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酔狂記

6月9日 (木) 完敗
 3時、起床。6時半まで創作。44枚。それから朝散歩に出かけ、当然のように化粧地蔵にテンカフ参拝。腫れが8割がたひいてきて、ありがたや。亀塚公園で腹筋、腕立て伏せやツイストをやってカフェへ流れ、朝食をとって帰宅。その後は頭がぼんやりしてすぐれず、薬の影響もあって降伏。ひたすら眠り、目が覚めても起き上がらずに書見で過ごす。飲み慣れない抗生物質と鎮痛剤に完敗の一日でありました。
6月8日 (水) 火垂る
 3時、起床。すぐに創作。1枚進んだところで週刊誌に現(うつつ)をぬかし、「アサヒ芸能」のグラビアを堪能してまた創作。40枚。それから、雨の中を朝散歩にでかけ、化粧地蔵にまた参拝。どこかお百度気分。帰宅後はずっと書見。昼前から講義用のレジュメを整理、修正して出講。最後に『火垂るの墓』はなぜ『蛍の墓』でも、『ホタルの墓』でもないのか、について語って講義を終え、いつもの「クレッシェンド」でアイスコーヒーを飲んで帰宅。遅い夕食をとり、22時半には寝てしまう。
6月7日 (火) 化粧地蔵のご利益やいかに
 4時半、起床。新聞読んでメールのチェックをして6時半から1時間散歩。途中、化粧地蔵の右下顎にたっぷりとテンカフをこすりつけて参拝。カフェで朝食をとってもどり、9時から創作。1枚も進まないまま銀座カリーで昼食をとってまた書きつづける。38枚。
6月6日 (月) 死んでたまるか
 右下顎の腫れ、ようやく鎮静化へ向かいだす。宍戸錠状態を脱し、ちょっと大きめの蚊に刺された間抜けな人状態。しかし、まだ時おり鈍い痛みがはしるので、抗生物質と痛み止めの服用は続いている。そのため頭がぼ〜としてすぐれず、言葉を紡ぐのに難儀し、ついには机の前から離れてベッドで書見。団鬼六さんの『死んでたまるか』(講談社)があまりに面白く、気が遠くなるまで読み続ける。
6月4日 (土) 右顔面、倍になる
 4時起床。どれどれと鏡を見てびっくり、顔面の右下が倍以上に腫れているではないか。ゴルフボールを下顎に押しこんだような形。右の掌にちょうど収まるほどの瘤状の腫れ。担当医が「明日が一番腫れるかな」と言っていたのはこのことかと驚嘆するも、まあ仕方ないと諦め、創作。こちらは順調。
 6時40分に散歩に出かけ、幽霊坂から三田台公園、それから高輪の高野山東京別院へ移動して参拝。しばらく座禅を組んで瞑想し、天神坂から春日通を下って白金高輪駅に戻り、アイスカフェラテとサンドウィッチで朝食。帰宅後はうがい薬で口中洗浄をすませ、2種類の薬を飲んで書見。『日本の深層』(梅原猛 集英社文庫)、『日本男児』(長友佑都 ポプラ社)、『日本を大切にする仕事』(山岡淳一郎 英治出版)を少しずつ順に読んで仮眠をとり、夜は海老と空豆のリゾット、鯵の竜田揚げをちょこちょこと喰らってまた薬を飲む。ぼおっとした頭でスポーツニュースを観て早々睡。
6月3日 (金) インプラント手術、第一弾
 6時40分、久しぶりの好天に誘われて散歩に出かけ、亀塚公園と三田台公園を巡って白金高輪駅にあるカフェでアイスカフェラテを飲んで帰宅。そのまま10時半まで創作をつづけてほぼ3週間ぶりに歯科へ。11時半に診察台に横になり、生まれて初めてインプラントの手術を受ける。
 口中に響くドリル音が頭蓋骨を振動させ、舌が下がらないようピンと張った線が口を横切り、おそらくは血を吸い取っている吸引管が外されることなく小一時間が経過したところで縫糸がはじまり、垂れた糸が時おり頬にぺたりとくっつく。
 へろへろになって体を起こされ、口を漱ぐと血がまじっていた。
 麻酔がきいているから痛みはないものの顔面の右半分の違和感は半端なく、そっと口に触れてみると、下唇がゆがんでいた。その後はレントゲン写真を撮られ、そこにはっきりと写ったボトル(正しくはフィクスチャー)を確認した上で、「一週間後に抜糸、二ヶ月後に歯をつけます」と伝えられる。目元ぱっちりの担当医曰く、「明日が一番腫れるかな」
 12時半に痛み止め、抗生物質、うがい薬をもらって帰宅後、麻酔がきれていくにしたがってはっきりと痛みを感じはじめ、無理矢理ウインダーゼリーを吸ってから痛み止めと抗生物質を飲み、へなへなとベットに倒れこむ。目をさましたらもう日が暮れかけていた。
6月1日 (水) 度胸の特典
 3時から創作。12時に切りあげて講義用のレジュメをまとめ、出講。時間ぴたりに授業を終えて帰途についてほどなく、一人の男子学生から声をかけられる。受講生らしく「人称についてひとつお訊きしたいことが」と。意を決したような表情を認め、喫茶店に誘う。当初の疑問にはすぐに回答し、その後は彼の経歴などを話題にあれこれ談笑。ユニークな家族に囲まれている彼に、ちょっとでも気になった家族の言動をノートに残すようアドバイスする。
「5、6年後には間違いなく小説の題材になるから、とにかく大学ノート一冊分書いてみな」
 学生が、おれのような週に一回しか顔を見せない客員教授に声をかけるには、それなりの度胸がいるものだ。だから、声をかけてきた学生にはきっちり対応する。そう決めている。年長者と向きあうことがいい刺激になることを少しでも体感してもらえれば、と思う。
5月31日 (火) 勢いだけは保ちつつ
 終日セルフ自宅軟禁で創作。思い切って前半部の構成を変更する。やってみる。書いてみる。勢いだけは保ちつつ5月を終える。
5月26日 (木) 或る典型的な一日
 セルフ自宅軟禁。とはいえ、創作はさほど進まず。前夜の興奮がそのまま疲労となって出る典型的な一日となった。やれやれ。
5月25日 (木) 荒木ナイト
 講義を終えて早々に帰宅し、「遺書、拝読」のゲラ校正をやってシャワーを浴び、きっちり着替えて外出。19時半、六本木ピラミデビルにある「リストランテ・オステリア」へ。荒木先生の71歳の誕生日パーティー。
 いつもはホテルなどの大広間でやるのだが、今回はなぜかイタリアンの店が会場となり、テラスがなければ立錐の余地もない。そんな中、こまどり姉妹のお二方も3年連続で参加。旧知の編集者の方々とあいさつを交わし、ふとテラスに目をやると、なぜか仲畑さんがいるではないか。
「仲畑さん」
「おお長薗くん、こっちおいでよ」
 それからは仲畑さんに紹介された方もいっしょにファッション業界の内実や禁煙の難しさやドキュメンタリー映画の可能性んついて話し、食事へ行く仲畑さんたちと別れ、新潮社を昨年末で辞めて独立した宮本さんから「月刊neo」と「月刊men」の現況を聞く。蜷川実花さんと窪塚洋介さんのコラボーレションが凄そうだと知ったところで、ギャラリストとして有名な小山登美夫さんを紹介され(小山さんは宮本さんの大学の後輩だった)、その流れで奈良美智さんも紹介される。おいおいと思いつつ、青森県立美術館で見た「青森犬」の話で盛り上がり、そこで会が終わる。
