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3月 車のスタッドレスタイヤを替えよう。今年の冬はまったく使わなかった、と腹が立ってもいた。 明け方、窓のそばを通りかかったら、外がみょうに明るい。これは……まさか…… 電気をつけると、屋根には白い雪がうっすらと積もっていた。降雪の夜のきみょうな明るさと、銀世界の風景が好きだ。窓をあけた。身をのりだすと、気持ちのよい冷気に包まれた。 そのとき、集落のどこかから、ピーッという音が響いた。こんな時間に? と耳を疑った。しかし、間隔を置いて響くそれは、人の口笛としか聞こえない。しかもそのつど、山から応えるかのように何かしら音が起こるのだ。 今考えても、何だったのかわからない。 6/12加筆訂正、3/21修正
ダイコンの花にびっくりした。 水栽培のダイコンのてっぺんに、しばらく前から、ふくらんだつぼみが付いていた。色は黄色。 それがとうとう咲いた。形は菜の花に似ている気がする。4つの花弁をもっている可憐な花(四弁花)。 わたしはお味噌汁でも漬け物でも、よく大根を食べている。何年も、箸でつまんではお腹の中へ収めてきた。大根の色といえば、根っこの限りない白、純白。花の色なんて気に留めたこともなかった。 ひょろりと立った茎の先端に咲いた花は、うすい紫色。印象的な色だ。 【付記】 後日、検索してアブラナ科と知った。菜の花に似ているのは当たり前なのだ。花の色は白もあるらしい。 6/12加筆訂正、3/21修正
自分の家でつくっているお米が美味しい、とこのころ夕食のたびに思った。 去年は梅雨は長く、冷夏で異常だった(ここやここ)。お盆のころ、スーパーの駐車場で、おじさんたちが集まって「こんな年はなかった」と心配げに喋っていたのを思い出す。 しかし、お米は必要なときに必要な水や日光、温度があれば大丈夫らしい。 うちのお米の銘柄はコシヒカリ、ではなく、群馬県推奨(?)のゴロピカリ。以前は「朝の光」「月の光」をつくっていた。どれも全国的にはあまり知られていない品種ではないだろうか。 6/12加筆訂正、3/21
花壇の黄色いクロッカスの花を見ても思わなかった。ところが、庭に咲く白いクロッカスを見たら、「金色のクロッカス」が思い浮かんだ。それは、ここに出てくる。 at the commencement of the following Marh. Mr.Linton had put on her pillow,in the morning,a handfull of golden crocuses;her eye,long stranger to any gleam of pleasure,caught them in waking,and shone delighted as she gathered them eagerly together. “These are the earliest flowers at the Heights!”she exclaimed.“They remind me of soft thaw winds,and warm sunshine,and nearly melted snow−Edgar,is there not a southwind,is not the snow almost gone? 『WUTHERING HEIGHTS』CHAPTER XIII <はじめてキャサリンが病室を離れましたのは、翌年の三月の初めでございました。リントン氏はその朝、枕元に一握りの金色のクロッカスの花を置いておきましたが、長いあいだ明るい目の色を見せたことのなかった病人は、目ざめとともにその花を見まして、一心にそれをわが手に拾い集めながら、まことに喜ばしげにその目を輝かすのでした。 「これは嵐が丘では一番早く咲く花なのよ」キャサリンは叫びました。「これを見ると、やさしい春さきの風や、暖かい日の光や、ほとんど解けてしまった雪などを思い出すの。エドガー、いま南風は、吹いていません? それから、雪ももう、ほとんど解けてしまったのじゃありません?」>田中西二郎訳 もちろん、いつもは日本語訳でしか読んでいない。 でも、ここの箇所が好きで、あるとき原文を探した。