戻る - 参加 

酔狂記

3月26日 (金) 道らしきもの
 都合のいい革命。次の作品の展開を考えていてふとそんなフレーズが浮かび、ある時期のある状況下にあった過去の自分の願望を総括してみる。柔らかながら屈強そうな植物群に覆われた丘に、少しだけ道らしきものが見え、その変化にすがるように言葉を置いてみる。実際に歩いているかのような感覚が足裏に広がるから不思議、おそるおそるの前進がつづく。
 午後、いしいしんじ君の新刊『熊にみえて熊じゃない』(マガジンハウス)が届く。「クロワッサン」に連載していたエッセイをまとめたものらしいが、ぱらぱらと読みはじめて結局、全部読んでしまった。最も感心した文章は、10余年前のおれが〈写真にくわしい年上の編集者〉として登場する「七人目のディラン」ではなく、動物園という存在を鮮やかに考察してみせた「無意識の鼻」。いしいの明晰が光っていた。
3月25日 (木) 肝心なこと
 『遠雷』の中で、「いいわよ、肝心のことだけ嘘つかなければ」と満夫に語った婚約者あや子は正しい。他人と暮らしていく際の、しかも夫婦としていつまで続くか知れない時間を過ごしていく上で心がけるべき要点は、この一言に集約されているように思う。問題は、だから、何を互いの「肝心なこと」と定めるか、だ。ここがずれれば話はこんがらがる。嘘と真実の区分が意味をもたなくなる。結果、離別を余儀なくされる。ってことは、「肝心なこと」を共有できる相手がパートナーにふさわしい、ということになる。そして、結局は共同体や個人の価値観云々の話となっていき、太古から語られ書かれてきた恋愛物語の新作がまたぞろ世に送り出される。
3月24日 (水) 快い違和感
 夕方まで「遺書、拝読」。『遠雷』にこめられた黙示にふれたところで書き終え、推敲後、送信。それから入浴して着替え、19時過ぎ、タクシーで御茶の水へ。「レモン」なる気さくなイタリアン・レストランで理論社のY本さんに会い、『最後の七月』の装幀案を見せてもらう。これまでのおれの本とはまったく違うデザインに目をうばわれ、ほどなく頬がゆるむ。装画を担当された方が作品を読みこんでくださったのは、絵を見てすぐにわかった。デザイナーの絵の扱いも大胆で、快い違和感を味わった。いい感じ。仕上がりが愉しみだ。
 その後は、10日後にせまった諏訪大社のお祭りについていろいろ話しながら食事をして散会。Y本さんを見送って一人銀座に流れようかとも思ったが、あまりに寒くて気持ちが萎え、神保町の駅まで歩けずにタクシーに逃げこんだ。
3月23日 (火) いい小説
 『最後の七月』のゲラ校正を終えて発送の手続きをすませ、一息ついて「遺書、拝読」。立松和平さんの『遠雷』を取り上げる。30年ぶりに再読したけど、やっぱり”いい小説”でありました。
3月22日 (月) 朱入れ
 終日、『最後の七月』のゲラ読み、朱入れ。
3月21日 (日) 等伯を観る
 必ず行こうと決めていた長谷川等伯展を観るため、15時過ぎに上野の東京国立博物館へ。上野東照宮に参拝してから30分並んで入館し、じっくり鑑賞。「禅宗祖師図襖」と「枯木猿猴図」と「仏涅槃図」に唸る。立派な図録と猿猴をデザインしたTシャツを買って外に出、アメ横を歩いて行きつけのしゃぶしゃぶ屋でがっつり食べ、舟屋の芋羊羹を買って御徒町から帰る。帰宅後は来月末に出る『最後の七月』(理論社)の再々ゲラを読み、「遺書、拝読」用のメモを整理して松林睡。
3月20日 (土) 城とツバキ
 熟睡。目を醒ましたら7時半だった。さくっと朝食をとり、9時過ぎに実家を出て最寄りの共和駅へ。ここで伊賀上野駅までの乗車券を買ってホームに降り、名古屋で34年ぶりに関西本線に乗りこむ。小学3年生の夏、初めて奈良に行った記憶をたどりながら亀山駅で一度降り、駅前の老夫婦が営む食堂で昼食をとって十分後、乗り継いで伊賀上野へ向かう。昔は乗り継ぎなしで奈良まで行けたのに、としんみりしつつ伊賀上野駅から伊賀鉄道に乗って次の上野市駅で降り、伊賀上野城に登る。9歳の時に抱いた「いつかあの城へ行ってみたい」という願いを叶え、芭蕉翁記念館を訪ねる。この地は芭蕉の生誕地であり、芭蕉忍者説のそれらしい根拠にもなっている。
 狭い館内を数分で巡って城を後にし、市駅前からタクシーに乗って伊賀一の宮、敢國神社へ。南宮山の麓、斜面を活かした社殿の配置が快い。勾配のきつい道を登って摂社にも詣り、待っていてもらったタクシーに乗って関西本線、佐那具駅。一時間に一本の電車に乗り、20度を超えた気温にあへあへいいながら再び亀山駅で降ろされる。別に行きたいところもなく、またも駅前の近所の方々しかいない喫茶店でコーヒーを飲んで時間をつぶし、下車から小一時間後、乗り継ぎ車輛に座って河原田駅。伊勢線も乗り入れているにもかかわらず、見事な無人駅。途方にくれて駅前に一軒だけある萬屋を覗くと、タクシー会社の電話番号を記した紙が貼ってあり、すぐに電話をかけて来てもらう。そして「ツバキジンジャへ」と行き先を伝え、運転手がうなずくのを確認して一息ついたところ、車が遠くに見える鈴鹿山系を目指しているのではと疑念がわき、「ひょとして運転手さん、椿大神社へ行こうとしていませんか?」と確かめる。
「はい」と生真面目そうな初老の運転手。
「いやいや、同じツバキでも、都(みやこ)に波(なみ)に岐阜の岐と書く、都波岐神社に行きたいんです」
「………」
「わかりませんか」
「聞いたことないですね」
 ここからおれは、初めて訪ねた土地でナビゲーター役を担い、どうにか目的地へと車を誘った。二社ある伊勢一の宮のひとつ、都波岐神社は、河原田駅から5分の住宅街に鎮座していた。「勉強になりました」と運転手に礼をいわれて駅に戻り、汗だくのまま電車に乗って名古屋。のぞみに乗って缶ビールを空けて間もなく眠りに落ち、目を醒ましたら新横浜だった。
3月19日 (金) 喜寿を祝う名古屋行
 3時に起き出し、顔を洗っただけで「週刊朝日」の"愛される理由"を書きはじめる。6時半に脱稿して推敲、編集部に送信後シャワーを浴びて着替え、品川へ。母の喜寿を祝うため名古屋に到着するも、会食開始までたっぷり時間があるので一宮市に向かい、尾張一の宮の大神神社と真清田(ますみだ)神社に参拝。名古屋にもどって開府400年を迎えた名古屋城に足を運び、初めて天守閣に登る。名古屋にいた頃は眺めるばかりで、名城公園で花見をしては酔っぱらって痴態をさらしていた。そんな四半世紀前を思い出しながら城を出て名古屋観光ホテルに移り、最上階の部屋で母を囲んで北京料理を味わう。テーブルにはおれと母の他に姉と姪、そして、いつもうちの両親の面倒を看てくださっているK子さんご夫婦が向かい、思い出話や料理への絶賛で盛り上がる。あっという間に予定の2時間が過ぎ、1階のラウンジでコーヒーを飲んで余韻を愉しみ、中日とのオープン戦に向かうヤクルトの選手たちを見送ってホテルを後にする。そして、一人で東海道本線の下り電車に乗り、垂井にある美濃一の宮の南宮大社に参拝。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が征圧できなかった伊吹山を間近から仰いで帰途につき、19時前に実家。歩行すら難儀になっている父と一言、二言話をして夕食をとり、遅くまで母とあれこれ話す。
 両親が床についた22時にゆっくりと風呂につかり、0時過ぎ、布団にもぐってストンと寝入る。
3月18日 (木) 『遠雷』の頃
 『葬式は、要らない』(島田裕巳 幻冬舎新書)、読了。その後、映画『遠雷』をDVDで観る。これで3回目ながらやはり素晴らしいと唸る。根岸吉太郎監督の代表作であり、立松和平さんの原作を余すことなく映像化してみせている。土地と肉体の臭気が伝わってくる2次元の世界。作品がしっかりしていれば、何も新技術に頼らなくとも、脳はそれを感知する。言い換えれば、鼻をつく臭気やじっと汗ばむような湿気を感じさせる小説や映画は、それだけでたいしたものなのだ。
 映画『遠雷』の場合は、脚本(荒井晴彦)、演出だけでなく、キャスティングが絶妙。主人公・満夫はあの頃の永島敏行でなければいけなかった、ぺろりと子どもを産みそうなあや子は、やはりあの頃の石田えりでなければならなかった。また、満夫の親友である浩次も、あの頃のジョニー大倉こそがふさわしかった。カエデも、あの頃の横山リエでなければ……なんだか神業のような配置で、時間がたてばたつほど、登場人物たちと演者たちとの区分けがつきにくくなる。ちなみに「あの頃」とは1981年、各都市の郊外が今のカタチに変容する仕上げの頃である。
3月17日 (水) しっくりくる文体
 終日、川村二郎さんの著作を読む。しっくりくる文体に意識をもってかれる快さ、これを堪能する。
3月16日 (火) 年齢
 父、86回目の誕生日。もう何年も前から実家に電話をかけても彼が出ることはない。遠くなった耳のせいだ。精緻な補聴器を身につけるようになってもその態度は変わらない。今日も、電話には母が出た。母の声の先に縮んだ父の姿を思い浮かべながらしばらく話し、電話を切った。そこでテレビをつけると、23歳の沢尻エリカさんが映っていた。
3月15日 (月) 純真な軽薄
 鳩山兄弟ってのは、母親との関係をも含めて、心理学のある分野の研究対象になるに違いない。あの弟の「純真な軽薄ぶり」にはほとほとうんざりする。自己の正当化のために西郷どんと龍馬の名を持ちだすとは、いい度胸というか、自身を歴史的な存在たらしめんとする下心が露になっていて痛々しいほど滑稽だ。彼には苦言を呈してくれる友人がいないのだろうか、と思ったところで蘇るあのフレーズ、……友だちの友だちがアルカイダ。
 アルシンドは元気か?