 いつもなら怒濤の2次会へと流れこむのだが、荒木さんが酒を止めたのでそれもなく、小山さん奈良さんといっしょにエレベーターに乗って会場を後にし、一人で「あら喜」へ。何も食べていなかったので食事をとらせてもらい、23時半、お母さんから新潟名物の笹饅頭をもらって帰る。
5月24日 (火) ゆるい構成案のままで
 仕事で読まなければいけない2冊の本を交互に読みつつ夜を迎え、夕食後は創作。22枚。少しずつ重要なピースが見えてきた。緩い構成案のまま書き進めることにする。
5月23日 (月) 糞虫採集を決意
 2ヶ月ぶりに「vi-ta」で髪をカットしてもらい、小雨の中、小川書店へ移動。雑誌を3誌買って帰宅し、届いていた『ふんコロ昆虫記』(トンボ出版)を熟読。あまりの素晴らしさに沸々と興奮をおぼえ、この夏から糞虫採集を本格化しようと決意する。夜は食後に仮眠をとり、それから創作。18枚。
5月22日 (日) 書いて読んで寝て、書いて
 早朝から「遺書、拝読」第91回の原稿。ソニーの4代目の社長だった大賀典雄さんをとりあげる。13時に脱稿。推敲してN西さんに送信後、曇天の下、ぷらぷら歩いて「桃源郷」へ行き、青島ビールを飲んで砂肝の白ネギ和えをつまみ、五目冷麺で遅い昼食をとる。帰宅後は、中原昌也さんの『死んでも何も残さない』(新潮社)を読了して仮眠。起き出してクリームシチューを喰らい、入浴後、創作。12枚。
5月20日 (金) ツイッター効果
 諸事情からツイッターをはじめて1ヶ月余りが過ぎたが、まだ使い方がよくわからないでいる。それでも時間に余裕があるときにあれこれいじって見ていると、懐かしい人の名前と何度か遭遇。そのほとんどが「ダ・ヴィンチ」時代にお世話になった編集者の方々で、フォローを機に連絡を取り合い、「久しぶりに会おう」「飲もう」となる。
 かくして本日も、元新潮社のS久間さんと銀座で待ち合わせて会食。現在は自分の出版社を経営するS久間さんの苦労話などで談笑。途中からは「ダ・ヴィンチ」時代の営業課長で今は某予備校グループの役員を務めるN川君も合流し、「D・ハートマン」に流れて大いに談笑。旧交をいきなりどっと暖め、3時半、朝まで飲むという2人を銀座に残して帰える。いい夜でありました。
5月19日 (木) 陽水さんのコンサート
 17時半まで創作。それからシャワーを浴びて着替え、オーチャードホールへ。ひょんなことからお誘いがかかった井上陽水さんのコンサートを堪能。全体としては、歌だけによる大震災への鎮魂メロディーといった編集がなされていた。個別の楽曲では、「氷の世界」「fun」「積み荷のない船」に痺れた。
 元々は3月下旬に予定されていた興業だったが、大震災の影響から昨日と今日に変更となり、結果的にこの日が全国ツアーの最終日となっていた。そのため終演後に簡単な打ち上げがあり、そこにも顔を出さなくてはいけない流れとなって恐縮しながら参加し、ほぼ3年ぶりぐらいに陽水さんと談笑。いつもは銀座の某酒場でしか会わない関係なのであらためて緊張しつつ、「ブラタモリ」の主題歌「MAP」も聴きたかったことだけはお伝えして帰った。
5月18日 (水) 黄泉の森 光の道
 昼までに講義用レジュメをまとめ、早めに出講。小説という分野の特徴について文学史を繙きながら話し、客観(=批評性)の重要性を説いて終了。すぐにcrescendoに行き、生ビールをジョッキでいただきサンドウィッチを喰らいながらマスターと4ヶ月ぶりの再会を祝して帰宅。この酔狂記のゲストブックに届いていた難しい質問に答えてから夕食をとり、プロ野球交流戦の結果を確認して仮眠。夜中に起き出し、BSプレミアムで「黄泉の森 光の道」のアンコール放送を観て感激。番組に出てきた関連図書をアマゾンに注文してから創作に移り、6時半まで書く。8枚。
5月17日 (火) 4枚で
 夜中、創作。冒頭から書き直し、4枚でふらふら。夜尿症の本をしばらく読んでから昏倒睡。
5月16日 (月) さあ、
 終日、書見。目がしょぼしょぼチカチカ。一方、ここ二ヶ月で気になった本、DVD、CDが全部揃った。自分でもあきれる量になってしまったが、創作の合間に少しずつふれていく予定。

 さあ、創作にもどろう。
5月15日 (日) もっと広い地域で集団避難を
 『三陸海岸大津波』(吉村昭 文春文庫)、『災害がほんとうに襲った時』(中井久夫 みすず書房)と読み継いで遅い夕食をとり、ETVを観る。「ネットワークでつくる放射能地図」のタイトルどおり、各地の学者が連絡をとりあいながら福島原発から放たれた放射能を正確に調べていく過程に息をのんだ。一言でいえばそれは、人が住めなくなった土地を目撃しているという驚きと絶望だった。風景としてはのどかで風光明媚な眺めなのに、そこに降り注いだ放射能の甚大な影響によって人が消えていく。「風景」は「光景」に変わり、絶対的な汚染という現実を突きつける。今もまだ目処のたたない事故処理を思えば、県庁所在地である福島市とて危険域に入りかねない。風向きや風力によってはどこまで拡大するかわからない不安の下では、「復興」のエールも嘘くさい。
 とりあえずできることは避難しかない。
 中でも子どもたちは一刻も早く逃がしてあげなくては。事故処理が軌道にのり、正確な汚染把握が進み、これなら安全と判断できるまでは、それがたとえ苦渋の極みであっても集団避難を選択すべきだと強く思う。いわば、疎開だ。それは、番組の最後に流れた、警戒地域に残される愛犬パンダとの別れにも似た残酷な作業だと思う。だけど、命が元気ならまた一緒に暮らせる日はくる。どうしても離ればなれが嫌なら家族そろって新天地へ移る。非情なようだが、実際的には今はそれしか選択肢はないのではないか。
 おれは子どもの頃、産業移転という国策によって炭坑町から自動車産業の町に移る父親にしたがって転居した。まだ7歳だった。不安もあったが、ワクワクもした。おそらく両親の方が大きな不安を抱えていたに違いない。それでもまあ、こうして生きながらえてきた。高齢の両親もまだ存命だ。命があって体が動けば何とかなる。だから、政府の決断の遅さに苛立つ。混乱が起きるのはわかるが、たとえば50キロ圏内の人々の集団移転をまず実施し、もし放射能レベルが低ければその地域が戻っていただくという策をとるべきではないか。体内被爆が進めば取り返しはつかないのだから、まずは広めにリスク回避域をとるのは当然のことだろう。
 パニックは一時だ。しかし放射能は、人間の感覚でいえばほぼ未来永劫、命を蝕みつづける。菅首相はもう十分に批判を浴びつづけてきたのだから、今さら体面や一時の評価など気にせず、一刻も早い決断をすべきだ。
