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9月 だんだん、このページは田舎暮らしの日記みたいになってきた。最初は自然観察のノートのつもりだったのに。 わたしはいわば山村に暮らしているけれど、ふだんの生活はふつうだと思う。家では新聞を読んだり、テレビをみたり、インターネットをする。地域の外に行く。地域は食べて寝る、ごろごろして憩うベッドタウン。 ここに住むことに安心感を与えているのはネットだ。たとえば、本にまつわる外の世界とつながっていられる、という安心感。 東京に行くと、本がいっぱいあるので驚く。駅の近くに、いくつも大型書店があったりして。こちらでは考えられない。 美術館も、展覧会も、いろいろな分野のものがある。目を広げてくれる。 本やアートに限らない。東京では歩くことが多いけど、街中、ビルの中、駅、そこらじゅうで新しいものの宣伝が目に入る。 こちらでは、車で移動する。自家用車を運転して。大きな乗用車に運転者一人しか乗っていなかったりする。目に映るのは郊外の大型店。移動中は、一人で車のなかで音楽を聞いていたりする。 東京ではたくさんの人を見る。ほんとうに人の海だ。でも、すぐ近くを通り過ぎる人と、接することもない。誰とも知り合いにならないで、家に帰る。 東京はわたしにとって、商品と情報があふれている場所。出版物も展覧会も映画も、ただのものとか、芸術というより、商品で情報みたい。東京にもしいたら、そういう熱気にあてられて、いろいろなものに出会えて、一段上の見方を獲得できるようになるんじゃないか。 普通電車に乗って、数駅いくだけで、そんな都会があったらいいのに。 むかしの人は、草深く自然の恵み豊かな田舎に住んで、江戸に遊びに行けたのではないか。あるいは田端と都心、一昔前の鎌倉。そういう環境がうらやましい。 あと、荒ぶる海とそれに面した岩壁と、静かな湖が近くにあればいいな。 ・・・・・・わたしは全然、自足していない。「快楽こそ善」 エピキュリアンだけど、欲が深く、アタラクシアーは遠い。 2004/9/20修正 今年6月だった。曇っていて、でも、まわりの山々の緑が印象的な夕方、ふいに時がもどったような感覚におちいった。生々しい感情がこみあげてきた。ときは犬が死んだ日に、感情はあのときのものに。 びっくりした。気象と自然がわたしに記憶を甦らせた、はじめての体験だった。 1年は輪のようなもの。おなじ日は、なんどもやって来る。自然界は循環しているが、人間は古びていく。心に悲しみや後悔、喜びをかかえて。 この日、母屋の奥から座敷をはさんで、縁側の外を見た。明るい陽光に照らされたピンクの萩の花、濃い緑色の山が目に飛びこんだ。急にあのときのことが思い出された。 あの深夜、お風呂から出てテレビの前に座りこんだ。「今日こそ、テレビドラマを見るのだ」 前日も台風によって、中止されていた。ところがテレビをつけると、またもや中止。急なニュースが報じられていた。チャンネルをまわす。各局、そのニュース一色だった。 場所はアメリカ、ニューヨーク。しかしテレビを見ていても、出来事の概要はなかなか説明されず、なにが起こったのかわからない。最終的に把握したのは、飛行機がビルに突っ込んだということ。 事故? わたしの頭には、アフガニスタンの内戦のニュースで耳にした人物の名が浮かんだ。 「まだ数機の旅客機が上空にいる」(ハイジャックされている?)と報じられた。その時にわたしが思ったことは・・・・・・ テレビ東京の放送時間が終了し、静止画像に切り替わった。黒煙をあげる高層ビルに、水平で接近している飛行機、ビルのまん中はオレンジ色の火の玉になっている。「映画みたいだ」と思った。 中近東の人々が手を振って、跳ねている映像が出た。ひとりのおばさんと男の子たち(女の子はいない)。喜んでいるのだ。まわりにいる大人(男。女はいない)もうれしそう。一台の車がクラクションを鳴らし続けている。助手席の男がVサインを突きだしている映像。 とてもショックだった。宗教は人間の平等と幸福を説いているのではないのか。世の中で、宗教をほんとうに信じている人は、ほんの少しなのか。この映像は明け方には流されなくなった 後で、こんなことを思った。