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9月 この「山月記」をどんなふうに終わりにしようか、と考えることがある。続けるだけではなく、1冊の本のように内容をまとめて、綴じ合わせるのも楽しいことではないだろうか。 とはいえ、やはりそこには諦めや挫折感がある。 ところが、そんな時に「自然」は話題を提供してくれる。こういう時、自然(nature)は一生追いかけていて尽きない魅力の宝庫。大げさだけど、わたしにとってのライフワークだ、と思う。 ある人が『自休自足』(株式会社第一プログレス)という雑誌を貸してくれた。 2005年春号(Vol.9)「特集 THE STRAW BALE HOUSE わらの家を建てよう! 手づくりがイチバン!木、土、わらの店」 夏号(Vol.10)「幸せの扉の向こう側 森に抱かれた家」 表紙は、白い犬が寝そべっている前者。内容は後者がよかった。 これはわたしにとって、けっこう大きな出会いかもしれない。今までも、田舎暮らしを続けたいと思ってきた。山があって、田畑があって、川が流れていて、できれば、海が近くにあるような美しい場所で。 でも、今住んでいる地域にも住宅団地は造成されていて、「××タウン」とか、田舎暮らしっぽい名前がつけられているけれど、とっても狭い庭のついた家がひしめき合っている。自分はどんな場所に住まいを得たらいいのか、わからなくなっていた。 あと、こういう雑誌に載っている写真のような、おしゃれな外観、内装を知らなかった、と思った。 こういう本、とくにその画像、イラストによって、夢みたいなものがふくらんだ気がする。いま自分を取り巻いている環境や物からひとまず離れて、美しいイメージを育める気がする。 アメリカ、ニューメキシコの「荒野」のジョージア・オキーフ(Georgia O'Keeffe)や、バーモント州のターシャ・テューダーの住居、暮らしをいいと思ったのと似ているかもしれない。 職とか地区の仕事とかを離れて、さわやかな風の吹く、たっぷりと豊かな自然の中で遊んで暮らしたい。そういう憧れ。原点を思いだせた気がする。 数十年前、川にはウナギがいたらしい。川辺には木が立ち並んでいて、蛍(ホタル)がたくさんいたらしい。 今、川はコンクリートの整備によって、水路みたいである。 一方、こういう変化もある。数十年前は、イノシシもシカもウサギもタヌキも近所では見なかったらしい(イタチはいたらしい)。 今、野生動物が身近にいるのは、山や隣接する畑や土地がしっかり整備されていないかららしい。 でも、これはどうしようもないことでもある。以前、わたしの家のお風呂は薪だった。外のトイレ(和式。木のドアが付いていた)の棟裏には、薪が積まれていた。その薪は、うちの山の木をシイタケの木にした時に出る物だったらしい。 山のない家は、山林に入って落ちた枝を探していたという。また、子どもが山で遊んで木の枝をとったりすると、怒られたらしい。 そのころの山は「里山」で、きれいだったのだ。秋冬は雑木林は藪(ヤブ)ではなく、歩き回れたらしい。それは、山が燃料の供給源だったからだ。 田畑も野もおなじだ。長い間、自然は資源で、そこから収入を得ていた。だから、手が入っていて「美しく」、「害獣」による被害もなかったのだ。 今、主な収入を得るのは自然からではない。田舎・里の外の町・都市、あるいは田舎でも工場からだ。 それだからこそ、わたしにとって、田舎は住んでいる場所であると同時に、休日に憩い、遊覧する楽しい場所なのだ。 ここは戦国・江戸時代から続く日本の田舎、山里だと思っていた。でも実は、今までにない田舎なのかもしれない。 かつてから見れば、荒廃した田舎なのではないか。荒廃の果て、崖っぷちにいて、これまでの時代にはなかった新しい田舎暮らしをしているのかもしれない。 帰去来兮 田園将蕪 帰りなんいざ、田園将に蕪れんとす こんなことを勇ましく言って、田舎に戻っても、回帰しても、そのとき「田園」は「蕪(あ)れようとしている」どころではなく、もう存在しないかもしれない・・・ そんなことを思っていたら、こんな新聞記事を知った。「山下惣一の佐賀・唐津の田んぼから」。この連載(朝日新聞)には農業従事者の視点から、田舎と農業の大きな変化が明解に述べられていると思う。 また、今回、これを書くために検索したら、陶淵明(陶潜)の詩句を農村や農業の現状と結びつけているものが結構あった。そう考えると「田園将蕪」の「蕪」には、寒々しくて怖ろしい荒廃が透けて見える。 (なお、「蕪れなんとす」という訓読のしかたもある。出典は「帰去来の辞」冒頭) NHKの番組『新日曜美術館』で松田正平という画家が特集されていた。そこに紹介された「犬馬難鬼魅易」(犬馬難魑魅易)という画家の言葉が印象に残った。犬馬ハ難ク、鬼魅ハ易シ。 魑魅魍魎(ちみもうりょう)、異形の怪物を描くのは簡単だ。対して、身近に実際にいる犬や馬を描くのは難しい。この言葉が言っていることは本当だ。 源氏物語に同じようなことが書かれているのを思いだした。それは「帚木」の巻、有名な“雨夜の品定め”にある。 「また絵所に上手多かれど、墨書きに選ばれて、次々にさらに劣りまさるけぢめ、ふとしも見え分かれず。かかれど、人の見及ばぬ蓬莱の山、荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔などの、おどろおどろしく作りたる物は、心にまかせて一際、目驚かして、実には似ざらめど、さてありぬべし。 世の常の山のたたずまひ、水の流れ、目に近き人の家居ありさま、げにと見え、なつかしくやはらいだる方などを静かに描きまぜて、すくよかならぬ山の景色、木深く世離れて畳みなし、け近き籬の内をば、その心しらひおきてなどをなむ、上手はいと勢ひことに、悪ろ者は及ばぬ所多かめる。」渋谷栄一氏の「源氏物語の世界」より(一部、表記を改めた) その前の「木の道の匠」のたとえ、(木の道の匠のよろづの物を心にまかせて作り出だすも、臨時のもてあそび物の、その物と跡も定まらぬは、そばつきさればみたるも、げにかうもしつべかりけりと、時につけつつさまを変へて、今めかしきに目移りてをかしきもあり。大事として、まことにうるはしき人の調度の飾りとする、定まれるやうある物を難なくし出づることなむ、なほまことの物の上手は、さまことに見え分かれはべる)、また、直後に置かれた筆跡のたとえ、(手を書きたるにも、深きことはなくて、ここかしこの、点長に走り書き、そこはかとなく気色ばめるは、うち見るにかどかどしく気色だちたれど、なほまことの筋をこまやかに書き得たるは、うはべの筆消えて見ゆれど、今ひとたびとり並べて見れば、なほ実になむよりける)。 これらも同じ事を言っているが、わたしは紫式部の絵画論が好きだ。それは、山水と「なつかし」という語があるからだと思う。 なつかしき山水。日本の、やわらかで丸みを帯びた、おだやかな山野、谷川。緑色の野山、青色の河川湖沼。 これらはわたしにとって、本当に「なつかしい山水」というべきもので、心にぴったりくるくだりなのだ。 なお、描くのが簡単な「荒海の怒れる魚の姿、唐国のはげしき獣の形、目に見えぬ鬼の顔」とは威し、脅迫。「人の見及ばぬ蓬莱の山」とは理想や正しい物事かもしれない。理想郷や夢の田舎暮らしを描くのはとっても簡単だ。正しいことを他人に要求するのも。ある人が「人間の目は前についているから」と言った。 10月 |