5月14日 (土) 立ち合いの徹底
 「週刊朝日」の"愛される理由"を書き終えて推敲、送信。シャワーを浴びて着替え、JRで両国へ。技量審査場所を観戦。飲酒禁止らしいがビールを持ちこんで飲みながら特別な取り組みを見続ける。そしてつくづく思うのは、変化技のつまらなさ。きっちりした立ち合いがあればそうは悪い相撲にはならないから、せめてこの場所ぐらいは徹底してほしいと願う。結びの一番は、土俵にあがったときから白鵬に臆していた鶴竜があっさり負けて終わり、今ひとつ盛り上がりに欠けたまま国技館を後にし、浅草へ流れる。
5月10日 (火) 丘を下ればそこは被災地だった
 東京7時56分発のはやて119号で仙台へ。仙台に近づくにつれ空が明るくなり、東北本線に乗り換えて塩釜に到着したときにはよく晴れていた。そこで鹽竃神社まで歩き、表参道である傾斜の強い長い石段を上がって参拝。天然記念物の鹽竃桜は今が満開で、肉感的な花弁が青空に映えていた。別宮と志波彦神社にも詣で、塩釜湾を遠望してから七曲坂を下り、しばらく近隣を歩いて回ってタクシーをひろい、多賀城址に移動。丘の上に残る8世紀の城址をゆっくり巡って市街地へ行き、避難所になっている文化センターの中へ。
 12時過ぎとあって炊き出しのきりたんぽを食されている避難者の方々に挨拶をしつついろいろ見学させてもらう。仕切りの工夫、情報の共有、本コーナー、ボランティアによるヘアカット、男湯女湯、人の臭い……、メディアを通じて知ってはいたもののその実像を眼前にすると、ここで暮らすことの厳しさがひしひしと伝わってきて何度も息をのんだ。そんな中、大きなテレビモニターに映るNHKの連続ドラマ「おひさま」を観ていた三人組のお婆さんたちと談笑。海沿いの土地で生きてきた彼女たちのしっとりとした訛、皺で生まれる表情が目にしみる。映像がニュースに変わったところで礼をつげて愛らしい三婆と別れ、施設を後にしてまた歩き、多賀城駅から仙石線の電車に乗って仙台にもどる。
 車中、数多の死者を思った。死者の顔の違いがふわりと見えた。
 死者の言葉を遺す。
 あらためて意を強くし、牛タンを喰らってから東京に帰った。
5月9日 (月) ようやく
 明朝から仙台、塩釜、多賀城へ行く。雨天決行。
5月4日 (水) 危ない、陶然である
 朝から宮城の鹽竃神社へ行こうと考えていたが、諸事情から断念。そこで南へ下り、逗子にある岩殿寺へ向かう。昔に世話になった方も暮らす久木の住宅地を歩いていると不意に細い参道に出くわし、そのまま進んで古びた山門をくぐり、百余段の勾配のきつい石段を上って参拝。観音堂の右手前には泉鏡花が寄進した「鏡花池」があり、神楽坂のすずとの恋を師、尾崎紅葉に叱責されて当地に逗留した鏡花を偲ばせる。紅葉の死後に二人が結婚したことを思うと、逗子ですごした鏡花の時間の重みすら感じられるが、そこにウグイスのさえずりが絶えまなく重なり、ふっとどこかへ気が持っていかれる。危ない、陶然である。遠くには逗子の海も見え、斜面を巧く活用した配置にしばらく感心、感謝。縁起を読むと、ここにも行基の名があった。
 行基。
 弘法大師、役小角とともにいたる所の寺の縁起に登場するこの坊さん。奈良の大仏建造にも深くかかわったことは有名だが、とにかくよく目にする。強引な借名もあるのだろうが、それほどに魅力をもったスーパースターとして古くから認められていたのだろう。
 うっすらと汗をかいて横須賀線に乗り、窓外の緑に惚けながら帰った。
5月3日 (火) 千葉寺へ
 近づく雨雲を見上げながら20年ぶりに千葉市へ出かけ、坂東三十三ヵ所観音第二十九番札所、千葉(せんよう)寺に参拝する。仁王門の龍の彫物、幹が8mもある公孫樹を堪能して祈願をすませ、納経所脇で飼われている豆柴と遊んでから帰る。京成千葉寺駅前から展開している住宅街は、せこせこしてなくて立派。近くには青葉の森公園もあり、日本には珍しい計画性のある宅地開発に感心する。
5月1日 (日) 独占解体
 午後、江戸城へ行ってみる。和田倉休憩所で一服して強風の中、桜田門までぷらぷら歩く。老若男女のランナーがひっきりなしに走りすぎる姿を見送り、日比谷公園に流れ、さらにぷらぷら散策して内幸町の交差点に出たところで、原発反対のデモに遭遇。メーデーとあって労組中心の縦列。彼らは東電本社前から流れてきて、プレスセンターの先にある中電の支社前でさらに怒声を強め、「浜岡原発を止めろ!」と絶叫。後ろにいた観光客しらしい初老の白人のカップルが写真を撮り、拳を突上げて笑った。
 おそらく、原発問題の最終局面は、電力会社の地域独占を解体できるか否かにかかっている。自然エネルギーの推進も現在の独占体制の中では停滞をよぎなくされるだろう。戦後、金融とともに国策として運用されてきた日本のエネルギー分野が脱皮できなければ、今回の様々な試練は活かされない。現時点ではともかく、次年度の国会での議論では大きなテーマになってほしいと願うが、はたして与党を経験した政治家から声があがるかがポイントとなるだろう。この国の利権構造のど真ん中に「電力」があるからだ。その意味で、今後はエネルギー問題が政策議論の争点になると予測できる。政界再編が起きても何の不思議もないほど、国家にとって重要なテーマなのだ。21世紀の行方に決定的な影響を及ぼす問題だ。
 ただし、今は炉心の暴発を止めることに専心すべき時。その過程で積もっていく放射性物質から子どもたちを守ることに、最大の配慮をすべき時である。
4月29日 (金) 石川迪夫の存在感
 久しぶりに「朝まで生テレビ」を見始めてほどなく、石川迪夫氏(日本原子力技術協会最高顧問)の「炉心は融解しているだろう」発言を聞いて目が覚めた。おいおい。議論の前提が炉心融解になってしまったのだから他のパネラーも唖然。結局、この石川発言のインパクトは最後まで威力を発揮し、他のテーマに移ってもおそらく、スタジオのメンバーもテレビの前の視聴者もその余韻に翻弄されたに違いない。
 原発推進、反対の議論よりもまず現状改善が優先されるのはもっともだから、この場で石川氏の過去を云々指摘しても仕様がないが、この石川迪夫氏ひとりをとっても推進者の老獪ぶりはかなりのものだ。石川氏は、長年、国策に背中を押されてその知見をいかんなく発揮してきた人々の権威と権力を凝縮したような存在だった。好き嫌いは別にして、「人物」ではある。与野党の政治家はもとより、仕切り名人の田原総一郎氏すら霞んでしまう存在感にあてられた夜だった。結果、福島第一原発の現状を誰も正確には把握していないことはよくわかった。
4月26日 (火) 関口くんをよろしくお願い申し上げます。
