてくる。里の匂いがしだすのである。
里の奥山であり、深山の前山である。最初は尾根道を真面目に歩いたが。
鎖場を敬遠し、巻き道を歩く内に里に下る葛川渓谷に魅せられた。
瀞八丁の奥川であり、秋の峰を夢見るようになった。

疲れたら里に下りることだ。山は馬と鹿に負かせておけばよい。
玉置神社は山の上だが。車で登ればよい。まだまだ道中はある。
タクシー代をケチり、ヒッチハイクしようとすると車はこない。
尾根道まで来てしまった。地下足袋は車道でも歩きやすい。

ここまで来たら馬と鹿になって歩こう。四ッ車は馬鹿な乗り物だ。
ここの尾根道は車道が沿うように走る緩やかな登り道である。
花折塚で倭(やまと)魂が分かる。大和魂とは官軍虚構魂だ。
やがて駐車場のある大展望台がある。ここの眺めは最高だ。

熊野川が見える。集落が見える。山だけしか見えないのは飽きた。
流域の猫の額の居間の集まりが十津川邑で日本最大の村である。
邑(六羅)なら陸奥(六土)を意味し、人界の奥土を言う。
村なら郡、町の行政単位で、獣人口のほうが多いいだろう。

ここまでくれば玉置山山頂までもうすぐだ。かつえ坂も
ブナ林に色々の木々の混ざる森林公園の坂道のようなものだ。
山頂では石南花の群生が満開である。まさに石南花祭だ。
玉置神社の花祭だ。坂を下った暗(九羅)に玉置神社がある。

玉置神社は九合目の山倉(九羅)にある。鞍(九羅)ではない。
これほど神々しい神社を見たことはない。熊野三山の奥宮である。
熊野灘の船からも見えるというが千年杉の杜が見えるのだろう。
玉置山は熊野の弥山(みせん)であったことは間違いない。

弥勒(三六九)の弥山(三せん)、勇(一三六)の男神社だ。
玉置神社の州浜紋は玉置(玉金)の金玉紋である。
着物の州浜連続模様に昇華するのが皇紀2600年の歴史だ。
大和魂の挙句の官軍敗戦教育などは一時の戯れに過ぎない。

浅草三社祭の三網紋は弥生(耶世居)模様の弥山(三せん)紋だ。
皇紀元年こそ、耶世居維新である。大化の改新の焚書坑神で
日本の古代史の記録が消えたが大地に記録されている。
アラファト議長の頭にも、網目紋をどう読むかだ。

民族移動をしなかった日本民族は世界の歴史を記録している。
海奴が今以上に正確に世界の真言を伝えた。情報操作するようでは
海の藻屑として消えてしまう。海を行くとは山より命懸けだ。
弥生(八四一)の数神維新はアラビヤ数学維新である。

日本民族二万年と見た場合、魏志倭人伝などはつい最近の
報告にすぎないが焚書坑神の生残り唯一の公文書かもしれない。
弥勒(三六九)と弥生(八四一)の鏡(賀神)の記録である。
言霊曼陀羅には世界の歴史が克明に記録されている。

そんなことはどうでもよい。玉置神社では風呂に入れる。
奥山越え熊野詣をするなら玉置神社に宿泊予約すること。
千年杉の奥山で風呂に入れ、広間で布団に寝れるとは。その上、
曜日回りがよく休日に当たれば石南花祭中なので食事も豪華だ。

大森山の県境越え
牟婁(むろ、室、森)曼陀羅
[ 5月7日 ]

5日振りに風呂に入れ、ぐっすり寝むれた。浅き夢み路に
酔うひまもなく、朝霧の立ち込める千年杉の杜を旅立つ。
6日目であるがまだ熊野三山詣の3日の旅路が残っている。

吉野川の柳の渡しから始まった大峰山脈もこの尾根筋で
熊野川に没する。その浅瀬を歩いて渡ると熊野本宮である。

最後の高峰、大森山を越えれば和歌山県である。
この県境は不自然で余りにも人為的である。
奈良県と三重県の県境に和歌山県の飛び地まである。
明治維新の県境だろうが壬申の乱の尾を引いているようだ。