そして、飛び上がった。クロッカスは「a handfull of golden crocuses」 すごくいい! それからキャサリンの言う、「These are the earliest flowers at the Heights!」 これも大好きになった。 思うに、英語のほうが意味がくっきりしていないか。そういえば、ブリュッセルのエジェ寄宿女学院でエミリーが書いて提出したエッセイ(日本語訳である)は、論理的で強い感じだった。エミリーは、一つ一つが孤独で屹立していて、しかし強い言葉で書きつけた人、本人もそうだったのではないか。 狂って、いわば死んでいたキャサリンは、「golden crocuses」と、それのまとう春を自分のなかに取りこんで、喜びそのものにする。自然によって甦生するのだ。 わたしが「a handfull of golden crocuses」を好きなのは、自分にもそういうものがあると、思うからだ。「a handfull of golden crocuses」は花以上のものだ。心の中で光り輝く、何かすばらしいものだ。 キャサリンがこのとき披瀝する自然についての知識は、彼女が子どもの時から、どれだけ嵐が丘に親しんできたかを伝えてくれる。寒い冬の日も、少年のヒースクリフと出かけたりしていたのだ。 “I shall never be there,but once more!”said the invalid;“and then you'll leave me,and I shall remain,forever.” but,vaguely regarding the flowers,she let the tears collect on her lashes,and stream down her cheeks unheeding. <「あたし、あそこ(丘)へはもう一度しか行かれないでしょう」と病人が言いました。「そして、その時は、あなたはあたしをおいて帰って、あたしは永久にあそこに残るときですわ」> <ぼんやりと枕辺の花をながめながら、妻はまつげに涙をいっぱいため、それが頬を伝って流れるにまかせております。> 生き返ったキャサリンには物事が明瞭に見える。喜びで胸を満たしながら、語り出すのは自分の死の予告である。 凡庸な称賛しかできないのがもどかしいけれど、『嵐が丘』はすばらしい! エミリー・ブロンテってすばらしい! 6/12加筆訂正、3/21
山ぎわの野に、紫色のハナダイコン(諸葛菜。「葛」は「ヒ」が「人」)がたくさん咲いていた。 気がつけば、あたりの里山の、なんと表現していいのかわからない冬特有のぼやーっとした色の木々にも、ところどころ薄い黄緑色がまじっているではないか。その色は銀色でもある気がする。 6/12加筆訂正、3/21
ある日の新聞の一面広告。 羽が黒くて、赤いトサカの目立つオンドリが、白いマスクをつけている写真。右上のコピーは「鳥たちは知らなかった」 下には「今こそ、「知ること」があなたを救う」 腹が立った。鳥をバカにしている。知ることのできる人間が最上等の生き物みたいだ。傲っている。 ……でもかえりみれば、わたしは、烏骨鶏(ウッコケイ)のために作ってもらった小屋(“うここハウス”とわたしは呼んでいた)を、納屋の裏に移動するのに賛成した。つがいの名前も決めて、買うお店も決めたけれど、行っていない。 自分こそ、人間の身勝手さを体現している。欲が深くて愚かな自分が放りこまれているのだから、なるほど、この世は善も悪もごたまぜになった所だと、ときどき納得する。 3/21
車のスタッドレスタイヤを替えようと思っていたころに雪が降り、これで今年最後だろう、と思っていた。 ある日、窓の外を見たら、大きな白い蝶(ちょうちょ)のようなものが軒先からたくさん落ちていた。この時期に、と驚いた。 帰り、車で山あいの道を通ると、まわりの木々は降りしきる雪をかぶって、うっすらと白くなっていた。こういう、梢に雪がかかっている風景のほうが、雪がやんで青空のもと輝く銀世界よりも美しくて好きだ。この日は、「ケーキの上に置かれた砂糖菓子の森みたいだ」と思った。 こんなにのんきなのは、雪によって苦しめられない地域だからかもしれない。 