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酔狂記1

7月25日 (月) 古川は氾濫する
 「セシルのビジネス」の訂正とルビ付加作業で机に向かう。長編だけに一気には終わらない。両眼、しょぼしょぼ。それでも、作業の合間には書見。とろこで台風、いったいどこに上陸するのか。まあ関東は直撃だろうから、近所を流れるへなちょこ古川はきっと氾濫だな。眠い。
7月24日 (日) 徹夜書見
 昼間は惰眠をくりかえす。夕食後、書見。資料用に購入してあった本を次々と読みあさり、翌朝までソファを離れず。久しぶりに一気に4冊読了。目ショボショボ、頭くらくら。昏倒睡。
7月23日 (土) 三の橋で震度4
 午後、ウータに三種ワクチンを打たせるために、改装中の川原動物病院へ。ついでに体重測定、6.2キロ。ウータ、おとなしく注射を打たれる。キャリーケースにウータを収めて歩くだけで、かなりの苦痛。休憩をかねて帰路、三の橋の「さくら苑」に立ち寄り、アイスコーヒー。ウータの登場に中国・海南島出身の奥さん大いに喜ぶ。「あら喜」からもみなさんウータを見にやってくる。中でも看板娘(6歳)はウータから離れず、ウータはケースの奥へとでかい尻を隠して沈黙。看板娘(6歳)は次第に興味を失い、喫茶店のテーブルでお絵描き教室。ハシブドカラスをマスターにした彼女の要望に応え、インド象を教える。そのうちにウータが店内へと動き出す。おとなしく人なつこい猫だけにみんなに次々と撫でられ、突然、ドアへと突進。とはいえ、そこはデブ猫。すぐにつかまりキャリーへ戻されてしまった。と、間もなく店が揺れだした。なんだなんだと天井を見上げるとさらに揺れが増し、「地震だ!」と誰かの声が上がる。三の橋も古川橋も、大型トラックが通ると揺れることがままあり、震度3程度では驚かない。だが、今回はその域を超えていた。
 地震を機に「さくら苑」を後にし、ウータを担いで帰宅。書斎の本棚から数冊の本とファイルが床に落ちていた。
7月22日 (金) 頭、停止
 昼食後、「中央公論」の連載原稿。夕方、脱稿。18時過ぎ、K田さんとタクシーで中目黒へ向かう。K田さんがたまに行くという和食の店。おまかせのコース料理をいただく。どれこれも旨い。次作についての話をして店を出る。その後、会社に戻ることになったK田さんに三の橋まで送ってもらい、「あら喜」に寄って帰宅。頭、停止。
7月21日 (木) 孝典、ありがとね。
 午前、呆然。午後から「すばる」9月号の扉ページ用の原稿を書く。15字×15行の小文を手書きで記すという依頼。久しぶりにペンを持って扉専用の原稿用紙に向かう。ボールペンで2枚、サインペンで1枚書き、それぞれ1枚づつを封筒に納める。内容については「すばる」9月号をご高覧ください。
 封筒を送るついでにコンビニに出かける。久しぶりに直射日光を浴びてげんなりしながら戻ると、「すばる」編集部のK田さんから電話。原稿はいましがた送ったよ、と告げると暑気払いのお誘い。早速、明日の夕方で話がまとまる。電話を終えて郵便物をチェック。おおう、石井孝典カメラマンが撮ってくれた写真が、きっちりプリントされて届いているではないか。今月号の「ダ・ヴィンチ」用に撮ってくれたもので、数点、きっちり箱に入っていた。孝典、今度、君の兄ちゃんもお連れした「あら喜」でごちそうするからね。ありがとね。(石井孝典くんについては、6/1の日記を参照)
 夜は「中央公論」の連載原稿。今回は、「宅急便」の生みの親である小倉昌男さんの本、『経営学』を取り上げる。
 
7月20日 (水) 去年は狂暑
