19 ジュリエットの窓辺
早雲にどやされて、らんまはいくらか元気をなくしてしまった。
今まで何とかなるだろうと思っていたのは、甘かった。女の格好をしていたら少しは大目に見てくれるかと思ったのに、本当に追い出されてしまった。あかねまでの距離がものすごく遠くなった気がした。
らんまがうつむき加減に空き地のテントに戻ると、そこでは、宴会が開かれていた。玄馬と八宝斎が空き地の中央にレジャーシートを広げて、一升瓶でその四隅を押さえている。
「やあ! お師匠さま、いい飲みっぷり」
「げははははぁ!」
玄馬はらんまが女装しているのを見ると、
「乱馬、ちょうどいい。お師匠さまの酌をせい」
と腕を引いた。
「やなこった!」
らんまは玄馬を振り払った。
玄馬はちょっと顔をしかめたが、場の雰囲気を悪くしたくなかったのか、らんまを無視して八宝斎に酒をすすめた。
らんまはスカートなのも気にせず、レジャーシートにどかっとあぐらをかいた。
異常なまでに明るい玄馬と八宝斎の酒宴を見るのは、今のやけっぱちな気分によく合った。一升瓶がてんでに転がっている。八宝斎は一升瓶を逆さに立て、瓶底の上で器用にバランスをとり、なおかつ飲んでいる。
「あはははは…。乱馬、お前の酒はないぞ。お師匠さまのじゃからな」
「いらねーよ」
「やんや、やんや。で、そろそろお師匠さま、宝さがしのお供をお決めになりましたか」
「うーんどうするかのぉ〜? 早雲は美味いものを食わせてくれたぞぉ〜」
真っ赤な顔の八宝斎が、長いげっぷを吐いた。
「肩をお揉みしましょうか?」
玄馬はいざり寄った。「おい、乱馬、おまえは足をお揉みせい」
「あほらしっ」
らんまは立って、空き地から出て行った。玄馬が箸で一升瓶を叩く、チャンチキチキという音が背中に聞こえた。
いい考えが浮かんだ。
早雲の怒りを鎮め、玄馬と仲直りさせ、八宝斎をおとなしくさせる方法。うまくいくかどうかはわからないが、成功しなければ天道家から追い出されたままだ。あかねとの許婚もなかったことになってしまうだろう。
きっと成功させてみせる。
こんな形で天道家を出て行くなんて、ありえないことだと思った。不満だった。むらむらとやる気が出てきた。いつもの力強い歩き方に戻って、らんまは、頭のバレッタを外した。おさげが肩に落ちてはねた。
「金よ。金をお出し」
なびきが手を差し出した。「5分で500円、10分で900円、15分で1300円よ。ビタ一文まからないわ」
乱馬はとっさに、真ん中の、「10分900円」を選んだ。
「毎度ー」
なびきは乱馬から千円を受け取り、おつりの百円を渡した。
乱馬となびきは、なびきの部屋の窓の下で交渉していたのだが、なびきは場所を移し、屋根づたいにあかねの部屋の窓まで連れて行った。もう夜半で足元が暗いが、乱馬は屋根から落ちるなんてことはない。むしろなびきの足元に気を配っていた。
頭の中で話すことを整理した。なにせ、10分で900円、つまり1分で90円、10秒で…いくらだ。15円だ。時間は貴重である。なびきがファッションヘルスと同じ料金制度を導入しているとは、つゆも知らない乱馬だった。
「はい、じゃあ感動のごたいめーん。時間厳守よ」
なびきはそう言って乱馬の背を押した。乱馬はちょっとあらたまって、あかねの部屋の窓をノックした。
コン コン
それに答えて、窓は開いた。あかねだ。目を大きく見開いて乱馬を見た。あかねの後ろから差す、部屋の電灯が乱馬の額を白く照らした。
乱馬は、「よう」と口ごもった。
夕食のあと、なびきお姉ちゃんに、乱馬が来たらこっそり会わせてくれるよう頼んでおいた。なびきは早雲から臨時のこづかいをもらっているらしく、しぶったが、いくらか握らせると納得してくれた。
あかねは昼間、部屋で早雲の怒鳴り声を聞いた。ふだん大きな声を出さない父親の怒声に、あかねはおびえに似た驚きを覚えた。
「あかね、乱馬くんに会っちゃいけない。早乙女くんのさしがねかもしれないから」
早雲は何度もそう言って、すがるようにあかねを説教した。
学校で乱馬をみたとき、ホッとした。玄馬が乱馬を連れて、昨夜のうちに修行の旅に出ていたらどうしようかと心配だった。乱馬はこのままでいいのだろうか。天道家を出て行ったままで?
