13 追ってくる過去
学校へ行くと、あかねが下駄箱と教室、職員室の場所を教えてくれた。クラスに入ると数人の生徒が「おはよう」と言ってきた。僕のことを知っているんだろう。忘れている、と説明するのが面倒だなと思っていると、あかねが先に言い出した。
「みんな。乱馬が今頭を打って記憶喪失なの。いろいろ教えてあげてね」
数人の男子が、獲物に群がるみたいによってきた。
「まじで」
「漫画みたいだな」
「お前に金貸してたんだ」
「乱馬は実は女だ」
どさくさにまぎれてよくわからないことまでふきこまれた。男子が寄り集まってごそごそしていたと思うと、リレーでバケツが運ばれてきた。中の水をかけられた。
何するんだ、といおうとしたら、いきなり僕の背が縮んだ。
変だ。服がゆるい。胸に手をやると、濡れた上着の下で乳がふくらんでいる…。
「わぁあーっ! 何だこれ!?」
僕の叫び声は高かった。思わず股間を押さえた。あるべき所にあるべきものがない! 僕は女性になっていた。
「男は仮の姿で、お前は本当は女なんだ」
茶髪の男子が僕の頭をポンポンと押さえた。
あかねがやかんをさげてわりこんで来た。
「ちょっと! 病気の人をからかうのやめなさいよ」
あかねが僕に湯をかけると、僕は元の男にもどった。
「乱馬は水をかぶると女になる体質なの。でも元はちゃんとした男だったのよ」
ショックを受けている僕に向かって、あかねがなぐさめるように言った。
そんなことがありえるのか!?
オカマ体質に驚いている間もなく、授業がはじまった。僕はあかねに引きずられて、あかねの隣席につく。とにかく英語の教科書とノートを探した。ノートの表紙には、

と書いてあった。「乱馬」って、こういう字なのか。「欄間」かと思っていた。ノートをぱらぱらとめくる。字が汚い。あんまりやる気がないみたいだ。板書は虫食いにしかないし、三人称単数がところどころおかしい。…馬鹿だったのか?
僕は人間関係に関する記憶はまったくなかったが、義務教育程度の知識は残っていた。
ノートの後ろには落書きがあった。人体の急所と、ヒジ打ちとか足払いの方法が簡単にメモしてあった。そうだ。僕は格闘家だったんだ。
どうして格闘家なんだろう。身体を動かすのが好きなら、陸上競技でも水泳でもバスケットボールでもいいはずだ。僕にはその方が楽しそうに思えた。格闘家って具体的には何をするんだろう。あとであかねに訊いてみよう。
昼休みになると、あかねは見せたいものがあると言った。
「見て。写真かりてきたの。スナップとか、これ、体育祭のとき」
僕は教室でかすみさんの弁当をほおばりながら写真を見た。
写真の中で、早乙女乱馬はピースをしていた。クラスの男子とじゃれあって首を締めあっている。焼きそばを食べている写真では、口のはたに青海苔をつけたままニッと笑っている。
思ったより普通の男子だ。格闘家というから、もっと仏頂面をしているのかと思った。
いきなり、上半身裸の女の写真が出てきて、僕はギクリとした。
「あの」
とあかねに見せると、
「それ、女のときの乱馬よ」
女になった僕はこんななのか。けっこう胸が豊かだ。あかねの手前じっくり見ることはできず、すぐ返したが、あとで女になってみようと思った。
「文化祭のときのビデオも借りてきたの。家に帰ったら見て。何か思い出すかもしれないし」
僕は同じような写真を見るのに飽きてしまったが、あかねはさらに数冊のアルバムをすすめた。もういいよ、と言うと、あかねは眉をつりあげた。