6/12修正、3/21 2月に裏山でフクロウの声を聞いた、と書いた(こちら)。こんどは別の場所で鳴いていた。「ホッホー」 午前3時半すぎだった。 6/12修正 昨年11月から水栽培しているダイコンとニンジンの“へた”。後者の芽などは最初、1センチくらいの高さだった気がする。いろいろあったが(こちらなど)、ショックなことにダイコンの茎が折れてしまった。約66センチまで伸び、冠のようにぐるりと花まで咲かせているのに。 そのダイコンにニンジンがもたれてかかっていた。単に倒れたのかもしれない。でも、ちょっと引っ張ってみても戻らない。絡まっているのだ。しかも衰えていたはずなのに(こちら)、茎はぐんぐん伸びて成長していた(約58センチまでに)。最初のような瑞々しさ、軽やかさはない。 …ダイコンとニンジンが情死している。 『お化けだぞう』(潮出版社、1997年)の世界みたいだ、と思った。 『お化けだぞう』は植物の話満載。植物の名前がわからない、と短いエッセイに村田喜代子さんは書いていたから(『目玉の散歩』か『異界飛行』)、この長編小説を読みはじめた時は「やられた!」とショックを受けた。新しい世界にどんどん進出していく柔軟さと、散りばめられ、小説を支えている膨大な知識。 読者が出会うのは、床下にびっしり生えている、まるで人間の黒髪のような何か。集団で転がっていく草の玉。叫ぶ巨木、など。 植物といっても、あり得なそうな植物をめぐる怪異の話である。しかし、変な非日常の世界に急に入り込むわけではなく、リアリティがある。芥川受賞作『鍋の中』以来の、現実と幻想的な異界をうまーく結ぶ、村田さんの力量がこの大作でも発揮されている。 「馬の樹」がとりわけ好きだ。素朴だからかもしれない。 それから、力をつけた商人の、金に糸目を付けない旅行、豪奢な着物道楽、美食の生活。商人も武家も混じった植物学(本草学。しかし博物学的な)サークルが盛んになる。すこしずつ流入してくるヨーロッパの文物。元禄バブルが弾け、時代に陰りが見え始める… 江戸時代の生活の一面と、微妙に移り変わっていく一時期を描いてる記述も興味深い。 また、この地上をさまよい、楽しみ、海を渡ってゆく中年のかぐや姫がすてき。 以前、こんな感想も書いた。 「毛利一枝さんの装画もいい。一時期、カバーをカラーコピーして持ち歩いていた。」 記憶の本棚より ただし、 「二日目は本庄泊まり。三日目は安中に投宿。(一行略)武蔵国を抜けて、やがて藤兵衛一行は信濃国の深い緑の中へ入る。 軽井沢を過ぎて碓氷峠にかかるとき」(第6章「竜宮樹林」) とあるが、安中は上野国。中山道は武蔵国から上野国へ、そして信濃国に入る。 また、碓氷峠を越えてからが、軽井沢。 年号にも誤りがあった気がしていたが、今回見つからなかった。もちろん、こんな些細な点によって、『お化けだぞう』の魅力は減じたりはしない。 この日、“廃園”を眺めたら、モミジに小鳥がとまっていた。胸と、お腹は金色にも見える明るい茶色。横には白い模様もついている。キビタキだろうか? 鳥は塀のうえを移動しながら、「ピッピッ」と澄んだ声で鳴いた。二本の足は、シャーペンで書く線のように細い。 里山(標高200mくらい)を見たら、ピンク色の小さな雲がかかっていた。今年もS山の桜が開花したのだ。奥の牛伏山(標高490m、群馬県)の遊歩道を登るつもりだったが変更。 丸木が3本寄せられただけの橋(一部には床板が残っている)。犬は怖がって渡れなかった。 昔は氏神様だったらしいS神社の裏から、車道に出る。舗装されていない、やわらかな土と落ち葉の道だ。 しいたけ栽培のための木が整然と並べられ、藁(わら)の布団をかぶっていた。 雑木林にはまだ、“松の墓標”がいくつか残っていた。ちゃんと育っていたふつうの松の葉が、ある時、色を失って白っぽくなる。その葉が落ち、枝だけの姿をさらす。それから、上方の赤い樹皮(赤松・アカマツなので)が剥がれ始める。白い幹がむきだしになる。そして、ある時、途中からぼっきり折れる。高さ1メートル50センチくらいの根元の方を残して。 唯一地とつながっているそれは、松が生きていた証みたいだった。数年前から、わたしは“松の墓標”と呼んでいる。 その墓標すら、人間のそれとは違って、そのうち樹皮を失って白木になり、虫に食われ、ボロボロになって、崩れる。 