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1月 元日。お米の売り上げのごく一部をもらう。「これがわたしのお年玉だ」と思う。 年末、前橋市の古書店・山猫館書房で岩波文庫『竹取物語』を購入。 稀有な魅力をもつ異人は、現代では機械、あるいは、なにかタンパク質のかたまりや、試験管から生まれる(と思う)。たとえば、二足歩行するロボットとか、遺伝子が選びぬかれた子どもとか。 自然から採集した物が生活を支えていた古代は、竹から異人種が現れたのだ。 冒頭や、月から迎えが来るラストシーンは、教科書にも載っていておなじみ。ところが、とちゅうを読んでみて驚いた。かぐや姫は、ずいぶんと意見をはっきり言うのだ。
まわりの人の社会的地位や人間関係に左右されず、おびえず、自分の意見をはっきり言う姫だったとは。こんなふうにズバズバ言えたら、気持ちいいだろう。憧れる。 結婚について。別の人生に入っていくよう強制されるような時。 しかし、5人の貴族が去っても、天皇の命令を拒絶しても、かぐや姫は結婚、恋愛、というか肉体関係の強要される。天皇は狩りを装って、邸にやってくる。翁は喜ぶ。「いとよき事也」 『源氏物語』の「葵」で、源氏君が若紫(紫の上)が関係をもったことを、乳母の少納言をはじめ周囲が喜んでいるのとおなじか。ヒロインひとり苦しんでいる。 びっくりしたことに、竹取物語で天皇はかぐや姫を直接つかんでいるのだ。
それに、天皇がしていることって、暴力行為で、犯罪ではないか? 結局、かぐや姫は姿を消して、連行されずに済む。(こういう拉致から逃れるなんて、ふつうの人にはできないことだ。超人、宇宙人でもなければ)。 また、人間の姿をとり、絶世の美女であるかぐや姫が、超能力をもった宇宙人のように思われるシーンでもある。「きと影になりぬ」「もとの御かたちに成りぬ」 かぐや姫は月の都の高貴な生まれの姫君であったが、罪を犯したために穢(きたない)い下界に落とされた、流刑に処されたらしい。罪業がなんであったかはわからない。刑罰はなんだろう? 別れを悲しむことが与えられた罰だったのではないか。それは、わたしが、この世に生きていて最も苦しいのは離別を悲しむことではないか、と思うからだ。人に限らず、変わりゆく山河・風景と別れることも。 ただ、かぐや姫は8月15日満月の夜、天の羽衣(宇宙服か?)を身につけると、
一生悲しむのは取り残された翁をはじめとする人々。誰も、かぐや姫の贈った不死の薬を飲まない(なめない)。悲しみたくないからか。悲しみから離してくれるのは、死だけだからか。 「いづれの山か天に近き」「駿河の國にある山なん、(略)天も近く侍る」 このフレーズが好きだ。 実は、本文は少ししか読んでいない。解説を読んでみた。 『竹取物語』は『源氏物語』「絵合」の巻に「物語の出で来はじめの祖」としてだけでなく、それより前の「蓬生」にも登場するという。あの、ぼーっとして古風でダサイ常陸宮の姫君、末摘花の本棚にあって、彼女が読んでいたのだ。 これは竹取物語は当時すでに、古風で野暮ったい物語と認識されていた、ということだろうか。俄然、興味が湧いた。 12月30日、読み始めた。とちゅうやめたりして、年始に読み終わる。 源氏の援助が無くなり、文化的生活が失われ、自然が猛威を振るっている邸が舞台だった。自然と時間の侵攻に負け、建物は崩壊し、人は去っている。 樋口一葉の『やみ夜』(暗夜)や、若い女性が零落して住んでいる小説は、源氏物語のこういう部分の影響も受けているだろう。しかし、『やみ夜』の“お蘭さま”は復讐を誓っている。家に入りこんできた男を扇動して、テロリストにしたてあげる。 『琴の音』のヒロインは、荒み、浮浪人となっていた若者の気持ちを一新させる。 一方「蓬生」の末摘花は宮家の家財、もとい、『伊勢物語』のように、伝統ある貴族精神、高貴で尊い心を守りぬく女主人である。「末摘花」の無能で鈍感な彼女とは、別人のようである。 「末摘花」は恋に溺れこんでいる青年源氏を笑い、恋愛小説の王道とみて引っかかった読者が自身を楽しく笑い、そして、落ちぶれるのも当然な姫宮、宮家を嘲笑する、嗤う短編でもある。(遊びに興じている、利発な少女・幼い紫上もかわいい) もしかしたら、紫式部は「蓬生」を、べつのヒロインで書き上げることも考えたのではないか? 『にごりえ』も『たけくらべ』も、一葉の小説は高いところで張りつめている。氷のような結晶になっていて、きらりと光り、硬く冷たく、近づきがたく、美しい。清明で高潔。 「蓬生」は「末摘花」「帚木」のように、俗っぽいところもふんだんに取り入れられ、ゆるやかな感じもする物語、語り物だ。おもしろいところもある。 ただし、紫式部の笑いは巻「乙女」(?)で学者を描いた箇所のように、冷笑や皮肉っぽい。『枕草子』から聞こえてくるような、清少納言が定子中宮や友人たち仲間と思う存分、声を立てただろう明るく軽やかで、快い笑い声ではない。 昼間、ひさしぶりに裏山を散歩。あかるい日ざしのあたる山林は気持ちよかった。積もった落ち葉はあたたかそう。 日陰の斜面に、白い雪が壁のように残っている。 坂道をのぼって丘の上に出る。子どものころ、山に囲まれた田んぼの村を見て「こんな狭いところで育ったのか」とショックを受けた。牛伏山の標高(491メートル)とは比べ物にならないけれど、やっぱり感慨が湧く。 つぎの日も裏山へ行く。身近に、こんないい所があることを忘れていた。 なにもしていなかった春か夏、緑色の林の中を歩き回って、自分としては楽しかった思い出もあったのに。 日が沈んで暗くなったころ、丘を歩いた。むかし、牧草地。そのあと、野原だったところ。 あのころは、丸くふくらんだ丘の野のうえで、町や市部の灯りがまたたくのを見ていたこともあった。 また昼間、建てこんだ家々に、「人間てなんのために存在しているのだろう? 宇宙ってなんのためにあるのだろう? わたし達はなぜ存在しているのだろう?」と不思議に思ったこともあった。10代後半。 野原と畑のあいだの狭い小道(軽トラックが一台しか通れない幅)にすわって、青空や夕焼けを見ていたこともあった。雲が軍団を組んで、戦争に向かったり、あるいは必死に逃げ、避難している天界の生き物に見えたりした。そばには茶色い犬がいた。 あのころは、桑畑のあいだを昔のコンクリートの白い小道が、起伏に沿って続いている丘だった。 夏がちかづくと、桑の枝はジャングルのように伸びて、薄暗いトンネルとなった下には、赤黒いドドメの実が落ちて匂っていた。 