壬申の乱は中国化の倭国の大乱で始まる時代の終結を、
戊辰の乱は大陸化の応仁の乱で始まる時代の終結を意味する。
日本書紀は壬申の乱の勝者の記録だが編纂した舎人親王は
負け側の丹生族である。史記の司馬遷と同じである。

勝てば官軍には歴史を編纂できる知恵者はいない。
それは戊辰の乱の官軍のその後を見ればよく分かる。
明治維新を美化する司馬遼太郎に至っては
日本民族の歴史観ゼロで、話が面白いだけだ。

官軍最後の将軍、小鼠首相は同盟軍の将軍気取りだ。
まさに、植民地軍の従威小将軍に過ぎない。
官軍には征夷大将軍は下賜されていない。
これでは日本国家は赤字沈没するだけである。

そんなことはどうでもよい。この道行きはよく道を間違える。
まともに踏破したのは一回のみだ。大森山までは深山である。
あとは奥山から里山へと下って行く。熊野川が垣間見える。
川沿いの国道を行く車の音がする。里心が付くのである。

里山の恐さはよく知っている。弥山、美山、深山は獣道に
迷い込まねばよい。怪我をしても名山なので人は通る。
里山は人道がやたらと交差する。旧道、廃道、樵道等々で、
立派で行き止まりは送電鉄塔の保守道である。

人家が見えるので迷ってもあそこまで行けば、しかし
怪我したら人が通らない。携帯電話を持つと気が緩む。
尾根が急な起伏でも巻き道はない。落葉の積もる下りでは
何回も滑り、尻餅をつき生傷は絶えない。里山こそ危険だ。

人道を見つけるとつい寄り道をしたくなるのが人情だ。
牟婁(むろ、室、森)曼陀羅の笠捨山、玉置山、大森山の
三山にはその魅力がある。里山の魅力である。

笠捨山、玉置山から瀞八丁に下りられる。そこでカヌーに
乗れば新宮まで下れる。尾根歩きは馬と鹿の行く道だ。
山里歩きは楽しい。大森山からなら熊野川の本流に下れる。
川砂利が広々と敷かれた河原歩きもよい。オトトが泳いでいる。

この道行きは色々なバリエーションが楽しめる。なんと言っても
熊野本宮がよい。熊野聖の総本山で、山伏を丁重に迎えれくれる。
熊野川の四合目の平(四羅)間にある。ジャル パックまでは
第一級観光地であり、熊野聖が講(パック)の引率者だった。

奥駈は熊野本宮で終わる。交通の便が悪いが時間に追われないことだ。
一日の余裕を残し、熊野本宮に泊まることだ。予約をしなくても
たいてい素泊まりできる。普段は広間がガラガラである。
近くにスーパを兼ねた大駐車場のお土産店もある。

ゆっくり風呂に入り、朝一番のバスなら東京でもその日に帰れる。
大峰西路のバスを薦める。十津川温泉で下車して露天風呂に入り、
奥山越えの充実感にも浸れる。まだ色々な温泉地もある。

南 々 奥 駈
小雲取、大雲取越え熊野古道
[ 5月8日 ]

小烏の奥駈道はまだ続く。小雲取、大雲取越えの熊野古道で、
南々奥駈と言いたいがこれは奈良を中心にした考えである。
中辺路と呼ばれている。平安旅行ブームで生まれた女道で、
奥山越の奥駈道は男道である。那智の青岸渡寺への道行きである。

ところで熊野川を渡ると何曼陀羅になるのだろうか。

この辺の一番大きな地名は牟婁郡で和歌山県と三重県に跨る。
牟婁(むろ、室)が最古名になり、室川があったはずだ。
真打が真室川なら地球がムー(牟)大陸と呼ばれ時代だ。
人口も少なく人類皆兄弟で生活空間の線引きも大まかである。

今は真室川も玉置川もなく、川(賀輪)奴の居住地を言うようだ。
川の呼称も「み境」の「み(ず)」から、瀬、川(かわ)と変わった。
熊野川も玉置川と呼ばれ時代があったようだ。川の名はよく変わる。
牟川、新川、玉置川、新宮(室)川、熊野川と変わってきたようだ。