 中学時代から日記をつけはじめた。20代はつけなかったが、『ダ・ヴィンチ』を創刊して間もなく結核に罹患し、自宅療養が終わって再びつけはじめた。11年前の夏の終わりの頃だ。入院中に読んだ荷風の『断腸亭日乗』の影響だったか、どうか? もう思い出せない。ちなみに昨年の7月20日の日記を読むと、猛暑を呪う言葉が並んでいた。東京は39度を超えていて、私は「狂暑」と表現している。狂……狂にはかなわねえな、と苦笑しつつアイスバーを頬張って原稿。「狂暑」と「狂著」は紙一重。 
7月19日 (火) 対話
 午前から書見。15時半時半過ぎ、小学館のI垣さんから電話。『セシルのビジネス』改稿篇への感想で、昨日のこの日記を読まれたのか、「対話が必要です」ときた。おっとこれは大幅な直しの要請と判断し、夕方会うことにする。場所は、I垣さんご要望の「あら喜」。まだ日があるうちに店に入り、カウンターに座って間もなく、私はビール、I垣さんはコーラで乾杯。それから原稿を受け取る。「すっきりしてすごく良くなった」とI垣さん。連載時の内容と照合もされていて、細かい変更も理解してくれていた。私は、持参した赤ペンを手放し、ほっとしてビールぐびぐび。そこからは二人して、「あら喜」の旬のメニューを食べまくりながら対話。鮪のトロと鰹の刺身、穴子の醤油焼き、岩ガキ、ほうれん草のゴマ和え、豚しゃぶのあっさり煮……最後は、まぐろのづけ丼と味噌汁。I垣さん、「来週また来よう」とつぶやいて帰路へ。「あら喜」ならいつでもお相手します。
 帰宅後、また書見。読了。
 
7月18日 (月) 大きな魚との対話
 暑さに恐れをなし、またもセルフ自宅軟禁。
 夜はDVDで映画を観る。作品は去年見逃した『ビッグ フィッシュ』。期待通り、よかった。ティム・バートン監督の思いを感じつつ、いろいろ考える。アイデアもちらつく。真夏の猫、6月のサンタ、ユリシーズ、倒れた象の向こうに街の灯り。……対話が必要だ、と気づく。
7月17日 (日) 鏡に見蕩れて
 歌舞伎座にて『NINAGAWA 十二夜』を観劇する。蜷川幸雄氏が、シェイクスピアの『十二夜』を尾上菊五郎一座のために演出した作品。原作は1600年前後の時代風刺劇で、コメディの色合いが濃い。また、シェイクスピアらしい言葉遊びが随所に盛り込まれている。そんな作品を選んだ尾上菊ノ助の冒険心に興味をいだきつつ、1階6列目、しかもほぼ中央の席に座る。
 幕が上がる。
 と、舞台一面には観客の姿が。今そこで舞台に目をこらす私たちの姿が、非常灯やわずかな照明とともに、舞台の奥に……カガミ、鏡。鏡が舞台の奥全面にあり、私たちはいきなり私たちを見てしまった。そして間もなく鏡の壁は左右に割れ、その間から船が現れる。船は舞台中央部を徐々に前進。船上には見目麗しい武士と、荒武者風の船乗りが立っている。菊ノ助演じる主膳之助のマア美しいこと。黙って立っていれば浅草寺の菊人形。雄々しいセリフを語って後ろに退き、ちょっとして再び船上に立ったのは艶やかな着物を身にまとった琵琶姫。実はこれも菊ノ助、とわかっていてもその可憐に息をのむ。細面と涼しい目元が女方に向いているとはいえ、ここまで化けてみせればたいしたもの。多くの女性客はただうっとり、私もただ見蕩れるのみ。
 こうして始まった芝居は、「鏡」に象徴される人間の二面性や偏見・誤解などに言及しながら大詰めへと進んでいった。差別語、連発。人間の「阿呆」性についての対話がくどいぐらい繰返される。そんなシェイクスピアらしい言葉遊びは、残念ながら空回りの感が否めなかった。だが、舞台美術の素晴らしさが観客を飽きさせることなく、最後まで芝居に集中させる。無論、菊ノ助の二役は見事。また、麻阿(まあ)役の市川亀治郎の達者ぶりに感心。かくして、乾いた幸福感に満ちたラストを迎えた。
