02 渚のシンドバッド
「もー、どこにいんのよー」
なびきは浜辺を見渡した。ビーチは昨日と同じく、パラソルやあざやかな水着姿で満たされている。ただもうすぐ日が暮れるのでパラソルをたたみかける人の姿もある。
「乱馬くんも自分でやったくせに照れて逃げちゃうんだから、世話の焼ける…」
日差しを避けるように手の甲をかざすと、数十メートル先に人だかりが見えた。猫飯店の海の家の辺りだ。なびきは近づいて人をかきわけ、浮き輪の脇から中をのぞいた。
女のらんまがいた。それに横には二匹の巨鮫が、魚河岸のマグロのようにのびている。
らんまは海藻を引きずり、肩で息をしながら言った。
「どうでえばばあ。こんなもんだ!」
らんまは海藻を積み、おさげにからんだ海藻もひきはがすと、目の前に小山のように積んだ海藻へびしゃっとたたきつけた。
コロンはかかっと笑うと海藻の一片をつまみあげた。
「これだけあれば足りるじゃろ」
そのとき、ギャラリーの向こうでなびきの声がした。
「ねー、乱馬くんいたわよー!」
らんまは息を呑んだ。見つかった!
「ばあさん、寒天ができたら旅館まで届けてくれ。たのむ!」
そういいおわらないうちにパンダがかけてきてギャラリーをかきわけ、らんまを肩の上にかつぎあげた。一気に視界が高くなり、らんまは「わっこら」と言った。ビーチの人々は「パンダ」「パンダだ」と低くつぶやきながらこちらを指差している。
早雲も駆けてきた。
「らんまくーん! 昨日はどこ行ってたんだい! あかねが心配してたんだよ!」
パンダが旅館へ向かって走り出した。視界が揺れる。旅館へ着くと、パンダはらんまを男湯へかつぎこんで、湯船へ投げた。
湯柱は人の身の丈ほどもあがり、それが静まると湯の水面が盛り上がって男の乱馬が立ち上がった。口から耳から、ガバーッと湯を出しながら。
「なにしやがるっ、くそおやじ!」
パンダも湯につかった。
「それはこっちのセリフじゃ、この、馬鹿息子っ」
玄馬は一発、乱馬の頭を殴った。
「いきなりいなくなりおって、あかねくんがどれだけ悲しんだかわかっとるのか」
「それは…」
玄馬は肩まで湯につかり、落ち着いた様子だ。玄馬の眼鏡は曇ってどんな目をしているのかわからない。演出家である。
「あかねくん、ひどく切ながってな。見ているほうが辛かったぞ」
乱馬の良心がズキリと傷んだ。昨夜は舞い上がってしまって、あかねの気持ちまで考える余裕がなかった。
「けど…おれにも考えがあったんだ」
「どんな考えか知らんが、乱馬。男の責任だけはとるんじゃぞ」
「そのことだけどよ」
乱馬は湯気のにおいをかぎながら言った。「あかねを元にもどす方法が見つかったんだ」
「ばかもの! そんな悠長なこと言っとる場合か! どうしても元にもどしたいなら明日の式を終えてからにせいっ」
「式、挙げてからじゃ遅いんだよ! て、え? 明日? って言ったか」
「善は急げ、というからな。いいか、おまえとあかねくんの性格だといつになったらめおとになれるかわからん。これは天がお前に与えた機会だと考えるんだ。よいな」
「そんなこと…」
考えたこともなかった。そうか、これは近道だったのか。あかねに好かれて逃げることばかり考えていたが、このまま薬のせいで「仕方なく」結婚すればすべて丸くおさまる。だが、何かひっかかる。
玄馬が、考え込んでいる乱馬のおさげを引っ張った。
「おい、いいかげんにせんとのぼせるぞい」
風呂からあがり、引きずられるように部屋へ行くと、なびき、かすみと食事中の早雲がいた。なびきは窓際ですずみながらスイカを食べている。
「乱馬くんとおじさま、遅いわよ。先に夕食すませちゃった」
「あれ…あかねは?」
あかねの熱い出迎えを覚悟していた乱馬は拍子抜けした。
「気になる? あかねは隣の部屋」
なびきが答えた。
かすみが乱馬と玄馬に座るようすすめた。
「まだごはん、温かいから食べてくださいな」
早雲が乱馬をちょいちょいと手招きし、となりの席を勧めた。そういえば朝から鮫と格闘しどおしで朝食も昼食もぬきだった。