「駄目よ! 何も思い出せないままでいいの!?」
アルバムをめくり、写真を一枚つきつけてきた。
「ほら、格闘スケートのときの写真! 何も思い出さない?」
僕はそれを手にとってながめた。
あかねと僕は―――男の顔は後ろを向いていてよく見えないが、フィギュアスケートの派手な格好で、リンクを滑っている。あかねは足を高く差し上げて、男はその太ももと胴を支えている。なかなか様になっていた。特に、ピンクのひらひらしたスカートなんか、あかねを引き立てて花みたいに見せている。
「この衣装、似合ってるね」
あかねはガクッと机からひじを落とした。
黒板が半球状に盛り上がった。ひびが入り、砂煙と共に砕けた。
「乱馬ぁ! 愛妻弁当食べるよろし」
中華風の服を着た少女が壁の穴から出てきた。僕とあかねは驚いて席から立った。
「乱馬のために心込めて作った。美味しいあるぞ」
中国娘はまっすぐ僕のところへやってきて、おかもちをつきつけた。
「いや、あの…。もうお昼食べたし」
この娘、外国人か。あかねに説明を求めようとしたが、あかねはつんと向こうを向いている。仕方ない。僕は自分でその娘に、記憶喪失のことを説明した。
「あいやあ。大変あるな。乱馬ほどの達人がなぜ頭打ったのか?」
中国娘は胸の前で手を組み、くりくりと上目遣いに見てくる。華やかな娘だ。辺りが明るく、というか騒がしくなった。みんなの前で、あかねが庭石で殴ったからだ、とは言いかねた。あかねはそのことを気にしている。
「僕が滑って転んだんだ」
「ドジなところもあるのだな。でもそこも好・き♪」
独特の甘ったるい発音だ。
「私、シャンプーある。乱馬の未来の妻ね」
「つま!?」
そんな話は聞いてない。
そのとき、関西弁が割り込んだ。
「聞き捨てならへんなぁ! 誰が乱ちゃんの妻やて!?」
巨大なヘラを背負った男子が、シャンプーを威嚇した。
「もちろん私ある」
「乱ちゃんが記憶喪失なんをええことにたぶらかそやなんて、なんちゅう女や」
「だれがたぶらかしてるか」
「うちは乱ちゃんの許婚や!」
許婚! 男に見えるが、学ランの学生の声をよく聞くと、女に聞こえないこともない。
話を聞こうと思い、止めに入った。
「ちょっと君たち…」
「乱ちゃんは黙っててんか!」
「私と右京の問題ある!」
つきとばされた。
シャンプーという中国娘と、関西弁の学生(女?)は、勝負をつけると言って表へ出て行った。
「あかね。あの娘たちは? 僕の何?」
あかねは僕を斜めににらんだ。
「だから、未来の妻と許婚でしょう」
早足で行ってしまった。
あかねの友達の女子が教えてくれた。早乙女乱馬には許婚がふたりいて、他にあいまいな態度をとってる女の子がふたりいる。結婚詐欺もしたことがある。4人の女の子と付き合っていたことに驚いたが、あかねと許婚だという話にも衝撃を受けた。
結婚する? 僕とあかねが? ただのガールフレンドじゃなかったのか! 父親同士の仲がよくて、世話になってるだけだと思っていた。
午後の授業中、気になってあかねを盗み見た。
突然知らされたあかねとの関係を、僕のポジションを、見極めたかった。
あかねはシャーペンを頬にあてたり、ときどき色ペンに持ちかえて丁寧にノートをとったりしている。
彼氏彼女なら大体わかる。だけど、許婚ってどこまで”進んで”いるものなんだろう。キス? より先?