真室川は最上(喪神)川と呼ばれているが喪神は月山の神になる。
喪奴(MN、MAN)の神こそMOON(ムーン)の月神である。
喪奴の惑星がムーと呼ばれていたようだ。進化の法則ではその頃は
猿のほうが多く、地球は猿(MN鬼)の惑星とも呼ばれていた。

最上(さがみ)は佐神(さがみ、相模)で太陽(サン)神になる。
この地霊の捩れは海の佐奴(サン・太陽)族の渡来を記録している。
奴の羽黒族の渡来は揚子江が烏川と呼ばれたことでも分かる。
海奴の渡来で原住陸奴が行政単位を変えるのは日本民族の伝統だ。

新川と呼ばれた時代が奴(N)のNEW(新)時代である。
奴(NEW)の渡来は新田原(にゅうたばる)と記録されている。
アルファベット26字の上13字がM語、下13字がN語である。
奴(N、二)川、室(六羅)川、熊野(九間奴)川と変わる。

那智(N土)とは新土を意味する。西日本で最初に冬至太陽の
当たる日向を意味する。ユーラシア圏で最初に当たる日向山は
房総半島の上総清澄山である。日蓮(日羅)の山である。
歴史は繰り返すたび、思い出す人が登場する。

大陸にルーナ(羅奴)が登城した頃、日本に月(津貴)が登場する。
そして、「まみむめもむ(真見月目喪無・123456)」曼陀羅の
混乱に人類が落入って行く。これを解けるのは日本民族だけだ。
また、月(津貴)族の渡来は十津川としても記録されている。

そうそう最上とは日取神を意味し、雲取り越えで分かりそうだ。
また、月山は「ムーンサン、月日」を意味し、明神は裏神(浦上)になる。
東大寺二月堂の神名帳では一万三千九百余りの明神がいたという。
表神の菩薩(日佐徒)は26菩薩おり、MNの富(十三)神になる。

カルト(賀羅土)の「あいうえお」曼陀羅では
日月は明土(アカルト)を意味し、月日はオカルトを意味する。
オカルト(お賀羅徒)とは裏神の隠れキリスタンを言うようだ。
歴史は繰り返す。明治維新でムーン(MN)が先祖帰りしただけだ。

そんなことはどうでもいい。今日の道中は一番距離がある。
まだ暗い3時半に旅立つ。中辺路の登り口の請川までは国道168号を
行く。我が在所を通り、京都まで行く、「いろは(168)紅葉」の
丹生街道であり、萌の朱雀街道と言ったほうが現代的かもしれない。

車もほとんど通らないので、車道を歩く。地下足袋は歩きやすい。
自動販売機があるたび、色々の味が楽しめる。尾根歩きしたあとなので、
小雲取り越えは夜の明けて行く杉木立が続く楽しい散歩道である。

百間嵒の展望が奥駈道で一番好きだ。嵒(ぐら、がん)と書くように
見事な断崖である。九羅(ぐら)と言うから妙法山の九合目位かな。
何気ない山道に何気なく現れる。一面の曇り空と一面の雲海の
中空に果無山脈の山々が九十九島のように果てし無く浮かぶ。

舗装林道が走っているので車でもこれる。歩いて15分くらいかな。
紀伊半島ドライブのときは是非。雨上がりの早朝の雲海が本当によい。

桜茶屋跡の休憩所から大雲取り越えの山々が見える。小口川の集落も
見える。あそこまで下り、また登るのかと思うとうんざりする。
小雲取り越えは13km、4時間余りと言うので、小中学生を連れての
温泉ハイキングに最適である。奥熊野の自然、歴史が一杯だ。

大雲取り越えはただ黙々と歩くだけである。平安・江戸の旅行ブームの
第一級観光街道なので記録が沢山残っている。歴史愛好家なら是非。
よくもこれだけ石畳を引き詰めてと感心するが胴切坂にはうんざりだ。
薄暗い果無の坂道にカラフルな頑張れ人形が。金剛杖で打ちたくなる。

越前峠を越せば一安心。展望も効かない道を黙々と歩くだけ。
舗装林道をかなり歩くので興ざめだ。船見峠は感激した。
串本・大島が一望できるが雨上がりで展望が効かない。
ガッカリして、本展望台から勝浦・太平洋の晴れ景色が。

ラ メール!!