久しぶりに見たら、まだ立っているものも虫食いが進んで、細くなっていた。以前の犬が越えるのが大変だった、道に倒れた松も。 この山にはかつて、強い印象を与えられた松の木があった。その木も、葉と樹皮を失って立っていた。大きかった。白い梢が夕日で染まるとき、西の海へ向かっている船のマストの柱のようだと思った。それから、最後の咆吼をする巨大な恐竜。そうだとしか見えず、植物ということは頭に思い浮かばなかった。 ある春だったか、ふもとからS山を見たら、その松がとうとう斜面に倒れていた。大きな白い骨が一本転がっている。偉大な竜の骨だ、と思った。 このあたりの地域名には「松」が入っている。30年くらい前は、S山にも背骨のように松が生えていた。だんだん減り、小学校(分校)の校庭の真ん中あたりにあったものも、枯れたので伐採された。牛伏山にヘリコプターが来て薬を散布した。でも、枯死は止まらなかった。 最近、全国では合併にまつわり、消えてゆく地名を保存したり、城下町の古名を復活する動きがあるようだ。でも、ここでは地名の由来である風物、だいじなものが、絶滅しつつあるのではないか。 倭建命(日本武尊、ヤマトタケルノミコト)の足が三重に曲がったから「三重」、というような神話(古事記。正確には「私の足は、三重に曲がったように、たいそう疲れてしまった」という皇子の言葉だった。『田辺聖子の古事記』より。倭建命についてはこちらにも書いている)もない、ふつうの山だから。ふつうの山だから、多くの人が危機感を持たないし、一部を削り取って、コンクリで固めた道路を通したりするのではないか。ふつうの山川だから、ふちの木を切り、緑の岸辺をコンクリで固めるのではないか。無名でも、絶景がなくても、むしろ、ふつうの自然、“山紫水明”だからこそ、すばらしいのだと思うのだけど。 ギリシャ神話のトロイ戦争の話に、カサンドラ(カッサンドラ)という少女が出てくるそうだ。彼女はトロイアの王女で、未来を見る力を与えられた。しかし、機転を利かせてアポロンから逃れたために、その予言は誰にも信じてもらえない。優れた兄ヘクトルがアキレウス(アキレス)に殺され、遺体が城外で引きずり回されることも、木馬を入れたために王国がとうとう滅亡することも… また、自分が敵将アガメムノンのものにされ、しかも彼の国ミュケナイに着くや、彼の妻によって殺されることも。(アガメムノンの妻は不倫し、裏切っていた。その母親殺しを謀るのがエレクトラだそうだ) わたしは数年前からS山の松を見て、「実はわたしたちもカサンドラではないか」と思ってきた。松が枯れるのは、松くい虫(マツクイムシ。マツノザイセンチュウ)のしわざと言われてきたが、本当なのか。虫が原因だと聞くと、なぜか安心してしまう。 山にたくさん生えていた松が枯れ、消えていく様子、その過程の風景は、気味が悪い。異常である。しかし、環境破壊だとは騒がれていない。大きな事件にはなっていない(群馬県前橋市の公園に広がる黒松(クロマツ)の林や、赤城山南麓(富士見村)の国立赤城青年の家キャンプ場などで、松の立ち枯れが深刻な問題となっているらしいが) なにかの衰亡・滅亡の予兆を眼前にしながら、そうだとはハッキリ判断できず、ボンヤリとしている。あるいは日々のせわしなさに追われている。多くの人がカサンドラなのではないだろうか。 崖の縁を通る散歩は、気持ちよかった。見上げると、空は白っぽい水色で、ぼやあっと柔らかそう。冬とはちがう印象を受けた。 道ばたや畑の隅には、白い小花ナズナ、赤紫色・ピンク色のホトケノザ、青いオオイヌノフグリの花が咲き乱れている。小さな花畑だ。でも美しい。 6/12修正