 20時過ぎ、麻布三の橋で「ダ・ヴィンチ」編集部の関口くんと待ち合わせ。関口くんは俺がまだ同誌の発行人を務めていたときに異動してきたメンバーで、その彼が今月一日付けで編集長になったことを祝すため「あら喜」へ。
 トレードマークの坊主頭と顎髭と黒縁眼鏡はそのままながら、今夜の関口くんはスーツを身につけていた。入社直後以来らしいがよく似合っている。姿勢もいい。なにより声がいい。さすが長年ロックバンドでボーカルをつとめただけはある。などと感心しながらあれこれ話し、飲み、喰らい、「ダ・ヴィンチ」創刊期にお世話になった銀座の文壇バーへと流れるも、少し話した直後、関口くんが天井を仰いで眠りはじめる。少ないスタッフで本誌、単行本、文庫本などを編集する激務の疲れかと不憫に思い、早々に退散。タクシー内で聞いたら、関口くんはそんなに酒が強くないとのことだった。彼が入部したとき編集長だった亀谷ならどうしたか、とつい考えた。きっとかまわず連れ回し、最後は新宿で二人そろって泥酔したのではないか。
 亀、関口くんが編集長になったぞ。よかったな。
4月24日 (日) サエズリ
 早寝が過ぎたため夜中の2時に起きてしまい、ならばと9Fにある展望浴場へ。広い浴場に一人つかり、雨がやんだ下呂の街を眺める。駅のホームは眼下にあった。部屋に戻ってからは本を読み、携帯ゲームをやって朝を迎え、母と前後して野天風呂へ。朝日を浴びてしばし呆然。腑抜けになって朝食。チェックアウト後はすぐに駅へ行き、8時57分発の普通電車で飛騨一ノ宮へ。臥龍桜を無人駅のホームから愛で、膝に難のある母を待ち合い室に残して水無神社まで歩く。
 鳥居をくぐった瞬間、抜けのいい気を感じて気分がすぐれた。美しく横に長い拝殿の構えもよく、御神木に頬ずりしてから参拝。満開の桜を愉しみながら駅に戻り、タクシーを呼んで高山駅に移動。飛騨国分寺の三重塔を仰ぎ、見知らぬ鳥たちのサエズリを聞いて昼食をとり、ひだ12号で名古屋へ返り、ホームで母と別れて帰途につく。
 さあ、次に母親と旅に出られるのはいつだろうか。わからない。
4月23日 (土) 下呂温泉へ
 朝、9時半過ぎののぞみで名古屋へ。到着後すぐに高山本線のホームへ移動し、ベンチに座っている老母と合流。ひだ9号に乗り換え、窓外の山桜や渓流にいちいち声をあげる母に苦笑しつつ下呂へ。本降りの雨の中、送迎バスで水明館に向かい、チェックイン。それからはひたすら温泉三昧でのんびり過ごし、飛騨牛の朴葉味噌焼きなどの夕食を堪能して21時半に寝てしまう。何回も下呂温泉に来ている母は、泉質をあれこれ讃えて大喜び。まずは良かった。
4月21日 (木) 猫には勝てない
 朝から北海道新聞の原稿。しかし、昼間のほとんど『かくれ佛教』(鶴見俊輔 ダイヤモンド社)を読みふけってしまう。そして気がつけば、ソファでウータと熟睡の体たらく。さらには、スーちゃんこと田中好子さん死去の速報にふれて呆然。結果、夜中になって悪戦。足もとでいびきをかきつづけるウータを横目に机に向かい、明け方にようやく脱稿となった。
 ウータはさっさと朝食をすませ、今もまた眠っている。猫には勝てない。
4月19日 (火) とにかく子どもなのだ
 先週金曜日の朝日新聞(夕刊)に写真入りで紹介されていた陸前高田市の正徳寺は、千葉先輩のご実家。新学期になってもまだ学校が始まらない小中学生のために「寺子屋」を運営されているのだが、そこで一助になればと本や絵本や辞書や図鑑を集めて荷造りし、お送りする。
 とにかく子どもなのだ。
 もし物品や予算が限られるとしたら、何が何でも子どもを優先して今は配分されるべきと信じる。子どもが元気なら何とかなる。
4月16日 (土) 墓標
 終日、「遺書、拝読」。第90回目は、永田洋子・元死刑囚の『十六の墓標』(彩流社)を取り上げ、彼女が党派主義に盲従していった原因に少し言及した。地震による中断をはさみながら19時半に脱稿。推敲、送信してシャワーを浴び、「あら喜」で一人打ち上げ。南部美人をぐぴぐぴ。閉店後、T夫くんと「BARここの2階」に流れ、ママと3人で談笑しまくって3時半、麻布十番を後にして歩いて帰る。即身成仏。
4月13日 (水) 数日間Twitterを使って、ながめて
 Twitterって、巧く使えばたしかに勉強になる。面白い。無論、囚われれば「生きる」ことを失う。メディアはいつだって諸刃の剣だけど、ネット系は機能がパーソナルで便利なだけにその度合いもまた強い。
4月10日 (日) ロック
 保存した斉藤和義さんの「ずっとウソだった」とエレファントカシマシの「ガストロンジャー」ばかり聴いている。この2曲があれば、今は大丈夫だ。清志郎さんの精神、つまりロックがそこにはあるから。体制糾弾と独自の歩みの肯定。ロック。
 選挙結果は、しかし、これが現実と迫ってくる。
4月9日 (土) 老いたホタルの尻光は淡く、だけど逞しい
 夕方、開店したばかりの「あら喜」に山崎努さん、U野さん、一三さんが来店されテーマなき会食。少々の放射能に汚れた野菜ならいくらでも食べる、どうせ後数年で死ぬんだから、そういうのはどんどん老人が食べればいい。戦中戦後を生きてきた老爺2人は元気がいい。素晴らしい。山崎さんとU野さんは中学時代の同級生だから、もう60年以上のつきあいだ。互いが今も生きて酒を呑み、語りあえる幸福をそれぞれが醸し出して周囲を照らす。老いたホタルの尻光は淡く、だけど逞しい。
「子どもたちが心配だな」と酔った山崎さん。
「結論はそこです。今回の大震災を受けて日本がどこに向かうか、その基本方針は、徹底して子どもたちの将来のためになるよう照準をあわせるべきなんです」と酔ったおれ。
 子どものいないおれは、今、子どもたちのことばかり考えている。
4月8日 (金) 祝! K佐貫さん
 届いたばかりの「中央公論」最新号をぱらぱらと読み、巻末の編集後記に目をおとしたところで、この「酔狂記」でもおなじみのK佐貫さんが新しい編集長になったことを知る。良かった。今も同誌で連載している"遺書、拝読"は、彼との打ち合わせからはじまったもの。もう8年目を迎えているが、興味も難度も低下することなく毎回、粛々と死者の書と対峙する経験ができているのはありがたい。このような有事に重責を担う彼を思い、数日前にわさっと浮かび、ちょこちょことメモをとってきた企画をメールで送る。できるかどうか、12年間編集長を務めたおれにもわからない企画だが、取り組む価値は間違いなくある。
 存在感が希薄になって久しいといわれる総合誌。しかし、まだまだやりようはあるはずだ。しかもこの状況下。どす黒い暗雲に光の穴を開けるためにも、K佐貫さんにはぜひ目一杯の前傾姿勢を期待したい。
4月7日 (木) 調整の夜、余震が