今、刺身とあさりの味噌汁、白い御飯は湯気を立てている。味噌のいいにおいに、乱馬は鼻を動かした。そうだ、考えがまとまらないのも腹が減っているせいだ。
乱馬は茶碗を持ち、箸をとって「いただきまーす」と言った。
「乱馬くん」早雲がそれを制し、一升瓶を差し出した。「とりあえず一杯やりたまえ」
「おれ、メシの方がいいんすけど…」
「いいからいいから」
乱馬は玄馬に無理矢理コップを持たされた。見る間に酒がなみなみとつがれる。なんだかもう、断るのが面倒くさい。これを飲めばメシが食えるんだ。
乱馬は一気にあおった。すきっ腹に酒が染みわたり、食道から胃までが順に燃え上がるのを感じた。ぷはっと息をついてコップを置くと、また、早雲が酒をついだ。少しこぼれて乱馬の手にかかった。
「あの、おじさん」
「のんでのんで。疲れてるときにはこれが一番」
一杯目の酒で空腹はなくなっていた。ま、いいか。乱馬は、とまらない滑り台に乗り込んだようなはちゃめちゃな気分が自分を包んでいくのを感じた。そして二杯目の酒に口をつけた。
ぐるぐるする。乱馬は思った。身体もいうことをきかない。わからない。どうしたんだろう。ひどく気分がいい。
あかね。さめ。いっしょうだま。切れ切れの単語が乱馬の朦朧とした意識を揺さぶった。
「てやんでえ」
乱馬は声を出した「あかねがなんだってんだ! おれはちっとも、なんとも思ってねーぞ!」
視界の隅でなびきが何か言った。「あーあ、酒に飲まれちゃって」といったのだが、言葉の意味は乱馬までとどかない。誰かに両脇を抱え上げられるのがわかった。5、6歩ひきずられるように歩かされて、今度は薄暗い部屋に放り込まれた。
「しっかりやれよ」という声が遠く聞こえた。
数歩前にのめって、乱馬はつうぶせに倒れた。布団の上に倒れこんだようだ。昼間泳ぎ続けたせいで、身体が思っていたよりずっと疲れていた。泥みたいだ。このまま休んでしまおう…。
「乱馬」
すぐ近くで声がした。あかねがうつぶせの乱馬の肩を抱くようにしている。
「あ、あかね!」
乱馬は酔った体を無理におこして、布団の上に正座した。よくよく見ると薄暗い部屋には二枚の布団がくっつけてひいてある。乱馬は自分がはめられたことに気付いて、酔いが覚めかけた。
目を覚まさないといけない。夢の中みたいに映像が切れ切れに見える。あかねがいる。乱馬はまだもつれぎみの舌をふるった。
「あの…」
「よかった」
あかねが身を乗り出して乱馬を抱きしめた。ちょうど、左の肩の上にあかねの頭がくるような具合だ。
「急にいなくなるんだもの。一晩中待ってたのよ」
あかねの声が耳元で聞こえる。
「そそそその! ごごごごめんっ」
今言ってしまわないともう機会がない。あかねのペースにもちこまれると、何も言えなくなってしまうだろう。乱馬はあかねの身体を離そうと、肩に手をかけた。
「あ、あのよ、考えたんだけど、お前が薬でおれを好きになったままってのは、やっぱりマズイと思るるんだ」
舌がもつれてしまった。
「どうして…?」
「どうしてって、そりゃ、お前の…き、気持ちが、曲げ、られてるわけだし」
「いいのよ。あたしの気持ちは決まってる。こうしてないと胸がいたいの」
あかねがさらに密着した。
「こうしている間だけ幸せなのよ」
あかねの体温が最初は冷たく、後でじんわりと温かく布越しに伝わってきた。
乱馬は、ずっと考えないようにしてきたことが近くにせまっているのを知った。そんなことを考えるのはあかねに悪いとも、照れくさいとも思っていた。だがいま、あかねは素肌に旅館の浴衣だけである。このままいけば、今夜、乱馬はあかねと同じ布団で寝ることになる!
胸の芯がカッと熱くなった。自分の鼓動が聞こえた。乱馬は今日一日、鮫と格闘してまであかねを元にもどそうとしたことを忘れた。背中に手をまわして強くだきしめ返すと、腕の中であかねが甘いため息をついた。
――― かわいい!