 充分に堪能して銀座でビール。わざわざ猛暑の中、朝から並んで当日券を入手してくれた編集者S田さんにひたすら感謝。ほんと、ありがとう。帰宅後、小田島雄志・訳の原作を読みつつ昏倒睡。
7月16日 (土) 板橋でボローニャ
 ウータとオランのブラッシングを済ませて入浴後、抜けの悪い湿気だらけの街に出る。最寄りの白金高輪駅から地下鉄に乗り、三田線終点の西高島平駅まで。乗車時間47分。こんなに長く地下鉄に乗り続けたのは生まれて初めてで、それだけで疲れを覚える。さらに駅から15分間ほど歩き、板橋区立美術館にたどり着いたときには、もうへとへと。背中は汗でべとべと。
 小ぶりの館内では「イタリア・ボローニャ国際絵本原画展」が開かれていた(〜8/14まで)。『はっくしょんベイビー』の絵を描いた伊藤孝さんが今年のコンテストで見事入選を果たしたとあって、展示されている原画を鑑賞。入選者の作品コーナーには、ちゃんと『はっくしょんベイビー』が置かれてあった。特別展示のマックス・ベルジュイス(残念なことに、今年の1月逝去)の作品はもとより、世界中の入選者の絵のうまさに感心。アイデアを可能にする絵の実力の高さに感じ入る。何度も原画の前で唸り、うなずき、にやりと笑ってしまった。気がつけば、暑さを忘れて絵本の世界に浸っていた。
 しかし、だ。
 美術館から一歩外に出た途端、また汗が噴き出す。しかも通り雨まで降ってくる。やれやれと何かを諦め、覚悟してヨボヨボ歩いて西高島平駅。ほんとうはJR板橋駅前にある近藤勇の碑まで足を運びたかったのだが、電車に乗ってすぐに改心し、そのまま白金高輪駅まで座して動かず。駅に到着して帰路、自宅の前を通り過ぎてそのまま「あら喜」まで歩き、当然のように生ビールを飲んで蘇生。
 へなちょこ男はどんどん夏が嫌いになっていく。
7月15日 (金) 頭。
 一日家にいて、ほとんどをソファの上で過ごす。それでも朝が昼になり、日が沈んで夜が来る。このままヨイヨイになっていくのかしら。頭。
7月14日 (木) うっぷ。ぷぷぷ。
 さっき銀座から帰ってきた。2時、だ。嘔吐感はない。つまり、幸せな酒席だったのだ。つくづく、元々酒が飲める人間が吐き気をもよおすか、否かは、酒席の相手によると思う。相性のいい相手なら気持ちはいい。いい酒となる。とはいえ、そのために飲み過ぎてしまえば同じ最後を迎えてしまうのだが。
 うっぷ。ぷぷぷ。
 今夜いっしょだったM木君は、サラリーマン時代の2年後輩ながら、私が高校3年生になる春の甲子園大会に出ていた同学年の球児でもある。その彼が今月独立した。相変わらず高崎から新幹線通勤しているので途中で別れ、私はその後も一人飲み続けた。途中、数冊の『シュヴァイツァーの仕事』にサインしながらアイラ島のモルトをくぴくぴ飲み、さらにはもう一件のバーで「フィッシュ&カツ」サンドを喰らってジントニックで仕上げた。
 「ハートマン」M田、「ペントハウス」T橋、ありがとう。君たちは血のつながりのない私の親族です。どうか、……老後もよろしく。
7月13日 (水) まったりとジュリー
 まったりも2日続くと無為になる。無為は人生の本質だとも思うが、それがどうして、なかなか安住できない。安寧には至らない。しこしこと勝手に何かをはじめ、勝手に悩むことになる。ジュリー(沢田研二)を筆頭に、他人からあれこれ言われるまでもなく、人は「勝手にしやがれ」の生を進めてゆくしかない。つくづく生きていくのもご苦労なことだと思う。だから、妙に気張っている人を見かけると、思わず「ご苦労さん」と声をかけてしまいそうになる。
 ところで。
 ジュリーは元気かな? 肥っててもいいから、元気でいてほしい。
7月12日 (火) 腹、まったりとはちきれる