 夕方、次作の担当編集者であるS川さんに「あら喜」に来てもらい、食事をしながら現況を正直に話し、今後について意見を求める。今回の大震災を受けて変容してしまった、あるいは理解の再確認が必要となった言葉の問題についてあれこれ語り、東北のお酒を飲み、急遽作成した構成表を見ながらまた話す。そして有事における歌の力の偉大さに話題を移し、そのままカラオケへ。S川さんが歌ったスガシカオの曲を聴いて完全に酔いしれ、彼女を見送った後、一人で麻布十番のバーに流れ、そこでM7.4の余震があったことを初めて知る。たまたま居合わせた不倫中らしきカップルから地震の情報を聞きながら酒を呑み、最後は長崎出身の店主と高校時代のバカ話をしてとぼとぼ歩いて帰る。4時を過ぎていた。
4月6日 (水) 花見はすべし
 夜中、マンション裏手の三田松坂公園へ行き、しばらく桜を見あげて過ごす。夜空を隠すほどもっこりと膨らんだ花弁に覆われ、おれは幸せだった。花粒が目にしみた。誰だ、花見を自粛すべきなどと宣ったのは。
4月5日 (火) Twitter
 諸々の事情から勉強のつもりでTwitterに登録する。遁世願望をもったままの暴挙、お笑いください。
4月3日 (日) 夜は重く
 夕方の銀座へ行ってみる。マリオンの阪急はがらがらだったが、歩行者天国には予想より多くの人が出ていた。百貨店も専門店も節電はゆきとどき、それだけに日が暮れるとどっと夜の暗さが重く感じられる中、春夏用のシャツとチノパンを買い、「串一」で黒龍をくぷくぴ飲み、20本余の串揚げを喰らって帰宅。孫正義さんが100億円を寄付すると知って驚くも、すぐには絶賛できない背景をそこに感じる。ソフトバンクは何より電波の中継地対策に資本を投下すべきだよな。早々に。
4月1日 (金) 募金もいいけど外食を
 昼間、京都のいしいしんじ君から電話をもらい、被災地の子どもたちにできることについて話しあう。短い時間だったが、あれこれ湧いてきたアイデアは悪いものではなかった。ふと、20年ほど前に同じ編集部で企画の打ち合わせをしていた日々を思い出す。陸前高田から帰京された千葉さんとはメールでやりとりし、物資が行き渡った後の子どもたちへの支援について具体策を模索。方針は決まった。
 その後は19時まで依頼されていたエッセイを書き、脱稿して送信後、「あら喜」で食事。金曜日だというのに他の客はなく、早々に片づけを終えたT夫君と麻布十番まで移動し、新しくできたという「焼鳥貴族」なるチェーン店へ行ってみると、満員だった。全メニュー280円の強さか、街の暗さなどまったく関係ない(若い客たちで賑わう)店内の雰囲気にほっとする。停電のない地域ぐらいせめて外食しないとね、カネが廻りません。このままじゃ、首都圏の雇用も悪化の一途をたどっちまう。だから、募金もいいけど外食を。そんなことを話しながら近くのバーに流れてきっちり酔っぱらい、ゆっくり歩いて帰った。
3月31日 (木) 東電の愚かさは、そのままこの16年間の日本を象徴している
 月初から創作に没頭していた3月だが、11日の昼下がりを境に混沌のうねりにからめとられてしまい、今もその渦の端っこにいると自覚している。創作は中断したまま読み直しすらできない状態が続いている。やたらと本を読み、考え、メモをとり、今度は古典にあたってまた考え、ネット上の言説にもふれてさらに考える。そろそろ対話のときかと思う。
 実は、関東もまた被災地だと認識している。むろん、茨城、千葉(太平洋側沿岸、東京湾岸埋め立て地域)では今も厳しい状況が歴然とあるのだが、東京育ちの70代の男女が、「あんな揺れは初めてだった」と語っていた。「まさか生きているうちにあんな地震を味わうなんて、まいったよ」と。そこに放射能問題だ。大津波の甚大な被害状況をテレビで見ているから声にするのはひかえていても、つまり相対的に「東北の人々にくらべれば」と自身に言い聞かせてはいても、各人ははっきりと恐怖を実感し、まだ引きずっているのだ。だから買い占めもおきやすいのだが、その一方で、東北の方々の惨状が骨身に響いてくる。東電の計画停電への憤懣もどうにか抑える。しかし、身体が体験した揺れと恐怖はしっかりと残っている。
 思えば1995年。この国は、阪神淡路大震災とオウム真理教によるサリン事件を経験した。これで大きな変化を余儀なくされると多くの国民が思った。知識人もマスコミもそう語った。おれもそう思った。しかし、変わらなかった。その後の史実を見ればわかるが、結局はすべてが「カネ」の問題に引きずられ、「バブルを再び仕掛けろ」とか「市場原理」とか「グローバリズムに対応するために」などといった言説が旗振り役を担った。東電の原発に対する安全対策問題の根底にも、この「カネ」優先の論理があったのは間違いないだろう。いわゆる「コストパフォーマンス」の論点で天災と対峙した同社の愚かさは、だから、そのままこの16年間の日本を象徴している。
 今回、これで変われなければ、日本は加速度的に衰退するだろう。勘違いが怖いのであえて記すと、それは経済の復興だけではない。有史以来、おそらく世界でもっとも大天災を経験してきた日本が、あらためて自然への畏怖を根底において国を作っていけるか、生活を再建できるか、楽しみを発見できるか、そのあたりが問われているとおれは思う。とんでもない3月が終わる時点では、まだここまでだ。
3月28日 (月) 大震災が自分に問うていること
 夏以降の連載の打ち合わせを兼ね、夜、神保町で会食。その後、一人で銀座へ流れる。馴染みの店は営業をしていたが、街に人の姿は少なく、暗かった。そして、どこへ行っても原発問題が話題となった。放射能問題とエネルギー問題は、おそらく短くて3年〜5年のタームで対応せざるをえないことになり、日常生活の根底に決定的な変化を促すだろう。つまり、極めて短期間に社会の変容が起きるよ。と、おれは語った。
 この酔狂記でも何度かふれてきた、「地球5個分」の資源を必要とする"豊かな生活"を各国が求めあう経済活動とそれらを賄うエネルギーの問題が、当面は議論の俎上にのるだろう。アメリカは今後の国策として小型発電ビジネスを推進すると決めているから、福島第一原発事故ももろともせずに突き進むはずだ。しかし、おれの直感では、真の問題はそこ(カネと資源)ではない。それが何なのか? まだまだ判然とはしないが、そこを探求するためには自身との対話が不可欠だということはわかっている。今回の大震災が自分に問うていることは何なのか。考える日々が続く。
3月27日 (日) ハナミズキ
 ハナミズキの苗を買う。
3月26日 (土) 大垣日大高校、がんばれ