道の途中には、栗の木が生えていた。大きくはないけれど、梢がきれいな球体をつくっていて、秋冬は見ほれた。 道がくだる所の山林には、エゴノキがあった。うすぐらい夕方、たくさんの白い小さな花が美しかった。花は、道にも散っていた。そこにクマンバチが落ちてきて、そのまま死んでしまったことがあった。 冬の夜中、皆既月食を見にきたとき、茶色い兎(ウサギ)が道を飛んで横切った。 …ああ、あの野原のはしに沿って、カーブしながら続いていた道もなつかしい。春、盛り上がるように咲いていた白いノイバラの花々。 桜の木もあった。そのあたりで、養豚場から抜け出たらしいピンク色のブタに遭遇したことも、なつかしい。 あのあたりの山の斜面は、土が剥きだしで、夕日に照らされて赤くなったっけ。 それから、丘陵をくだる道! あの道からは多くのものを教えてもらった。とくに秋。紫色の野菊(アズマギク?)、紫色のヤマハッカ(? 山薄荷)、ヒヨドリジョウゴの赤い実、緑色の実。ピンク色と黄緑色の花は可憐、赤紫色に光る幹は華麗なインクベリー。 それに、美しく黄葉した枝。わたしは音楽なんか聞かないのに、「哀切な音楽が聞こえてくるようだ」と思った。 ・・・・・・思い出すときりがない。夢の中にも変形して出てきた野原の丘だ。大事な存在だったのだ。だったのだ。 1年前の秋、封鎖されて資材置き場になった(こちら)。遠くからは、頂に緑が無くなり、土が削られて変わってしまった様が目に入った。そのたびにドキッとした。 この日、久しぶりに歩いた。“野原”にはきれいな石垣ができていた。狭い道から二車線で歩道つきに変わった車道は、あいかわらず立派。でも、前にも書いたように、むかし歩いていたときに抱いたような歓び、親愛感は湧かない。囲われた原を見ても、コンクリートに覆われた墓場かなにかのように感じる。思い出もよみがえらない。 ぜんぜん別の場所みたいだ。この丘は、死んで、固まってしまって、わたしとは全く切り離された世界になってしまった。ただただ、足で歩くためだけの利便の道になってしまった。往復した。 小学校にも入っていなかったころ、ここの茶色い野原で父親とかくれんぼをした。その時は、黒い犬がいた。10歳にならない午後、青い草の波(たぶん牧草)の上でお弁当を食べた。そういう幸福な思い出で始まって、こんなふうに味気なく終わるなんて。 土地を人間が所有することはしかたがない。私有地であることは尊重しなくてはならない。でも、親愛的な自然、人間によりそってくれるような自然が永久に失われることはイヤだ。 自分は楽しい遊び場をなくして、喚いているだけだろうか。 翌日は、山のあいだの小道を通って、となりの地区へ散歩。久しぶりに、そこの沼(ため池)に寄った。 冬の裸木の山に囲まれている。枯れて白っぽくなった葦かヨシが広がっている沼だ。薄暗くて寒い。時刻は夕方5時すぎ。人はほかにいない。 一面に氷が張っていた。ぜんたいが緑色に見えた。沼の端っこは真っ白。美しかった。「恋って人生を生き直すことだ、人生を美しく感じることだ」と思った。 前書いたように (こちら)、夕焼けの空が美しい。気がつくと、西の山のうえの空に、朱色の光がたまっている。 昼間の青空も美しい。形をとって、流れていく白い雲。 でも、わたしが住んでいるあたりの山もあるから見ている。高校のときから、市街地に出てくるようになったが、ときどき窓の向こうに山を探した。いまも。 群馬県を代表するような、大きな赤城山も榛名山も、秋は紅く見えた。鉢が逆さになったようなきれいな火山・浅間山も、白い雪をいただく険しい峰の谷川岳、武尊山も、きれいだ。 でも、山あいの僻地から出てきたわたしが縋るように目を向けるのは、なんてことない低山。白い雪に覆われて神々しく見えることもない。たくさんの山(関東山地?)に埋没している、ほとんど無名の山。 しかも、市街地の高い建物で見えない。 だけど、なつかしくて大切な存在だ。 「あそこに山がある」「帰る所はあそこだ」「はやく帰りたい」とよく思う。 そういう気持ちと関連して、坂口安吾の有名な短編小説のつぎの一節が好きだ。
いまちょっと読み返してみたら、『桜の森の満開の下』は山の魅力がぞんぶんに書かれていて、しかも、山に帰る小説でもあるではないか。 心に響く文が何ヶ所もあった。男は女に言われて都にでてくるものの、なじめず、その田舎者の行動は人々に馬鹿にされる。
首遊びをしている女はもちろん、下女(ビッコ)も都が好き。山にむしょうに惹きつけられていて、離れたくないわたしとだったら、主人公の男も幸せになれるのに。 しかし、わたしもこの「男」なのだ。同じ問題を抱えているのだ。彼の気持ちに成り代わって読むと、彼の感動がよくわかった。
“お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ” わたしもこんな言葉を言われてみたい。ただし、この言葉は主人公を利用するためのウソで、騙されているわけだが… 「あなたがいるなら、どこででも」という言葉は信じていけないということ? 旅行会社からパンフレットがとどいていた。その冊子には、色鮮やかな世界の国々の風景、人々の写真がいっぱい。文章も魅力的な空間へと誘う。 列記されているツアーには、ウズベキスタン旅行、ギアナ高地紀行、ガラパゴス諸島クルーズまである。わたしは「日本の一隅の山村から、世界中の山河、大海の果てのどんな秘境へでも行けるんだ」という気持ちになった。 ふと冷静になってお財布のなかを思った。 もちろん、わたしには行けはしない。厳しい現実がはっきりつきつけられた。 ・・・旅行にしろ、そのほかの商品、システムにしろ、豊かなものに囲まれている。しかし、豊かな社会の余滴、あまった滴(しずく)を片田舎で仰いで飲み、生きている感じがする。 新宿副都心を撮りつづけた写真が新聞にのっていた(「西新宿定点撮影写真展 脈動する超高層都市、激動記録35年」企画・中西元男、撮影・山田 脩二ら)。1970年、そこにビルはなかったのだ。何かもう昔から、ビルが林立していたように思いこんでいた。 数葉の写真は、どんどん高層ビルが立ち並び、わたしの東京のイメージに近づいていった様子を示していた。いまの風景は、ビルという、かわいらしい言葉ではなく、超高層建築都市という、なにかわけの分からない力の働いていそうな空間を感じさせる。 といっても、実はそこには、そんな不思議な力や現象、何もないのかもしれない。 写真は都会に山や谷ができていく様子にも見えた。都市にはこんなツルツルした山や谷があると。 