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天使みたいに大らかで、子どものように純真でいられる性格が羨しい。いつまでも僕の飲み友達でいて欲しい人だ。(尾辻克彦)
『週刊文春』1982年8月26日号「私の好きな人」より

武田百合子さんのプロフィール・略歴(1925-93)

 高名な作家・武田泰淳さん(『ひかりごけ』や『富士』という小説が有名)の奥さんだった。泰淳さんが亡くなったあと、日記を発表。その『富士日記』が評判になり、旅行記やエッセイを書く。物書きとしてのデビューは51歳。物書きとして活躍したのは約17年間だった。<
 本は『富士日記』『犬が星見た』『ことばの食卓』『遊覧日記』『日日雑記』の5つ。

 しかし、未収録のもの(対談なども含む)がずいぶんある。
 十代のころは詩も書いていたが、現在、わかりやすい肩書きをつけるとしたら、エッセイスト・随筆家だろう。作品は大きく2つに分けられると思う。交友のあった作家の思い出を綴ったもの(回想)と、執筆当時の生活を綴った日記体のもの。
 百合子さんの文章は、なんだか他にないもので、魅了される人が後を絶たない。(かくいうわたしも高校生のときに出会い、夢中になったのだった)

 エッセイというと、小説や詩歌より低く見る人がいるけれど、百合子さんの文章は、文学・文芸に入るものだ。とくに、物書きになってから獲得していった日記体のエッセイは、平安時代の才光る女房たちの日記を「祖」(おや)とする現代の日記文学である。清少納言・兼好法師の散文の伝統をもつ現代の日本の随筆文学でもある。百合子さんの作品に限らず、それらにもっと光があたってほしい。
 
実は、百合子さんの持って生れた美貌や独特の声や肉体や指を含めた鋭くやさしいユーモアに充ちた感性だけが書くことのできた、それらは絶対のつつましい豊かさの文章なのである。間違っても、それは「私でも」書けるものではない。(金井美恵子)
『武田百合子全作品3』帯文より


プロフィール

 Birth  1925(大正14)・9・25  横浜市生まれ
 (翌26年は昭和元年。したがって、昭和年間は昭和の年数と年齢がおなじ。)
 生家は商業に携わる裕福なお家(うち)だった。

 School  1943(昭和18)年 横浜第二高等女学校を卒業
 在学中、同級生のはじめた同人誌『かひがら』に参加し、詩や文章を投稿。

 Favorite Authors
(学生時代)  江戸川乱歩
女学生のころを、ずーっと通して、私の一番愛読した本。古本屋で探しては、試験中のことも忘れはてて読み耽った、黒地に金粉をなすりつけたような表紙の××××だらけの本。東京の江戸川乱歩氏邸?(きっと東京にあるにちがいない)の方に向って遥拝。
『富士日記』昭和40(1965)年7月29日より(乱歩逝去を知って)

  (その後) 井伏鱒二、シェイクスピア『マクベス』、鶴屋南北『東海道四谷怪談』、吉行淳之介『街の底で』など
最近では唐十郎、種村季弘、赤瀬川原平、つげ義春などの著作に好んで眼を通すといわれる百合子さんは、(略)本書に収録された作品を残らず味読され示唆に富む感想を述べられた。武田百合子さんに監修していただいたのは本シリーズを今後つづけていく上でも大きな収穫であったと思われる。
堀切直人『イメージの文学誌 物食う女』「あとがき」より


 War  1945(昭和20)年 太平洋戦争(第二次世界大戦)で自宅を爆撃されるが、「奇跡的に生き延びる」(鈴木修さん『KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子』(文芸別冊))。
 山梨県都留市田野倉にあった札金温泉(現在は移転か)の「一軒家の鉱泉宿」(同)に疎開。
臆病者の二十歳の私は、自害など出来そうもないし、もうじきアメリカ兵が山まで上ってきたら、うわあと泣きながら人身御供になろう、と思った。
「あの頃」より(『遊覧日記』所収)


