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稀代の文章家、武田百合子さんが亡くなって10年が過ぎました。 この間、交友のあった人々(ほとんどが著述業の方)の文章が、おもに雑誌に発表されました。 『武田百合子全作品』(中央公論社)も刊行されました。 2004年2月、初めての総特集『KAWADE夢ムック 文藝別冊 総特集 武田百合子 天衣無縫の文章家』((文芸別冊)河出書房新社、編集人・西口徹さん、編集・大西香織さん)が書店に並びました。 『全作品』最終巻7(1995年4月)、『百合子さんは何色』『文藝別冊 武田百合子』には、弟さん・鈴木修さんの「武田百合子略年譜」が収録されています(それぞれ若干の違いがあります) 百合子さんの生涯の輪郭や具体的なエピソードは、これらや写真(とくに娘さん・花さん撮影のもの)から知ることができます。 (こんなリストも作りました →百合子さんのことがわかる記事・文献) 『文藝別冊 武田百合子』や、ここのクロニクル(年譜)、全作品リスト、百合子さんのプロフィールをごらんになると、『全作品』所収の『富士日記 ―不二小大居百花庵日記―』『犬が星見た ロシア旅行』『ことばの食卓』『遊覧日記』『日日雑記』のほかにも、百合子さんが多くの作品を発表していたことが見てとれるでしょう。 もちろん、かねてから、ご存知の方も多くいらっしゃったに違いありません。 たとえば『武田百合子全作品』に中村真一郎氏は、 (泰淳死去の)「悲しみから脱出するための、数年間の百合子さんの荒行ぶりのすさまじさは、いくらユーモワまじりでもとても聞いていられなかった。それはほとんど狂人の所業、地獄降りに似ていた。その経験をあからさまに記述した物が、今回の「全作品」入っているだろうか」と、 中村稔氏は、 「生前本に収められなかったこれらの文章はまだ他にも数多いはずである。私はそれらが他日集められ、刊行されることを期待している」と、 赤瀬川原平氏も、 「「海」連載していた映画を見に行く話なんか、毎月待ち遠しかった」 と寄せているのですから。 しかし、当時は『全作品』というタイトルを冠せられながら、単行本の再録にとどめられたのでした。 わたしが百合子さんの名前と本を知ったのは、残念なことに逝去後でした。前述した人々の切れ切れの言葉をたよりに、百合子さんの作品を探しはじめました。 すると、少しずつですが、数珠つなぎのように未知の作品が現れてきました。それらが決してわずかではなく、作品群といえるくらいあることが分かりました。これは、単行本だけがすべてだと思っていた私にとって、大きな驚きでした。 単行本未収録作品は『日日雑記』2冊分近くはあるように思います。 それらの内容はすばらしいです。5つの著作とはやや異なる世界を見せてくれる作品も少なくありません。 また、百合子さんの本をお好きな方なら、わかってくださるに違いありませんが、対談、鼎談、談話も魅力的です。 村松さんの『百合子さんは何色』のおかげで、女学校時代からの同人誌『かひがら』の存在が明らかになりました。 同誌に寄せた詩や文章、私的な書簡、それから前述の、雑誌などに発表されたものの単行本未収録作品のほかにも、百合子さんの文章はあります。 発表はされていないし、作品リストには載っていないものです。 その一つが、夫・泰淳さんの文学活動のために書いた「メモ」です。 泰淳さんが亡くなるまでの、百合子さんの日記のおもな目的は、彼の創作活動に貢献するためだったようです。 なぜなら、泰淳さんは自分のいくつかの作品に、『富士日記』『犬が星見た』のもとの日記を引用しているからです(百合子さんのことがわかる文献・記事末尾もごらんください)。 泰淳さんの代表作といわれる『富士』や、朝日新聞に掲載された短いエッセイ『山麓のお正月』、編集者の、『富士』連載をめぐる文章などからは、泰淳さんが1963年、それまで体験したことのない山荘生活、それもさまざまなプレテクストと意味に充ち満ちた富士山に住居するにあたって、「壮大な作品をいつか書こう」と構想していたことが伺えます。 『犬が星見た』のあとがきには、「「つれて行ってやるんだからな。日記をつけるのだぞ」そう武田は言った」とあります。百合子さんはふざけた風に書いています。 しかし、これは泰淳さんからの執筆要請だったのではないでしょうか。もしかしたら、文学生命を賭けた。 のちに、健康の衰えた泰淳さんは、百合子さんの日記を『目まいのする散歩』に用いました。『目まいのする散歩』は野間賞を受賞しました。 『富士日記』も、泰淳さんが自分の作品のために付けることを要求して始まったのでしょう。 