 朝食後、書見。小説と伝記を交互に読むうちに眠ってしまう。3時間余りして起き出し、レトルトカレーを食す。その後、また書見。夕方、CS放送でマーロン・ブランドのドキュメント番組を観る。彼の自伝の書評を書いたこともあり最後まで。没後1年、すでに伝説化は完了したらしい。夜はほぼ2年ぶりに近所の「壱参ラーメン」へ。ビールと支那そば(もやしとコーンをトッピング)と焼餃子で腹、はちきれる。どうにもまったりとした一日だった。
7月11日 (月) 解放、ひとまず。
 朝から机に向かい、午後2時、『セシルのビジネス』どうにか脱稿。実質、第3稿となった。いつもどおり脱稿ハイとなる。気を鎮めるために熱いシャワーを浴び、数日ぶりに外出。懸案の眼検診を受けるために表参道へ。しかし、担当医が早々に帰ってしまい、受診できず。不快指数81%の街を歩き、久しぶりに青山ブックセンター本店へ行ってみる。今朝方も本が届いたばかりなのに、また数冊購入。レジへ向かう前に平台を眺めると、『シュヴァイツァーの仕事』があと2冊となっていた。
 帰宅してまたシャワー。それから祝杯をあげようと、白金の「ケセラ」へ本を持って向かう。だだ茶豆をつまみに生ビールを飲み、その後は黒糖焼酎。穴子とキュウリの酢の物、明石タコの七味焼、しめ鯖、さつま揚げ、シマ鰺の薄造り、海ぶどうの酢の物、もずく酢、そして最後に、鯛の笹巻き寿司をいただく(それにしても、我ながら酢の物の多さにあきれる)。演劇をはじめ諸々の話題で盛り上がりながら、解放の夜を満喫する。
7月10日 (日) 血流
 午前、何も考えずにウータと遊ぶ。オランはベッドの隅で早いお昼寝。
 昼から改稿。21時前、遅い夕食をとるまでつづける。原稿に集中していると食欲を忘れているのだが、いざ箸をもってテーブルに向かうとガツガツ食ってしまう。食えてしまうのだ。その代わり、一度胃に向かった血のめぐりを頭に戻すのは難しい。ついついテレビの前で腹をさすり、ぼうっと過ごしてしまう。脳から言葉が逃げていき、その隙間に睡魔がもぐりこむ。
 おやすみ。
7月9日 (土) うな重で大友
 午前、サギ草の植え替え。ふと鷺沢女史を思い出す。小さい躯にいつも義憤を抱えていて、酒席をともにすれば朝まで話が止まなかった。テレビで対談する際も、銀座の文壇バーを舞台に選んで飲みながら話した。そんな彼女が亡くなってもう一年と三ヶ月が過ぎようとしている。
 昼から、改稿再開。もっとよくなると信じて朱をいれていく。連載分をまとめた初稿はガンガン削られ、細かい直しがびっしりと書き込まれている。遅い昼食をはさんで、また改稿。夜までつづけて机の前を離れ、「つきじ宮川本廛」三田店から出前でとったうな重と肝吸いで夕食。数分でたいらげ、バレーボールの試合、アメリカVS日本を観戦。大友選手、かっこいい。真鍋かおりをぎゅっと引き締めて戦士に仕上げれば、彼女になる。てなことを考えているうちに睡魔に誘われ、ひょこひょことベッドへ。猫たちに襲われる前に爆睡。
7月8日 (金) 書くことは読むことだ
 改稿は終わった。だが、納得はしていない。だから、また最初から読み直す。とはいえ、相手は400枚を超える長編だ。精読するだけで数時間を要する。アア、と嘆きつつ、意を固めて読む読む読む。
「書くことは、読むことだ」
 或る人がそう言った。慧眼である。書き手は、いかに素の読み手になって己の著述に疑問をはさめるか。その上で的確な言葉を用意し、ときに気持ちよく裏切ってみせるかが大事になる。
 結局、本日も自宅軟禁。
7月7日 (木) 宅配便の日
