紬とは、島尾ミホさんの故郷、奄美大島の大島紬だろうか。 日記には、紬のお礼の手紙が書けないでいるという記述が目につく。文才豊かな百合子さんが、なぜ、おなじような作家気質のミホさんに書き上げることが出来なかったのか? それは、夫君の武田泰淳さんの体調が目に見えて悪くなり、その悲しみ苦しみが心を離れなかったからだろう。 お礼状を書けば、必ず泰淳さんに言及しなければならない。上の引用にあるように、ミホさんは百合子さんの愛する泰淳さんに着せてあげるように、紬を贈ったように思われるし。 前に引用した日記のあと、泰淳さんの病状はさらに悪化し、ついに東京で、百合子さんはお医者さんから、ガンの末期であることを告げられる。そして10月5日、百合子さんの看病もむなしく亡くなったのだった。 『富士日記』は単なる生活の記録や資料集ではなく、文芸作品、すばらしい読み物として輝いている。文芸として、もっとも価値があると思う。 そう思わせる記述のひとつが、1976年の夏および晩夏の日記である。「朝になると風はやんで、小ぶりの雨だけになった。」(9月21日)と結ばれるまで、衰弱していく泰淳さんを思う百合子さんの文章は、読者の胸を打ってやまない。 たとえば、百合子さんはのちに映画評が連載されるほど、映画が好きだったが、1976年は1年ぶりに映画館へ行った。映画は『ジョーズ』。富士吉田町の映画館から帰宅したときの描写が印象的だ。
あるいは、中村紘子・庄司薫ご夫妻が訪れたあとのくだりに挿入されているこんな短文。
また、前にも引用したつぎのような一文どうだろうか。
このほかにも、何度読んでも、胸が締めつけられる文章は多い。 百合子さんが少女時代に書いていた詩文や、のちに作家となって幼少時代・女学校時代を描いたエッセイからは、百合子さんが家庭の人間関係からくる、なにか寂しさを抱えていたようにも感じる。 第2次世界大戦の敗戦によって、裕福な商家のお嬢さんであったろう百合子さんの境遇、人間関係はおおきく変わった。村松友視さんの評伝『百合子さんは何色』によれば、泰淳さんとの出会い、結婚をめぐっては苦しみ、苦労もあったようだ。 1964(昭和39)年から、東京の都会にある自宅と、富士山麓の家を行き来する穏やかで充足した暮らしを楽しむようになった。そして、前に引用した「これが私の家。」という湧き上がるような感慨をもつようになった矢先なのだ。泰淳さんとの別れが近づいたのは。 1976年の日記には、そのことに気づきつつも、直視したくない百合子さんの心のゆらぎも見てとれる。 百合子さんは不安、悲しみを押し隠して、泰淳さんに明るくやさしく接していた。 しかし、島尾ミホさんは感性の鋭敏な人であり、ミホさんに宛てた手紙では、それができなかったのではないだろうか。 ただ、「ものを書くのがイヤな私は家計簿すらつけなかった」と書いている(9月9日の記述のあとの附記)。 『絵葉書のように』(『私の文章修行』所収)でも、『富士日記』の執筆について“明かしている”が、上のような“事実”が“補強”されている。 そして、亡くなるまで、自分は作家の妻で、文章の素人が書きはじめた、という態度をとっていたように見える。 実際、百合子さんが逝去したとき、主婦が偶然、家計簿的な日記『富士日記』を発表してスタート、というような人物評もあった。 しかし、泰淳さんの作品を読めば、百合子さんの文章が織りこまれていること、活用されていることは明らかである。しかも『富士日記』自体に記されているように、日記の始まりは、泰淳さんの言葉、勧め、見方によっては要請である。 泰淳さんはそれ以前に、百合子さんの手紙かなにかで、百合子さんの文学的な資質、文才を知ったのではないだろうか。 百合子さん自身が一生通した「沈黙」、あるいはおこなった「説明」は擬態であり、泰淳さんの“小説”に自分の文章を提供したという貢献を隠す、(でも泰淳さんの作品を読めば明らかなことだから、せめて)おおっぴらにはしない為だったと思う。 埴谷雄高さんなどの作家や編集者から、言われてもついぞ小説を発表しなかったのも、そのためではないだろうか。 原稿のやり取りや、出版関係者の接待、家事や日常生活、山荘購入などの生活の実務や、車の運転、美味しい料理、そういったものも泰淳さんの人生と創作に豊かさと深みを与えただろう。 だが、百合子さんにだけできたことは、百合子的なパーソナリティーを示すことだ。泰淳さんの大作『富士』をみても、百合子さんは、泰淳さんの創作のミューズである。この作品にも日記のことが出てくる。 百合子さんというミューズは、日常生活をともにし、存在するだけではなく、もっとも百合子さんの資質を活かされた献身、おおきな貢献は、百合子さんの個性が発露された『富士日記』をはじめとする文章の寄与だったはずだ。 