抱きしめていると、濃く甘い幸福感が乱馬をつらぬいた。心がしびれてどうにもならない。こんなに濃密な幸せは、今まで知らなかった。
どれくらいそうしていただろう。あかねの首筋から、ほんのりと、石鹸の香りに混じって若い女の匂いがした。時々あかねが身をよじり、衣擦れの音がする。あかねが少し身を引き、顔の見える距離までくると乱馬を見詰めた。目をとじ、顔をあげた。
乱馬もぎこちなくあかねの細い腰と肩を引き寄せた。一瞬、自分は酒くさくないだろうか、と思ったが、構わない。
そっと目を閉じ、近づいた…。
ばしゃっ
「ぶわっ、冷て」
らんまは息が止まるほど驚いて振り返った。シャンプーがバケツを持ったままらんまをにらみつけていた。
「人がせっかく解毒剤を持って来たのに、らんまはひどい男あるな」
女になったらんまはパッとあかねから離れた。
「ち、ちがうんだ」
部屋の入り口のあたりでは、早雲達が、あーあ、もう少しだったのにとかぶりをふっている。
あかねがきょとんとして乱れかけた浴衣のすそをなおした。
「あれ、あたし、何してたの?」
らんまは「あかね」と近づいた。
「おれを見てもなんともねえのか」
「何もって…何」
「ばか。寸胴、まぬけ」
「なっ、んですってぇ!」
あかねは手を振り上げた。らんまは鋭い右フックをかわしながら、
「いつものあかねにもどってら」
「一生玉を飲んで、あかねは最初に見た”異性”に惚れたある。最初に見た”異性”が”同性”に変わったら、惚れる相手がいないね」
シャンプーが助言した。らんまはほっとした気持ちであかねをかわした。
「いやーそうか。どーりでいつもどおりかわいくねー」
「あんたはっ そういうことしかいえんのかっ」
らんまは二人の雰囲気が一気に子供みたいになったのを面白く感じて(もちろん惜しくもあったが)、「へっへーん」とあかんべえした。
とたん、後ろから熱い湯をかけられた。
早雲が、「さあ、さっきの続きを」と男の乱馬の背を押した。
あかねがうっとりと乱馬を抱擁しようとした、瞬間、シャンプーが乱馬に水をかけたので、あかねの動きがとまった。
「もう、お父さん! 余計なことしないでよ!」
「そうある! さ、あかね、この寒天を全部食べるよろし。明日の朝には一生玉の効果は消えてなくなるね」
シャンプーは大きな鍋を廊下からひっぱってきた。中では冷えて固まったゼリー状の寒天がプルプルと震えている。4、5リットルはあるだろう。
「ちょっと待って…あたし、一生玉をのんでから、男の人を見ちゃったの?」
らんまが言った。
「おまえ、おぼえてないのか? その方がいいかもな。ずいぶんみっともなかったから」
「あたし誰を見たの!?」
あかねがらんまの胸倉をつかんだ。らんまがいつまでもとぼけているので、なびきが言った。
「らんまくんを見たのよ」
あかねは頬を赤く染めて、らんまから手を離した。
「何か変なことしてないでしょーね」
「すっ、するわけねーだろ。おめーみたいなのに誰が手ぇ出すかよ」
なびきがつぶやいた。
「でもらんまくん、責任とるって、今夜は同じ部屋で寝るはずだったのよねー? 明日は海辺のチャペルで結婚式だし」
あかねが般若のような形相でらんまをにらみつけた。
「らーん〜ま〜!!」
「そっ それはおじさんたちが勝手に!」
「けんかは後にするある」
シャンプーがあかねとらんまの間に鍋を進めた。「あかね、元にもどりたくばコレを全部食べるよろし」
「わかったわ」
あかねはシャンプーのわたしたスプーンを手にとり、鍋の前に座った。皆の見守る中、ひと口すくって口へ運んだ。
らんまはといえば、シャンプーがあと一息おそく着いたなら、この唇とキスしてたのに…ともやもやした気持ちを抱いている。
「…まっずー」
あかねが口を押さえた。
「我慢するある。それを食べきらないと元にもどれないあるぞ」
「だってこれ味がないし、変なニオイがして気持ちわるい」
「わがままな女あるなっ」
らんまは「どれ」とひと口食べてみた。確かにまずい。じんわり舌の上に広がる、ゴムくさいというか、うっすら苦い風味。ぷるぷるした食感とあいまって食べ物とは思えない。それがどんぶり5、6杯分あるのだ。
「あたし、こんなにたくさん食べれないわよ」
「無理にでも食べるある!」
「…お前の料理よりはいくらか食べ物らしいけどな」
「…なぁあーんですって!!」
あかねがらんまを威嚇すると、らんまは隅へ避難した。
早雲がらんまの肩をつかまえた。
「らんまくん、不本意だが、あかねにあれを食べさせる方法がひとつだけある」
「へ?」
「愛の力だ!」
早雲は先ほどのやかんを出すと、中身をらんまに注いだ。らんまの背丈が一回り大きくなって、男の身体になっている。早雲は乱馬をあかねのほうへ突き飛ばした。
たちまち一生玉の効力があらわれ、あかねは両手を広げて「乱馬」と受け止めようとした。皆の手前もあるので乱馬は踏みとどまった。
「そうかおじさん、わかった!」
乱馬は早雲の方をみてうなずいた。早雲はせっかくの挙式のチャンスを自分の手で阻止してしまったのがくやしいのか、涙を流している。
乱馬はあかねの手からスプーンをとると、鍋からひとすくいとり、スプーンの上で震えるそれをあかねの口の前へ持っていった。
「ほれ、あーん」
「あーん」
あかねは食べた。それもとてもおいしそうに。笑顔で。
「…うまいのか?」
「乱馬が食べさせてくれるものなら、何でもおいしいわ」
この健気さが、普段のあかねに、1パーセントでもあったなら…。乱馬は早雲と同じく目頭を押さえた。
シャンプーが腕を組んで不愉快そうにふたりを見ている。
「ほれ、まだまだあるぞ。あーん」
「あーん」
結局、「あーん」は朝まで続いた。正直、乱馬は酒と疲労と徹夜でまいってしまった。
それからというもの、乱馬はカフェでデート中のカップルが「あーん」なんて食べさせっこしているのを見ても、馬鹿にしなくなった。他人がそうしているのを見ると、薬の力を借りたにせよ、自分とあかねにもそういう時があったことを思い出す。
了
(もちろんシンドバッドは乱馬です…)
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