宗教は本来「人を殺せ」とは言わないはずだ。たとえばイエス・キリストは誰一人殺さなかった。しかしゴルゴダの丘に引っ張って行かれ、殺された。キリストは王として、歓呼されて迎えられたが、一転して、大悪人として迫害され、追い出された。しかし「報復」なんてしなかった。人間はキリストにはなれないけど、なりたがっているのだと思っていた。宗教に誠実であろうとしているのかと。しかし、宗教に準ずることのできない人が多いからこそ、宗教はすばらしいものとされているのではないか。 先の映像は、人間の悪の見本ではない。人間の見本だ。わたしは「人間はなんて人間ぽいんだろう」と思った。 それから、「自分は子どもを好きだ」と思っていた。でも、、、 「鬼畜米英」と信じていた日本の子どももあんなだったのか? 高層ビル群を海から映した映像も印象的だった。海上のマンハッタン島は、白い煙に籠められている。海は銀色。白煙の向こうの空は青い。「海も空もうつくしいのに」と思った。手前の小島に自由の女神像らしきものが見えた。 この映像は心に残っていて、11月にニューヨークに飛行機が墜落したとき、すぐに思い出した。そして、シャーペンでごく簡単に絵に描いた。後にも先にもないことだった。絵の下にそえた文にはこうある。「いつだって自然は美しいのだ。人事とは無関係に。」 その翌日は、いいお天気だった。久しぶりの晴朗な空。青い。暑くて、夏がもどったような日だった。緑が光って、美しかった。 山に繁茂する草木を見ていたら、通信手段のある時代でなかったら、遠くの遠くの国でたくさんの人が亡くなったことを何も知らなかったろう、と思った。 家に入ると、日本家屋の奥だから暗くて、涼しかった。木のテーブルで、冷蔵庫からもってきたヨーグルトを食べた。冷たくて甘酸っぱいヨーグルトが喉をくだっていった。美味しかった。味わって食べた。 そのとき思ったこと。「生きていればこそ。生きていなければ、味わえないのだ」・・・・・・ 後で、それは「生きていてよかった!」という喜びで、亡くなった人々を冒涜するひどい言葉ではないかと気づいた。数機の旅客機が上空にいる、という情報が流れたときに思ったことも。わたしは今も責められている。 その夜、米国の大統領が「これは大規模な善と悪の戦いだ。しかし、善は必ず勝つ」とか言った。仰天した。善と悪という対立なんて嘘で、ほんとうの悪なんてないことは、マンガでも、映画でも、小説でもでもくりかえし描かれているのに。 日記帳をみると、こんなようなことが書いてある。 「狭くて低い地上にしか、人間はいられない。そこに人間はごちゃごちゃといる。そんな存在なのに、大量の人間を殺し合っている」 「人を殺した者も、殺そうとしている者も、地獄へ行けばいい。修羅道で責められ、業火に苦しめばいい。でも、地獄とはお手軽で便利な考え方だ。」(地獄は、むかしの刑務所の代わりではないか。ひどいことをした人間にそれ相応の罰を与えてほしい、という願いから生まれた。) 「人が殺され、殺しに行く、殺し合っている地上で、生きていくほかない。地獄よりも怖ろしいのがこの地上、この世なのだ。とっても寂しくなる。だれかにそばにいてほしくなる。」 「現実を生きていくのはなんて苦しいのだろう。あの映像の人々のように、単純に歓んで生きていくことはできない。そう思ったら、むなしくなってしまった。この世が地獄、修羅なのだと思ったら。」 2001・9・11の日記。 「午前、台風通過。日が射す。夕焼けが美しいだろうと思って散歩に出る。しかし、もう牧草地へは行けない。そこで、去年9月下旬、歩いて楽しかった記憶から、B−A地区の小道へ。ホトトギス(?)の花、萩の花、あざみの花、水引、ガマズミ(?)の赤い実。しかし深海の怪魚みたいなツリフネソウはなし。残念。 クモの巣、少ない。ツルニンジンの神秘的な花もなし。 夕焼けはすばらしかった。空じゅうの雲がピンク色に染まった感じ。家の東西南北、それぞれの窓をめぐって眺めた。」 (一部改変) 2004/9/20 2004/10/10up 長野行 夏のような暑い日がつづいていたが、いつのまにか空気が澄んで、切れるような感じになった。快晴の日。 窓の外を見たら、空中を小さな白い物が漂っていた。生き物にも見えたけど、なにかの植物から飛んできた綿毛(種子)らしい。 