だいたい、都内は地面も平らではない。丘があり、上り坂、下り坂がある。北関東のほうがずっと平らだ。 ところで、地方都市はさびれていると聞く。少なくとも、本県のJRの駅前はそうである。県都(県庁所在地のことである)の大きなアーケード商店街(ナントカ銀座)のがらんとした廃墟ぶり。もう何年も行っていないから具体的にはわからないけど。 “マチ”自体は郊外に店舗が集中しつつあって、豊かさは変わっていないのかもしれない。 でも、都市郊外の田園地帯、田舎、山村、僻地(わたしが通っていた学校の分類)はどうだろうか。農業という目的を失いつつあって、本当に衰退しようとしているのではないか。 それは、わたし自身が暮らしている場所について、こんなことを思ったからでもある。 「山あいの宿屋だと思って、縁側でくつろごう」(数年前の夏) 「平日は眠りに帰ってきて、休日はちかくの野山川沼を散歩して遊びたい」 「家のバックには山があり、近所と隣り合っていない風景は、別荘の村みたい」(先日の月夜、散歩して) 憩い、遊び、楽しみ歓びを汲みあげる場所として耽溺する。それは新しい態度ではない。 19世紀半ば、イギリスはヨークシャーの荒野(ムア)に、学業からも仕事からも引きこもったいわば“ニート”のエミリー・ブロンテ。大西洋に面した、しっとりとして色あざやかな自然(わたしのイメージである)のプリンス・エドワード島で活動的に生きたアン・シャーリー(赤毛のアン)。 美しいリンゴの花咲く農場に住み続けるアンは、作中の人物だ。作者ルーシー・モード・モンゴメリは、“負け犬”にならないよう、現実的な方法を模索して島を出て行ったように思える。 女性はここ百年ばかり、どうやったら、美しい山河に抱かれた故郷と離れずにすむか、悩んできたのではないか? そう思いたい。 ブロンテの『嵐が丘』ではラスト、主人公の子孫たちが土地と家屋を相続する。…相続、そういう手段をとれることが大事だ。 ただ、子孫のカップルは、それまで小説の舞台となった丘と邸を離れ、別の場所で新婚生活を始める。舞台の圏内にあったギマトンの教会、墓地(そこに主人公たちは眠っている。ヒースクリフとキャサリンのことだ。リントンも埋葬されているけど、印象は薄い。彼の魂はすぐに気化してしまったのではないかと思えるほどだ)は荒れて崩れ、消えようとしている。 そういう放棄、荒廃によって時間の流れのなかに埋没すること、風化すること。しかしその荒廃、風化によってかえって、“嵐が丘”という極めて魅力的な空間は失われず、すばらしいまま輝いて永遠に存在する。 ブロンテは、心の故郷との別離をそのように、作品のなかで行ったのではないか。モンゴメリもそうかもしれない。美しい自然世界との別離は、作品を書くことによる新たな出会い、創作による永久保存しかないのだ。美しい記念碑を築くことなのだ。 では、わたしはどうしたらいいのだろう。 還暦のわたし、古稀・喜寿・米寿のわたしが、どこで何を思っているのか、想像できない(即席ラーメンばかり食べている人間が生きていればであるが) テレビをつけたら、面白そうな映画をやっていた。最後まで見てしまった。子どものアイスホッケーチームが世界選手権で優勝する。 先がわかる展開、伏線、設定ではある。選手には、めがねをかけて貧相な体格のアジア系(「ケン」 でも、名字からすると日本人ではなさそう。チャイニーズ・中国系らしい)がいたり、ストリートの黒人少年が入ったり、勝ち気な少女がいて最後報われたり。 ライバル・アイスランドチームのコーチ、監督(カーステン・ノーガード?)は、オールバックの髪型、黒っぽいスーツで、いかにも有能で冷徹な人間ぽかったり。 ラフな格好で、自由と個性を重んじる、落ちこぼれの寄せ集めチームが、USA代表として世界一になるわけである。うーん、逆に差別的。 (ファイナルの相手がロシアではないのは、売り上げのためか? アイスランドは人口少ない) でも、いろいろがうまく織りこまれていて引きこまれる、上質な映画。白い氷上のリンクを玉(? すいません)が飛び交う試合のシーンも、迫力、スピード感がある。 音楽もいい。観客がクイーン(Queen)の曲(ウィ−・ウィル・ロック・ユー WE WILL ROCK YOU)を歌ったりする。 ブリトニー・スピアーズ、ビヨンセ、ピンクが、ローマ時代のコロシアムで歌う飲料会社のCMが、最初ではなかったのだ。 ラストでは子供たちが「伝説のチャンピオン」(WE ARE THE CHAMPIONS )を歌ったかも。 勝ち気な少女、マーガリート・モロー?。甘い顔のコーチ・ボンベイ役、エミリオ・エステヴェス(エステベス)。最後ベンチに残った少年、ジョシュア・ジャクソン?。アイスランドチームの監督、彼のいつもそばにいる女も冷たい感じでよかった。 1994年、監督サム・ワイスマン、制作会社ウォルト・ディズニー、映画音楽J・A・C・レッドフォード、撮影マーク・アーウィン、脚本スティーヴン・ブリル 『D2 マイティ・ダック 飛べないアヒル』(THE MIGHTY DUCKS) アントン・チェーホフの『桜の園』の再読おわる。すこし前、山猫館書房で買った『結婚申込み』を読んだ。巧みな喜劇だったけど、『三人姉妹』『桜の園』のほうが傑作だ。
園主の貴族、ラネーフスカヤ夫人(愛称リューバ)と兄ガーエフには、愛おしさを感じる。叙情的で、衰退し落ちぶれ、滅びていくやさしい人たち。しかし、ラネーフスカヤは意志の弱い浪費家、ガーエフは理想を熱烈に演説してしまう浮いた人なのだ。 かつて使われていた極貧百姓の子で、“桜の園”を落札し、分譲別荘地造成のために桜をすべて伐採するロパーヒンは、成り上がり者だ。しかし、彼のせりふからは、誠実さも内省的な部分ももつ人間性が好ましくなる。 わたしが読んだ物、チェーホフが書いた物はせりふばかりだ。せりふばかりの薄い本から、いろんなことが伝えられる。戯曲ってすごい。 作者チェーホフが万能の人に思える。書きたいことを的確な言葉で書ける人。いろいろなせりふ、あるいは、せりふのなかの数節によって、登場人物たちに多面性が与えられる。ひとりの人間に愚かさと美しさが表され、わたしは魅了される。 初めて文章の技術に関心をもった気がする。優れた高校生は、文章表現について考えるそうである。自分は遅れている。 ワーリャが好きだ。ロパーヒンと結婚できるかもしれない最後の場面でも、用事が目的であるふりをして避けてしまうところ、わかる気がする。自分を抑制し、夢のほうへ向かわないこと。彼女が口にする聖地巡礼の願いは、「葛藤苦しみのない世界に逃れたい」という願いだろうか。 それでいて、働きづめに働いて時間を気にしているところは、ロパーヒンにそっくりなのだ。 牛伏山の遊歩道を散歩。雪が溶けていず、最近降ったかのようなところもあった。しかし、白い雪の面に、人の足跡がつづいていた。 犬は走り回り、顔をすりつけ、雪をほおばった。何でそんなに食べるのか。寒くもないらしい。 あたりには茶色の落ち葉が積もっている。山肌も、峰の岩も、木の形もよく見える。冬の山林は明るくて風通しがいい。好ましい。