4月 気がついたら野山だけでなく、庭にも色とりどりの花が咲いていた。黄色い水仙(スイセン)、ピンク色のチューリップ。 塀からこぼれ咲いている黄色のレンギョウに、今年も大島弓子さんの『綿の国星 シルク・ムーン プチ・ロード』の一節を思い出した。 思いは うつりかわり うつりかわり かげろうのよう ひとつの事を 考えつめようとしても もう次の考えに うつってしまいます 外のけしきが一日一日と うつりかわってゆくからです おばけのような桜が おわったとおもうと 遅咲きの八重桜 すみれや れんぎょう 花蘇芳(はなずおう) 黄色い山ぶき 雪柳 なんとすごい なんとすごい 季節でしょう 第1章「綿の国星」 『四月怪談』には印象的なエピソードがある。 「きのうは とおりがかりの 家の 雪柳が 満開だったの よね あんまり キレイだったので あたしは 小枝を1本 もらうことにしたの」 「学校に着いたら その雪柳は どうしました?」 「……どうって かざったんじゃない? 机に」 「どういうふうに 「あきビンとかあきカンとかに? そんなもの教室においてある?」 「き きっと 胸のポケットに いれたのよ 机じゃなくて 胸のポケットに」 「それを見て 友だちは なにかいいましたか 花を見て なにか なにも いわないわけないでしょう それだけきれいな雪柳もってたのなら」 「……なんて いったのかしら……」 雪柳をめぐるやりとりによって、主人公は自分が不慮の事故で死んでしまったことに気づく。たぶん、真っ白な雪柳がとても美しかったから。 ところで、道すがら、花を手折って胸のポケットに挿そうとする高校生は、変わっている気がする。でも、だからこそ印象的だし、この少女のマイペースな性格が表れているエピソードになっている。 大島さんは(『四月怪談』の青いパステル画による幻想的な表紙! 『綿の国星』シリーズの『葡萄夜』に描かれる“老婆猫”の手! とか)絵もいいけど、こういう文章もすばらしい。シェイクスピアの『ハムレット』など、イギリス文学からの引用も散りばめられていたりする。 シンプルなイラストと文で構成された“サバ”シリーズは、すぐれたエッセイだ。文章のそれのすばらしいものと同じ価値がある。国語の教科書にも大島まんがを掲載したら、べつの方面からも感性が鋭敏になっていいと思う。 山の峠はピンク色や淡い緑色のぼやあっとした靄(もや)が、かかっているように見えた。前者は、花が咲いているところ。後者は、木の芽が萌え出でたばかりの山林全体。 こういう混然とした色が「あさみどり」なのだろうか? それとは関係ないけれど、どっしりとして動かない山や岩に、またもなりたくなった(以前のことはこちらに書いています) 翌朝、切り開かれた山林を見下ろして驚いた。諸葛菜(「葛」は「ヒ」が「人」。ハナダイコン)が咲き乱れ、紫色の花畑になっていた。 まわりの里山には、若葉色や桜色のかたまりがポコポコあった。うつくしい、うつくしい。これは「うれしい、うれしい」と同じ意味だ、と思った。 そして、「春だ、春だ、春の日が来た」という言葉がスラスラと出てきた。 宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』は、天界の情景が美しい。賢治も、透き通っていたり、色とりどりの光輝を放つ物に惹かれてやまず、筆を尽くしたみたいだ。 天の川・銀河の描写は、『枕草子』に清少納言がものした 月のいと明きに、川を渡れば、牛の歩むままに、水晶などの割れたるやうに、水の散りたるこそ、をかしけれ (215段『新潮古典集成』萩谷朴・校注) というわずか一文が、ザッパと広がった印象を受ける。 しかし、いちばん好きな宮沢作品は、『銀河鉄道の夜』よりも遙かに未完で小品の『若い木霊』だ。(原文は下記で、ブルーブラックインクで書かれているそうだ)。 そしてふらふら次の窪地にやって参りました。 その窪地はふくふくした苔に覆はれ、所々やさしいかたくりの花が咲いてゐました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せはしくあらはれては又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。 「はるだ、はるだ、はるの日がきた、」 字は一つづつ生きて息をついて、消えてはあらはれ、あらはれては又消えました。 「そらでも、つちでも、くさのうへでもいちめんいちめん、もゝいろの火がもえてゐる。」 若い木霊ははげしく鳴る胸を弾けさせまいと堅く堅く押へながら急いで又歩き出しました。 『宮沢賢治全集 5』ちくま文庫) 地に向かって、つつましやかに俯いているカタクリの花は、紫や白色だ。暗緑色の、まさに「つやつやした」葉には、白っぽい斑(ふ)が入っている。