学校でその話題に触れるには人が多すぎたし、なにより、見るたび右京が乱馬のそばにいた。乱馬はヘラヘラと右京の調子に合わせている。ときどき助けを求めるみたいにこちらに視線を投げてきたが、あかねは無視してやった。
もう許婚じゃないんだから、右京の前でやきもちなんて妬いてやらない。そんなことできない。
障害が多く、乱馬が遠かった。
とりあえず一度顔を見て、これからどうするつもりか聞きたい。お姉ちゃんの計らいでこっそり会うことしか出来ないなんて、変な感じだ。
「もうすぐ乱馬くん来るってさ」
なびきがあかねの部屋に顔だけつっこんで、そう教えてくれた。なびきは行ってしまった。
あかねは丸襟のブラウスとスカートの色合いを確かめた。いつもならこの時間はすでにパジャマだが、乱馬が来るというので着替えたのだ。
しばらくして、窓から、控えめなノック音があった。あかねは窓を開けた。
「よう」
乱馬が立っていた。
「乱馬。とにかくあがって」
窓の外になびきを残して、あかねはカーテンを引いた。
乱馬は部屋の中央にあぐらをかき、少し背を丸めた。
あかねも乱馬の向かいに座った。なんだかこうして向かい合うのも久しぶりな気がした。「会えて嬉しい」と言ってみようか。
「おい、手短に言うぜ。時間ねえし」
少年は早口でぼそぼそと言った。あかねは軽い失望を味わった。
「時間ないって何よ。右京といちゃつく暇はあっても、あたしのとこに来る時間はもったいないのね」
「んだよ! かわいくねーなっ」
「声、大きい」
注意されて、乱馬は声をひそめ、「かわいくねーな」と小さく言い直した。
「結構よ。あんたにはかわいい許婚がいるじゃない」
乱馬は顔を背けて、いらいらを吐き出すかのようにため息をついた。不機嫌そうな横顔。
少し嫌味を言い過ぎただろうか。怒らせてしまった。
時計が秒針を刻む音だけ聞こえた。
あかねは乱馬が何か言うのを待った。
「おじさん、まだ怒ってる?」
「うん、かなり」
それきり乱馬は黙った。あかねは自分の膝頭を見つめていた。
沈黙にたえきれなくなって、あかねは、
「右京の…」と言い出してしまった。「これからは右京の店で世話になるって本当?」
「なっ。誰がんなこと言ったんだよ! そんなわけねえだろ」
「女子の噂で」
「ウッちゃんには飯食わせてもらっただけだ」
「そう…」
あかねは絨毯の起毛を指でいじった。
「おめえ、案外疑り深いな」
「だって」
会話が上滑りしていくのがわかる。乱馬は言いたいことを言わないまま、ぐずぐずしているし、短い時間で色々なことを話そうとするからひとつひとつが浅くなるのだ。元許婚同士のぎこちない距離感もあった。
あたしだってこんな時までやきもちを妬いたりしたくない。でも不安になって、確かめようとすると、いつのまにか言い合いになってしまう。人目を忍んでやっと会えたのに喧嘩なんて。
乱馬は何か考え込んでいたが、膝に手をついて立ち上がった。
「じゃな。もう帰る」
「え? 何か話あるんじゃなかったの」
「うん…そうだけどでも…。やっぱやめた」
くだらないやきもちを妬いたから、嫌われてしまったのだろうか。困ったような逃げ腰な乱馬の態度に、不安が大きくなった。
「気持ち悪いじゃない。全部言ってよ」
あかねもつられて立った。
乱馬は迷っていたが、うつむきがちに言った。
「おれ、旅に出ようと思う」
「…」
乱馬の声にはきっぱりとした調子があった。
そんな。そんな。行ってしまうの? ―――捨てないで、という昼メロのような台詞が脳裏をよぎった。
「飛騨の温泉めぐりに行くんだ。そんなに遅くはならないと思うけど、いつ帰れるかわからねえ」
「…へえ」
「それでよー…、その。一緒に来ねえか?」
「へ?」
聞き間違いかと思った。
「勘違いすんなよっ。じじいの宝とやらを探しに行くだけだ。宝を始末できたら喧嘩の原因もなくなるし、何なら早雲のおじさんにやってもいい」
「うん…うん!」
あかねは何度もうなずいた。
「しばらく学校行けねえぜ」
「うん」
「じゃあ、あさってに駅で待ち合わせ。着替えと、温泉行くから多少金も。食料はあっちで買う」
「わかった!」
乱馬はいまさらのように、
「おれひとりで行ってもいいけど…。おじさんが怒るだろ?」
と気弱さを見せた。
「ううん、あたしのお父さんと乱馬のおじさまの問題だもの」
あかねは嬉しくて、自分の胸の前でこぶしを握り、それを固く胸の真ん中へ押し当てながら乱馬を見上げた。最近で一番素敵に見えた。乱馬のだらしないのや口の悪いところは全部忘れてしまって、ただもう胸がじぃんとした。
なびきが窓をノックした。時間切れらしい。
「じゃな」
乱馬は窓をまたぎ、なびきの横をすりぬけて、夜の住宅街へ消えて行った。
なびきの手前見送ることはできなかったが、窓を閉め夜が深くなっても、あかねの気持ちは乱馬を追いかけていた。
(夏休み終わったよ馬鹿野郎。明日はどっちだ。)
つづく
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