3月14日 (日) 35年ぶりに東照宮
 前日と同じく未明より活動して朝を迎え、前日以上の好天に誘われてえいやっと日光へ。
 途中、宇都宮駅から歩いて下野一の宮、二荒山(ふたあらやま)神社に参拝。宮参りに訪れた人々で賑わう中、蕪村の句碑とじっくり向きあって駅に戻り、手動ドアのJR日光線に乗る。終点、大正天皇縁の日光駅で少し時間をつぶし、タクシーで東照宮。大鳥居近くの店で湯葉蕎麦を喰らって腹ごしらえをして再び参道にもどる。ふと思えば中学生時の修学旅行以来の参拝で、多くの観光客にまぎれて進みながら、三猿をはじめとする彫物や絢爛たる建造物をしみじみ味わう。そして、35年前には訪ねた記憶のない奥宮まで長い石段を上り、陽光と杉花粉が降りそそぐ家康の宝塔の回りを一周して下り、眠り猫を撮影してから鳴龍でおなじみの輪王寺薬師堂。僧侶が手を叩くたびに反響する龍の嘆き声を聞きながら外に出、表門脇からもう一つの下野一の宮、日光二荒山(ふたらさん)神社へ。
 銅鳥居から境内に入り、二代将軍・秀忠造営といわれる八棟造りの本殿に参拝。さて神苑へとそちらに近づくと、なんと入場料が必要とのこと。東照宮といい同社といい、これほどあれこれ金をとる神社も珍しい。気持ちがするすると萎えるまま名物らしい化灯籠や霊泉や大国殿を巡り、予定していた別宮の滝尾神社に足を運ぶことなく踵を返す。
 タクシーの車中から雪をかぶった男体山を振り返りつつ東武日光駅で降り、今度は17年前に中禅寺湖の畔のホテルでぎっくり腰をやってこの駅から寝て帰ったことを鮮やかに思いだす。なんだかな、と臨時特急電車に乗りこんですぐに缶ビールを飲み、乾きものをつまんで爆睡。起きたらもう北千住を過ぎていて、現在311mまで建設が進んだ東京ツリータワーの真横を通って浅草に到着。
 春です。
3月13日 (土) 初めての秩父
 未明から創作。
 6時に切り上げ、好天暖気にしたがって外出し、池袋から西武電車に乗って秩父へ向かう。9時すぎに西武秩父駅に到着、雪をかぶった武甲山を背に歩き、まずは秩父観音十五番札所、少林寺に参拝。寺地にある秩父事件に関する掲示板を読んで知知夫国一の宮、秩父神社へ。左甚五郎の作と伝わる「縛り龍」に声をもらして写真を撮り、脇に雪が残る道をてくてく歩いて十七番札所、定林寺。鐘を鳴らして来た道を戻り、荒川近くにある十六番、西光寺へ。住職婦人と高野山東京別院について話し、住宅街を進んで秩父霊場発祥の地、今宮神社で霊水に濡れてから十四番、今宮坊。読経する団体客を横目に参拝してまた歩き、十三番の慈眼寺で目に効くというお茶をいただいて疲れ果て、とろとろと駅に戻るとちょうど12時。仲見世通りを名乗る飲食土産物店が密集する一画の店に入り、生ビールをぐいっと飲み干してから名物とすすめられた「わらじかつ丼」を喰らう。半端なサイズのわらじに苦笑し、途中で席をたって駅に駆けこみ、25分発のレッドアロー号に飛び乗る。
 座席で一息ついてみれば、眼前に浮かぶのは武甲山の雄姿ばかり。秩父の守護山にふさわしい泰然としたその眺めは、街中で道に迷うたびに進むべき道を知らせてくれた。それにしても秩父の市中にある案内図よ、どうして南を上にして表示するのか。あれでは旅の者は混乱必死で、武甲山がなければいったいどうなっていたことか。盆地に育まれた歴史をひたひたと感じさせる佳き古都であり、全国から巡拝者を多く迎える土地だけに、ぜひ改善を願いたい。
3月12日 (金) 名前が決まらない
 次作の冒頭の場面ははっきりと浮かんでいるくせに、展開もずいぶんクリアになったのに、主人公の名前が決まらず起稿できないまま悶々と過ごす。時おり、狂犬のように壁にむかって唸る。長い息をもらして猫と睨みあう。そんなときに届いた、「週刊朝日」のI田さんが送ってくれた三国連太郎さんの『親鸞に至る道』(光文社知恵の森文庫)にぐいっと引きこまれ、つい半分ほど読んでしまう。棺桶師の祖父と差別から抜け出ようとした父の姿、そして自身の被差別体験と彷徨を赤裸々に語りつつ親鸞の魅力について説くその内容は、凡百の類似書にはない迫力に満ちている。穏やかな文体が故にかえって鬼気が匂いたつのだ。真に親鸞を必要とする人が記した本である。
 名前はまだ決まらない。
3月11日 (木)
 深い深い眠りから覚め、筒井康隆さんの『アホの壁』(新潮新書)と『ジャングルめがね』(絵/にしむらあつこ 小学館)を読む。また眠くなる。
3月10日 (水) 紀伊一の宮、巡拝
 寒気停滞、強風到来は承知の上で7時に家を出、紀伊国の一の宮巡拝へ。
 難波から南海高野線で橋本まで行き、JR和歌山線に乗り換えて笠田で降り、タクシーに飛び乗ってすぐ紀ノ川を越えどんどん雲の中に入っていく。雨が降ってきても車はまだ山道を上り、トンネルを過ぎて天野盆地に下り、緑の田畠の先に朱塗りの太鼓橋がちらっと見えてほどなく、丹生都比売(ニウツヒメ)神社に到着。山中にある古びた竜宮のたたずまいに思わず顔がゆるむ。ぱらつく氷雨の中、誰もいない境内を進んで参拝し、「神仏習合はじまりの社」(同社HPより)の証を探すも、それらしきものはなし。それでも研がれた気配がたちこめていて気持ちよく、しばし仰天。美質の人柄がぷっぷと噴き出している若い神職とあれこれ話してタクシーに戻り、山々に点在する山桜の木々を眺めながら満開の絶景を想像しつつ下山。空海が庵を編んで修行したこの地は、背後に吉野と高野がひかえる桜の名所でもあった。
 再び笠田から2輛編成の電車に乗って和歌山に出、和歌山電鐵貴志川線に乗り換えて伊太祁曽(イタキソ)へ。五十猛命(イソタケルノミコト)を祀る伊太祁曽神社はどこか仏閣の雰囲気を残してはいても、木々の神である祭神にふさわしく木(紀)にまつわる置物を多く並べていた。その代表格である木俣をくぐって災難除けをやり、常磐山の古墳にも足を運んで駅に戻って日前宮へ。この駅の間近に鎮座する日前(ヒノクマ)・国懸(クニカカス)神宮は、天岩戸に隠れた天照大神を誘い出すために作られた鏡と矛のうち、最初に製作したものを祀っている。神社の由緒によれば、それが日像鏡(ヒガタノカガミ)と日矛鏡(ヒボコノカガミ)で、そのため参道は途中で左右に分かれ、左に日像鏡を祀った日前神宮、右に日矛鏡を祀った国懸神宮がある。配置はきっちりシンメトリー、本殿も同じ国家神道流の造りだった。そんな本殿、拝殿よりも苔むして崩れかけている板葺きの摂社に感じ入り、ついに崩れてしまった社の美しい苔の前でしばらく立ち尽くす。
 高校受験を終えた中学生たちと貴志川線名物おもちゃ電車(通称おもでん)に乗って和歌山駅に戻り、特急くろしおに乗車するまでの空き時間を埋めようと和歌山城へ。天守閣まで登って和歌山の街を眺めてすぐに下り、城域内にあった和歌山県護国神社にも参拝して駅に返り、電車に乗って本日初めての食事。ついでに缶ビールを飲み、つまみのチーズちくわを食いおわったところで睡魔につかまり、新大阪で車内掃除の係員に起こされるまで爆睡。夢現のまま1分遅れのぞみに乗ってまた眠り、土産に買った南高梅片手に帰宅後、朝日新聞のアンケートを返送してテレビをつけると、鶴岡八幡宮の御神木、実朝暗殺でおなじみの大銀杏が倒れたとNHK。先々月の17日に撮った写真をしげしげと眺め、地元の方々の無念を悼みながらまた睡魔に犯される。
3月9日 (火) 奇跡の一冊