テレビをつけたらやっていた映画を見てしまう。イギリスのスパイがドイツのスパイを捜して殺そうとしている。 べつの人(品のある老人)を山頂で突き落としてしまう。イギリスのスパイは夫婦を装ったふたりと、自分を一流のスパイだと思っている「将軍」(老人を突き落とす。顔は二枚目の反対。彫りの深い欧米人ぽくない顔。愛嬌のある丸顔) “夫婦”の妻が怒っているとき、失望しているとき、悲しみに沈んでいるときの表情がいい。『欲望という名の電車』のブランチ役、ビビアン・リーを思い出す。ただ、彼女が「将軍」を殺すのかと思っていたら、そうはならなかった。 トルコでのイギリス軍(?)による列車爆撃後のラストには、ちょっと入りこめない。都合よくて脳天気な感じがする。 妻の相手役は老けている感じ。彼よりも、爆撃のとき、「ドイツのスパイがイギリス人女性を助けようとする。おもしろいじゃないか」とか「君など愛していない。残念だがね」とかいうドイツのスパイ役がかっこいい。 老人が殺されるときに犬が鳴くところも心に残った。見ているときはかわいそう、今は怖い。 白黒映画。原作、サマセット・モーム。人まちがいで殺害された老人、パーシー・マーモント。「将軍」、ピーター・ローレ。相手役の俳優(主役らしい)ジョン・ギールグッド。“妻”エルサ役マデリーン(マデリン)・キャロル。ドイツのスパイ役、ロバート・ヤング。 『間諜最後の日』 監督はこわい『鳥』の監督アルフレッド・ヒッチコックなのでびっくり。1936年であることにも。 映画につづいて、ラップランドのトナカイ料理をとりあげた番組に見入ってしまう。中心的な都市(スウェーデンのキルナ?)の人口が2万6千人(?)という少なさに驚いたが、一面雪ばかりの風景が美しい。針葉樹林も魅力的だと思う。 平らだったり、起伏のある雪原、丘。薄明るい灰色の野外。単調ではない。短い日照時間のなかで、この風景はどのように変化するのだろう。 画家、ジョージア・オキーフが住んでいたアメリカの平原(ニューメキシコ州のサンタフェ(サンタ・フェ)郊外アビキューらしい)を思った。透明感ある青い空をバックに赤い岩山ががんとそびえていて、いつも晴れて乾燥していそうな草原だった。オキーフはそこでハーブを摘んだり、新鮮な食材を料理し、暮らしを楽しんで死んだのだ (とわたしは思っている) 平安時代の『伊勢物語』は、きらきらと輝くダイヤの結晶みたいな物語だと思う。 描かれているのは、おもに純愛。恋愛のテキストだろうか? ありえない男女の結末がけっこう ある。ハッピーエンドにしても(たとえば「筒井筒」)、悲劇にしても(「梓弓」)。 きっと、どのエピソードも「東下り」も、在原業平の実人生・体験そのままではないのだ。 しかし、理想的な愛(男女間だけでなく、母と息子の愛情、男友達のありかたなど)、旅、人生なのにもかかわらず、読む者に共感を呼びおこす。一千年もむかしに、それらについての完璧な美学が確立されていたことに驚く。 文章・ことばはとてもシンプルで単純だ。そのひとつひとつに深い意味、味わいを感じる。 第六段の舞台、いわゆる「芥川」は、宮中のゴミを捨てた水路かもしれないそうだ。それはいやだ。自然のなかの川がいい。 男の背中には女がいて、(きっと昔の日本人だから小柄なのだろう)、暗い夜、川原の草深い野を横切っているとき、白く輝く露を目にして問うのだ。 「かれはなんぞ」 のちに女を失った男は悲しむ。その和歌には、この問いかけのことが出てくる。ほんとうに愛していたとき、つかの間のふれあいは、後で愛惜してやまない美しい思い出になる。結晶化される。 わたしは、本章段で女が問いかける箇所自体が、白露のようだ。葉上につかの間とどまる、白珠・真珠(パール)よりも美しい自然の露。 現実の人間の恋愛、性愛関係には、欲や虚栄心がまつわり、汚いところ、泥のようなところがある。 窓の外を見ると、うす青い、冬特有の夕方の空が広がっていた。プラチナの銀色と水色がまじったような色だ。美しい。 そばには、アベマキの大木が枝をひろげて、すっくりと立っていた。 天地人という考え方のあることが、わかる気がした。 『枕草子』第一段(序章)には、まず天である空を描かれている。それから視点を地に降ろしてきて、地上に降る雨、そそがれる月光の風景。 蛍、雁やカラス、秋の虫といった、人間以外の生き物の姿。それらが飛び交うのが地上なのだ。 人間をとりまく地を描いたときに音が出てくるのも、興味深い。 最後の冬の段落で、場面は室内にかわり、人間が感情を持ち、ざわざわと動く姿が描かれている。 それに対抗したかもしれない『源氏物語』の「初音」の巻冒頭も、天地人と順番に筆をはこぶ(こちら)。その箇所の最後に描かれるのは、「生ける仏の御国」と称賛される紫上の邸宅(六条院の春の町)だ。源氏物語は、この人世を寿ぐ小説でもある。 これら、むかしの人が書いたように、天は天で存在しているのだ。天は時の流れでもある。地は、地上の風景、この大地、山河、草木、岩、自然。 これまで、天はわたしの歓びが表されたものであり、また、わたしに歓びを与えてくれるものだった。具体的には、青空や夕焼け空や、月や星の輝く夜空のことである。大げさに言えば、自分はそれらと共にあるような感覚をもっていた。 しかし、つらかった時、その美しさが無情で冷酷なものに映った。とても遠い存在に思われた。 また、これまで「天界に行きたい」というようなことを願っていた。あの空の果て、雲の向こうへ。苦しみ葛藤のない天に同化したくてたまらなかった。 空に表されているような永遠の美しさと、それから、過ぎゆく時間・衰え消えていく自分の一生を超越した永遠の時間がほしかったのではないか。 しかしこの日、天と人はとても離れている、別々の存在なのだと、はっきりわかった。 『枕草子』は天を描いて始まっているけれど、あとには人間のことばかり記されている。これって、光を浴びた富士山があらわれる松竹や、高山のあらわれるパラマウント?の映画と同じか。 