と思わず涙がこみ上げてきた。太平洋が見える。この感激も
二回目になると勝浦港の居酒屋で刺身を食べ、生ビールを飲む
打ち上げの情景に変わる。気だるい昼下がりに聞く海の話がいい。

那智高原公園から黒潮の山々が。最後の新宮への山越えだ。
濃い緑の南国の山々だ。どっしりと木々の茂る山々だ。
公園から大門坂になるがうんざりするほどの高度差のある
階段だ。こんな立派な階段を。第一級観光街道を彷彿さす。

大雲取り越えは奥駈道の中で最低の道行きである。まさに
馬と鹿の行く道である。深山の道行きはカモシカの行く道だ。
大門坂の中平に青岸渡寺がある。那智の滝が見える。

羯諦羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。
ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい
Garden Garden 原Garden  平 Source Garden

と花山天皇が呟いただろう般若心経の一節が聞こえてきそうだ。
青岸渡寺を西国札所巡りの第一番に選んだのがよく分かる。
平安旅行ブームの始まりで、人間は旅をする動物だ。

今は観光バスで容易に来れる。大雲取り越えは馬と鹿の行く道だ。
馬鹿はそれなりに可愛い。しかし、歴史は繰り返す。
熊野曼陀羅に人間の姿を追う馬と鹿がきっといるはずだ。

連休明けの骨休みの平日で、日が高いのに寺も閉り、猫一匹いない。
ゴーストタウンだ。寺が開いている時間に着くには作戦を変えねば。

光ガ峰越え神南道
[ 5月9日 ]

この道行きはまだ一度しか踏破していない。と言うより、
小烏の聖地である。山伏に目覚めた聖地である。その話は
余ほど酒を飲まないと話せない。しらふで話せる頃は
吉野熊野曼陀羅から卒業である。

それまでには春の峰の完走、秋の峰、夏の峰、冬の峰が。
まだ7、8年は楽しめそうだ。その後はきっと別の
曼陀羅をさ迷い歩いているだろう。人生とは死ぬまでの
時間潰しである。馬鹿々々しい時間潰しを選んだものだ。

女人曼陀羅で溺れ死んだほうがましである。本当に
羨ましい。練炭の煙で女人と共に昇天できるとは。
死んだら二度と花見ができなのをなぜ学校で教えないのか。
根があり、幹があり、枝があり、葉があり、そして花が咲く。

そんなことはどうでもよい。吉野熊野の山・岳曼陀羅は
青根ガ峰で始まり、光ガ峰で終わる。峰の尊称はこれだけだ。

峰(MN、弥奴)の存在は魏志倭人伝でも記録されている。
そこが峰族の都(弥八・宮土)と考えてもよい。
吉野熊野曼陀羅の都を邪馬台とするのが畿内説である。
山(八間)の西吉野(四四奴)とするのが北九州説である。

岳(田木)の狸(田奴岐)が邪馬台(田居)を知っている。

神南(かんなみ、神奈備)道は新宮から始まり奈良まで、
玉置を通り、笠置まで続く。笠置を六笠山とし、三笠山を下り、
冬至太陽のビーナスが降り立ったのが奈良の高間である。
その平間の一笠間(いかさま)に大造営されたのが平城京である。

長安の一笠間のカサドラル(笠寅羅)から三笠の六奴(ムーン)を
阿倍仲麻呂(あ日奴賀間羅)は勇(一三六)の羅漢である。
秋津島の天平(四五一日羅)に役者(八九三)の宮(三八)が
一笠間(いかさま)の土場(賭場)の賽の音はもう聞けない。

第9代開化天皇の高天坐(高間都宮・升)から
第43代元明天皇の平城京(四羅置京)まで、
ほぼ650年経っている。1300年前が弥生維新である。
そして1300年後が官軍敗戦の九曽弥曽維新である。

日本書紀は弥生維新と大和朝廷の縁起譚を裏表で創作している。
水戸光圀と現代劇の裏表創作の水戸黄門漫遊記と同じである。
敗戦と終戦を裏表で創作したのが日本現代史である。