 冗談じゃねえよな、雪まで降りやがった。猫2匹で暖をとりながらリチャード・ブローディガンの未発表作品集、『エドナ・ウェブスターへの贈り物』(藤本和子/訳 ホーム社)を数十ページだけ読んで感じ入る。一気に読むのが惜しい、奇跡の一冊なのだ。だから、『天才 勝新太郎』(春日太一 文春新書)と『Twitter社会論』(津田大介 洋泉社)を読む。前者、快作。夜、しこしこと創作ノート。突破すべき闇に手をつっこんだ手応えと不安が、つのる。無論、これはいいことなのだが、これから始まるしんどい日々を思うと、正直、気が重い。さて、どこへ行くのやら。はっきりと見えてきた冒頭部の情景をしばらく凝視し、くしゃみ連発。……冗談みたいな人生だ。
3月8日 (月) くわばら
 明け方に寝たため、起きたら昼過ぎだった。寒気が停滞しているらしく、開いた桃の花がすべて縮こまっていた。震えながら『現代霊性論』(内田樹 釈徹宗 講談社)を読了し、「中央公論」最新号の池田大作・茂木健一郎の往復書簡(六信)を読む。
 二度目の手紙から「宗教と組織」について言及をはじめた茂木さんだが、深堀ができないまま三度目の手紙で早くも「脱組織」にいってしまった。龍馬の脱藩ネタを例えに大ざっぱな時代性の展望を開陳していた。彼も書簡内で指摘した池田氏、および創価学会に対する一般人の懸念がその組織化への違和感にある以上、そこ(宗教と組織について)はもっと具体的に、歴史的な事実に基づいて問うていかなければ、池田氏の理想論を開陳するだけの機会になってしまうのは必然で、実際、そうなっていた。一般人がいだく違和感は半世紀におよぶ蓄積された現実によって醸成されているのだから、こう理想論や本質論ばかり並べられても鼻白む。雑誌の企画としては評価できるが、これでは羊頭狗肉、とか、体のいい太鼓持ち企画という批判が多くでることだろう。
 くわばら。
3月7日 (日) 牛に引かれて
 寒い。『山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰』(吉野裕子 講談社学術文庫)と『黒猫/モルグ街の殺人』(ポー 小川高義・訳 光文社古典新訳文庫)を読んで日中をやり過ごし、18時から早々に『龍馬伝』(NHKハイビジョン)を観てて夕食後、「愛される理由」vol.16の原稿。日付が変わってようやく脱稿。推敲して編集部に送信し、ネットで雄山神社と立山登山について調べるうちに眠くなり、牛に引かれて牛王(ごおう)睡。
3月6日 (土) 雨月の土曜日
 天気がよければ諏訪大社に行こうとスケジュール表まで作成していたが、ぶり返した寒気で断念。となると無性に眠くなり、惰眠の合間に上田秋成の『雨月物語』を開いて「仏法僧」と「吉備津の釜」を再読。すると後者を読んで実際に吉備津神社へ行きたくなり、あれこれ関連図書を調べ、いつ行けるとも知れぬのに性懲りもなくスケジュール表を作成してしまう。まずは福山から入り、岡山へ移って日帰りで備前、備中、備後の一ノ宮四社を巡る強行軍、はたして可能だろうか? ふつふつとした闘志すら湧いてきて眠気が覚め、DVDで名作『雨月物語』(溝口健二監督 1953)を鑑賞。もう4回目だというのにまた京マチ子演じる霊女にやられてしまい、4時過ぎ、夢現のままベッドに倒れこむ。
3月5日 (金) 実は今
 18時、ようやくゲラ校正を終える。もう一校必要と判断しながら返送の手続きをとる。それから新聞社のアンケートに答え、次に某NPO法人から届いた承諾書にサインする。昨年は海城中学の入学試験に使われた『あたらしい図鑑』だが、今年は埼玉の私立中学のそれに登場したらしい。同封されていた問題を読み、みずから解いてみる。一問、不安が残った。
 2通の封書をスティック糊で閉じた直後、久しぶりに山崎努さんと電話で話す。打ち合わせを兼ねた遅まきながらの新年会について話していると電話が切れ、しばらくしてやっと通じたのだが、山崎さんの声の周辺はあきらかにざわめいていた。こちらの怪訝を察したのか、「実は今」と山崎さん。日本アカデミー賞の授賞式会場にいて、これから昨年自身が受賞した役目として助演男優賞のプレゼンテーターをするとのこと。そうか、あれからもう1年か。事情を察して早々に電話を切り、テレビで山崎さんの姿を拝見してから外出。ほぼ2ヶ月ぶりに「あら喜」へ行き、〆鯖、初鰹の刺身、ホタルイカの味噌和え、焼き筍を喰らって不二才のロックを飲み、鮪の漬け丼で仕上げて帰宅。校正疲れにほろ酔いがまじり、横になって数秒で沈殿睡。
3月4日 (木) 終わらず
 終日、単行本のゲラ校正。しかし、終わらず。
3月3日 (水) 玉一個
 昼、大学へ。しかし、乗っていた地下鉄三田線の電車が芝公園駅を出ようとドアを閉めかけてもすぐに開いてしまう。しかも何度も。ついには「車輛点検をいたしますのでしばらくお待ちください」のアナウンスが流れ、足止めをくらってしばらくすると、ようやくドアがしまった。かん高い声の早口のアナウンスによれば、パチンコ玉がドア・レールに挟まっていたらしい。なんだかな。パチンコ帰りに電車に飛び乗って、ポケットに隠し持っていた玉一個をぽろっと落とした輩がいたのか。このために10分遅れてキャンパスに着いて会議に参加。シラバスをもとに授業内容のすりあわせを終えて帰路につき、ともに客員教授を務めることになった松田哲夫さんと合流。神保町で別れるまで昨今の小説の動向や若者の読書傾向についてあれこれ話す。
 久しぶりの好天に気をよくして帰宅した後は、じっとセルフ軟禁。溜った仕事の前で、根拠もないまま「大丈夫!」と叫ぶ。
3月2日 (火) ちゃんと生きている人のまっとうな言論
 冷えびえとした外景をながめていたら窓ガラスに新たな結露が浮かんで滑り落ちる。床暖房の上で仰向けになって眠るウータに目をうつし、おっさん並みの鼾に苦笑しながら内田樹さんの新刊を2冊読む。彼の魅力は着眼とその視座が極めてまっとうな生活感に根ざしている点と、言葉の使い方の正確さにあると思っている。ちゃんと生きている人のまっとうな言論。論のための論ではないだけに逞しい言説となり、他では得難い納得感を生み出す。
 その逞しさはますます貴重になっている。
3月1日 (月) また巡礼行程表を作ってしまう
 西日本はあったかそうだ、と天気図をながめて興が湧き、つい地図に手がのびる。そして、まだ参拝していないそちら方面の一ノ宮が鎮座する町をあれこれ調べ、いつ行けるかわからないくせに、ジョルダン(ネット)の時刻表を駆使して最短の行程を紙に書き出す。小学生の頃に初めて一人で電車旅行に臨んだころの気分となんら変わらない、思わず頬がゆるんでしまう静かな興奮。中でも紀州一ノ宮の一社、丹生都比売(にうつひめ)神社に強い関心をおぼえる。ここを参拝しない高野山参りは片参り、とまで云われるらしいが、かの金剛峰寺の元となった空海の修法の庵がこの神社にあったと知れば納得できる。また、朝鮮からの渡来人がさまざま技術をもって土地に根付いていった紀の国の歴史を垣間見る上でも、この神社をはじめとする他の一の宮(日前神宮・国懸神宮、伊太祁曽神社)もじっくりながめたい……。小一時間後、朝8時17分品川発ののぞみで出かける日帰り行程表が完成。この盛り上がりは抑えがたい。きっと近々、おれは生まれて初めて和歌山の地を踏むのだろう。
2月28日 (月) 桃の花
 ベランダの桃の花が咲く。五、六分ぐらいか。
 東京マラソンの喧噪に巻きこまれぬよう、終日セルフ自宅軟禁。
2月27日 (土) 溜池山王駅7番出口のすぐ近く