実際、地元の方の話を記述した箇所(1965(昭和40)年6月8日)の泰淳さんのせりふに、それは伺えます。 『犬が星見た』は百合子さんが実際に旅行中に付けていた日記に基づいていますが、もとの日記の割合が大きいように感じます。『目まいのする散歩』の引用部分は、『犬が星見た』とあまり変わらないからです。 百合子さんは移動が多く、忙しいツアーのなか、長大な日記を付けていたことになります。それは、泰淳さんがわざわざ用意した時間ではなかったでしょうか。もしかしたら、山荘生活にもそんな時間があったのかもしれません。百合子さんは、ただの専業主婦ではなかったことになります。 泰淳さんが自分の作品に、自由に引用していたところから見ると、『富士日記』『犬が星見た』のもとの日記のほとんどを読んでいたと思います。興味を持った所だけの流し読みかもしれませんが。 泰淳さんは『富士日記』を編集者に見せてもいます。 したがって、百合子さんの日記は、泰淳さん逝去の後、行李の底から現れたのではなく、泰淳さんの生前から、彼によって社会に“にじみ出て”いたのです。泰淳さんのお通夜のときに、日記掲載の話が決まったのも、そのためでしょう。 百合子さんの日記と、そのありかた、社会の関係。その方法、内容、それから誕生、すべては泰淳さんの手のうちにあった、と言えるのではないでしょうか。 日記の公表も、そこから築かれた百合子さんの文筆家・エッセイストとしての後半生も、泰淳さんからの贈り物、遺産といえるかもしれません。 さて、泰淳さんの『新・東海道五十三次』からは、この作品のためにも百合子さんが「メモ」(同書)を書いて、提供していたことがわかります。 泰淳さんは「メモ」と書いていますが、これも『富士日記』『犬が星見た』のような文章だったのではないでしょうか? そうだとすると、『富士日記』の「間奏曲」(『海』編集後記)でもある『犬が星見た』のように、 『富士日記』の『新・東海道五十三次』ヴァージョン、 あるいは『犬が星見た 東海道五十三次』 もあり得たはずです。 いつ泰淳さんは百合子さんの綺羅星のごとき文学的才能に気づいたのでしょう? 私の率直な気持ちをいわせてもらうと、「独占」したのでしょう? それはやはり、あるとき、詩文か、私的な手紙、はたまた本当に他人には見せるつもりのない日記など、百合子さんの文章を読んだのだと思います。 そうすると、『富士日記』以前の百合子さんの文章「メモ」、「日記」的な文章もあったのではないか、と考えられます。 あるいは、山荘完成を機に、執筆を要請したのか。そうすると、これは泰淳文学の軌跡にとっても、重要なできごとだと思われます。 それ以外のの未発表の文章は、泰淳さんが亡くなった後の日記です。 百合子さんの作品と人生を照らし合わせると、作家となってからも日記をつけていて、それを元に、やや過去の日記風エッセイを書いたように思えるのです。 また、中村稔さんが紹介しているように、私的な書簡もきっと魅力的なものでしょう。 すぐれた作家の全集が編まれると、そこには発表された作品以外も収録されています。わたしは、百合子さんが発表しなかった文章も、一種の作品だと思います。 どんな作品が「埋れ木の人知れぬこと」となっているのでしょう。 百合子さんが遺してくれたものは、文章と言葉だけではありません。 『富士日記』の、とくに娘さんの武田花さんの日記(昭和40(1965)年1月4日)や、夫君・武田泰淳さんのエッセイ『山麓のお正月』、小説(? エッセイ?)『目まいのする散歩』からは、百合子さんの「日記」には絵や図が多く描きこまれ、単行本とは雰囲気がかなり違うことがわかります。 それらの絵や図からも、百合子さんの魅力的な感性が垣間見られるものにちがいありません。 『犬が星見た』にはカメラをめぐる記述があります。百合子さんはどんな写真を撮ったのでしょう。 ・・・と、かねてから気になっていたところ、『文藝別冊 武田百合子』に、『犬が星見た』のなかで百合子さんが一番生き生きしている中央アジアでの写真が掲載されました(ブハラのもの)。 百合子さんの眼、視界を、もっと見たく思います。 以前、文芸誌で小説家の奥様が、百合子さんの「全集」を購入した喜びを語っていました。 「全集」とは『武田百合子全作品』のことでしょう。 わたしは、その高齢の方の喜びを思うと、胸が痛くなるようでした。 『全作品』は代表作とはいえ、単行本を再録したものに過ぎず、百合子さんの魅力を伝えてくれる多くのものが取りこぼされているからです。 前述してきたそれらをまとめると ・単行本未収録の作品、対談、鼎談、談話、インタビュー ・百合子さんは作品として発表はしなかったけれど、今日からすると作品であるもの →絵、写真、書簡、そのほかの文章(泰淳さんの小説のための「メモ」)など ・『富士日記』『犬が星見た』のもとの日記帳の複製 ・百合子さんについての諸氏の文章、雑誌新聞記事 わたしはこれらを収録した全集を願っています。 