そんなところに、紫色の文字(わたしのイメージでは横書き)が現れるのは、しっくり合う。 葉に文字が消えては現れていく、というこの設定も、すばらしい。 葉に現れる言葉も、すごく簡潔だけど、春の訪れた歓喜がよく表れている。 【後記】 カタクリは Spring Ephemeral というものの代表だという。 〜 〜 〜 〜 〜 〜 工藤直子さん「あ、カタクリって、春の妖精って言われてますね」 河合雅雄さん「そう。スプリング・エフェメラル。早春の一時、芽を出し花を咲かせタネをつけ、あっという間に消えて、あとはずっと地下で眠る植物たちの代表みたいな花ですね」 〜 〜 〜 〜 〜 〜 4月29日の朝日新聞より(名前を加えました) 6/12修正 ニ、ニンジンに(ラジオの某広告のマネです↑)、ある朝、つぼみが付いていた! まだ緑色だが、ほかの部分とは異なり、アザミのような形をしている。たぶん蕾だ。 一つの“オレンジ色の地表”(こちら)から、二つの株に分かれていることにも気づいた。爆発的な成長を遂げ、追い抜いていったダイコンに愛が移って、よく見ていなかった。反省。 里山は淡い緑色、白っぽい緑色、柔らかそうなミルク色、白銀色、と表現してみるけれど、なんという色とすればいいのかわからない。そこに、山桜がぼこぼこ混じっている。霞って山のまわりを覆う空気・大気ではなく、春の山全体と一緒になったものなのかもしれない、と確認した。 こんな文章があるのだ。 霞だけならばふつうは乳白色ですが、王朝人は霞を空の青や山の緑と混然となっているものとして感じとり、その混然の美を浅緑、という色で呼びました。淡くやわらかな緑と空色がまじったような色で、そこから春のいのちのいぶきや香りもたちのぼってくるようです。(略)夜のかすんだのは霞といわず「おぼろ」といい、「おぼろ月」とか、「おぼろ夜」というふうに使われています。 問題集で出会った文章。筆者名は印されていない。 午後、雨が降り始めた。山桜は散ってしまうのだろうか、と思った。 夜8時半すぎ、裏山でふくろうが鳴いた。雪のとき、凍てつくように寒い夜更け(こちら)、雨のとき。たいへんな時に鳴くのだな。でも、ふくろうの声「ホッホー」のやわらかいこと。 納屋に用があって庭に出たら、裏山でポタポタと音がした。水滴が葉から葉へ伝わっていく音だ。雲からは、明るい白い星が出ていた。さっきも止んでいたのかもしれない。 とちゅう、アレッと思い、とまって耳を澄ませた。まだ小さいけれど、田んぼの方からカエルの声が聞こえた。「コロコロコロ」というような、やさしい響き。どんどん春になる。 ある午後。そこは2階だけど、窓のちかくに立っている大きな木に惹きつけられた。コンクリートの建物に囲まれたせまい中庭の木だ。 どの枝先にも若葉がついて、明るい陽光を浴び、キラキラと輝いていた。エメラルドが垂れ下がっているようだ、と思った。 6/12修正 峠も里山も、日に日に緑が濃くなってきた(たぶん時間時間ごとに、すごい勢いで変化しているのだろう)。でも、ごく最近芽吹いた木もあって、白っぽい緑色、銀色、澄んだ緑色など、いろいろな緑色が混じっている。 それから、赤茶色の茂みもあるし(サクラの葉だろうか)、ところどころには白っぽい清楚な山桜の花。 山や丘陵は低いので、寝たような形をしている。全体はやわらかくて美味しそうなサラダに見える。 妖精か何かになって、ズイーッと山の傾斜に沿って飛び、梢を食べてまわりたい。それも、指でいちいち摘むのではなく、大口を開けて直接。 その後ほとんど1日で、堅くて不味そうなサラダに変わってしまった。 6/12修正 ニンジンの花は、驚くほどひょろりと伸びた長い茎の先頭に付いている。アザミの紫色の花びらが緑色になった感じ。その中央に白い花がいくつか輪状に咲いている。花自体がこんなに小さいものだとは知らなかった。消しゴムのかすくらい。 緑色は若やかで、透けているようだし、花の真っ白も、さわやかで清楚。気もちがいい。ニンジンのへたの水栽培をはじめたころに還った気がする。 夜、雨がふった。朝、庭にでると、雨上がり特有の匂いがした。久しぶりにかいだ気がした。これまで降るものが、雪だったからだろうか。 以前、山は硬い(固い・堅い。どの字がふさわしいのかわからない)不味そうなサラダに変わってしまった、と書いた。