 11時、氷雨が舞う中、ぷらぷら外出し、山王日枝神社と赤坂氷川神社に参拝。氷川神社の神木、大銀杏の樹下に良気が漂っていて快く、傘を閉じてしばらく佇む。ほどなく雨もやみ、最近はとんとご無沙汰の赤坂の飲食街を歩いて「赤坂 仁屋」なる店に入り、おすすめだという五寸鍋を喰らう。その後、溜池山王駅の7番出口近くに植わっている、初見からどうしても気になる街路樹をもう一度調べに行き、確かに一本の根元から八本の幹が伸びていることを確かめる。かの香取神宮の本殿脇に三本杉なる御神木があったが、ならばこの八龍頭の街路樹は何と呼べばいいのだろうか? この界隈の街路樹がみなフツーの樹なだけによけいに訝しく、写真まで撮ってしまった。
 興味のある方はぜひご一見を。
2月26日 (金) 苛烈で華麗な表現の場
 昼前、仕事を中断してテレビで女子フィギアスケートのフリー演技を観る。
 鈴木明子さんの演じきった表情だけで早くも落涙。あのオバQ似の顔からほとばしる感激にまともにやられてしっまった。キムチ炒飯を作って食べ、どうにか正気に戻るも、安藤美姫さんの演技が終わるや「立派なもんだ」と雄叫びを上げ、キム・ヨナ嬢の、これを完璧と云わずして何と云う4分間に感服納得の拍手を送り、もう金メダルは無理と承知しつつ浅田真央さんの演技に息を殺し続けた。ミスをした後のステップを踏みつつ修羅に化けていく彼女の顔は、これまでの「真央ちゃん」にはない絶品だった。
 結果への感嘆はともかく、世界の一等賞を決めるにふさわしい苛烈で華麗な表現の場でありました。
 図らずももっとも過酷な物語の主人公になってしまったロシェットさんの、崩れそうで崩れないぐっと氷上に止まるその技術と意気地は、キム・ヨナさんの完璧とともに伝説となっていくことだろう。その意味では、浅田真央さんは間違いなくまだ物語の途中にいる。
2月25日 (木) 濃霧からの展開
 ぼんやり暮らしている三田のマンションの自室からは田町、台場、品川方面がよく見える。東京湾に打ちあがる大華火も羽田空港から飛びたつジェット機も、部屋にいて机にむかったままよく眺める。しかし今朝は、窓から200mほど先の中層ビルすら濃霧に隠れてしまい、ジェット機どころか近所の鳩も鴉も一羽すら見えなかった。テレビをつけてニュースを見ると、羽田発の飛行機が20数便欠航とのこと。とはいえ、西を向いている玄関前からははっきりと新宿のビル群が見えるのだから、おそらく東京湾の海上で起きた珍事なのだろう。
 しばらくもっさりとした霧の重層を見続け、季節外れの暖気と湿気から逃れるように入浴。さっぱりしたところで創作メモをとり、11時半、そのままノートを持って外出。田町から東京駅へ出、12時発のわかしお9号で上総一ノ宮へ。ほぼ1時間で到着し、近くに鎮座する玉前(たまさき)神社に参拝するも、本殿は修理中とあってまともに拝めぬまますぐに駅に戻り、来た電車の折り返し(わかしお16号)に乗って東京へ帰る。人間がだめになりそうな好天気と九十九里浜の快いのどかさから離れ、15時過ぎに帰宅後はあれこれ思案。
 夕方、春一番に吹かれて舞うヤマモミジの枯葉に叫ぶウータをなだめ、前日に洲崎の海岸で拾った白石を握ってソファ睡。
2月24日 (水) アマテラスに誘われて、安房
 朝霧は晴れ。
 この先人たちの言葉を信じ、天照大御神に誘われるように8時半に外出。東京駅から特急さざなみ5号に乗って館山まで行き、バスに乗り換えて50分、太平洋と東京湾のつなぎ目を見守る洲崎灯台近くの御手洗(みたらし)山にある洲崎神社へ。
 道端に立って見上げると、大鳥居から急勾配の石段を山の中腹まで登ったところに三間社流造の社殿があった。地形をいかしたこの眺めにまず痺れ、簡素でありながら神気に満ちた境内に「すげえ」と声をもらす。常駐の宮司さんはいなくても細部まで清められてをり、聞こえてくるのは頭上をゆったりと旋回する20羽余の鳶の声ばかり。ぴ〜〜ふぃろふぃろ、ぴ〜〜〜ふぃろふぃろ、……梅も菜の花も咲きほこる春の暖気と淡い水色の空と海、そして、古来一度も斧をいれたことがないという御手洗山の自然林(天然記念物)の香気に覆われ、登りきった石段の上でしばらく陶然となる。神寂びの幸福。数分後、ようやく正気にもどって長い石段を下り、大鳥居前の県道を横切って海に近づくと、そこに浜鳥居が立っていた。白い鳥居の間から海の向こうに富士山がうっすらと浮かんで見える絶景に感激しつつさらに前へ進み、打ち寄せる波のすぐそばに置かれた巨大な御神石に手をあわせる。これと同じものが海の先、横須賀市吉井にもあると記された由緒板を読んで太平洋を遠望。太古の時代に四国の阿波からこの地にやってきた一族を偲ぶ。
 海の展望、山の深遠に心踊らせてバスに乗り、もう一つの安房一の宮、安房神社へ移動。こちらは上宮と下宮をもった立派な神社(もり)ながら、決して華美や商売に走ることなく、御神体山の岩盤を尊重しながら社殿と空白をうまく配し、境内全体に良気が巡る結構となっていた。品がいい。と偉そうに評価して近くのバス停まで歩き、20分ほど待ってやっと来た(1時間に1本しかない)バスで館山駅に戻り、高速バスに乗ってアクアライン経由で東京駅に返ったときには、17時を過ぎていた。
 安房の2社はどちらも古代信仰が息づく、おれ好みの素晴らしい神社だった。
2月23日 (火) 新しいデザイン
 4時半、起床。コーヒーを飲んですぐに小説の資料を調べ、7時までそれらを読み込んだりメモをとったりして過ごす。それから、カーリング女子日本チームの完敗を見届けて仮眠。12時に起きてシャワーを浴び、軽く昼食をとって外出。15時過ぎ、神保町の「古瀬戸」で理論社のY本さんと会い、4月末に出す本のデザインの方向性について話を聞く。少なくとも、これまでのおれの本にはなかった仕上がりになるのは間違いない。付箋がはられたゲラの束も受け取り、その後は談笑。この酔狂記を読んでいるY本さんから一の宮巡りの魅力を訊ねられ、思うまま三輪山や大神神社について語り、「結局おれが惹かれているのは、磐座に代表される古代人の信仰心と神社の森、つまり社叢の気だと思います」とまとめる。そんなおれの話を聞いたY本さんは、「だったら、長薗さんは、玉置神社は気に入られると思います」とY本さんから薦められ、帰宅後すぐに調べてみると、玉置神社は大峰山系に鎮座する熊野三山の奥宮だった。素直に行ってみたいと思う。
 夜は「中央公論」と「週刊朝日」のゲラ校正をやり、23時半に終了。珍しく自宅でビールを飲んで卒倒睡。
2月22日 (月) 「遺書」としては
 6時、起床。終日、「遺書、拝読」第76回。『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝/訳 白水Uブックス)をテキストにしてJ・D・サリンジャーを取り上げる。個人的には『フラニーとゾーイ』が最も好きなのだが、「遺書」としてはやはり『ライ麦畑〜』がふさわしい。19時半にようやく脱稿、推敲してN西さんに送信。頭ぽんやり。ふわ〜とした足取りで仕事部屋とリビングを何度も往復しながらスクラップ帖の整理。22時過ぎに遅い夕食をとってほどなく、ウータとともに抱擁睡。
2月21日 (日) 梅日和
 4時、起床。冬季五輪ジャンプ・ラージヒルの葛西選手に声援を送って「週刊朝日」の原稿。9時半に脱稿、推敲、送信。空腹で腹が鳴り、白金高輪駅上の「カフェ・エスペラーンス」で朝食。腹の急膨をなだめるためそのまま散歩に移り、近所にある江戸三十三観音札所の魚藍寺、済海寺、道往寺の他、小庭がいい保安寺と恒例の泉岳寺を巡る。どこでも梅の花が咲いていたが、三田台公園の紅白梅はともに美しかった。
 その後、高輪2丁目界隈の迷路のような道を歩いていると、中学生ぐらいの女の子から高輪中学への道を訊ねられる。英検の試験日らしい。中学1年のとき、4級を受けた直後に長島スパーランドに山口百恵ショーを観に行ったことを思い出す。その際に2階の最前列から撮った写真は今もアルバムに収まっている。梅、迷路、英検、百恵……。三題噺ならぬ四題噺をあれこれ考えながら帰宅し、J・D・サリンジャーに関する本を2冊読む。夜は豚しゃぶを食べ過ぎ、ETVで「須賀敦子イタリア追想」を観て胃袋震わせ昏倒睡。