 高校野球がはじまっているが、マスコミは多くの時間を東北高校の動向に割いている。当然だと思う。地区代表が戦う春の大会だけに、彼らは被災地東北の希望である。校名がまたその期待を高める。大会辞退すら検討しながら地元を出発する直前までボランティアに従事していた彼らが、短い練習期間でいかに戦うか。決定的なハンディを抱えた彼らに対し、マスコミは暗に勝利を願う報道に終始している。
 しかし、である。いろいろなニュース、およびスポーツ番組を見てみたが、対戦相手の大垣日大高校へのコメントがまったくないのはいかがなものか。これでは、同校の選手たちはたまったもんじゃない。抽選で東北高校との対戦が決まった瞬間、同校の選手や監督、ならびに関係者は「困ったな」と感じたに違いない。そして、その後のマスコミの報道にふれるたびに「困ったな」は強くなり、今では日本全体を敵に回しているような感覚を味わっているのではないか。味わっているよな、きっと。「勝ったらいけないんじゃないか」とさえ感じている選手もいることだろう。可哀想に。
 ちょっと考えればわかるだろうに、テレビ番組のMCもコメンテーターも「大垣日大高校の選手たちもぜひ全力で戦ってほしい」とは言わない。この状況は、いわば"大いなるイジメ"だとおれは思う。たまったもんじゃない、と大垣日大高校に同情する。両校公平にバランスよく、とは言わない。わずかばかりの配慮だ。東北高校と同じ、16歳と17歳が集まっている同校の選手たちの胸中を慮(おもんぱか)る大人の配慮ぐらい、少しはしてやってくれよ。
 やっぱり怖いよな、マスコミ。特にテレビの偏向は、暴力だな。
 28日の試合は異様な空気の下でくりひろげられるだろう。甲子園のスタンドも圧倒的に東北高校の応援が支配するのだろう。たまらんな。西濃の大垣で野球をやってきただけの少年たちには、どうかプレイに専念してほしいと願う。対戦相手だけでなく重い空気とも戦わなければならない大垣日大高校を、おれは応援する。
3月24日 (木) 花を送ろう
 仕事部屋専用のベランダで桃の花が咲いている。目がなごむ。酸欠気味の時間がすこし落ちつく。思えば今回の震災後、いろんな花を買ってきては目につく各所に置いてきた。被災地に今、花は咲いているのだろうか。食料、ガソリン、医薬品などが最優先なのはごもっともだが、それらでは埋められない奈落を、花は一時とはいえ覆ってくれる。感情の幅をふわっと膨らませてくれる。彼の地で桜が咲くのは4月半ば。まだ遠い。避難所の片隅でもいいから、可憐で瑞々しい花が咲いてくれていればいいのだが。実は人間なんかよりはるかに強い植物。その力をも今は借りるべきだと切に思う。言葉よりも花だ。
 花を送ろう。
3月23日 (水) 暗くなったら早く寝る
 2時半、起床。カフェオレを飲みながらNHKハイビジョンで『主人公は僕だった』(マーク・フォスター監督)を観る。メタとリアルを絡めた秀逸な脚本を堪能。現実を脅かすフィクションというアイデアは昔からあるが、その着想が細かく計算されたストーリーによって肉感を獲得し、結果、一人の平凡な男とスランプに陥っていた悲劇作家に天啓を与える、後味のいい作品となっていた。主演のウィル・フェレルをはじめダスティン・ホフマンらの演技も文句なし。まあ、みんなホント巧い。
 夜明けに感嘆の声を上げて机に向かい、"遺書、拝読"第89回を書く。軽食休憩をはさんで15時までつづけて脱稿。推敲後、N西さんに送信し、呆然。中断している仕事部屋の片づけを夢遊病者のごとくふわふわとやって正気にもどり、インド料理で夕食をとって養老孟司先生の新刊を読みながら早々睡。
 日のあるうちに仕事をし、暗くなったら早く寝る。電力問題は短く見積もっても3年はかかるから、今後はこれに限るよな。さらば東京ドーム、さらば読売ジャイアンツ。
3月22日 (火) ペヤングはまだ
 歯科からの帰途、コンビニに寄ってみる。ついに単二の乾電池をみつけ、購入。しかし、ペヤングはまだ欠品中。帰宅後、"遺書、拝読"に取りかかるも、つい夥しい死者を思って気が泳いでしまう。中空に彷徨うのは死者の無念ではなく、生者の悔恨なのだとつくづく思う。
3月20日 (日) 混濁とともに
 締め切りとは厳しくもありがたいもので、朝食後どんよりとした気分を払い、"愛される理由"の原稿を書く。11日に小説が中断してからまともに文章を書くのはこれが初めてだったが、思いの他、きっちり書けたことを不思議に感じつつ推敲に時間をかけ、「週刊朝日」編集部へ送信。とにかく執筆復帰がかない、報道に流され感情的になりかけていた状況と一線を引けたことに安堵と反省の念をいだいたところに、山崎努さんから状況確認のメールが届く。映画の撮影中と察して連絡しなかったことを後悔しつつ返信。そして、陸前高田に実家がある千葉望さんからのメールで、現場の険しい状況をあらためて知る。千葉さんの実家である正徳寺は今、120名ほどの被災者の避難所となっている。物資は届きはじめたらしいが、一方で行方不明者への不安も深まり、希望と絶望の混濁とともに時間だけが進んでいく現場を思い、ゆっくりと息をのんだ。
 時間とは、いつもながら怜悧な流れだ。客観の基盤だ。まったく。
3月19日 (土) デカワンコの夜
 好天の下、散歩。途中、大丸ピーコック魚藍坂店をのぞいてみると、米は十分にあった。が、単一単二乾電池とトイレットペーパーはやはり空だった。
 夜、『デカワンコ』を観る。先週は地震報道でぶっとんだが、年初から定期的に観てきたドラマはこれだけだ。ファンタジーコメディをきっちり細部まで作りこんでいる点、主演の多部未華子さんの才気の幅を見せつける好演、懐かしい『太陽にほえろ』をアレンジした音楽などに引きこまれたのだろう。とにかく、ヌケのいいドラマは後味がいい。少し元気が出て片づけを再開し、100冊ほどの本を処分して入浴。さっぱりしてほどなくソファで眠ってしまい、慌てて寝室へ。地震後甘えが増したウータと抱きあって速攻睡。
3月16日 (水) 落ちつけ、安藤優子さん
 この6日間、自宅作業者の特権に乗じて、部屋の片づけがてらどっぷっりとテレビの震災報道番組を見てきたが、安藤優子さんにはもっと落ちついてほしいと何度も思った。
 彼女の語りはつねに煽(あお)り気味なのだ。事実伝達さえ急かされる感があり、こういう非常時だからこそ不可欠な冷静をおびやかす。さらには、常に犯人(悪者)捜しに傾きかねない論調をはりたがって困る。未曾有の事が起きている最中にその態度は拙速でしかなく、もし彼女が、自身をテレビタレントではなくジャーナリストだと思っているなら、なおさらここは落ちついて正確な事実把握と伝達につとめるべきだ。平時なら少々の煽りも芸のうちだが、真の有事にはそれは無用であり、実際的には有害だ。とはいえ、あれが彼女の持ち味であり商品価値なのも理解できるから、ここはプロデューサーの手腕が問われるところだろう。当分は手綱を締めなければ。