清少納言は、人として生きて楽しいこと、よろこび、幸福、ときめき、うれしさなどを、草子いっぱいに詰めこんだのかもしれない。 古今和歌集とか、万葉集(萬葉集)っていう名前は、古今の歌を集めた本、万(よろず)の言の葉を集めた本っていう意味だと思う。それによれば、枕草子は、人であることの幸せ集だと思う。・・・。幸福の味のする飴(アメ)の袋だと思う。どちらも、たいへんダサイ名前だが。 夜、テレビのチャンネルを変えていたら、またも、なんかいい映画に出会う。男が駅の構内を必死に走っている。 重厚でしっかりしていて、全体から鈍い輝きが発せられているような感じ。輝き云々については、出てくるのが富豪の家の室内(地味だけど高価そうな家具・調度品がある)だからかもしれないが。 ベランダ(テラス?)の手すりにもたれていた、シンプルなロングスカートの女優がいい。プロポーション、しぐさ。若いつやつやした美女ではないけれど、言動も表情も、とても女らしい。 この女らしいっていうのは、一般的な女らしさとは違う。機知をめぐらしたり、憎んだり、暴力をふるったり、いろいろなことをする多面性、深さをもって、女性の本質がでているという感じのこと。 列車や室内の殺人シーンは、ちょっと激しくて残酷。でも、いい。語弊を生むかもしれないけれど、なにか、ある種の快さみたいなのを感じたりもした。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』でヒースクリフが暴力をふるったり、暴れている場面を読んでいるときに似ているかも。 (なお、ヒースクリフは圧倒的に強い印象があるが、リントンに殴られるところもある) 映画は、富豪(憎々しい、ふてぶてしい顔をした中年男性)が列車で“芸術家”(ちょっと若い)を刺殺し、豪華な家に帰宅。妻(前述の女優)と抱き合ったりして和解、ディナーを約束。彼がシャワーを浴びているあいだ、妻がそいつの鞄を開け、なにかを知る。夫、来る。妻が怒って叫び、殴る。夫、暴れる。妻、ピストルを撃つ。男、足を広げて死ぬ。警察に正当防衛といわれる。おわり。 芸術家ヴィーゴ・モーテンセン、夫マイケル・ダグラス、妻グウィネス・パルトロー(パルトロウ)、1998年、監督アンドリュー・デイビス 『ダイヤルM』 そういえばお正月に、ピンク色の仔ブタの映画を見た。だいたい2回目。 心温まるコメディーというより、キャラクターに対する皮肉のまじった鋭い描き方が好きだ。たとえば、牧羊犬レックス(レック)の堅物で、家長という立場が好きな性格。犬と羊の見解の相違とか。 冷たさ、ブラックユーモアのまじったところも気になる。 1だったら、都会に住んでいるらしい、ホゲット夫妻とぎくしゃくした関係の娘家族とか。(しかし、あとでクリスマスプレゼントのFAXが大活躍) 2はしょっぱなから、おじいさん(アーサー・ホゲット氏)が井戸でえらい目に遭う。患者としての描き方は、嘲笑にも思える。黒すぎる。 また、寂れたホテル(零落した貴族の邸みたいでもある)に役所の人間がやってきて、オランウータンの“紳士”やチンパンジーの家族、犬、猫を連れて行くシーンは、ナチスの収容を想起させられた。泣きたくさせるのもお手の物、という感じだ。 2では、ごみごみして喧噪と無関心、若者に満ちた都会が描かれる。1の舞台、ホゲット夫妻の家のまわりは緑に満ちた田舎。家はすてきな造りをしている。しかし、あまりに美しくて、理想郷、ファンタジーの中にしかない場所のようだ。それに昔ながらのやりかたの農家の後継者はなく(娘婿は冷たそうな人)、いずれ失われるのだろうし。 ジェームズ・クロムウェル、マグダ・ズバンスキー(エズメ)、監督クリス・ヌーナン、1995年、1999年、オーストラリア。 『ベイブ』、続編『都会へ行く』 やっぱり田舎の娯楽はテレビらしい。 2月 空は雲が多いほど、陰翳があって美しい。 美術館に行かなくなったのは、忙しいからだ。でも、美から離れたわけではない。 窓の外の空を見ることもそうだし、いま、机のうえには箱を飾っている。印刷機のインクの箱である。 印刷機に嵌めるため、ふたつの面に四角い穴が開いている。箱が室内、穴が窓に見える。 段ボールでできているが、茶室の砂ずり(?)の壁みたいだ。落ち着く。 ある面にはタテヨコ数ミリの細長い窓がふたつ並んでいる。高い位置にある小窓のようだ。そこから光が差しこむと美しい。 時間によって、箱に当たる日の光はちがい、おもむきが変わる。 なんでこの箱がいいのか考えることもおもしろい。…ひとつには、大きな“窓”のすみが直角ではなく、丸みを帯びていることがあるように思う。 箱だけでなく、文具(ステーショナリー)、食器。そういうものも毎日を美で飾ってくれる。 考えると、お店にはそのような、日常生活を楽しませ、彩ってくれる物があふれ、たくさんの人が求めている。 夜、テレビの映画番組をつける。冒頭、紅葉した森を空から映したシーンが鮮やかで美しい。森ではなく、セントラル・パークであった。 商店のある下町、高層ビルの立ち並ぶ夜景。ニューヨークのいろいろな場所や、部屋のインテリアが目を引く。(ただし、ファッションはいまいち)。年齢差のある恋愛という設定にも、興味をもつ。 しかし内容は……。金持ちで、センスのいい人らしい初老の男が若い女をためらいながら、パーティーに誘うところ。会場で若い女が車から降りてくるところ。そのとき女は、男が見繕った高価なドレスをまとっている。会場でふたりが踊るところ。場面が変わり、ベッドに寝ているところ。 朝食のとき、女がとつぜん「わたしは病気なの」と言い出すところ(パーティーシーンで「化粧が濃い」とは思ったが) …そういうところに、笑ってしまう。用もあったので、電源ボタンを押す。 ラストは、白い雪の降るシーンだろうか。 そういえば、「欧米の人にはこういう日本人、こういうメイクが美人なのかなあ」と思わされる、へんな日本人女性が出てきた! 男の恋人役。 撮影クー・チャンウェイ、美術マーク・フリードバーグ、脚本アリソン・バーネット、監督:陳冲(ジョアン・チェン)。リチャード・ギア(ウィル役。『アメリカン・ジゴロ』『プリティ・ウーマン』の人であった)、ウィノナ・ライダー(シャーロット)。2000年。『オータム・イン・ニューヨーク』 漢詩・唐詩に興味をもった。でもいまの時代、漢詩を読むことは、ふつうの人のあいだでは流行っていない。 もしかしたら、テレビや映画やインターネットもなく、現代ほど多種多様な本が手軽に得られなかった時代、漢詩を読むことはおおきな娯楽だったのではないか? そこには美しい自然や、魅力的な外国の風景や、人と人をつなぐ美しい思いが描かれている。 