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酔狂記

8月23日 (土) ナンセンスの行方
 「遺書、拝読」の原稿にとりかかるも、赤塚先生の後期の代表作、『レッツラゴン』と『ギャグ・ゲリラ』を読みふけってしまった。狂気と凶器と狂喜が渦巻いていた。ナンセンスの行方、という言葉が浮かんだ。
 ところで失策続きのGG・佐藤は大丈夫だろうか? 彼は体格に似合わずかなりの神経質なのではないかと推察する。でなければあのミスの連発はありえない。プロの選手は体に染みこむほど練習を重ねているから、少々の緊張なら肉体の反応でしのげるはずなのだ。つまり、彼の試合中の緊張は、彼の神経に変調をきたすぐらい未曾有のものだったと考えるのが妥当だろう。そしてこの結果だ。日本チームの敗因は別のところにあるのだから、彼の今後に支障をきたすようなトラウマが残らないことを願う。
 そういえば、赤塚先生はスポーツ全般が嫌いだったな。
8月22日 (金) 9日ぶり
 夕方、神保町へ行き、渡邊直樹さんの「宗教と現代」編集室を訪ねる。こじんまりとしながらも仕事が捗りそうな気配にひたり、あらためて仕事場について考えてしまった。打ち合わせ後は近くの和食店でごちそうになる。駅で別れた後、ひとり銀座に移動して「D・ハートマン」でY田さんと軽く飲む。落語と小説の話をして23時に店を後にし、三田の駅前からは歩いて帰った。9日ぶりの外出と飲酒でしっかり酔い、気持ちよく寝入った。
8月21日 (木) 宇津木妙子さん、最高!
 なでしこ惜敗。やっぱり大型GKの育成は不可欠と思い知った上で、ソフトボール女子の観戦に移り、夕食をとりつつその勇姿を目に焼付けた。よかったな上野。彼女はあーだこーだを超えた次元で投げていた。そして、こちら側の感情は、すべて解説の宇津木妙子前監督が代弁、代絶叫してくれた。彼女の思いの丈はおれたちのレベルとは比べものにならないから、その過剰さが笑ってしまうほど清々しかった。こういうのを「やかましい」とは、件の農水大臣でも言わんだろう。
 さて、これでソフトボールは五輪から外れる。復活するためにはアフリカに競技を浸透させていくしかないだろう。野球も同じ課題を抱えているのだが、なんせこれらの競技は施設と道具の普及に金がかかるから、なかなか実現は難しいと想像する。いわんや選手の生活支援にも金がいる。IOC内での政治的な画策でもない限り、だから、復活は困難だ。そんなことを考えてみると、やっぱり陸上と水泳は王道だな。他は、それぞれの世界選手権でやればいいんだよな。
「最後のオリンピックで最初の金メダルです」
 実況アナウンサーのこのフレーズはよかった。上野選手をはじめとするメンバーの奮闘、圧倒的な強さを誇るアメリカチーム、宇津木さんの超感情移入解説とともに、「最後」だったからこそここまで盛り上がったのだろう。
 いい興奮を味あわせてもらった直後、おれは、松井秀喜が試合復帰後の初安打を放ったと知って拍手した。
8月20日 (水) 過剰な孤独
 本日は『百年の孤独』を黙々と読みながら五輪ソフトボール女子の試合をテレビで観る。それにしても1日に2試合、どちらも完投した上野選手のスタミナよ、そして孤独よ。明日、彼女が優勝投手になることを願うばかり。
 一方、『百年の孤独』に渦巻くブエンディア家の過剰と孤独の魅惑といったら、一度引き込まれると抜け出すだけで軽い目眩と疲労感を覚えてしまう。読み終わるのが惜しくて、夜はあえて本を開かなかった。豚のしっぽが夢に出る夜も近いにちがいない。
8月19日 (火) バカボンの手法
 終日、『天才バカボン』の精読。この希代のギャグ漫画に淫するうちに、その独特のドラマツルギー、笑いを生む多様なギャグの手法を理解する。つまり開眼。夜がはじまるころ、両眼、昏睡。
8月18日 (月) なでしこ雑感
 残念でしたなでしこジャパン。じっくりテレビ観戦して考えたことをここに記せば、

 ・地力の差は時間が経過するにつれはっきりとしてくる。それを前提とした戦術の変更を用意する。
 ・もう少し身長がある(せめて175cmぐらいの)選手がGKにならないと、今夜の3点目、4点目のように、単純なセンタリング崩れのボールにも手が届かずに失点してしまう。
 ・パスの精度をあげる。あるいは動きながらのパス回しに徹する。
 ・緩急をつけた走りの習得。お手本は、今日のアメリカチーム背番号8の選手。

 所詮、素人の改善策なのだが、これらを実践してもおそらく3-2か、2-1で負けていただろう。そこは地力だから仕方ないが、こんな素人にもいろいろアイデアが湧いてくるぐらいなでしこジャパンには可能性を感じる。男子に比べてサッカーをやる国が少ない(例えばイスラム圏では女子のスポーツ自体が厳しく、アジア大会は東アジア選手権とほとんど変わらない。また、サッカー人口自体が世界で2200万人、そのうちの700万人がアメリカに集中している)とはいえ、日本男子が、ランキング1位のブラジルと好戦を演じるとは想像しにくい。あのワールド杯ドイツ大会での惨敗の記憶はまだ鮮明で、それだけに、なでしこジャパンが3位決定戦に挑むこと自体が小さな歴史となっていく。
 どうか、人生の半分近くをナショナルチームの選手として活躍してきた澤さんの首に銅メダルが輝くように。
8月17日 (日) 帰化、あるいは渡来
 ブルース・リー顔の平野早矢香さん見たさに卓球女子3位決定戦、対韓国戦をテレビで観る。平野リー早矢香さんの顔は、前日よりは柔和だったように思う。結果は周知のとおり。
 それにしても、各国の卓球チームに所属する中国からの帰化選手の多さよ。
 日本の男子チームにも韓選手がいた。今回は予備にまわった吉田選手も帰化している。この日男子が対戦したオーストリアにもやっぱりいた。女子の韓国チームにもいた。サッカーのブラジル、卓球の中国。これはもう一つのビジネス分野として成立しているように思う。しかし、アジアとヨーロッパが戦っても実際は中国人同士の試合を見せられるというのはちょっと白ける。もしも、日本チーム女子が帰化選手2名と福原選手で構成されていたら、果たして今回ほど盛り上がることができただろうか。
 とはいえ、日本という国が律令制をとる頃、つまり飛鳥時代あたりに関する書籍を読めば、当時の日本人の8割ぐらいが渡来人で構成されていたとある。土着の日本人は権力の枠外に追いやられ、国の主要部分は渡来人が占めていったらしい。だから、在日朝鮮人や被差別部落の人々を差別することは、歴史の本質として自分たちの同胞を侮辱する行為にほかならない。何たって8割ですからね、あなたのDNAにもおれのDNAにも朝鮮半島の血が生きていると考えるのがまっとうなのです。無論、天皇史を繙けば、渡来の歴史がからんでくるのは常識。2002年の日韓ワールドカップ共同開催を祝すコメントを出した際、天皇もさりげなくその点についてふれていた。

 帰化、あるいは渡来について考えることはなかなか面白い。
8月16日 (土) 平野選手の顔で思い出す
 昼間は日本卓球男女の試合を観戦。どちらも3時間余りの熱戦を展開したため、日が沈む頃にはこちらも疲れきってしまった。それほど見応えのある2試合だったが、女子の平野早矢香選手の過剰なまでに相手をにらみつける顔を見ていて、「だれかに似ている」と思った。
 その「だれか」はよく知っている人物で、……『燃えよドラゴン』に主演した○○○○・○○で、ああ顔も姿も仕草も鮮明に浮かんでいるのに名前が出てこない。ジャッキー・チェンではないこともはっきりしているのに、まったく名前が出ない、……子どもの頃、彼の映画を観てヌンチャクの練習までしたのに。
 結局、女子チームが香港に勝って男子チームがドイツに惜敗しても彼の名前は浮かんでこなかったが、ちょっと寝ようと思った直後、不意にその名前は眼前に浮上した。
 ブルース・リー。
 ブルース・リー。
 ブルース・リーの名前をおれは失念した。その事実に愕然とした。長薗安浩48歳は、2008年8月16日にブルース・リーの名前を半日失念してしまった。腰を痛めたことよりも、白髪が増えたことよりも、深く強く老いを感じた。どうでもいい固有名詞や数字をムダに記憶していることが自慢にならない自慢だったのに。
 今後、平野選手を見るたびに、おれは何度でもブルース・リーを思い出すに違いない。平野、加油!