 テレビ朝日の吉澤一彦アナウンサーも煽りがきつくなっている。
 とにかく、マスメディアはこんな時こそ落ちついてくれ。そして、サンドウィッチマンの伊達氏が訴えているとおり、各局が同じ映像をくりかえし流すのではなく、避難所で連絡がとれなくなっている方々の広報などに工夫をみせてくれ。未曾有の時とは、視点を換えれば、新たな手法を発見する好機でもあるのだから。
3月15日 (火) 朝6時、近所のコンビニで
 3時、起床。地震後の対応で後回しになっていた確定申告の準備をはじめて6時、懐中電灯用の乾電池を求めてコンビにへ行ってみる。予想どおりまったくなく、栄養ドリンクをカゴに入れて飲料棚に向かい、カフェラテを追加して水コーナーへ移動すると、後から来た男がおれの隣で腰をおろした。
 こざっぱりとした短髪、オフホワイトのダウンジャケットとジーンズを身につけ、上着の色とうまくコーディネイトした小ぶりのリュックを背負い、ボストン型の縁なし眼鏡をはめている30代前半とおぼしき男。おそらくは己の理知と清潔を自覚しているに違いないその男は、中腰になるなり、眼前に並んでいる「六甲のおいしい水(500ml)」のペットボトルを両手でカゴに入れはじめた。まるで機械にでも化したかのように左右2本づつ、棚からカゴへ黙々と水を移していく男。おれと男の向こう側にいた老爺が唖然とその姿を見下ろしていると、男はペットボトルで一杯になったカゴをそこに残し、つかつかと新しいカゴを持って返り、そこにまたペットボトルを入れはじめた。
「おい」
 新たなカゴが半分ほど埋まったとき、おれは男の肩をたたいた。男は一瞬だけ手を止めてちらっとこちらを見上げたが、すぐに左手にもったボトルをカゴに入れ、右手を棚に伸ばした。おれはもう一度、男の肩をたたいた。
「いいかげんにしとけよ」
 男は右手につかんだボトルをカゴに入れた。するとぬくっと立ち上がり、おれを、老爺を見やることなく両手にカゴをもってレジへ向かった。その後ろ姿をよく見ると、リュックのファスナーの隙間から別種の水のペットボトルがのぞいていた。
「驚いたね」老爺が声をかけてきた。「あれは、ここらの者じゃないな」
 おれは苦笑しながらうなずいた。
「あんなみっともねえこと……」
 そう言って老爺はレジ前に立つ男に目をむけた。男が支払いを終えて去ると、対応した女店員がこちらを向き、わざと目を丸くしてみせた。
 おれは2本、老爺は1本ペットボトルを持ってレジの前へ進んだ。
3月14日 (月) ローリングストーンズ
 10時、岐阜の知人のご実家から米が届く。昼過ぎ、昨年の奈良行の際に知りあった方から、足りない物があったら何でも送りますよ、と突然の電話をいただく。ありがたい。夕方、朋友のY部ちゃんから転職のハガキが届く。夜、旧友から見舞いのメール数本。書籍、さらに40冊処分。
 流転の時なのだろう。あるいはリセットの時期か。どちらにせよ、いい方向に転がっていくしかないよな。テレビから情報を過剰に浴び、東電の混乱に困惑しながら早々睡。
3月13日 (日) あるだろう、という前提で
 夕方、転倒した大型の本棚すべてをどうにか起こしあげ、散乱した本を別室や廊下に集め終える。腰、痺れる。最後に転倒防止用の対策をとり、汗びっしょりになる。ついでに200冊余りの書籍を処分。この機会にもう300冊ほど廃棄したいと思う。
 しかし、たかだか室内の本棚(7本)転倒だけでこの始末だ。中越地震が起きた際、4日後に新潟に飛び、関さんの実家で片づけを手伝った経験が生きた。あのときは、最大の余震(6弱)がきた後でもあり、靴をはいたまま室内に上がり、軍手をはめ、ヘルメットをかぶっての作業だった。震度4ほどの余震はあたりまえの状況下で中断も多く、たいした力にはなれなかったが、男3人で転倒した食器棚、箪笥などをすべて起こすことはできた。あれを思えば、である。ただ最大の反省は、そんな体験をしながら転倒防止の策をうってこなかったこと。
 千葉東方沖で最大M8.0規模の余震があると警鐘をならす専門家がいる。
 あるだろう、という前提で備える。
3月11日 (金) ささやかな被災
 ちょっと休憩と机を離れてリビングに移り、カフェオレを飲んでメールのチェックをしようと通信専用の古いパソコン(G4)の前に座ってほどなく、ふらっとした。そして、経験のない長く強烈な横揺れに本気で「恐怖」を感じながらCDボックスとコンピュータの転倒と落下を防いで猫たちの名前を呼び、窓際で硬直して動けないウータを抱いてから、いや〜な衝突音がした仕事部屋を覗いてみると、大きな本棚が4本倒れていた。中上健次全集、荒木さんの数十冊の写真集、古書店で求めた山川方夫全集、岡崎京子の全作品、夥しい数の古今東西の書籍、文庫本……足を踏み入れるのも難しい散乱に驚きつつ、少し前まで座っていた椅子にもろに本棚が倒れこんでいる事実に息をのんだ。倒れた棚の背にも大判の辞書や仏像関連の図書数冊、『AKIRA』数巻。そこにいれば後頭部を直撃していたに違いない棚から飛び出した本は机の上を覆い、執筆用のパソコンは見えない。すぐにそこに行きたいと思うも、手前の本棚はまったく動かず、とりあえず断念。お台場から昇る黒煙とともに写真におさめた(「作品と猫と猫」2011.314参照)。
 廊下に並ぶ小さな本棚1本と別室の大きな本棚1本も倒れていた。「となりのトトロ」の絵を飾った額縁は床に落ち、手が届かなかった別のCDボックスの下敷きになって折れている。ブラインドも歪み、いくつかの人形は落下して粉々。
 しかし、問題はもう一匹の猫、オランの姿が見えないことだった。
 大きな声で名前を呼び続けながらすべての部屋をチェックするも見つからず、不意に本棚の下敷きになったのではと思い立って仕事部屋に戻り、さらに名前を呼び続けるもうんともすんとも反応はなく、各所の隙間を探しはじめて寝室のベッドの下を覗くと、遠くで丸い目が光った。
「オラン!!」
 返事はなかったが右腕を伸ばして前足に触れひと安心。強い余震で虚脱状態に陥ったウータをしばらく抱いて落ちつかせ、それから外出。エレベーターは止まっているから階段をつかって地上に下り、ケイヨーD2の16時からの営業再開を待って転倒防止グッズを買いこみ、帰途、スーパーで二食分の食品を購入してマンションに帰る。都心の状況を確認しながら13階まで階段を上り、息を荒げて帰宅。テレビをつけて津波の映像に唖然呆然、表情を失ったままのウータを抱きしめ、報道される震度よりもどうしても強く揺れてしまう高層マンション13階居住の宿命を憂いつつ、これから時を刻むにつけ明らかになってくる悪夢の実態を思って生唾をのんだ。
3月8日 (火) 寝違えつぼみ
 桃のつぼみ、ふくらんでいる。寝違えた。
3月7日 (月) デタラメダ!