裏山から落ちてきた栗の実が、今年は多いらしい。その栗の実は売っている物より小粒だけれど、つやつやと光っていて美しい。日本画の題材になっている理由がわかった気がした。 上信越道(高速道路)から見る吉井町多胡地区や、甘楽町、西毛地区の南側、妙義山、荒船山などの風景が好きだ。とくに軽井沢までの山は奇岩があったり、山肌が深くえぐれ、魅力的だ。 信州(長野県)はもっと秋っぽかった。空も空気も。そして田んぼ。佐久のあたりでは、もう稲刈りが行われていた。刈られた今年の稲束が竿に整然とかかっていた。 上田市の周辺で味噌を買う。暗い倉庫にとても大きな樽がいくつもある。観光バスが寄るお店で、たくさんの従業員さんがいる。 行ってみたかったお蕎麦屋さんは閉まっていた。上田城のちかくのお店で食べる。久しぶりに美味しいお蕎麦を食べた気がした。 骨董店で、それぞれ数百円の小皿を買う。それは今、へやの棚にあって目を楽しませてくれる。 (上田城もおもしろい所である。まず石垣とお堀が美しい。博物館には、金色の角が異様なほど長い変わり兜や、ふさふさした毛のついたかわいい棒などが展示されている。棒は参勤交代などの大名行列で、奴がもっていたようなものだ) 市内で紬を買う。そのお店では機織機が動いて、色とりどりの糸や布がかかっていた。お金持ちになったら、この工房の服やバッグや帽子やストールをあれもこれも買いたい! (Jocomomola de Sybillaの服とバッグとノートなどについても、そう思う) 紬のお店のまわりには、城下町らしい古い商家の通りがところどころ残っていた。崩れかけたところもある。須坂市とおなじく、もっと歩いてみてみたい町だ。 ふだんは直売店やJA(農協)やスーパー「TSURUYA」(ツルヤ)で新鮮な野菜と果物も買う。塩田平のお米を買ったこともある。 武石村(たけしむら)から美ヶ原へ登った。武石村は田んぼと家の調和が美しい山村だ。 山道ではほかの車にはほとんど合わなかった。そのうち、白い霧にとっぷりと包まれてしまった。 霧が切れると、木々は黄葉が始まっていた。山頂に着いたころ、美術館の鐘が鳴り響いた。閉館したのだ。 霧も雲も晴れていて、久しぶりに明るさに出会った気がした。ところが、山というか丘の反対側へ行くと、こちらは悪い天気で暗かった。そこで美術館の方へもどると、少しの時間しか経っていないのに、こちらも暗くなっていた。 犬がトイレに行きたがっていたので、出ると、寒い。観光客はほかに1台のカップルだけだ。数年前、来たとき(ブロッケン現象を見た)とは違って、あたりは荒涼とした岩野に見えた。 和田峠のあたり(?)から、霧ヶ峰へ来るとき、2種類の鉄塔が接近しているところで降りてみた。 リンドウが咲いている!と思ったら、トリカブトと言われた。青い色も形も美しい花だ。形は、縦長のふしぎな形の兜・烏帽子である。 鉄塔は金網に囲まれていて、丘の頂上には行けなかった。 (数年前、美ヶ原(?)で野を越え、大岩へ行ったことがある。駐車場から遊歩道がつづいていた。大岩のある所は斜面で、岩がたくさんあった気がする。夕日であたりがオレンジ色だった気がする。おもしろかったなあ) 鉄塔から去るころ、夕闇が濃くなった。霧ヶ峰で同行者がトイレに寄ったとき(お店は閉まっていた)、ふと思い立った。がらんとした広い駐車場を横断して、車道に行った。むこうには野が広がっていた。地上は暗かったけれど、雲に覆われた空の一角は白っぽかった。野は、もう草の生い茂る夏の野ではなくて、枯れて、怖いような寂しい野みたいだった。とても気に入った。呼ばれて戻った。 そこから車山高原、白樺湖とビーナスライン(道の名前である)を下っていくとき、車窓の野を見ていた。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』のことを考えた。ここはキャサリンとヒースクリフの道行きにぴったりだ。『嵐が丘』を映画にするときは、こんな時刻の丘野をずーっと移動して、長く空撮したシーンで始めたら、いいだろう。 ・・・・・・きっとこれは、『秘密の花園』(1993年 監督アニエシュカ・ホランドAgnieszka Holland )の影響だ。