8月15日 (金) なでしこジャパンが日本サッカー♂のお手本
 6時、起床。12時、黙祷。夜、なでしこジャパンの準々決勝戦を熱烈応援し、澤穂希さんの頭抜けた才覚と技術にうなりつづける。彼女を中心にしたなでしこのサッカーは、戦術的には男子と同じく体格差を補うべく集散を徹底して相手のボールを奪い、早いパス回しで敵陣に進むというものなのだが、それが実践できている点が観ていて楽しい。つまり、個々の地力を組織力によって補完して世界の強豪と互角に戦える可能性がそこにはっきりと見えるから、勝負の展開を見守る気持ちが続くのだ。ノルウェー戦といい、今夜の中国戦といい、歴然とした体格差を超えて勝った彼女たちの姿こそが男子サッカーのお手本なのだと実感したおれは、どこかのメディアに、岡田監督の感想を取材してほしいと強く思った。
 それにしても、暑い一日だった。
8月14日 (木) 狼と羊と
 6時、起床。終日、惰眠と書見。孤独は狼の宿命。退屈を嘆く羊は、はたして孤独に耐えられるか。耐えられなければ沈黙、あるいは死へと誘われていくだろう。
 この世にいない懐かしい人々に囲まれて見る夢を、いったい何と呼べばいいのだろうか。
8月13日 (水) ありがたいお盆の初日
 4時半、起床。午前中、原稿。富良野産のプリンスメロンと焼餃子で昼食をすませ、シャワーを浴びて都ホテルへ。西日本新聞社の取材を受ける。東京に異動してきたばかりの記者、T崎さんはほんとうに深く『あたらしい図鑑』を読んでいてくれて、つい長々と応えてしまう。ありがたい。九州の方々が一人でも多く読んでくれればと願うばかりだ。
 ホテルの近くで撮影をすませ、T崎さん、ゴブリン書房のT田さんと3人そろって歩き、白金高輪駅の入り口でT崎さんを見送り、T田さんと麻布三の橋の「さくら苑」でビールを飲む。話す。10日付けの日経新聞でも『あたらしい図鑑』が紹介されたらしい。ありがたい。
 帰宅後、「over the book」第18回の原稿。20時に脱稿し、待ってくれていたM橋さんに送信して「バリうま」で夕食。仕上げに盛岡冷麺を食べているうちに眠くなってしまい、帰宅後、早々にアイスノン睡。奇妙なお盆の初日となった。
8月12日 (火) 膨らむ月
 『百年の孤独』をちょっとずつ読みながらオリンピックやら高校野球をテレビ観戦して一日が終わる。頭の中では次作の主人公が落語の練習をしている。お手本は志ん朝。だから、囃子は老松。ちょっとあぶない。分裂気味の頭をなだめるために夕と夜、植物にたっぷりの水をやる。月が膨らんできた。
8月11日 (月) なでしこ
 北島康介、立派。
 おれはなでしこジャパンを応援しています。
8月10日 (日) 生理
 おれは、昔から谷亮子が苦手だ。だが、柔道着を着て戦っている間の彼女は清々しさすら感じる。だから、彼女の北京での戦いを応援したのだが、銅メダル決定直後のインタビューに切り替わった瞬間、やっぱり気持ちが縮んだ。数秒後にはチャンネルを変えてしまった。今回の国内選考時にも思ったが、彼女はもう後輩にその立場を譲るべきだろう。これ以上やれば、たとえ勝っても醜悪となる。
 夜、リビングのソファに座って東京湾に昇る花火を見上げながらビールを飲む。羊の夏休み。狼は行方不明。
8月9日 (土) 百年の孤独
 終日セルフ自宅軟禁。海外名作長編文学再読シリーズ第3弾として『百年の孤独』(G・ガルシア=マルケス 鼓直・訳 新潮社)を手に取る。登場人物相関図を横目に読み進める。冷や麦旨し。
8月8日 (金) 4人の中国人
 チャン・イーモウ演出による北京五輪の開会式を観る。式が始まるまでのカウントダウンが素晴らしく、じょわっと興奮。後は彼らしい色彩美を楽しむ。しかし、選手入場に移ったあたりでうたた寝。目が覚めて間もなくグルジアとロシアの軍事衝突のニュースに触れ、またもじょわっと興奮。人の為す幅をあらためて教えられた気分にひたる。
 人類って賢くってほんとバカだよな。
 歴史という縦軸が一瞬にして横軸になり、平和も戦争も、北京もチベットも、アメリカもロシアも、おれたちの前で並列を組んでみせる。
 
 ところで、おれが北京を訪ねたのはちょうど20年前、1988年だった。天安門広場は人民服を着た人々でごったがえし、その群衆の先に毛沢東の肖像画が見えた。泊まったホテルには映画『敦煌』のスタッフが在留していたが、彼らと顔をあわせなければ、日本人に会うことはほとんどなかった。白い人もまばらだった。群衆にまじっている軍服姿の青年をいぶかりながらも、すでに三度上海を訪ねていたおれは、じろじろとこちらを射るように見る群衆を無視して歩き回り、日本語も英語もまったく通じない店で食事をし、名所を巡り、ホテルに戻って青年のマッサージを受けた。青年は長身でバスケットボールの選手のように過不足ない筋肉質の体型、頭は角刈りだった。青年は言葉を発することなく作業をはじめ、手加減せずにツボを押しまくった。おれはつい悲鳴をあげて注意したが、彼はいっさい表情をかえることなく所定の時間までおれの体を圧しつづけた。
 開会式で整然と、しかし生き生きと古代の太鼓を叩きつづける若者の顔をみていて、ふとあのマッサージの青年を思い出した。彼は今夜、どこにいたのだろうか。開放政策の成功者が集うあの会場に、彼は来られたのか。マッサージの仕事ですら、20年前の外国人向けのホテルでなされるものであれば貴重な外貨獲得の仕事だったはずだ。彼に動乱期に大金を得る才覚があったかどうかなんてわからないが、記憶にある姿から想像すると、彼はあの会場にいなかったように思う。北京にすら住んでいないような気がする。ひょっとしたら日本にいたりして。
 19年前、あの天安門事件が起きて以降、おれは中国を一度も訪ねることなくこの日を迎えた。好き嫌いを超えて、この日本に絶大な影響を与えてきた国、中国。彼の地の誉れの夜、マッサージ師の青年をはじめ、おれは4人の中国人の顔をまじまじと思い出した。
8月7日 (木) 私もあなたの数多くの作品の一つです。
 赤塚先生を送るタモリさんの弔辞は素晴らしかった。


 あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時のその場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは一言で言い表しています。すなわち「これでいいのだ」と。


 赤塚不二夫という人の処世の基本をここまで端的に語ってみせたタモリさん。後半に出てきた〈軽井沢で過ごした正月〉については、対談の際にお二人から詳しく聞かせてもらった。
 それは、雪が降り積もった赤塚先生の別荘の庭で繰りひろげられたギャク披露大会で、氷点下、裸で芸を見せてすぐに風呂に入り、順番がきたらまた外に出ていって次のギャグを演じるというもの。いわば、命がけで人を笑わせる正月だ。もちろん先生も率先して参加したという。当時を思い出して語る二人はよく笑い、タモリさんは先生に求められていくつか再現してみせてくれた。どれもこれも余りにもくだらなくて必死で、おれもスタッフもみな大いに笑った。今では観ることがなくなったタモリさんの至芸を眼前にし、腹筋が痛くなるほど笑い続けた。と同時に、赤塚先生を中心にした異能の人々の集まりを羨ましいと思った。先生は一時代の笑いの基準だったのだ。
 だから、弔辞の最後を締めくくった「私もあなたの数多くの作品の一つです」というフレーズが深い意味をもつ。自身を赤塚作品として認識しているからこそ、タモリさんは湿っぽい発言や企画を避け、マンネリと一部で批判されても「笑っていいとも!」の司会を続け、数多くの共演者とくだらないやりとりを嬉々とやってみせる。60を過ぎてそんな日々を送ることがどれだけしんどいことか想像すれば、あの淡々とした姿に凄味がひそんでいるとわかるだろう。そこには、確かに「これでいいのだ」の精神が生きている。

 笑いが一番難しい。
 笑いが一番偉いのだ。
8月6日 (水) 言葉が起きる打ち合わせ
 地下鉄に乗って神保町へ行き、カフェテリア古瀬戸で打ち合わせに臨む。相手は面識はあるものの仕事をするのは初めてという編集者Yさんで、『あたらしい図鑑』を読んでお葉書をくださった方だ。余計な先入観も思惑も排除して顔を合わせ、流れのままいろんな話をする。アイスコーヒーとベトナムコーヒーだけで延々と話す。いつしか具体的なアイデアのようなものが浮上し、それにYさんが呼応する。そのうちに不思議なぐらい忘れていた体験を詳細に思い出す。実際にあったのかどうかは怪しいが、おれの中にはちゃんと存在している大切なエピソード。その話をすると、Yさん、「それをモチーフにぜひ書いてほしい」と勧めてくれる。
 後は方法論だな。