日本書紀は政事中央集権国家の誕生譚である。
それまでは祭事中央集権国家だった。また国家思想とは
日本民族が神代の昔に確立した集団思想であり、
国境線の変動する大陸ではいまだに確立していない。

それを模倣しようとする官軍国家思想はいかに
未熟であるかを見れば分かる。姑息な小鼠思想である。
一笠間の賽の小鼠音も水底に消え、小烏が最後の目撃者かも。

国家思想とは神代(賀奴世)の昔にカヌー(賀奴)で
行き交った賀徒(GD、God)の思想である。
阿倍仲麻呂(あ日奴賀間羅)の「あ日賀」魂である。
太陽に向かう「あ日賀(Anhinga)」曼陀羅だ。

西日本では最初に冬至太陽のビーナスが降り立つ
玉置が一番の聖地だった。それが玉(田間)時代である。
邪馬(八・田田間)の弥生(八四一)時代は新しい。

山の背(瀬)道と海の瀬(背)道は新宮で継がる。
神南(神奈日)道は瀬道で神奈川まで継がる。
多摩(田間)川とは玉(田間)時代の呼称であり、
その前は神奈川と呼ばれていた。玉置川も同じだ。

賀徒(GD、God)曼陀羅ではユーラシア圏で
冬至太陽のビーナス(日奴佐)は上総で日奴として誕生し、
恵奴海(江戸湾)を渡り、神奈川を遡上し、日原の暗間に納まる。
能登の猿(佐羅)山岬で佐奴(サン)となり、日本海に没する。

そんなことはどうでもよい。里心がついた。家路を急がねば。

佐緑 の 五月山
[ 5月10日 ]

柔らかい若葉、若葉で囲まれいる。この緑が本当に落ち着く。
棲みついて20年以上も慣れ親しんできた緑である。
谷から吹き上げる風が裏山を登って行く。サワワン サワワンと。
柔らかい若葉が白緑の裏葉を見せながらそよ風が登って行く。

Eメールを開けると「無事に帰国した。」と、ウラル人の便りが。
「無事に山から帰った。」と。「八重桜が満開だ。」と返事が。
芽(May)吹く緑に、「マイ マイ」と舞い(Mai)たくなる。
いよいよ、大陸にも春がくる。メーデで始まる五月である。

「ABCDE(12345)」のAvilとEvilの五月舞いだ。
アビ鳥(A日賀)とイーグル(E賀羅)の唐土(賀羅土・ランド)祭だ。
五月場所の安美鳥とイラク場所の白頭鷲のグル(賀羅)の戦いが。
ヤマガラ、シジュウガラ、コゲラ等々、賀羅(ガ・ゲラ)の囀りが。

アルバトロス、イーグル、パロット、バーディ、ボギー、Dボギー
在所の年一度のゴルフ コンペだ。もう20年近くも続いたかな。
30軒近い大所帯の隣組である。葬式も祭壇組みから全て取り仕切る。
仕上げの席で、ゴルフの話になり、弔い合戦と称して始めた。

バブルを謳歌した東大阪の生駒暗峠越えの後背地にある。
平城京と難波宮を結ぶ人物往来国道第一号線の旅篭町である。
平城京への物流国道は淀川・天野川の岩船街道と木津川街道、
大和川沿いの竜田越え街道である。色々の平城街道がある。

暗峠奈良街道は緑(三土羅)、室(六羅)、暗(九羅)越えの
弥勒(三六九)街道であり、魏志倭人伝の「いろ(一羅)は紅葉」の
丹生街道(国道いろは・168号線)と在所の橋で交差する。

この鍵屋(賀城耶)の辻橋こそ、皇紀歴史の奴幡(日本)橋で
下に流れるのが「色は紅葉(いろはもみじ)」の竜田川である。
ここで分岐する弥生(八四一)街道が矢田街道である。また、
初代ヤタガラス(矢田烏)道を知るのは小烏だけだろう。

街(海)道は海を越え、山を越えの服部(日鳥)背(瀬)道から
佐奴賀(サン鳥、太陽鳥、比古、忍者、山窩)の尾根街道へ。
そして川沿いの物流の物部街道が生まれる。山を横断する
人部の初代京街道が暗峠奈良街道で、その初代旅篭町である。