というより、漢詩によって、わたしはそれらの存在、美しさを教えられる。虫や植物をズーム・アップなど工夫して編集した映像のように、美しさ、魅力に出会わせてくれる。 海の向こうの、異国情緒あふれる景色を映し出すテレビ番組のように、むかしの日本人は広い中国を知ったのではなかったか。想像してきたのではなかったか。 その深い広い世界を、漢詩は五言絶句なら、わずか20文字の言葉で表現しているのだ。すごい。言葉ってすごい。 短詩だから書写し、所持しやすかっただろう。 漢詩には自然、人事の魅力が凝縮されている。その魅力は、美しい言葉、字によって表現されている。 わたしが中学生、高校生のときに国語の授業で知った漢詩を覚えているように、長い時間を経ても記憶に残るものでもある。 付記「漢詩の伝達方法」 白居易のように家の壁に書き付けたりした物も多かった。そのほか絵画に書き付けたり、石に刻んだりと伝承方法はいろいろであった。また朗誦されて、人々に暗記されていた詩も多い。このように漢詩が発表される手段は現代にくらべると多様であった。(第一学習社の問題集より) 夜、この日の映画は『アメリ』。前日の『オータム〜』とは大違い。おわりまで引きこまれて見続けてしまう。 「小津安二郎の『東京物語』もすごいけど、『アメリ』もすごい!」 いい映画はたくさんあるけれど、このふたつが独立峰、独自の世界を築いている一個の作品のように感じたからだろう。 はじめて、「いますぐビデオを借りに行きたい、DVDを買いたい」と思った。DVDプレーヤーを買う予定もないのに。 心あたたまるストーリーかと思いこんでいたが、違った。 まず、わたしの好きなものに満ちていた。それは感覚重視、物重視の描き方である。五感や物質に、ベッタリしているところである。たとえば、豆の袋に手を入れるのが好きとか。 で、ぐろい。(グロい、グロテスク)。たとえば、はじめの方の、赤ん坊が産まれるシーン。 かわいいところ、気持ちのよいところ、快楽だけではなく、物が放ち、人間の感覚がうけとる生々しさ、気持ち悪さも挿入されている。 ほかに引きつけられたのは、アメリが子どもっぽいこと。社会と調和できないこと。その苦しみ。 ヒットしたってことは、多くの人が共感したということなのだろうか。 アメリの好きなことである、映画館で観客の顔を見ること、運河で水切りをすること、その石をいつも服のポケットに入れていること。そういうところは意表をつかれたけど、「いい」と思った。 そしてそして恋。恋のしかたが、相手にどう接し、魅了するかという作戦として描かれているところ。怖ろしい。 また、“外”の世界に入って、その現実と生きていかなければならない、という勇気の話。これも怖ろしい。 アメリとニノのように、似たもの同士のカップルがいいのか、どうかも。 人を幸福にさせたがるアメリがくっつけたカフェの店員と客の男は、ラストで別れている。情熱的にくっついたのに、みっともない感じで。アメリはニノの運転するバイクにまたがって、路地を疾走しているけど、この後どうなるのだろう? 気になる。 赤と緑を基調にしたアメリの服や、アパートの部屋がすてきだ。 先の店員が恋の進展につれて、服の傾向が変わっていく。おもしろい。 ミヒャエル・ゾーヴァの絵が重要な役目を果たしていた! ゾーヴァの絵は、書店の絵葉書で知った。日常の静謐な風景のなかに、動物を主役とした、ほんとうに起こりそうな非日常的なできごとが描かれている。ユーモア、ブラックユーモア、悲しみが漂っていて好きだ。画集にも出会って買った。 だから、『アメリ』にびっくりし、うれしかった。だって、絵画をあんなふうに使うなんて。あんなふうにゾーヴァの絵画が映画に参加しているなんて。とてもとてもうれしい。 深く喜んだという点でも、『アメリ』は変な映画かもしれない。 わたしにとってアメリは、関心をもたずにはいられない存在だ。実在の人物だったらいいのに、と願うほど。 ある人が、アメリはよかった、と言ってから、「主人公はふしぎちゃんだよね」と続けた。人によって感想はちがうみたいだ。 アメリの勤めるカフェには、売れない中年の男性作家(イポリト)もやってくる。ありきたりの陳腐なせりふ・文章を、自分が生みだした、独自のすばらしいものだと思っている。 でも、そんな小説の一節が街の壁に落書きされているシーンで、わたしはその目新しくもない言葉をいいと思った。心にやさしく染みこんできた。 『アメリ』は、変なもの、それと表裏一体になっている弱さを肯定しながら、そういうふうに「ふつう」とつながっている映画だと思う。アメリのいたずら的な仕掛けや、それが周囲の人にもたらした幸福が、意表をつくものではないのと同じように。 オドレイ・トトゥ。 マチュー・カソヴィッツ(ニノ・カンカンポワ)。 イザベル・ナンティ(カフェで煙草を売っている店員)、 ドミニク・ピノン(カフェで元恋人の行動とその分析(妄想?)をボイス・レコーダーに吹き込んでいる男)、 セルジュ・メルラン(アパートの外に出ず、ルノアールの絵を描いている老人)、 美術アリーヌ・ボネット、衣装(デザイン)マドリン・フォンテーヌ、撮影ブリュノ・デルボネル、脚本ギョーム・ローラン、脚本・監督ジャン=ピエール・ジュネ 長野県へ。雪に覆われた浅間山には、ひびが入ったような青い地肌がのぞいていた。 山頂のふちからは、明るい青空をバックに、白い煙が上っている。目をこらすと、煙はむくむくと湧き出ているようだ。 湯気みたい。ほんとうに火山は「お釜」だ。 ほかのなにかにも似ている。しばらくして思い出した。湯の花まんじゅうの店頭に置かれている、蒸し器の模型。たくさんの白い湯気が出ているあれ。 地震の予兆は難しい。しかし、いま目の前ではものすごい火山活動が見える。この煙の噴出量は非日常的で、おそろしいと思う。しかし、人々は移動したりしない。 道の駅でイチゴなどを買い、やっと開店時間に間に合った(いつも閉まっていた)お店でそばを食べ、坂城町でいつもの味噌(ミソ)を買う 同行者は、雪の積もった場所で犬を遊ばせたがっていた。しかし、日が好く当たり、雪はほとんどない。 結果として、今冬2回めのスキー場ゆき。滑らないのに。 別行動で散歩した。ゲレンデに入って、スピードを楽しんでいる人々を見た。自分もやってみたくなる。しかし、寒いし、飽きたのでお店に入った。お菓子を買って食べた。もってきた本を読んだ。 『鴎外の子供たち』森類。 