 おれがそうつぶやいてからは、そのテーマでまた話が盛り上がる。Yさん、実はコミュニケーションの達人に違いない。彼女の話に導かれ、おれの頭の中で眠っていた言葉がぷいっと起き出して口から出ていく感覚を味わう。アイデアが止まらない。とはいえ、あんまりしゃべりすぎると書く気が失せるから二杯目のコーヒーがなくなったところで話を終える。
 かくして3時間半の打ち合わせは終わり、おれはまた地下鉄に乗って帰った。
8月5日 (火) 静かな夜
 大府高校、初戦敗退。
 猫たちは雷鳴に恐れをなしてそれぞれ好みの部屋の片隅へと逃げ隠れ、そのまま寝入ってしまった。おかげで静かな夜が来る。讃岐(竜雲)うどんを茹で、釜揚げでいただく。猫、あらわれず。
 清峰高校はやってくれるだろう。
8月4日 (月) 改装して出荷
 メディアファクトリーより電話があり、赤塚先生の逝去をうけ、『これでいいのだ。』を改装して出荷することになったと知らされる。願わくば、増刷りされるぐらい多くの方に、先生がまだなんとか話ができたころの言葉を読んでいただければと願う。
 終日、思索と試作。
8月3日 (日) 最後の甘え
 午後2時半、ベランダに艶味のいい植物を置こうと思い立ち、炎天下を麻布十番まで歩く。歩き出してほどなく、三の橋の手前で後悔する。太陽光とアスファルトからの照り返しで肌がちりちり焼けていくのがわかる。いきつけの花屋さんに着いたときには、Tシャツの背は汗でぐっしょりとなっていた。
 店頭に好きな黒竹があって食指が動いたが、丈がありすぎて諦める。いろいろ吟味した結果、ハイビスカス(アリサ)とイエローカーニバルを求め、ついでにパギラの苗も一緒に購入。喉が渇き、近くにあるおでんの「福島屋」に入り、麻布十番の地ビール(なぜか赤と白があった)の白を飲んで冷しところてんを食べて帰る。急に腹を冷やしたために軽い腹痛を催したが、帰宅するまでに再び大量の汗をかいて回復し、すぐに植物たちの植え付けにとりかかる。
 上半身裸で作業を続ける間、赤塚先生のことばかり考えていた。それにしても、先生が逝く3日前に前妻の登茂子さんまで亡くなっていたとは。先生は強い母親の影響を受けて育った人だから、二人の妻が逝くのを待って息をひきとられたような気がする。見守ってくれた人がいなくなって「もういいか」というところか。医学的には意識が戻らずに亡くなったようだが、意識下ではちゃんと状況を認識されていたのだと思う。男の子の最後の甘えだな。
8月2日 (土) 赤塚不二夫は「破格の人」でした。
 赤塚不二夫先生が亡くなられました。生前にお仕事をご一緒させていただいたことに深い感謝を捧げつつ、ご冥福をお祈り申し上げます。

 もしも、お手元に『これでいいのだ。』(メディアファクトリー刊 2000年)をお持ちの方は、ぜひ、本体の最後の写真をご覧ください。意識不明のまま眠り続ける先生を看病中に先に逝かれた真知子夫人とともに、チャップリンに扮した先生が写っています。1999年の年末、本ができてお届けにあがった際、お二人が照れながら喜んでくださった、荒木さんが撮った写真です。「ギャグの天才」と称された漫画家とその妻ならではの、他のどんな夫婦にもまねのできない素敵な表情がそこにあります。覚悟が決まった夫婦のたおやかな笑顔がたまりません。
 また、この対談本にある先生の言葉はどれも、ガンのために食道全摘出手術を受けた後に、痰を吐きつつ、点滴を受けつつ語られたものです。松本人志さんとの対談のときには、短期入院されていた順天堂大学病院から駆けつけていただき、終了後、また病院に戻られました。「赤塚が死んじゃう前に本を完成させてね」と語った真知子さんがいつも隣にいてくださったから、こちらもとにかく他にはない贅沢な対談本をめざして制作・編集に邁進できました。
 タモリさんをはじめ、対談相手の立川談志、北野武、松本人志、柳美里、ダニエル・カール、荒木経惟といった七名の方々を、先生は黒澤映画の「七人の侍」にたとえました。そして、おれがフジオプロの二階を訪ねるたびに「いっしょに見ようよ」と自慢のスクリーンを下ろし、嬉しそうにながめながら解説をしてくださいました。先生は「七人の侍」が大好きで、英語版などいろんなバージョンを揃えてをられました。しかし10分もすると、先生はいつも寝入ってしまうのです…………、こうして思い出を記しだすと切りがなくなるので、もう止めます。落ち着いて向きあったら、単行本一冊分ぐらいすぐに書けそうだから。きっと、自分の過去が、こうしてまた絶対的な過去になっていくのが残念で仕方がないのでしょう。赤塚先生が生きていないことが、ただ寂しいのです。

 とにかく、赤塚不二夫は「破格の人」でした。
8月1日 (金) 里山のフロンティア
 珍しく昨晩の酒が残ったらしくぼおっとしたまま朝を迎え、食事も早々に宅配便を受け取る。中には今森光彦さんの『里山』が収まっていた。これは写真展用に編集された180ページほどの図録で、「里山」や「湖辺」をテーマに撮られたこれまでの写真数十点で構成されている。どれもこれも自然光の透明なヌメリをたたえたまま今この瞬間にしかない表情をとらえていて、いつものことながらただ感心する。目がなごむ。棚田であれ、林であれ、小動物であれ、人であれ、それらに向けたレンズの手前で「その時」をつかむために集中を持続している今森さん。世界の昆虫だけでなく、もともと辞書にも載っていなかった「里山」なる言葉をテーマにしてきた彼の長年の活動は、昨今、満開の花が咲くように各メディアで紹介されている。この夏も、相次ぐ出版物以外に、NHKハイビジョンで里山シリーズが放送される(今森さんはフィルムも撮るのだ)。また現在、恵比寿の東京写真美術館で展覧会が開かれている。そして、今月14日〜来月1日まで、大丸ミュージアム・東京(大丸東京10階)でも「今森光彦写真展」が開催される。
 おれが今朝手にした図録『里山』はそこで入手できる。今森さんのこれまでの仕事のエッセンスを味わえる好著なので、会場に行かれた際にはぜひ手に取ってみてください。
7月31日 (木) 腰痛も消える会食
 18時半に「acalli」へ行き、K次くんの母校である東海大付属高輪台高校(野球部)の健闘について話しながらI垣さんを待っていると、I垣さん、少々お疲れ気味であらわれる。久しぶりの再会とI垣さんの勤続30年を祝して乾杯し、それからいろいろ話をするも、I垣さんは終始眠そうだった。毎夜の眠りが浅いらしい。それでも野菜(サラダおよび焼き)を多めに食べてサーロイン(青森産)も平らげ、仕上げに鮪漬け丼を求めて「あら喜」に移動する。
 21時過ぎにI垣さんと別れ、一人銀座に流れて初めての店で新潮社のT内さんにお会いする。そこで2時過ぎまで飲み、タクシーで帰る。話している間、腰の痛みはまったく気にならなかった。
7月30日 (水) いい本、いい映画
 腰の痛みはあいかわらずだが気分はよく、創作ノートにメモをとりつつ書見で過ごす。夜、『役にたたない日々』読了。ガンで余命2年と告知された佐野洋子さんの遺書のような本だった。もともと病的に強い自己を客体化する意識があと1年に迫るにつれさらに澄み、唯我独尊とでも呼びたいほどに玲瓏な高みへと昇っていく。その過程が読めば伝わるからドキドキし、同時に彼女の思索の淵へ少しずつ体を沈めていく感覚がひろがる。凄味のレベルが違うから、読後しばらくは感動したままぼおっとしてしまった。
 鈍い光を放つ鉄(クロガネ)のような一冊の本にあてられたまま散歩に出て帰り、今度は『江戸の古地図で東京を歩く本』(河出書房新社)を読む。いい資料。それを読み終えると、『ボヴァリー夫人』をまた10ページぐらい読み進め、エマの無謀に憧れ、ロドルフの打算に納得する。
 さすがに書見に飽きたところで長らく買ったままになっていたDVD、『ハッシュ!』(橋口亮輔監督 2001年)を観る。面白かった。片岡礼子、田辺誠一、高橋和也ら主演の役者だけでなく、脇にいる秋野暢子、冨士真奈美、光石研の演技も良かった。しかし何と言っても素晴らしかったのは、脚本だった。じっくり進める部分と省略のバランスが巧妙で、突拍子もないストーリーを観る者に納得させる力になっていた。そもそも脚本とはそのためにあるのだけど、その成果はエンディングの明るい笑いへと昇華し、実に後味がよかった。
 いい本、いい映画。それぞれに恵まれた、思いがけず幸福な一日でありました。
7月29日 (火) 亡き声
 日がすこしだけ西に傾きはじめた16時半、目黒行人坂の大円寺へ出かけ、亀谷の墓前に参った。きょうは彼の月命日で、墓石に触れてみると熱かった。たっぷりの水をかけ、線香の束に火をつけて手をあわせた。墓地を囲む木々からは絶え間なく蝉の啼き声が落ちてきていた。啼き声にまじって彼の亡き声が聞こえるちょっとした幽玄の時間、ひとつ二つ、会話ができた。『きょうも命日』の冒頭に記したように彼は真冬に逝った。もともと夏が苦手なやつだった。