道はなんでも知っている。栄屋維新でトンネルを掘り出す。

道は生まれたときから歴史を延々と記録し始める。
旅篭町の伝統は延々と記録され、小烏も旅人である。
しかし河内音頭ですぐ纏まるような土地柄でもある。

河内音頭と倭歌は倭国防衛隊の軍歌と遊歌に起源する。
秦の始皇帝に対抗する国家要塞が大和盆地である。
神武天皇が初代屯田兵司令官で、大和朝廷へと。
風雲急を告げたのが中国ボケの倭国の大乱である。

河内から泉州への前衛隊が意気のよいダンジリ部隊である。
奥詰は石上(一曽賀目)神社であり、山辺の道と
竹内(建・武烏土)の道は軍事道路である。中詰は王寺の
久度(九羅土)神社である。中衛隊長こそ、倭建命である。

中衛隊長こそ、戦上手な玄人(九郎徒)である。
中国ボケの素人(四郎徒)集団が破れるのは
魏志倭人伝と日本書紀に裏表で記録されている。
源平合戦と関が原でも同じように繰り返される。

玄人集団の棟梁こそ、倭建命であり、丹生系武族である。
反中国思想の大陸系帰化人で天皇の親衛隊になる。
聖徳太子もそうであり、源氏の系譜でもある。
平群(兵軍羅)を中心とする竜田川流域が入植地である。

生駒谷は竜田川と天野川の分水嶺が平地にあり、珍しい。
この谷間盆地を縦貫するのが国道168号線である。
枚方(京都)から新宮まで、日本最古今の歴史街道である。

そんなことはどうでもよい。ゴルフの話はどうなった。
バブルを謳歌した東大阪の鬼取生駒山の後背地にある。
鬼取(お奴土羅)の鳥(土羅)とは龍間の八大龍王である。
小角(おぬず・お奴頭)の寅(土羅)とは信貴の白虎である。

20年近くも続いたのでバブルの生き残りかもしれない。
暗峠越えの大阪街道はボギー(小鬼)、Dボギーの棲家である。
その大鬼とは布施の塩川正十郎、小阪の司馬遼太郎であろう。
世紀末を一番調子よく生き、いまだに酔いしれている。

坂本龍馬に始まる西欧ボケのオカルト(お賀羅徒)である。
十郎は九郎の天(テン、十)坊気取りである。いやいや、
遼太(羅JO一)郎こそ、天一(ジュウ一)坊のジャクだ。
日本民族の歴史観と経済観がこれほどゼロも珍しい。

それが証拠に小阪と言う地名があるが大阪はない。
布施で近鉄が奈良線と大阪線になぜ分かれるのか。
これが分かれば日本なぞ、すぐ蘇る。そもそも
ジャク(J狗)気取りだがJ幡(ジャパン)魂がない。

バブルの海で藁を掴んでも、癒してもオカルト自慰にすぎない。
坂本龍馬もびっくり、蛇足を履き、馬鹿逃げするだろう。
蛤御門の変の長州志士の定宿の末裔に話はよく聞かされた。
当然、幕府から 所払いの命を受け、その後の没落の話も。

バブルを乗り越すには材木くらいを掴まねば。
花よ、蝶よとパリーに靡くが隣人は何を買いに行く。
材木を、パリー郊外の森は人工林で今が切り時だと。
空船なので、九州より運賃が安いとか。まさにオカルトだ。

材木の買い付けで世界を渡り歩いている。冷熱商人だ。
日本の山林が最後に残るだろうと。吉野の山持ちも、
世界の材木が枯渇する頃に、吉野の杉を切ればよい。
それまではアユ釣りじゃ。日本の緑は確実に増えている。

そうそう、森を切り開いたヨーロッパ ディズニー ランドは
上空から見たときはまだ工事中だった。ひと昔前の話になるな。
その森の脇の草原飛行場の近くに三姉妹の家があった。
三代続いた家具職人で、三姉妹との日本話がこのHPのキッカケである。

そんなことはどうでもよい。ゴルフの話はどうなった。


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[あ日賀]