 横浜に戻ってからは、行商したり、東京の飲食店に勤めたりした。同人「世代の会」に参加。「世代」の同人との関わりは晩年まで続く。そのうちの何人かあげると、遠藤麟一郎、矢牧一宏、小川徹、吉行淳之介、中村真一郎、八木柊一郎、中村稔、いいだももがいる。
世代の同人に加わることになった八木(柊一郎)さんにつれられて行ったのが、矢牧さんと知り合いになるはじまりだけれど、(略)二階座敷に世代の仲間の人たちがきていることもあって、次第にその人たちとも知り合いになった。世代編集部が使っている駿河台の目黒書店の小部屋にも遊びに行った。世代の人たちが夢中になってしている政治や芸術の話を、みんなマセていて頭がいいんだなあ、と聞いていることもあった。(略)
 (注 矢牧さんのおかげで)玉チョコを仕入れて行商することが出来た。(略)アイスクリームも売ることが出来た。(略)高級風ビスケットも売ることが出来た。このビスケットは武田(注 泰淳)にも売ったことがある。
「思い出すこと」より 『脱毛の秋−矢牧一宏遺稿・追悼集』所収

「出版社昭森社に勤務、森谷(均 注)社長の経営する階下の喫茶店兼酒場ランボオにも勤め」た (鈴木修氏 前出)。
 昭和二十二、三年ごろ、神田神保町の富山房裏に「らんぼお」というお店があった。私はそこの女給をしていた。(略)
(注 隣の画廊・「近代文学」の事務所の)毎週水曜日のドストエフスキー研究会のうす焼きパンは、椎名(麟三 注)さんのだけ、お砂糖を入れて焼くことになった。お砂糖は貴重だったから、ほかの人のには一粒も入らぬよう、椎名さんのには、多過ぎぬよう、少な過ぎぬよう、私たちは念を入れて焼いた。運ぶのだって難しかった。(略)私は椎名さんのパンにフライ返しで×点をつけて見分けることにした。いつも×印のパンが椎名さんの前にいくようにした。(略)店に戻ってからも(略)特に砂糖入り×印パンを食べている椎名さんの姿がちらついた。私はいつも大へん空腹の人だったから。
「椎名さんのこと」より 『椎名麟三全集』第20巻 月報

 Marriage  13歳年上の武田泰淳さんと出会い、結婚。旧姓は鈴木。
 娘さん(写真家・エッセイストとして活躍されている武田花さん)を育て、家事をしながら、泰淳さんの作家活動を支えた。たとえば、自動車の運転免許を取得して送迎、家に来た編集者をもてなしたり、資料の整理。泰淳さんが口述したものを筆記。それから、これは百合子さんは明言していないけど、泰淳さんの作品をみると、百合子さんが文章を書き、絵を描いて泰淳さんの文筆活動に協力していたことがわかる。

 泰淳さんと暮らしていたことで知り合った作家には、つぎのような人々がいる。深沢七郎、大岡昇平、竹内好、埴谷雄高、椎名麟三、梅崎春生、開高健、牧羊子、島尾敏雄、島尾ミホ、村松友視(「視」は旧字)。

 百合子さんの容姿についても、ひとこと書かなければならない(という気にさせられる人である)。百合子さんは写真で見ると、目の大きなたいへん美しい人である。また、前髪を垂らし、黒い髪をひとつにまとめていたり、晩年の短いヘアスタイルもよく似合っている。服には豹柄だったり、「白い光る服」で「宇宙探検隊みたい」なものもあった(『犬が星見た』6月27日)。個性的で、百合子さんらしい印象を受ける。百合子さんは映った写真を見ると、ますますファンになる作家の一人である。

 1976(昭和51)年10月、泰淳さん逝去。
今日、お悔みの電話をかけてくれた親切な誰彼のことを、その人が男であれば、(丈夫だなあ。何故死なないのだろう)と、女であれば、(あの人のつれあいだって、いまに死ぬぞ)と、湯舟の中で思ったりなどもする。
 (略)
大晦日にも元旦にも(注 「東京駅構内の地下にあるサウナ浴場」へ)行った。(略)
 未亡人になりたての、六年前のあのひと頃は、体力がおちた分だけ、気分をやたらと昂揚させて暮していたのだと思う。(略)知人や友人にねんごろにいたわられると鬱陶しく、あたりかまわぬ気迫に充ちたおねえさんたち(注 浴場にやってくる「水商売のおねえさんたち」)に混っていると心地よかった。
「お湯」より 『ミセス』1983年5月号「暮しと住まい5」(TOTOの広告ページ?)[リビングエッセー]より