 目黒駅から地下鉄に乗って帰った。白金台、白金高輪。もうすこし電車に乗っていたかったが、しかたない。帰り道にある「どんどん」にぷらっと入って生ビールを飲み、豚のあぶり、冷しトマト、雑魚奴をつまんで半時間をすごした。開店直後とあって他の客はいなかったから、亀谷のビールも頼もうかと思ったが、店員を不安にさせるのも不粋と思って止めた。そして帰宅後、シャツを着替えようと整理ダンスの前にあるベッドの端にすわり、シャツの丸首に頭をとおして立ち上がろうとした瞬間、腰に冷たい痛みが走った。覚えのある痛みだった。15年前の夏、やっととれた短い休暇をつかって中禅寺湖近くのホテルに行き、着いたその夜に歯を磨いていて味わったギックリ腰の鈍痛。ただ前回と違うのは、痛めた箇所が腰の真後ろという点だ。いつも疲れが溜まると左側が痛みはじめるのだが、今回は典型的な部位だった。
 おそるおそる両手を支えにして立ち上がる。立ち上がれた。少しほっとしつつ湿布を探し、患部に貼って歩いてみると背中がしっかり伸びない。でも、歩くことは可能だから、と自分を慰め、ソファに座って天井を見上げた。前回は歩くどころか這うことすらできなかった。車や電車の座席に横臥したままどうにか帰宅したのだが、ホテルで買った杖をついてマンションの入り口までたどり着いたとき、そこに亀谷がいた。幼い息子の手をにぎって近くの公園へ出かけるところだった。彼はおれの無様な姿を見て驚き、
「どうしたの、長薗さん」
「旅先でギックリ腰」
「……やってくれるよな」
 亀谷は笑いをこらえてそう言った。
 おれが今日、亀谷の墓前で聞いたのは、「ちゃんとしなよ」という彼の声だった。
7月28日 (月) 食って寝る
 先週末に出た不要本40冊余りを近くの中古書店にもっていき、その足でまたクイーンズISETANへ行き、夕食の食材を買って帰る。ビーフシチューを作る予定だったが、急遽ビーフカレーを作って食べる。作り置きのポテトサラダといっしょに食ったが、ただ腹が膨れただけだった。
 デザートは旭山動物園ブランドのプリン。あっさり味で品がよかった。土曜日に食べた花畑牧場の生キャラメルプリンよりも、おれはこっちの方が好きだな。
 その後は『役にたたない日々』(佐野洋子 朝日新聞出版)を読み、眠くなったところで迷わずベッドに倒れこむ。役にたたない日々が続いている。
7月27日 (日) 道元の冒険は唐突に
 昼下り、久しぶりにS田さんから電話があり、急だけど今夜お芝居どうですかと誘われ、即承諾。作品は『道元の冒険』。原作/井上ひさし、演出/蜷川幸雄、道元/阿部寛とあって端からチケット入手はあきらめていたから、ちょっと興奮しつつ渋谷のシアターコクーンへ向かう。
 1971年に書かれたこの『道元の冒険』は岸田戯曲賞を受賞し、井上さんが劇作家として認められた初期の傑作なのだが、当時から長すぎる作品(原稿用紙360枚)としても有名だった。そこでご本人が脚本に手を入れ、その上で蜷川さんが取り組んだらしい。二部構成で道元の半世紀を描きつつ、道元と新興教団の教祖の夢の錯綜をからめていく内容で、10人の役者が47役を演じ分けていく。目まぐるしいほどの早変わりの連続。しかも、たくさんの劇中歌があり、ミュージカルの要素もふんだんに加わっている。当然、井上作品らしく言葉遊びによるテーマへの漸進もてんこもり。
 つまり、言葉の洪水のような作品なのだ。
 それが3時間20分続いた。
 途中、中入りの時に外に出てみたら、喫煙所に井上さんがいた。壁に貼られたポスターを見ながら関係者と話をされていた。井上さんは昭和9年生まれだから、今年で74歳。蜷川さんは73歳。……巨匠の座にすわることなく現役で新作に挑み続ける両名にあらためてうなり、終演後は、S田さんと会食してバーで仕上げた。S田さん、ありがとう。あなたのおかげで愉しく刺激的な日曜日の夜を過ごせました。そして、ちゃんと次作を書くこと、ここにお誓い申し上げます。
7月26日 (土) 言い訳消去
 エアコンの取り付け工事にそなえ、昼から自室の大掃除をはじめる。とはいえ、溜まりに溜まっている本が片付くはずはなく、別室に一部を移してお茶を濁す。それでも1階にあるゴミ集積所まで6往復し、大量の古雑誌や本を捨てて掃除機をかけると床面積が3倍ぐらいに広がった。オランとウータも戸惑いながら鼻をヒクヒクさせ、そしてごろりと横になる。と、そこに工事担当者2名が来訪。オランは猫らしく外からは見えない場所へと逃げ込んだが、ウータは自ら玄関まで行ってお出迎え。作業服に汗をにじませ2名、ウータの大きさにぎょっとしてから「こんちわ」と挨拶して脇をそろりと通り抜けた。
 18時半、工事完了。
 リビング用のそれよりも大きいエアコンから流れてくる風の、なんとまあ涼しいことか。「たまらんなあ」と声に出して振り返ると、ウータとオランが寄り添ってもう眠っていた。夏の家猫は、いつでも必ず涼しい場所を知っているのだ。
 さて、……これで執筆をさぼる理由が完全になくなってしまった。
7月25日 (金) 28年前、といえば
 大府高校が夏の高校野球の東愛知代表に決まった。その結果を知ってすぐに実家に電話をすると、すでに地元は盛り上がっていた。無理もない、28年ぶりなのだ。実は、おれは前回出場時の最初の試合を甲子園球場まで観に行った。大学2年生だった。母校ではないものの、やはり大府で育った者としては喜ばしく、悪友K藤と姉とともに車で出かけて応援し、帰路、何度も居眠りしてガードレールにぶつかりかけた。
 その数日後、失恋した。
 海水浴から帰る車の中で、彼女は唐突に別れを切り出した。目の前が真っ白になった。手垢のついたレトリックで申し訳ないが、事実、白いペンキを何層にも塗りたくったような白壁が眼前に迫り、おれはその壁を避けようとハンドルを右にきった。車は反対車線の路肩へと突っ込んでいき、おれは慌ててハンドルを戻した。名神高速では居眠りしても無事だった車の右のヘッドライトが割れ、その周囲はきっちりへっこんだ。
「だいじょうぶ?」
 おれは正面を向いてカックンとうなずき、憮然としたまま何も話せずに運転を続け、彼女を自宅の最寄り駅まで送って帰ったが、それから飯が食えなくなり、眠れなくなってしまった。とはいえ、おれはそんな状態を憂うことなく聖書の精読とトランプ占いにいそしんだ。そして2週間が過ぎたころ、部屋の天井の四隅にキリストの姿が見えるようになった。昼夜をとわず、見たい時にキリストが見える生活は夏が終わって秋が深まるまで続いた。真夏を迎えた時点で61kgあった体重は52kgまで減り、おれは毎週一回、大学の帰りに病院に寄って大量の薬を受け取る生活を送っていたのだが、名古屋駅の3番ホームで夕暮れをながめているうちに不意に、許されたという思いに包まれた。
 許された、許された。
「……もういいよな」とつぶやいておれは苦笑した。
 その日を境に、体調は回復に向かった。キリストは、もう二度と現れなかった。
7月24日 (木) 「う」
 土用の丑の日とあって、頭文字が「う」の物を食べることにする。
 鰻は三島でたっぷり食ってきたのであえて避け、「(讃岐)うどん」を選択。補食に梅干しも。日々凄みを増していく酷暑にやられないよう、素直に願う夕餉でありました。
7月23日 (水) 揺れやすい場所に暮らす
 本日も無為だった、と唸りつつもう寝ようかと思ったら揺れました。じわじわと強くなっていく横揺れが無気味で、近くで寝入っていたウータもむくっと顔をあげて虚空の一点をじっと見つめる始末。関東平野はどこで地震がおきても最後まで揺れが残る土地で、しかもその中で東京湾沿いにあるこの地域はよく揺れる。そんな場所の13階に暮らしていると、週に2度ほどはちょっとした揺れを体感する生活を送らざるをえない。高層マンションの耐震の宿命とはいえ、ほんとうに5強や6クラスが来たらどうなるんだろうか。
 それにしても日本という国は、よくぞこれだけ地震の被害を受けながら毎度立ち直ってきたものだ。農耕型の民族性が生育された背景には、稲作だけでなく、こういった天変地異の頻出があったようにも思われる。たぶん、そうだ。21世紀の今ですら我慢して復興するしか手がないんだもの。
 朝方まで緊急ニュース番組を眺めながらトランプゲームをやってさらに無為を重ね、死者が出なかったことを確かめてアイスノン睡。
7月22日 (火) 冷気のために
 昨夏から懸案となっていた仕事部屋のエアコン不調問題を解決すべく、18時、近所にできた「エアコンセンター」に出かけ、2分で購入商品を決定。勿論、勝手にフィルター掃除をしてくれる新機種を求める。交換、および取り付け工事の打ち合わせをぱきぱきと済ませ、下駄をからからいわせながらクイーンズ伊勢丹へ流れる。旬の野菜や果物、そして品薄の魚たちを観察し、ついでに産地を確認しつつ店内を一周し、しゃぶしゃぶの材料を買って帰る。
 汗だくになってしゃぶしゃぶを喰らい、猫たちをリビングに置去りにしたまま早々にアイスノン睡。
7月21日 (月) 人力検索。○○凌を思い出せ!