映画はけっこう退屈だったし、動物と心を通わせ、健康的な少年、ディコン(ディッコン)の魅力が半減させられているようだった。しかし、ラストで仔馬に乗った(?)ディコンがただ一人、茶色い、ただただ広い丘の野原(ムア? moors)を進んでいくシーンに目を奪われたのだ。 10月 雲 前日はたいへんな雨で、この日は晴天。青い空が美しい。緑がキラキラしていた。ときおり、風が吹いて、葉が揺れた。 近くの空には、薄いベール様な雲がかかっていた。羽衣なのかもしれないけど、わたしは自分の腕にその雲を巻きつけてブレスレットのようにしたい。腰に巻きつけて垂らし、ベルトににしたい、と夢想した。 遠くの空には、ちょっと巻いて、小島みたいな雲がたくさん浮いていた。ラピュタはああいう所ではないか。 あるいは、ああいう浮島みたいな雲をどんどん踏んづけて、ジャンプして、どんどん白い雲の世界の向こうへ行きたい。 「こんないい天気の時は、休暇を取って遊びに行きたい」 わたしはそんな現実的なこと、思いつかなかった。もっとうっとりしたいし、あの世界に行きたい。でも、ここは牢獄で行けない。光り輝く美しい世界を痛いような気持ちで見ているだけだ。死んだら、ああいう世界に行ける気がする、などと、軽く死にたくなっていたのだ。 それとは別に気がついたこと。わたしは雲をアクセサリーになどと、口にできないようなことを思いついて、うっとりしていたけど、それはいまの自分、いまの状態に満足しているからではないか。 雲は薄くなったり、移動したり、青い空に溶ける。木々は風に揺られている。わたしが見ている風景のどこもかしこも時間が流れている。わたしの身にも、時がうつろっている。盛りではない方へ。 そのことがまず頭にあったなら、焦燥感でいっぱいだったろう。「うっとり」は今をもっと味わうため、味わうためにしていることなのだ。 (だから、『嵐が丘』24章の、リントン・ヒースクリフと、キャサリン・リントンが夏の一日の過ごし方で論争したところで、わたしはキャサリンの動的で光輝に満ちたヴィジョンに目を開かれる思いがし、惹きつけられ、軍配を上げてきたけれど、実はリントンの安逸な愉悦をまず愛している。昼下がり、気持ちのよい夏野に寝っ転がって、それでいいじゃないか、と思ってしまう。 風やら雲やら、木の枝、葉っぱやら、心の激しい動き・ダンス、そして世界の歌声、大歓声に満ちた世界は、新しいものを見せてくれる窓だ。未来の時間へとつながっている。たぶんキャサリンの言ったことは、未来への強い渇仰なのだし、未来に全幅の信頼を寄せ、希望をもっているのだ。 わたしが心を寄せるリントンのは、今にしか居ない。存在しない。今のことしか考えていない。そして、きっとすでに知っているなつかしい、顔なじみの悦楽と再会するのだ) 外に出ると、キンモクセイ(金木犀)の香りが快かった。 学生のとき、生物でよく聞いたプラナリアを初めて見た。なんと、テキストのような薄黄色ではなかった。色や模様はドジョウに似ている。 また、勝手に、顕微鏡で見るようなサイズを考えていたが、1・2センチメートルもある。肉眼で、ひょうきんな寄り目の顔がわかるのだ。 縮んで、伸びて、移動していく。その感じは、山にいる黒いヒルに似ている。けっこう速い。 こんな生き物がなんと、近所にいるかもしれないのだ。清流に棲息しているから。・・・・・・でも、山村ではあるけれど、とりわけ美しい山村ではないので、わたしは無理かもと思った。 ペットボトルにレバーを入れておくと、たかっているそうだ。 なお、プラナリアを見たり、つっついているより、毛虫を見ていた方がおもしろかった。 ある朝、渡り鳥の群れが空を飛んでいるのを見た。「く」の字のかたち、美しい。 2004/12/26up 台風接近。買い物に出かける。服を見たり、文房具を手に取ったり。夕方になると、ビルのなかはお客さんが少なくなった。店員さんはふつうに働いている。みんな、これから帰る。外がメディアの大きく報じている風雨のときも、ビルのなかは明るい電気の街になっている。 スーパーに寄る。いつもの安い牛乳がない。お客さんがたくさんきて売り切れたらしい。 2004/12/26up チャンネルを変えながら見ていた。そのうち、一つの番組に釘付けになった。