長姉・茉莉の客観的な描写と、彼女に寄せる共感もいい。というか、正直、私生活を知る楽しみである。 類の眼はほどけている。結婚するまで弟として、べったりくっついていた杏奴の人物像も容赦ない。杏奴は人を崇拝する傾向がある、という指摘は自分を省みると痛いなあ。 「崇拝」は、類の対極にあるものだ。類は人事のあるがままを描き出す。 類には家族を中心としたつきあいしかなく、外の世界とは隔絶していた。その生活の感じもよく描き出されている。 高名な官僚で作家、森鴎外の息子で、異母兄は東京帝国大学を卒業した大学の医学部教授(彼、於兎の手記を読むと、教育ママの祖母と、冷たく利己的な義母のあいだで、彼も苦労している)。しかし、当時の中学校を中退。かといって戦争が終わるまでは貧しくもない。ひとつの身分の枠では描き出せないように思う。 どこにも属さず、これといった肩書きもないまま生きてきた人。もう、これからは誕生しなそうな階層・階級・生い立ちの物書きではないだろうか。 いわゆる負け組だ。すでに小学校で落ちこぼれ。戦後は、働くが使い物にならず解雇される。いろいろな場面に挿入されている感想・意見は視野狭窄、無情に見えたりして、すべてが肯定できるものではない。身近にいたら、好きにならないだろう。 しかし、物書きとしてはすばらしい。この本に限らず、ほかのエッセイも、書いた物はすばらしい。 本に夢中になっていたら、携帯電話で呼び出された。待ちくたびれて怒っている同行者。車にもどっても、「はやく停まらないかなあ、読みたい」と思っていた。すると停車。喜んだのも束の間、犬との写真を写すようにいわれる。 雪の積もったところに出て(出されて)、会社の社長、あるいはなにかの集団のリーダーがにこにこして大統領と握手しているような写真を撮る。大統領が犬で、後者が同行者である。 何枚も撮らされる。ぜんぶ、犬が座って手を出しているおなじような構図である。しかし後で、ほとんどがプリントされなかった。 軽井沢を通過。林の中に点在し、低い石垣にかこまれた瀟洒な別荘をみたくなる。洋館よりも、ちょっと古びた日本家屋が望ましい。水村美苗『本格小説』(サブタイトル「日本近代文学」)の影響だ。 この大作は、太郎とよう子の幼少時よりも、緑の輝く軽井沢の描写や、“太郎ちゃん”がアメリカで大金持ちになって登場する所からが好きだ。彼は元ネタ・本歌(というのだろうか)の『嵐が丘』のヒースクリフよりも、ある意味かっこいい。少女マンガのキャラクターのようでもある。きれいで、空虚、ニヒル。すーっと消えていく。 結局、軽井沢で見たかったような建物には出会えなかった。 ミュージアム・ショップで買った『アート・ライブラリー ブリューゲル』(キース・ロバーツ、幸福輝訳、西村書店)を読みおわる。 ヒエロニムス・ボス(ボッシュ、ボッス、Bosch)を思いださせる怪物の絵に惹かれる。 人間と動物、あるいは道具・器物が融合された生命体。それらは気持ち悪いものであり、天使に退治されるべき悪、堕天使として描かれている。でも、ボスの絵もそうだけど、人間よりも、彼らのほうが幸せそうに見える。 彼らの仲間になりたい。 ブリューゲルの化け物は、影響をうけたボスのとすこし違う。ボスの怪物は、なめらかな感じがするし、描かれた絵の世界にとけこんでいる。『THE COMPLETE PAINTINGS BOSCH 』(Walter Bosing、TASCHEN)をみると、彼は、子どものころから、こんな絵が好きだったみたい。 ブリューゲルは、人間を主体にした絵ばかり描くようになる。そこは、奇妙な生き物たちが遊んだり、戦ったりはしていないこの世。奇妙な生き物たちには日常生活がない。いつも戦争とか地獄、祭り(カーニヴァル)とかの非日常の中にいる。 バベルの塔や、田舎の農民の生活を描いた絵も好きではある。食べ物、飲み物が美味しそう! でも、本『ブリューゲル』がわたしに与えてくれた一番のものは、奇妙な生き物たちが跋扈するイーゼンハイムの祭壇画(グリューネヴァルト)へ行けるかもしれない、という期待。後押しをしてくれたのだった。 ウィリアム・シェークスピアが気になっていたので、楽しみにしていた映画。 あらすじ・解説に目を通すと、天才的な言葉の魔術師に関心を寄せる人間にとっては、うれしいような部分がたくさんあったことを思い出す。たとえば、エリザベス朝の劇場のありかたとか、海洋的な広がりをもった『十二夜』の背景、ロンドンの様子とか。 でも、主人公カップルの中心的なストーリーはあんまり。 俳優マキューシオ、劇作家(戯曲家)クリストファー・マーロウ(マーロー)のほうがかっこよくて魅力的。骨張った老女で、金銀の豪奢な衣裳・アクセサリーをまとったエリザベス女王もよかった。 いちばん印象に残ったのは、ラスト。白い浜辺をヒロインが、緑の広がりに向かってただひとり歩いていく。それがちょっと長く映される。美しい。 それはともあれ、彼女が“新大陸・新世界”に渡ったのは、あの貴族と結婚したためで、それって幸せなのだろうか。彼女が運命を受け入れ、決意したとしても、彼女が自立した人間であっても、好きでもないし、恋人(しかもシェイクスピア!)より劣る人と結婚するということ。 いまの政財界にもつながるアメリカ東部の名家になっていくのだろうが。 そのヴァイオラが『Emma エマ』(1996)、 『ダイヤルM』(1998) のグウィネス・パルトロウだとは気がつかなかった。相変わらずガイジンがわからない。 ベン・アフレック(ネッド・アレン、劇中劇『ロミオとジュリエット』のマキューシオ)、ルパート・エヴェレット(マーロウ)、ジュディ・デンチ(女王)、コリン・ファース(公爵。ファースだとは気づかなかった)、ジョセフ・ファインズ(シェイクスピア) 脚本マーク・ノーマン、トム・ストッパード、監督ジョン・マッデン 第71回(1998年度)アカデミー作品賞、主演女優賞、助演女優賞(デンチ)、オリジナル脚本賞、美術&装置賞、衣裳デザイン賞 『恋におちたシェイクスピア』 1998年、アメリカ 牛伏山の遊歩道を散歩。 したには白い市街地が広がっていた。遊歩道はもう日陰だけど、日の当たる山、集落はあたたかそうだ。 まだ雪がのこっていた。そこに、わたしとは逆に車道から歩いてきた足跡が続いていた。 あたりの斜面をみると、倒木や折れた枝が目立つように思う。今冬は雪が多かったためか。 黄緑色の若葉を発見。うれしい。ふもとでも前から春の気配を感じていたけど。 つやつやした暗緑色のシャガの葉や、赤いビーズのカーテンになっているヒヨドリジョウゴの実、ますますオレンジ色になったコケ(苔。岩に生えている)。 ふもとの沼にも行く。人家から離れた山に囲まれた沼で、きょうも誰もいない。 もう白い氷には覆われいず、濃い緑色の水をたたえていた。さざなみが白い枯れ草の岸に押し寄せていた。近くで小鳥が鳴いた。