『全作品』自体は立派な書籍ですから、アンソロジー、拾遺集でも構いません。 媒体に発表された単行本未収録作品のいくらかをコピーして持っているものの、(心の中では「コレクション」とうっとり呼んでいるのですが)、12編が収録された『文藝別冊 武田百合子』には、やはり書籍の良さを実感しました。 本の形になり、多くの人が簡単に楽しく読めれば、多くの喜びがこの世にもたらされるでしょう。同時に、百合子さんの世界、全貌・生涯について、多くの発見が生まれるはずです。 『めまいのする散歩』では、百合子さんが泰淳さんのもう一つの“眼”、カメラ、この世界を動きまわるアンテナになっています。 (泰淳さんがそれをハッキリ認識していたのなら、『犬が星見た』の「百合子。面白いか? 嬉しいか?」は、泰淳さんが百合子さんから、観測データを得る例として、意味が深く思われます) もし、泰淳さんがもっと長生きしたなら、百合子さんの書く物の役割は、もっと高まったのではないでしょうか。 百合子さんは単なる、存在しているだけのミューズではありませんでした。また、よく紹介されているように、家事や運転、「口述筆記」によってだけ、偉大な作家である夫の生活を支えた専業主婦でもありませんでした。わたしは、文学的才能によっても、たいへん献身的に奉仕した、“書く妻”だったと思います。 この献身は、表彰・顕彰という見返りを求めませんでした。むしろ、百合子さんに沈黙を強い、後半生を、作品のジャンルを規定してしまったように思います。 ミューズとしての百合子さんの精神、性格、感性。また、家事や運転、口述筆記。そのうえ、文章や絵や写真も、泰淳さんの文学活動に貢献していた。 百合子さんはそんなこと明かしていません。 『富士日記』の始まりについては、本にもいくつかの雑誌にも一見、気さくに表していますが、よく読むと、書いた理由は不明なのです。 かえって、この態度も証拠になるのではないでしょうか。 私には百合子さんが、日記誕生の秘密を隠し、泰淳文学に貢献した自分の姿を隠しているように見えます。 泰淳さん逝去後の百合子さんは、文筆家へと変身、転生して、活躍しました。 しかし、百合子さんの後半生は、泰淳さんに規定されてしまった面があったはずです。 泰淳作品への関わりについて、最後まで沈黙を貫いたこと。 才能を高く評価する人々が勧めても、小説を書かなかったこと。 女学校時代の百合子さんの詩作に、詩が隆盛した当時の影響がもしあったなら、現代の、文学的に敏感な百合子さんは小説も書いたことでしょう。 もし、百合子さんが何ものにもとらわれず、自由であったなら。 資質ではなく、百合子さん自身が自らに課した決まりによって書かなかったのではないでしょうか? わたしには、泰淳さんと百合子さんの関係は一種の共犯関係にも見えます。 それも、百合子さんの死までつづく関係です。 泰淳さんが無言のうちに強(し)い、百合子さんが応え、自分で決意したのではないでしょうか。 戦後まもない東京での泰淳さんとの出会いは、ひとりの繊細な文学少女が冥界までたずさえて逝く盟約になってしまったかのようにも思われます。 泰淳さんは生前、「泰淳百合子比翼之地」という墓碑の文を用意しました。これが江戸時代の心中した男女の「比翼塚」とも重なることは、あるいは、そう無理やり見ると、その意味は深く、また恐ろしくも感じられます。 わたしは、プライバシーを覗き見したいわけではありません。 百合子さんに近い年齢の方には、(ほんの少し年下であり、そのことと終戦の年の関係が決定的な違いをもたらしたのかも知れませんが)、田辺聖子さん(1928年生)、須賀敦子さん(1929年生)、宮脇愛子さん(1929年生)、草間弥生さん(1929年生)らがいます。 それぞれ、働きながら、雑誌に投稿し続けたり、自分の求めるものを追って外国へ渡ったりして、苦労しながらも表現活動をつづけました。 対して、作家としての資質、志向をもちながら、長年それを夫の文学活動に貢献するためにもちいて、彼の亡き後はエッセイ(あるいは、何という枠にも収まらないもの)を書いた。しかし小説家にはならなかった百合子さん。 そんな百合子さんの強い生涯も示唆を与えてくれると思います。 百合子さんは決して寡作ではなく、5つの単行本のほかにも多くの作品を生み出していた。 それを知っていただきたくて、クロニクル(年譜)を載せてきました。 しかし、初めての総特集『文藝別冊 武田百合子』が出版された今、別の新しいことが始まることを願っています。 |