しかし、この朝、ふと目に入った裏山の新緑の梢は、日の光にきらきらと輝いて、ダイヤモンドのようだった。 また、この日は、二十四節気の「穀雨」の翌日だった気がする。穀雨ということも、そういう日があることも、あとで偶然知った。 なお、「エメラルドが垂れ下がっているようだ」と書いた中庭の木は、メタセコイアかもしれない。 6/12修正 窓際の小さな土のつぼに、白いオトコヨオゾメと、うす紫色の山シャガの花が挿してあった。シャガの花は、ひらひら飛ぶチョウチョ、色からしてルリシジミみたい。 このころ、S山の松のくだりに加筆した。 6/12修正 上に書いた穀雨を『空の名前』(高橋健司)でさがした。「この頃に降る雨は百穀を潤す、とされます。(略)東京では藤の花が咲き始めます」 たしかに、河原だったかの木のてっぺんに、藤の花房がかたまっていた。藤の紫色は、くっきりと目立つ。でも、季節のせいか、さわやかな感じがする。 源氏物語「藤裏葉」の、夕霧と雲居雁が結婚する藤花の宴を思い出した。読んでなんかいないが… でも、このあたりを少女(年齢は関係ない)向けに、うまーく書き上げたのが氷室冴子『なんて素敵にジャパネスク』の3巻(?)『続 ジャパネスク・アンコール』「瑠璃姫にアンコール! の巻」だろうか。その結び、 「真新しい木の香の漂う静かな夜、清らかな遣水の音を遠くにきいて、あたしたちは今までになく、仲良しになった。」 外に出て、ハッとした。あたりの山が濃い緑一色に包まれていた。白っぽい色、銀色などのいろんな色が混じり合い、柔らかそうなのはわずかな期間なのだ。 空はうすい青色の布が広がったよう。 気持ちがいいので、丘の上まで散歩した。藤の花、クサイチゴ(クマイチゴ?)の白い四弁花、赤い山ツツジ。山ツツジの花びら(というか、花ラッパ)は、花特有のしっとりとた質感をともなわず、乾いて造花めいて見える。そこがいい。 窓ぎわの小壺には、コバノガマズミ、ふわふわとしたアオダモ、ウバミズザクラの白い花が加わっていた。葉が出そろい、緑の濃くなった山林は上辺が覆われて、一気に海底のように暗くなっている。そんな樹林に、このような真っ白な花が咲いているのだ。湿り気のある地面では、可憐なチゴユリの花がうつむいているだろうか。 【後記】 桐の紫色の花も見たのだけど、大事なことだとは思わず、書かなかった。反省。清少納言が挙げているのに。 「木の花は」(新潮古典集成『枕草子』上巻第三十四段) 紫に咲いているのはやっぱり素敵なんだけど、葉っぱの広がり方がね、なァーんか仰々しいんだけどさ、他の木なんかと一緒にしちゃいけないのよ。中国でェ、有名なあの鳥(inuki注 この3文字傍点つき)がァ、選んでこればっかり止まるっていうじゃないのよ。メッチャクチャ感じが違うのよ。ましてさ、琴に仕立てて色んな音が出て来るのなんかは、“素敵!”なんて世間並の言い方でいい訳ないでしょ? メチャクチャなくらいに、ホントもうさ、輝いてんのよ。 注:桐の花にいる鳥ったら、鳳凰よ。花札の“桐の二十”知らないの? 『桃尻語訳 枕草子』橋本治より 6/12修正 ある午後。 室内でおこなわれていることにあまり興味をもてなくて、窓の外を見た。葉が茂り、梢が大きな球体のようになった背の高い木。強い風がよく吹く日で、そのたびに全ての葉がひるがえり、白い葉裏が一斉に見えた。 繰り返されるそれを見ているうちに、「木の葉をゆらす風の音は、木の声、木のおしゃべりではないだろうか」と思った。あるいは、木と風との会話、交信記録。 こんなねがいが湧いた。さえぎるものの何もない空を疾走し、地上から高いところにある樹上で遊ぶ。わたしも風になりたい… アンの言葉を思い出した。アンとは『赤毛のアン』のアン・シャーリーのことである。 「カモメはすてきね。おばさんはカモメになりたくない? もし人間の女の子になれないなら、カモメになりたいわ。お日様と一緒に目覚めて、すーっとしなやかに海におり、一日中、あの青い海の上を、どこまでも飛んでいくのよ。」(松本侑子訳、集英社文庫) いま引き写してみると、わたしなんかより、ずーっと心に届く言葉だ。それにアンは「人間の女の子」を最上等に置いている。