 午前中からずっと「遺書、拝読」の原稿。17時過ぎに脱稿し、推敲してN西さんに送信。オランとウータンに慰労されつつ、ぼっとした頭で溜まった新聞を読み終え、「あら喜」でビールでも飲むかとT夫くんに電話をしたら休みだった。そうか、今日は祝日だったのかとあらためて世間から外れた我が身を自嘲し、下駄をつかっけて近所を散歩。その流れで「バリうま」に入り、カウンター席で黙々と焼き鳥、焼き豚などを喰らい、焼酎を飲む。20時半には腹八分になり、店を出て薄い期待をいだいて「Flask」に電話をしてみると、やってるとのこと。ならばとタクシーを拾ってすぐに向かい、マスターと談笑しながらシングルモルトを飲む。その後、一人ずつ初見の客が現れ、少しずつ会話の輪が広がる。そのうちに以前に会った占い師兼ダンサーが登場し、その仕事の実際を聴かせてもらう。
 途中、或る役者の名前が話題になり、「○○凌」の○○を思い出すべくみんなで必死になる。一人は携帯を使って検索。マスターは「あ」から順番に記憶をたどる。おれも頭をかきむしりながら候補名をあてはめていく。松田優作が唯一監督をやった映画に主演した元ARBのボーカル、とまでわかっているのに名字が出てこないもどかしさに悶絶しながら占い師の携帯を取り上げてその画面を注視し、おれは叫んだ。
「石橋だ!!!!!!!」
 その直後、バー全体に「そうだ、そうだ」の声があがる。これで再び落ち着いて飲める、と思ったら、誰かが「奥さんは誰だっけ、たしか女優だったよね」と言い出すもんだから、また人力検索が再開。それが原田美枝子とわかった途端、おれは彼女のデビュー映画、『恋は緑の風の中』のワンシーンを思い出し、いきなり中学2年生になってしまった。
7月20日 (日) ありがたい三島での一日
 6時半、起床。すぐに露天風呂に行き、すでに勢いづいた蝉の嬌声を聴きながら湯につかる。極楽。8時前に朝食をすませ、9時にはホテルを出て近くのゴルフ場へ。この暑さの下、海抜500mにあるコースで談春師匠とM橋さんとI本くんとゴルフに興じる。それぞれ出来不出来の激しいゴルフで、均してみれば皆トントン。とはいえ全員40代、しかも普段はまったく運動をしていない身とあって、昼食休憩時に午後のハーフをあっさりキャンセル。
 温泉を使った浴室で頭から足の指の間まできっちり洗い、短パンTシャツに着替えてフロント前に戻ったところ、「長薗さん、麻雀やろうよ」と師匠に声をかけられ、仕事が残っているにもかかわらずついうなずいてしまう。そして、段取りよくM橋さんが予約をとった雀荘(三島の駅前)に車で移動し、ゴルフメンバーそのままで麻雀となった。20年ぶりに打つおれに気をつかってくれる師匠に恐縮しつつ、予想どおり何度も振り込んでしまい、6局終えた最終計ではダントツのびりだった。
 その後、車で帰るM橋さんを見送り、残った面子で三島名物の鰻を食いながら酒を飲む。狭い座敷での一時間強の会食だったが、丸っと一日遊びまくった師匠と話がはずみ、いい気分で三島を後にできた。振り返ってみれば、昨晩のカラオケ以降、起きているほとんどの時間を彼と過ごしたことになる。その師匠とは品川駅のタクシー乗り場で別れ、I本くんにマンションの前まで送ってもらって帰宅し、ほどなく眠りに落ちた。
7月19日 (土) 長泉の夜
 11時から「遺書、拝読」第57回にとりかかり、3枚まで書いて13時に切り上げ、シャワーを浴びて品川へ。こだまに乗って『ボヴァリー夫人』を熟読しながら三島に着き、タクシーで長泉山荘へ。同室のI本と、日経BPのM橋さんとともに早々に露天風呂に入り、ヒグラシの啼き声を耳にして感激。それから浴衣に着替えて宴会落語会に参加する。今回の演者は、『赤めだか』で講談社エッセイ賞の受賞が決まったばかりの立川談春師匠。
 根多は「妾馬」。がらっぱちで情に厚い八五郎は師匠の得意とするところだけに、すでに十八番(おはこ)の感すら漂う。会に集まった老若男女は古典の醍醐味を満喫してひとまず散会し、19時に再び集まって宴会。ただし、座敷での宴会とはいえテーブル席を並べた形式とあって、温泉宿にありがちな猥雑感もなく、おとなしい飲食の場となった(とはいえ、おれの周りはおれとI田さんのせいでうるさかった)。そして、二次会のカラオケに集まった有志は弾けたように盛り上がり、23時半まで盛り上がる。ソニーマーケティングのH平さん、BE-PAL編集長のS井さんの小学校同級生コンビ、歌上手し。途中、師匠といろいろ話を交わし、その合間に場をにぎわす歌を披露して部屋へ戻る。
 1時半、酒精と睡魔と喧噪に浸食されつつあっさり就寝。
7月18日 (金) 互いの鱗
 昨夜、ソウルから届いた韓国海苔を手渡すためにちょこっと顔をだした「あら喜」で、「長薗さん、ちょっと先取りする?」とT夫くんに勧められるまま秋刀魚を食べた。備長炭で焼いたその秋刀魚は釧路沖産で、先取りのわりには大きく、身もしっかりしていた。「ワタが旨いよ」と囁くT夫くん。そこでぱくっと食べてみると、透んだ甘みが口の中にひろがった。上品な珍味とでも呼べばいいののだろうか、「どうしてこんな味がするの」と尋ねると、「この時期の秋刀魚は互いの鱗を食ってないから」とのこと。つまり、オンシーズンの秋刀魚はまとめて捕獲される際に、網の中でもみくちゃになって他の剥がれた鱗を口に入れてしまい、それがワタに溜まってしまうらしい。その結果、あの独特のえぐみをもったワタの味になってしまうのだ。
 そんな会話の後、当然のように日本の漁業について話をした。答えはない。たいしたアイデアも出ない。出ないまま帰途についたのだった。

 そして本日、14時に予約していた「vi-ta」で髪を切った。真夏に抗するためにバッサリ短くした。頭がはっきりと軽くなった。
7月17日 (木) 二憂一喜
 東名高速道路でバスジャックもどきをしでかした少年の地元、山口県宇部市で学校や保育園に飛来訪問をしていたタッカ君が死んだ。人工授精で誕生した奇妙な神もどきのペリカン。いつか対面してみたいと思っていただけに冥福を祈った。と、その直後、野茂英雄の現役引退を速報で知った。覚悟はできていたが、やはり惜しい気持ちが湧きあがった。本人にとっては惜別に違いない。
 二憂をあじわう夕方となった。
 そう思って引き続きテレビニュースを見ていたら、40代前半と偽って結婚詐欺をはたらいた69歳の女の初公判について報道があった。女は我が老母(75歳)と何ら変わらぬ風情でうつむいていた。化粧していたとはいえ、この女の言葉を信じた49歳の男は、いったい何をもって信じるにいたったのか。強烈な下世話な興味が高まり、いろいろ想像してニコニコしてしまった。49歳のまじめな男ならではの判断。金銭の問題さえなければ、彼はきっと幸福だったのだろう。過ぎたるは及ばざるが如し。
 一喜。
7月16日 (水) 玉三郎の鏡花
 手紙を書き、銀行に振り込みに行くついでにポストに投函して帰ってきただけで汗びっしょりになってシャワーを浴び、小一時間創作をして歌舞伎座へ。