 朝、クロネコの来襲で起こされる。集英社経由で送られてきた荷物の中身は、長崎女子高校から届いた講演会の感想文。1000枚を超えている。その数に圧倒されながらもソファで読み始め、昼までかかって読了。N希さん、Aヤさん、H香さん、K織さん、T美さん、Y花さん、S織さん、Y希さん、N知さん、A香さん、R衣さん、……みんなありがとう。2005年6月10日、あなたたちの前で「言葉」について話ができたことに感謝します。今度は、私の本を読んだ感想を編集部に送ってください。(それにしても、みんなの名前がどれもこれも芸名みたいで驚いた。ひとつ間違えれば源氏名とかわりなく、かつていろんな店で酒を酌み交わしたホステスたちを思い出す)
 午後からも頻繁に宅配便が届く。猫の新しいトイレ、本、CD、書類。ついでに日本ペンクラブからのファックスも。その度に仕事を中断して対応。やれやれと思っていると、今度はパパ・セシルから電話。「セシルのビジネス」の仕上がり具合を確認する。その後は夕食をはさんで改稿をつづけ、深夜、どうにか脱稿。まだまだという思いは残るが、ここで一度パパ・セシルのチェックを仰いでみたい。
7月6日 (水) 見込みは、見込み
 終日、自宅軟禁。改稿と書見。夕方、小腹がすいて揖保の糸。夜は夜で、鶏胸の竜田揚げ、毛ガニ、ごま豆腐、白飯。食欲順調、執筆不順。とはいえ、改稿も明日には終わる見込み。
 美智子皇后が首を痛めたとの報に胸が痛む。右翼でも、国粋主義者でもないけれど。
7月5日 (火) 祭りは中止
 本日も自ら自宅軟禁。
 改稿の合間、昼過ぎから国会中継をテレビで見る。郵政関連法案の採決は、報道のとおり5票差で可決された。それはそれで見物だったが、祭りが中止になった気分を味わう。「なんだよ、ここまできたら否決して解散総選挙やれよ」といった空気が、マスコミにも、おそらく多くの国民の間にもあったはず。より劇的な物語性を求めてしまう悪癖は、これはもう人間の業なのだ。しかも、閉塞感に満ちた社会であれば尚更だ。だから、もしも参議院での採決をゴールデンタイムに合わせて生放送したなら、きっと15〜20%の視聴率を記録するだろう。
 その後18時まで改稿をつづけ、ついに軟禁を解いて外出。散髪へ。帰宅すると見本誌が数冊届いていた。その中に「ダ・ヴィンチ」8月号。インタビューページに掲載された自身の写真を眺め、しみじみ「年とったなあ」と唸る。21時過ぎ、「あら喜」にて夕食。茶豆でビールを飲み、生ガキ、ほうれん草のごま和えで焼酎を飲み、最後は牛しゃぶサラダで白飯。「あら喜」の看板娘(6歳)にいくつかクイズを出されるも、一問も答えられず侮蔑される。その後は西方ではじけ、4時すぎ、小雨に濡れながら帰宅。
7月4日 (月) 毛ガニの独立記念日
 5時起床。8時より改稿。食事や休憩をはさみながら夕方までつづける。まだ終わらない。この状況に開き直りつつある自身に呆れ、ベランダで森光子式スクワット。ついでに6キロのダンペルを両手に持って上げ下ろし。汗、噴き出す。シャワーを浴びてテレビを見ているところに、函館より毛ガニが届く。夜、毛ガニを食べている最中、ふと、今日がアメリカの独立記念日だったことを思い出す。……アメリカ、か。
7月3日 (日) 長島茂雄の次元
 長島茂雄・読売巨人軍終身名誉監督が東京ドームに現れた。
 御前試合、とまで表現されるように、長島氏の存在はもうずいぶん前から「天皇」と同等の位置づけにある。各分野で多用される「天皇」だが、彼ほどしっくりくる人物はいない。昭和30年代の前半からスーパースターとなり、復興期の日本社会だけでなく沈滞期も、転換期にもその立場にあり続けた。そして、昭和天皇が逝った1989年を中心に、手塚治虫、美空ひばり、松下幸之助ら昭和の時代を彩った各界の大物がこの世を去り、長島茂雄は最後の「民間天皇」に祭り上げられたのだ。かつて、彼は側近に「長島茂雄を続けるのもたいへんだ」と語ったらしいが、その重圧はいかなるレベルのものかと思う。比較する対象が日本にはいないのだから、誰にも実感することはできない。つまり、想像の域内に彼は生きているのだ。