はじめ、しょぼい感じの女がベンチに座っていた。そのあと回したときは、銀行の一室ですらりと立って、中年の男性役員を見下ろしていた。強い視線。 それがドラマ『黒革の手帖』であった(松本清張原作、テレビ朝日)。米倉涼子って、「こんなにいい女優さんだったけ?」とびっくりした。硬質の表情がいい。ファッションにも引きつけられた。着物、派手なスーツ。 元子が庇護したのに、愛人を得てすぐ上階に開店する波子役の釈。キャスティングを知ったときは(その日の新聞で)、「彼女こそ主人公にふさわしいのでは」と思ったが、いまいちであった。もっと怖くて凄みがあった方がいい。 この夜、思ったこと。山あいに住んでいるけれど、それなりに娯楽があって、その第一はテレビである。テレビは都市の劇場や映画館や寄席にあたるのかもしれない。 2004/12/26up 台風がちかづいた日。源氏物語の『野分』の巻をひらいた。
「あっ、この冒頭、集中講義で読んだことがある」 でも、あのころよりもずっと意味がわかって、興味深く読めるのだった。 つづく文章も最高ではないか。
「野分、例の年よりもおどろおどろしく、空の色変りて吹き出づ。」 やっぱり強く印象にのこるのは、夕霧がこっそり覗いてしまうシーンだ。紫式部が趣向に表現に、力をつくしたのを感じる。とくに、紫上の描写が忘れられない。二十代後半(おそらく)のこの女王のファンになってしまう。
ふたつまえの帖『常夏』もちょっと読んだ。権力欲が強くなっている。ライバル内大臣(頭中将)の新兵器・近江君(早口少女)に関する情報を集める。頭中将の息子たちにイヤミを言う。そのあと、ていよく若者たちの宴から抜け出すと、美しい玉鬘のもとに入りこむ。そんな中年の源氏君が憎々しくて、おもしろい。 『枕草子』の野分・嵐が取りあげられている章段も、3つほど読む(日本古典集成の第百二十四段「九月ばかり、夜一夜降り明かしつる雨の」、第百八十七段「風は嵐」、第百八十八段「野分のまたの日こそ」)。 源氏物語の小説世界におとらず、こちらもいい。清少納言の感性は鋭敏で、言葉は的確。すばらしい! 風雨の翌朝の、露がおりた庭のさま。なかでも
そして、「ひとの心には、露をかしからじと思ふこそ、またをかしけれ」という自負、優越感。 187段冒頭の、「風は嵐。」という言い切った言葉。わたしも災害がなければ、好きだ。おなじであることの喜び。清少納言はエミリー・ブロンテの『嵐が丘』のファンになるかもしれない、とまた思う(こちら) 身にまとう着物で秋の深まり、冬への接近に気づくところにも共感する。 それからそれから、
第百八十八段にはふたりの女性が登場する。『枕草子』には人間と自然の気持ちのよい交感が描かれている。 『枕草子』を愛読した兼好法師の『徒然草』にも、自然は取りあげられている。しかしその際、たしかに人はあまり出てこない。人自体は、うじゃうじゃ登場する。どこの人がこんな馬鹿なことをした、人間のああいう姿はよくないとか。 彼は隠者文学の書き手らしいけど、巷(ちまた)にうごめく人にすごーく興味があって、批判している。そんで読者に教えている。教訓的(と、あんまり読んでいないのに思う…) 清少納言は、他人にもおなじ感性をもち、読んで共感する人がいることを絶対的に信じている。人をすごく愛していたみたい。 自分の好きだったこと、愛しているものを伝えようとしてくれている。「わたしは幸せだったのよ!」という幸福な叫び声が聞こえてくるような本だ、と思ったこともある。 武田百合子さんを、埴谷雄高氏は「全肯定」の人と定義している。清少納言も、天地人、すべてを愛した全肯定の人ではないか。 と、彼女が遺した唯一の書物(わたしたちの手もとに伝わった遺品)からは思う。実際は晩年、かつて定子中宮におこったことを、人間の心変わりや、欲望・恐怖から抜け出さない人間の心を、どう思っていたのか。 後世の人は、幸福の香り立つ玉だけを贈られたのだ。 2004/12/26up 晴れ。畑のピンク色のコスモスが青空に映えて美しい。 稲刈りをてつだう。機械もちょっと運転したが、最初は鎌をもち、稲を束で手にとって刈った。けっこう時間がかかる。すると、 「こんな植物に時間をとられて。大したお金にもならないし。」と思っていた。びっくり。コンナショクブツ。 