 『血と雨の墓標 評伝・岸上大作』(小川太郎 神戸新聞総合出版センター)を読了。革命と恋に生きて死んだ若き歌人、と云うにはあまりに無様(ぶざま)な男の生涯。どちらも半端なまま、今ならストーカーと呼ばれたに違いない男の自死にいたる21年間が丁寧に紹介されていた。死の直前に書かれた「ぼくのためのノート」は岸上の真意を知る遺書としてだけでなく、自殺者の心理を窺う上でも貴重だ。なんせ決行までの数時間をドキュメントしつつ来し方を回想してみせているのだから。しかし、そこで勝手に断罪されたり、失恋の相手として名指しされた人は不幸だ。この歌人は恋においてはほとんど妄想の中に生きていて、一方的に手紙や葉書を送り続けたり呼び出して相手にされずに悲嘆にくれているのだから、かなり危ない人なのだ。無論、女体は知らない。それどころか、実際に好意をもった相手が眼前に立つと、目すら合わせられず黙ってしまう。質(たち)が悪いのだ。だからこそ、とおれは思うのだが、岸上は鬱屈していく気分を創作にぶつけ、いくつかの秀作を遺した。
 1960年12月5日未明、岸上は計画どおり死んだ。そして、「ぼくのためのノート」に記したとおり、その夭折によって伝説化にも成功したように思われる。少なくとも下記の作品は、彼の同世代と団塊の世代の、学生運動にかかわった人々には記憶されている。岸上が死んだ年に生まれたおれは、この本を読んで彼の人なりを知り、困った奴だと苦笑した。男子のある時期までの内面を膨張したまま生きてしまった同輩として、「おいおい」と声をかけたくなった。どうしてそうなってしまったかは、ここでは深くは追求されていないが、ぼんやりとは想像できる。一人の美しく知的な女性に愛されなければならないと病的なまでに焦りつづけた若い男の、本人も自覚していた無様な日々。無様になる原因もわかっているのに改善できずに無様をくりかえすあたり、おれは、なんだか我が事のように読んだ。無様を受け入れるには、岸上兄は、体が弱かったのだとおれは思う。芥川が、太宰がそうだったように、表現者は肉体の虚弱に時に突かれるのだ。

 血と雨に ワイシャツ濡れている無援 ひとりへの愛 うつくしくする

 岸上の「ぼくのためのノート」の最後、絶筆は、「デタラメダ!」の6文字だった。まったくだ、とおれは嬉しくなった。生きていることのデタラメ、自分のデタラメ、あいつもこいつも国も世界も、そして生きて死のうとしている自身がなにより、デララメダ! …………素晴らしい。
3月6日 (日) イーグルスをしたがえて眠る猫
 『パンとペン』を読了して着替え、地下鉄に乗って水道橋へ。東京ドームでイーグルスのコンサートを聴く。観る。周囲には40〜60代とおぼしき男女、若い人はちらほら。白人が多く、通路で何度も振り返る。
 第一部で早々に「ホテルカリフォルニア」が披露されて会場があったまり、休憩をはさんだ第二部では「テイク・イット・トゥ・ザ・リミット」あたりで盛り上がり、アンコールの「テイク・イット・イージー」で沸騰。そして最後の「ディスペラード」で絶頂、昇天。17時過ぎからはじまった7年ぶりのコンサートはこうして2時間半ほどで終わったのだが、あらためて彼らの歌唱力にうなってしまった。60歳を過ぎているのに往時とまったく変わらない高いキーで伸びやかに、かつ艶やかに歌いきる姿に本物の醍醐味を堪能し、小田和正が4人いても適わないとふと思う。ドン・ヘンリーの声は、いつだって19歳の世界を生み出す香気に充ち、グレン・フレイの声は過ちに気づきはじめた20代半ばの憂いをひきずりながら耳に届く。たまらん。なぜか「すまん」とつぶやきたくなるような切なさが押し寄せる。サックスやトランペットを活かしてさらに美しいメロディラインを固め、ギターの四重奏でこれでもかとグルーブを深めて聴かされると、音響の渦の下でしばらく恍惚の人となってしまった。
 ツアーのオリジナルパーカーをつい買って帰り、どれどれと着替えてみたら小さかった。ちゃんとMサイズを買ったのに……まあいい、オランの新しいベッドにすればいいか。イーグルスをしたがえて眠る猫。まるで彼らの歌詞に出てきそうなフレーズが浮き上がる。
3月5日 (土) 何が「就職氷河期」だ。
 ぷらっと散歩して魚藍坂下交差点に近づいてびっくり、糸井重里さんが名付け、かつては自身の事務所も置かれていた「明るいビル」が、SAPIX白金高輪校2号館になっていた。近くにある1号館よりもはるかに収容力があることを考えると、SAPIXの人気はまだまだ高くなっているのだろう。大学受験対応も始めたしな。子どもの数が減れば減るほど、上位大学へ向けた受験対策が過熱するこの実態。さて、現時点で入試偏差値が40を切っている大学はどうするのだろうか。学生の母数がこのままでは、多少景気が回復しても、内定率は低いままだぞ。文部科学省の積年の失策を前に、厚生労働省が後手後手に対処策らしきものを乱発しているのが現状。根本策はまったく出ていない。
 この2年ほどメディアでまた「就職氷河期」が乱用されている。内定率、就職率が極端に低い事象を表す用語として使われていて、名付け親としてはうんざりするばかりだ。産業構造や学校制度の問題を指摘し、その改革が実践できるまで厳しい就職環境が続くことに警鐘を鳴らした造語だったのに、あいかわらず運不運や、個人の努力といったレベルで対策らしきものが語られている。肉体改造に体幹の改善強化がはずせないように、この国の構造改善に着手しないかぎり、きっとこんな状態が10%前後の変動範囲でくり返されるだろう。
 ちなみに。産業については、TPP問題がどう転ぼうがどこが政権を担おうが国際競争にさらされて変容していくのだから、その渦中で改革・強化していくしかない。だが、学校制度については、行政がやはり着手しなければはじまらない。そのためにはビジョンがいる。この国の新しい人たちに対するビジョン、あえていえば希望の行方について、それが拒否されるとしても掲げてみせる必要がある。明治初期や戦後にもあった再構築、真の意味でのリストラクチャリングをやらなければ、停滞は続くのだ。
 応募者不足の大学がぼそぼそ、たらたらと潰れていくのを待っている猶予などないはずなのに。まるで「出口」だけの問題のように嘯いている態度は、大いなるサボタージュでしかない。何が「就職氷河期」だ。まったく。
3月4日 (金) この夜アツカンは
 10時から創作。昼過ぎ、休憩ついでにDVDで『ある朝スウプは』(高橋泉監督)を鑑賞し、並木愛枝さんの演技にうなる。『実録・連合赤軍』で永田洋子を演じていた彼女だが、瘡蓋を少しずつ剥ぐような演技のざわめきを感じえる女優だと感心する。特典映像で久しぶりに宮台さんの姿を拝見してから机にもどり、17時まで創作。28枚。それから入浴して着替え、銀座へ。「ぎんざ力」で位田さん、関さんらと会食。西田哲学、観音信仰などの話から酒がすすむにつれどんどん俗へと話題は下り、二軒目の「JBC」を経て「まり花」に辿りついたころにはもう何がなんやら。1時半に散会し、車中でも帽子をかぶったまま帰宅。即身成仏。
3月3日 (木) カモノハシが正しい
 終日セルフ自宅軟禁。朝、少しだけ寒気にあたる。ゲラ校正でカモノハシをカワウソと書いていたことを指摘され、苦笑。創作、ようやく2章へ。
3月2日 (水) フラットになったら机に向かう
 終日、創作。合間には書見と料理で気分を変え、心身がフラットになったところでまた机に向かう。いつの間にかウータが足もとで眠っていた。22枚。