2月17日 (水) 発した言葉に突かれる日々
 呻吟の末ようやくシラバスを仕上げ、春・秋期分まとめて大学に送信。創作のための読書と描写力の向上。また自ら発した言葉にちくちく突かれる日々が始まる。教えることは学ぶこと。学んだ以上、プロは仕事で示さねば格好がつかねえ。雪降る深夜、なぜか江戸っ子になってしまった。
2月16日 (火) 『飛龍伝 2010ラストプリンセス』観劇記
 6時半、起床。シラバスの内容吟味、一部入力をして創作メモ。昼過ぎ、郵便物を2種類梱包して郵便局へ行き、発送ついでに振込等をまとめてすませる。帰宅後、遅い昼食をとって書見。小説作法に関する本数冊に目をとおし、17時半、再び外出。地下鉄浅草線で東銀座まで行き、新橋演舞場へ。S水さんのご好意で『飛龍伝 2010ラストプリンセス』を3列目の中央部で観る。
 現在、肺癌の治療中にあるつかさんの代表作「飛龍伝」。初期の『初級革命講座 飛龍伝』時代から観てきたが、1990年の『飛龍伝90 殺戮の秋』以降は、がらっと変わったその内容を上演のたびに堪能してきた。富田靖子、牧瀬里穂、石田ひかり、内田有紀、広末涼子……、主演の女優は代わっても、「ロミオとジュリエット」と「岸壁の母」と旧き良きグランドキャバレーのダンスショーを足しこんだようなその構成(フォーマット)はいつも鉄壁で、時事の妙味で苦笑はさみながら、「たとえ結果が見えてしまった虚しい活動でも自身が懸けた目標に対しては最後まで筋を通す」ことの美と哀を過剰なまでに表出する。
 今回もその魅力は同じようにそこにあったが、難を云えば、徳重聡の山崎一平がつらかった。特に前半の芝居はひどく、おそらくは何度も「飛龍伝」を観ている観客たちがすっと引いていくのがはっきりとわかった。もちろん、おれも引いた。殺陣も、ダンスも、ひどかった。後半の美智子のスパイ行為に切れる長台詞はよかったが、厳しく評価すれば、あれは戯曲のよさに救われただけだ。その点、東幹久はよかった。まったくもって予想外の出来で、桂木順一郎を自分のものにできていた。
 神林美智子を演じる黒木メイサは、美しかった。芝居もダンスも歌も及第点を軽く越えていたが、惜しむらくはその容姿が最初から冴えすぎていて、田舎娘から全共闘40万人を率いる麗しき女委員長へと変化(へんげ)する瞬間の感嘆を味わうことができなかった(この観点で評価すれば、富田と石田は素晴らしかった)。まあこれは贅沢な不満に違いなく、彼女の才能はまだまだ大きく花開いていくことだろう。
 それにしても、おれはやっぱり、筧利夫の山崎一平が観たいのだ。
2月15日 (月) 動ぜず
 談春師匠の独演会へも出かけず、終日セルフ自宅軟禁。桃の花は蕾のまま動ぜず。川村湊さん訳の『歎異抄』(光文社古典新訳文庫)を少し再読。
2月14日 (日) 鹿島の森に抱かれて
 7時半、起床。窓から差しこむ強い陽射しに歓び、しばらく漫然と日を浴びつづける。こうなるとどうしても一の宮を訪ねたくなり、三河か遠江か安房か上総か下総か常陸か、あれこれ検討し、下総と常陸を目指すと決め入浴。洗髪して自宅禊をすませ、いざ出発。11時20分、東京駅八重洲口から高速バスに乗り、買いこんだおにぎりや惣菜を喰らいながら香取神宮へ。
 二の鳥居をくぐって左へ曲がる参道を途中ではずれ、本殿より先に要石を見学して総門にもどり、楼門から拝殿を覗いたとたん声がもれた。黒漆塗の豪壮な権現造が悠然と鎮座し、一目で周囲の気配が砥がれているとわかる。太古より武運の誉高い社とはいえ、そんな威勢のよさよりも静かに地から湧きあがったようなたたずまいは美しさまで感じさせ、見上げるだけで気持ちが鎮まった。本殿の周囲に自生している杉はどれも巨大で、豪壮な社殿との暗黙の調和にほれぼれしてしまった。
 参道を道なりに下って境内を離れ、そこに停まっていたタクシーに乗って香取駅に行ってみると、次の電車まで1時間以上あるとわかって困り、近くの神道山にある古墳を見学。おそらく20m余の小山ながら、山頂からの眺めは素晴らしく、利根川流域が一望できた。また崩れかけた社(後で調べたら桝原稲荷神社というらしい)、6世紀後半のものと記された前方後円墳は趣きがあって思わず写真を撮ってしまった。
 ようやく来た電車で鹿島神宮駅へ移動し、歩いて神宮。日本三大楼門に数えられている壮麗な楼門をくぐって北側に配置された本殿に参拝し、そのまま奥の参道に入った瞬間、それまでとは比較にならない神気に圧倒される。歩いて進むだけでくらっとするほどのその気配は間違いなく周囲の森から放たれていて、その原始の濃厚な呼吸がこちらを取り込んでしまうのだ。いったいどれほどの樹齢なのか想像するのすら空しくなる深遠な森に目を細め、たどりついた奥宮の苔むした屋根に言葉を失う。背後の巨木と溶けあうような幽玄さをたたえつつ文字どおり「鎮座」するその姿は妖しくすらあった。そしてさらに森を進んだ先にある要石は、地震を起こすナマズを押さえ込んでいるという伝説の滑稽さすら押さえ込み、見つめているうちに仄かな恐怖感を覚えてしまった。
 奥の参道をもどる際、ここでも芭蕉の句碑を読んだ。なんだか芭蕉の足跡を辿っているようで可笑しく、小さな暖気を胸にひめて歩き、太古の人々も感じたはずの自然への畏怖に包まれたまま帰途につく。
 鹿島神宮前から高速バスで東京駅に帰り、大丸の地下で柿安の牛めし弁当を買って帰宅。想像以上に弱い日本チームのサッカーに感じ入り、ひょっとしたら本番では予想外の活躍をするという予感ににんまりしてベッドへ。深い深い社叢に抱かれている気分を引きずったまま即睡成仏。       
2月13日 (土) オリンピックと乱読
 観る気はなかったがテレビをつけたらちょうど冬季オリンピックの開会式が始まり、3時間余、書見ついでに観てしまう。各国の選手入場が終わってからのカナダの物語は、室内という条件をフルに活用していて変化に富み、神話時代から現在までをうまく描いていた。コンピューターによる映像と自在な空中浮遊が成功の鍵だったと推察するが、全体の構成力に感心した。特に構成の節目に必ず歌を挿んできた点が印象に残った。
 午後は少し仮眠をとり、起きてすぐ書見に戻る。平安初期の法典である『延喜式』の解説書(虎尾俊哉 吉川弘文館)を読み、『親鸞』の下巻を読了し、『日本思想という病』(光文社)内の中島岳志さんが書いた「保守・右翼・ナショナリズム」に目をとおして夕食をとり、シラバス入力のためにパソコンをいじる。どうにかメドがたって安堵し、古本で入手した『諸国一の宮』(移動教室出版事業局)を熟読してソファ睡。4時過ぎ、窓からしのび寄る冷気で目を醒まし、暖房が効いた寝室へ逃げ込む。
2月12日 (金) 怖じ気
 創作メモをつらつら綴り、その後は住所録の整理をして書見。ベランダに出るだけで寒さに怖じ気づき、猫たちと暖をとりあって早々睡。
2月11日 (木) 富士山麓へ、三島へ
 5時半、起床。いつ雪が降りだしてもおかしくないような曇天に恐れをなし、静かに書見。しかし10時半、そうか今日は建国記念日かと思い立ち、ならば紀元節を祝す神社へ行こうと着替え、11時34分品川駅発のこだまに乗って三島駅へ向かう。