いままで、「お米」とか「ご飯」と呼んできたのに。 午後は土手に寝っ転がって、昼寝したりした。 2004/12/26up 今までに体験したことのない強い地震だった。 川岸のやぶで、雉(キジ)がそれまでになく長く鳴いた。そのしばらく前、キジは裏山から飛んでいった。裏山にいるのを知ったのも、初めてのことだった。 2004/12/26up 秋は、黄色い草原(くさはら)でもある。初夏は水が張り、山を映す浅い沼でもある。そのうち、緑色の苗がそよぐ。夏の夜、水路をポコポコと気持ちのよい音をたてて、水が流れていく。 そういう田んぼが地域の中央に広がっている風景は、数百年続いてきた。しかし、数十年後、いや十数年後にはなくなっているかもしれない。 近くの低山はもう変わっている。家族が子どもだった時代、秋や冬は山に下草がなくて、入っていける雑木林だったらしい。木は薪、燃料であり、採ると怒られたそうだ。そういう里山はほとんど消えてしまった。杉林の手入れをしていないし、竹林が広がりつつある山もある。 田んぼのある風景も変わって、消えていくのではないか。先の地震の直後、食べ物を送ったコンビニがあった。むかしは火事などのとき、民家が炊き出しを行なったようだ。それは助け合いの精神だけではなくて、なかば自給自足の時代であり、家が工場(ファクトリー)だったからではないか。食べ物も、衣服も、家造りも。つまり衣食住の。 幸田文のエッセイや小説(『きもの』など)を読むと、お店はあるけど、着物を作っていたらしい。洗ったり、庭で張ったり、繕ったり、手入れもいろいろしなければならなかったようだ。 水村美苗の『日本近代文学 本格小説』では戦後、登場人物が長野県で洋服を(?)仕立てる仕事をしていた。服も着物も、人の手による一点物だったのか。いまは外国の工場で機械による(?)大量生産、おなじ製品が店に山積みされている。 わたしの母も服を作ってくれた。幼稚園に着ていった白黒の小格子柄のコート。小学校1年生のときのプリーツスカート。親戚の結婚式に着たピンク色のサテン(?)のドレス。中学年のときの黒地にオレンジ色の小花の散ったビロードのスカート。茶色や紫色の四角がまじったスカート。手提げもあった。 そういえば、成人式の振り袖に締めた帯は、祖母のものだった。それらはうれしい思い出だ。しかし、わたし自身は、母のようにも祖母のようにも生きないだろう。 話が逸れてしまった。いまは、家の外で、企業で物が作られる。 わたしは今まで、山にしろ、川にしろ、沼にしろ、「風景が変わっていくこと」がイヤでイヤで、たまらなかった。悲しかった。そして、環境保護が叫ばれているのに、なんでふつうの田舎は破壊されていくんだろうと、怒っていた。 それが稲刈りの日、「こんな植物に時間をとられて。大したお金にもならないし。」と思っていた。コンナショクブツ。いままで「おこめ」とか「ごはん」と呼んできたのに。 わたし自身、お金が大好きで、資本主義社会に浸っていて、衰退・消滅に追いやろうとしていたのだ。 「生者必滅、会者定離(えしゃじょうり)」 出会った人とは必ず別れる。会うは別れのはじめなりけり。 人とだけでなく、その時その時、一瞬一瞬の過ぎ去る時間とも別れ続けていくのではないか。生まれるということも、この地球(ほし)、大地に出会うことだと思う。そして、出会って愛おしんだその風景も変わり、去り続けていく… 「さよならだけが人生だ」という言葉。たしかに、身を切られるようにして、すべてに別れ続けていくのが人生、「さよなら」の集積が人生だ。 しかし、きちんと「さよなら」を伝えられたなら、どんなにいいだろう。犬にも、山にも。 わたしはきちんと挨拶のできないまま、あるいは挨拶の機会を逸したままのしょうのない人間だ。 *さよならだけが人生だ* 出典:井伏鱒二の『厄除け詩集』(1937年)。于武陵の五言絶句「勧酒」の結句「人生足別離」の訳詩。原文は[「サヨナラ」ダケガ人生ダ] この言葉を知ったのは、雑誌『詩とメルヘン』の編集前記(? 掲載詩一編一編につけられた短い文章)。表紙を開いて、目次のそこを読むのが好きだった。そして、やなせたかしさんの言葉だとずっと思っていた。やなせさんの中から出たようで、とてもぴったりに思えたのだ。いまもそう思う。 |