…いや、そんなことより、早乙女乱馬はどういうつもりで4股なんかできたんだろう。早乙女乱馬を取り巻いていたという、4人の女の子を見れば僕も全員を好きになるのか。
いや、違う。過去の僕がどうだろうと、僕はそんなだらしないことにはならない。僕には根拠のない潔癖の自信があった。記憶がなく白紙の状態だから、よごれない自信が生まれるのかもしれない。
「早乙女。早乙女乱馬。おい、早乙女!」
僕は教師の声にハッとして立ち上がる。早乙女って、僕の名前だった。
あかねが小声で、「30ページの問5」と言った。僕は慌てて教科書を開いた。
午後の授業が終わると、あかねは、下駄箱のところで待っていてくれた。
「東風先生のところ、行きましょう」
「うん」
あかねは大きな紙袋をさげていた。大きめのアルバムが2冊と、ビデオテープが入っていた。昼休みに見きれなかった分だろう。
「持つよ」
というと、あかねは珍しいものでも見るような目で僕を見た。
紙袋は結構重い。2キロくらいある。その病院は通学路の脇へ入ったところにあるらしい。ふたりで歩いた。
「乱馬、昼休みに、自分で転んで頭打ったって言ったわよね」
「ああ、うん」
「やさしいね」
やさしい? とっさに言ったことだから、そんなつもりはなかった。くすぐったくて、「はぁ、まぁ、うん」とごまかした。
「あたしが殴ったのに…」
「あんまり気にすることないよ」
僕は殴られた覚えはないし、打ち所が悪かっただけで、はっきり言って事故だ。運が悪かったんだ。あかねが気にしていることのほうが気の毒だ。
「本当に。全然。僕、元気だし、病院行ったらよくなるかも知れない」
ね? と僕は明るく言ったが、あかねは無理に小さな微笑みを返しただけだった。小乃接骨院という看板が見えた。
「ここよ」
とあかねは玄関の引き戸を開けた。「骨つぎ屋さんだけど東風先生は専門以外にも詳しいの」
民家を改装して病院に使っているらしい。待合室はすいていて、すぐ診察室へ通された。あかねもついて入って来た。こげ茶の作務衣を着た先生が僕を診察する間、あかねは事情を説明した。
「うん、こりゃあ重度の健忘症だ」
東風先生は言った。
診察が終わり、僕は上着に袖を通した。
「脳に障害はないみたいだから、いつも通りにしていれば何かの拍子に思い出すよ」
あかねが焦った声で、
「あの。いつ治るんですか?」
「急ぐのが一番よくない。根気がいるんだ。たいてい数時間から数日で治るけど、一番長い症例では、14ヶ月だったかな」
「そんなに!」
「あたりどころが悪かったんだね。丈夫な乱馬くんが…」
僕は先生とあかねのやりとりを他人事みたいに聞いていた。
病院を出た。あかねは角を曲がって通学路に戻るまで一言も話さなかった。
きっと、僕の記憶が簡単に戻らないことを知って、落ち込んでいるんだろう。
僕はといえば、そんなことはどっちでもいいと思い始めていた。学校は友達が大勢いて楽しかったし、わからないことがあればあかねが面倒をみてくれる。昨夜のような不安はもうなかった。記憶喪失になって1日足らずだが、このまま毎日過ごせるならそれもいいと思い始めていた。
だが、あかねに「記憶喪失のままでいい」とは言えない。何と言ったら元気を出してくれるだろう。
川沿いの道へ出た。僕は、あかねの気がまぎれて明るくなればいいと思った。朝と同じように、フェンスにのぼった。
「ほっ」
と手を上下させてうまくバランスをとる。視界の青空が広くなった。
あかねは僕を見上げた。僕がへへっと笑うとあかねは少しまぶしそうだった。
「そうしてると、いつもどおりに見えるわね」
僕が以前の早乙女乱馬に見える? …とっさに僕は言った。
「おれ、このとおりぴんぴんしてるし、あかねも気にしないで」
あかねは目をみはった。
「だんだん調子が戻ってきたし、おれ、もうすぐ治るんじゃないかな」
「乱馬…。本当に? 具合いいの?」
「うん」
一人称を「おれ」にしただけで、あかねはぐんと晴れやかな表情になった。僕も嬉しかった。こんな簡単なことでいいのか。家に帰ったら、借りてきたビデオを観よう。
つづく
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