 七月大歌舞伎夜の部は『夜叉ヶ池』と『高野聖』。つまり、どちらも泉鏡花作品を題材にしているのだが、演出に玉三郎が加わることで、怪しくも艶やかな舞台にしあがっていた。例えば、『夜叉ヶ池』で百合を演じた春猿はすでに役を我がものにした感すら漂わせ、玉三郎とはまた違う妖艶を放っていた。
 しかし、鏡花といえば何と言っても玉三郎なのだ。海老蔵演じる聖を相手に女の色香と肉の魅惑を放出してみせるその姿と所作の流れは、やはり只者ではない。男と女、夢と現、人と魑魅魍魎、朝と夜、……対立するべきそれら二項の境に生きる希有な生きもののような玉三郎。男の劣情を操り、獣や小動物に化してしまう魔性の女を演じさせたら、追随を許さぬ存在感を示してしまうのだ。恐い怖い。
 作品としては、最後の親仁の一人語りが長すぎると感じた。そこまでの完成度(川淵でのセクシャリティーの演出、抑制のきいた海老蔵の僧姿、尾上右近演じる白痴の歌の意外性など)が見事なだけに、蛇足の感すら抱かされた。説明されて芝居が終わっては、そこまで見入った客は白けてしまう。だから、そこは半分ぐらいの長さでとどめ、聖の今後にさらに控える煩悩の気配で舞台全体を覆って終わればよかった、と勝手に演出を考えながら劇場を後にした。
 歌舞伎座の正面出口で空を見上げたら、突然、小雨が降り出した。
7月15日 (火) さやかの余韻
 芥川賞を受賞した楊逸(ヤンイー)さん。彼女の顔写真を初めて見たのは文學界新人賞を受賞した時だったが、その白黒写真が青木さやかに酷似していてびっくりした。ひょっとしたら青木さやかが中国人に似せたペンネームで小説を書いたのか、とも一瞬想像したりしたが、その作品の冒頭を読んで正気にもどった。そして間もなく、村上春樹さんの『中国行きのスロウ・ボード』を25年ぶりに読みはじめた。
7月14日 (月) 自分で決めた最期
 暑い。仕事部屋のエアコンは、やはり機能不全のまま立ち直る気配すらみせない。近所にできたエアコン専門店で新しいのを購入するしかなさそうだ。
 ところで先週からはじまっている朝日新聞夕刊の「人脈記」、”笑う門には福でっせ”シリーズが面白い。小米朝師匠にお会いした金曜日、夜中に帰宅してみたら彼も写真付きで紹介されていて、思わぬ偶然に驚いた。本日は枝雀だった。米朝に弟子入りした彼が目指した笑いとは何だったか、という問いを柱に、未亡人の証言を参考にしてその解に迫っていた。
「落語をしている自分が大好きな人でした。B型肝炎と糖尿病をわずらい、高血圧もあり、頭は回っても体がついてこなかった。自分で決めた最期で良かったと思わないと失礼です」
 弟子の南光や落語作家の小佐田氏のコメントも紹介して記事は終わっていたが、余韻と刺激は残った。と同時に、枝雀の自殺を知ったときの、呆然とした黒い哀しみがまたひょろひょろと煙をあげて胸のうちを怪しくした。「鴻池の犬」をビデオで聴いて笑った。
7月13日 (日) 変な癖
 7時起床。顔を洗って即、仕事部屋のベランダにある紫陽花の剪定をやり、それから散歩。下駄履きでぷらぷら歩き、汗びっしょりになって戻り、シャワーを浴びて脱力。そのまま終日過ごす。ウータ、昼食後、その場でコロ、コロっと脱糞。変な癖がついてしまった。
7月12日 (土) ワキガアマイ
 山本モナという女性は、今回の二岡ジャイアンツ選手会長との件でちょっとした歴史を残したと思っている。それはメディアにまつわるトラブル史とか、男女のスキャンダル史といった類ではなく、女性史のエポックとして語り継がれるものだ。その際のキーワードは、「腋(わき)」である。
 彼女は、呆れるほどに腋があまい。
 しかし、そもそもこの表現は男に対して使われてきた慣用句であり、男社会を前提とした警句だ。出世や世評を気にする男たちへの戒めとして、男同士がこのフレーズを投げあってきた。それなのに、今や山本モナを上回る「腋があまい」男はそうそういない。無論、パパラッチに代表されるマスコミへの対策として腋をしめているのだが、モナは違った。彼女は「サキヨミ」のキャスターに決まった頃から自分が週刊誌に狙われていることを知りつつ、初回終了後に馴じみのゲイバーへ行ってしまったのだ。
 おれはこの腋のあまさにほれぼれしている。ここまで男女の行動の均一化が進んだのだな、と感じ入ったのだ。「ワキアマ女」なんて言葉が流行るかも。まあ、今回の件も含め、彼女は報道する側ではなく、やはり取材される側がよくにあう。今週の「週刊文春」のグラビアも良かった。腋のあまさはすでに匂っていた。
 こうなったら山本モナさん、長い謹慎生活を活用してじっくり女性史を勉強したらどうだろうか。海外への留学も視野に入れて4、5年じっくりやり、本格的な著作物をもって公に復帰するのがいいと思うのだけど。
7月11日 (金) 青山、水道橋、銀座
 14時、青山円形劇場へ行き、高泉淳子さんが6年ぶりに書き下ろした新作、『Over the Rainbow アリス的不完全穴ぼこ堕落論』を観る。遊◎機械/全自動シアターが解散してから初めての高泉さんの作品で、記憶と言葉の関係を散りばめつつ、音楽劇、朗読劇、パントマイムなどの要素を織りまぜながら、型にはまることを神経症的なまでに拒絶しているような内容だった。それは、おそらく、型から離れたところにあることで永遠の魅力を獲得している「アリス」へのオマージュでもあろう。少女、妙齢の女、老婆を完璧に演じ分けてみせた高泉さんの姿とともにいくつかの言葉が残った。終演後、桂米朝事務所のO島さんに声をかけられ、桂小米朝師匠を紹介される。襲名を控えた小米朝さん、かなり緊張していた。
 高泉さんのマネージャーであり、今回の作品の制作を担当したN村さん(彼女は、おれの名古屋時代の最初のアシスタント)に楽屋に案内されるが、次があるので失礼し、降り出した雨の中、タクシーで一度帰宅。シャワーを浴びて服を着替え、今度は東京ドームへ。位田さんとバックネット裏で巨人VS横浜を観戦。本来であれば二岡の一軍復帰戦となったはずだが、例のアノ件で流れてしまい、その分、降格候補の選手たち(寺内、岩館)が大活躍。彼等にすればモナ様々なのだった。
 途中、観戦に来ていた宇宙飛行士5人がドーム内に紹介され、席を立った野口さんがすぐ近くにいたので握手をした。彼は来年、6ヶ月間も宇宙船に滞在するらしい。それ、かなり凄いことだよなと感心する。その後、6回終了時点でドームを後にして銀座へ行き、「ひら井」で食事をとり、次の店でカラオケを歌い、最後は「まり花」で仕上げる。そして3時過ぎ、Y子ママと吉野屋で牛丼を喰らってから帰った。
7月10日 (木) 不馴れな晩酌
 4時、起床。午前中、単行本一冊と短篇二編を読む。午後、"over the book"第17回を書く。18時半に脱稿し、編集部に送信。さあ飲みに行こうかと準備をはじめるも、ふと気がかわり、自宅で晩酌。不馴れな手酌に苦笑、微苦笑。枝豆、ほっけ。そしてハンバーグ。『ボヴァリー夫人』を読みながら早々睡。(体言止めの連発は夏バテの予兆、か?)