 そのまま東海道本線、身延線に乗り換えて富士宮駅に着き、降りだした雨を避けてタクシーで富士山本宮浅間大社へ。途中のコンビニで買った傘をさしたまま浅間造の本殿をしばらく眺め、飛翔しそうな白鳥の姿を幻視する。富士山を目指すその白鳥は、おそらく東征中の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の化身なのだろう。そう想うと、なぜ死後の彼が白鳥にたとえられたのか合点がいき、彼が最後に舞い降りた地が和泉の大鳥神社になった流れも理解できる。などと一人考えた後、湧玉池をぐるっと見学し、天神社にも参拝して富士の伏流水をいただく。返りは歩いて駅まで戻り、富士宮名物の焼そばを買って電車に乗り、三島大社へ。打倒平家の際に頼朝が祈願しただけあって、武士の崇拝に応じる禁欲的な気配が満ちている。境内の端には鹿たちが飼われていて、奈良の鹿の古里である鹿島神宮を連想させるのだが、鹿島が軍神を祀っていることを思えば納得がいく。市街地に鎮座しているものの木々も豊かで、樹齢1200年といわれる金木犀や1000年の月日に耐えた楠だけでなく、多くの巨木が社叢となっている。
 それにしても、ここでも芭蕉の句碑に遭遇した。月曜日に訪ねた住吉でも見かけたが、つくづく芭蕉はよく歩いた人だと感心する。歩けば疲れて腹がへり、余分な思惑はおのずと削がれていくから、辿り着いた先では切先鋭く対象をとらえることができたのではないか。疲労と創作の関係に思いをはせて句碑の前に立っていたら、とても清々しい気配に包まれた。この句碑のあたりは良気が湧いているらしい。
 17時半過ぎ、こだまに乗って鯵寿司を喰らいながら帰京。サッカー東アジア選手権の日本VS香港の凡戦にあきれて睡魔に抱かれ、22時、迷うことなく早々睡。
2月10日 (水) 立松さんの思い出
 立松和平さんの訃報には驚いた。15年ぐらい前に文壇バーで北方謙三さんに紹介されたのだが、いい感じで酔っぱらわれていた。学生時代に読んだ『遠雷』についていろいろ訊かせていただき、あの栃木訛で訥々と語ってもらった。おれが編集者をやめて『祝福』を上梓すると、ほどなく日本文藝家協会から入会推薦状が届いたのだが、推薦者欄には立松さんの名があった。もう一人は、藤原伊織さんだった。おれは時期尚早と入会手続きをとらなかった。あれから7年余がたち、藤原さんにつづき立松さんまで亡くなってしまった。……合掌。
2月9日 (火) シラバスの手前
 7時、起床。疲労感抜けぬまま「週刊朝日」のゲラ校正をやって返送し、ソファで書見をはじめてほどなく惰眠。夕方から『神と自然の景観論』(野本寛一 講談社学術文庫)、『神々の気這い 磐座聖地巡拝』(池田清隆 早稲田出版)、『藤田嗣治 手しごとの家』(林洋子 集英社新書)を読み、夜中になってシラバスの下準備。今年はネットで記入せねばならず、マニュアルを読んで理解するだけで一苦労。
2月8日 (月) 摂津、河内、和泉の一の宮巡拝
 起きたまま朝を迎え、8時17分品川駅発ののぞみに乗って大阪へ。昼前に摂津一の宮の坐摩(いかすり)神社へ参拝。それから地下鉄なんば駅近くの「古潭」で味噌ラーメンを食べ、近鉄奈良線に乗って枚岡駅へ。駅前からはじまる参道を上がって河内一の宮、枚岡神社へ参拝し、枚岡梅林を横目に背後の枚岡山に登る。三輪山ほどではないにしろかなりの勾配に苦労したが、展望台に着いて見下ろした大阪の眺めに救われる。古代、大和から生駒山を越えてきた人々も見た難波の風景。当時は河内湖の先に難波津を眺め、その向こうに広がる瀬戸内海に目を細めたのだろう。聖徳太子も一息ついたに違いない。駅で買っておいた水を飲み、ぱらっときた雨にうながされて下山をはじめ、拝殿前にもどった時には汗だくになっていた。
 枚岡駅から大阪難波駅に返り、南海難波駅に移動してもうひとつの摂津一の宮、住吉大社へ。国宝となっている第一から第四まである本殿にゆっくり参拝し、じっくり建物を見学。本殿の配置は、海の神々にふさわしく船団を意識しているのだろう。かつては鳥居の前までせまっていたという海に向かって、まるで今にも出航する気配に満ちていた。船頭はやはり神功皇后か。しかし、本殿以上におれが感激したのは、ご神木。地上に出たその根の隆々しさ、うねり、木肌の模様にしびれ、めったに使わないデジタルカメラをバッグから取り出して何度もシャッターを押してしまった。
 境内を満喫をして名物の反橋(太鼓橋)を渡り、住吉公園に立つ芭蕉の句碑を見て駅にもどってさらに南へ。南海電車で羽衣駅まで行き、そこから鳳駅へと移って和泉一の宮、大鳥大社まで歩く。人気のない境内を巡り、祭神である日本武尊(ヤマトタケルノミコト)像を見上げ、それから本殿に参拝。大鳥造の静かな威厳をたたえた眺めにしばらく瞠目してから帰途につく。
 帰路はJRに乗って新大阪駅にもどり、構内で生ビール2杯と枝豆と焼き鳥を喰らってからのぞみに乗車。ほとんど眠ったまま帰京し、帰宅後、「コードブルー」を観て涙を流して昏倒睡。
2月7日 (日) 昼夜転がり
 終日、惰眠。夜になってやっとしゃきっとし、「週刊朝日」の"愛される理由"の原稿。『日本人の器量』(福田和也 新潮選書)で書き、脱稿後、推敲して編集部に送信。そのまま朝まで書見。
2月6日 (土) もり
 起きるなり『親鸞』を手にとり、上巻を読了したところで法然についてちょっとおさらい。その後、衝動的に西国三十三霊場、坂東霊場三十三カ所、秩父霊場三十四カ所、四国霊場八十八カ所それぞれの納経帳と、坂東・西国・秩父百観音霊場御影帳をネットで注文してしまう。なんだかなあ、と自らあきれかえる妄動なのだが、決して仏への帰依が目的ではない。それを求める人の心理と行動に興味が尽きないのだ。興味が尽きないのなら体験すればいいと判断し、どうせならとまとめて用意した次第。実はこれだけではなく、全国一の宮巡拝に加え、すでに元准勅祭東京十社、江戸三十三観音札所を巡っている。
 その上でつくづく思うのは、神社の木々の素晴らしさだ。『万葉集』にもあるように古代、「神社」は「もり」と称されていた。今でも1000年以上の歴史をもつ神社を訪ねると、まさにそこが「もり」であることを実感できる。それだけで穢れが少し払われ、それだけで足を運んだ労がやわらぐ。
 明治神宮もあと900年もすれば、さらに見事な社叢に囲まれて深い威光をたたえることだろう。
2月5日 (金) 『親鸞』にあたる
 夕方、買い置きしていた『親鸞』(五木寛之 講談社)の上巻を何気なく手にとってソファに横になり、食事もとらずに読み続ける。もう小説を書かないのではと思っていた五木さんの、浄土真宗の教祖となる親鸞の幼年期から書き起こした作品は、手練の極みのような作品となっていた。
 いくつかの有名なエピソードの繋ぎ、小説ならではの脇役の活用、構成、文章の歯切れ、どれをとっても申し分なく、娯楽性に裏打ちされた伝記小説として成功している。小気味いい展開とルビの活用も含め、新聞連載の特性もうまく活用されていてなかなか中断できずに苦労したが、230ページほど読んだところで傍らに置き、ようやく夕食。しかし、範宴(はんねん、後の親鸞)が二上山を訪れた場面が頭から離れず、食後、地図を取り出して二上山を横ぎる竹内街道に思いを馳せる。大和と難波を結んだ最初の国道脇には聖徳太子をはじめ多くの皇族が眠っているが、昨年末に三輪山の麓からながめた夕刻の二上山は、たしかに浄土の気配に覆われていた。
2月4日 (木) 家宝誕生
 朝青龍引退の報を聞いてくいっと緑茶を飲み、ふと手にした湯呑みに目をやれば、彼の似顔絵がそこにあった。先月の正月場所の枡席の土産袋にあったちゃっちい湯呑み。2個一組とはいえ、幕内力士全員の似顔絵がなければ100円でも欲しくないという代物だ。ちなみに、朝青龍の右隣には千代大海の姿が。……ささやかな家宝ができた。