 ところで、私は長島茂雄のファンではない。無論、信奉者でもない。彼の選手時代の後半から見てきたが、強く記憶に残っているのは、王貞治が阪神のバッキー投手から頭部に死球を受けて退場となった直後にホームランを打った場面だ。王選手のファンだった幼い私は溜飲を下げた(もちろん、当時はそんな表現は知らない)。喝采を叫んだ(ひたすらテレビの前で手を叩きながら万歳を繰返した)。長島ってのは偉い人だと思った。ドラゴンズとの引退試合で444号目のホームランを打った時は、「さすがスーパースターは違う」と感じた。だが、例の「読売巨人軍は永久に不滅です」のスピーチを聞いた時にはげんなりした。私はまだ子どもだったが、「永久」や「不滅」なんて言葉を平気で使う人を信用しない視座は身につけていた。その出来事は決定的で、彼が監督ならジャイアンツは勝てないだろうと予想した。事実、彼の監督時代、ジャイアンツは誰の目から見ても最強の選手を集めたが、たまにしか優勝しなかった。
 その後の彼の処世には言及しないが、長島茂雄という人物を見てきてつくづく考えるのは、「言葉の次元」についてである。長島茂雄を「長島茂雄」たらしめている要素として、その明るい表情(絶品である)とともに重要なのが、例の言葉遣いであるのは間違いないだろう。「永久」や「不滅」や「愛」などのいい加減で謎だらけの言葉であっても、長島茂雄が口にすると許される。しっくりくる。なぜか? それはおそらく、彼自身がいい加減で謎だらけだからだ、と私は推察している。謎なる人物が謎だらけの言葉を発するのだから、しっくりくるのだ。意味不明に意味が生じ、それがまた、長島茂雄をより「長島茂雄」たらしめていく。つまり、意味不明の言説を許される次元に、もうずいぶん前から長島茂雄は存在しているのだ。それは、確かに「天皇」の位置に近い。さらにいえば、皇室典範を変更してでも「天皇」は継続されるが、「長島茂雄」は一代限りである。だから、なおさら彼の存在感は上昇することになる。この点をわかっていない原監督が「ジャイアンツ愛」と口にしたときの醜悪さといったらなかった。何だよ、「愛」って。中畑にいたっては論外。
 長島茂雄はその人生を賭して「長島茂雄」となり、2005.7.3もまた「長島茂雄」として観衆とメディアの前にその身を晒したのだ。覚悟が違う。私たちはこの夜、生死を賭しての「明るい意味不明」が存在する不思議を味わい、感激したのだ。
 
7月2日 (土) 地鶏の生刺し
 朝食後、「セシルのビジネス」の改稿。途中、休憩をはさんで午後3時まで続け、外出。タクシーにて目黒本町まで。16時過ぎからS平宅で出版のお祝い食事会。S平君の実家は鹿児島、夫人の実家は秋田とあって、S平宅には絶品の地鶏が届く。それを生刺しでいただく私。名古屋近郊で育った私は名古屋コーチンをよく食べたが、生刺しなら薩摩地鶏が一番だと思う。焼くなら比内か。無論、酒は焼酎でなければいけない。
 23時半、車で白金高輪駅前まで送ってもらい、そこから歩いて帰宅。松永美穂さんが翻訳された新しい本『夏の家、その後』(河出書房新社)が届いていた。その本をなでつつ昏倒眠。
 
7月1日 (金) 毛ガニのご案内
 終日、自宅。改稿と書見を繰り返す。夕方、4年来のつき合いとなる函館の水産会社から毛ガニの案内が入る。あっさり注文。窓口のH谷山さんとは一度も会ったことがないのに話が弾む。きっと会話の間合いがあうのだろう、などと考える。考える。そんなことをきっかけに諸々の事象や関係について思いが巡る。気がつけば日が沈んでいる。夜、次作