すぐれた作家の泰淳さんが目を留めたように、『富士日記』を書きはじめたときから、百合子さんの文章には光るものがあった。 そもそも、『百合子さんは何色』をひらけば、女学校時代の詩文や、のちの書簡(体の寄稿?)から、百合子さんがすでに「書くこと」に目覚めて、書き方(対象の捉え方と、文体といっていいかもしれないもの)に関する、一定の感覚を習得していたことがうかがえる。 自分を表現する文芸に敬愛と畏怖の念をもち、一言一句を大切にして文章を書いていたからこそ、「ものを書くのがイヤな私」と記したのではないだろうか。 『絵葉書のように』に記された平明で美しい文章観、書き方の極意は、多くの読者の目を開かせ、感動させる。作家の金井美恵子さんの帯文(『武田百合子全作品3 富士日記)にあるように、 <「私でも書けそう」という甘美ですこやかな野望的共感を読者に抱かせ>るかもしれない。 すくなくとも、わたしはそれに近い気持ちを抱いたことがあるだろうし、そのような平明、明快、広がる野のように明るく快い文章だから、愛読してきたともいえる。 しかしながら、金井さんが書いたように、百合子さんがすでに文章に習熟していた人間だったからこそ、『絵葉書のように』に見られるような、すばらしい「書き方」を披露できたのに違いないのである。すばらしい叡智が示された文、たとえば聖書の文言、賛美歌の詞のいっていることがだれの心にも届くように。 また、世に現れたときから、質の高い文章を発表し続けていたのである。 (後に雑録的な『富士日記』や回想から、純度の高いエッセイへと変化していったが) 泰淳さんの体調が目に見えて悪化していき、百合子さんは不安でいっぱいであった。泰淳さんの体調のことは他人には知らせられない。 かといって、真の物書きであるような百合子さんは、尊敬する友人に嘘をつきとおし、通り一遍のお礼状や、単なる社交辞令を書くことができなかった。 1976年の日記には、死に向かって衰えていく泰淳さんに対するつらい思いが吐露されていて、それまでの『富士日記』の記述とは異色だ。 ミホさんに手紙を書けなかったことと表裏一体のように、百合子さんはこの時期、「日記」を書いていたように思われる。 ミホさんのような敬愛する人への手紙にも書けない、不安、悲しみ、心のゆらぎ。 もう泰淳さんが創作のタネに読むことを想定した山荘生活日誌ではなく、もちろん、後日、誰かに見せるのでもない日日の気持ち。それは、百合子さんが一人、自分の心を鎮めるために書いた日記だったろう。 このようなことは、ちゃんとした読み手は『富士日記』を初めて読んだときから気がついていただろう。百合子さんの苦悩も理解していただろう。だから、この文の冒頭に書いた「重要な意味」というのは、わたしにとってなのである。わたしは『富士日記』のミホさんについての記述を、百合子さんは実は彼女が苦手だったのだろうか、あるいは、文筆家として立つ前から私信でも文章の一言一句を磨いていたのだろう、と思っていた。 “最後の夏”に、山荘で百合子さんがミホさんへの手紙を何度も書きかけてやめてしまった意味。 若かったわたしはちっともわからず、それどころか、お恥ずかしいほどのひどい誤読をしていた。今回、そのことに気づいて、大きなショックを受けた。 のちに百合子さんは、1981(昭和56)年4月、日本読書新聞1面の3回連載の〈わが友〉欄へ、深沢七郎をとりあげた次に「島尾ミホ 眼にいっぱいの涙 端然と座った姿勢のままで」を書いている。 その文章に書かれている、百合子さんが島尾マヤさん(ミホさんと島尾敏雄さんの娘さん。2002年8月逝去。)へ、30年近く前に贈った「ぽっくり下駄」のことは、島尾敏雄さんが『武田泰淳全集 増補版 十五巻』の月報に「或る縁にし」という文章で書いている。 ミホさんのほうも、1985年の書評で、当時出版された百合子さんの3冊目の本、『ことばの食卓』を高く評価している。 このように、公開された文章からも、ともに高名な小説家の夫人で、後半生を個性的な書き手として活躍した、お二人の長い交流がうかがわれる。 あすの朝は、家のまわりの山の緑も、苗がそよぐ田んぼの緑も、一層あざやかで、目に眩しく、美しいだろうと思った。田んぼではカエルの大合唱がわんわんと響いていた。(この日は、我が家の田植だった) 草木も生き物もますます生き生きと溌剌としていく夏だ。 生命そのものであったような百合子さんは、夏が大好きだった。
→2006年6月28日「ゆるやかナビゲーション ゆるナビ」NHK総合 [出演]しまおまほさん 2006/6/26UP
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