2月3日 (水) 常一と鬼
 節分。豆まかず、恵方巻きも喰らわず、宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫)を読んで鬼と戯れる。
2月2日 (火) 地獄極楽
 今年初の匍匐前進嘔吐連発仮死的半日を送り、夕方、椀一杯の梅茶漬けによって復活。正気にもどって平松洋子さんから届いた『口福無限』(草野心平 講談社文芸文庫)を拝読し、巻頭の「一年三百日」なるエッセイに苦笑する。
 この小文によれば昭和50年、すでに72歳になる”蛙の詩人”草野心平は、日々ワンカップ3杯の日本酒を飲んで暮らしている。それだけでも驚きだが、友人の来訪などでつい飲み過ぎ、月に5日ほどは二日酔になり、そんなときはせいぜいベッドで本を読むしかできない。だから、自分の一年は三百日しかないと自嘲気味に記し、ある日の日記に書きつけた「自分の酒」という詩を紹介する。

 酒は極楽。
 さうして。
 地獄。
 地獄極楽。

 下戸の方には無為でマヌケな短詩である。しかし、これは真実を語っている。太古の人もきっと味わった極楽、そして地獄。72歳の詩人は、「せめて一年三百三十日」ぐらいで過ごしたいと願っていた。
 救われた。
2月1日 (月) 酔いがひどくなっていく
 次の作品で多用した長崎北部の方言について相談したく、佐世保の「ZiN」のM崎さんに電話をかけてみた。が、コールはされるものの誰もでない。夕方、30分毎にかけたがやはりだめだった。しかたなく諦めて18時半に外出し、タクシーで銀座へ。
 19時過ぎ、すでに「佃喜知」に集っていた河村、横里、樺山に合流。すぐに亀谷を偲んで乾杯し、懐かしい同店の味を口に運びつつ談笑。それぞれの近況を語り、亀谷の思い出を確かめ、ぐぁんぐぁん酒を飲む。おれは河村とともに神亀の熱燗を飲り、「D・ハートマン」に移るころにはきっちり酔っぱらう。M田店長も入って5人であらためて乾杯をやったあたりから記憶があやしいのだが、雪の中で河村と樺山を見送った後にホステスに誘われるままガラガラの酒場に戻ってまた飲み、横里編集長にうながされてタクシーに乗ってどうにか帰宅。何を話したのか、どんなやりとりがあったのかまったく覚いだせないまま昏倒睡。亀谷を偲ぶたびに酔っぱらうのは毎度のことながら、生きているこちらは年々弱くなっていくから、どうしったて年々酔いがひどくなっていく。でもまあ、生きている間は偲ぶしかねえよな。
1月31日 (日) 出歩きすぎた、か。
 終日セルフ自宅軟禁。大宮、浦和、鎌倉、京都、大津、亀岡、奈良、茅ヶ崎……、出不精にしてはよく出歩いた正月が終わった。ちと出歩きすぎた。
1月30日 (土) 16歳の分別
 午前、注文していた硯が奈良から届く。短い手紙を書くぐらいしか墨がたまらない小さな硯をしばらく愛で、昼下がり、好天に誘われて外出。品川駅から東海道本線、相模線を乗り継いで宮山駅に着き、歩いて寒川神社へ。なぜか人出が多く屋台も並んでいる中、時間をかけて境内を巡り、参拝。その後は境内から離れ、末社・宮山神社を詣でる。ここにはおれでもわかるほどいい気が湧いていて、鳥居の裏側からまっすぐ本社の参道をながめているだけで頭が冴えてくる。
 相模一の宮を堪能してすぐ駅に戻り、来た順路を逆戻りして品川駅に帰り、山手線で田町まで移動して「ヤマト」。まずは生ビールを飲み、上ハツ刺しと豚バラを喰らいながら喜界島のお湯割りに移り、シラスおろしで口直しをしつつガツ醤油串で仕上げて店を出、バスで帰宅。鰻の蒲焼きをお茶漬けでいただき、風邪薬を飲んで仮眠をとり、汗を吸った下着を替えて『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝/訳 白水ブックス)を読む。寒川神社への往復もずっと読んでいたのだが、どうしても初読のときの記憶が蘇り、当時の自分の気分によりそって目が止まる。
 16歳の分別は、16歳の時には最善のものだったにちがいない。後からとやかくいっても詮無い話で、覚悟もヘチマもなく、その後は16歳の自分を引き受けて生きていくしかないのだ。いや、23歳の自分も、30歳の自分も、41歳の自分も、昨日の自分も、全部引き受ける。人生の一回性はだから面倒で、いつだって少し気恥ずかしい。
1月29日 (金) 命日の散歩
 昼前、『ナイン・ストーリーズ』を読了してテレビのニュース番組を観たら、J.D.サリンジャーの訃報が流れた。91歳の老衰死。半世紀にわたる天晴な隠遁生活でありました。
 午後は、例年どおり「D・ハートマン」のM田店長といっしょにタクシーに乗って目黒大圓寺へ。亀谷の墓参り。11回目の命日は珍しく暖かく、ゆっくりと墓前でウィスキーを飲む。寺を後にして昨年と同じ喫茶店に入り、奈良は西ノ京生まれのM田店長と神社談義。幼い頃から寺社に慣れ親しんで育った彼は一の宮についても詳しく、すでに鳥海山大物忌神社も鹽竃神社も参拝していた。それどころか、新一の宮の岩木山神社まで足を伸ばしていて驚く。彼と知りあって15年余、思えば、二人で神社や古代史について話したのは初めてだった。
 目黒駅近くでM田店長と別れ、ぷらぷら歩いて東京都庭園美術館へ。イタリアの印象派「マッキアイオーリ」展を鑑賞。心は動かぬまま庭園で小春日和を愉しみ、地下鉄で帰る。
1月28日 (木) 小さな體で
 どかどか届いた本の中から『100年前の世界一周 ある青年が撮った日本と世界』(日経ナショナルジオグラフィック社)を手に取り、しばらくながめる。「逝きし世」に生きた女性たちの小さな体躯にただ感じ入り、この體で男衆を相手に奮闘している姿を想像して愛おしさすら覚えた(この思いは、表紙にある日本女性二人組の写真の、特に右側の方を正視されたらわかってもらえるだろう)。
 その後は『日本廻国記 一宮巡歴』(川村二郎 講談社文芸文庫)を途中まで読んで外出し、予約していたvi-taへ。伸び放題だった髪をカットしてもらい、シャンプー後のマッサージを受けている間に半睡状態に。帰宅後、くしゃみ連発。夕食をとった直後に風邪薬を飲み、葉書を三通書いてからお年玉付き年賀状の当選番号を確認すると、一葉だけがあたっていた。
1月27日 (水) 文章の滋味
 終日、書見。『古代王権の誕生 1 東アジア編』(角川書店)を熟読し、『ナイン・ストーリーズ』をつまみにしながら平松洋子さんの『おとなの味』(平凡社)を堪能する。
 和語が散見される彼女のエッセイは、どれも日常という手垢いっぱいの網をくぐり抜けて情景を浮き立たせるのだが、文章を情景に変える支点の役割を担っているのが「食」と「味」、あるいは「料理」「料理人」「食品」である。エッセイと呼ぶより随筆として括るべき文章の気配も、さりげない支点の活用と和語の扱いによって醸し出されている。この気配をもっと長い文章で楽しみたくなったおれは、最新の『考える人』(2010冬季号 新潮社)を手にとり、彼女の連載を読んだ。こちらはルポだが、文章の滋味は期待どおりに味わえた。
 小説にしろエッセイにしろルポにしろ、たとえ手紙にしろ、最後はやっぱり文章の魅力に尽きると、最近つくづく思う。企ては確かに大事で面白いが、それだけでは一過性の刺激でしかない。新たな企てにもそれに相応しい文章の力が伴わなければ、最後まで読ませる力や再読させる推進力につながらないだろう。誰もが書く時代だからこそ、もっと文章そのものが注目されていい。
1月26日 (火) 本の後始末