7月9日 (水) 人類は、実は進歩なんてしないのだ
 戦争はアメリカの重要な産業であり、景気回復の起爆剤として経済界からも期待されている。しかも中間選挙を控えたブッシュ大統領はテロ撲滅の御旗の下、わかりやすいリーダーシップを発揮することに躍起になっている。だからフランスやロシアや中国が売りさばいた武器で身構えるイラクを、満を持してアメリカが破壊するだろう。
 絶望的なこの構造は、あの同時多発テロを誘発した元凶でもある。そして実際にイラク攻撃が起きれば、キリスト教対イスラム教の様相が鮮明になるだろう。無論、日本には、京都議定書を批准することなく二酸化炭素を排出し続けるアメリカを止めることはできない。それどころか、何らかの協力を提供すると予見した方がよい。それは安全保障の見地からではなく、実質的には、アメリカ市場の確保という経済的な理由からだ。アメリカの制裁を恐れて、日本はまた戦闘支援業務に就くのだ。だから、もしもアメリカ追随を脱したいならば、日本はさらなる不況を覚悟しなければならないことになる。いわば、加速度的な没落の覚悟を国民が持ち得るか、だ。
 ……無理だよな、と私は諦めている。さらにいえば、地球の温暖化も止まらないと覚悟し、積極的に絶望している。願わくば、アメリカにさらなる異常気象が多発することだ。戦争に打開策を求めるほど行き詰まった先進国の経済システムを、根底から改めさせるきっかけは、もはや異常気象の恒常化しかないと考えるからだ。
 地球の温暖化は、おそらく、自然からの最後の警鐘なのだろう。無視すれば、人類はきっと滅びる。近代化の恩恵に浴してきた私はそれでも構わないが、その原因に加担していない人が先に死ぬことは、やはりあってはならない。
                           二〇〇二年 夏

 ここに紹介したのは、拙著『きょうも命日』(中公新書ラクレ)にあるコラムの抜粋だ。洞爺湖サミットの共同宣言の内容を知ってふと読み返してみたが、 流れは変わりませんな。今、最も不幸な格差は、貧しいところほど異常気象の被害を被っているという現実だ。サミットに参加する国には資金と技術力があるから、被害対策も向上してその損害を最小限化できるだろう。だが、産業革命以降、覇権主義をとってきた国々に搾取されてきた地域や国は、今世紀になっても本質的には同じ時代を生きていることになる。
 ecoエコエコって流行りの呪文なような言葉が姦(かしま)しい昨今ですが、本音でいえば、サミット参加国間で戦争した方が人類全体のためにはいいのかもしれない、とさえ思った次第。人類は、実は進歩なんてしないのだ。
7月8日 (火) オモロー!!
 未明に起き出し、早朝からちょっと長い手紙を書く。極太万年筆で息を殺しつつ仕上げ、それからo野くんに電話をし、19日にテニスができなくなったことを詫びる。
 夕方、ぱらつく雨の中、赤坂へ。5月末で某社社長を辞めたO野さんと「湊」で落ちあい、およそ5年ぶりの再会を祝して乾杯。旬の魚を刺身でいただき、ホワイトアスパラなどの野菜もつまみながら近況話を中心に語りあう。生ビールを2杯飲んで「吉兆宝山」のロックに移ったあたりでO野さん、見事に酔っぱらってさらに勢いづき、こちらもヒートアップして喋りまくる。気がつけば23時、乾杯したのが18時だったから、5時間も間断なく話し合い、飲み続けたと知る。焼酎のボトルは2本、空になっていた。慌ててO野さんが買ってきてくれた『あたらしい図鑑』にサインする。
「長薗、ロック行こうぜ!」
 この一言で六本木に移動し、ライブハウス「B・B・A」へ。この店に入るのは2度目だが、前回もO野さんと二人だったことを思い出す。ザ・フーの曲をリクエストし、おもむろに始まった演奏を至近距離で堪能。オーナーが演奏するギターはもとより、ドラムス、ベースの激音に痺れる。狭いライブハウスならではの迫力で、ついつい体が動いてしまった。演奏が終わった後、イケメンのベーシストY本くんといろいろ話す。1978年生まれの彼は30代に突入していろいろ悩んでいるらしいが、その近くではこの年末に50歳になるO野さんが見事なエロ親爺になっていた。人生の凝縮、ああオモロー!
 Y本くんに自主制作のCDを贈られ、2時に店を後にする。O野さんは酔っぱらって揺れながら、自ら店に残った。自宅に向かうタクシーの中、頬が弛んでしょうがなかった。生きていれば、どうしたってチンカスが溜まっていくのだ。
7月7日 (月) マッケンローが懐かしい
 ウィンブルトン男子シングル決勝、フェデラーVSナダル戦を最初から最後まで観た。すべて観るつもりなどまったくなかったのだが、試合内容のあまりの素晴らしさに引きずられてしまった。史上最長の4時間48分。芝の帝王とクレーの帝王の戦いとも称されたが、その表現に違わぬハイレベルの戦いは、二度の雨による中断をはさんでも緩むことがなかった。
 貴賓席にはボルグとマッケンローがいた。1981年の決勝を戦った二人だが、おれはその試合もテレビで観ていた。あの時も挑戦者であるマッケンローが勝ち、ボルグの6連覇を阻んだ。今でもすぐに思い出させるほど興奮した戦いだった。でも、今回の二人はどちらも寡黙にプレーにしていて、それだけに会場を覆う緊張の度合いが高かった。
 マッケンローのやんちゃなテニスが懐かしい。

 ところで7月7日は「素麺の日」なので、昼過ぎ、素麺を食べながら素麺の歴史についてあれこれ読んでみた。素麺はもともと「索麺」で、「素」はあて字らしい。さらに中国の食物史にまで遡れば「索餅」が起源とあった。……また、どうでもいい知識を脳に刻んでしまった。
7月6日 (日) ハイスミス
 ここ数日、パトリシア・ハイスミスばかり読んでいる。長編、短編の区分なく、つくづく凄い作家だと感心する。彼女は13年前に亡くなっているが、生きていることの不思議にどこか「絶対的な不安」をかかえた人物ではなかったか、と想像する。その視点から描かれると、瑣末な日常でさえ違う側面をこちらに見せる。それらが版ズレのような効果をあげて読者を混乱させ、居心地を不安なものにし、いつしか作中の人物への親和性を高める。その人物がたとえ変質的な男だとしても、だ。「(生きていることの)絶対的な不安」は誰にでもあるから、立場も時代も選ばない。したがって、彼女の作品はいつ読んでも古く感じることがない。
7月5日 (土)
 10時に函館から毛蟹が届く。6年前、『祝福』の第一稿を書き終えて宅配便で送り、その足で気分転換に向かった彼の地で知り合った業者から、毎年この時期に送ってもらっている。
 夜、ひたすら蟹と向きあった。ところで『蟹工船』がブームらしいが、あれは、小林多喜二の悲惨な獄死があればこそ光彩を放つ作品だと思う。中学3年生のころに読んだが、読み返す気はまったくおきない。
7月4日 (金) 彼の再チャレンジ
 最近、安倍前首相が妙に政治ニュースに登場してくる。日本の宰相史のなかでも1、2を競う無惨な退陣をした人物だが、それだけに、自説の「再チャレンジ」を実践してみせているのかもしれない。なんてことを、ふと思った。彼の場合、問題はやはり体力体調だろうな。ふっくらしてもそれが浮腫(むくみ)にしか見えず、50代前半にして老残の臭気がついてまわっている。若返りが国際的な基準となっている政治の世界では、それは、かなりの致命的な弱点である。…………、さあスクワットだ。
7月3日 (木) 直肌にウータ
 ウータが怪我をして1週間がたった。やや後肢にぎこちなさが残っているが、その動きはほぼ平常にもどった。その証として、ソファで横臥書見をしているおれの股間に飛び乗ってきてみせた。
 おれの左の太もも内側に両前脚を突っ立てて姿勢をととのえ、腰を股間にそうように丸めて尻をつき、側頭部を太ももにのせて目を閉じる。そして鼻息をもらしながら眠りに落ちていくその習慣が、いとおしい。久しぶりにウータの頭の温もりを直肌に感じながら本を読みつづけた。
7月2日 (水) 相対性の残酷
 せっせとカリキュラム作りをやっているところに関さんから電話が入り、21時過ぎ、銀座へ向かう。「青風倶楽部」で位田さんと関さんコンビに合流し、東京ドーム帰りの彼らから巨人の逆転劇を聴かされながらスコッチを飲み続ける。御歳71になった位田さんは後部座席のシートベルト義務化をきっかけに車での帰宅を嫌うようになり、この日も終電で藤沢へ。残った2人で理佐ママとともに話を続け、1時半、店を出る。早朝会議を控える関さんを見送ってから「D・ハートマン」へ顔を出し、引き続きスコッチを一杯飲んだところで水田店長に誘われ、系列の「ペントハウス」へ移る。4年ぶりぐらいに訪ねた同店では、22、3歳の頃から知っている高橋店長が待っていて旧交を確かめあう。ああ、高橋が32歳か。こっちが老けるわけだよな。
 相対性の残酷。
 酔狂がピークを打ったと察したあたりで店を後にし、水田くんと吉野屋の牛丼(生卵つき)を喰らって帰った。滅多に飲まないから、飲めば決まって飲み過ぎる。