翌日、夜10時ごろ散歩。 東の空には牛飼い座のアークトゥールス。春を感じた。北斗七星のひしゃくの柄のさきの、その明るい星のほかに、さらにそのさきに乙女座スピカ、明るい巨星・木星もあったかもしれない。 月夜だった。歩いた田んぼも、丘の上も青白くて美しかった。光源をたどってみると、上を仰ぐことになった。ちょうど天頂に月があったのだ。美しい月だった。 あまりに快かったので、翌日も散歩した。 いつも、人とは変わった人間でいたかった。人とはちがう部分を嘆くようでいて、それは自慢だった。 アンデルセンの童話の人魚姫は、美しい声を失う。地上を一歩をあゆむたびに痛む足を得る。それでも、“人間”になりたかった。 引き換えに失った美しい声は、わたしが子どものとき思ったようなコミュニケーション・意思の疎通、あるいは美貌と等価な女としての利点ではなく、自分らしさを伝える自己表現の手段なのではないか。 自分らしさを手放してでも、棄ててでも、人になりたかったのだ。 このころ、強く願うことがあった。わたしも、普通の人になりたい。すばらしい絵、美術にも、すばらしい小説、文芸にも、山、自然にも興味をもたない人に。 しかし、わたしは老いても月夜の散歩を愛することをやめられないだろう。本を読むことも。理想に憧れることも。 たとえば、これから料理とかお菓子作りとか、生活を、もっといえば人生を豊かにするような家事を好きになる。多くの人が見るテレビ番組を好きになる。文学的な作品は読まない。“変な、気味悪い”“美的基準の狂った”絵は見ない。 ……そんな人間になれっこないではないか。自分はいつも天の月や、窓の外の青空に憧れてしまうのだから。 永瀬清子さんの詩「諸国の天女」を思い出した。 あとで読んで、泣いてしまった。詩で泣いたのは初めてだ。小説でも泣いたことはないかも。 カエル(アフリカツメガエル)の骨格を手に入れられるかもしれない、と胸を弾ませていた。 牛伏山の遊歩道で黒いモグラの死体に触れたことがある。すばらしく心地よい毛皮だった。また死体が転がっていたら、手を伸ばしてしまうだろう。 わたしの机の上には石や、枯れた植物や、実や、鳥の羽が置かれている。道で拾ったタマムシ(玉虫)を飾っていたこともあった。 こんどはそこに骨を加えようとしている。こういうのって、魔女っぽいかもしれない。 しかし、人に忌み嫌われる死と関わっても、人間に役立つことを発見したり生み出せば、錬金術師、はては化学者、医者、発明家、科学者とされ、尊敬される。デザイナーとして、草花や樹木、石(とくに宝石、貴金属)をもちいて美や快さを提供してもおなじだ。 快楽をひとり大切にしているだけだと、魔女・マジョであり、もとはおなじ対象をあつかっている科学者などから迫害されるのではないか。 ともあれ、「畑に埋葬した犬を掘り返せば、哺乳類のりっぱな骨格標本が手に入る」と気づかされたのだった。 これはいままで考えたこともなかった。 想像していたら、わたしは畑の柿の木のしたの石をどかして、土を掘りかえし始めた。すると、目のところが黒くあいた頭蓋骨と白い骨格ではなく、生きていたときと同じような毛皮があらわれた。いな、生きていたうちで、もっとも美しかったころの毛並み。色鮮やかでつやつやとして。 毛は日光が当たって、ほとんど金色といってもよかった。穴の中にふきこんだ風にそよいだ。 体にふれると、あたたかかった。そのうち脈打って、お腹が上下しはじめた。息をしているのだ。閉じられていた目が開いた。うるんで、生きていたときと同じつぶらな瞳。 まるで昼寝の後のように、起きあがり、あくびをした。後ろ足を伸ばした。それから今度はぐーんと前足を伸ばした。 わたしは犬を甦らしてしまったのだった。あれほど執心していた、物として惹きつけられていた生き物の骨のことは、もうどうでもよかった。 地上に生き返った犬にほれぼれとしていた。幸福だった。 もし現実に蘇生の方法があった場合、(クローン技術はもう使われているが)、それを拒否する理由がわからなくなった。 なぜこの広い広い世界の一隅で、山あいの狭い田舎で、犬一匹、生き返らしてはいけないのか? 翌日、生き返った犬とわたしが緑なす野原で遊ぶ写真が思い浮かんだ。写真だけなら、幸福なじゃれあいだ。しかし、犬は甦らしたものである、という説明を加えると、気持ち悪くなる。その気持ち悪い感覚を大事にしよう。 もうひとつ思いついた方法は、実際に掘り返してみること。そうすれば、土中には風化した骨しかないことが、現実はこうだということが、はっきり突きつけられるだろう。 ヒースクリフが墓を暴いたとき、キャサリンは生きていた時さながらの美しい顔をしていた。エミリー・ブロンテの『嵐が丘』はやはりすばらしい。 この出来事で思ったこと。 わたしは犬が死んだことを悲しんできたが、とうとう犬を生き返らすところにまで至ってしまった。よみがえり、という甘い誘惑から逃れるのは簡単ではなかった。 でも、犬はただ甦って、生前の暮らしが続くのではなかった。犬は生きていたうちの最も美しい壮年の姿で現れた。そして、犬を失って後悔していたわたしは、今度はもっと幸福な生き方を目指すだろう。 悔いや悲しみや憎しみといったマイナスの思いを消失させ、美しくはない過去を塗り消し、新しい「幸福」な人生をお手軽に始めることになるのだ。 これまで犬を愛しているとき、犬の死を悲しんでいるときの自分の感情は、美しく思えた。人に話していても、気持ちを高ぶらせた自分はよい人間に思われた。 昨今の映画や小説の純愛ブームを、いつものごとく批判的にみていた(源氏物語の「御法」で紫上が病死するシーンは、まさに純愛のパターンを踏襲している、とドキッとしたのに)。しかし、この乾いた灰色の時代で、自分だって、いい人として生きたかったのだ。 いわば自分のつくった“ファンタジー”の中では。ふだんの現実では迷ってしまって、正しいかっこいい美しい生き方・感情なんて選択できないのだから。 たしかに愛しているとき、悲しんでいるときの感情・思いは美しいし、愛している人間、悲しんでいる人間は美しい。 でも、わたしは犬の死から、すこし離れようと思う。愛していた犬をもちいて感情におぼれることから、すこし離れようと思う。 |