わたしは「a human girl」をとっくに過ぎてしまったのに、他愛ないことを思っている。 6/12修正 4月の買い物。 ささやきの石。 本当にこの名前で売られていた。形は、自然の石に似ている。白くて、そこに黒い流線が混じっている(というか、溶かしこまれている)。大理石(マーブル)を模しているのかもしれない。実際、わたしが見せびらかしたら、石だと思った人がいた。 物は、ゴムでできているのだと思う。タマゴよりは大きい。全体はざらざら。ゴムだから、鉄壁の堅さというのではない。冷たくもない。そういういろいろが程よい。 手ざわりと、球形でも四角でもないかたちが気に入った。帰りの車中では、さっそく、お店の袋から取り出してにぎっていた。夜、寝るときも手にして布団に入っていた。 いまは、机上の本物の石や、木の実(拾ってきたもの。ひからびたピンク色のキノコもある)にまじって、転がっている。 この商品は、用途としては、ペーパーウェイト(文鎮)や、きれいな棚なんかに一個だけぽんと飾るオブジェなのかもしれない。でも、わたしにとっては、雑多に置いた自然の小さな物とほぼ等しい存在になった。 お店では想像しなかったことだが、何かするときに手が伸びて、握っていたりする。とても気持ちがいいから。握り心地、手への収まり心地がいいのだ。 田辺聖子さんの長編小説『鏡を見てはいけません』を思い出した。主人公は本を作るとき、卵形の置物を握っているのだ。 「左手は、てのひらにすっぽり収まるクリスタルガラスの鶏卵(たまご)を弄んでいる。卵はつるりとした表面ではなく、小さい六稜面が結集して丸みを作っているもの、それゆえ、横に置いても静止するし、立てても、少し傾(かし)ぐが立つのである。虹色の彩(あや)がつねに底部に蒐められて、ガラスの卵の中に、無数の透明な小箱や六角形が散乱してみえる。 卵をごろごろ転がすと、(略) ガラスの卵の前には瑪瑙(めのう)を刻んだ鶏卵(たまご)大の兎を、いつも左手に握りながら書いていた。白と橙、赤の混じり具合が何とも可愛い兎だった。折り曲げた足にはとろりとした銹朱(さびしゅ)色の濃いむら(傍点つき)があった。手にすっぽり入り、拇(おや)ゆびで伏せた長い耳を撫でたりして、ちょうどいい具合だったのに、あるときあやまって、何かにぶっつけ、前足の一部を欠いてしまった。それで私は泣く泣く月丸(それが瑪瑙の兎の名である)と別れ、いま月丸は飾り棚の中にいる。 (略) この星丸(クリスタルの卵の名前)とも長い馴染みになっていて、私は小文や<おはなし>を書くときは、いつも左手で握るクセがあった。」(集英社文庫) この中川野百合さん(ペンネーム、森ありすさん)は室内だけではなく、旅先の夕餉でも、星丸を手の中で転がしている。 田辺さんのこの文章もいい。自分まで握ったことがあるかのような感覚をもってしまう。ラブ・ストーリーとはほとんど関係ないところで語られる星丸はもちろん、ここでは脇役(退役?)の兎さん「月丸」までも、読者は愛してしまうだろう。 引き写して初めて気づいたのだが、辞書を調べないとわからない難しい字がわりにあった。一般に、そういう難解で堅い語を使うことは良くないといわれている。でも、わたしは今回、「知れてよかった」と喜んだ。すばらしい文章なら、そういうこともあるのだ、とわかった。 ところで、木の実、小石、枯れた花びら、雉(キジ)など鳥の羽、縮緬の白蛇(赤いふかふかの座布団でとぐろを巻いている)や、ヒエロニムス・ボッシュ(ボッス、ボス)の絵のなかのすてきな歩行者のフィギュア、さまざまな空き箱がごたごたとある机と自室は「汚い」と批判されている。でも、吉野秀雄の机(高崎市タワー美術館の企画展)にも、木の実や鳥の羽があったのだ、と心の中で反論している。 また買い物の話をさせてもらうと、株式会社「布」というところのバッグも購入してしまった。黒や紺の布がこんなに魅力的だったとは、と驚いている。 NUNO Corporationは、いろいろ新しい布を作り出していて、ニューヨーク近代美術館などにもコレクションされているそうだ。すごい。無知ながら、現代の布が収蔵対象であることも初めて知った。 6/19修正、6/6転載・修正
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