7月1日 (火)
 終日、資料本を読み漁る。
6月30日 (月) 自滅か、自暴か
 今年も半分が過ぎ去った、ということで我が身を振り返れば、まあよくもこれだけ暢気に暮らせるもんだとあきれてしまう。サラリーマンを退職する前の有給休暇消化期間(3ヶ月)を倍やってしまった感覚だ。
 生来の怠け者だから放っておいたら後半も似たようなもんになるのは自明で、だからもう少し自分に負荷をかけなければと思う。ならば、懸案の仕事場を借りて賃料負担を発生させれば、少しは改善されるのではと愚脳で考え、南北線沿いの某所にしぼってネット探索。候補、あがる。さて、どうする。怠惰な自滅か、行ってこいの自暴か。
 
 とりあえずは机の前へ。
6月29日 (日) ゆっくりよくなれ
 ウータの怪我は回復期にはいったようで、引きずる脚の動きも小さくなってきた。だけど、まだソファやベッドに飛び乗ることはできず、左右の前脚をついて二度息を吸い込んですっとあきらめ、その場から去っていく。そんなシャボン玉のような哀愁が部屋の中にちょっとずつ溜まっていき、息がつまると窓をあけてベランダへ逃げ、降り続ける雨を背に、ずいぶん遅れて後をついてきたウータをなでまわす。「大丈夫だからな、ゆっくりよくなれ」
 昼、「笑いがいちばん」(NHK)で談春師匠の落語を聴く。テレビには不向きな「桑名舟」をやってみせるあたり、やさぐれ談春の真骨頂。なんせ講談が重要な要素となっているのだから、若い女の子らが占めるスタジオがどんな様子だったか。しかも、司会の正蔵にはとうていできっこない根多だけに、二人の間の関係を思うと苦笑するしかなかった。
 そんな哀切と皮肉がまじりあう部屋で、終日、カリキュラム作成のための資料本を読み続ける。なんだかいつの間にか勉強しちゃったな。
6月28日 (土) 祝祭
 18時、祝祭に参加するような思いで「立川談志・談春親子会 in 歌舞伎座」へかけつける。1階9列18番、つまり舞台の高さにちょうど目があう中央部の通路側という絶好の席で二人の登場を待っていると、18時8分、正装した二人が並んで舞台にせりあがってきた。頬を紅潮させた談春がまず挨拶をし、次に語りはじめた家元の声は、予想以上に割れていた。とても落語を演れる声ではない。それどころか、座っているだけでも実は精一杯といった気配が色濃く出ていた。
 そんなときにおれの右斜め前の席に一組の老夫婦が現れた。女性はかなり小柄だったが、男性の方は大きかった。紺色のスーツを身にまとい、エナメルの靴を履いたその男性は、悪びれることなく席に腰をおろす際、舞台上の家元に手を振った。無礼な関係者かと訝りつつよく見れば、その人は都知事だった。直後、おれの後ろから心地よい笑い声が聞こえてきた。松尾貴史さんだった。口上と最初の噺の合間に周囲をうかがってみると、斜め後ろに酒井順子さんがいた。二つの席をはさんだ左側には、名前を忘れた女性評論家。
 落語は談春の「慶安太平記」ではじまり、その後、花道から家元が登場した。家元は体調の不調を訴えつつ小咄に徹してみせたが、客側が必死で聴き耳を立ててやっと内容が理解できるといったものだった。とはいえ、家元の体調が真に危険とわかるので、次第にその凄みのようなものに包まれてしまい、今ここで彼の噺を聴いていられることに納得した。
「談志、最高!」
 都知事が大声をあげてみせた。家元が照れくさそうに失笑した。仲入り後、談春はまくらもなくいきなり「芝浜」をはじめ、会場の大きさに配慮したと思われる長い間を駆使して、家元の得意の根多を演じきった。
 それにしても、この日は知っている人にたくさん会った。山藤章二さん、坪内祐三さん、松田哲夫さん、「新潮」の矢野編集長、もちろんズンズン調査隊の堀井憲一郎さん……そして、落語仲間のRさんらのグループも。劇場の正面では、柳美里さんとも数年ぶりに会って握手を交わしながら近況を話した。
 その後は、Rさんらと「正泰苑」の個室で焼き肉を食って真露を飲んで歓談し、来月の落語会(談春師匠との温泉ツアー)での再会を約束して別れ、一人で「D・ハートマン」に行ってストラスアイラのロックを一杯だけ飲んで水田店長と麻布十番に流れ、居酒屋で芋焼酎を飲んでから歩いて帰った。
6月27日 (金) 雨が降れば
 行動範囲が限られるウータを見守りながら終日書見。『皇室へのソボクなギモン』(辛酸なめ子、竹田恒泰 扶桑社)から始まり、『ラブラドール・和田ラヂオ』(和田ラヂオ 集英社)、中条省平さんの2冊、丸山健二さんの初期作品をちょっこり読んではウータをながめ、また読み進めていって夜を迎えた。ウータはいつしか、行動パターンだけは以前のそれに戻りつつあったが、左の後脚はやはりカックン、カックンとなっている。それでもこの太っちょ猫はその脚を引きずってこちらに近づき、額を足下になでつけ、横臥しようとする。何もしてやれないこちらは、だから、彼が寝息をたてるまで大きな体をなでてやるしかない。
 猫が動かない静かな金曜日。雨が降ればよかったのに。
6月26日 (木) ウータに添い寝
 15時半、小雨の下、傘をさしてキャリーバッグに収まったウータを病院まで運ぶ。病院へ着いて診察台に降りたウータ、やたらと鳴いて落ち着きがない。いつもは人見知りしないのどかな猫で知られているだけに、それだけで不憫でならない。
 担当医はまず体温を計った。39.2度。彼は「平熱、問題なし」と断言したが、ウータの平熱は38.7度だ。こちらが訝る中、彼はウータを床に降ろすよう助手の兄ちゃんに指示し、左の後脚をカクンカクンとひきずって歩くウータを見て「大丈夫」とまた断言。
「何が?」
「骨は折れてませんね」
 そんなことはわかっている。こちらが知りたいのは異変の原因なのだ。
「脱臼でもないと思いますから、この段階では痛み止めの注射はうたずに一両日ぐらい様子をみましょう」
「レントゲンは?」
「痺れているだけかもしれませんからね」担当医は笑った。「それよりも、ぼくが心配なのはウータくんの体重です」
 この日のウータの体重は、8.04kgだった。このペースで肥ると、人間同様、血栓ができやすくなって心筋梗塞をおこしかねないとのこと。ついには食事のあげ方を指南され、いつしかウータの診察は終わっていた。
 あいかわらずそぼ降る雨の下、ウータを担いで帰った。家に戻ったウータは脚をひきずってとぼとぼ移動し、普段は決していくことないキッチンの片隅で身を丸め、不安そうな目であたりをうかがうばかり。その姿に気持ちがすべて吸い寄せられ、ウータが眠るまで添い寝をして過ごした。
6月25日 (水) ウータに異変
 前日を複写したような一日を送っていたのだが、深夜、ちょっとした書き物をしていたら、寝室に移ったはずのウータが突然変な走り方でリビングに戻ってきた。そのまま椅子の下に身を潜めて動かない。足音がする直前に衝突音が響いたから、きっとどこかにぶつかったのだろう。「どうした?」と声をかけても微動だにしないので放っておいたら、しばらくして左の後脚を引きずりながら歩き出した。しかも、それまでいた場所には糞が。さらには、移動した窓際でまた脱糞するにいたって彼が大いなるショックを受けていると認め、糞を片づけてから引きずる脚に触れてみると、か細く鳴き声をあげた。
 2時過ぎに動物救急病院に電話をして状況を伝えると、自分で少しでも動けるなら骨折ではないだろう、とのこと。ただショック状態にあるのは間違いないので、ひと晩様子を見てみるように指示を受ける。それから朝6時までウータを看守る。ウータ、不安そうに怯えた眼差しでこちらをうかがいつつ肥満体を横たえたまま朝を迎え、おれがそっと左の後脚にさわると消え入るような声をあげて拒む。なす術なく、ごろんと添い寝。不意に目を開けてみると、ウータは起きていた。
 明日、病院へ行こう。
6月24日 (火) ただ沈む
 「遺書、拝読」のゲラ戻しの他は無為。ほとんど動かず、ただ沈む。ウータが側から離れない。
6月23日 (月) 書店まわり、後は酒
 14時半、グランドプリンスホテル高輪へ行って『あたらしい図鑑』の取材を受け、終了後、品川から山手線に乗って代々木へ。担当のT田さんとともに紀伊國屋新宿南口店の展示(二面展開)を見学。それから三越にあるジュンク堂新宿店にうかがい、担当のK森さんにご挨拶をする。この日さらに30部追加してくださったらしく、手作りのにぎやかな展示に感謝する。隣は森絵都さんの新刊だった。
 その後は新宿三丁目にある「鼎」で食事。生ビールで乾杯後、立山を飲みつつ、鮎の塩焼き、大根のあら煮、〆鯖、穴子などを喰らい、発売一週間の反響についていろいろ話を聞く。発売告知や宣伝のない状況下だけに、これからどんな動きになるか、淡々と見守るしかないよな。
 散会後タクシーで麻布まで帰り、「あら喜」で土曜日のお礼をして帰宅。汗ぐっしょりの一日だった。