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これを書くきっかけは、パソコンで「女給」という言葉を変換できなかったこと。「序旧」か、ひらがな、カタカナしかない。わたしの使っているソフトだけかもしれないが。 しかし「女給」という言葉が使われなくなりつつあるのは確かだ。「あさってから、女給のバイトするんだー」なんて聞いたことないもの。 明治時代から戦後しばらくまでの小説・文章(近代文学ということにしておきます)にはけっこう出てくる言葉なのに。「女給」は今や、「をかし」「あはれ」のような古語かもしれない。 百合子さんは 「昭和二十二、三年ごろ、(略)私はそこ(注 「らんぼお」)の女給をしていた。」 と書いている(「椎名さんのこと」)。それを引き写していたら、変換できなくて、はじめて衰退に気づいたのだった。 女給について、宇野千代はこう書いている。
こう省みたあと、お店で滝田樗陰(ちょいん)という有名な編集者や、今東光という有名な作家に出会ってデートしたこと、芥川龍之介、久米正雄という有名な作家を見たことなんかを書いている。 ぜんぜん「女給」ではなかった、と強調してやまないのだ。女給の地位の低さが思われる。 これは1917〜19(大正6〜8)年のことらしい。現在、カフェの歴史を語るところにも、「女流作家」宇野千代も「女給」をしていた、と書かれていたりする。上のように書いた千代姐さんが読んだら・・・ わたしの好きな『典子』のヒロインも女給をする。・・・と思ってぱらぱらと再読したが、「女給」という言葉は出てこなかった。(『典子』は伊藤整の小説。1990年代半ば、センター試験に出題された)。 典子の仕事は「喫茶店」でお茶やコーヒー、ビールなどを運ぶこと。お客は学生。男子だけ。あと、文学や映画や芸術に関心のある若者。これも男性だけ。お客の目的のひとつは、典子たちと言葉を交わすことだった。 もともとマダム(と呼ばれている)は崩れた感じの人であったが、お店もしだいにだらけて低俗な雰囲気に変わっていく。典子は「こんなところにはいるべきではない」と気づく。このままいれば、先には水商売へ進む道しかないのだ。 この小説は、後半やっと出てきた「出征」「応召」というわずかな言葉などによって、対外戦争が起こっており、実は緊迫している時代だ、ということが感じられる。しかし、はっきりとした年代はわからない。それによって却って、都会のふつうの日々のなかに描かれる、何かを求めて必死な典子の変化と成長に共感をおぼえる小説である。 (たしか)『伊藤整全集』の月報では大学の先生が、年代のあいまいさについて書いていた。伊藤整はできるだけ、戦争という当時の状況を排除しようとしたらしい。戦争に関わらないようにしたらしい。その努力の極限のひとつが、昭和15(1940)年12月に刊行された『典子』だったという。 たしかに前年は第2次世界大戦開戦、日中戦争はずいぶん前から続いている。戦争に勝つ、というか、もしかしたら続けていくために、さまざまな法律が作られ、国民の生活も、考え方も圧迫されつつあった時だ。 (ちなみに『伊藤整全集』の解説が好きだ。典子への共感と好意が土台にあるのだ。新潮文庫の解説はだめである。) 伊藤整が典子を喫茶店の住込み店員(女給?)にしたのは、親戚の家で疎外感を感じていた孤児・典子を、さらに落とすためだったろう。典子は精神的に“はみだしっ子”であったけれど、親戚の家にいる限りは、常識的な一般家庭の人間なのだ。 喫茶店の仕事から、タイプライターの勉強を始め(現代のパソコン、ワード、エクセルか?)、識見のあるらしい砂田という人間の子どもの家庭教師に変わる。小説はそのあたりで終わってしまうのだけど、ただの家庭教師の仕事ではないようだし、もっと上の仕事につながっていきそうな印象を受ける。 典子自身はその仕事を得ても、鈴谷というインテリ会社員(会社生活には飽きている)と関係を持っても、まだ迷い続けている。