 Author
 文芸誌の1976年12月号武田泰淳追悼特集に、泰淳さんに言われて書いていた日記を発表。その後、連載することになる。これには泰淳さんや娘の花さんの日記も含まれている(『富士日記』)。田村俊子賞を受賞。
 ついで、泰淳さん、竹内好さんとのロシア(当時はソ連)・北欧旅行の日記を連載(『犬が星見た』)。読売文学賞(随筆・紀行賞)受賞。
 その後も雑誌や本に文章を書く。上にも書いたように、その作品は大きく2つに分けられると思う。ひとつは、埴谷雄高、大岡昇平、島尾ミホ、深沢七郎、吉行淳之介、開高健、椎名麟三など、交友のあった作家についての回想の文章。
 もう一つは、日々の見聞を綴った日記体のエッセイ。こちらには、食べ物をめぐるおもしろいエピソード、富士山の山荘・百合子さんの拠点だった東京の街・公園・旅先などでの見聞、映画・テレビの感想などが含まれている。

 百合子さんの著者名で刊行された本は、上記のほかに『ことばの食卓』『遊覧日記』『日日雑記』。現在のところ、本はこれしかない。百合子さんは寡作とも言われた。しかし、本に収録されなかったものが随分ある。対談や鼎談、談話、インタビューもおもしろい。
 出版社に請われて文章を書くようになってから知り合った有名な人には、つぎのような人々がいる。加藤治子、金井美恵子、岸田今日子、色川武大、堀切直人、安原顯、尾辻克彦・赤瀬川原平。

 つぎに引用するのは、『犬が星見た』の連載2回目の末尾におかれた〔附記〕の一部である。
「スタンカヤ タクシー」は「スタヤンカ タクシー」です。あなたのロシア語はまちがっている。あるいは誤植かと思うが。−−と、八人の方から御注意を受けました。これは誤植ではなく、私のロシア語がまちがっていたのです。(略)ほかにもまちがっておりました。今後は一語々々調べたり訊いたりして、正しいロシア語に訂正してからのせるべきかと思いました。しかし、このまま続けることにいたしました。−−犬が星見た、旅の記録です。私の耳で聴き、私の口から出ていた、まちがったロシア語のまま、のせることにいたしました。
『海』1978年3月号「ロシア旅行」より
 これは単行本には収録されていないし、百合子さんのわずか2作目についての言葉だ。しかし、すべての作品・語り(対談など)に通じる。百合子さんは、自分で見聞きしたことをそのまま表現した人だ。それは簡単なことではない。作品は、百合子さんの個性と自由の結晶である。

 1993(平成5)年5月27日、逝去。享年67歳。
 お墓は京都・知恩院にあるという、生前に泰淳さんが書いた「泰淳 百合子比翼之地」という碑ではないだろうか。


 没後、さまざまな物書きによる、追悼の文章が書かれた。
 翌1994年9月、村松友友視(示見)さんの『百合子さんは何色 武田百合子への旅』が刊行された。この本によって、百合子さんが10代のとき、詩を書いていたことや、逝去後、遺言により原稿や日記帳、ノートなどが焼却されたことなどが広く知られた。
 同年10月、『武田百合子全作品』全7巻の刊行開始。これは全集ではなく、単行本の再録にすぎない。
 それから10年後の2004年、『KAWADE夢ムック 文藝別冊 武田百合子 天衣無縫の文章家』刊行。これは逝去後、はじめての大きな特集である。

 今後も単行本未収録の作品をはじめ、多くのことが知られることを望んでいる。
 逝去した百合子さんのことを、ある雑誌はこんなふうに紹介した。「模範主婦が、夫の没後、随筆家に変身したと言われた」(『文藝春秋』1993年8月号「蓋棺録」)。たしかに、変身ではあった。しかし、百合子さんの人生を見てみると、その下地が充分あったことがわかる。もともと文学への志向をもった少女だったのだ。その人がことさらに文筆活動もせず、外国留学もしなかった。書くことで夫の作家活動に貢献していた。そして、夫君が亡くなり、五十・六十代になって、十代のときの先鋭な詩や、うすくらい散文とはやや異なる、軽やかでおもしろい、華やかなところのある文章を書いた。
 その結晶の一つ、『日日雑記』には水族館やテレビ、映画、三面記事、ごはんの感想などがある。文章は平明で、だれでも書けそうに思える。しかし、百合子さんの文章は単なる雑記ではなく、すばらしい作品として輝いている。良いエッセイは、日々の雑事と、外出先・旅先の事象をおなじ鋭い眼でとらえ、わかりやすく書いたものなのだと教えられる。
 ごくふつうの人から変身した人生でもなく、最初から作家だった生涯でもない、百合子さんのような人生も、「稀有」な人生だ。わたしはもっと知りたいと思っている。


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2004/8/17up、2004/9/15修正