 午前、「週刊朝日」のゲラ校正をやって返送。午後からは書見。あれこれ関心が拡散し、趣くまま関連書籍を大量注文。本の整理、いったいどうすべきか。いっそ大府の図書館にでも寄贈しようか。
1月25日 (月) 午後のカフェ
 連絡業務をすませて「遺書、拝読」のゲラ校正をやり、編集部にFAXして外出。いつもは土曜日の朝に行く最寄り駅近くのカフェで2種類のパンをぱくつきつつコーヒーを飲みながら本を読んでいると、いつの間にか、あたりは女性客だらけに。
 左隣は70代とおぼしき二人、右隣は小学生の女の子とその母親、その右はクイーンズ伊勢丹帰りの40代一人、その右には40代半ばとおぼしき主婦二人……、一人で座っていた方を除く6人、特に右奥の二人のまあしゃべること。キーの高い早口の大きな声で次から次へと身内のトラブルについて語りあっていて呆れてしまった。短篇小説をいくつか読もうと思っていたのだが、2作目の途中でうんざりして席を立つ。身内の恥をさらす話はぜひ個室でお願いしたい、と強く思うと同時に「おもろい」と素直に感じながら店を後にした。小説家にとって、午後のカフェはよき観察・採集の場であることは間違いない。
 因果だな。
1月24日 (日) ふたたびの三輪山へ
 悪寒で目が覚め、熱い風呂に入って二度寝。それでも寝不足と疲労はとれず、チェックアウト後、3Fにあったソファで寝てしまう。90分後にはっと起き、ラウンジ脇の店でミックスサンドを喰らって立て直す。それから春日大社縁の鹿の巻筆、一心堂の墨、きゅうりの文鎮とせんとくんグッズを購入してJR奈良駅へ。大きなバッグをロッカーに預けて三輪駅へ向かい、先月も訪れた大神神社へと歩く。屋台がずらっと並ぶ参道を通って二の鳥居をくぐり、三輪山麓の拝殿に向かって参拝。そして狭井神社へ移動して神水をいただき、三輪山登攀を終えたばかりと思われる初老の男性の疲労困憊ぶりをながめて苦笑、先月の自分を見ているようだった。さらに知恵の神様、久延彦神社を参拝してから大和三山を遠望、郷愁に近い感覚が湧きあがる。
 その後はひたすら帰路を進み、『ナイン・ストーリーズ』(J.D.サリンジャー 柴田元幸/訳 ヴィレッジブックス)を読みながら三輪→奈良→京都→品川と電車を乗り継いで最後はタクシーで帰宅。もう少し暖かくなったら、今度は「山の辺の道」を歩いてみたいと思う。
1月23日 (土) 若草山の花火
 早朝からの行動をあきらめて9時まで眠り、11時にチェックアウトしてホテル内で早々にランチを食べ、生まれて初めて山陰本線に乗って亀岡へ。嵯峨のあたりからがらっと風景が変わり、「京」と「丹波」の違いを強く感じつつ下車し、タクシーに乗って寒々とした狭い盆地を出雲大神宮へ。
 昨年に創建1300年を迎えた本殿は大黒様、大国主命(オオクニヌシノミコト)とその后、三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)が祭られ、ご神体である御影山の麓に鎮座している。大和の三輪山と同じく豪とした磐座がある御影山は、神代の世から崇められていたらしく、本殿参拝後、登攀ルートにそって少しだけ登ったが、実に快かった。また、山には多くの摂社末社が分配され、ここが「元出雲」と称される存在だったことを思い出す。天ツ神に対する国ツ神の総帥(大国主命)を祭っていることでも明らかだが、別の神が支配する山陰道の入口にふさわしい、歴史性をぷんぷん感じられる素晴らしい神社だった。
 待ってもらっていたタクシーで亀岡駅に戻り、京都駅へ移動してそのまま奈良へ。近鉄大宮駅に近い奈良ロイヤルホテルにチェックインし、タクシーで奈良県庁まで行き、小学6年生以来となる興福寺の散策。たくましい鹿たちの間を縫って東金堂、内圓堂を参り、その後は商店街をだらだら歩き、疲れたところで猿沢池の畔の店でぜんざいを喰らう。その間に日が暮れ、マフラーをぐるぐる巻きにして若草山の麓へと向かい、18時、山頂から打ち上げられた花火に歓声をあげる。300発ぐらいの花火は見事に観衆を一体化させ、数万人の人々が夜空を仰ぎつづける。そしてついに若草山に火がかけられると、フラッシュの閃光が……、しかし、山草はあっという間に燃えてしまい、観光パンフレットにあるような炎の姿は味わえなかった(あれは長時間シャッターによる作品だったのだな)。
 途中で踵をかえし、とろとろと歩いて近鉄奈良駅近くまで戻り、商店街脇の「藤」なる和食屋に飛込み、生ビール。鰈の唐揚げ、うるめ、大根のおでんなどをつまみつつ芋焼酎のロックを飲み、いつしか隣の客K藤さん(55歳男性)と話をはじめて仲良くなり、その方に「近くの店でもう少し飲みましょう」と誘われる。せっかくのご好意とあって従い、まずは「居酒屋 楽」へ。そして、「スナック風恋人」へ。そこで初老の紳士淑女の方々とウィスキーの水割りを飲み、いつしかカラオケを歌いあう。気がつけば、会社社長という男性の禿頭をつかみ、つるつるの頭頂にキスして「それそれ〜」と踊りまくる始末。我ながらやりすぎと憂いながらも編集者時代の癖がぬけず、とにかくその場を盛り上げ、2時過ぎ、ようやく散会。K藤さんとママと別れ、一人近くをぶらぶら歩いてからタクシーでホテルに帰り、万歩計を見たら25,148歩だった。
1月22日 (金) 建部、上賀茂、下鴨、そして夫婦善哉
 2時間余り寝て、9時に起き出す。半睡のままシャワーを浴びて着替え、タクシーで品川駅へ。10時37分発ののぞみで京都へ。すぐにホテル京阪にチェックインして駅にもどり、JRと京阪を乗り継いで大津の唐橋前駅で降りて歩く。瀬田川に架かる瀬田唐橋を震えながら進み、近江一の宮の建部大社を参拝。祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)だが、彼が立ち寄ったことはなく、その死後、大和への帰還を許さなかった父景行天皇が祀ったらしい。頼朝が伊豆に流される際にここに参籠して前途を祈願したと由緒にあったが、景行天皇と日本武尊の親子関係と頼朝と義経の兄弟関係は、どこか似ている。実力も人気もある肉親を近づけない為政者といった眺めだ。
 来た道を帰り、都電荒川線を髣髴とさせる京阪石山本線に乗ってJRに乗り換え、京都駅にもどるとタクシーを選択して賀茂別雷(上賀茂)神社へ。神山を模した立砂を参り、本殿に参拝。そのまま賀茂御祖(下鴨)神社へ向かおうと鴨川沿いの歩道をひたすら歩き、落陽後ようやく一の鳥居にたどりつく。それからほぼ1kmある参道を進き、原生林が生い茂る糺(ただす)の森の涼気に救われながら境内へ。東西の本殿に参拝してゆっくり参道をもどり、歩き疲れてタクシーに飛び乗る。
 ホテルにもどって隣のビルの食堂街でとんかつとカキフライで本日初めての食事をとり、部屋で着替えて京都みなみ会館へ。森繁久彌追悼特集と銘打ち、「夫婦善哉」の上映と「いしいしんじのその場小説」のイベントに出席。4回目の「夫婦善哉」を堪能した後、いしい君の即興創作を見守り、平松洋子さんや「パピルス」編集長のH野さんやいしい君の兄貴(康裕)らと一緒に打ち上げに参加し、赤ワインを呑みながら一の宮話で大いに盛り上がる。平松さんから強く高千穂行きを勧められ、今夏行ってくることを約束する。
 3時にみなさんと別れてタクシーでひとり京都駅方面へ向かい、ホテルの部屋について万歩計を見たら、25,069歩だった。 
1月21日 (木) 終日、原稿
 朝から「遺書、拝読」の原稿。16時に脱稿し、推敲して編集部に送信。しばし放心し、ちょっと近所を散歩して戻る。夜、明日からの準備をして「週刊朝日」の原稿を書き、4時に脱稿して送信。6時半、仮眠。