鈴谷から離れる(彼を捨てる)と決めたラストでは、ますます典子がどう生きていくのか、見えてこない。 性が生き方を決めていたからだと思う。喫茶店の仕事は、もろい性的な関係をもつことに直面するかもしれない場所で、典子にとっては、危ない崖淵だった。喫茶店から離れようとする典子は、実は、そういう性を回避しようとしていたともいえる。しかし小説は急展開して、仮の夫婦というかたちをとり、処女でなくなった。しかし、典子は相手と別れる。そこで、性に関する基準がなくなり、わたしには典子の将来がわからなくなったのではないか。 これが没後20年をむかえた有吉佐和子であると、小説のヒロインは職を得て、ばりばり働いて成功し、最後には安定した心境を獲得するのだろう(『紀ノ川』『有田川』『香華』『連舞』『乱舞』など、高校時代、大好きだった)。 典子の仕事は「女給」よりは地位の高いものだったかもしれないけど、この小説では最低の底として設定されている。そして、典子の喫茶店での仕事は、数年後の第2次世界大戦後、百合子さんが喫茶店「らんぼお」などでしていたことと同じに思える。 永井荷風の『墨東綺譚』(「墨」はサンズイのついた旧字)にも女給が登場する。語り手「大江匡」が入り浸って関係を持つのは、「明治年間の娼妓」を思わせる玉の井のお雪。女給は、大江の作る小説内で元教師が同棲する「すみ子」。彼女は以前、種田家で下女をしていた。
決めかねている種田に、すみ子は「なかったら今晩一晩くらい、わたしのとこへお泊んなさい」と言ってくれる。家族(たとえば「肥満した婆(ばば)」)に蹂躙されてきた種田には、開放や自由が感じられたのことだろう。玉の井も荷風は、やさしさと自由のある空間として理想化している面がある。 すみ子のアパートは「お隣も向側もみんな女給さんかお妾さん」らしい。時代は、1936年ぐらいのようだ。 これらから、「女給」は、性的関係をごく近いところにある仕事だったようだ。『岩波国語辞典 第五版』には「今は「ホステス」と言う」という注が加えられている。戦後とはいえ、「私はそこの女給をしていた。」という百合子さんの「女給」は、本来のそれとは異なるものだろう。 百合子さんは言葉に敏感な人だった。なんで「女給」という言葉を使ったか? それは、自分を低い存在として表現したかったからではないか。これは、百合子作品に通底するユーモアとは別である。 「私はそこの女給をしていた。」という一文が含まれている文章には、お店のとなりで行われている「ドストエフスキー研究会」には無関心だったことが書かれている。 また、「思い出すこと」(『脱毛の秋−矢牧一宏遺稿・追悼集』所収)にはこうある。
百合子さんはもともと、感覚でとらえたことをそのまま転記“できる”物書きで、理論家ではない。性格タイプではISFP(内向、感覚、感情、柔軟)にあたると思う。 しかし、百合子さんは、自分が文学関係において無知だと、ことさらに装っている。また、裕福だった戦前の暮らしのことも表していない。 ちなみに、百合子さんが10代のときから文学に関心のあったことを思って、さきの文章の続きを読むと、矢牧さんと深い話をしていたことがうかがえる。 また、『富士日記』『犬が星見た』の始まりについて、百合子さんはいくつかのところに書いたり、喋っている。だが、わたしは百合子さんの言葉を全面的には信じていない。百合子さんは自分が泰淳さんの文学活動に貢献したことを隠していると思うからだ。 誕生して数ヶ月後、昭和になり、平成5年に亡くなった百合子さんは、昭和の人だったといえる。すべての作品は、大きな“日日雑記”であるが、そこには携帯電話も、シネマ・コンプレックスも出てこない。CDではなく、レコードがかかる。なんだか時間がゆったりとして、なつかしい昭和の匂いが流れている映画のようでもある。 「女給」消え昭和は遠くなりにけり、、、(お粗末) いつの時代も変わらない人間の姿が書かれている百合子さんの作品は、これからも読み継がれていくだろう。ただ、今後は意味のわからない言葉が多く見つかるのではないだろうか。 2004/9/7修正 |